仙ヶ岳から霊仙山に至る鈴鹿山脈の主部。南北に走る断層面にそって白亜紀花崗岩体が隆起して山脈の主稜線を形作った。 (カシミール3D カシバードよりコピーさせてもらいました)
過去を遡る
鈴鹿の山は今からおよそ100万年程前から地下の鈴鹿花崗岩が急速に隆起を始めたと言われます。鈴鹿花崗岩の岩体は、伊勢湾から琵琶湖一円の地下に基盤岩として存在するのですが、伊勢平野に面した東部が琵琶湖に面した西部よりも遥かに大きな隆起量となりました。
その結果、竜ヶ岳から仙ヶ岳へと延びる山脈東部の主稜線一帯では白亜紀に形成された鈴鹿花崗岩が露出し、北西部では美濃丹波帯と呼ばれるジュラ紀から白亜紀の付加体が未だ表層に露出する地殻が形造られました。
鈴鹿花崗岩の隆起で生まれた鎌ヶ岳から仙ヶ岳に至る山脈東部の山容は険しく荒々しい。
美濃丹波帯の古期地殻で覆われた雨乞からイフネ・クラシ・御池・霊仙へと続く山脈の西北部はゆったりとしたなだらかな山容をみせる。
しかしそれ以前はどうだったのでしょう。鈴鹿花崗岩の隆起が始まる前には、表層の多くはジュラ紀~白亜紀の付加体が占めていたでしょうし、当時の大規模な火山活動に依る火山岩や火砕流堆積物(この名残が日本コバ西部の湖東流紋岩です)は現在よりも遥かに大規模な形で地表を覆っていたはずです。
古第三紀から中新世にかけての日本海拡大期には、アジア東部に湧昇したプルームの拡張によって日本を含むアジア東部地区の地盤が低下して海面下に至る堆積環境が方々に形成されました。
中新世中期16Ma頃には海進が最も進み、西南日本の陸地の大半は海中に沈んだと考えられており、堆積層は厚く数千mにもわたって表層の基盤岩を覆いつくしたと思われます。
しかし現在見られるのは、これら過去に地表を覆った地質体のうちでも、数千万年に及ぶ表層侵食を免れた一部分でしかなく、今日残された地層の上部には、嘗てもっと厚く広範な広がりを持って同種の地質体が広がっていたと見做さねばなりません。
今残された地質体から過去の地形を再現する場合、現在では削除されてしまったこの広がりの範囲をも考慮しないと過去の地形を正確に再現するすることは出来ません。
ことに鈴鹿花崗岩体の隆起に伴い、過去にはその表層に存在したであろう地質体の大半は激しい表層侵食にさらされて削除されているため隆起以前の環境を知るのが困難になります。
これら様々な問題をも含めて鈴鹿山脈の過去の姿はどんなふうだったのか?私はこの話を今から1億年前の白亜紀中期より始めることに決めました。「日本列島の地史」と共通する部分も多いので、興味があればそちらも参考にしてください。
別に「日本列島の地史」のタイトルで日本列島形成史を大まかにさらえてみましたけれど、その過程で白亜紀以前の時代に対して、日本の一地方の局所的な地理的変遷まで追うのは素人の私にとって無理な作業に思えたからです。
巨大火山の時代・海嶺の沈み込みと白亜紀花崗岩帯の形成
白亜紀の中期・約1億年(100Ma)の昔、日本はアジア大陸の東の端で大陸の一部として、クラプレートの沈み込む外洋に面した陸弧として存在しました。
1億年前100Maの東アジア。原日本の地殻は海洋に面したアジアの一角にあった。大陸東縁にそって白亜紀花崗岩帯が延々と続いていた。
「活動的大陸縁の肥大と縮小の歴史」 地学雑誌120(1) p88 図11 2011 より
現在の西南日本を形成した地殻の多くが、この時代には中国大陸や朝鮮半島などとともに、アジア大陸の一部として大洋に面した大陸の地殻として存在しました。
大陸の東縁の沈み込み帯では、現在より1.2億年~1.1億年前にイザナギプレートを生み出したイザナギ海嶺が沈み込み、イザナギプレートの終焉を迎えるとともに、海嶺沈み込みに伴なって大陸東縁に沿って走る火山フロントの地下には、総延長2000km以上に上る夥しい量の花崗岩帯を造り出していました。
巨大な山塊が連続する海嶺の沈み込みは、沈み込み帯の前縁の陸側地殻に圧力を加えて陸側地殻前縁部に激しい褶曲を発生させるとともに上部地殻を隆起させたと思われます。
