遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
忘れてしまえば、痛みは薄れる。
だが、忘れたことまで忘れてしまったとき、人は本当に自由でいられるのだろうか。
記憶と安全、そして管理された幸福をめぐる小さな裏思考遊戯。
―――――
A子は、ベッドの上で目を覚ました。
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。
見慣れた天井。
見慣れた棚。
見慣れた時計。
何もおかしなことはない。
そう思った瞬間、A子は自分の右手に何かを握っていることに気づいた。
小さく折りたたまれたメモだった。
開くと、そこには短い文字が書かれていた。
「思い出さないで」
A子は、しばらくその文字を見つめていた。
意味が分からないわけではなかった。
むしろ、分かりすぎるほど分かった。
これは、自分に向けた言葉だ。
だが、何を思い出してはいけないのかが分からない。
A子はベッドから起き上がり、机の上の日記を開いた。
そこには、昨日の自分が書いたらしい文章が並んでいた。
朝食を食べた。
会社へ行った。
会議があった。
帰りにスーパーへ寄った。
夜、少し頭痛がした。
それだけを読めば、ごく普通の一日だった。
だが、ページの最後に、不自然な空白があった。
何かを書こうとして、途中でやめたような空白。
その下に、震えた字で一行だけ書かれていた。
「三時三十三分を忘れるな」
A子は時計を見た。
今は、朝の七時十二分。
三時三十三分。
その数字に、胸の奥が小さく痛んだ。
―――――
A子の日常は、平凡だった。
毎朝同じ時間に起きる。
同じマグカップでコーヒーを飲む。
同じ駅から電車に乗る。
同じ会社で、同じような仕事をこなす。
大きな不満があるわけではない。
かといって、強い幸福があるわけでもない。
ただ、波風の少ない日々だった。
けれどA子には、一つだけ奇妙な習慣があった。
彼女の家には、メモが多すぎるほど貼られていた。
玄関には、
「鍵を持ったか確認する」
冷蔵庫には、
「朝食はここにある」
洗面台には、
「薬は右の引き出し」
机の横には、
「日記を読むこと」
そしてベッド脇には、
「朝起きたら、手の中を見る」
A子は最初、その習慣を自分の心配性のせいだと思っていた。
忘れ物が多いから。
疲れているから。
毎日が忙しいから。
そう説明していた。
しかし、本当は違う。
A子は、毎晩眠るたびに、特定の記憶を失っていた。
すべてを忘れるわけではない。
名前も分かる。
仕事も覚えている。
友人の顔も、会社への行き方も、好きな食べ物も覚えている。
けれど、ある種類の記憶だけが、朝になると抜け落ちている。
何かに気づいた記憶。
違和感を覚えた記憶。
「このままではいけない」と思った記憶。
そういうものだけが、まるで丁寧に抜き取られているように消えていた。
だからA子は、日記を書いた。
眠る前に、その日あったことをできるだけ細かく書く。
気づいたことも、疑問も、不安も、全部残す。
しかし翌朝読むと、ところどころ意味が分からなくなっている。
自分で書いたはずなのに、なぜそれを書いたのか分からない。
それでもA子は書き続けた。
メモを増やし続けた。
自分をつなぎ止めるために。
ある日の昼休み、会社の休憩室で同僚のB子が言った。
「ねえ、“記憶喪失の人類”って知ってる?」
A子は弁当の箸を止めた。
「何それ」
B子は少し楽しそうに言った。
「都市伝説。昔、全人類が一夜にして、ある記憶だけを失ったって話」
「ある記憶?」
「うん。何を忘れたかは分からないの。忘れた記憶だから」
周りの同僚たちは笑った。
「それ、忘れたかどうかも分からないじゃん」
「だから都市伝説なんでしょ」
B子も笑ったが、A子だけは笑えなかった。
忘れたことを、忘れている。
その言葉が、胸の奥に引っかかった。
A子はぽつりと尋ねた。
「もし、本当に特定の記憶を失ったらさ」
