遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
A男は、会社のお金を自分のお金のように使っていた。
親から引き継いだ会社だった。
昔から家にあった会社だった。
子どもの頃から、その社名を見て育ってきた。
だからA男には、どこかでこういう感覚があった。
これは、うちの会社だ。
つまり、俺のものだ。
そう思っていたA男の世界では、ある日から、すべての境界線が消え始めた。
―――――
A男は、二代目社長だった。
会社を作ったのは、A男の父だった。
父は派手な人ではなかった。
古い机を長く使い、車も簡単には買い替えず、従業員の給料日だけは一度も遅らせなかった。
A男が子どもの頃、父はよく言っていた。
「会社の金は、会社の金だ」
その言葉を聞くたび、A男は幼いながらに思っていた。
堅いな。
もっと上手くやればいいのに。
父が亡くなり、A男が会社を継いだ。
周囲は言った。
「お父さんが大切にしてきた会社だからね」
「従業員も長い人が多いから、頼むよ」
「先代の信用を守っていってください」
A男は、そのたびに神妙な顔で頷いた。
けれど、心のどこかでは少し違うことを考えていた。
ようやく、自分の番が来た。
会社は最初からそこにあった。
取引先もあった。
従業員もいた。
銀行との関係も、地域での信用も、すでにあった。
A男は、それを「引き継いだ」と思っていた。
だが、いつの間にか「手に入れた」と感じるようになっていた。
高い食事。
私用の買い物。
家族旅行。
趣味の道具。
必要とは言い切れない高級品。
A男は、それらを会社のお金から支払うことに、あまり抵抗がなかった。
「親父が残した会社なんだから」
「俺が継いでやってるんだから」
「どうせ税金で持っていかれるくらいなら、使った方がいい」
その言葉は、A男にとって便利だった。
親から引き継いだものと、自分のもの。
会社のお金と、自分のお金。
会社の信用と、自分の実力。
その境界線が、少しずつ曖昧になる。
すると、罪悪感も曖昧になった。
経理担当のB子が、ある日、控えめに言った。
「社長、これは会社の支出としては説明しにくいと思います」
A男は笑った。
「細かいな。昔からある会社なんだから、少しくらい融通きくだろ」
「昔からある会社だからこそ、きちんと線を引いた方がいいと思います」
B子は、先代の時代から経理を見ていた。
A男の父が、どれだけ丁寧に会社のお金を扱っていたかも知っていた。
「先代は、会社のお金と個人のお金をかなり厳しく分けていました」
A男は少し顔をしかめた。
「親父は親父。今は俺の代だ」
「でも、会社のお金は社長個人のお金ではありません」
「俺が継いだ会社だぞ」
B子は黙った。
A男は続けた。
「親父だって、俺に残すために会社を守ってきたんだろ。だったら、俺がどう使うかも含めて俺の判断だ」
B子は、少しだけ眉を下げた。
「その線引きがなくなると、後で困ります」
A男は鼻で笑った。
「上手にやればいいんだよ」
それからも、A男は変わらなかった。
従業員には「今は会社が厳しい」と言いながら、自分の支出は減らさなかった。
取引先への支払いは少しでも遅らせようとした。
しかし、自分が欲しいものはすぐに買った。
A男の中では、それは矛盾していなかった。
親が残した会社。
自分が継いだ会社。
自分が社長の会社。
だから、会社の金も、自分の自由になる。
そう考えることで、A男は自分の都合を守っていた。
ある夜、A男は高級な店で食事をしていた。
知人が言った。
「二代目って、やっぱりいいですね。最初から会社があるんですから」
A男は少しむっとした。
「継ぐのも大変なんだよ」
「でも、景気よさそうですね」
A男は笑った。
「まあな。真面目に全部払ってたら、やってられないよ」
「大丈夫なんですか?」
「大丈夫、大丈夫。上手にやればいいだけだ」
A男はワインを飲み干した。
そのとき、グラスの底に自分の顔が歪んで映った。
その顔が、一瞬だけ父に似て見えた。
A男は目をそらした。
―――――
次の朝。
