原風景へ・・・大地の過去を知る
私たちの暮らしているこの大地は、一体いつ頃生まれたのでしょう。西方に聳える鈴鹿や布引の山々は何時頃から存在しているのでしょう。
私は周辺の山々を巡る度に、この山や谷や平野を生み出した自然の力の壮大さに感嘆し、その誕生の歴史を大地創世の頃から逐一見ることができたらどんなに素晴らしいことかと思い続けてきました。
しかし大地が辿ってきた数億年と云う気の遠くなるような歳月は年1cm程度の移動量でも大陸を数千kmの彼方へ動かしてしまいます。
現実に地球上に存在する大陸は、これまでも数億年の周期で集合離散を繰り返し、一億年といった単位で陸地を眺めるならば、正に水面に浮かぶ落ち葉の様に海洋上に群れては離れる漂流を続けてきました。
沈み込み帯の弧状列島日本。東からは太平洋プレート、南からはフィリピン海プレートが列島下に沈み込む。太平洋プレートはフィリピン海プレート下に沈み込み、伊豆半島からマリアナ迄延びる火山フロントには伊豆-マリアナ島弧火山列が続く。こんな日本は、果たしてどんな歴史を辿ってここまで来たのだろう?
ましてや日本が位置したのは海洋プレートがマントルへと沈み込む大陸の縁であり、ここでは地殻の構造的変化が当たり前で数百万年でもその地形は大きく変わってしまいます。
こんな環境では多くの優れた地質学者の努力をもっても、現存する地殻の限られた情報から、当時の日本が属した大陸やその周辺の様子をありのままに再現するの非常に困難な作業にも思えます。
それにもかかわらず研究者達は、現在日本各地の大地や海洋が持つ様々な履歴情報を手がかりにして、当時の日本の基盤岩の変遷をある程度正確に捉えることが出来るようになってきました。
例えば地学雑誌の特集号「日本列島形成史と次世代パラダイム part Ⅰ~Ⅲ」には、そんな研究者達に依る、日本列島形成史に関連した最先端の研究成果が記載されています。
以下の文章は、主にそこに掲載された丸山茂徳、磯崎行雄氏ら地質学者達の最新の研究に頼って、素人の私なりに日本と私の暮らす紀伊半島中部地域の形成史を考えてみたものです。
アルフレート・ヴェーゲナーの大陸移動説
1912年ドイツの気象学者アルフレート・ヴェーゲナーは、現在の地球上の大陸が嘗ては巨大な超大陸であり、古生代の在る時期に四方に分裂して海洋を漂流し現在の位置に至ったとする大陸移動説を発表しました。
偉大な地球物理学者アルフレート・ヴェーゲナーと彼の主著『大陸と海洋の起源』 大陸移動の証拠を求めて5度に渡るグリーンランド探検を実施したが最後は極地に倒れる。
彼は、各大陸の地形の輪郭に共通性が在ること、大陸間の地質やその構造に共通性が在ること、各大陸間の古生物や現存生物の分布に共通性が在ること、大陸各地に残された古気象学的記録は過去に大陸が異なった緯度の位置にあったとすれば説明がつくこと等を具体的根拠として上げました。
また地球表面には大陸地殻と海洋地殻と云う性格の異なった2つの層が存在すること。大陸地殻は海洋地殻の表層に浮かんだ状態でモデル化され、長時間的視野で観測すれば固体も流体のように振る舞うため、大陸地殻は海洋地殻の上を移動しうる可能性があることも物理的根拠としました。
ウェーゲナーによれば地球上に存在する大陸は、石炭紀の後期に存在した超大陸パンゲアが分裂して今の位置まで移動し、現在の大陸に至ったと考えたのです。
ヴェーゲナーによる石炭紀の地球・超大陸パンゲア 『大陸と海洋の起源』 Free ebooksより http://www.gutenberg.org/files/45460/45460-h/45460-h.htm
しかしこの卓抜した考えは、その根拠が極めて現実的であったにも関わらず、巨大な大陸地殻を移動させる物理的な力に対する合理的な説明が十分でなかったことや、ウェーゲナーの提示した地質学的な資料に問題が多かったこともあって当時の地質学者達からは徐々に無視されてしまいます。
そして20世紀の後半、マントル対流説を経て、地球表層はマントル上に浮かぶ複数の地殻(プレート)からなるとのモデルを引っさげたプレート・テクトニクスが登場し、大陸移動を鮮やかに説明するまで50年近くも忘れ去られたままでした。
プレート・テクトニクスが世に受け入れられたのは、1950年台に海洋底の研究や岩石に残された古地磁気の研究によって地殻の移動が現実味を帯びてきたことが契機となりましたが、これは正にウェーゲナーが主張した大陸移動の実証でも有りました。
超大陸パンゲア
ウェーゲナーが考察した超大陸パンゲアは、現在ではウェーゲナーが当初考えていた石炭紀よりは後の三億年から二億年前、古生代ペルム紀からトリアス紀にかけて存在したと考えられています。
パンゲアを構成した陸地は現在も大陸としてそのまま存在しているため、その復元は簡単で大西洋とインド洋を閉じて各大陸の陸地を一つにしてしまえば完成します。
パンゲアはアジア大陸の前身となった北側のローレンシア大陸とアフリカを中心に南米、オーストラリア、南極等南半球の大陸がまとまったゴンドワナ大陸の2つからなり、2つの大陸の間にテーチス海があり、大陸の周囲は超海洋パンサラッサに囲まれていました。
現在ではパンゲア以前に、幾つもの超大陸が存在したと考えられており、パンゲア超大陸はそれ以前に地球上に存在したローレンシア大陸、バルティカ大陸、ゴンドワナ大陸等の大陸が衝突合体して誕生したとされます。
超大陸ロディニアの分裂
10億年から7億年前には、これらの大陸が合体したロディニア超大陸が存在したとされ、ロディニアは、およそ7億年前にアフリカを中心としたゴンドワナ大陸、ローレンシア大陸、バルティカ大陸、シベリア大陸等10個以上の小大陸に分裂しました。