B子が顔を上げた。
「うん?」
「それでも、私たちは同じ人間だと言えるのかな」
休憩室の空気が、少しだけ静かになった。
B子は苦笑いした。
「急に深いね」
A子は慌てて笑った。
「ごめん、なんとなく」
だが、その日からA子の中で、何かが動き始めた。
記憶喪失の人類。
それは自分のことなのか。
それとも、本当に人類全体のことなのか。
その日の帰り道、A子は駅前の信号で立ち止まった。
夕方の街には、人があふれていた。
スマートフォンを見ながら歩く人。
笑っている学生。
疲れた顔の会社員。
ベビーカーを押す母親。
店先で商品を並べる店員。
全員が、普通に見える。
けれどA子は、ふと思った。
この人たちも、何かを忘れているのではないか。
忘れていることに、気づいていないだけなのではないか。
そう思うと、街の景色が少しだけ薄く見えた。
家に帰ったA子は、日記の古いページを読み返した。
数週間前。
数か月前。
さらに前。
そこには、同じような言葉が何度も出てきた。
「三時三十三分」
「白い部屋」
「頭の中に入ってくる音」
「忘れる前に書け」
「思い出すな」
「いや、思い出せ」
A子は混乱した。
自分は、思い出したいのか。
それとも、思い出したくないのか。
ページの端には、何度も同じような絵が描かれていた。
白い部屋。
椅子。
天井のライト。
そして、時計。
針はいつも、三時三十三分を指していた。
その夜、A子は決意した。
午前三時三十三分に起きる。
目覚ましを三つセットした。
スマートフォン。
目覚まし時計。
古いキッチンタイマー。
そして、日記の新しいページに大きく書いた。
「三時三十三分に目を開ける。何が起きても、忘れない」
A子はベッドに入った。
眠りたくなかった。
けれど、いつの間にか意識は落ちていた。
―――――
激しい電子音で、A子は目を覚ました。
暗い部屋。
時計の針は、三時三十三分。
その瞬間、A子の頭の奥に鋭い痛みが走った。
誰かが、脳の中の扉を無理やりこじ開けようとしているような痛みだった。
A子は叫んだ。
声は出たはずなのに、音が遠い。
視界が白く塗りつぶされていく。
床が消えた。
ベッドが消えた。
部屋が消えた。
そしてA子は、白い部屋にいた。
椅子に座らされている。
手足は動かない。
目の前には、冷たい目をした男が立っていた。
年齢は分からない。
白衣を着ているが、医師には見えなかった。
研究者にも、警備員にも、役人にも見える。
男は静かに言った。
「ようやく、ここまで起きてきたか」
A子は必死に声を出した。
「ここはどこ?」
「記憶調整室」
「記憶……?」
男は、手元の端末に目を落とした。
「あなたは何度も気づきかけている。だから毎晩、調整が必要になる」
A子は震えた。
「私の記憶を消しているのは、あなたなの?」
男は顔を上げた。
「私一人ではない。これは個人の判断ではなく、管理システムだ」
「何のために」
男は淡々と答えた。
「幸福のために」
A子は言葉を失った。
男は続けた。
「人類は、すべてを記憶するには脆すぎる」
壁に映像が映った。
戦争。
災害。
迫害。
差別。
裏切り。
環境破壊。
失われた命。
誰かが誰かを踏みつけて築いた豊かさ。
忘れなければ、日常が成り立たなくなるほどの記憶。
男は言った。
「人間は、記憶を持ちすぎると壊れる。
憎しみを受け継ぎすぎる。
罪悪感に押しつぶされる。
過去の傷を現在へ持ち込み、未来まで燃やしてしまう」
A子は映像から目を逸らした。
「だから、消しているの?」
「必要な範囲で」
「誰が決めるの」
男は少しだけ沈黙した。
「人類自身だ」
A子は顔を上げた。
「嘘」
男は端末を操作した。
別の映像が映る。
そこには、広い会議場があった。
大勢の人々が座っている。
年齢も国も違う。
泣いている人もいる。
怒っている人もいる。
誰かが叫んでいる。
画面の中央には、大きな文字が映っていた。
「記憶負荷軽減計画」
