遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
A男は、酒を飲むと自分が大きくなった気がした。
普段は言えないことが言える。
遠慮していた相手にも強く出られる。
その場を支配しているような気分になれる。
けれど本当は、大きくなっていたのではない。
小さくなった自分を、酒の匂いで隠していただけだった。
―――――
A男は、酒が好きだった。
一杯目では、顔が少し緩む。
二杯目では、声が大きくなる。
三杯目を越える頃には、もう自分が普段より強い人間になったような気がした。
職場の飲み会でも、A男はよく中心にいた。
「いやあ、今日くらい言わせてもらうけどさ」
その言葉が出ると、周囲の空気が少しだけ固くなる。
けれどA男は、それに気づかなかった。
あるいは、気づいていても気にしなかった。
酒が入っている。
だから多少のことは許される。
酒の席だから、細かいことを言う方が野暮だ。
そう思っていた。
「B男、お前さ、ほんと要領悪いよな」
A男は、笑いながら言った。
B男は、曖昧に笑った。
「いや、まあ……すみません」
「いやいや、謝るところがまたダメなんだよ。そういうところだぞ」
周囲の数人が、困ったように笑う。
A男は、その笑いを自分への賛同だと思った。
「B子もさ、いつも真面目な顔してるけど、正直ちょっと重いよね」
B子の表情が、わずかに止まった。
「……そうですか」
「ほら、そういうところ。もっと楽に生きればいいんだよ。俺みたいにさ」
A男はグラスを掲げた。
「酒飲めば、だいたいのことはどうでもよくなるんだから」
誰も、何も言わなかった。
その沈黙さえ、A男には心地よかった。
自分が場を握っている。
自分が遠慮なく言えている。
自分が、普段より大きくなっている。
そう感じた。
家でも、A男は同じだった。
外で飲んで帰ってきた夜、家族が静かにしていると、A男はそれを退屈だと思った。
「なんだよ、しけた顔して」
妻が小さく言った。
「もう遅いから、少し声を落として」
その一言で、A男の中の何かがふくらんだ。
「俺が仕事して帰ってきてるんだぞ」
声が大きくなる。
テーブルに置いたグラスの音も、大きくなる。
子どもが箸を止める。
妻が目を伏せる。
その沈黙を見て、A男はまた勝ったような気がした。
「家くらい、気持ちよく飲ませろよ」
妻は何も言わなかった。
A男は、その沈黙を理解だと思った。
本当は、家族が言葉を飲み込んだだけだった。
けれどA男には、それが分からなかった。
酒を飲むと、家の中でも自分が大きくなれる。
そう思っていた。
本当は、家族の空気を小さくしていただけなのに。
飲み会の帰り道、B子が少し離れたところでA男に言った。
「A男さん、今日の言い方は少しきつかったと思います」
A男は笑った。
「え、何? まだ気にしてるの?」
「気にします。言われた側は残りますから」
「いやいや、酒の席じゃん」
「酒の席でも、言葉は言葉です」
A男は面倒くさそうに肩をすくめた。
「酔ってたんだから、仕方ないだろ」
B子は、しばらくA男を見ていた。
それから、静かに言った。
「それ、酒のせいにしているだけじゃないですか」
A男は少しむっとした。
「本音が出ただけだよ。むしろ正直でいいだろ」
「正直なら、人を傷つけてもいいんですか」
A男は笑った。
「重いなあ。だから言っただろ。B子はそういうところがさ」
B子は、もう何も言わなかった。
A男は、その沈黙にも勝ったような気がした。
―――――
次の朝。
A男は、見知らぬ居酒屋で目を覚ました。
目の前には、長いカウンターがあった。
照明は薄暗く、店内には誰もいない。
いや、誰もいないと思った瞬間、奥の席に人影が見えた。
B男だった。
B男はグラスを手にしていた。
普段のB男とは違う。
背筋が伸び、声が大きく、目つきが妙に強かった。
B男はA男を見ると、にやりと笑った。
「A男さんってさ、ほんと情けないですよね」
A男は眉をひそめた。
「は?」
B男は立ち上がった。
その身体が、少し大きく見えた。
「いや、今日くらい言わせてもらいますけど、普段は何も言えないのに、酒が入ったときだけ偉そうですよね」
A男は反射的に言い返した。
「何言ってんだ、お前」
「ほら、怒った。器が小さいなあ」
B男は笑った。
その笑い声が、店内に大きく響いた。
A男の胸がざわついた。
「やめろよ。そういう言い方」
「え? 酒の席じゃないですか」
A男は言葉に詰まった。
B男はさらに近づいた。
「酔ってるんだから、仕方ないでしょう?」