A男は、実家の応接間で目を覚ました。
そこは、父が生前よく取引先を迎えていた部屋だった。
古い木の机。
壁にかかった会社創業時の写真。
父が大切にしていた置き時計。
だが、様子がおかしかった。
見知らぬ人たちが、応接間に出入りしていた。
一人は父の置き時計を持ち上げている。
一人は棚の古い帳簿をめくっている。
一人は、A男の家の奥へ勝手に入っていく。
A男は飛び起きた。
「おい! 何をしてるんだ!」
男の一人が振り返った。
「使っているだけですよ」
「それはうちのものだ!」
男は不思議そうな顔をした。
「うちのもの?」
「そうだ。親父が残したものだ」
男は笑った。
「なら、あなたが自由に使っていた会社のお金と同じですね」
A男は言葉に詰まった。
別の女が、父の置き時計を抱えた。
「これ、持っていきますね。私の部屋に合いそうなので」
「ふざけるな! それは父の形見だ!」
女は軽く首をかしげた。
「でも、親から引き継いだものは、自分の都合で使っていいんですよね?」
A男の背筋が冷たくなった。
慌てて財布を探す。
ない。
スマホを開くと、通知が大量に届いていた。
知らない店での支払い。
知らないサービスの請求。
誰かの食事代。
誰かの交通費。
誰かの買い物。
すべて、A男の口座から引き落とされていた。
A男は叫んだ。
「これは俺の金だ!」
すると、部屋にいた全員が、同時にA男を見た。
そして、口を揃えて言った。
「細かいですね」
A男は震えた。
「細かいとかじゃない。俺の金を勝手に使うな」
男の一人が言った。
「あなたも、先代の残したものを勝手に使っていたでしょう」
別の女が続けた。
「会社の信用も」
さらに別の男が笑った。
「従業員の我慢も」
A男は怒鳴った。
「そんな理屈が通るか!」
すると、部屋の奥から声がした。
「上手にやれば、通るんですよ」
A男が振り返ると、そこにはB子が立っていた。
手には、父の時代から使われていた古い帳簿を持っている。
その顔には、感情がなかった。
「社長、線引きがなくなると、後で困ると言いましたよ」
A男は息を呑んだ。
―――――
次の瞬間、A男は会社の事務所にいた。
壁には、先代である父の写真が飾られている。
机の上には、無数の書類が積まれていた。
そこには、A男の名前が並んでいた。
「A男の時間使用明細」
「A男の信用使用明細」
「A男の相続財産使用明細」
「A男の家族時間使用明細」
「A男の個人資産流用計画」
A男は書類を払いのけた。
「なんだこれは!」
部屋の奥で、誰かが言った。
「親から引き継いだものなら、都合よく使っていいんでしょう?」
A男は振り向いた。
従業員たちが並んでいた。
一人が言った。
「社長の休日、会社で使わせてもらいます」
別の一人が言った。
「社長の睡眠時間も、会社のために回します」
また別の一人が言った。
「社長の個人資産も、従業員の生活のために使わせてください」
A男は青ざめた。
「ふざけるな。俺の人生まで会社に使われてたまるか」
従業員の一人が、無表情で首をかしげた。
「でも、社長は言っていましたよ」
「親父が残した会社だから、俺がどう使うかは俺の判断だって」
別の従業員が言った。
「では、社長の親が残したものを、私たちがどう使うかも私たちの判断でいいのでは?」
「違う。俺は社長だ。俺が決める側だ」
B子が、帳簿を開いた。
「先代が残したのは、社長個人の財布ではありません」
A男は睨んだ。
B子は続けた。
「取引先との信用。従業員との信頼。毎月の支払いを遅らせなかった実績。会社と個人を分けてきた姿勢。そういうものが積み重なって、今の会社があります」
A男は言い返そうとした。
しかし、言葉が出なかった。
「会社のお金を個人のものとして使うなら、個人の時間も会社のものとして使われる。先代の信用を自分の実力として使うなら、自分の信用も誰かに勝手に使われる。境界線がないなら、どちら向きにも流れます」
A男は叫んだ。
「違う。俺はただ、少し得をしたかっただけだ」
B子は静かに言った。
「その“少し”を、先代は一番嫌っていました」
A男は父の写真を見た。