ロディニア超大陸よりゴンドワナ超大陸へ・・・創世期の日本が属した揚子地塊はゴンドワナ大陸の外れに在った。
磯崎氏らによれば日本の母体も7億年前原生代のこのロディニア超大陸の分裂によって南中国地塊(揚子地塊)が分離独立したことにより誕生したそうです。
南中国地塊の誕生
分裂当時の南中国地塊はコンドワナ大陸の東の外れロデニアの分裂に伴って開き始めた古太平洋パンサラッサに面しており、ゴンドワナ大陸よりも遥かに小さい大陸塊として古太平洋上に存在しました。
当時の日本の母体は、この南中国地塊の古太平洋側へと発達した大陸棚の一角に誕生したと考えられています。
もう一つ、この時代には日本列島の基盤岩に関係した非常に重要な地塊が存在します。現在の中国北部から朝鮮半島一帯の母体となった北中国地塊で、日本が誕生した当初、日本の主要部が北中国地塊に所属したと考える研究者も存在します。
平朝彦氏の「日本列島の誕生」は、他に先立って日本の基盤岩の多くが付加体であることを実証した研究者の手になる非常にわかりやすい地学入門の書ですが、日本の主要部は北中国地塊に属したとの立場で書かれています。
この書の論点は、中央構造線の以北の日本内帯はもともと北中国地塊に属し、以南の日本外帯は白亜紀の頃に横ずれ断層(中央構造線をそのように仮定した)に沿って南方より数千キロ北進して今の位置に至ったと云うものです。
石渡 明 辻森 樹両氏の「東アジアの250Ma大陸衝突帯と日本 八重山プロモントリー説再考」 地学雑誌121(3) 460-470 2012 も、磯崎氏らの日本主部を南中国地塊とする論文に対する反論であり、その中で日本周辺の大陸衝突帯の位置に関する4つの異なった考えについて検討を加えています。
ロディニアの分裂当所、南中国地塊と北中国地塊は全く異なった場所に存在しており、南中国地塊はもっぱら低緯度の地域を北中国地塊は高緯度地域を他の大陸に混じって別々に移動していました。
超大陸ゴンドワナ
しかしロデニアを構成していた各大陸は6~5億年前に地球の反対側まで移動して再び衝突合体してゴンドワナ超大陸を形成します。この時代南中国地塊は南極大陸やオーストラリアの近くに、北中国地塊は地球の反対側で南米やアフリカ、シベリア、アジア大陸等の母体となる陸地の近くに位置しました。
海洋プレートの沈み込み開始 (能動的大陸縁へ)
そして5.2億年前、カンブリア紀(5.4~5.0億年前)に古太平洋に面した南中国地塊の大陸棚縁辺に海洋プレートの沈み込みが始まります。
カンブリア紀初頭、南中国の古太平洋に面した縁辺に源日本が誕生する。その背後には大陸との間に現在とよく似た背弧海盆が在った。
この結果、沈み込み帯の背後には火山フロント、付加体、変成帯及び海洋斜面に作られた海盆堆積物などが徐々に生まれ日本の母体となる地殻が形成されて行きます。
海生生物の繁栄
またこの時代(カンブリア紀)になると、化石に見られる生物の種類と数が爆発的に増加します。それ以前の原生代にもエディアカラ生物群等の生物が存在しましたが、当時は生命(化石に残り得た生物)が自由な発展と繁栄を遂げるには、まだ地球環境が厳しすぎたようです。
殊に7億年前後には、地球の大半を氷で覆い尽くした全球凍結が生じて地球環境が激変し、光合成生物も殆ど活動を停止したと考えられており、生命を維持できたのは火成活動により凍結を免れた海底火山や熱水噴気孔の周囲など温度条件に恵まれた僅かな世界であったようです。
三葉虫の系譜 A Guide to the Orders of Trilobites http://www.trilobites.info/より 私の子供の頃には、バージェス動物群など見つかっていなかったから古生代カンブリア紀の生物といえは三葉虫であった。その種類も多く一万種以上に分類されているという。
それがカンブリア紀には生物創造の実験室のように多彩な生物群が登場し、現在の動物につながる種の殆どがこの時代に誕生したと言われます。
しかし生命が大繁栄したカンブリア紀においても、それはあくまでも水中での話で、地上には未だ生命が存在し得ませんでした。
カンブリア紀の生物群 NATIONAL GEOGRAHIC Explosion of Life THE CAMBRIAN PERIOD より
http://ngm-beta.nationalgeographic.com/archive/explosion-of-life-the-cambrian-period/
シアノバクテリアのように光合成を行って地球上に酸素を供給しうる生物はすでに二十数億年も前から活動していましたが、紫外線を遮ってくれるオゾン層は未だ薄く、地上では強烈な紫外線から遺伝子を保護できなかったと考えられています。
原生代や古生代の生物界についてはNATIONAL GEOGRAPHICの「太古の世界」に、とても分かりやすく親切な解説があります。http://www.nationalgeographic.co.jp/science/prehistoric-world/
もしこの時代の原日本にタイムスリップ出来たとしても、生命の栄えた水中と違い、草木一本生えることなく覆うものなどなにもない地上の光景は、絶えず強烈な日差しと、風雨による激しい表層侵食に晒された死の世界でありましょう。
古生代カンブリア紀には地球上で三葉虫が爆発的に栄え、古生代末ペルム紀まで繁栄したことが知られていますが、日本には古生代前期のカンブリア紀やオルドビス紀の堆積層が殆ど存在せず、この時代のものは化石の産出も無いようです。
>古生代地殻と化石