海嶺の沈み込む深度が増すと共に、沈み込み帯深部の圧縮応力は著しく強まり、前縁部に底付けされていた低温高圧型変成帯を地下深部から表層近くまで押し出しました。
これが現在西南日本外帯の北端に見られる三波川変成帯ですが、低温高圧型変成帯の最高深度・地下60~70kmより変成帯を隆起させるエネルギーは半端なものではなく、その物理化学的なプロセスは未だ十分に検証されていない模様で今後の研究が待たれます。
イザナギ中央海嶺沈み込み当時の地殻断面 それ以前に生じた構造侵食で先ジュラ紀の地質体の一部が沈み込み、後に黒瀬川帯を形成する。
この当時、火山フロントの上層はトリアス紀後期からジュラ紀に形成された付加体で覆われており、ジュラ紀付加体の層は火山フロントから海溝迄続いていた模様です。
火山フロント直下に生じた大量の花崗岩マグマは、塩基性岩を多く含む上位の付加体群に比べて比重が小さくて軽いため、その浮力によって上部地殻を隆起させます。また海嶺沈み込みは上部地殻を深く内陸部に押し込み、表層に生じた大規模な褶曲によって海溝から火山フロントに至る地表には壮大な山脈群が形成されたと考えられます。
地表高度の著しい上昇は、激しい表層侵食を招き、ジュラ紀付加体の上位に位置した先ジュラ紀の地質体の多くが侵食を受けて失われました。
また本来なら海溝と火山フロントの間に存在すべき白亜紀前期の付加体も、白亜紀中期に生じた海溝前面での構造侵食によって失われ海溝に沈み込んでいました。
同時に、これらの地層の上位に存在した先ジュラ紀の地質体も海溝に沈み、その一部は沈み込み帯深部で蛇紋岩に捕獲されてベニオフ面を上昇し、蛇紋岩メランジェとして海溝前縁に留まって後に黒瀬川帯を形成することとなります。
湖東カルデラ火山の活動
この頃の日本列島周辺では、極めて巨大な火山がいくつも活動して、地表に夥しい量の火山灰・火砕流・溶岩流を降り積もらせました。中部地方では95Maの頃に湖東コールドロンと呼ばれる巨大カルデラ火山の噴火が起こり、その麓に位置した鈴鹿山脈の一帯も大量の火山性堆積物で覆われました。
これらの火山性堆積物はその後の表層侵食によって大半は消失しましたが、カルデラ陥没孔底部の堆積物のみ多年の侵食を免れました。現在の近江盆地や鈴鹿山脈西麓に残る湖東流紋岩類はその時の火砕流や火山岩(溶岩流)の名残で、花崗岩質マグマを反映して珪長質に富む火山岩類となっています。
白亜紀中後期の火山活動については -日本列島の地史 巨大火山列島- にも少し書いておきました。
この時代の日本周辺の地形は、多分現在のカムチャッカ半島に似ていたのではないでしょうか。カムチャッカでは太平洋プレートが沈み込む海溝から170km程離れた火山フロント周辺には、シベルチ・クルチェフスカヤ・クロノスカヤ・カリムスキー等の巨大火山群が並びます。
現在のカムチャツカ半島鳥瞰。白亜紀に比べて火山帯の規模は小さいながら、火山フロントには活火山群が連なり白亜紀火山群を連想させる。
その背後には古期地殻を含む中央カムチャッカ山脈が聳え、背弧海盆を形作るシェリホフ湾を挟んでアジア大陸と地続きとなった地形は、太平洋型造山帯の典型的な特徴をよく備えていて、規模は小さいといえ白亜紀火山群の活発な活動化にあった当時の日本に近い地形だと思われます。
白亜紀後期・クラ-太平洋海嶺の沈み込み
白亜紀も後半に入り、火山活動に伴なって山脈から大量の砕屑物が海溝に供給されるようになると、再び付加体の形成が盛んになり、海溝の陸側には新たな付加体が成長します。
クラ・太平洋中央海嶺の沈み込みが始まった白亜紀後期の古地理図
「活動的大陸縁の肥大と縮小の歴史」 地学雑誌120(1) p88 図11 2011 より
更に白亜紀末から古第三紀初頭(80Ma~60Ma)頃にはクラ・太平洋海嶺の沈み込みが生じます。これは海溝前縁部地殻の激しい褶曲と隆起を招き、地殻深部では火山フロント直下に新たな花崗岩帯(山陰帯)と四万十高圧型変成帯が形成されます。
和泉層群
