遠回りにも、意味はあるのかもしれない。失敗や気づきを、物語・歌・動画にしています。
自分の見ている世界は、本当にそのままの世界なのか。
他者の視点を借りれば、自分の誤りに気づけるのか。
そして、その「他者の視点」さえ、また別の脳が組み立てた世界にすぎないとしたら――。
認識の限界をめぐる小さな裏思考遊戯。
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A子は、静かな朝に目を覚ました。
窓の外では、かすかに鳥の声がしている。
カーテン越しの光はやわらかく、部屋の中には、昨日飲み残したマグカップと、開いたままのノートパソコンが置かれていた。
A子は、ブログを書いて生活していた。
収益は決して多くない。
それでも、メンタルヘルスや収益化の工夫、WordPressの使い方などを、少しずつ記事にしていくことが、彼女の日々を支えていた。
その日、A子が調べていたテーマは「自己認識の限界」だった。
脳の連合野。
そこは、視覚、聴覚、記憶、感情、言葉など、さまざまな情報を統合し、ひとつの「世界」として感じさせている場所だという。
画面に並ぶ説明を読みながら、A子はふと手を止めた。
「もし、この統合そのものが間違っていたら……?」
私たちは、自分の見たものを現実だと思っている。
自分の記憶を、過去に起きたことだと思っている。
自分の感情を、自分の本心だと思っている。
けれど、それらが脳の中で組み立てられた結果にすぎないのなら、
その組み立てが間違っていたとき、本人はどうやって気づくのだろうか。
A子には、その問いが他人事に思えなかった。
数年前、彼女は大きな事故に遭ったことがあった。
命に別状はなかったが、その前後の記憶はいくつか抜け落ちている。
あとから家族や知人に話を聞き、写真や記録を見て、
「たぶん、こうだったのだろう」と自分の過去をつなぎ直した。
けれど、そのつなぎ直した記憶が、どこまで本当なのかは分からない。
もしかすると、自分の脳は、抜け落ちた空白を埋めるために、
都合のよい物語を作っているだけかもしれない。
A子は、その不安を記事にすることにした。
記事の中で、彼女はこう問いかけた。
「もし、あなたの脳が、実際には存在しない記憶を“自然な過去”として作り出していたとしたら、それに気づく方法はあるのでしょうか?」
公開すると、思いのほか多くのコメントが寄せられた。
「怖いけれど、たしかに考えたことがあります」
「記憶は信用できないと聞いたことがあります」
「自分の思い込みに気づくのは難しいですよね」
その中に、A子の目を引くコメントがあった。
「自分の認識が間違っているかどうかに気づくには、外部の視点が必要だと思います。他者との対話によって、自分の世界が絶対ではないと分かるのではないでしょうか」
A子は、深くうなずいた。
そうか。
自分一人の中で考えているから、閉じてしまうのだ。
自分の脳が作った世界を、自分の脳だけで点検しようとしても、限界がある。
だから、他者の視点が必要になる。
それは、A子自身への課題でもあった。
彼女は、長いあいだ人との関わりを避けてきた。
傷つくのも、誤解されるのも、面倒なやり取りに巻き込まれるのも嫌だった。
だから、ブログを書きながらも、どこかで読者を「画面の向こうの存在」として扱っていた。
けれど、コメント欄に並ぶ言葉を見ているうちに、A子は思った。
自分の認識を疑うためには、
自分以外の誰かの声が必要なのかもしれない。
数週間後、A子は新しい記事を公開した。
タイトルは「他者の視点で見る自分」。
その記事で、A子は読者にこう呼びかけた。
「自分の見ている世界は、必ずしも正しいとは限りません。だからこそ、他者の視点を借りることで、自分の認識の偏りに気づけることがあります」
記事の最後には、こう書いた。
「あなたの世界観は、本当に正しいと信じられますか?