新潟県青海付近から福井県の九頭竜川上流部にかけて飛騨外縁帯と呼ばれる古生代の火成岩、変成岩、堆積岩が複雑に混在する地質体があります。中でも糸魚川青海地区は日本で唯一翡翠(中国の翡翠・軟玉ではなく硬玉)の産地として知られています。
新潟県青海町 ヒスイ輝石 「鉱物たちの庭」 http://www.ne.jp/asahi/lapis/fluorite/gallery/g2fr.htmlより写真をお借りしました。
この糸魚川翡翠が形成された環境こそ、海洋地殻の沈み込みが始まった当初の沈み込み帯の下部であり、糸魚川翡翠は5.2億年前海洋地殻の沈み込み開始を記録したメモリアルストーンだそうです。
それ以降5.4-2.3億年前トリアス紀中頃迄の3億年間は、日本列島は南中国(揚子)地塊の活動的大陸縁にあって、現在の日本列島に似た環境で地殻の成長や衰退を繰り広げながら、揚子地塊とともに海洋上を広範囲に漂流してゆきます。
この時期、古生代初頭から古生代中期頃にこの沈み込み帯周辺で造られたと見られる岩石を産する地域は長門・蓮華帯として一括され、九州北部から中国地方北部より近畿北部を経て飛騨山地に至る各地に点在しています。
また同様の地質年代をもった岩石は九州から四国中央部、紀伊半島南部をへて関東地方にかけて細い帯状に点在する黒瀬川帯にも見ることが出来ます。
化石を含むのは主に付加体として産する石灰岩で、付加年代と化石が堆積した年代には大きな開きがあり、堆積時の環境も原日本の位置からは遥かに離れた古期の海洋上に存在した環礁性火山群でした。
大阪市立自然史博物館サイトの「日本と近畿の化石」より。このサイトでは各時代の化石も楽しめます。
http://www.mus-nh.city.osaka.jp/tokuten/2011kaseki/virtual/history/paleozoic04.html
現在の日本には、古生代前期の堆積岩層は殆ど存在しないのですが、先に述べた飛騨外縁帯の一重ヶ根層(凝灰岩質泥岩、砂岩、泥岩等の混在層)の凝灰岩層からは、日本最古オルドビス紀(5.0~4.35億年前)中期の生物化石(コノドント)も見つかっています。
一重ヶ根層より産出したコノドント化石。何とも不思議な形だが、コノドントはヤツメウナギに似た生物の歯だという
「岐阜県上宝村一重ケ根地域より算出したオルドビス紀コノドント化石について」 地質学雑誌 Vol.103より
さらに飛騨外縁帯には、古生代石炭紀・ペルム紀(二畳紀)中生代ジュラ紀・白亜紀に及ぶ古・中生代堆積層などが複雑に分布します。
これらの堆積層は、沈み込み初期の大陸棚堆積層あるいは前弧海盆堆積層と見られていますが産状は極めて複雑で、示準化石によるか火山灰等の火成年代が測定できないと堆積年代を推定することもまず困難です。
これら地域の岩体の産状は、一般に古生代から中生代に及ぶ火成岩、変成岩、堆積岩の岩塊が無秩序に蛇紋岩に取り込まれた形で混在しており蛇紋岩メランジェと呼ばれます。
このように複雑な地質帯が生まれた経緯としては、まず地質帯が数億年に渡る造山活動と構造侵食により水平、垂直方向共に著しい短縮を受けて、一旦沈み込み帯へ引きこまれます。
沈み込む過程で、沈み込み帯境界を上昇する蛇紋岩体(マントルかんらん岩が加水作用を受けて地殻深部で大量に形成される)に捉えられて再び地表まで上昇し、その過程で時間的にも空間的にも全く異なった起源を持つ岩石同士が複雑に混ざり合った結果とのことです。
一方、東北地方石巻から盛岡一帯に及ぶ南部北上帯と呼ばれる地質体には、古生代石炭紀・ペルム紀、中生代トリアス紀・ジュラ紀・白亜紀にかけての海成堆積層が広範囲に広がっており揚子地塊側の大陸棚層・背弧海盆層と見られます。
この地域が特殊なのは、日本の他の地域にはこれ程の広がりを持った古生代の正常堆積層が存在しない点で、なぜこの地域にだけ付加体の形成環境とは異なった陸棚堆積層が厚く広範囲に存続し得たのかが不思議な所です。
生命の上陸
オルドビス紀以降になると、それまで生命の上陸を拒んでいた陸地の生命環境が整い、動植物の地上進出が開始されます。
甲殻を持つ節足動物の仲間や苔類が地上に現れ始め、シルル紀には原始的な昆虫や維管束と根を備えた真の植物が地上に姿を見せ始めます。次のデボン紀初頭には1mに満たなかった植物が、デボン紀後期には一気に進化を遂げ数十mの巨木となって本格的な森を形成するようになります。
森林の成長に伴い、水中生活者であった魚類がそのヒレを歩行用に進化させ、両生類として地表に進出し、脊椎動物の陸地進出の先頭に立ちました。
デボン紀後期 魚類が地上への進出を果たす NATIONAL GEOGRAPHIC The Rise of Life on Earth より
http://ngm-beta.nationalgeographic.com/archive/the-rise-of-life-on-earth-from-fins-to-feet/
植物の進化は未だ競争相手(捕食者)の少なかった地上で、石炭紀に開花し樹高50mにもなる木性シダの仲間が生い茂る大森林を形成しました。石炭紀の名の由来であるヨーロッパやアジアの巨大石炭層はこの時代の巨大シダの森林が化石化して作られたものです。
石炭紀の湿地 NATIONAL GEOGRAPHIC 太古の世界>フォトギャラリー:石炭紀より
http://www.nationalgeographic.co.jp/science/prehistoric-world/carboniferous.html
石炭紀、ペルム紀にかけて、南中国地塊は南半球の低緯度地域から徐々に北半球側へと移動します。専ら赤道近くを移動したようで、先に述べた当時の堆積層から得られる化石も温暖浅海のフズリナ・珊瑚・ウミユリ等の生物群集や熱帯系の陸上植物群化石で特徴付けられます。