同時に火山フロントと海溝の間には激しい圧縮応力を受けて深い前弧盆地が形成され瀬戸内海のような内海を産みました。この海の海底には、当時の熱帯-亜熱帯性の気候を反映して、珊瑚やアンモナイト、恐竜類等多くの熱帯性動植物群の化石が堆積しました。
この地層が現在和泉層群と呼ばれているもので、約7500万年前(75Ma)前後800万年程の期間の海成堆積層からなり、最大幅15km・東西300km・最大層厚7000mを越えます。付加体の様に沈み込みを経験していない和泉層群の地層は、白亜紀後期の動植物群の化石が多数見られることで有名です。
和泉層群を堆積させた前弧海盆は、鈴鹿山脈の存在した火山フロントの中心より海溝側に50km~70km南に下った辺りに存在したはずですが、第三紀に生じた構造侵食によって消去されてしまい紀伊半島の北部では最早見ることは出来ません。
この時代、鈴鹿山脈の地殻があった辺りは火山フロントのほぼ直上で、周囲には湖東カルデラのような巨大火山が聳え、その表層は厚く火山性堆積物に覆われていたことでしょう。
地表を恐竜が闊歩する最後の時代でしたから、周囲の陸地や水中には多数の恐竜類が生活していたと思われますが、残念ながら紀伊半島北部では彼らの痕跡を見ることのできる地層は知られていません。
三重県では唯一、鳥羽安楽島の南に分布する白亜紀前期の黒瀬川帯松尾累層より竜脚類(鳥羽竜)の化石が見つかっています。
この一帯南北に帯状に分布する黒瀬川帯は、白亜紀中期に生じた大規模な構造侵食によって上位の古期地質体共々一旦海溝に沈み込み、和達ベニオフ面を上昇する蛇紋岩帯に捕獲されて、三波川変成岩とセットで再び地殻上部に隆起したものです。
和泉層群の様に海底の堆積層が、隆起や褶曲を受けても、ある程度そのままの状態で表層にとどまった地質体と違い、海溝面で一度破砕されて地下で蛇紋岩メランジュとなって地表にもたらされた経緯を考えると、いかに幸運に恵まれたとはいえ、第一発見者の慧眼は大したものでしょう。
クラ・太平洋プレートの沈み込みは、鈴鹿山脈周辺の地質体をも隆起・褶曲させたと見られます。和泉層群(内海)を挟んでその前後に隆起した山地は砕屑物の供給地となり内海や海溝へ大量の砕屑性堆積物をもたらしました。
クラ・太平洋中央海嶺沈み込み当時の地殻断面 鈴鹿山脈は火山フロントの直上付近に位置した。
鈴鹿山脈の表層を厚く覆っていた白亜紀の凝灰岩・火砕流岩・火山岩類の層は、山地化に伴う表層侵食の増大によって徐々に失われてゆきましたが、白亜紀末頃まではまだ大量の火山性堆積物や火山岩類が地表を覆っていたと考えられます。
これは、四国新居浜や三島の例(五万分の1地質図幅新居浜・三島参照)になりますが、新居浜や三島の和泉層群の礫層や砂岩・頁岩層(ダービータイト)の原岩の多くは、珪長質火山岩類から構成されており、和泉層群の堆積年代には前弧盆地前後の山地群の表層地殻にはまだ大量の火山性堆積物や火山岩類が存在したことを示しています。
実際これらの火山岩類が、中新世以降になっても鈴鹿山脈に多く露出していたことは、日本海拡大期の海進時にさえ、鈴鹿山脈一円の古瀬戸内海に堆積した地層に、多くの湖東流紋岩類が含まれていることからもよく分かります。
白亜紀花崗岩帯の最後の活動と見られるものは、湖東カルデラ内で暁新世から始新世前期に噴出した珪長質火山岩で湖東流紋岩類の最後の活動と考えられています。
またこの時期の貫入岩脈が、鈴鹿山脈北中部の滋賀県側を中心に遠くは布引山地の笠取山周辺にまで分布しており、その活動の広がりの大きさを示しています。
古第三紀・四万十付加体の形成
しかしこれ以降、古第三紀約4300万年間、三重県の北部にはその地質活動を確認し得る地質体は何も残されていません。多分中生代以降にも、未知の火山活動による火山岩や幾多の海生堆積層が生じて中生代地殻の表面を覆っていたことが考えられます。
通常火山地下には既存の(より古い)地殻を貫入した火道やマグマ溜まりが存在し、そこには噴火当時形成された火成岩が残ります。しかし4000万年の歳月が表層侵食によってこれらの上部地殻を削り取り、中新世の日本海拡大時に起きた大規模な構造侵食やそれ以降の山脈隆起によって、水平方向の地殻も失われているからです。