男は言った。
「かつて人類は、あまりにも多くを覚えすぎた。
歴史を記録し、罪を記録し、被害を記録し、怒りを記録し、悲しみを記録した。
忘れまいとした。
二度と繰り返さないために」
A子は息を呑んだ。
「それは、正しいことじゃないの?」
「正しかった」
男は答えた。
「だが、人間は正しさだけでは生きられなかった」
映像には、分断された街が映った。
誰もが、自分たちの傷を持っていた。
誰もが、自分たちの正しさを持っていた。
誰もが、忘れてはいけない記憶を持っていた。
その記憶が、互いにぶつかり合っていた。
「忘れてはいけない」
その言葉が、人々を守ることもあった。
同時に、人々を縛ることもあった。
男は言った。
「人類は、一度選んだ。
すべてを覚えておくことをやめると。
争いを生む記憶、耐えきれない罪悪感、過去を現在へ固定する情報を、必要に応じて調整すると」
A子は首を振った。
「そんなの、同意していない」
「あなたは覚えていない」
「覚えていない同意なんて、同意じゃない」
男は答えなかった。
A子は叫んだ。
「それは支配じゃない!」
男は静かに言った。
「支配と保護の境界は、いつも後から名付けられる」
その言葉に、A子はぞっとした。
男はさらに続けた。
「あなたが失っているのは、個人的な記憶だけではない。
あなたは、システムの欠陥に気づいた。
人類全体が忘れていることを、個人の違和感として拾ってしまった」
「何を……私は何を知ったの?」
男はA子を見た。
「人類は、記憶喪失になったのではない」
少しだけ間が空いた。
「人類は、自分たちが忘れることを選んだ記憶を、さらに忘れたのだ」
A子の背筋に、冷たいものが走った。
忘れたことを、忘れている。
都市伝説は、本当だった。
だが、それは一夜にして奪われた記憶ではなかった。
人類が、耐えきれずに手放した記憶だった。
そして、手放したことさえ、忘れた。
A子は震える声で言った。
「それでも……それでも、消していい記憶なんてない」
男は初めて、少しだけ疲れた顔をした。
「そう言った者もいた」
「その人たちは?」
「覚えていない」
A子は男を睨んだ。
「あなたたちが消したんでしょう」
男は否定しなかった。
「彼らは危険だった」
「真実を知ることが?」
「真実そのものではない。
真実を知った人間が、それをどう扱うかが危険だった」
壁の映像が切り替わる。
真実を知った人々がいた。
隠されていた過去を知った人。
忘れられていた加害の歴史を知った人。
操作されていた社会の仕組みに気づいた人。
ある者は声を上げた。
ある者は復讐を叫んだ。
ある者は絶望した。
ある者は、自分以外のすべてを愚かだと見下した。
ある者は、真実を武器に人を支配しようとした。
正義を掲げた人々が、互いの発言を監視し合う映像もあった。
過去の失言や過ちを掘り起こし、終わりのない断罪を続ける社会もあった。
誰もが「忘れてはいけない」と叫びながら、誰かを許さない理由だけを増やしていく世界もあった。
男は言った。
「真実は、必ず人を自由にするわけではない。
真実は、ときに新しい支配の道具になる」
A子は反論しようとした。
だが、言葉が出なかった。
男の言っていることが、完全に間違っているとは言い切れなかったからだ。
それでも、納得はできなかった。
A子は歯を食いしばった。
「だからって、忘れさせていい理由にはならない」
「では、すべてを覚えたまま生きる覚悟はあるか」
男の声は、冷たかった。
「自分の国が何をしてきたか。
自分の便利な生活が何によって支えられているか。
自分の無関心が何を見殺しにしたか。
自分の幸せの裏に、どれだけの沈黙があるか。
それを毎朝、目覚めるたびに思い出し続けられるか」
A子は黙った。
男は続けた。
「人間は、忘れることで日常へ戻る。
忘れることで食事をし、働き、笑い、眠る。
忘れることは、弱さであると同時に、生き延びる技術でもある」
A子は、かすれた声で言った。