その言葉を聞いた瞬間、A男の喉が固まった。
自分が何度も使ってきた言葉だった。
A男は立ち上がろうとした。
だが、椅子からうまく動けない。
視界がぐにゃりと回った。
天井が下に落ち、床が上へ浮かび、カウンターの端が波のように歪む。
吐き気にも似た感覚が、胃の奥からせり上がってくる。
上と下の感覚が分からない。
A男はカウンターに手をつこうとした。
けれど、そこにあるはずの木目は遠く、指先は空を切った。
気づいたとき、A男はB男が握るジョッキの影に、すっぽり収まるほど小さくなっていた。
椅子が高い。
テーブルが遠い。
B男の影が、壁のようにA男の上へ落ちてくる。
B男は、空になったグラスをカウンターに置いた。
その音が、雷のように響いた。
「じゃあ、次」
照明が一度、消えた。
―――――
次に明かりがつくと、A男の前にはB子が座っていた。
B子は静かに酒を飲んでいた。
いつものB子ではなかった。
穏やかだが、目に冷たい光があった。
「A男さんって、軽いですよね」
A男は身構えた。
「B子まで何なんだよ」
「何でも笑って流せばいいと思っている。でも、笑っているのはA男さんだけです」
A男は言い返した。
「お前、まだ根に持ってるのか」
「根に持つ?」
B子は小さく笑った。
「言われた側に残るものを、言った側が“根に持つ”って名前に変えるんですね」
A男は黙った。
B子はグラスを傾けた。
そのたびに、B子の影が大きくなる。
「いいですよね。言った側は忘れられて」
「俺は……そんなつもりじゃ」
「でも、言いましたよね」
B子の声が、店内に反響した。
「重いなあ」
A男の背中に、冷たいものが走った。
「やめろ」
B子は、少しだけ首をかしげた。
「A男さん、重いですか?」
A男は何も言えなかった。
B子は静かに続けた。
「あなたが『重い』と笑って押しつけた言葉の重さが、今、全部あなたの上に乗っているんですよ」
その瞬間、A男の小さな身体に、目に見えない重圧がのしかかった。
肩が沈む。
背中が曲がる。
床に手をついても、身体を支えきれない。
息を吸おうとしても、胸が開かない。
B子は、かつてA男が投げた言葉を、ひとつずつ置いていった。
「そういうところだぞ」
重くなる。
「もっと楽に生きればいいのに」
さらに重くなる。
「酒の席なんだから」
A男の膝が床についた。
「やめろって……」
B子は静かに言った。
「大丈夫です。酒の席ですから」
A男の身体が、また少し小さくなった。
―――――
それから、何度も同じことが起きた。
目が覚める。
誰かが酒を飲む。
その人が大きくなる。
A男は小さくなる。
そして、A男が過去に吐いた言葉が、別の口から返ってくる。
「冗談も通じないのかよ」
「そんなに傷つく方がおかしいだろ」
「本音を言ってやっただけだよ」
「覚えてないんだから、許せよ」
「酔ってたんだから、仕方ないだろ」
そのたびに、A男は反論しようとした。
だが、反論すればするほど、周囲は笑った。
「しらけるなあ」
「酒の席で真面目になるなよ」
「そういうところ、面倒なんだよ」
A男は、初めて知った。
酔った人間の前で、傷ついたと言うことの難しさを。
相手は覚えていないと言う。
冗談だったと言う。
本音だったと言う。
酒のせいだったと言う。
そのどれもが、言われた側の痛みを置き去りにする。
A男は、その置き去りにされた場所に座らされ続けた。
―――――
ある夜。
A男は、また同じ居酒屋で目を覚ました。
今度は、カウンターの奥に鏡があった。
鏡の中には、過去のA男が映っていた。
楽しそうに笑いながら、グラスを掲げている。
周囲には、B男やB子や、これまでA男が傷つけてきた人たちが座っていた。
過去のA男は言った。
「今日くらい言わせてもらうけどさ」
今のA男は叫んだ。
「やめろ!」
過去のA男は聞こえていない。
「B男、お前ほんと要領悪いよな」
B男の顔が、少しだけ下を向く。
「B子もさ、真面目すぎて重いんだよ」
B子の表情が止まる。
今のA男は、鏡を叩いた。
「やめろ! それは言うな!」
過去のA男は、気持ちよさそうに笑った。
鏡の奥で、場面が変わった。
今度は家だった。
過去のA男が、テーブルにグラスを置く。
「家くらい、気持ちよく飲ませろよ」
子どもの箸が止まる。
妻が目を伏せる。
今のA男は、鏡の前で息を止めた。
「やめろ……そこでは言うな」
けれど過去のA男は、家族の沈黙を見て、満足そうに笑っていた。
「ほら、何も言えないだろ」
今のA男は、その顔を見て初めて気づいた。
自分が大きくなったのではない。