例えば後に書きます、中新世中期15Ma頃に活動したと考えられている大台カルデラなどは、火山の火道や火山の上部を覆っていたはずの火山岩は現在何も残されておらず、火道周辺を取り囲む様に細い帯状に分布する脈岩のみが表層に現れています。
このため、紀伊半島南部の地質が研究者によって精査され、この一帯が嘗ての巨大火山の後だと考えられるようになったのは、20世紀も終わりに近づいてからです。
私の学生時代には、現在この火山由来の堆積物と考えられに至った室生火砕流堆積物のある奈良県曽爾周辺に、かっては室生火山が存在したと思われていたもので、少し前まで不勉強な役場や観光地の資料には未だ室生に火山があったと書かれていたものです。
そんなわけで、この時代・古第三紀を通してこの一帯が地表にあったのか、長期間海没した時期があったのか、また地表には火山岩が覆っていたのか、確実なことはなにも分かりません。
当時、現在の日本の主要部を形成する地殻の多くは、現在の北朝鮮沿岸からロシア東部ハバロフスク地方一帯に存在し、現在同様太平洋に面した沈み込み帯の縁辺部をなしていたと考えられており、その後の日本海拡大に伴う地殻の激変は半端なものではなく、その過程で多くの地質情報も失われたとみられるからです。
この年代の地質体が残されているのは中央構造線以南の西南日本外帯、紀伊半島の南部・御坊と熊野を結ぶ直線より南の地域で、この一帯には古第三紀に沈み込み帯で底付けされた付加体群(四万十帯 音無川層群・牟呂層群)が存在します。
さらにこれより北から中央構造線迄の間には、より古い白亜紀前期から後期にかけての付加体(四万十帯日高川層群)が存在します。日高川層群は南北幅約62km、音無川層群・牟呂層群は南北幅約43kmに渡って分布します。
中央構造線以より北側、西南日本内帯の地殻は中新世に起きた日本海拡大に伴う地殻の収斂によって中央構造線の断層面で大規模な侵食を受けて消失しています。
紀伊半島の後期白亜紀から古第三紀の付加体分布。尾鷲から潮岬の空白域は中新世の火山岩堆積によるもの。中央構造線沿いの白亜紀堆積層は和泉層群。神戸北部の古第三紀堆積層は神戸層群。
付加体が造られた期間は白亜紀付加体が約8000万年間、古第三紀付加体が4300万年間で、白亜紀付加体のほうが二倍近い時間を経て居ますが、原岩の供給環境や構造侵食の違いによって、残された付加体の量(幅)に差が生じます。
白亜紀から古第三紀にかけては、火山群の活動に伴い地表を覆った火山性堆積物や火山岩類、白亜紀の2度に渡る海嶺沈み込みに伴い激しく隆起して侵食を受けた上部地殻の砕屑物が大量に海溝に供給されました。
これらの付加体は、それらの砕屑物を原岩として海溝深部で陸側に底付けされて成長したもので、付加体が成長する少し前の時代に、侵食によって陸側地殻からそれらの付加体を生み出すに足りる砕屑物が海溝へと流入したことを示しています。
陸側で地殻が侵食されてから100万年後(1Ma)に沈み込み帯で付加体の形成が始まる見れば、白亜紀付加体や古第三紀付加体の形成はその時代の100万年前には後背地が砕屑物の供給環境で在った(供給が少ないと構造侵食が優勢となり付加体は削除されるようです)ことを意味します。
従って白亜紀・古第三紀を通して、当時の海溝より内陸部、鈴鹿山脈の表層以西には発達した山域が形制されていたと想像でき、表層侵食によって絶えず海溝深部にもたらされた多量の砕屑性堆積物が、これらの付加体を成長させたといえます。
古第三紀の堆積環境
現在三重県の近隣で付加体以外の古第三紀の地質体が見られるのは、神戸層群と呼ばれる地層が広範囲に堆積する神戸市北西部の一円と、中国地方の岡山から三原にかけての瀬戸内海側の地域で、こちらは山砂利層と呼ばれる小規模な河川堆積物や淡水から海成の堆積層が方々に点在しています。
これらの地層は、嘗ては中新世・古瀬戸内海の堆積物と思われていたのですが、近年になって始新世から漸新世(神戸層群は34Ma前後)の堆積物であることが明らかになったもので、古瀬戸内海の形成年代が大きく後退しました。
