遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
怪物は、いつも人を襲うために置かれているとは限らない。
ときには、人が自分の責任を預けるために、そこに必要とされることがある。
怪物の委任をめぐる――裏思考遊戯。
―――――
山間の村には、古い言い伝えがあった。
村の外れにある洞窟には、怪物が封印されている。
子どもは近づいてはいけない。
大人も、むやみに語ってはいけない。
夜に洞窟の方を見てはいけない。
恐れろ。
忘れるな。
でも、確かめるな。
それだけが、何代にもわたって守られてきた。
A男は、その言い伝えが子どもの頃から苦手だった。
怪物が怖かったからではない。
怖がり方だけが、あまりにも整っていたからだ。
村人たちは、畑の水路を直すときは揉める。
祭りの役割を決めるときも揉める。
困っている家を誰が助けるかとなると、急に口数が減る。
けれど、洞窟の怪物についてだけは、皆が同じ顔になる。
「近づくな」
「疑うな」
「昔からそう決まっている」
恐れだけが、きれいに引き継がれていた。
A男は思っていた。
恐れだけが整備されている場所では、だいたい別のものが荒れている。
疑問。
責任。
弱い者への扱い。
誰も見ようとしなかった過去。
ある日、A男は村の子どもが叱られている場面を見た。
子どもは、井戸の水をこぼしただけだった。
だが、大人はこう言った。
「そんなことをしていると、洞窟の怪物に連れていかれるぞ」
子どもは泣いた。
大人は満足そうにうなずいた。
A男は、その顔を見てしまった。
怪物は洞窟にいるのではなく、今この大人の口の中にいるのではないか。
そう思った。
その夜、A男は一人で洞窟へ向かった。
村外れの道は、月明かりだけで薄く照らされていた。
木々の影が揺れ、風が葉を鳴らす。
洞窟の入口は、黒く開いている。
入口には古い札がかかっていた。
「封印の地」
「近づく者に災いあり」
「村を守るため、恐れを忘れるな」
A男は松明を掲げ、洞窟へ入った。
奥へ進むほど、空気が冷たくなっていく。
足元の石が湿り、壁には古い爪痕のような傷が残っている。
だが、A男が感じたのは、怪物への恐怖だけではなかった。
もっと別の息苦しさがあった。
ここには、怪物よりも先に、恐れを管理する仕組みがある。
身体が先に、そう言っているようだった。
洞窟の最深部に、怪物はいた。
狼のような頭。
岩のような胴。
大きな爪。
裂けたような口。
だが、A男が想像していたような暴力の気配はなかった。
怪物は、鎖につながれていた。
首に巻かれた鎖。
腕を壁に縫い付ける鎖。
足元を床に固定する鎖。
その鎖は古く、錆びていた。
だが、何重にも巻かれている。
怪物の身体には傷があった。
爪は欠け、毛は抜け、呼吸は浅い。
それでも、目だけはまだ生きていた。
A男が近づくと、怪物は顔を上げた。
そして、人間の言葉で言った。
「また、恐れを置きに来たのか」
A男は息を呑んだ。
「恐れを?」
怪物は、ゆっくりと目を細めた。
「村人たちは、ここへ恐れを置きに来る。
怒りも、失敗も、罪も、責任も。
そして、帰るときには軽くなった顔をする」
A男は、松明を握りしめた。
その瞬間、洞窟の奥に満ちていた息苦しさの正体が、少しだけ分かった気がした。
それは怪物の息ではなかった。
長い年月のあいだ、村人たちがここへ置いてきた言い訳や責任転嫁が、見えない霧のように澱んでいたのだ。
自分たちは悪くない。
昔からそうだった。
村を守るためだった。
怪物がいるから仕方ない。
そうした言葉が、洞窟の空気に染みついているようだった。
A男は、松明を持つ手がわずかに震えるのを感じた。
「お前は、何なんだ」
怪物は答えた。
「私は、昔、この村の守り手だった」
洞窟の奥で、鎖が小さく鳴った。
「山から来る獣を追い払い、雪崩を知らせ、迷った子どもを村へ戻した。
最初、村人は私を守り手と呼んだ」
A男は黙って聞いていた。
「だが、守られることに慣れた村は、次に怖がる理由を欲しがった。
子どもを黙らせる理由。
規則を疑わせない理由。
不作を誰かのせいにする理由。
村の中の不満を外へ向ける理由」
怪物は、自分の鎖を見た。
「だから私は、ここに置かれた。