一千万年以上の時間間隔で見ると地球上の大陸は水に浮かぶ木の葉のように移動する。石炭紀後期には強力なプルーム下降流が発生して周辺の地塊を吸い寄せ始める。
環礁性海山列の衝突 (秋吉帯)
石炭紀後期には、当時赤道付近にあった古太平洋パンサラッサ上に、多数の海山列(秋吉海山列)が誕生して珊瑚礁を形成し、ファラロン・プレートに乗ってペルム紀の頃に海溝へとに沈み込み、その一部が陸側に付加され今の秋吉帯となりました。
ペルム紀に入ると古テチス海を挟んで接近していた南北の中国地塊がプルーム下降流に吸い寄せられて衝突する。この時期ファラロンプレートに乗って秋吉-沢谷海山列が日本に接近し、沈み込んで付加体(秋吉帯)となる。
南北中国地塊の衝突
ペルム紀(2.85~2.45億年前)に入ると、それまで遠くはなれていた南中国地塊と北中国地塊とが接近し始め2億3000年程前トリアス紀(2.45~2.05億年前)には2つの大陸が衝突して一つにまとまります。
この北中国地塊(中朝地塊)には、南中国地塊には見られない数十億年前といった太古代の岩石が存在し、堆積岩に含まれる化石も北方系で、南方系の化石を産する南中国地塊とは全く異なった漂流履歴を示します。
飛騨地方や山陰地方には、これら北中国地塊に由来する太古代の岩石片を含んだ地質帯が残っており飛騨帯、隠岐帯と呼ばれています。
当時の日本は、この衝突境界の東の外れに存在していたため、衝突境界以南では南中国地塊に帰属する基盤岩が、衝突境界以北では北中国地塊に由来する基盤岩が見られたことになります。
しかしその後の二億年以上の歳月は、当時の地体構造をそのままに留めておくわけもなく、繰り返される造山運動による花崗岩帯や変成帯、付加体の隆起、日常的に繰り返される構造侵食によってその配列はたえず変わってゆきました。
更に第三紀中新世に勃発した日本海の開裂により、日本列島は大陸から断裂されたため、当時の地質帯の配列はなお一層乱されます。
このような結果、現在の日本(北海道東部を除く)で北中国地塊由来の古期地殻を持つとみなされる地質帯は、先に述べた山陰の隠岐帯と本州中部の飛騨帯の一部に残り、それ以外は白亜紀以降の地質体か南中国地塊所以の地質体で占められていると考えられます。
この2つの異質な大陸の衝突境界は中国大陸においては超高圧変成岩を産する秦嶺-大別山-蘇魯衝突帯として識別されますが日本国内ではそれに対応する超高圧変成岩が見つかっていませんでした。
しかし超高圧変成帯は、その後の造山運動による上昇過程で、加水変成作用を受けると中圧型変成帯として認識されることが明らかになり、国内に存在する古生代の中圧型変成岩が大陸衝突の痕跡を記録していると考えられるようになりました。
この大陸衝突帯の断片は、肥後帯として九州中央部、九州北部脊振山地、飛騨帯東縁宇奈月地区、北関東の日立地区まで飛び飛びに認められるそうです。
パンゲア超大陸とアジア大陸の形成
南北中国の衝突が生じたのは、両大陸下のマントル深部で極めて規模の大きいマントル下降流が形成されたため周辺の大陸地殻がその下降流に向かうマントル対流により引き寄せられたからです。
このマントル下降流によって古生代後期石炭紀からペルム紀にかけては、南北中国以外にもシベリア、カザフスタン、インドシナ、タリム(中央アジア)等の大陸塊が中国大陸周辺に引き寄せられて衝突し、現在のアジア大陸を形成した時代でもありました。
ウェーゲナーが予想したように石炭紀後期にはヨーロッパやアフリカ、アメリカ、南極等の大陸はほぼ一つにまとまっていましたがペルム紀に入ってアジア大陸も融合しパンゲアが完成します。
P/T境界の大量絶滅
これらの大陸を1つに纏め上げた地下のプルーム活動の規模は凄まじく、ついには世界中に巨大火山を噴出させてペルム紀とトリアス紀の間にそれまで生きていた大半の生物種が死滅したと見られます。
ペルム紀末の2億5000万年前に噴出したとされる中央シベリア高原の玄武岩は日本の10倍以上の面積を覆っており、その延長は周辺諸国にも追跡されるそうです。
超巨大火山の活動は地球の高温化と酸素濃度の急激な低下をもたらし、短期間の地球環境の激変によってペルム紀に生息していた生物種は殆どが絶滅(90-95%以上)したと言われます。
しかし、何とか環境の変化を切り抜けて、次の時代に命をつないだ生物種は、環境が回復するに従って徐々に進化発展を遂げジュラ紀以降の恐竜時代を生み出します。
アジア大陸と日本
それまで南中国地塊と云う小さな大陸塊とともに成長してきた日本は此処に来て巨大なアジア大陸の活動的大陸縁として中生代トリアス紀(2.45~2.05億年前) ジュラ紀(2.05~1.35億年前) 白亜紀(1.35~0.65億年前)を過ごすこととなります。
ペルム紀末からトリアス紀中期の日本周辺古地理 大別山—蘇魯衝突帯に沿って谷が形成され造山帯の砕屑物を大量に海洋へと供給した。トリアス紀からジュラ紀にかけて赤坂-葛生海山列が沈み込み付加される。
「活動的大陸縁の肥大と縮小の歴史」 地学雑誌 120(1) 87 2011より https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/120/1/120_1_65/_pdf
南北中国の衝突はペルム紀末240Ma頃に始まりトリアス紀中期220Ma頃には収束しましたが、この間衝突境界に沿って大陸内陸部より海洋側大陸縁まで巨大な谷を発達させ、この谷を通じて大量の南北大陸系砕屑物が衝突帯周囲に生まれた山脈より海洋へと流失しました。
これら大量の砕屑物は日本前面の海溝に運ばれてジュラ紀付加体(美濃丹波帯、秩父帯、北部北上・渡島帯)形成の原料となり、火山フロントでは大量の花崗岩体(バソリス)を生み出します。