神戸層群の堆積時期は、正に日本海の拡大が始まった頃に当たります。プルームの湧昇による地殻の展張(リフト化)によって地殻が沈み、盆地化した内陸に徐々に海水が進入して浅海となり、其処に住んでいた大量の牡蠣殻の化石などが出土します。
その後一旦海面が後退して河川周辺の地層が堆積し、これ等の層からは当時の大陸に生活していた様々な動植物の化石が出ることで知られています(大阪市立自然史博物館のHPに詳しい)
鈴鹿山脈周辺には、この当時の地層が堆積した痕跡はないので、当時はまだ陸化していたのでしょう。鈴鹿山脈一帯に海成層の堆積が見られるのは中新世中期・日本海の拡大が進んでいるころです。
古第三紀・東アジア直下のプルーム活動と日本海の誕生
古第三紀中期・始新世に入るとアジア大陸東縁、バイカル湖から日本にかけての一体で、下部マントルからプルームの上昇流が生じ、上部地殻を押し広げ始めました。プルームは小規模な幾つもの枝に分かれて湧昇し、バイカル湖・渤海湾・日本海・オホーツク海等を生むことになります。
日本海拡大期の地殻断面図。拡大の後期にはMTLに沿って内帯地殻が衝上し侵食削除された。
「日本海の拡大と構造線」 地学雑誌119(6) p1110 2010 より
日本海の拡大は、古地磁気記録や海洋底掘削などからほぼ22Ma~15Maの間に生じたことが分かっています。現在の日本の弧状配列も、この時期に大陸縁辺から引き裂かれた大陸地殻が、展張を続けるプルームの頂部に乗っかる形で移動してほぼ現在の位置に落ち着いたものです。
日本海拡大前のアジア大陸東縁の地殻復元図 「日本海の拡大と構造線」 地学雑誌119(6) p1098 2010 より
鈴鹿山脈を含む地域は25Maの頃には、朝鮮半島の東端から200kmほど東に進んだ辺りに存在したようです。現在は日本海の海底に当たる位置ですが当時は朝鮮半島から北朝鮮・ウラジオストックの一帯とは地続きで大陸地殻に覆われていました。
東アジア東部に湧昇したプルームの一部が、22Ma頃から日本から北朝鮮・ウラジオストックの一帯の大陸地殻を引き裂き始めます。日本の中央部に達したプルームは西南日本と東北日本をフォッサマグナを境に分断して太平洋側へと流れ、その上に載った西南日本と東北日本の地殻をハの字型に押し開きました。
日本海の海底にはプルームの湧昇流の頂頭部が露出し、広範な玄武岩質海洋底を形成しました。日本の地殻を東西に引き裂いたフォッサマグナの地溝部にも、プルーム流が直接湧昇して玄武岩質の海洋底地殻をつくりました。
細かく裂けた大陸地殻の残りは、プルーム流に乗って南東方向に拡散し、大和堆や隠岐堆など日本海内で幾つもの小陸塊となりました。
現在の日本列島の位置は、西南日本が日本海を押し広げたプルームの南東部収束域(現在の南海トラフ)の縁辺にあたり、東北日本が東部収束域(現在の日本海溝)の縁辺にあたっています。
フォッサマグナは2つの収束域の境界に位置し、異なった運動方向をもつた上部地殻は、フォッサ・マグナ部で西南日本と東北日本に引き裂かれて、薄化した地殻は沈降して大量の砕屑物が谷を埋め現在6000m以上の中新世以降の堆積物で埋まっています。
リフト化した日本の地殻は引き伸ばされて薄くなり、多数の正断層が発生して日本の各地に沈降盆地が生じました。地盤の沈降とともに海進が始まり、多くの地域が海中に没してその底には厚い堆積層がたまりました。
日本海拡大に伴う地殻の薄化は瀬戸内海から中部地方一帯を徐々に海面下に沈め現在の瀬戸内海に似た内海・古瀬戸内海を生み、最後には日本全体が殆ど海中下に没したと考えられます。
鈴鹿山脈や布引山地の周囲には、日本海拡大期の海成・非海成堆積層が方々に残されています。関町の加太盆地や関町観音山から芸濃町石山観音周囲に分布する鈴鹿層群。土山町鮎河から鈴鹿峠の南部一帯に分布する鮎河層群。釈迦ヶ岳から御在所山東麓に帯状に分布する千種層。
さらに布引山地の東部山麓から伊勢平野丘陵地帯にかけて津市芸濃町から安濃町・美里町・榊原町・白山町一帯に分布する一志層群。伊賀市 旧大山田村・阿波盆地周辺に分布する阿波層群などで、どれも中新世前期・20~15Maに堆積したもので、前半には陸成の盆地堆積層が、海進を伴う後半には海成堆積層が認められます。