守り手ではなく、怪物として」
A男は喉が乾いた。
怪物の言葉は、言い訳には聞こえなかった。
むしろ、言い訳をしていたのは村の方だったのではないかと思えた。
A男は鎖に近づいた。
鎖には、古い鍵がついていた。
驚くほど簡単な作りだった。
A男は鍵に手をかける。
「外していいのか」
怪物は言った。
「君が外しても、村人が外れるとは限らない」
A男は、その意味を完全には理解できなかった。
ただ、鎖を外した。
一つ。
二つ。
三つ。
鎖が床に落ちるたび、洞窟の奥に低い音が響いた。
怪物は、すぐには立ち上がれなかった。
長く縛られていた身体は、自由の重さに慣れていなかった。
A男は言った。
「守り手なら、ここに置いてはいけない」
怪物は、ゆっくり立ち上がった。
「君は、私を救ったつもりか」
A男は答えられなかった。
救ったのかもしれない。
あるいは、村が隠していたものを外へ出しただけかもしれない。
怪物は洞窟を出た。
翌朝、A男は村へ戻り、集会所で真実を話した。
「洞窟の怪物は、村を守っていた存在だった。
封印されていたのは、危険だからではない。
村が恐れの道具として使うためだった」
集会所はざわめいた。
村人たちの顔に浮かんだのは、単純な驚きではなかった。
怒り。
不安。
計算。
そして、困惑。
B男長老がゆっくり立ち上がった。
「守り手だったと言うなら、なおさら洞窟に置いておくべきだ」
A男は聞き返した。
「なぜですか」
B男は言った。
「外に出れば、村の秩序が崩れる」
若い父親のC男が続けた。
「子どもが言うことを聞かなくなる。
“洞窟の怪物に連れていかれるぞ”が効かなくなる」
世話役のD女も言った。
「何か問題が起きたとき、誰のせいにするのですか。
余所者が来たとき、どうやって村を一つにするのですか」
A男は、その言葉を聞いて理解した。
村は、怪物を恐れていたのではない。
怪物を失うことを恐れていた。
怪物は、便利だった。
子どもを黙らせるために。
不満を逸らすために。
長老の言葉に重みを持たせるために。
失敗を自分たちの責任ではないことにするために。
怪物の本当の役目は、人を襲うことではなく、人が自分の責任を預ける場所になることだった。
そのとき、集会所の外で悲鳴が上がった。
怪物が、広場に現れたのだ。
村人たちは逃げた。
石を探す者もいた。
子どもを抱えて家へ入る者もいた。
誰かの背中に隠れる者もいた。
だが、怪物は暴れなかった。
ただ、広場の中央に立ち、村人たちを見つめていた。
その目は、身体を見ているのではなかった。
もっと奥の、言葉にしてこなかった部分を見ているようだった。
お前たちは、私を何として使っていたのか。
そう問われているようだった。
怪物は、A男にだけ聞こえるような声で言った。
「君は鎖を外した。
だが、彼らは鎖の必要性を外さない」
A男は叫びたくなった。
変われ。
理解しろ。
もう怪物を使うな。
だが、その言葉は出てこなかった。
村人たちが守ろうとしているのは、真実ではなかった。
救いでもなかった。
便利さだった。
怪物は村人たちへ向き直った。
そして、ゆっくり言った。
「私は、この村を去る。
私はもう、あなたたちの責任の代用品にはならない」
その瞬間、村に流れたのは、悲鳴ではなかった。
安堵だった。
誰かが、小さく言った。
「助かった」
その声が合図になった。
空気が、ふっと軽くなる。
泣いていた子どもが泣き止む。
大人たちは肩を叩き合う。
さっきまで石を探していた手が、何事もなかったように下ろされる。
怪物が去る。
めでたしめでたし。
そういう形に、村の空気が整っていく。
A男は、その軽さに寒気を覚えた。
怪物は山の奥へ消えていった。
消えたあと、村には奇妙な静けさが残った。
しかし、その静けさは長く続かなかった。
B男長老が言った。
「洞窟の入口を整えよう」
村人たちが顔を上げる。
B男は続けた。
「怪物が去ったことは伏せる必要はない。
ただし、看板は残す。いや、増やすべきだ。
“かつて怪物がいた場所”として、危険を伝える」
C男がうなずいた。
「子どもにも教えないといけない。
怪物はいなくなったが、怪物を解いた者がいた、と」
D女も言った。
「そうね。二度と同じことが起きないように、村の決まりを強くしないと」