家の中の空気を、小さくしていただけだった。
また、鏡の中の場面が変わる。
過去のA男は、飲み会の席に戻っていた。
「酒飲むとさ、人間は本音が出るんだよ」
今のA男は、かすれた声で言った。
「違う……」
過去のA男は、鏡の向こうからこちらを見た。
「何が違うんだよ」
「それは、本音じゃない」
「じゃあ、何だよ」
A男は答えられなかった。
本音ではなかった。
けれど嘘でもなかった。
それは、普段なら抑えていた軽蔑だった。
相手を下に見たい気持ちだった。
自分の小ささを隠すために、誰かを小さくしようとする癖だった。
酒は、それを作ったのではない。
ただ、外へ出しやすくしただけだった。
ただ、罪の意識を少し麻痺させただけだった。
過去のA男は笑った。
「なあ、気持ちいいだろ?」
今のA男は首を振った。
「気持ちよくなんかない」
「嘘つけよ」
過去のA男は、グラスを掲げた。
「小さい自分を忘れられる」
A男は震えた。
「やめろ」
「弱い自分を見なくて済む」
「やめろ……」
「誰かを傷つければ、自分が大きくなった気がする」
A男は膝から崩れ落ちた。
過去のA男は、最後にこう言った。
「酔ってたんだから、仕方ないだろ?」
その瞬間、鏡が割れた。
割れた破片の一つひとつに、A男の顔が映っていた。
どれも小さく、歪んでいた。
―――――
次の朝。
A男は、自分の部屋で目を覚ました。
夢だったのか。
そう思った瞬間、スマホが鳴った。
飲み会のグループチャットだった。
「昨日のA男さん、最高でしたね」
「また毒舌聞きたいです」
「B男、いじられすぎてて笑った」
「B子、真面目に受け取りすぎ」
A男は画面を見つめた。
記憶があった。
昨日、また飲んだ。
また言った。
また笑った。
また誰かが黙った。
家族の顔も、ぼんやりと思い出した。
妻が目を伏せたこと。
子どもが箸を止めたこと。
自分だけが、大きな声で笑っていたこと。
A男は慌ててB男にメッセージを送ろうとした。
「昨日は悪かった」
そう打ったところで、指が止まった。
本当に悪かったと思っているのか。
それとも、また地獄に戻りたくないだけなのか。
分からなかった。
それでも、A男は震える指で送信した。
「昨日は悪かった」
送信済みの文字が画面に浮かぶ。
その瞬間、テーブルに置いてあった空のグラスが、かすかに鳴った。
カラン。
中には何も入っていない。
それなのに、氷が溶けるような音がした。
チャット画面の奥で、過去のA男が笑った気がした。
「何マジになって謝ってんだよ」
A男の指先が冷たくなった。
「しらけるなあ。酒の席だろ?」
スマホを握る手が、また一回り小さくなっていることに気づいた。
A男は息を呑んだ。
謝っても、戻れない。
謝罪さえ、地獄から逃れるための保身なら、また別の形で自分に返ってくる。
どこかから、過去の自分の声が聞こえた。
「一杯くらい、いいだろ?」
A男は、グラスを見た。
飲めば、また大きくなれる気がした。
飲めば、また忘れられる気がした。
飲めば、また誰かの沈黙を、自分への勝利だと思える気がした。
A男は、震える手でグラスを遠ざけようとした。
だが、その前に、画面の中の過去の自分が笑った。
「酔ってたんだから、仕方ないだろ?」
その声を聞いた瞬間、A男の身体が、また少し小さくなった。
―――――
酒の力を借りて吐いた言葉は、形を変えて自分の小ささを映しに来る。
この話は、アルコール依存そのものを責めるための話ではない。
依存には、苦しさがある。
自分では止めたいと思っていても止められないことがある。
その背景には、孤独や不安や、長い時間をかけて積み重なった傷がある場合もある。
だから、酒に苦しむ人をただ責めれば済む話ではない。
ここで描いているのは、もっと別のことだ。
酒を、自分の加害を小さく見せるために使うこと。
酒を、言い過ぎた言葉の逃げ道にすること。
酒を、誰かを傷つけたあとで「仕方ない」と言うための道具にしてしまうこと。
「酔っていたから」
「覚えていないから」
「酒の席だから」
「本音を言っただけだから」
そうした言葉は、言った側にとっては便利だ。
けれど、言われた側の中では、その言葉は消えない。
むしろ、酔っていたからこそ怖かった言葉がある。
覚えていないと言われたからこそ、余計に残る傷がある。
酒の席だから笑わなければいけない空気の中で、静かに飲み込まれた痛みがある。
そしてそれは、職場や飲み会だけの話ではない。
家の中でも起こる。
外では抑えていたものが、家に帰った瞬間に出ることがある。