写真の中の父は、いつものように何も言わなかった。
その沈黙が、A男にはいちばん重かった。
―――――
A男は逃げ出した。
外へ出ると、街の様子もおかしかった。
道路には穴が空いていた。
信号は止まっていた。
街灯は消えていた。
救急車は来ない。
ゴミは回収されず、歩道に積まれていた。
A男は通行人に尋ねた。
「なんだ、この街は」
通行人は答えた。
「みんな、上手にやった結果ですよ」
「どういう意味だ」
「払うべきものを、少しずつ誰かが避けたんです」
通行人は、壊れた道路を指さした。
「少しくらいなら大丈夫」
消えた街灯を指さした。
「自分だけなら問題ない」
動かない信号を指さした。
「上手にやればいい」
A男は何も言えなかった。
そのとき、背後から子どもの声が聞こえた。
「ねえ、どうして直らないの?」
母親らしき女性が答えた。
「直すためのお金が、どこかで消えたのかもしれないね」
A男は思わず耳をふさいだ。
自分一人が逃れたと思っていたものは、どこかで誰かの不足になっていた。
自分が得をしたと思っていた金は、誰かの見えない負担に変わっていた。
そして、自分が好きに使っていた会社の金には、父が積み上げた信用も混ざっていた。
だが、それを認めるには、遅すぎた。
―――――
A男は、再び会社の事務所に戻っていた。
机の前には、過去のA男が座っていた。
高級な腕時計をつけ、スマホを片手に笑っている。
過去のA男は、書類を見ながら言った。
「これも会社のため」
別の書類を見て、また言った。
「これも社長として必要」
さらに別の支出を見て、肩をすくめた。
「どうせ持っていかれるくらいなら、使った方がいい」
今のA男は叫んだ。
「やめろ! その金は会社の金だ!」
過去のA男は顔を上げた。
「会社は親父が俺に残したんだぞ」
「違う。親父が残したのは、好きに使うための財布じゃない」
「急に綺麗ごと言うなよ」
今のA男は机を叩いた。
「俺のものじゃなかったんだ」
過去のA男は、冷たく言った。
「でも、欲しかったんだろ?」
A男は黙った。
過去のA男は続けた。
「払いたくなかったんだろ?」
A男は唇を噛んだ。
「先代の信用に乗って、二代目の顔をして、少しでも得したかったんだろ?」
A男は、何も言えなかった。
過去のA男は、満足そうに笑った。
「なら、上手にやればいいだろ?」
その瞬間、部屋中の帳簿が一斉に開いた。
数字があふれ出し、A男の足元に絡みつく。
領収書の束が蛇のように巻きつく。
赤い線が、会社と個人の欄をぐちゃぐちゃに塗りつぶしていく。
A男は必死に叫んだ。
「俺の金じゃない! 俺の会社でもなかった!」
過去のA男は笑った。
「じゃあ、今度はお前のものを使わせてもらうよ」
―――――
次の朝。
A男は、自宅で目を覚ました。
ほっとして起き上がる。
だが、ベッドの横には紙が置かれていた。
「この睡眠時間は、会社都合で使用済みです」
A男は息を止めた。
クローゼットを開ける。
服がない。
「業務上必要と判断されました」
冷蔵庫を開ける。
食べ物がない。
「関係者の福利厚生に充当されました」
父の置き時計も消えていた。
メモには、こう書かれていた。
「親から引き継いだものなので、上手に使いました」
A男は床に座り込んだ。
すると、どこかから過去の自分の声が聞こえた。
「親父の会社も、俺の会社みたいなもんだろ」
A男は首を振った。
「違う」
声は続けた。
「細かいこと言うなよ」
「違う……」
最後に、過去のA男が笑った。
「上手にやればいいだろ?」
A男は、自分の財布を握りしめようとした。
けれど、その財布はもう、自分の手の中にはなかった。
―――――
境界線を消して得たものは、形を変えて自分の境界線を奪いに来る。
この話は、税金や経理の具体的な方法を描くための話ではない。
ここで描いているのは、もっと手前にある感覚だ。
会社のお金を、自分のお金のように扱う。
払うべきものを、うまく避けたつもりになる。
本来戻すべき場所へ戻さず、自分の都合のよい場所へ流してしまう。
そのとき、人は自分だけが得をしたように感じる。
