鈴鹿山脈とその周辺の地質
山脈が造られた歴史を考える前に、現在鈴鹿の山々とその周辺地域の地質を見てみます。この国の地質については、地質調査所(産総研地質調査総合センター)による五万分の一地質図幅が最も詳しい資料で、一部未だ未完の地区を除いて各地域ごとに五万分の一地質図幅が作られています。
ただし、地域によって作成年代に大きな隔たりが生じていますので、現在の地学的認識とは離れた記述の見られる場合も生じますが、これは致し方ないことです。
五万分の1地質図幅 亀山 ( 産業技術総合研究所 地質調査総合センターより )
各地域の地質図幅には地質図だけでなく、地質図作成の基礎となった各地域の地質に関する詳細な記述が付けられており、地質を学ぶ良いテキストとなります。
もう少し簡便なものには、ネットでの閲覧を前提に20万分の1地質図幅を元にして作られたシームレス地質図があります。シームレス地質図や各尺度の地質図は、地質調査総合センターのホームページで公開されていて簡単に閲覧することができます。
鈴鹿山脈とその周辺部については、すべての五万分の一地質図幅が刊行されており、彦根西部・御在所山・亀山の地質図幅でほぼ鈴鹿山脈を含む部分がカバーできます。
これらの地質図幅によって、鈴鹿山脈の表層地殻を分類しますと、大きく分けて次の5種類に区分することができます。
1.新期領家花崗岩類(鈴鹿花崗岩類)
2.白亜紀火山岩類
3.ジュラ紀付加体(美濃丹波帯)
4.新生代中期・中新世堆積層
5.新生代後期・中新世後期以降の堆積層
これらを少し詳しく見てゆきますと、以下のようになります。
1.新期領家花崗岩類(鈴鹿花崗岩類)
最初は竜ヶ岳から鈴鹿山脈南部一帯の山脈主稜線を形作る鈴鹿花崗岩と呼ばれる新期領家花崗岩類です。これは白亜紀後期100Ma~65Ma(一億年~6500万年前)に生じた大規模な火山活動(都城造山運動)によるマグマが地下深くで固まったものです。
その後の地殻の構造運動で花崗岩体は地表まで押し上げられて地上に露出するようになります。少なくとも今から1600万年前頃には、現在の鈴鹿花崗岩の一部は地殻表層に存在したことが、のちに述べる稜線上の礫堆積層の存在からはっきりと分かります。
現在は花崗岩体が未だ表層に存在しない鈴鹿山脈の北部や西部に於いても、表層を覆う古期付加体の下部には鈴鹿花崗岩が分布しているものと見られます。
三重県と滋賀県の県境に位置し、油日岳から仙ヶ岳・御在所山・釈迦ヶ岳・竜ヶ岳を経て藤原岳に至る鈴鹿山脈東部の主稜線部が急激に隆起を始め、現在在る様な鈴鹿山脈の姿になったのは、今から100万年以降のことだと言われますが、正確なところは未だよく分かっていません。
御在所山藤内小屋より見た北谷南面の岩稜。花崗岩壁は絶えず隆起と削除を繰り返し、奇岩の連なる岩場と切り立った岩壁を形成した。表層侵食による山の崩落も急速で、北谷は巨大な花崗岩の転石で埋まっている。
地殻の表層に鈴鹿花崗岩が分布するのは、竜ヶ岳から鈴鹿山脈南部の山脈主稜線沿いの一帯で、その固結年代はほぼ80Ma、一部に95Maのものが見られるそうです。マグマ固結深度は詳しくは分かりませんが数km程度と考えられます。
花崗岩は深成岩とのイメージで見ると浅い固結深度ですが、これは同時期に地表に噴出した湖東流紋岩類の火砕流岩(溶結凝灰岩)と、地質的にその下位に位置する美濃丹波帯を挟んで水平隔離距離が僅かに3km程度しか離れていないことからも言えることです。
御在所山以北の花崗岩帯に大きな結晶を持つものが多い。巨晶を含むペグマタイト脈も方々に見られる。
湯の山から朝明川上流部や石榑峠の周辺には鈴鹿花崗岩の最深部層が露出しており、御在所山北谷や朝明渓谷の登山道の周辺では非常に大きな斑晶を持った花崗岩を見ることが出来ます。
鈴鹿花崗岩は一般的に南部に行くに従って苦鉄質分が増加する傾向にあり、名称も花崗岩から花崗閃緑岩、閃緑岩へと変わってゆく。鈴鹿峠以南では斑レイ岩脈も現れる。
一方、鈴鹿山脈南部から布引山地に至ると、同時期の新期領家花崗岩でも苦鉄質分が増加して閃緑岩やトーナル岩といった黒色系の深成岩が多く見られ、鈴鹿峠東部の雨引山や布引山地北端の安濃川上流部一帯では、斑レイ岩や輝岩等の苦鉄質深成岩脈まで見ることが出来ます。
これら苦鉄質岩の原岩は、嘗ての地殻深部を形成していた玄武岩質岩や斑レイ岩などの苦鉄質岩と思われますが一体どのような経緯を経てこの地表にもたらされたのでしょう。
地学雑誌119(6) 2010 「日本列島の大陸地殻は成長したのか」に依りますと、四国から山陰にかけての地質断面では中央構造線以北の西南日本では大陸地殻下部に厚い塩基性地殻が観測されるとあります。
領家花崗岩が形成された1億年近く前にもそうであったと考えるなら、領家帯の形成に合わせて、大陸地殻の最深部からもたらされた訳で、高圧変成帯の上昇とともに大いに興味をそそられる問題だと思います。
