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鈴鹿山系
私の住む芸濃町は鈴鹿山脈の南端と布引山系の北端が出会う辺りに位置します。両山系の境を縫うようにして奈良へと続く大和街道や、関宿から鈴鹿峠を経て土山へ抜ける東海道、布引山系の北端を津から上野に至る伊賀街道などの有名な歴史的街道が近くを走ります。
入道ヶ岳より見た鈴鹿山脈中部。水沢峠より鎌ヶ岳に至る山脈稜線は花崗岩の露頭で形成され峻険で荒々しい。
宮指路岳より南に伸びる鈴鹿山脈南部稜線も険しい。中央仙ヶ岳より左は仙鶏尾根から野登山に至る。
鈴鹿連山は街道を遮るように三重の西部を南北に走り、伊勢湾に面した伊勢平野上に発達した市町村にとっては冬に大陸から吹きつける寒気を遮ってくれる巨大な衝立の役割を果たしてくれますが、同時に山腹を吹き降ろす風が鈴鹿おろしと呼ばれる乾いた北西風となって冬の寒さを運んできます。
鈴鹿山脈の形成
この巨大な衝立は、今から百八十万年前以降(第四紀)に入ってから急速に隆起したもので、この急速な隆起の痕跡は鎌ヶ岳南方の鎌尾根から仙ガ岳に至る県境尾根などに荒々しい形で見られます。
鈴鹿山系は北端の霊仙山に始まって御池岳、藤原岳、竜ヶ岳、御在所岳、鎌ヶ岳、水沢岳、仙ヶ岳へと続き、鈴鹿峠を越えて高畑山から那須ガ原山の当たりで一気に山容を減じて、その南を走る大和街道(現在の名阪国道)を境に布引山系へと移行します。
鈴鹿山脈北部。山脈中の最高峰御池岳1247mがある。基盤岩は古生代から中生代に誕生した古い起源のものが多い。
隆起を引き起こした地殻内部の応力は、太平洋側に沈み込んでいる海洋プレート(フィリピン海プレートと太平洋プレート)による圧縮力に加えて、それまで拡大を続けていた日本海の構造運動が圧縮に転じたことに求められるとのことです。 (「日本列島の誕生」平 朝彦)
鈴鹿山脈中部。鈴鹿の山の中でも特に人気のある御在所岳1210m、鋭鋒鎌ヶ岳1161mがある。竜ヶ岳以南の山脈稜線は白亜紀後期に貫入してきた花崗岩が露出している。
一志断層系
この応力によって生じた巨大な断層群は、養老山地北部の関ヶ原辺りから山脈の東縁にそって伊勢市に至る全長100km余の一志断層系や、山地の西に走る近江・伊賀断層系等として現れており、現在でもその一部は活断層です。
鈴鹿山脈はこの東縁の逆断層帯にそって隆起したため東部に急峻な地形となり、西側滋賀県側ではなだらかな傾斜となって琵琶湖東岸の平地へと続いています。
(「中部地方南部の古地理」吉田史郎他)
鈴鹿山脈南部。稜線は鈴鹿峠を横断して高畑山から那須ガ原山に続き名阪国道を挟んで布引山地に移行します。
鈴鹿山脈の地質
鈴鹿山脈は、基本的に領家帯と呼ばれる地体区分に属し、日本の母体が未だアジア大陸東縁部(南中国地塊の大陸東縁辺)にあった古生代初頭以降、海洋底の沈み込みに伴う基板岩の付加作用を受けて形成された幾多の付加体を貫いて白亜紀後期に地下深部で大量に形成された白亜紀花崗岩と、それにより高温低圧の接触変成作用を被った領家変成岩と呼ばれる領域からなります。
花崗岩によって変成を受けた元岩は、古生代石炭紀から中生代ジュラ紀にかけて、日本から遙か彼方の南の海底に堆積した地層や海底火山が造った玄武岩及び海溝堆積物などです。
これらの岩は古代の海洋プレート(イザナギプレート他)に乗って数千万年の時をかけてアジア大陸東縁の海溝に達し、地殻に潜りこむ際それらの一部が大陸側プレートとして取り残されたもので、付加体と呼ばれています。
(「日本列島の誕生」平 朝彦)
元岩が付加された当時はその位置も今の日本よりは遥か南にあったとのことでトリアス紀に南中国地塊と北中国地塊の衝突が起きた頃、南中国地塊とともに北上して中緯度まで移動してきたと考えられています。