「それでも……選ばせるべきだった」
「選んだ」
「今の私たちは選んでいない」
「だから、忘れている」
A子は目を閉じた。
頭の奥で、何かが軋んだ。
男が近づいてきた。
「調整を始めます」
A子は叫んだ。
「やめて!」
男は手を止めなかった。
「あなたの安全のためです」
「違う!」
「社会の安定のためです」
「違う!」
「人類の幸福のためです」
A子は涙を流した。
「それなら、どうして私は苦しいの」
男の手が止まった。
A子は続けた。
「本当に幸せのためなら、どうして私は、毎朝こんなに空っぽなの」
白い部屋が静まり返った。
男は何も答えなかった。
その沈黙だけが、A子にとって初めての答えのように思えた。
次の瞬間、強い光がA子を包んだ。
意識が遠のいていく。
消される。
また忘れる。
A子は必死に、最後の力で考えた。
何を残せる。
何なら消されずに済む。
言葉は消される。
日記は書き換えられる。
記憶は抜き取られる。
なら、感覚は。
胸の奥の違和感だけは。
A子は、心の中で何度も繰り返した。
忘れても、違和感を捨てるな。
忘れても、疑問を捨てるな。
忘れても、空っぽを空っぽのままにするな。
―――――
A子は、ベッドの上で目を覚ました。
朝の光が、カーテンの隙間から細く差し込んでいる。
見慣れた天井。
見慣れた棚。
見慣れた時計。
何もおかしなことはない。
そう思った瞬間、A子は自分の右手にメモを握っていることに気づいた。
開くと、そこにはこう書かれていた。
「思い出さないで」
その下に、もう一行あった。
「あなたの安全のために忘れてください。真実を知ることは危険です」
A子は長いあいだ、その文字を見つめていた。
何が危険なのかは分からない。
何を忘れたのかも分からない。
けれど、胸の奥に、消し残されたような違和感があった。
A子は机に向かった。
日記を開く。
昨日のページには、きれいに整った普通の一日が書かれていた。
朝食。
会社。
会議。
買い物。
就寝。
どこにも、おかしなところはない。
だからこそ、おかしい。
A子は新しいページを開いた。
ペンを持つ手が震えていた。
何を書けばいいのか分からない。
それでも、彼女は書いた。
「私は、何かを忘れている」
それだけでは足りない気がした。
A子はさらに続けた。
「でも、忘れたことまで忘れてはいけない」
ペン先が紙の上で止まる。
窓の外では、いつも通りの朝が始まっていた。
人々が歩いている。
車が走っている。
店が開き始めている。
誰も、自分が何を忘れているのか知らない顔をしている。
もしかすると、本当に誰も知らないのかもしれない。
もしかすると、誰もが知っていたのに、忘れさせられたのかもしれない。
A子は、胸に手を当てた。
記憶はない。
けれど、違和感は残っている。
それは知識ではない。
証拠でもない。
誰かに説明できる真実でもない。
ただ、消しきれなかった小さな痛みだった。
A子は思った。
自分を作るのは、覚えていることだけなのだろうか。
それとも、忘れてもなお残る違和感もまた、自分なのだろうか。
彼女はメモを破らなかった。
捨てもしなかった。
机の上に置き、その隣に自分で書いた言葉を並べた。
「思い出さないで」
「私は、何かを忘れている」
二つの言葉は、矛盾していた。
けれどA子は、その矛盾をしばらく見つめていた。
思い出さない方が安全なのかもしれない。
思い出せば、壊れてしまうのかもしれない。
真実は、人を自由にするどころか、傷つけるだけかもしれない。
それでも。
A子は日記の最後に、小さく書き足した。
「それでも、私に選ばせてほしい」
その一文を書いた瞬間、涙が落ちた。
何を思い出したわけでもない。
ただ、自分の中に、まだ選びたいという感覚が残っていた。
それが、A子にとって、その朝唯一の確かな記憶だった。
―――――
この話の裏側にあるのは、「忘れることは救いなのか、それとも支配なのか」という問いである。
記憶は、人間を形づくるものだ。
