遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
人との関わりは、時にあっという間に流れていく。
問い合わせ、返信、契約、確認、会計、受け渡し、連絡。
一つひとつは小さなやり取りでも、その向こうには必ず一人の人がいる。
けれど、数をこなし、結果を急ぎ、次へ次へと進むうちに、その一人が、いつの間にか「一件」や「処理対象」のように見えてしまうことがある。
その中で、波風を立てずに、飲み込んだ出来事があった。
納得できたからではない。
嫌ではなかったからでもない。
ただ、そこで言葉を重ねても、話がこじれるだけだと思った。
相手にも事情はあるのだろう。
こちらにも、前に進めなければならない現実がある。
だから、いったん終わったことにした。
けれど、終わったはずのものが、自分の中に少しだけ残っていた。
―――――
波風を立てないことは、悪いことなのだろうか。
私は、そうは思わない。
波風を立てないのは、臆病さだけではない。
相手を追い詰めたくない気持ちでもあり、その場を壊したくない思いやりでもあり、これ以上こじらせないための優しさでもある。
私自身、そういう選び方をすることがある。
言いたいことを全部言えば、確かに少しは楽になるかもしれない。
けれど、それで相手を必要以上に追い詰めたり、場を壊したり、前に進む道まで閉ざしてしまうこともある。
だから、飲み込む。
だから、笑って終わらせる。
だから、「もういいです」と言って、自分の中で区切りをつける。
それは、弱さだけではないと思う。
けれど、ここで一つ引っかかった。
波風を立てない優しさは、誰かが甘えるための空白ではない。
誰かが何も言わなかったからといって、何も感じなかったとは限らない。
笑って済ませたからといって、納得したとは限らない。
その場を丸く収めたからといって、その出来事が本当に消えたとは限らない。
ただ、飲み込んだだけかもしれない。
―――――
波風を立てたくないからといって、その場しのぎの言葉を置いていいわけではない。
相手が喜びそうな言葉を先に出す。
できるか分からないことを、できるように聞こえさせる。
その場だけ安心させて、あとで曖昧にする。
それは、波風を立てない優しさではなく、波風を先送りしているだけなのかもしれない。
その裏には、結果を先に取りたい気持ちがあるのだと思う。
契約を進めたい。
話をまとめたい。
相手に良い印象を持ってもらいたい。
今この場を、できるだけ気持ちよく通過したい。
その気持ちは、誰にでもある。
けれど、結果を急ぐあまり、相手がその言葉を信じて動くことまで見えなくなると、言葉は誠意ではなく、処理の道具になってしまう。
―――――
例えば、連絡すると言われて、その連絡が来なかったとき、人はどう感じるだろう。
未定なのに、それがさも確定されたもののように伝えられたとき。
できるか分からないことを、できるように言われたとき。
そして、その言葉を信じて準備を進めてしまったとき。
そこには、ただの予定変更以上のものが残る。
予定が変わること自体は、誰にでもある。
問題は、変わったことそのものではなく、変わったなら、相手が次を考えられるように伝えることなのだと思う。
当たり前だと思っていた小さな確認さえ、当たり前に扱われなかったとき、人は思っている以上に足元を揺らされる。
予定を組む。
お金を使う。
家族と相談する。
仕事の準備を進める。
生活の見通しを立てる。
その言葉の向こうで、誰かが現実を動かしていることがある。
対応する側にとってはただの一件でも、待っている側にとっては大事な一件かもしれない。
そこを見落とした時、人は相手を数字にしてしまうのだと思う。
―――――
時間に追われる中で、余裕をなくしてしまうことは誰にでもある。
私にも、そういう時期はあった。
忙しさの中で、誰かの言葉や事情を軽く受け取ってしまったことで、今でも悔やまれることがある。
だから、相手にも事情があることは分かる。
余裕がないこともある。
確認できないこともある。
思った通りに進められないこともある。
だからこそ、相手も同じ人間なのだと思う。
言いにくいこともある。
伝えにくいこともある。
自分の不手際を認めるのが苦しいこともある。
悪意ではなく、余裕のなさから言葉が遅れてしまうこともある。
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もしかすると、言いにくいからこそ、誠実さは伝わるのかもしれない。
できないと言うこと。
遅れると伝えること。
まだ分からないと正直に言うこと。
それらは、簡単なようで簡単ではない。