(地学雑誌119-6 「日本列島地体構造区分再訪 磯崎行雄, 丸山 茂徳他」に詳しい)
最近までは、現在の日本列島を構成する基盤岩の多くが付加体とよばれるこのような特異な歴史をもつ岩石で構成されていると考えられていました。
しかし地質探査の進歩に伴い地殻下部の構成が明らかになるにつれて、付加体が存在するのはむしろ地殻表層部のみで、その下層はマグマ起源の深成岩で厚く覆われている様子が明らかになって来ました。
殊に鈴鹿山脈が属する領家帯では付加体の存在はごく薄い地表表層部のみで地下の母岩は地殻深部で形成された白亜紀花崗岩で占められている様ですが、かろうじて表層に残された付加体も多くは花崗岩による高温の熱変成を受けています。
東雨乞岳より見た鈴鹿山脈北部。前面イブネ、クラシの背後に遠く霊仙、御池岳、藤原岳、竜ヶ岳などが連なる。これらの山々は古生代、中生代に形成された岩体が山頂部を覆い、東部の稜線に連なる山々に比べて頂きが平坦だ。日本海拡大期に鈴鹿山脈の一帯は完全に水没した時期があり、雨乞・イブネ・クラシ・御池などの平坦でほぼ似たような標高を持つ山頂部は海成段丘ではないかと思える
花崗岩は深成岩ですから通常は地下の深部で形成されたもので当然貫入している古生代中生代の付加体共々、当時は地下深部に存在したわけですが、その後時間を掛けて現在あるような地表にまで上昇しました。
更に3000万年前頃からアジア東縁に地下深部より大量のマグマが湧昇し日本列島の基盤岩は、このマグマによって引き裂かれ、マグマの拡大と共に展張されて移動して1500万年前頃にほぼ現在の日本列島の位置に落ち着いたと云われます。
(地学雑誌119-6 「日本海の拡大と構造線 柳井修一他」に詳しい)
この時のマグマの広がりは日本海の海洋底となり、日本を大陸から大きく切り離しましたが、その後も伊豆・小笠原海嶺の衝突など様々な地殻の構造運動の結果現在の姿に至っています。
鈴鹿山脈の隆起
鈴鹿山脈の母体は日本海の拡大が終わり日本列島の母体が現在位置に姿を表した1400万年前ころには既に隆起していましたが、その高さは余り高くなかったようです。
このことは、現在600m程の海抜がある名阪国道や東海道の一部、あるいは900m海抜の仙ヶ岳北部の山脈稜線上に2200万年~1500万年前(日本海拡大時期)の堆積岩(鈴鹿層群等)が残っており、日本海の拡大が終了する頃迄は、山脈の一部は未だ海底であったことから推測されるものです。
関ドライブインの南にある石山観音には、この当時に堆積した砂岩層の山に刻まれた多数の磨崖仏がある。山全体に複雑な葉理がみられ波打ち際での堆積層とみられる。西の姫谷では淡水性の貝化石が出ている
また当時は鈴鹿山脈や布引山地の表層には三畳紀からジュラ紀にかけての付加体が広く分布していたと思われます。
私の家から2km程西の茨谷には砂利の採石場があるのですが、ここには西行谷累層や萩原礫岩層と呼ばれる礫を主体とした500万年前以後の堆積層が100m以上の層厚で見られます。
これらの礫層は、当時現在の津市から鈴鹿市の一体にかけて広がり始めていた東海湖の湖岸に流入する河川により西方の山地からもたらされた礫を主体とする砕屑物が堆積したものです。
鈴鹿山脈東縁部を覆う礫層は嘗て数百万年に渡って鈴鹿西部の広範な山域から様々な砕屑物を堆積させた。
西行谷累層の露頭。南北に走る地層面は東に45°程傾斜しており、この一帯でも100m程の層厚が確認できる。その下層部では萩原礫岩層の礫岩塊が見られる。
砂利や礫の元岩には多数のチャートが含まれているが、現在はチャートを含む基盤岩は野州川ダム周辺部や猪の鼻ヶ岳南部で僅かに露頭が見られるだけだ。