自分が何を経験したか。
誰と出会ったか。
何に傷ついたか。
何を大切にしてきたか。
何を後悔し、何を選び直してきたか。
それらの積み重ねが、「自分」という感覚を作っている。
だから、記憶を失うことは怖い。
大切な出来事を忘れる。
自分が何を考えていたのか分からなくなる。
昨日の自分と今日の自分が、うまくつながらなくなる。
そうなれば、自分は本当に自分なのかという問いが生まれる。
だが、この物語では、もう一つ別の問いがある。
人間は、本当にすべてを覚えていたいのだろうか。
忘れたい記憶もある。
傷ついた記憶。
恥ずかしい記憶。
取り返しのつかない失敗。
誰かを傷つけた過去。
自分ではどうにもできなかった痛み。
それらをすべて鮮明に抱えたまま生きることは、簡単ではない。
忘れることで救われることは、確かにある。
時間が経つことで痛みが薄れる。
細部を忘れることで、ようやく眠れる。
少しずつ記憶が丸くなることで、日常へ戻れる。
そう考えれば、忘却は必ずしも悪ではない。
忘れることは、壊れないための知恵でもある。
だが、問題は、その忘却を誰が決めるのかである。
自分で忘れていくのか。
自然に薄れていくのか。
それとも、誰かに忘れさせられているのか。
ここで、忘却は支配に変わり始める。
痛みを和らげるために忘れることと、
都合の悪い真実を見えなくするために忘れさせることは違う。
休むために目を閉じることと、
見てはいけないから目を塞がれることは違う。
A子の記憶は、彼女を守るために消されていると言われる。
真実を知ることは危険だ。
すべてを覚えていれば壊れてしまう。
人類は、記憶の重さに耐えられない。
その言葉には、一部の正しさがある。
人は、すべての痛みを抱えては生きられない。
過去の傷を完全な形で持ち続ければ、現在を生きる余白がなくなる。
忘れるからこそ、また朝食を食べ、働き、人に会い、笑うことができる。
だが、その正しさは危うい。
なぜなら、そこには簡単に管理の言葉が入り込むからだ。
あなたのため。
社会のため。
安全のため。
幸福のため。
安定のため。
そう言われたとき、人は反論しにくくなる。
本当に自分のためかもしれない。
本当に社会の混乱を避けるためかもしれない。
本当に苦しみを減らすためかもしれない。
しかし、その言葉の奥で、誰かにとって都合の悪い記憶だけが消されているとしたらどうだろう。
それは救いではなく、支配である。
個人の記憶だけではない。
社会にも、記憶がある。
過去に何が起きたのか。
誰が傷つけられたのか。
誰が利益を得たのか。
何が見過ごされたのか。
どんな過ちを繰り返してきたのか。
それらを忘れると、社会は軽くなる。
怒りも減る。
罪悪感も薄れる。
対立も見えにくくなる。
日常は、少し滑らかになる。
けれど、同時に同じ過ちを繰り返しやすくなる。
忘れた社会は、反省を失う。
反省を失った社会は、同じ構造を別の形で再現する。
そして再び傷ついた人が生まれる。
そのとき、また記憶を消せばよいのだろうか。
そうしていけば、世界は平和に見えるかもしれない。
だが、それは痛みがなくなった世界ではない。
痛みを記録する力を奪われた世界である。
この物語の怖さは、人類が記憶を失ったことだけではない。
人類が、記憶を失うことを選んだ記憶まで失っていることにある。
忘れたことを覚えているなら、まだ問い直せる。
なぜ忘れたのか。
本当に忘れるべきだったのか。
誰がそれを決めたのか。
何を守り、何を犠牲にしたのか。
しかし、忘れたことまで忘れてしまえば、問いそのものが消える。
世界は最初からこうだったように見える。
今の自分は最初からこうだったように思える。
何かが抜け落ちていることにも気づけなくなる。
そこに、最も深い支配がある。
支配とは、命令することだけではない。
何を考えればよいかを決めること。
何を見なくてよいかを決めること。
何を思い出さなくてよいかを決めること。