プルームの展張と、それに伴う表層地殻の薄化・地盤沈下はアジア大陸東縁部一体の地殻を海面下に沈めるとともに、それまでは陸地であった部分を大きく引き裂き日本海を誕生させます。同時に薄化した地殻を破って日本の方々にマグマが噴出し大規模な火山活動を生みました。
中国地方日本海側から中部・関東・東北各地に大量に分布する緑色凝灰岩・火山性堆積物(グリーンタフ)はこの時期の海底火山活動に由来するものです。
鈴鹿山脈周辺の中新世堆積層については 「鈴鹿山脈の地質」新生代中期・中新世堆積層 にも少し書いてあります。
日本海拡大期の火山活動・布引山麓の凝灰質岩層
三重県中部には、この時期に活動した火山による火山堆積物が17.5~16Maにかけて津市の布引山麓に堆積した一志層群・大井累層の中に大量の凝灰岩層(三ヶ野凝灰質シルト岩砂岩層)として残されています。
これ等の凝灰岩層は嘗ては室火火砕流堆積物と同一起源と見られていましたが、近年、室火山岩の給源と見られる大台カルデラの活動年代が15Ma前後に特定されたため、大井累層中の凝灰岩の給源は16Ma以前・日本海拡大期に活動した未知の火山群によるものとみられます。
この凝灰岩の給源とみられる火山の痕跡は、三重県とその周辺には見られませんが、大台カルデラがそうであったように、何時かは研究者によって明らかにされる日が来るかもしれません。
地殻の大規模な移動は、当然その収束域において、既存地殻との大規模な地殻衝突を生んだわけで、その結果現在の日本列島の東部-南部の縁辺にかけて大規模な山脈形成と構造侵食による大量の砕屑物を発生させました。
西南日本を縦断する中央構造線は、この時上部地殻の滑り面として機能したとのことで、移動してきた内帯側の上部地殻は、中央構造線沿いに外帯側へと突き上げて外帯側には巨大な山脈が生まれたものと見られます。
この衝突の名残は、既に全て侵食され尽くして今では見ることが出来ませんが、この時発生した膨大な砕屑物は海溝に供給されて付加体の原岩となり、南海トラフと日本列島の間を埋める大量の第三紀以降の付加体となりました。
22Ma~14Maに至る中部地方の海水域の変化を地質調査所 吉田史朗氏らの作成された古地理図で示します。この図では16Maには中央構造線の一帯も水面下として描かれていますが、次に述べるように山脈の形成があったと考えると山稜部分は陸地として残ったでしょう。
日本海の拡大が本格化する中新世23Ma以降は三重の中部にも海進は進行し、16Ma最大海進の頃には鈴鹿山脈から布引山脈の一体も完全に海中に沈んだと考えられます。
日本海拡大に伴う海進の様子。水色が海 緑が淡水湖
「中部地方南部の古地理-2,200万年前から現在まで」 吉田史朗 岡崎正紀 地質ニュース No.546(2) 2000より
この時期の堆積層は鈴鹿山脈の地質に書きましたが、海進は加太盆地と鈴鹿峠三重県側の両方から始まり土山・鮎河地域に侵入して16Maの頃には山系のすべてを海中に沈めた模様ですが、日本海拡大の収束する15Ma頃には再び急速に陸地に転じたようです。
西南日本を縦断する大山脈の形成
この頃、鈴鹿山脈の南端から50km程南に下った中央構造線沿いの一帯では驚くべき出来事が生じていました。
湧昇プルームの頂部に乗っかって移動してきた西南日本の内帯と、海溝の前縁に存在していた西南日本外帯が衝上断層面を形成した中央構造線を挟んで衝突し内帯側の大陸地殻が外帯の上部に突き上げて長大な山脈を形成したのです。
当時、外帯側地殻の東方には日本海の拡大と時を同じくして拡大を始めた四国海盆が広がっており、内帯の移動を阻む形で南海トラフへ沈み込んでいましたが、誕生間もない四国海盆の海洋地殻は高温で簡単には海溝に沈み込むことが出来ず、その縁辺に発達した外帯側地殻を内帯側に押し上げるような形で働いたのかと想像します。