安濃川上流の谷では苦鉄質深成岩の転石が多い。中には斑レイ岩・ノーライト・角閃石岩なども交じる。
鈴鹿山脈の主部を形づくる鈴鹿花崗岩は後述する湖東コールドロンの母体となった巨大花崗岩マグマの一部と考えられており、地下の深部では鈴鹿山脈から琵琶湖対岸に至るコールドロンの広大なエリア全体に同時期の花崗岩が分布する可能性もあります。
深成岩と火山岩(火山堆積物を含む)の分布。鈴鹿花崗岩は湖東地区にカルデラを生んだ巨大火山のマグマを形づくっていた。
一方、松阪以西の布引山地には1億2000万~9000万年前の固結年代を持つ古期領家花崗岩が存在し、古期領家花崗岩は笠取山周辺に広範に分布する領家変成帯の熱源とみなされています。
古期領家花崗岩による広域変成を受けた砂泥質変成岩(中央)に左右から貫入する新期領家花崗岩(加太花崗閃緑岩)
領家変成帯の分布域は十数キロ四方に及び、これは鈴鹿花崗岩が、主に局所的な接触変成岩の熱源として作用した鈴鹿山脈中南部の新期領家花崗岩とは貫入時期だけでなく、その貫入状況にも何らかの差があったことを意味します。
また三重県南部では、現在櫛田川沿いに走る中央構造線を挟んで、白亜紀当時火山フロントに存在した領家花崗岩類と、そこから海溝側の地殻深部に150km以上離れて存在していたはずの低温高圧型の三波川変成岩類が境を接しています。
このことから、当時から今日に至る間に、中央構造線部分に於いて南北幅150km以上の地殻が消失したと考えられ、 (地学雑誌 Vol119(2010) No.6 p11109-1124 柳井修一他「日本海の拡大と構造線」) 削剥が生じた20~15Maの時期には中央構造線周辺に大規模な山地形成と砕屑物を排出した河川の形成が行われたもの見られます。
2.白亜紀火山岩類
次は白亜紀の火山活動の結果、当時の地表を至るところで覆っていたと考えられる火山灰、火砕流、溶岩などの火山性堆積物と火山岩類です。
現在鈴鹿山脈でこの岩体が大量に見られるのは、近江盆地に面した鈴鹿山脈西麓、八ッ尾山から日本コバにかけての一帯で、湖東流紋岩類と呼ばれる新期領家花崗岩類と同時代の珪長質に富んだ火砕流堆積物や溶岩流が覆っています。
湖東流紋岩類の分布 類Ⅰ: WK 萱原溶結凝灰岩層・WS 佐目溶結凝灰岩層・Qh 秦荘石英斑岩 類Ⅱ:Ig 犬上花崗斑岩・Py 杠葉尾火砕岩・Y 八尾山火砕岩層・Fd 深谷岩屑なだれ堆積物 五万分の1地質図幅 御在所山より
これらは当時のマグマが地殻表層に貫入急冷した火山岩か、地上に噴出し火砕流となって地表を覆ったもので、その下部は美濃丹波帯の付加体群です。このことは逆に鈴鹿山脈北西部を覆う美濃丹波帯の付加体群が当時火山フロント直上の地殻表層に存在したことを示しています。
湖東流紋岩類と同一起源の貫入火山岩や火砕流堆積物は東近江を中心に広く分布しており、それらの研究によってこの地に極めて巨大なカルデラ(コールドロン:火山構造性陥没地形)が存在したことが確認され湖東コールドロンと名付けられています。
白亜紀後期火成岩類の分布図。カルデラの陥没断層面に沿って火山岩脈(犬上花崗斑岩)の貫入が生じた。
火山活動は95Ma頃と80Ma頃の二度に渡って生じ、その直径は30kmを上回る極めて巨大なものです。火成活動の時期に対応して古い方が湖東流紋岩類Ⅰ、新しい方が湖東流紋岩類Ⅱと名付けられており、上図で主岩体と記された日本コバ西方一帯に堆積した溶結凝灰岩は湖東流紋岩類Ⅰに属します。
カルデラの内部に当たる近江盆地一帯には、上図で平野部岩体と記された後期の湖東流紋岩類Ⅱに属する溶結凝灰岩層からなる安土山・繖山・箕作山・八幡山・亀割山などの残丘状山地が点在しその後の火成活動の広がりを留めています。
五万分の1地質図幅 御在所山によれば、日本コバ一帯の主岩体は萱原溶結凝灰岩層と呼ばれ、近江盆地東縁に在る近江温泉の試掘ボーリングで、表層の新生代堆積層の下位500m以上に渡ってこの凝灰岩層の存在が確認されていると有りますから、近江盆地の下層には、かなりの範囲に本層が分布している可能性も考えられます。
永源寺ダム下流、相谷集落の北を流れる愛知川左岸を覆う萱原溶結凝灰岩層の露頭。遠目には砂岩層を思わせる灰褐色層と玄武岩のような灰緑色層があり、どちらも節理が発達してブロック状に剥がれやすい。
過去には石英斑岩と一括されていた萱原溶結凝灰岩層は垂直落差700mと言われるカルデラ陥没孔内に堆積した火砕流堆積物と見られ、陥没孔外の美濃丹波帯表層部を覆ったⅠ期の火砕流岩の多くがその後の表層侵食によって消失した後も侵食を免れて残されたものです。
山地の表層侵食は早く、100m程度の層であれば100万年程度で完全に無くなってしまうようです。例えば中新世の超巨大カルデラ火山 室生火山(大台コールドロン)では、その活動期に火山性堆積物は紀伊半島中南部の大半を覆い尽くしたと思われます。