一番近い相手だからこそ、甘えの形でぶつけてしまうことがある。
逃げ場のない家族の沈黙を、自分への理解や服従のように勘違いしてしまうこともある。
そこに直接的な暴力がなくても、空気は小さくなる。
声が大きくなる。
グラスの音が大きくなる。
誰かの箸が止まる。
誰かが目を伏せる。
その一つひとつが、家の中から安心を削っていく。
この話の裏側にあるのは、酒そのものではなく、借りた力で自分を大きく見せようとする心だ。
普段は言えない。
普段は怖い。
普段は自信がない。
だから酒の力を借りる。
それ自体は、誰にでも少しは分かる感覚かもしれない。
けれど、その借りた力で誰かを見下したとき、人は本当に大きくなっているのだろうか。
もしかすると、誰かを小さく扱うことで、自分が大きくなったように錯覚しているだけなのかもしれない。
A男が見ていなかったのは、相手の傷だけではない。
自分自身の小ささでもあった。
酒は、それを消してくれたのではない。
一時的に見えにくくしてくれただけだ。
もうひとつ、この話には「麻痺」の問題もある。
酒は、人を大きくするのではない。
罪の意識を一時的に麻痺させることがあるだけだ。
本当なら、言う前に胸の奥で止まるはずの言葉がある。
誰かの表情を見て、言い過ぎたと気づく瞬間がある。
これ以上は踏み込んではいけないと知らせてくれる、内側の物差しがある。
それが良心なのだと思う。
けれど、その物差しを薄めていくと、どこまでが危ないのか分からなくなる。
このくらい大丈夫。
まだ大丈夫。
みんなやっている。
酒の席なら許される。
そうやって基準が鈍っていく。
それは、制限速度を少しずつ超えながら、カーブの手前でまだ曲がれると思い込むことに似ている。
本当は危険な速度なのに、感覚が麻痺しているから分からない。
気づいたときには、もう戻れない場所まで来ている。
ガードレールを突き破る直前まで、自分が危険な場所にいることに気づけない。
A男がしていたのは、誰かを傷つける行為であると同時に、自分の首を少しずつ締める行為でもあったのかもしれない。
なぜなら、良心の物差しを失えば、自分がどこで崖に近づいているのかも分からなくなるからだ。
見えにくくなった小ささは、消えたわけではない。
むしろ、見ないふりをしたぶんだけ、別の形で残っていく。
声が大きくなる。
態度が大きくなる。
言葉が荒くなる。
けれど、本当に大きくなった人間は、誰かを傷つけて自分を確かめる必要があるのだろうか。
A男の地獄は、酒が飲めなくなることではない。
自分が大きくなったつもりで吐いてきた言葉を、自分が小さな側として受け取り続けることだ。
言い返せない。
笑って流すしかない。
傷ついたと言えば、重いと言われる。
やめてくれと言えば、酒の席だと言われる。
自分が他人に置かせてきた場所へ、自分が座らされる。
そして怖いのは、気づいたあとの行動でさえ、すぐには清らかなものにならないことだ。
謝ろうとする。
反省しようとする。
もうやめようと思う。
それでも、その奥に「地獄に戻りたくないから」という保身が混ざることがある。
だからこそ、人は一度の謝罪で終われない。
一度の反省で、自分を完全にきれいにできるわけでもない。
では、麻痺させなくてよくなるためには、何が必要なのだろうか。
おそらくそれは、普段から自分自身の良心と丁寧に付き合うことなのだと思う。
言い過ぎたかもしれない。
今の言葉は、相手を小さくしようとしていなかったか。
自分は本当に大きくなりたいのか、それとも小ささを見たくないだけなのか。
そうやって、自分の内側にある物差しを、日頃から確かめておく。
その物差しが残っていれば、自分と他人を大きい小さいで測らなくてもよくなる。
誰かを下げなくても、自分を保てるようになる。
他者を大切にすることが、自分を削ることではなくなる。
むしろ、他者を大切にできることが、自分自身を保つ力にもなっていくのかもしれない。
それでも、そこで立ち止まれるかどうか。
言い訳に戻らず、相手の痛みを自分の都合で処理しないでいられるかどうか。
この物語が最後に置いている問いは、そこにある。
酒のせいにしてきたその言葉は、本当に酒だけが言わせたものだったのか。
そして、誰かを傷つけたあとで「酔っていたから」と言うたびに、自分の中の何を見ないことにしていたのか。
酒は、人を大きくするのではない。
見たくない小ささを、一時的にぼかしてくれるだけなのかもしれない。
その問いの前では、「酔ってたんだから、仕方ないだろ」という言葉も、少しだけ違う重さを持ちはじめるのかもしれない。