この結果、内帯側地殻は中央構造線をすべり面として外帯側地殻へ乗り上げました。日本海の拡大速度は異常に早く、時に年間20cmを越えたとも言われますから、拡大が終了したと見られる1600万年前までの数百万年の間に移動してきた内帯側地殻は100kmを超えると言われますからすべり面までの地殻の厚みが10kmあるとすれば外帯側へと衝き上げた地殻の総量は夥しい量にのぼり、中央構造線の周辺に短期間に長大な山脈を造り上げたことでしょう。
中央構造線の断層面は内帯側の地殻を形成する領家花崗岩帯の底面で、地表より十数kmの深度に存在し、当時の温度圧力条件ではマイロナイト化したすべり面を形成していたとのことです。
この山脈は西南日本の東西全長にわたって発達し、その高度は4000~5000mにも達したのではないかと思われます。この衝上断層帯の前縁には急峻な断層崖を持つ大峡谷が発達し大量の砕屑物を海洋へと排出しました。
地殻は年間10cm以上の早さで海溝側へと移動していましたから、衝上断層の上面に排出される内帯側地殻は夥しい量に上り、それを短期間に排出削除していった断層前面の谷も極めて大規模なものであったと想像します。
現在の櫛田川と宮川は当時の断層谷の痕跡を今に伝えるものですが、周辺の山域には最早当時の面影はなにも残っていません。1500万年の歳月は、たとえ当時は5000mを越える大山脈が聳えていたにせよ、表層侵食で平地に替えてしまった様子です。
この急激な山脈形成に伴う大規模な表層侵食によって、内帯の移動量に見合うだけの内帯側地殻が削除され、現在では紀伊半島南部では火山フロントの領家花崗岩体が三波川変成帯と接するようになりました。
中新世のカルデラ噴火・室生火山
日本海の拡大が収束した15Ma~14Maにかけて、中央構造線を挟んで紀伊半島の中南部一帯では、すさまじい火山活動が発生します。この辺りは沈み込み帯に近く、火山フロントから離れた場所なので本来は火山活動が起きないと言われていた場所です。
ただし、当時は日本海側のみならず太平洋側でも海洋底の拡大が起こり、西南日本の南東縁には、拡大間もない四国海盆が南海トラフへと沈み込んで高温度の四国海盆の沈み込みによって、通常の沈み込み帯より遥かに海溝に近い側に火山フロントが誕生したそうです(巽好幸 「地球の中心で何が起こっているのか」のなかに分かりやすい説明があります)
紀伊半島以外でも、中央構造線の一体には瀬戸内火山岩類と呼ばれる中新世の火山岩・火山堆積物が存在します。
火山の痕跡は現在の大台ヶ原山の北部に残された大台コールドロンと熊野西部の熊野カルデラが認められ、これらの火山の火山岩と考えられる熊野酸性岩類が熊野から尾鷲にかけての山域に広がっています。
中新世の火山岩類の分布と大台コールドロン。中央構造線以南の火砕流堆積物は表層侵食により全て消去された。
大台コールドロンは1500万年前前後に巨大なカルデラ噴火を起こしたと考えられており、その火砕流堆積物は中央構造線を越えて20km以上南の奈良県室生から曽爾の一帯にかけて残っています。
これは東西28km 南北15km 最大層厚400m以上の巨大な岩体で現在室生火砕流堆積物(室生火山岩類)と呼ばれています。他にも奈良県内には火源から50km以上離れた地域に、それぞれ玉手山凝灰岩・古寺凝灰岩・石仏凝灰岩と呼ばれる火砕流堆積物が存在し、同一の火山に依る堆積物と見られます。
これら現存する火砕流堆積物の広がりと量から想像して、この火山がカルデラ噴火を起こした際には、火源を中心として100km程度の範囲は火山灰・火砕流・溶岩流に埋め尽くされたのではないでしょうか。
大台コールドロンについては、 -日本列島の地史 大台コールドロン- でも少し書いてみました。
この当時、中央構造線の周囲は衝上断層が造る壮大な山脈が横たわっていたはずでが、火山性堆積物はこの山脈を越え、三重県中南部・奈良・和歌山各県の多くのの地域を飲み込んでしまったと想像します。
しかし現在では、中央構造線以南から熊野灘に至る大台・大峰山系に堆積したであろう火山性堆積物は、断層が生み出した大山脈共々1500万年間の表層侵食によって跡形もなく消え去ってしまい、中央構造線以北に堆積した室生火砕流堆積物や熊野灘周辺部の熊野酸性岩類中の凝灰質岩の地層のみが今も残されています。