しかし現在火砕流堆積物として確認されているのは、火源から20km以上離れた曽爾村周囲の室生火砕流堆積物と奈良盆地一帯に点在する玉手山凝灰岩、石仏凝灰岩、古寺凝灰岩等をを残すのみです。
肝心の火源があった大台山系を中心とする中央構造線以南の地域では、周辺山塊の表層に堆積したと考えられる夥しい火山性堆積物の全ては侵食によって削除されてしまい、火源の明神平の一帯には陥没カルデラの深部が表面に存在する状態です。
(室生火山ついては 鈴鹿山脈の歴史 に記載があります)
灰緑色の萱原溶結凝灰岩は断面も硬質で鉱物も結構新鮮、一方永源寺境内に多い灰褐色層は風化が進み、石英以外の鉱物は変質しているようだ。
永源寺ダム下流の愛知川の転石は、その半数以上が湖東流紋岩類に属する石ですが、溶結凝灰岩から石英斑岩(脈岩)、固結度の低い凝灰岩や軽石凝灰岩まで様々な岩相の石を見ることが出来ます。
永源寺ダム(中央上)下流部の愛知川。白っぽい転石の大半は湖東流紋岩類。暗緑色は古期玄武岩質溶岩とその変成岩。それ以外には花崗岩と美濃丹波帯の砂泥質岩が交じる。
また永源寺ダム湖の南、佐目子谷西部・水谷岳の稜線一帯には、萱原溶結凝灰岩層より下位の佐目溶結凝灰岩層も残されています。
川原には様々な湖東流紋岩類の凝灰岩が見られる。最後は溶結凝灰岩を捕獲した犬上花崗斑岩
鈴鹿山脈の西部には、湖東流紋岩類Ⅰの岩体を囲む形で湖東流紋岩類Ⅱに属する杠葉尾火砕岩、八尾山火砕岩層等が存在し、同時期の脈岩としてカルデラの陥没断層面に沿って貫入したとみられる犬上花崗斑岩が存在します。
犬上花崗斑岩の分布は、Ⅰ期の活動に伴うカルデラ陥没断層面と、Ⅱ期のカルデラ陥没面の断層面を表していると考えられており、その分布円弧の延長によって2つのカルデラの大まかな規模が確認できます。
この驚くべき火山が噴火した際は、想像を絶する広大なエリアが火山灰と火砕流に呑み込まれたと見られますが、火山灰や火砕流の痕跡はその後数千万年の表層侵食によって地殻から削除されておりその範囲は想像すべくもありません。
しかし後述する中新世堆積層や鮮新世堆積層には、鈴鹿山脈の東縁部や鈴鹿峠以南の山麓部で多数の湖東流紋岩類起源とみられる礫層や凝灰岩層が存在しており、20Ma~5Maの頃までは鈴鹿山脈表層の広範なエリアに未だ湖東流紋岩類が存在したことを示しています。
また隣の岐阜県一帯に広がる濃飛流紋岩類は、同時期の火砕流堆積物ですが、その表層分布範囲は湖東流紋岩類より遥かに広範囲であり、大地を火山岩で埋め尽くしたその頃の火山活動の凄まじさ想像できます。
当時は日本海が未だ開裂しておらず、日本がアジア大陸東縁の陸地として存在していた頃で、地形は現在と全く異なりますが、大陸縁に沿って日本から南中国一帯に迄連続していた火山フロントの直上では、これら巨大火山群が幾つも活動したものと思われます。
飛騨地方や中国地方は、現在でも同時期に噴出した火山岩類(デサイト・流紋岩類)によって夥しい面積の地表が覆い尽くされており、今日までの表層侵食で失われた量を考えると、その面積は今の何倍にもなると見積られます。
3.ジュラ紀付加体(美濃丹波帯)
次は鈴鹿山脈北部から中南部稜線の西方を覆う三畳紀末からジュラ紀の付加体 美濃丹波帯です。原岩は石炭紀・ペルム紀の環礁性海山列に由来する玄武岩と礁性石灰岩、ペルム紀~ジュラ紀の海洋底と海洋底堆積物のチャート・泥岩、沈み込み当時の大陸地殻の土砂や砕屑岩からなる海溝堆積物です。
日本シームレス地質図によると霊仙山や藤原岳など山脈北部の付加体形成年代は200Ma~161Ma それ以南では176Ma~146Maの付加年代を持つようですが、日本コバから雨乞岳に至る一帯の玄武岩ブロックとチャートブロックについては北部同様に200Ma~161Maとなっています。
鈴鹿山脈の一帯を覆う美濃丹波帯の付加体。形成の過程により一般的に北部ほど古期の地質帯が存在する。
これら海洋プレート上の海山や海底堆積物はプレートに乗って日本へと近づき、最後に海溝深部に引き込まれて高圧下で混合された末、陸側のプレートに底付けされて大陸地殻となったため、形成年代の異なる地体が複雑に混在しながら繰り返します。
地質図から分かるように、山脈北部稜線上の霊仙山から竜ヶ岳一帯には大垣の赤坂金生山を生んだ赤坂海山列が沈み込み、海底火山を形成した火山岩(玄武岩)、環礁性石灰岩層及び海底に堆積した放散虫からなるチャートが広く分布しています。
3-1.石灰岩ブロック
霊仙山の山頂部を覆う赤坂海山列石灰岩の露頭。シームレス地質図によれば200Ma~161Maジュラ紀付加体だが、原岩の堆積年代は1億年近く古い石炭紀~ペルム紀とのこと
赤坂石灰岩層は金生山に代表される古・中生代の化石産地として古くから知られており、霊仙山から藤原岳にかけても石灰岩層では石炭紀・ペルム紀に生息していた環礁性生物群の化石が多数見つかります。
鈴鹿山脈北部を源流とする犬上川や芹川の白い転石は、その多くが石灰岩だ。石をよく調べると、化石を含むものが見つかる。