この礫を調べてみますと、現在では侵食されてしまって周辺の山々からは殆ど見かけることができない、チャートや多色頁岩等付加体由来の石が極めて多く見られるのです。すなわち当時は未だこの礫の母岩となった付加体が西部の山々を厚く覆っており現在露出している花崗岩類は余り表層に存在しなかったと想像されます。
現在西方の錫杖ヶ岳の一帯に広く存在する領家帯の黒色系深成岩はあまり礫中に見られない
何故なら、現在この地域の西方(錫杖ヶ岳周辺)には閃緑岩やハンレイ岩といった塩基性の黒色系深成岩が表層に広く分布し安濃川や中ノ川の転石にもこれらの岩石が多く見られるのですが、礫層で塩基性岩を見る割合は小さく当時は未だ地表に現れていなかったと思われるのです。
地層下部には火山灰を多く含む礫層があり凝灰岩から土石流堆積物まで見ることが出来る。
また礫層の下部には中新世後期の火山活動(瀬戸内火山活動)によってもたらされたと想像される凝灰岩を多く含む層が幾つも存在しますが、これらの元岩をもたらした地層も今ではこの周囲に見られません。
現在でもこの時代の火山活動の跡が見られるのは、名張市西部から奈良県にかけての室生火山岩類と呼ばれる一帯で大規模な噴火により流出した火砕流堆積層が地表を覆っています。
室生火山の火口は現在の大台ケ原の北部に在ったと見られ、地質図を見ますと同時期の火山岩の貫入岩脈が当時のマグマ溜まりの周辺を取り巻くように存在しています。
この火山は極めて巨大で、火口から20km以上離れた室生地区に現在でも500m近い層厚の火山砕屑岩を堆積させたことから見ても、当時その辺り一帯に降り注いだ火山砕屑物は地表を数km近い厚みで覆っていただろうと思われます。
今では侵食されて見られませんが、当然それ以外の地域にもこの火山の影響は及び、その活動期には紀伊半島の中南部一帯に夥しい量の火砕流を降り注いだことでしょう。
この火砕流堆積物がその後何百万年もの間雨風に侵食され河川の水流に運ばれて礫と共に布引山脈一帯に堆積したものの一部が地表に顔を出し現在見ることが出来るのです。
火山岩礫は現在琵琶湖東岸に分布する湖東流紋岩類よりもたらされたと見られており花崗斑岩や溶結凝灰岩その他火山活動に伴う脈岩や噴出岩、土石流堆積物から降灰による凝灰岩まで実に様々な火山岩が存在します。
この湖東流紋岩類は鈴鹿山脈を構成する領家花崗岩が活動した白亜紀後期から新生代初頭の始新世辺りにかけて形成された珪長質の火山岩で現在も、鈴鹿山脈北部や琵琶湖東岸の彦根から近江八幡の周囲に広く分布するものです。
礫は河川の水流によって砕屑されここまで運ばれた訳ですから、その頃はまだ鈴鹿山脈や布引山地の隆起もわずかで、河川の水系は東海湖岸から現在の鈴鹿山脈や布引山脈の分水嶺を越え伊賀盆地や近江盆地の彼方から湖東流紋岩類の珪長質岩を運んできたことになります。
従って堆積当時の水系の分水嶺は、現在よりも遥か西方の古琵琶湖周辺かあるいはそれよりも更に北方に広がっていたと考えられ、当時の河川の規模は現在の地形で想像するよりも遥かに長大なもので在ったようです。最も湖東流紋岩類の広がりも今よりはもっと広範囲に地表露出していたと思われますから堆積当時はまだごく近くに湖東流紋岩が存在していたのかもしれません。
500万年以前には未だ鈴鹿や布引の山地の隆起は僅かでその背後の地域より伊勢湾側に河川が流入していた
このような礫層の堆積は、津市西部から四日市西部にかけての鈴鹿山脈東縁で広汎に見られる現象で、礫層だけでも数百mの層厚をなしており、当時の河川に寄って夥しい量の砕屑物が東海湖岸に運ばれていたことが想像されます。
(日本海拡大以降の鈴鹿周辺の古地理については主に吉田史朗氏の「瀬戸内区の発達史」によります)
この当時この辺りの気候は暖かで、当時の地層からは熱帯系の様々な生物の化石が見つかっており我が家の直ぐ前の中ノ川の侵蝕崖の上からも、大正期には日本初となる三重象(Stegodon miensis)の化石が見つかっています。