室生火山が活動した15Maの時期には、古瀬戸海の海進は止まり鈴鹿山脈の一帯は隆起して、既に陸地に変わっていた模様です。噴火の規模から見て室生火山のカルデラ噴火に伴う大量の火山灰堆積物が三重県北中部にも降り積もったはずですが現存するもの知られていません。
しかし鈴鹿峠以南の中新世後期から鮮新世にかけての堆積層の中には、大量の溶結凝灰岩礫や凝灰岩を含む地層が方々に見られます。これは堆積当時、未だ室生火山に由来する火山性堆積物が大量に残存しており、そこから流出して堆積した二次的砕屑物の堆積層とも考えられます。
この当時、木曽三川から伊勢湾へと抜ける現在の地形は未だ存在していなかったと思われます。日本海拡大が収束した中新世の頃には、中部地方から関西地方にかけては、東西方向に延びる海溝と平行に発達した、なだらかな山地が連なる地形であったと想像します。
日本海拡大の収束とともに、それまでの展張場は、従来の海洋プレート沈み込みに伴う南北方向の圧縮場が回復し、海溝の前縁の地殻は隆起を始め16Maの頃には海中に没した一帯も、15Ma以降には再び陸化した様です。
伊豆-マリアナ島弧の衝突と鈴鹿・布引山系
更に15Maの頃には、三重県の地殻にも極めて大きな影響を及ぼした出来事が日本列島の中央部に発生します。
古第三紀より太平洋プレートの南縁に発達して北上を続けていたフィリピン海プレートの下側へ、太平洋プレートが沈み込むことによって生まれた伊豆-マリアナ島弧の海底火山列が、フィリピン海プレートの移動とともに日本列島の中央部に衝突し始めたのです。
伊豆ーマリアナ島弧の衝突については、 -日本列島の地史 プロト伊豆弧の衝突- も参考にしてください。
フォッサマグナの地溝部に追突した伊豆-マリアナ島弧は、中央日本の地殻を北西方向に押し込み、著しい歪を与えてその地体構造をハの字型に変形させてしまいます。
この結果西南日本の地殻には、伊豆-マリアナ島弧を追突させるフィリピン海プレートの沈み込みに伴う圧縮場と、太平洋プレートの沈み込みに伴う圧縮場の合力として、東から西に向かう強い圧縮場が形成され、中新世以降はこの複雑な圧縮場の影響下で中部地方の地殻の変化が生ずることとなります。
鈴鹿山脈一帯の陸化と相まって、山脈の東部一帯には逆断層による沈降と褶曲に伴う向斜により前弧盆地が形成され徐々に湖が広がり始めます。
東海湖と名付けられたこの湖は、700万年程前から伊勢湾の南部から徐々に拡大し始め現在の伊勢湾沿岸の地域を広く覆って、500万年以上もの間、湖としての形を保ちました。
海に接近していても海進が起きなかったのは、中新世に中央構造線沿いに形成された山脈が未だ高さを保っており、これによって海水の流入が妨げられたと考えられます。
中新世から鮮新世前期にかけては海溝と平行に湖の形成が始まる。鮮新世以降は東西の圧縮場により湖は海溝と直交する方向に発達する。
「中部地方南部の古地理-2,200万年前から現在まで」 吉田史朗 岡崎正紀 地質ニュース No.546(2) 2000より
東西方向の圧縮場は、それまでフィリピン海プレートの沈み込みが生み出していた南北方向の圧縮場を徐々に圧倒し、鮮新世から更新世の頃には、それまでの南北方向の圧縮場から、海溝に並行した東西方向の圧縮場が卓越するようになります。
伊豆半島の衝突と鈴鹿・養老山脈の隆起
10Maの頃には、伊豆-小笠原-マリアナ海山列に乗って現在の伊豆半島が日本の中央部に衝突し東西方向の圧縮場を一気に高めました。この結果、鈴鹿・布引山系の東縁と西縁に幾つもの逆断層帯を発達させ、この逆断層にそって鈴鹿・布引の両山系と養老山脈が隆起を始めます。
この際、近江盆地との境となり山脈の西縁に連なる加太断層系と、山脈の東縁を走り伊勢平野との境となる一志断層系とでは、東側の一志断層の隆起量が大きかったため、鈴鹿山脈は東に急で西になだらかな傾斜を持った傾動地塊山地を形成することとなります。
東海湖と東海層群の堆積