同様の地層は日本コバから綿貫山にかけての滋賀県側山麓と入道ヶ岳から野登山の一部にも分布しますが、中・南部では鈴鹿花崗岩の熱源に近いため接触変成を被っている割合が増加します。
野登山北部小岐須峽御幣川の転石には美しい石灰岩が多い。その殆どが熱変成によって結晶化している。
例えば野登山周辺で見られる石灰岩は大半が大理石(結晶質石灰岩)に変わっており、砕くと白色半透明の美しい方解石の結晶が現れますが原岩の構造は失われて化石はまず見られません。
3-2.チャートブロック
石灰岩とともに古い堆積年代を持つのは、海洋に生息していた放散虫等の生物の死骸・甲殻が海底に降り積もって堆積岩となったチャートです。
チャートの露頭は、鈴鹿花崗岩の隆起が大きく、表層の削除が進んだ山脈東南部ではあまり見られず、美濃丹波帯の付加体が広がる山脈北部から西部滋賀県側に薄い帯状の層をなして集中します。
海洋底でのチャートの堆積速度は千年間でも1mm程度だと言われますから層が薄いのもうなずけますが、シート状で海溝に沈み込むため、その分布は結構広範囲に渡って見られます。
五万分の1地質図で見ますと、チャートは砂岩・泥岩のメランジェ基質中に層状に分布し、同時期の地層が異なった場所に繰り返し現れる様子が良く分かります。
野洲川ダム周辺の地質図(五万分の1地質図幅 亀山・御在所山より) ch:チャート Bu・Oz・Ta・Tu:粘板岩・砂岩
chで示されたチャートの産状が、海溝深部において付加体が陸側地殻に底付けされる様子をよく表している。海底に薄くシート状に堆積したチャートは、海洋底の沈み込みに伴って、海溝軸と直交する方向に同時期の地層が繰り返し底付けされて行く。
上に掲げた五万分の1地質図幅を見ますと、薄いチャート層が、海溝に堆積した砂・泥岩に挟まれるようにして繰り返して出現する状況がよくわかります。同時に地質体は多数の断層で区切られて、相互関係も殆ど分からない状態であることも読み取れます。
川原で見られるチャートの転石は実に様々な個性をもっている。2億年以上の歴史を持つものも多く、今日まで経験してきた地質学的過程の多様さがその個性を作り出しているのだろう。激しい褶曲面は、経てきた環境の複雑さと時の長さを感じさせる。
チャートの原岩堆積年代は、主に山脈北部のものが石炭紀から後期三畳紀、中南部のものでは三畳紀から中期ジュラ期となっています。
年代にすると3億年前から1億6000万年前と、想像することも困難な程に古い年代のものですが、鉱物組成は水晶と同じ二酸化ケイ素で非常に固く緻密で安定した岩石です。
チャートや頁岩から抽出したコノドントや放散虫化石による年代決定法によって、日本の研究者により付加体の形成過程が明らかにされたのは1980年台ですが、それ以降日本の地質学はめざましい発展を遂げるようになります。
世界に誇りうる付加体研究の端緒を切り開いた美濃丹波帯や四万十帯のチャートブロックは、日本の地質学発達史においても記念すべき石であるのかもしれません。
3-3.泥岩・砂岩・玄武岩メランジュ
山脈北部や南部稜線の周囲で鈴鹿花崗岩の露出が無い場所では泥岩・砂岩・玄武岩が混在するメランジュ帯が多く見られます。沈み込み過程で弱い変成を受けて再結晶による片理の形成や、玄武岩質溶岩では緑色岩に変質しているのが普通です。
海洋底起源の玄武岩質溶岩は最も古い固結年代を持つ。転石の多くは緑色岩に変わっている。
地質体によってその形成年代に大きな開きがあり、中央海嶺で生み出された海洋底玄武岩が最も古く石炭紀からペルム期にかけての形成年代を持ちます。
泥岩・砂岩その他沈み込み帯周辺での堆積物は、堆積・固結年代と付加年代にあまり差がなくジュラ紀中後期です。場所によってより古いチャートや石灰岩層も挟在します。
南部の小岐須峽や宮妻峡では、峽の入り口から山脈稜線に至る林道の中程までは、林道山側斜面の露頭に砂岩や泥岩の層が多く見られますが稜線に近づくに従って花崗岩の露頭に置き換わって行きます。
宮妻峡の砂質岩露頭。熱変性で硬質化して割ると鋭い断口をみせる。上流部の沢では珪質砂岩の珪石化した層が見られる。
上は雲母峰より下るウソ谷を埋める泥岩の転石。熱変成を受けると泥岩(頁岩・粘板岩)から泥質ホルンフェルスへと変わり新たな鉱物が晶出する。
谷や沢の転石は、その上流水系一帯の表層地質を反映しますから、転石を調べるとその上流部の表層地殻を構成する岩種がよく分かります。
下の写真は宮妻峡キャンプ場周辺の沢で集めた泥質岩の転石です。一部石灰質の層を持つものも混在しているようですが熱変性によって黒色鉱物の斑晶が現れ始めています。
泥質岩は熱変成が進むと黒雲母や菫青石が晶出し始める。菫青石は結晶が成長すると宝石に近い鉱物らしいけれど、岩の表面を覆うブツブツは気味が悪い。
上流部の鈴鹿花崗岩脈との境界に近づくに連れて非常に強い熱変成を受けますから、原岩は熱によって溶解し再結晶化が進んで砂質岩の場合は砂質ホルンフェルス、泥質岩の場合は泥質ホルンフェルスへと変わってゆきます。