なぜなら、その一言には、自分の都合より先に、相手がどう助かるか、相手が次にどう判断できるかを考える勇気が必要になるからだ。
その勇気がある言葉は、たとえ望んでいた返事でなくても、相手に伝わることがある。
逆に、その場だけ相手を安心させる言葉は、最初は優しく見える。
けれど、あとから辻褄が合わなくなったとき、その優しさは不信に変わってしまう。
言葉は、ただの音ではない。
その言葉を信じて、誰かが動くことがある。
だからこそ、言葉を軽く扱うことは、人を軽く扱うことにつながってしまうのかもしれない。
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誰かが文句を言わないと、その場は静かに終わる。
けれど、静かに終わったからといって、何も残らなかったわけではない。
飲み込んだ側には、言葉にできなかったものが残る。
誤魔化した側にも、どこかで辻褄を合わせ続ける負荷が残る。
小さな不信は、すぐには表に出ない。
だから、問題がなかったように見える。
けれど、その小さな不信が積もると、人は少しずつ長く関わることを避けるようになる。
相手と丁寧に向き合うより、その場だけ気分よく通過する方を選ぶようになる。
関係を育てるより、次の処理へ進む方が楽になる。
そうして、人間関係そのものが短期化していく。
一人ひとりではなく、一件。
事情ではなく、案件。
言葉ではなく、処理。
流れが速くなるほど、関わりは薄くなる。
関わりが薄くなるほど、人は背景を持った一人ではなく、数字や件数のように見えやすくなる。
その場では片づいたように見える。
けれど、見えないところに小さな不信や疲れが残っていく。
それは、少しずつ蓄積していく、人間関係の小さな環境問題のようなものかもしれない。
すぐには見えない。
すぐには壊れない。
けれど、気づいた時には、空気そのものが少し濁っている。
そんなことが、人と人との間にも起きているのではないかと思えた。
―――――
かといって、すべての小さなズレに責任を問い続ける必要はないと思う。
人に完璧を求めなくてもいい。
自分が常に正しかったと言う必要もない。
相手を責めるためだけに、言葉を残さなくてもいい。
けれど、飲み込んだものをそのまま置いておくと、自分の中で別の形に変わってしまうことがある。
嫌だったことを、ただ嫌だったで終わらせることはできる。
怒りとして出すこともできる。
相手を悪く言って、自分を正しい場所に置くこともできる。
その方が、気持ちとしては簡単に片づけられるのかもしれない。
けれど、簡単に片づけるほど、自分の中に残ったものの形が見えなくなる。
だから、自分の中に残ったものを、少し時間をかけて見直したかった。
何がそんなに嫌だったのか。
何がそんなに悲しかったのか。
本当に欲しかったのは、何だったのか。
考えていくうちに、少しずつ見えてきた。
ただ、お互いに事情がある者同士として、せめて対等な立場でやり取りできたらよかったのだと思う。
もちろん、事情は伝えなければ伝わらない。
何も言わずに分かってほしいと思うなら、それは甘えになる。
だからこそ、伝えることも、確認することも必要なのだと思う。
ただし、何もかも伝えればいいわけではない。
伝えなくていい事情もあるし、言葉にしない方がよいこともある。
それでも、相手の判断や準備に関わることなら、たとえ伝えにくくても、必要な範囲で伝えることが大切なのだと思う。
そこではじめて、話し合いができるようになる。
全ては、そこから始まる。
―――――
人を数字にしたくないと思うことは、特別な優しさではないのかもしれない。
大きなことをする必要はない。
すべての人を深く理解する必要もない。
相手の人生まで背負う必要もない。
人には限界がある。
だからこそ、相手にとって重要なところだけは流さない。
そこだけは軽く扱わない。
できないなら、できないと言う。
分からないなら、分からないと言う。
遅れるなら、遅れると伝える。
約束したなら、こちらから連絡する。
それだけでも、人はずいぶん安心できるのではないかと思う。
そしてそれは、相手のためだけではない。
自分自身が、自分の中の誠意を見失わないためでもある。
小さな約束を軽く扱い続けると、自分の中の基準が曖昧になる。
曖昧な基準で生きていると、指摘された時に、それを改善の機会として受け止めにくくなる。
相手が細かい。
相手が面倒だ。
相手が分かってくれない。
そう処理したくなる。
けれど、その瞬間、自分自身と向き合う機会も失ってしまうのかもしれない。
