私とプレートテクトニクス -付加体との出会い-
鈴鹿の山はいつ頃から在るのだろう?そんな素朴な疑問を抱き始めたのは、もう50年以上も昔、私がまだ学生であった頃の話です。
当時、私は旧津市の郊外(現在の津市は平成の市町村合併で美杉の山間部まで市域となったが以前は御殿場から白塚までの伊勢湾沿いに開けた町であった)に暮らしており、県庁勤めの父親が、県庁前の栄町に借りていた借家から、浄土真宗高田派の本山専修寺近くの一身田団地に購入した家へ引っ越した頃でした。
港や船着場の意味を持つ"津"の町は南北に伸びる海岸線沿いに開けた城下町でしたから、住まいが栄町から一身田へと替わっても海は近く、どこに住んでも自転車で暫らく東へ走ると伊勢湾の海岸線にぶつかりました。
松の林を多く残した砂浜沿いに伊勢湾台風の後に新たに築かれた高い堤防の上へ上がれば、当時は洪水の恐れのある堤防沿いに敢えて家を建てる者も少なく、高い建築物などもあまり無かった時代ですから、遮る物のない西方には、伊勢平野の広がりの奥に藤原岳から笠取山へと延々と続く鈴鹿、布引山系の稜線が嫌でも目に飛び込んできました。
四季を通して様々な色合いに変化する長大な山並みは、何時見ても其処にあって悠久に変わることがないと思えるのですが、山からは幾つもの河川が流れ下り大量の土石を河口へと運んでゆきます。
栄町に暮らした頃は安濃川が、一身田では志登茂川が家のすぐ側を流れていましたから、川の流れは絶えず見ています。殊に台風や大雨の出水時に河川へと流入する土砂の量は大変なもので、水が治まると、上流から運ばれてきた土石で川底の地形がすっかり替わっていたりします。
川が山地を侵食して平にしてしまうことは学校でも習っていましたから、鈴鹿の山々も何時かは削られて平原になってしまうのかと思っていたのです。
そうでないことを知ったのは、鈴鹿セブンマウンテンについて書かれた新聞記事を何かのきっかけで読んだことでした。
鈴鹿セブンマウンテンと云うのは、鈴鹿山脈の沿線に鉄道網を持っていた鉄道会社が中心になって始まった登山大会で、鈴鹿の主だった山の登山道を整備してもっと多くの人に登ってもらおうと云う、登山の普及と同時に沿線鉄道の集客をも兼ねた巧妙な企画でした。
その紹介記事の中に、鈴鹿山脈の簡単な歴史が書かれており、それは鈴鹿の山々が数十万年前から隆起を始めた若い山で、今も隆起が続いているという内容でした。
高校で地学の教育があれば、多分この程度の知識は持っていたはずですが、私にとっては初めて目にする話でした。それでもエベレストやヒマラヤが100万年程前の造山運動で隆起したとの話は知っていたので、鈴鹿の山も同じような造山運動で誕生したのだろうかと思ったのを覚えています。
現在では造山運動がプレートの衝突帯に於いて双方のプレートの圧縮応力が逃げ場を求めて地殻を褶曲隆起させる現象だと捉えられています。しかし当時はプレート運動論など全くない時代ですから私には山を作る動きは全て造山運動に思えて、鈴鹿や布引の山系を創った造山作用とはどんなものだったのかと自分なりに勉強して考えてみようとしました。
当時、地質学で造山作用や堆積盆地の形成を説明するには地向斜と云う言葉が登場します。これは沈降盆地の形成過程を現象論的に捉えて記述した概念で、沈降を引き起こす力学や地形的な特殊性、形成要因についての説明は私のような素人にもすんなり理解できるものではありませんでした。
更に造山運動をこれに結びつけた地向斜造山論に至っては、アルプスやヒマラヤで起きたと思われる動きを地質学の言葉で逐次記述していった現象論的観察報告といったもので、造山を引き起こす物理化学的な原因、地下における花崗岩マグマの形成や隆起の力学的検証等それらの現象を引き起こすより本質的な原因についての記述は素人の私にはどうにも理解しがたい怪しい理論でした。