砂泥質岩における変成鉱物の晶出は、変成を与えた鈴鹿花崗岩からの距離に応じて変化する。
変成鉱物の一部は既に緑泥石や雲母等に変質しています。
熱変性が進むと南部の領家変成帯に見られる紅柱石や珪線石の晶出が起こり、最後はミグマタイト化してしまう。
更に変成が進めば、布引山地の領家変成帯に見られるような高度変成の片麻岩やミグマタイトへと変化し、最後には火成岩と変わらなくなってしまいますが、鈴鹿の山ではそこまでの変成はまず見られないようです。
金属を多く含む泥岩や砂岩層と山脈稜線を走る花崗岩帯の境界では、花崗岩に依る接触変成によって鉱物の再結晶化や濃縮が生じるため、過去には多くの金属鉱山が開かれていましたが現在も稼行しているものは存在しません。
宮妻峡キャンプ村上流の支尾根には砂泥質岩層に貫入するアプライト質花崗岩脈の晶洞があり、発見当所黄玉(トパーズ)が出たことで有名です。戦中にリチウム採掘行われたため、そのズリから現在でも微晶が見つかるようで、時折採掘している人を見かけます。
小岐須峽のように、熱源に近い石灰岩は大理石に変質しますが、マグマの貫入とともに熱水との反応が起きると石灰岩(炭酸塩岩)は様々な変成鉱物を産するようになりスカルン鉱床が形成されます。
小岐須峽や宇賀渓には小規模なスカルンの露頭が存在し、灰鉄柘榴石・灰礬柘榴石・透輝石・灰鉄輝石・方解石・珪灰石などの鉱物を見ることができる。
3-10.領家変成岩と広域変成帯
布引山地に見られる網状片麻岩。有色鉱物と白色鉱物が層状に分離して美しい模様を見せる。
美濃丹波帯の地層は、鈴鹿や布引の山地では、南に下るに従って領家花崗岩の変成を受ける度合いが強くなり領家変成帯と呼ばれる広域変成帯が形成されました。
熱変成の場合、接触変成にせよ広域変成にせよ火源から受ける熱により岩石を構造や鉱物組成が変化する現象ですが、広域変成と呼ばれる場合は、接触変成に比べてその深度が深く作用期間も長いことから、圧力による片理・片麻構造が強く現れます。
鈴鹿峠を越え布引山地に入ると、河原の転石には片状・片麻状(縞状)の配列を有する片麻岩が現れるようになります。 ことに古期領家花崗岩と新期領家花崗岩の二度に渡る熱変成を被った青山高原周辺の布引山地では変成岩が再度溶解してミグマタイト化しているものも多く見られます。
長野峠から青山高原に至る布引山地では、熱源からの距離・圧力に応じて変成度が変わる変成分帯の研究が行われており、五万分の1地質図幅・津西部にも砂岩・泥質起源岩に対する紅柱石-珪線石転移線を中心にしたアイソグラッドが記載されています。
上下方向に堆積面を持つ片麻岩(ミグマタイト)だけれど堆積面に直交して多数の白色岩脈(石英)の貫入を受けている。
砂質泥質岩の熱変成が最終段階迄進むと、岩石を形成した鉱物は優白部と優黒部に分かれて溶解し最後には花崗岩に落ち着く。
泥質変成岩が花崗岩に取り込まれて溶解し、花崗岩(黒雲母花崗閃緑岩)に同化してゆく過程でしょうか。
4.新生代中期・中新世堆積層
鈴鹿山脈とその周辺には、20Ma~15Ma中新世の堆積層が僅かですが存在します。この時期は日本海の拡大期に当たり、プルーム流の湧昇によって展張された地殻が方々で陥没し、そこが湖や内海となってその底に正常堆積層が形成されたものです。
堆積層に化石を含む場合はその分析によって堆積年代や淡水層か海成層の判断も行えます。また砕屑物の岩種は堆積当時の後背地の表層環境を記録していますし、堆積層の葉理や流紋からは、堆積当時の水圏の環境について様々な情報が得られます。
その為、これらの地殻はたとえ少量であっても、地殻の変遷を考える上で非常に重要なものとなります。特に堆積層の存在は、その場所が一般的に水準面以下に在った(中には崖錐堆積物のように陸成のものもあります)ことを示し、堆積当時の標高について貴重な知識を与えてくれます。
中新統の堆積層は日本海の拡大に伴う海進によってもたらされた。16Maの前後には鈴鹿山脈を含む一帯は完全に海中に没したという。
以下に鈴鹿山脈一円に分布する中新世堆積層を列記します。
(1)鈴鹿層群:山脈南端の関町羽黒山・観音山周辺及から芸濃町石山観音山周辺地域で層厚1500m。鈴鹿川沿いの加太盆地一帯で層厚1200m 標高100m-300m
(2)鮎河層群:仙ヶ岳北部・土山町鮎河(あいが)から高畑山南麓に至る地域で層厚は700mを越える所もある。標高200-450m
仏峠層:水沢峠から宮指路岳に至る県境稜線上の仏峠西部および仏峠より稜線上北方1kmの範囲(仏峠層)で層厚60m 標高800m-940m
(3)千種層群:釈迦ヶ岳から御在所東麓の境界断層帯に沿い帯状に分布。層厚100m以上。標高200m-250m
(4)鈴鹿山脈稜線上の礫層:鈴鹿山脈北西部には、次のような仏峠層同様の砂礫層が稜線上に点在しています。
名称 標高(m) 層厚 下位層