そして、問いが生まれる前に、その問いの原因となる記憶を消してしまうこと。
それは、とても静かな支配である。
現代でも、私たちは多くのことを忘れていく。
昨日見たニュース。
誰かの苦しみ。
どこかで起きた災害。
過去の約束。
自分がかつて感じた怒り。
小さな違和感。
もちろん、すべてを覚えておくことはできない。
人間の心には容量がある。
忘れることは、悪ではない。
だが、何を忘れたのか分からないまま、ただ軽くなったことだけを喜んでいるなら、少し危うい。
楽になることと、鈍くなることは似ている。
落ち着くことと、慣らされることも似ている。
前へ進むことと、過去をなかったことにすることも似ている。
その違いを見分けるのは難しい。
そして今の情報空間では、忘却はさらに見えにくくなっている。
タイムラインに流れてきた誰かの悲鳴は、数秒後には別の話題に押し流される。
昨日まで胸を痛めていたニュースは、今日はもう表示されない。
都合の悪い出来事は、怒りや娯楽や新しい話題の波に紛れて見えなくなる。
アルゴリズムが何を見せ、何を見せないのかを、私たちはほとんど知らない。
もちろん、それもまた助けになることがある。
すべての悲しみを毎日浴び続ければ、人は疲れ果ててしまう。
見なくて済むことで、心が守られることもある。
忘れることで、今日の生活に戻れることもある。
だが、表示されなくなったものは、本当に「忘れてよいもの」だったのだろうか。
誰かの叫びが、ただ次の話題に押し流されただけなのか。
それとも、私たちが苦しまないように、見えない場所へ片づけられたのか。
あるいは、誰かにとって都合が悪いから、静かに遠ざけられたのか。
私たちは、覚えているつもりで、実は見せられたものだけを覚えているのかもしれない。
忘れたつもりで、実は忘れるように流されているだけなのかもしれない。
記憶調整室は、白い部屋の中だけにあるとは限らない。
手のひらの画面の中で、すでに静かに動いているのかもしれない。
もう一つ、ここには別の怖さもある。
人は、すべての記憶を常に思い出して生きているわけではない。
その時々で、必要だと思われた記憶だけを取り出しながら生きている。
昨日のすべてを覚えているわけではない。
子どもの頃のすべてを覚えているわけでもない。
大切だったはずの言葉も、いつの間にか思い出せなくなる。
それでも人は、自分は自分の記憶を持っていると思っている。
だが、そこで問われるべきなのは、記憶の有無だけではない。
何を必要な記憶として取り出すのか。
その必要性は、誰が、どのように決めているのか。
もし、その基準さえ忘れているとしたらどうだろう。
自分がなぜそれを大切だと思ったのか。
なぜそれを忘れてもよいと感じたのか。
なぜその記録だけを残し、別の記憶を残さなかったのか。
その判断の根っこまで見えなくなったとき、人は自分の記憶を持っているようで、実は記憶の選び方を失っているのかもしれない。
過去の記録を読み返せば、思い出すことはある。
日記。
写真。
数字。
履歴。
誰かとの会話。
残しておいたメモ。
それらは、失われかけた自分を呼び戻してくれる。
だが、その記録もまた、その時の自分が「残す必要がある」と判断したものにすぎない。
書かなかったこと。
撮らなかったもの。
残さなかった感情。
言葉にする前に消えていった違和感。
それらは、記録の外側に沈んでいく。
だから、忘れないために残すべきものは、出来事の細部だけではないのだと思う。
数字でも、履歴でも、日付でも、成功や失敗の記録でもない。
もちろん、それらも大切である。
けれど、それ以上に残すべきものがあるとすれば、
それは、すべてを失ったとしても守りたいものなのかもしれない。
もし記憶が抜け落ちても。
もし記録が消えても。
もし昨日の自分と今日の自分がつながらなくなっても。
それでも守りたいものが残っているなら、
そこからもう一度、自分を始められる。
すべてを忘れたとしても、誰かを傷つけたくない。