A男は、ゆっくり彼らを見た。
怪物はいなくなった。
けれど、怪物の席は空かなかった。
今度は、怪物を解いた者が、その席に座らされようとしていた。
A男の名前が、集会所の中で小さく回り始めた。
「A男が勝手に鎖を外した」
「村を危険にさらした」
「怪物がいなくなったからよかったものの」
「次は何を解き放つか分からない」
A男は、そこで初めて怪物の言葉を理解した。
君が外しても、村人が外れるとは限らない。
翌日。
洞窟の入口には、新しい看板が立てられた。
「怪物解放の地」
「無責任な好奇心を戒める場所」
「村の安全を守るため、勝手な行動を禁ず」
村人たちはその看板を見て、安心したようにうなずいた。
洞窟は、また村の教育に使われるようになった。
ただし、語られる怪物は少し変わった。
洞窟にいる怪物ではない。
怪物を解いてしまう者。
伝統を疑う者。
村の秩序を乱す者。
A男は、怪物を外へ出したつもりだった。
だが、村はすぐに新しい怪物を作った。
それも、かつてより扱いやすい怪物を。
村人たちの顔には、はっきりした悪意すらなかった。
むしろ、散らばっていた話が一つの形に収まったときのような、奇妙な安心があった。
失われたはずの怪物の席に、A男という名前がぴたりとはまった。
ただ、それだけのことのように、村の空気は落ち着いていった。
遠い洞窟の中ではなく、村の中にいる怪物。
名前を呼べる怪物。
指を差せる怪物。
皆で語れる怪物。
A男は、夕暮れの広場に一人立っていた。
山の奥から、低い風の音が聞こえる。
怪物はもう戻らないだろう。
それは村を見捨てたのだろうか。
それとも、村が自分たちの責任を取り戻す余地を残したのだろうか。
A男には分からなかった。
ただ一つ、分かったことがある。
村は、怪物を必要としている。
怪物そのものではない。
怪物に任せられる何かを必要としている。
責任。
怒り。
不安。
秩序。
失敗。
自分たちで引き受けたくない現実。
そのすべてを預けるために、村は怪物の席を空けておけない。
A男は、自分の胸に手を当てた。
そして、ふと思った。
自分の中にも、その席はないだろうか。
自分が恐れているもの。
嫌っているもの。
責めているもの。
あれさえなければ、と考えているもの。
それは本当に敵なのか。
それとも、自分が引き受けたくない責任を置くために、必要にしているだけなのか。
その問いだけが、洞窟の冷たい空気のように、いつまでもA男の中に残っていた。
―――――
この話の裏側にあるのは、怪物そのものではない。
怪物は、暴れない。
村を襲わない。
人を食べない。
むしろ、長い間、鎖につながれている。
それでも村人たちは怪物を必要としていた。
なぜなら、怪物がいると便利だからだ。
子どもを黙らせられる。
規則を疑わせずに済む。
不満の矛先を外へ向けられる。
何かが起きたとき、「怪物のせい」にできる。
誰かを締めつけても、「村を守るため」と言える。
このとき怪物は、恐怖の対象というより、責任の置き場所になる。
村が本当に守りたかったのは、安全そのものではなかったのかもしれない。
安全に見える状態。
秩序に見える沈黙。
考えなくて済む理由。
自分たちが悪くないと思える構造。
そのために、怪物は必要だった。
つまり怪物は、自分たちのことを棚に上げるための装置でもある。
自分たちの怠慢。
自分たちの支配欲。
自分たちの責任。
自分たちが見たくない現実。
そうしたものを、どこか遠くの棚へ上げておく。
そして、その代わりに怪物を見せる。
怪物を見ている間、人は自分たちを見なくて済む。
怪物を恐れている間、自分たちの中にある恐れや歪みに触れなくて済む。
怪物を責めている間、自分たちが何をしてきたのかを問われずに済む。
だから、怪物が去った瞬間に村人たちは安堵した。
ここが一番、残忍だと思う。
本当に変わるなら、怪物が去ったあとに、自分たちの責任を取り戻さなければならない。
なぜ子どもを脅していたのか。
なぜ不満を怪物に預けていたのか。
なぜ村の秩序を恐怖で支えていたのか。
そこへ向き合う必要がある。
しかし村は、そこへ行かなかった。
怪物がいなくなったあと、村はすぐに次の怪物を作った。
今度は、怪物を解いたA男を危険な存在にした。