(4-1)宮坂峠層 650-700 >50m 美濃丹波帯
(4-2)政所層 650-750 <50m 美濃丹波帯
(4-3)大萩層 550-580 <50m 萱原溶結凝灰岩層
(4-4)相谷層 750-790 <50m 美濃丹波帯
(4-5)金山層 880-900 <50m 鈴鹿花崗岩
(4-6)佐目峠層 1000-1050 <50m 美濃丹波帯
(4-7)綿貫山層 850-900 >50m 美濃丹波帯
(4-8)仏峠層 800-940 >50m 鈴鹿花崗岩
どれも地質体としては僅かな量ですが、多年の表層侵食に晒されながらも幸運に今日まで保存された層です。
4-1.鈴鹿層群
以上4種類の地帯のうちでも、最も古いのは20Ma直後から堆積を始めた鈴鹿層群で、日本海拡大の初期・アジア大陸東縁の地殻が方々で裂け始め正断層に沿って地表の陥没が始まった時期です。鈴鹿層群の堆積した加太盆地もこの時代に出来た陥没盆地とのことです。
鈴鹿層群が分布するのは、鈴鹿山脈南端で布引山地との境界に位置する加太盆地の一帯とその東方、関町から芸濃町萩原にかけての一帯で両者は名阪関トンネル東部の加太花崗閃緑岩で隔てられています。
加太盆地は鈴鹿層群が堆積を始めた初期は湖沼であったものが、日本海の拡大に伴って一帯の地盤の沈下が進行して東部の関地区と連結し、18Ma頃には古瀬戸内海と呼ばれる海の一部となり17Maの頃まで堆積しました。
古瀬戸海の海進は、日本列島が太平洋側に大移動して再構築され、ほぼ現在の位置に落ち着いた16Ma前後に最も進みますからその年代の地層も堆積したはずですが今では残されていません。地層の最大層厚は加太地区で約1200m、関地区で1500mです。
加太駅東・鈴鹿川左岸の鈴鹿層群下部累層の虻谷夾炭層。花崗岩質砂岩中に粘板岩、花崗岩主体の礫を含みチャート等が交じる。
鈴鹿層群は上部・中部・下部と三つの累層に分けられており、上部累層以外は礫岩層が優勢です。礫種は加太花崗閃緑岩、ジュラ紀付加体由来の砂岩、泥岩が主体です。また加太、関両地区とも最下層は基盤の鈴鹿花崗岩若しくは古期付加体の上に直接堆積していますから、堆積当時表層には、既に現在と同様に新期領家花崗岩類とジュラ紀付加体が存在していたことが分かります。
ことに加太盆地東端に分布する向井巨礫岩相では、1mを越える加太花崗閃緑岩由来の円礫が概算層厚350m程も堆積しているとのことで、当時この辺りの後背地には、ある程度の標高で新期領家花崗岩類が隆起していたことを示しています。
加太駅東・鈴鹿川右岸の鈴鹿層群中部累層の向井巨礫岩層。花崗岩の巨礫は1mを越えるものも多く、1.5km近い範囲に数百mの厚さで巨石を堆積させた当時の谷の規模が偲べる。
また加太盆地西部に堆積した大杣池礫岩層には、現在ではこの周囲にほとんど存在しない(那須ヶ原山山頂部に僅かに残っています)チャートの礫が大量に含まれており、当時は未だ鈴鹿花崗岩の隆起が少なく、那須ヶ原山周辺の表層地殻には大量のチャート層を含んだ付加体が存在していたと思われます。
またこの相の上層部になると、湖東流紋岩類起源と見られる溶結凝灰岩礫が含まれるようになり、後背地の一部には湖東コールドロンが噴出した火山性堆積岩が存在したことが分かります。
これらは、関地区の筆捨礫岩層や観音山含礫砂岩層中の礫についても言えることで、上層になると当時はまだ鈴鹿山脈東部の表層にも大量に存在したと思われるジュラ紀付加体起源の礫(チャートが多い)や鈴鹿花崗岩礫に混じって湖東流紋岩類起源と見られる礫が現れるようになります。
鈴鹿峠の三重県側・鈴鹿の関で知られる亀山市関町の観音山公園ではこの時代の礫砂岩層の露頭が方々に顔を出しています。観音山の名も、この砂岩層を彫り込んだ多数の龕の中に多くの仏像が納められていることに由来します。
観音山公園の仏龕と観音山遊歩道に見られる 観音山含礫砂岩層の露頭。礫はチャートの角礫が多い
同時期の地層(19Ma前後の観音山含礫砂岩層から萩原砂岩シルト岩層、石山砂岩層をへて17Ma前後の姫谷シルト岩層へと移行)は鈴鹿峠の南部津市芸濃町の石山観音公園に於いても見ることが出来ます。
石山観音公園の石山砂岩層に彫られた磨崖仏。殆ど粗粒-中粒の砂岩で礫が少なく穿削が容易なためか全部で50体以上の石仏が彫られている。
石山観音については 「わたしの町」 に紹介があります。
https://sites.google.com/site/geinoscenery/home/shi-shan-guan-yin
石山砂岩層の露頭。僅かに礫を含む層があるがほとんどは砂粒。表層の凹凸に応じて色々な葉理が現れていて面白い。
この一帯は観音山砂礫層から萩原砂岩シルト岩層、石山砂岩層へと続く鈴鹿層群の低山で、山の山腹一面に同時代の粗粒砂岩に30体以上の磨崖仏が刻まれているのです。上位の姫谷層では海生貝化石が出ますから、18Ma~17Maの頃には鈴鹿山脈南部の一帯に海進が除々に進んだと見られます。