例えば当時の地学的表現に鈴鹿山脈は断層をによって造られた。といったものがあります。これは山脈の東縁と西縁を走る逆断層帯(一志断層等)に沿って、主に鈴鹿山脈主稜線を形成する山脈東部の地殻が隆起して生じた傾動地塊により、伊勢平野から近江盆地へと続く鈴鹿山脈の地形が生まれたとの意味で、断層が山を造った訳ではありません。
断層は山と同様にそれらを産んだ地殻内部の応力の結果であり、山や断層を造った原因とは地殻内部に応力を生み出した物理化学的なプロセスにある訳ですが、当時の地学ではこの肝心の部分がぼやけており、それは造山運動についても同様な感じでした。
当時の地質学、特に我が国の地質学は、僅かの研究者を除いて一般的に事象の記述と整理を中心とした現象論が中心であり、それらの現象を説明するため物理化学的モデルを構築してその物理化学的法則性より現象を説明する実体論的なレベルにはなかったのです。
プロの学者の世界に於いてすらそうですから、素人の私には本を読んだところで何ほどのことも分からず、鈴鹿の山についての思いは結局実りの無いままに終わってしまいました。
その後1960年台の終わり頃からポツポツと科学雑誌にマントル対流や大陸移動、海洋底の移動と海溝への沈み込みに関する紹介記事を目にするようになり、1970年台にはプレート移動と沈み込みをネタにした小松左京のSF「日本沈没」が登場しました。
このSFの科学的味付けには1960年台末にツゾー・ウィルソンによって構築されたプレートテクトニクスが使われており、私も大いに勉強になったのですが、当時のプレート理論が直接鈴鹿や布引の山と結びつくことはなく何時しか私の地質学への興味も冷めてしまいました。
当時、私が本業としていた電子工学の分野は疾風怒濤の時代で、トランジスタからICへ、ICからLSIへとデバイスはめまぐるしく進化し、インテルやモトローラによるマイコンチップ群の登場により、技術的知識を持ったものであれば、だれでも極めて安価にコンピューターを構築できる時代に突入していました。
私もこの分野は飯の種でしたし、何よりも尽きることのない技術的興味から持てるエネルギーのかなりの部分をこの分野につぎ込み地質学への積極的な興味を失ってしまいました。
まさか地質学の世界においても、電子工学同様にそれまでの世界観を根底から覆してしまうような理論的大変革が起きていようとは想像もしませんでした。
そのことを初めて私に気づかせてくれたのは、1990年の末に岩波書店より出版された平 朝彦氏の「日本列島の誕生」と云う地学啓蒙書でした。この本の中には、日本列島を形成する地殻の多くが、海溝の沈み込み帯で形成された「付加体」からできていることを氏のフィールドワークに基づく実例を交えた平易な文章で鮮やかに説明されていました。
既に、80年台前半から国内の地質学者の一部の方たちは、紀伊半島や四国で新たな方法論と分析手法を武器にしてそれまで殆ど手が付けられていなかった西南日本外帯の地質帯の研究を初めていました。
その時私には、日本の地学会の先端的な研究者達が打ち出したこの「付加体」の概念こそ、これまでの日本の地質学のあり方を根本的に変えてしまう魔法の言葉のようにすら思えました。
実際それまでの地学の概念では、私達が日常的に目にする地体の形成状況の説明すら難しかったのです。私は山登りが好きでしたから良く沢歩きをやりました。鈴鹿や布引の谷には花崗岩の露頭だけでなく、堆積岩や変成岩の露頭も多く見られます。
しかしそれら堆積層や変成層の産状は、およそ堆積の概念とは縁遠く、極めて複雑な褶曲や変形をうけたものが多くて、地向斜理論では到底そんな複雑な産状の説明はできまいと思い続けていたものです。
ところが沈み込み帯深部における底付け付加の作用は、高温高圧のもとで地殻に加わる複雑な力のイメージを鮮やかに作り出し、水飴のように自在に変形されたチャートや泥岩層の形成の秘密を解き明かしてくれたのです。