その結果、ジュラ紀付加体では、それまでは太古代の年代を示す岩石が見られなかった日本の堆積岩(変成岩)類に北中国所縁の太古代の岩石片が大量に含まれるようになりました。
しかし白亜紀以降には、最早このような環境は失われ、それ以降に形成された堆積岩類は専ら日本の島弧を形成する花崗岩類や付加体を後背地として持つようになります。
ジュラ紀付加体と赤坂海山列の衝突
ジュラ紀付加体が形成された時代にも、ペルム紀の秋吉海山列と同様の起源をもった熱帯性珊瑚環礁を持つ海山群が海溝へと沈み込み、泥岩と砂岩を主体とする海溝堆積物や遠洋性の泥岩、チャート層とともに海山起源の石灰岩と玄武岩が混在する付加体群を形成しました(210Ma 古地理図)
これは鈴鹿山脈に於いても例外でなく、伊吹山から霊仙山、鍋尻山、高室山、鈴ヶ岳、御池岳、藤原岳周辺には領家花崗岩の熱変性を免れた環礁性石灰岩(赤坂海山列)の露頭が存在し、石炭紀後期からペルム紀にいたる環礁性生物群の化石を見ることが出来ます。
金生山の巻き貝化石 岐阜県博物館 「赤坂 金生山 新川化石コレクション~」ポスターより
大垣市赤坂町の金生山は赤坂石灰岩と呼ばれる古生代の化石産地として有名で、ペルム紀の日本産フリズナが最初に記載されたのも金生山の化石だそうです。
これら秩父帯に属する地質体はジュラ紀に沈み込み帯で陸側に底付けされた付加体ですが、環礁性海山の堆積層が形成されたのは石炭紀からペルム紀、原日本からは遠く隔たった古太平洋上であることには注意が必要です。
赤坂石灰岩の化石については大垣市の金生山化石館に多数の展示があります。化石館のホームページで公開されている「化石館だより」には色々と興味深い話が乗っています。
http://www2.og-bunka.or.jp/bunka/news/column.html
一方、山口県下関の豊浦層群、高知市三宝山帯の鳥の巣層群の様に化石を含む前弧域のジュラ紀海成堆積層と見られる地質体も存在しますが、黒瀬川帯や飛騨外縁帯同様にその産状は複雑です。
恐竜の時代
中生代トリアス紀から白亜紀にかけては世界的に気候が温暖で巨大な恐竜の栄えた時代でした。これは当時の日本でも例外ではなく、先に述べた飛騨外縁帯や南部北上帯等この時期の堆積層を持つ地域からは、恐竜の化石が発掘されます。
P/T境界の絶滅を免れた種はトリアス紀以降の新たな環境で一気に繁栄を迎え、生物の頂点に恐竜が君臨することになる。 NATIONAL GEOGRAPHIC 太古の世界>フォトギャラリー:三畳紀より
三重県にも鳥羽の安楽島には白亜紀恐竜・鳥羽竜の発掘で有名な松尾層群があります。この一帯は黒瀬川帯に属しトリアス紀の周防高圧変成岩、ジュラ紀・白亜紀の付加体、前弧盆地堆積層等雑多な岩体が複雑に入り組んだ岩相を持っており、鳥羽竜は白亜紀前期と見られる岩体から見つかっています。
安楽島一帯の地層は、地上で堆積したまま幸運にも侵食されず現在まで残ったわけではなく、一度は地表近くで地殻を形成した岩帯が、構造侵食を受けて沈み込む海洋底とともに再度沈み込み帯前面にに引き込まれたものです。
沈み込む途中で、時間的空間的な距離を極端に圧縮された状態で沈み込み帯前縁を上昇する蛇紋岩に捕獲され蛇紋岩帯とともに地表まで現れた複雑な経緯を持ちます。
このためその堆積過程を厳密に推論するのは困難なことですが、想像するに当時の日本と言うより中国大陸東部の沿岸部に発達した、瀬戸内海のような内海(前弧盆地)の河口周辺部の堆積層と思われ、辺りには様々な恐竜が生活していたのでしょう。
白亜紀の造山運動 領家帯と三波川帯の形成
白亜紀を通して、このような環境は続きますが白亜紀中期には沈み込み帯に中央海嶺(イザナギ・クラ海嶺)の沈み込みが生じ大規模な造山運動(都城造山運動)を引き起こします。
プレートテクトニクスの定義に従うと海嶺は海洋底の発散点であり、その発散点がプレート移動して沈み込むとは元の定義に反するようにも感じます。
しかしプレート下部のマントル流の対流パターンは時とともに変化してゆくため、大陸地殻の移動とともに、嘗ての発散点がいつしか移動するプレートと共に海溝へと沈むイベントも生ずるわけです。
この造山運動は非常に大きなもので、火山フロント直下には大規模な花崗岩帯が生まれ、その上部ではジユラ紀に形成されていた付加体に高温低圧型変成作用を及ぼして現在の広範な領家花崗岩帯・変成帯を造りました。
白亜紀火成岩類の分布は西南日本において特に顕著で、緑マークの変成岩類を加えると表層地殻の半分近くがこの時期の火成岩で占められている。 産業技術研究所 シームレス地質図に加工
さらに海嶺の沈み込みは、沈み込み帯深部で陸側に付加された低温高圧型変成帯(現在の三波川変成帯)を地表迄隆起させ、火山フロントと海溝の間に高圧変成帯を薄い層状に挟み込んだドーム状の台地を形成します。
(造山過程における花崗岩帯や高圧型変成帯形成の仕組みは非常に複雑難解で私には十分に理解できませんが、深く知りたい方は{太平洋型造山帯-新しい概念の提唱と地球史における時空分布-丸山茂徳 大森聡一他 地学雑誌120(1) 2011 }を一読されることをお薦めします)
高温型変成帯に対して低温型変成帯が海側に対となって形成されることは都城秋穂博士によって見出され対の変成帯と名付けられたものですが、この対の変成帯の形成プロセスについても、上記論文に詳しく記載されています。
この時期の造山活動とそれにともなって形成された花崗岩帯や地表に降り注いた火砕流の規模は極めて大きく、日本全土に渡って1000km以上の火山フロント沿いに、後背地たるアジア大陸の前縁に巨大な山脈を形成します。