4-2.鮎河層群・千種層群
土山町の鮎河から野洲川、田村川周囲の盆地一帯に広がる鮎河層群は17.5Ma-15.5Ma頃の古瀬戸内海の堆積層で、貝化石を主として多数の動物・植物化石を含みます。
加太盆地方向より侵入した内海がこの時代には土山周辺の低地にまで侵入した訳で、16Maの頃に海進は最も進み、鈴鹿山脈の周辺は全て海に沈んだと見られています。
堆積層の最大層厚は、基盤岩からなる青土山塊を挟んでその西部で約350m、山塊の東方では750mとのことです。鈴鹿花崗岩の隆起が激しかった東方に、より若い堆積層が保存されているのは面白いところです。
鮎河層群地質図(吉田史朗 地質調査所月報 第29巻 第7号より)
鮎河層群は鈴鹿花崗岩類と美濃丹波帯の基盤岩に接する下層の土山累層・中層の黒川累層・上層の丸田谷累層に分けられています。中間にある黒川累層には湖東流紋岩類に由来するとみられる凝灰岩層・凝灰質層が大量に含まれますが上・下層では凝灰岩質の層は少なくなります。
興味深いのは、土山累層中の最下層唐土川礫岩層で、チャート・粘板岩・砂岩・花崗岩類及び少量の石英斑岩(溶結凝灰岩)礫から構成されるのですが、鈴鹿花崗岩で形成された三子山や高畑山と、熊野断層線を介して接する南部に近づくほど鈴鹿花崗岩礫が減少するとのことで、堆積当時には未だこの辺りの鈴鹿花崗岩の隆起が少なく、表層には美濃丹波帯が存在していたものと考えられます。
現在の地質図で判断しますと、鮎河層群の堆積は、まず加太盆地と鈴鹿峠東部より侵入した古瀬戸内海によって新名神土山SA周囲の新名神高速沿線から田村川沿いに唐土川礫岩層の堆積が始まり、海進とともに北部の鮎河方面に堆積地域を拡大した様子です。
海進が進み、鈴鹿山脈一円が水没した頃には当然三重から滋賀の全域にかけて海生堆積層が広がった訳で、当時は現存する地層の上層に、現在より遥かに広範な領域で鮎河層群が広がり、湯の山側の千種層群とも連続した地層帯を形成したはずです。
しかし日本海拡大の終了と共に海進も終焉し、それ以降鈴鹿山脈一帯は隆起を続けて山地として激しい表層侵食に晒され、当時の堆積層の大半は削除されて消失しています。
表層侵食量を年間0.1mm(現在の日本の山地の年間侵食量はこの値より遥かに多いものです)と仮定しても1000万年の間には1000mの侵食量となり、海進が終了したころは現在の地層の上部に1000mを越える堆積層が存在したと考えても不思議ではありません。
御在所山東部山麓に帯状に分布する千種層群も、海進の進んだ16Ma前後に堆積したものですが、此方はそれ以降に鈴鹿山脈が最も激しく隆起した一志断層系に接していたため、その大半は山脈隆起とともに侵食で失われ、現在は断層沿いの菰野の丘陵部に狭い帯状の地体として残るのみです。
しかし鮎河層群や千種層群からは熱帯-亜熱帯性の動植物化石の産出が知られており、堆積当時の気象環境を知る手がかりを与えてくれます。また津市西部に分布する一志層群には、同時期の貝化石を多産する地層が方々に存在します。
4-3.稜線上の礫層
最後の4に上げた礫層は、表層侵食を受ける割合の少なかった山の稜線上や尾根筋に取り残された地層で大萩層以外はみな700mを越える高所に存在します。
これらの礫層が興味を引くのは、この礫層の存在によって鈴鹿山脈の堆積当時の環境を、ある程度想像できるからです。礫層の堆積当時は現在700-1000mの標高を持つ辺りが水準面であり、それより僅かに低い場所に堆積が進んだと見られます。
仏峠の礫層。峠の稜線部では風化によって地層は黄変しているが、より下層では青緑色の礫岩層が見られる。
礫の原岩には美濃丹波帯由来のものよりも、鈴鹿花崗岩や湖東流紋岩質溶結凝灰岩(火砕流堆積物)の巨礫を多く含みます。層は薄く宮坂峠・綿貫山・仏峠で層厚が50mを越える程度です。
仏峠稜線上の登山路では、礫岩は風化して基質から礫が分離している。凝灰岩類は円礫、美濃丹波帯のチャート砂岩ホルンフェルスには角礫が多い。
大萩層の高度が低いのは、傾動地形の低地側に在るためと、湖東コールドロンの陥没孔内に積もった火砕流岩上に堆積したため堆積当時より高度が低かったと判断されます。
各礫層の堆積年代は不明ですが、五万分の1地質図幅亀山に於いて仏峠層は鮎河層群相当とコメントされているので、他の地区も仏峠層と同様な堆積過程であると仮定すると、16Ma前後の最大海進時期となります。
これらの礫層が堆積した当時の鈴鹿山脈北西部の地形は、嘗て湖東カルデラが造った外輪山脈も、多年の表層侵食によって均された、なだらかな起伏の平原(山地の原面)に近いものではなかったかと想像します。
周囲の山地の表層には、湖東カルデラの噴火によって堆積した溶結凝灰岩(石英斑岩)等の火山岩類・が未だ大量に残っており、侵食された砂礫は海底に運ばれ、海進に応じて堆積を続け最大海進時には1000m近い層厚(今日までの侵食量を1000mと仮定する)になったと見られます。