日本海の拡大が収束し太平洋側のプレート構造の変化に伴つて西南日本には強い圧縮応力が働くようになり第四紀以降の数十万年の間に日本各地で山脈が急激に隆起します。
鈴鹿山脈もこの圧縮力により、山脈東縁の断層にそって隆起し、竜ヶ岳から那須ヶ原山にかけての中南部主稜線周囲には白亜期花崗岩(領家花崗岩)が露出するようになりました。
鈴鹿山脈東縁では花崗岩が断層にそって隆起を続けたため、花崗岩の特質となる冷却摂理や剪断摂理の発達と風化侵食によって竜ヶ岳から御在所岳、仙ガ岳にかけての主稜線周囲は荒々しく変化に飛んだ岩相の山が多く見られるのも鈴鹿の山の魅力を形成する一要素となっています。
山脈の隆起に伴い白亜期花崗岩の上位に存在した古中生代の付加体の大半は風化侵食によって失われてしまい、河川によって周囲の低地に運ばれた砕屑物の堆積が伊勢平野(東海湖)や近江盆地の地盤を形成して行ったのです。
しかし付加体下部への領家花崗岩の貫入が浅かった山脈北西部や入道ヶ岳周辺の山々では、地殻の上層を形成していた更に起源の古い付加体が現在でも表層に残され、雨乞岳・イフネ・クラシ・御池岳等のように比較的起伏のなだらかなゆったりとした山容の山々を形成しています。
三重北部の員弁川は藤原岳や御池岳・三國岳など鈴鹿山脈最北部の谷を源流とし、谷からもたらされた古生代・中生代起源の転石が多い
付加体はその創造過程より一般的には海溝から遠ざかるほど古い起源のものが存在しますが、鈴鹿山脈北部でも裏日本に近づくほどに年代が古くなり、霊仙から三国岳、御池岳、藤原岳の一帯は古生代石炭紀、ペルム紀から中生代三畳紀、ジュラ紀にかけて太古の海洋底で形成された様々な種類の岩石を見ることができます。
例えば霊仙や高室山や藤原岳周囲には、曾ては赤道周辺の海洋に浮かぶサンゴ礁の島を起源とする石灰岩が山麓を覆う山が多く存在します。
鈴鹿山脈北端の霊仙山の山頂周辺には石灰岩のカルスト地形が広がる。サンゴ礁起源の石灰岩は変成を被っていないものも多く明瞭な化石を含むものが結構見つかる。
山脈中部の野登山山麓にも石灰鉱山がある。屏風岩のある北の谷、小岐須渓谷も石灰岩が多く、屏風岩は谷が石灰岩体をU字形に侵食して生み出した。谷の転石にも白色の石灰岩(多くは結晶化した大理石)が多い。
また先の地質図より分かるように、三国岳や大君ヶ畑の周囲は、石炭紀から三畳紀にかけて深海底に堆積した放散虫の殻を起源とするチャートを主体とした付加体で覆われています。
どちらも二億年以上も前に、遙か南の海洋に生息していた生物の遺骸が海底に堆積し、海洋プレートに乗ってアジアの東縁にまで運ばれたもので、地球の歴史の不思議を感じずにはいられません。
山道や沢を辿りながら、周囲に露出している岩や足元の石を眺めては、その山が造られた遙かな時と信じられないような大地の歴史を思うと、壮大なの広がりを持つ自然の営みに只々感動するばかりです。
現在地質学(地球物理学)の分野では日本の研究者は最先端の位置に立っています。プレートテクトニクスの登場以来、日本列島の形成史はコペルニクス的大転換を遂げ、現在でも日を追うごとに新しい発見が付け加わる状態です。
ネットの世界でもこの分野の様々な専門誌の閲覧が可能ですが、地学雑誌の2010~2011年にかけての三冊に及ぶ特集号「日本列島形成史と次世代パラダイム」は、現時点における日本地質学の到達点が総括されており私のような一般人にとっても大変興味深く楽しいものですから、この分野に興味をもたれる方は一読をお勧めします。
三重県の最高峰
三重県内の山は高いものでも1700m迄、最高峰が大台山系の日出ヶ岳(1695m)です。県内で1200mを超える山は、鈴鹿山脈の御在所岳(1212m)を除けば全て中央構造線の南側、奈良県との県境に位置する台高山脈に含まれ、宮川や櫛田川、熊野川の上流部の水圏を形成しています。