洞窟の看板を増やし、物語を作り替え、再び恐れを管理し始めた。
怪物の席は、空席のままにはされない。
余所者。
弱者。
異端。
過去。
真実。
声を上げた人。
空気を読まなかった人。
座らせやすいものは、いくらでもある。
怪物を追い払っても、怪物に預けていた責任を取り戻さなければ、その席にはすぐ次の何かが座らされる。
このねじれは、村だけの話ではない。
社会でも、家庭でも、組織でも、人はときどき怪物を必要とする。
問題を複雑なまま見るよりも、分かりやすい敵を置いた方が楽だからだ。
自分たちの中にある責任を見つめるよりも、外に原因を置いた方が呼吸しやすいからだ。
共通の敵を置けば、人はまとまりやすい。
同じものを怖がり、同じものを責め、同じ方向を向くことで、連帯しているように感じられる。
けれど、それは本当に協力なのだろうか。
家を建てるために、必ず敵が必要なわけではない。
畑を耕すために、誰かを怪物にしなければならないわけでもない。
困っている人を助けるために、外側に恐怖の対象を作る必要はない。
本来、協力には敵がいらない。
それでも敵を必要とするなら、そこには協力とは別のものが混じっているのかもしれない。
支配。
誘導。
視線のすり替え。
責任の回避。
恐怖を使って人をまとめるとき、恐れているのは支配される側だけではない。
むしろ、本当に恐れているのは、支配する側なのかもしれない。
人々が怪物ではなく、自分たちの方を見始めること。
人々が手を取り合い、恐怖ではなく理解でつながること。
人々が「本当に問題なのは何か」と問い直すこと。
それが起きたとき、怪物を置いてきた側の足元が揺らぐ。
だから怪物を作る。
だから恐怖を置く。
だから共通の敵を用意する。
怪物は、支配する側の恐怖を、支配される側へ押しつけるための器でもある。
現代のネット上で繰り返される「叩いていい敵探し」にも、これに近い構造があるのかもしれない。
毎日のように新しい敵が現れ、誰かの失言や失敗が大きく掲げられる。
そこへ、日頃の不満や不安や怒りが投げ込まれていく。
もちろん、本当に問題のある言動はある。
批判されるべきこともある。
見過ごしてはいけない加害もある。
けれど、いつの間にか「何が起きたのか」よりも、「誰を怪物にすれば皆が安心できるのか」が先に決まっていることがある。
そのとき怪物は、正義の対象ではなく、感情を預けるための場所になる。
心理や感情の仕組みは、本来、人を理解するために使えるものだ。
だが、それが人を動かすためだけに使われたとき、そこから人間性は少しずつ抜け落ちていく。
利用する側の都合だけが残り、利用される側の目線が失われる。
恐怖を与える側は、自分の恐怖を見ない。
恐怖を受け取る側は、いつの間にかその恐怖を自分のものだと思い込む。
しかし、本当に受け取る必要があるのだろうか。
誰かが作った怪物。
誰かが置いた恐怖。
誰かが預けようとしている責任。
それを、こちらがわざわざ引き受けなければならないとは限らない。
怪物の席は、洞窟の中だけではない。
画面の向こうにも、会議室にも、家庭の中にも、心の中にも用意される。
ただし、すべてを「自分たちの責任」として抱え込めばよい、という話ではない。
本当に危険なものはある。
本当に距離を取るべき相手もいる。
本当に止めなければならないものもある。
ただし、そこに怪物を置いた瞬間、自分たちが何を委任しているのかは見た方がいい。
恐怖を預けていないか。
怒りを預けていないか。
判断を預けていないか。
教育を預けていないか。
責任を預けていないか。
この物語が最後に置いている問いは、そこにある。
あなたの中にも、「怪物の席」はないだろうか。
それは本当に敵なのだろうか。
それとも、自分が引き受けたくない現実を預けるために、必要にしている何かなのだろうか。
怪物を恐れているつもりで、実は怪物に助けられていることがある。
怪物を責めているつもりで、実は自分の責任をそこへ移し替えていることがある。
怪物は、外にいるから怖いのではない。
誰かを怪物に仕立ててでも、自分の責任から逃れようとする心の中にいる。
そして、その怪物に気づいたとき、人はようやく、自分の恐怖を他人へ委任しなくてもよい場所へ立てるのかもしれない。