15Ma以降、日本海の拡大が終わると一帯の土地は隆起し、その後今日まで水面下に沈むことはありませんでした。従って現在残された地層はその後の千数百万年間の表層侵食を受けた後の姿と言うことです。侵食量を年間0.05mmと見積もっても1500万年の間には750mに及びます。
15Ma以降の鈴鹿山脈一円の侵食量は不明ですが、地殻の隆起量が多ければそれに応じて侵食も激しくなるので平均して2~3kmの表層侵食を受けたと考えても不思議ではありません。湖東カルデラ火山が活動した90Ma前後からの侵食となれば、山地が殆ど隆起していなくとも数kmの表層侵食は被ったと見て差し支えないでしょう。
現在湖東カルデラ火山の噴出物が残されているのはカルデラ湖底となったカルデラ内の堆積物が殆どで、佐目溶結凝灰岩層等カルデラ外部に堆積した火砕流堆積物がごく僅かであるのも肯けます。当時カルデラ外に4kmの厚みで火砕流が堆積したとしても、現在では侵食削除されて殆ど残らないと言うことなのですから。
20~15Maは、日本海の拡大に伴い、幾つにも分かれた日本列島の地殻が、複雑な構造運動の末ほぼ現在の形に収まった時期です。
鈴鹿山脈を含む西南日本の内帯も大移動を遂げた訳ですが、このとき現在は鈴鹿山脈より60~100km程南に位置する中央構造線が日本海拡大のリフト収束域として働き、最初に領家花崗岩類で述べたように、これを境にして内帯側地殻の突き上げが生じて、中央構造線周辺に巨大な山脈を生みました。
これ等の大規模な地殻変動は、当然短期間の間にも広範な表層地形の隆起侵食を引き起こしたはずで、或いは当時の地形は、現在私達が想像するものとは全く異なっていたのかもしれません。
逆に云うと、16Ma前後には未だ鈴鹿山脈東部の表層を覆っていた中新世の火砕流堆積層は、殆どの場所で今日までに全て侵食によって削除されてしまい、当時それらの地層から供給された、これら8箇所程の稜線部(最も侵食量の少なかった場所)に僅か数十mの基底礫層としてかろうじて(幸運にも)残された訳です。
これらの堆積層の中に存在を留めた湖東流紋岩類は、現在山脈西部日本コバの周辺部を除いては殆ど残されていませんが、鈴鹿山脈の方々の稜線上に残された礫が、全て日本コバ周辺の現存する湖東流紋岩類から供給されたとは考えにくく、それらの原岩は堆積当時には、未だ周辺の山地に存在していたと見るべきでしょう。
現存する岩体の殆どは湖東カルデラの陥没孔内部に堆積したもので、陥没カルデラはかなりの期間をカルデラ湖として堆積環境に置かれたことから侵食を免れ、カルデラ外の鈴鹿山脈の表層に堆積した地層から選択的に侵食削除を受けたと考えられるからです。
5.新生代後期・中新世後期以降の堆積層
最後は日本海拡大の後に堆積した中新世後期から鮮新世・更新世にかけての堆積層です。日本海拡大終盤には古瀬戸内海は山脈の全域を覆いましたが、日本海拡大が収束するに連れて、地殻は展張場から海洋プレートの沈み込みに伴う圧縮場が影響力を回復し地殻の隆起が始まります。
この圧縮場の下で、鈴鹿山脈も隆起を始めますが、山脈の東西両面には逆断層帯に沿った前弧盆地が形成されて、西面には古琵琶湖、東面には東海湖と名付けられた湖が堆積します。
鮮新世の頃に、これらの湖に流入した河川の河口に堆積した地層が古琵琶湖層群、東海層群として鈴鹿山脈の裾野から近江平野、伊勢平野にかけて広がっていますが、どちらの堆積層も最も古い時代の地層には礫が多く山脈の中心から離れるに従って砂・シルト・粘土の層が増加します。
堆積層中には凝灰岩類を含むものも多く、湖東流紋岩類に由来するものと考えられています。また日本海拡大が終了した14Ma頃、大台から熊野の一帯では巨大なカルデラ噴火を伴う巨大火山活動(室生火山)が起こっており、布引山地側に分布する東海層群中に含まれる凝灰岩類については、大台コールドロンに由来するものと見做されています。
しかし大台コールドロンの火山爆発は極めて巨大な規模で、その火砕流堆積物は火源から50km近くも離れた奈良市周辺に迄残されていますから、その一部が鈴鹿山脈に達していたとしてもなんら不思議ではありません。これまで湖東流紋岩類縁の堆積層と見られていたものの中には、あるいは室生火山縁の物が混じっているかもしれません。
堆積層のほとんどは、伊勢平野や伊賀盆地・近江盆地に存在し鈴鹿山脈の麓に見られるのは、最下位の砂礫層くらいですが、古琵琶湖層群や東海層群の上位層には大型の動物化石が含まれることが知られており古代象のミエゾウ・アケボノゾウ・サメ・ワニ・カメ等等の化石が、方々の地層から発掘されています。
私の自宅前を流れる中ノ川南崖の河床50mの地点からは、大正7年にミエゾウの示準化石(明標本)が見つかっていますし、近くの亀山市野村の鈴鹿川河床にはゾウの足跡化石も知られており、地元の者にとっては興味深い時代の堆積物となっています。