紀伊山地を形成する台高山脈とその西の大峰山脈。此方は更に高く1800mを越える山が幾つもある。どちらも第四紀に入ってからフィリピン海プレートとその下に潜り込む太平洋プレートの潜り込みによる圧縮応力によって隆起した。 by google map
三重県と奈良県の県境を走る台高山脈(大台ヶ原山地)は県内では最も奥深い山々で、道路が未整備であった頃には殆ど秘境とも言える世界でした。
飯高町の高見山地に始まって国見山、明神平、池木屋山、大台ヶ原を経て熊野市に至る山脈稜線は40km以上に亘って1000m~1600mを越える山稜が延々と連なります。
三重県の最高峰 日出ヶ岳(1695m)は、現在は奈良県側から麓まで舗装路がありますが、三重県側から大杉谷経由で山頂に立とうとすれば現在でも大変なルートでしょう。
中央構造線
中央構造線以南(外帯)のこれらの山々は、中央構造線以北(内帯)の鈴鹿や布引の山々(領家変成帯)とは全く異質の地質帯に属しています。
中央構造線を挟んだ断層の食い違いはあまりにも大きく、断層の形成過程やそのズレや破削幅も良くわかっていませんでした。
そのためこの断層は、現在アジア大陸を南北に縦断する多数の巨大断層群と共通の大断層であり、曾て日本列島がアジア大陸東辺に存在した頃、一億数千万年に及ぶ海洋プレートの沈み込みに伴う剪断応力によって造られた横ずれ断層と見做して南北方向のズレ幅が1000km以上にも及ぶとの考え方もあります。
しかし近年の研究では、断層が縦断層ではなく低角度の衝上断層であることからこの様な考え方を否定し、日本海拡大時に移動した大陸地殻の収束境界として機能したとみられ中央構造線を挟む南北方向の構造浸食量が約150kmに達したとの研究がなされています。
(前掲の地学雑誌特集号各巻参照)
中央構造線は三重県下では高見山南部をかすめ粥見で櫛田川を横断、宮川を経て鳥羽市へ抜けています。高見山と三峰山の間にある飯高町月出地区には中央構造線の大規模な露頭が知られており、月出露頭として現在国の天然記念物に指定されています。
また中央構造線以南の地域(外帯)は四万十帯に代表される付加体そのものの地層であり、南の海底では現在も南海トラフによって創造される新たな付加体が付け加えられています。
海溝の沈み込み帯においては、付加体が作られるよりも日本海溝の様に陸側の大地が削り取られ海側プレートによって浸食される構造浸食作用がむしろ一般的だということですから、付加体形成が間近に見られるこの地域は自然が残してくれた素晴らしい遺産とも言えます。
産総研 20万分の1日本シームレス地質図より加工。中央構造線以南の付加体の層構造がはっきりと見て取れる。
上の地質図を見れば東は駒ケ岳から恵那山、鈴鹿山脈、布引山地、淡路島の北部から瀬戸内海周辺に至る白亜紀の領家花崗岩類とよばれる地質帯と中央構造線以南の三波川変成岩類や四万十帯等では質の違う地質帯であることが分かります。
中央構造線は大鹿村中央構造線博物館のHPに詳しい。http://www.osk.janis.or.jp/~mtl-muse/index.htm
その形成については(地学雑誌119-6 「日本海の拡大と構造線 柳井修一他」に詳しい)
これらの付加体は、元々はアジア大陸東縁、現在の朝鮮半島からウスリー、シホテリアン山脈にかけての辺りで形成されたもので、その当時は現在日本列島が存在する辺りは深い海洋底でした。
更に古くにはアジア大陸東部自体、北中国地塊と南中国地塊に別れており、二億三千年前の三畳紀に両地塊が衝突して中国大陸となるのですが、日本にも両地塊の痕跡を留める地質帯が存在しいます。