この山脈は、ジュラ紀や白亜紀前期に沈み込み帯に供給されていた大陸系の砕屑物の流入を堰き止め、白亜紀中期以降は火山フロントとその前面で作られた地質帯の砕屑物のみが沈み込み帯に供給されるようになります。
白亜紀の古地理図 地殻を増加させる長大な花崗岩帯の形成や付加体形成と釣り合うかのように、大規模な構造侵食が起こり地殻の総量はほとんど変化しない。原日本が誕生して以来5億年以上の間、このプロセスが今日まで繰り返されてきた様です。
「活動的大陸縁の肥大と縮小の歴史」 地学雑誌 120(1) 88 2011より
さらに火山フロントと隆起した変成帯ドームとの間に形成された帯状の盆地には、瀬戸内海の様に海水が侵入しました。この盆地の堆積層は現在愛媛から徳島を経て和歌山北部まで中央構造線沿いに残っており和泉層群と呼ばれています。
和泉層群は白亜紀の海産化石を多く産することで知られますが、その後日本海が開裂した過程で拡大する地殻の収束域として中央構造線が機能したためその南面を大量に侵食され現在に至っています。
巨大火山列島
当時、和泉層群が堆積した帯状盆地の背後の火山フロントには多数の活火山を擁した大山脈が聳えており、その後背地である中国大陸とも陸続きであったようです。
この時代の火山活動の名残は日本全国に幅広い領家花崗岩帯を残しましたが鈴鹿山脈の西部には湖東流紋岩類と呼ぶ当時の火砕流帯が残っています。またより大規模な火砕流帯としては、恵那山から飛騨山地西部にかけて分布する濃飛流紋岩が見られます。
湖東流紋岩類については -鈴鹿山脈の地質 白亜紀火山岩類- も参考にしてください。
更に中国地方では、もう至る所この時期のディサイト・流紋岩類に覆われており、後世の領家花崗岩の隆起と今日までの表層侵食を考慮すれは、この時代西南日本の表層は溶岩と火山灰と火砕流で埋まっていたと言っても良いと思われます。
現在地表に露出する領家花崗岩・変成岩の三重県周囲の分布 表層侵食特に伊勢湾から外洋に流出する木曽三川の侵食を考慮すると、白亜紀火成岩帯は切れ目なく日本中部を覆っていたことが想像される。
産業技術研究所 シームレス地質図より
多分火山フロントでの火成活動が最盛期の80Ma~70Maの頃には、火山フロント周辺の山地の多くが巨大火山より噴出した大規模な火山灰と火砕流帯で埋め尽くされ、生命の存在さえ危うかったでしょう。しかしこれら白亜紀当時地表を覆った火山岩層の大半は現在では侵食されて存在しません。
さらに白亜紀末から古第三紀にかけては、クラ・太平洋海嶺が再び海溝に沈み込み古第三紀花崗岩帯と四万十高圧変成帯のペアを形成します。
この時期の火砕流帯も規模は小さいですが湖東流紋岩類と濃飛流紋岩類の周囲に残されていますから、白亜紀の中期から暁新世にかけては日本の中央部に絶えず巨大火山が噴煙を上げ活動していた期間であったといえます。
当時地上の主役であった恐竜たちも、火山には勝てなかったでしょうから、火山フロントの火成活動が激しくなった時代は後背地であった南中国の大陸部へ避難し、生命の危険がなくなればまた日本周辺部へ戻るといった生活を続けていたと想像されます。
隣国中国は、恐竜化石発掘最前線の国であり、国内至る所から様々な時代の恐竜化石が発掘されて私達を驚かせますが、白亜紀には噴煙を上げる巨大な火山群と火砕流で覆われた山域を背景に、そんな恐竜の群れがところ狭しと歩き回っていたはずです。
当時の日本とは地続きで目と鼻の先に在った山東省諸城市の恐竜谷ではこれまでに7000点の恐竜化石が発掘されたとのこと、当然日本にもこれらの仲間がいたと思われる。 Recordchiha 2009年10月16日より
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=36260
彼らは火山の脅威が及ばなかった中国大陸寄りの陸地や海岸地帯を中心に活動し、数十メートルにも及ぶ個体が時には数百頭の群となって火山国日本の大地をも踏みしめたことでしょう。
そんな時代が嘗てこの国にあったとは、想像するのも困難なことですが、大地に刻まれた様々な記録は一億年の歳月を経た今、我々の前に当時の世界の姿を照らし出してくれます。
隕石衝突と恐竜の絶滅
しかし巨大恐竜が全盛を極めた時代も白亜紀末、隕石が地球に衝突する恐るべきイベントであっけなく幕を閉じます。隕石衝突に依る環境の激変は全世界を襲い、一億年以上も繁栄を誇った恐竜はあえなく絶滅してしまいまい、第三紀暁新世以降は哺乳類が地上で栄える時代へと移行して行くのです。
古第三紀の幕開け
暁新世に入ると、それまでは専ら低緯度の高温帯を漂動してきた日本も、東アジア全体が相対的に北へ移動したことによって現在のような中緯度地域となりますが、気候はまだ熱帯から亜熱帯に近かったようです。
インド亜大陸の衝突
また白亜紀後期から古第三紀にかけて、インド亜大陸がアジア大陸に衝突してアジア大陸の下へと潜り込みヒマラヤ山脈の隆起が始まります。
インド洋を北上したインド亜大陸は65Ma頃からユーラシア大陸と衝突を始めユーラシア大陸の下に潜り込もうとする。衝突帯前縁部は激しく隆起してアフガニスタン、ネパール、ブータンを経て四川省に連なるヒンズークシ・カラコルム・ヒマラヤと続く大山岳地帯となった。
ヒマラヤの隆起は気流の流れを替え、気候に影響を及ぼしますが、古第三紀暁新世以降漸新世迄の三千万年は比較的穏やかな時代が続いたようです。かつての白亜紀巨大火山群も多年の侵食を受けて平坦化され平原となるか、ゆったりとした山容のものに変わって行ったでしょう。