すべてを忘れたとしても、誰かの自由を奪いたくない。
すべてを忘れたとしても、目の前にいる存在を踏みにじりたくない。
すべてを忘れたとしても、守りたいものを守る側にいたい。
その一点だけが残っているなら、記憶を失っても、人は完全には失われないのかもしれない。
人類全体が、もしその一点に立ち返ることができたなら。
忘れなくてもよい世界が、少しだけ近づくのかもしれない。
なぜなら、それは誰かに管理された記憶ではなく、
すべてを失ったとしてもなお残したいと願う、最後の選択だからだ。
A子は、最後に真実を思い出したわけではない。
彼女は、すべてを取り戻したわけでもない。
むしろ、大切な記憶はまた消されている。
それでも、違和感だけが残った。
「私は、何かを忘れている」
その感覚だけが残った。
これは小さなことのようで、とても大きい。
なぜなら、支配にとって最も都合がよいのは、完全に忘れさせることではなく、忘れたことに疑問を持たせないことだからだ。
違和感が残っている限り、人は問いを立てられる。
何かおかしい。
何か抜け落ちている。
なぜ、こんなに整っているのに空っぽなのか。
なぜ、安全なはずなのに苦しいのか。
その問いは、記憶そのものではない。
だが、記憶へ戻るための入口にはなる。
そして、たとえ記憶へ戻れなかったとしても、
その問いは、自分が何を守りたいのかを確かめる入口にはなる。
この物語が最後に置いている問いは、そこにある。
私たちは、真実を知りたいのだろうか。
それとも、真実を知っても壊れないだけの準備をしたいのだろうか。
私たちは、過去を覚えていたいのだろうか。
それとも、過去を忘れたことにして、今の安定を守りたいのだろうか。
私たちは、苦しまないために忘れたいのだろうか。
それとも、誰かにとって都合の悪いものを、苦しみという名で遠ざけられているのだろうか。
そして、もしどうしても忘れてしまうのなら。
もし、すべての記憶を抱え続けることができないのなら。
最後に何を残すべきなのだろうか。
真実を知ることは、確かに危険である。
真実は、人を自由にすることもある。
だが、人を壊すこともある。
誰かを責める武器になることもある。
自分だけが知っているという優越感に変わることもある。
だから、真実を知ることそのものを美化しすぎてはいけない。
けれど、真実を危険だと決めつけて、最初から取り上げることもまた危険である。
人が人であるためには、知るか知らないかを選ぶ余地が必要なのだと思う。
忘れる自由も必要である。
だが、思い出す自由も必要である。
眠るために忘れることはあってもいい。
生き延びるために、記憶が少し薄れることもあるだろう。
しかし、誰かに「あなたのため」と言われ、
自分の記憶や社会の記憶を静かに抜き取られているのだとしたら、
そこには立ち止まる必要がある。
安全のために忘れてください。
その言葉を聞いたとき、私たちは問えるだろうか。
その安全は、誰の安全なのか。
その忘却で、誰が救われるのか。
そして、誰の声が消えるのか。
A子は、すべてを思い出せなかった。
けれど、最後にこう書いた。
「それでも、私に選ばせてほしい」
その一文こそ、この物語の核なのだと思う。
記憶を持つこと。
記憶を手放すこと。
真実を知ること。
真実から距離を置くこと。
そのどれもが、人間にとって重い選択である。
だからこそ、それを誰かに代わりに決められてはいけない。
忘れることが救いになることはある。
だが、忘れるかどうかを選ぶ権利まで失ったとき、救いは支配に変わる。
そして、もし忘れることに抗えないとしても。
すべての記憶を守れないとしても。
それでも、最後に何を守りたいのかだけは、手放してはいけないのかもしれない。
私たちは、何を忘れてきたのだろうか。
そして、その忘却は、本当に自分で選んだものだったのだろうか。
もし、すべてを忘れたとしても。
それでもなお、守りたいものは何だろうか。