現在私達がなんとも思わずに暮らしているこの大地も、太古の歴史をたどると実は東西南北あらゆる地域からごちゃごちゃに寄り集まった地殻断片のはきだめのような場所である訳です。
その後3000万年前頃から、これらの付加体の深部から大規模なプルーム(マントル深部からのマントル対流)の湧昇がおこり、減圧融解で造られた玄武質マグマが地殻を引き裂き、地殻表面に湧出したマグマは現在の日本海の海洋底を創造しました。
中央構造線は日本海溝と南海トラフ共に、日本海拡大に伴い発生した海洋地殻の増分をキャンセルさせるための収束境界として機能したと見られます。
当時アジア大陸縁辺部にあった日本列島はその玄武岩マグマに押し広げられる形で、現在の位置まで移動しました。またその一部は日本中央部を半分に引き裂いてフォッサマグナを形成したと云うことです。
( RikaTan 2011.1月号 『マグマの生成と多様性のしくみ』 椚座 圭太郎)
先にも述べましたが、鈴鹿山脈の大規模な隆起はこれら日本海の拡大運動が完全に収束した百八十万年前以降で、ユーラシアプレートとフィリピン海プレートの移動に伴う圧縮力が一気に高まって山脈を急激に押し上げる逆断層を形成したものです。
逆断層の東縁が鈴鹿山脈の東麓であり、鈴鹿山脈の伊勢湾側が急峻なのは正にこの逆断層崖にそって山脈が隆起したからです。
また山脈の隆起が始まったころは、フィリピン海プレートに乗って移動してきた海底火山群が現在の富士山あたりに追突して伊豆半島を形成する時期でもあり、追突によって生じた圧縮力の影響下にもあったわけです。
これら日本列島形成の歴史を見ていますと、たかだか数千年長く見積もっても数万年の歴史しか持たない人間の文化や文明と云うものがいかに小さく思い上がったものであるかをつくづく思い知らされます。
山歩きのこと
私の子供の頃は、まだ自家用車など持っている家は殆どありませんでしたから、近くの山に登りたくてもまず山の麓までたどり着くのが大仕事で、バスや鉄道がうまく利用できなければ麓に行くことさえ困難なものでした。
戦後間もない五十数年前に、休日になれば車を運転して県下の様々な山に気軽に登りに行けることを果たしてどれだけの方が思いえたでしょうか。少なくとも我が家のような貧乏家庭にとっては正直想像することさえ困難でありました。
それが何時しか高度成長を経て、車で一時間も走れば大抵の山の麓に立つことが可能になりました。幼時を考えると誠に夢のような話で、 車を持った頃は私も若く、宮川や櫛田川の上流部迄も出かけたりしたものですが、単独行も多く、今にして思えば非常時の対策も無視した大変危険率の高い山行きであったかと冷や汗モノです。
私の住む町は、鈴鹿山脈と布引山地の間隙を縫う大和街道の延長線上に在り、関を始点とする伊勢別街道が町の真ん中を貫通しています。
このため我が家から西へ十数分も車で走れば布引山系の東端とも言える錫杖ヶ岳の登山口に着きますし、一号線沿いに走れば同程度の時間で旧東海道の鈴鹿峠へ行くことができます。
このため現在では気の向いた折に出かけても楽に日帰りの出来る、すぐ近くの鈴鹿の山に赴いては山歩きを楽しむようにしています。
この様な事を思うと現在は真に便利なありがたい世の中となったものですが、逆に山腹に無理やり道を開かれ、多くの人間に押し寄せられるようになった山にしてみればそれこそ迷惑至極な話でしょう。
日出ヶ岳などその悲惨な例で、貴重な原生林の真ん中に無思慮な人間共によって愚劣な道路を切り開かれ、森林破壊は広がる一方です。
こんなことを考えると、したり顔で山の楽しみを書くべきではないのかも知れませんが、退屈しのぎの書き物癖抑えがたく、家族に残すつもりで身近な山歩きの記録などを作ってみようと思うようになりました。
登山道の地図を付けてありますが、コースが常に正確であるとの保証は有りません。あくまでも参考と考えてください。