表層を覆っていた火砕流や溶岩流の多くは第三紀中新世迄の数千万年の間にはあらかた侵食され尽くし、白亜紀の都城造山活動が生み出した大山脈も砕屑されて海溝へと運ばれ、現在の四万十付加体の原料となります。
石炭の森
大規模な火山活動が収まった山脈の麓には壮大な森林地帯が生まれ、前弧盆地には北九州や北海道を中心に大量の石炭層が堆積します。石狩や常磐など日本の石炭産地はこの時代のものが多く、欧米のように石炭紀の石炭層といったものは見られません。
松・杉の針葉樹からカバ・ブナ・カシなど広葉樹に至る鬱蒼たる森林に覆われた温暖な大地では、隕石衝突を生き延びた哺乳類が恐竜にとって代わり、地上は大小様々な種に分化した哺乳類の支配へと変化してゆきました。
古第三紀始新世古地理図 火山フロント沿いの前弧盆には筑豊、常盤、石狩等の豊富な夾炭層が堆積する。当時は西南日本の外帯と内帯の間に火山フロントと海溝を隔てる100km以上の地殻が存在した。
「活動的大陸縁の肥大と縮小の歴史」 地学雑誌 120(1) 90 2011より
この時代には、日本はまだアジア大陸東縁に存在した弧状の陸地帯であり、北西部の朝鮮や中国、ロシア地域とも陸続きで自由に行き来できた様子です。
古第三紀漸新世(34Ma~23Ma)に入るとそれまで温暖であった気候が除々に寒冷化し始めます。この原因は大陸の配置変化に伴う海流循環の変化、隕石衝突やヒマラヤ、アルプス等大山脈の隆起等が考えられています。
日本海の開裂
そしてこの変化に合わしたかのように、東アジア大陸の東縁では日本海が開裂する大イベントが生じます。中新世(23Ma~5Ma)に入ると東アジアの直下でプルームの湧昇流が生じ、現在の渤海湾からサハリン一帯にかけての陸地を押し広げて日本海が開き始めたのです。
中新世初頭、バイカル湖から日本に至る一帯でプルームの湧昇が起こり表層の地殻を拡大し始める。この範囲はサハリンから南中国に及んだ。
「活動的大陸縁の肥大と縮小の歴史」 地学雑誌 120(1) 90 2011より
新世末2350万年前には、日本は未だ大陸と陸続きであったものが、20Ma~15Maにかけて現在の大陸縁辺部に湧昇したプルームによってそれまでの大陸地殻は幾つもの断片となりプルーム流に乗せられる形で四方へ拡散しました。
当時の日本は、プルーム湧昇地帯の東の端に当たっていたため、プルーム流が地殻底部で広がり始めると、その流れに乗って南東方向ー当時の海溝側へと移動し始めます。
大陸地殻は大小のブロックに断裂して移動し日本海の陸塊と日本列島の地殻となった。西南日本内帯と外帯の間にはまだ150km以上の地殻が在り地層は連続していた。
「日本海の拡大と構造線」 地学雑誌 119(2) 1079-1124 2010より
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography/119/6/119_6_1079/_pdf
地殻の展張は多数の断層と陥没地形を産み、地盤沈下した内陸部には海水が侵入して大陸と現在の日本の主要部を構成していた地殻の間に内海(日本海)が広がってゆきます。
プルームの拡散が進むと、上部の地殻は完全に引き裂かれ、地殻の割れ目には下部のプルームが直接顔を出して玄武岩質から花崗岩質の火山岩が噴出して海洋底を形成しました。
今日の日本海となるこれら薄化して沈下した地殻の上部には、大量の砕屑物や火山灰、火砕流が堆積して数千mの堆積層を形成します。また地殻断片の多くは現在の日本海の海底へと移動して大和堆の様な海底の台地となりました。
大陸地塊のうち最大のものは西南日本となり、関東から東北日本の東部もいくつかの大陸地塊の移動によって造られました。この時日本列島の主部はフォッサマグナを境に東西に引き裂かれましたが、これについては後に記します。
中新世火山活動とグリーンタフ
プルーム流の拡張に伴い、火山フロントの周辺でも薄化した地殻を破って多数の火山が活動しましたが、東北地方を縦断する中央部の山々はこのような火山の噴出によって形成されました。
牡鹿半島館山崎のグリーンタフ露頭
またこれらの火山活動は日本海側を中心に大量の火砕流を堆積させました。その多くは玄武岩のような黒色系の塩基性岩ではなく、大量の珪長質物質(白色系)を含む緑色~緑白色の独特の色をした凝灰岩となり、グリーンタフと総称されています。
瀬戸内区の堆積
日本海拡大当時の堆積層は、鈴鹿や布引山脈周辺にも多く見られます。竜ヶ岳西部 朝日山周辺の千種層、入道ヶ岳西部 県境尾根仏峠周辺、関町北西部 観音山~鈴鹿峠一帯及び加太盆地周辺の鈴鹿層群、仙ヶ岳西部 土山町鮎河周辺の鮎河層群、津市榊原~松阪市嬉野町一帯の一志層群などで20Ma~15Maの堆積年代を有します。
堆積層を産んだ環境は古瀬戸内海(瀬戸内区)と呼ばれ、長野から広島にいたる西南日本各地に広く分布して主に非火山性の堆積物からなることが特徴です。
西南日本に分布する瀬戸内区堆積層 最近は神戸層群や岡山から広島にかけて分布する地質体については古第三紀の非海成層と判断されている。 「古瀬戸海とマングローブ湖」 URBAN KUBOTA No.28/8より
これらは地殻の展張に伴い発生した正断層による陥没盆地への堆積層と考えられ、この辺りでは鈴鹿層群の堆積年代が最も古く20Ma~17Maの日本海拡大の初期から中期、鮎河層群・千種層群・一志層群はある程度の差はありますが18Ma~15Ma 日本海拡大の中期から後期の海成~非海成層です。
地層には多くの生物化石が含まれているため、それらの分析から生息環境が分かります。それによると、当時瀬戸内区は未だ温暖で、一部にはマングローブの茂る熱帯から亜熱帯に近い環境であったとのことです。