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昔、レジに立っていた時、目の前の人をただの列の一人にしないようにしたいと思ったことがあった。
大げさなことではない。
商品を通し、お金を受け取り、袋を渡す。
ほんの短い時間だった。
それでも、そこには一人の人がいた。
今でも、買い物をする時、レジの方に対して同じような気持ちになることがある。
その人も、長い時間立ち続けているのかもしれない。
慣れない仕事に緊張しながら、必死に覚えている途中なのかもしれない。
直前に嫌なことがあっても、次のお客には笑顔で向き合おうとしているのかもしれない。
家に帰れば、その人にも生活があり、大切な誰かがいるのかもしれない。
お金を払っている側だからといって、相手をただの対応係のように見ていいわけではない。
ほんの一瞬の関わりでも、そこには人がいる。
その背景を感じようとする感覚だけは、できれば忘れたくない。
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今回の出来事は、飲み込むだけでは終わらせたくなかった。
むしろ、自分がこれから人と関わる時に、同じことをしないための確認にしたいと思った。
忙しさを理由に、一人を一件にしないこと。
結果を急ぐあまり、その場だけ気分の良い言葉を置かないこと。
言葉を置いたなら、その言葉の向こうで誰かが動くかもしれないと忘れないこと。
それが、今回の失敗から見えたものだった。
―――――
流れの速さそのものを、私ひとりで変えることはできない。
言葉も、関係も、予定も、次々に流れていく。
昨日のやり取りも、今日の用件も、明日には次の処理に押し流されていく。
その中で人は、いつの間にか一人の人ではなく、一件、件数、処理対象のように見えてしまうことがある。
流れが速くなればなるほど、強い言葉でなければ振り向いてもらえないように感じる。
けれど、強い言葉ばかりが増えれば、感覚はますます麻痺していく。
だからこそ、強い言葉で流れを止めるのではなく、静かな関わりの中で、一人を一人として見ることが大切なのかもしれない。
それは、大きな正義ではない。
誰かを変える力でもない。
世の中を一気に良くする方法でもない。
ただ、自分の中の誠意を、まだ手放さないための小さな選択なのだと思う。
目の前の一人を、一件として流さないこと。
そこからしか、始まらないものがある。
―――――
流れていく人を、数字にしたくない。
それは、相手を特別扱いすることではない。
必要以上に気を遣うことでもない。
完璧な人間になることでもない。
ただ、目の前の一人を、結果のための通過点にしないこと。
相手にとって重要な小さな約束を、軽く扱わないこと。
その場だけ気分を良くする言葉で、流してしまわないこと。
たとえ相手が通り過ぎていく人であっても。
たとえ、もう二度と会わない人であっても。
たとえ、ほんの短い関わりであっても。
そこには、一人の人がいる。
今日私は、私の前にいる一人を、ただの一件として流さずにいられるだろうか。
すべての人を深く抱えることはできなくても、目の前の一人を、一人として見ることはできるかもしれない。
を深く抱えることはできなくても、目の前の一人を、一件として流さないことはできるかもしれない。
この歌は、記事「流れていく人を、数字にしたくない」から生まれたものです。
波風を立てずに飲み込んできた小さな痛みが、誰かを一人として見る静かな希望へ変わっていく。
そんな思いを、やさしい歌として形にしました。
また今日も
笑って済ませた
胸の奥
少しだけ痛い
人混みの中
言葉が流れて
私だけ
置いていかれた
小さなこと
そう見えることも
誰かには
大事なことがある
何もないと
笑ったあとで
帰り道
涙がにじんだ
波風を
立てないように
飲み込んだ
言葉がある
でもそれは
消えたんじゃなくて
心の奥で
揺れていた
流さないで
ただの数字じゃ
ないから
そこに人がいる
急ぐ日々に
消えそうな声を
もう一度
拾ってみたい
流さないで
流さないで
目の前の
一人を感じていたい
レジの向こう
疲れた笑顔
私も少し
急いでいた
その人にも
帰る場所があり
誰かのため
立っているのかも
気づいた時
少しだけ変わる
見る景色
やさしく変わる
ちょっとだけでいい
ささやかでいい
目の前の声に
心を向けたい
そこに私がいたから
そこにあなたがいるから
流れていく毎日に
まだ心を残したい
流さないで
ただの数字じゃ
ないから
そこに人がいる
飲み込んだ日も
泣けなかった日も
いつかきっと
実りに変わる
流さないで
流れないで
目の前の
一人を見たい
今日の私は
流れなかった
あなたは確かに
そこにいたから