他者の視点を借りることで、自分自身の認識の限界に気づけるかもしれません」
A子は、その記事に手応えを感じていた。
ようやく、閉じた自分の世界から一歩外に出られた気がした。
自分だけの脳で考えるのではなく、他者の視点も取り入れる。
それは、とても健全なことのように思えた。
しかし、その夜。
A子は、ひとつのコメントを読んで、息を止めた。
「他者の視点もまた、その人の脳が組み立てた世界にすぎないのではないでしょうか。
自分の認識が間違っている可能性があるなら、他者の認識も同じように間違っている可能性があります」
A子は、しばらく画面を見つめたまま動けなかった。
たしかに、そうだ。
他者の視点は、自分の外側にある。
けれど、それが「正しい」とは限らない。
相手もまた、自分の経験、記憶、感情、思い込みを通して世界を見ている。
つまり、他者の視点とは、
別の人間の連合野が組み立てた、もうひとつの世界にすぎない。
自分の世界が歪んでいるかもしれないから、他者を見る。
しかし、その他者の世界も歪んでいるかもしれない。
では、何を信じればいいのか。
A子は、次の記事の下書きを開いた。
けれど、指はなかなか動かなかった。
「自分を疑うために、他者を見る。
でも、他者を疑うためには、また別の他者が必要になる。
その別の他者も、やはり完全ではない」
そう考えるほど、世界はどんどん確かな輪郭を失っていった。
それでも、A子は書き始めた。
「他者の視点は、自分の認識を広げてくれる。
けれど、その視点もまた、絶対ではありません。
大切なのは、誰かの見方をそのまま正解にすることではなく、複数の不完全な視点を並べながら、自分の認識がどのように作られているのかを見つめ直すことなのかもしれません」
そこまで書いて、A子は手を止めた。
完璧な視点など、どこにもない。
自分も、他者も、世界そのものを直接見ているわけではない。
それぞれの脳が組み立てた世界を、互いに持ち寄っているだけなのだ。
だからこそ、会話は必要なのかもしれない。
正しい答えを得るためではない。
自分の世界が、ひとつの組み立てにすぎないと忘れないために。
A子は、記事の最後にこう書いた。
「あなたが今、正しいと思っている世界は、本当に世界そのものなのでしょうか。
それとも、あなたの脳が、あなたのために組み立てた物語なのでしょうか」
投稿ボタンを押したあと、A子は窓の外を見た。
鳥の声が聞こえる。
朝にも聞こえた、あの声だ。
けれど、それが本当に朝と同じ鳥の声なのか。
それとも、自分の脳が「同じような朝」としてまとめただけなのか。
A子には、もう分からなかった。
ただ、その分からなさの中で、
世界は少しだけ、以前よりも静かに広がって見えた。
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ここで、この話の裏側を言う。
自分の認識は、思っているほど確かなものではない。
記憶も、感情も、判断も、私たちは「そのまま受け取っている」つもりでいる。
けれど実際には、脳の中でさまざまな情報が統合され、意味づけされ、ひとつの世界として立ち上がっている。
だから、自分の見方が偏っている可能性は常にある。
その偏りに気づくために、他者の視点は大切だ。
自分一人では見えなかったものが、誰かの言葉によって見えるようになることはある。
しかし、ここにもねじれがある。
他者の視点もまた、完全な正解ではない。
その人の経験、その人の記憶、その人の傷、その人の願望によって組み立てられた、もうひとつの認識にすぎない。
つまり、私たちは
不完全な自分の視点を、不完全な他者の視点によって揺さぶりながら生きている
と言えるのかもしれない。
それは心もとない。
けれど、だからこそ対話には意味がある。
正解を受け取るためではなく、
自分の正しさを少しだけ疑うために。
裏の問いは一つ
では、私たちが「現実」と呼んでいるものは、どこまでが世界そのもので、どこからが脳の組み立てなのだろうか。
そして、その問いを考えているこの瞬間の自分の認識さえ、
すでに何かを取り違えている可能性はないのだろうか。