けれど、親から引き継いだ会社なら、そこにはさらに別の重さがある。
そこにあるのは、ただの資産ではない。
先代が積み上げた信用がある。
従業員の生活がある。
取引先との長い関係がある。
地域の中で、少しずつ守られてきた名前がある。
会社は、誰か一人の欲を満たすためだけにあるわけではない。
もちろん、会社を継ぐ側にも大変さはある。
引き継いだからこその重圧もある。
先代と比べられる苦しさもある。
自分の代で変えていかなければならないこともある。
それでも、引き継いだものを「最初から自分のものだった」と錯覚した瞬間、見えなくなるものがある。
自分が生まれる前から積み重なっていた努力。
自分が知らない場所で交わされていた約束。
自分がまだ何もしていない頃から守られていた信頼。
それらを足場にして立っているのに、その足場まで自分の実力だと思い込んでしまう。
この話の裏側にあるのは、脱税そのものよりも、引き継いだものを私物化する心だ。
会社と自分を同じものにする。
けれど、責任が来たときだけ別のものにする。
先代の信用は使う。
けれど、先代が守っていた線引きは古いものとして切り捨てる。
社会の恩恵は受け取る。
けれど、社会へ戻す負担はできるだけ避ける。
そうやって都合よく線を引いたり消したりしているうちに、自分自身の輪郭も少しずつ曖昧になっていくのかもしれない。
お金には、名前が書かれていない。
一枚の紙幣にも、口座上の数字にも、最初から「これは誰のものです」と刻まれているわけではない。
それでも、それが誰かのものとして扱われるのは、そこにルールがあるからだ。
支払いの記録がある。
契約がある。
帳簿がある。
社会の約束がある。
そして、それらを守るという信用がある。
お金は、元々そこに自然物として存在しているものではない。
人が作ったルールと信用の上に成り立っているものだ。
だから、そのルールを軽く扱えば、お金そのものの価値も少しずつ揺らいでいく。
「上手にやればいい」
「バレなければいい」
「誰も見ていないから大丈夫」
そう考えるたびに、失われているのは金額だけではない。
自分の中にある、見えないものを大切にする感覚も削られていく。
誰も教えてくれない。
教えてくれる人がいても、耳を貸さない。
そのうち、ルールを破っている感覚よりも、上手に処理できている感覚の方が強くなっていく。
けれど、それは本当は、
自分をなくす作業を、上手に進めているだけなのかもしれない。
見えないものを軽く扱えば、見えないまま自分の中から何かが消えていく。
信用。
誠実さ。
線引き。
誰も見ていないところで、自分を保つ感覚。
そういうものは、外からは見えない。
けれど、見えないものを大切にできるからこそ、自分の中に残るものがある。
A男の地獄は、罰金や追徴の話だけではない。
自分が消してきた境界線を、今度は他人に消されることだ。
自分の財布を使われる。
自分の時間を使われる。
自分の生活を使われる。
親から引き継いだ大切なものまで、誰かの都合で処理される。
そのとき初めて、A男は知る。
「これは自分のものだ」と言えるためには、
「これは自分だけのものではない」と認める力も必要なのだと。
お金は、ただ持っていれば自分のものになるわけではない。
会社も、ただ引き継げば自分のものになるわけではない。
信用も、ただ名前の上に乗れば自分の力になるわけではない。
そこには、守るべき見えない約束がある。
その約束を軽く扱ったとき、人はお金を失う前に、自分の中の何かを失い始めるのかもしれない。
この物語が最後に置いている問いは、そこにある。
自分が“自分のもの”として使ったそのお金には、誰の時間と信頼が含まれていたのか。
そして、親から引き継いだものの中に、自分がまだ返せていないものが、どれだけ含まれていたのか。
見えないものを大切にできる人の中には、見えない支えが残る。
見えないものを軽く扱う人の中からは、見えないまま支えが消えていく。
その問いの前では、「上手にやればいい」という言葉も、少しだけ違う重さを持ちはじめるのかもしれない。