古瀬戸海は日本海拡大の後期16Ma頃に最も広く深くなりました。津市西部榊原周辺の一志層群がこの時代の堆積層で、多数の貝化石を出土することで知られています。
古瀬戸海は日本海の拡大が終了した15Ma以降は消滅します。それまでの展張場が本来の海洋プレートの沈み込みからくる圧縮場に転じたことや、地球寒冷化によって海水面が低下したことなどが原因とされます。
室生火山
もう一つ、三重県では日本海の拡大が終了した15Ma頃に噴火した巨大火山の跡を見ることが出来ます。奈良県境 曽爾高原の周囲に広がった室生火山群と呼ばれる火山岩地帯で、その規模が大きいことから嘗てはこの辺に火山が在ったと思われていました。
曽爾村の背後に広がる屏風岩 日本海拡大期の噴火に伴う火砕流堆積物で柱状節理が雄大な景観を見せる。
現在では、これらは巨大噴火に伴う火砕流堆積物と考えられており、東西28km 南北20kmの範囲に渡って領家帯を覆い曽爾村兜岳付近では400m以上の層厚を持つそうです。
また同一火源に拠るとみられる火砕流帯が柏原市玉手山、木津町古寺、奈良市春日山にも残されており、その分布範囲は東西60km近くにもなります。
近年の研究によって、このすさまじい火砕流の源が、此処から30km以上も離れた大台ケ原山北部に存在した巨大なカルデラ火山であったことが分かってきました。
「紀伊半島北部の室生火砕流堆積物と周辺に分布する凝灰岩の対比およびそれらの給源」 地学雑誌113(7) 2007
「室生火砕流堆積物の供給火山」 地球科学Vol.62 97-108 2008 より
曽爾高原の辺りに残った火砕流の規模から見て、このカルデラ火山が噴火した直後には、紀伊半島南部を中心に三重県や奈良県、和歌山県の大半はこのカルデラ噴火の火山灰と火砕流で埋め尽くされた死の世界であったと思われます。
大台コールドロン
この時吹き上げた火山灰は日本各地を覆い、あるいは大陸にも降り積もったかもしれません。しかし現在カルデラ火山の在った一帯は、鮮新世以降の地殻の隆起に伴う激しい表層侵食を受けて火砕流の痕跡すら見られないのは不思議ですらあります。
草色の地質帯が室生火砕流類、それらの供給源は大台山系に在った巨大カルデラ火山で、地質図では上層の秩父帯に同心円上の地体構造をもたらした。
現在では明神平から池木屋山をへて日出ヶ岳に至るこの一帯は、台高山地でも最も標高の高い山並みが聳えている場所ですが、大台コールドロンと呼ばれる火山構造性陥没地なのです。
シームレス地質図で見ると、山地の表層を覆っているジュラ紀付加体(秩父帯)が、火道を中心に陥没してチャート層(橙色)が円周状に露出した独特の地質構造が見られ、嘗ての火道の周りに巨大な酸性火山岩の貫入岩脈(桃色)が周囲を取り巻いているのが分かります。
さらに大台コールドロンに隣接して大普賢岳から山上ヶ岳の一体(5万分の1地質図山上ヶ岳参照)にもコールドロン地形が確認されるそうですし、上の地質図中桃色の熊野酸性岩類を産んだとみられる熊野コールドロンも紀伊半島下部に存在します。
これらのことは、当時この辺り一帯の地底に巨大なマグマ溜まりが存在し、それらが方々で大規模なカルデラ噴火を起こして、上部を覆っていた秩父帯の岩盤と共に地下のマグマを一気に放出して火口周辺一帯に夥しい火砕流を降り注いだと想像されます。
瀬戸内火山岩類
この時期には瀬戸内区の各地でも室生火山と同類(流紋岩質)の火成活動が起こり、それらは瀬戸内火山岩類と総称されています。本来ならこの辺りは火山フロントから離れた場所で、火山が存在すること自体おかしいのですが、この時期中央構造線の下部は、展張してきたプルームの収束域に当たっており、特異なマントル環境が中央構造線の周辺部で火山活動を発生させたようです。
日本海拡大の最盛期には、リフト化して薄くなった地殻を突き破り日本海沿岸では多数の火山活動があったことが知られていますが、これに類する巨大火山の活動が日本の方々で見られ、その周辺一帯を火砕流や火山灰で埋め尽くして、そこに暮らしていた多くのの生命を根絶しにしてしまったことでしょう。
しかし日本列島の歴史の中では、このような巨大火山の噴火も決して珍しいものではありません。むしろ巨大火山に依る火山灰層は広い範囲で時間の同時性が得られることから、鮮新世以降の堆積層の研究では、堆積年代や堆積層準決定の極めて重宝な指針となっているほどです。
幸い現代の日本では、まだ何処にもこの種の巨大カルデラ噴火の兆候はありませんから我々も平穏無事に過ごせるわけですが、或いはいつの日かそれは現実となり、国土の多くが火山堆積物で覆われて、その凄まじい脅威の前に震え上がる日が来るのかもしれません。
日本海と日本列島地殻
話を再び日本海拡大に戻します。プルームの湧き上がった大陸縁辺の一帯は、大和堆等の地殻断片を除いては吹き出したマグマによる海洋地殻(玄武岩)で埋まり現在の日本海となりました。約1000kmの幅を持つ日本海が5Ma(500万年)で開いたことになります。
日本を取り巻くプレートの配置とその動きは複雑で、いかに断層に区切られるとはいえ剛体に近い地殻にこんな複雑な動きが取れるのが本当に不思議な気がする。
「活動的大陸縁の肥大と縮小の歴史」 地学雑誌 120(1) 90 2011より
年平均では一年間に約20cm、プルーム湧昇の激しかった時期はこの何倍もの動きを見せたと考えられますから、日本海が開き始めた現場に居合わせたとしたら、年ごとに地溝(日本海)が広がってゆくのが分ったかもしれません。
渤海湾やオホーツク海にもこの頃のマグマによって形成された海盆が広がっていますから、この局地的なプルーム湧昇による地殻の展張は東西南北2000km以上の範囲に及んだ訳です。
同時期に海溝前面には四国海盆の拡大が生じますが、これも日本海拡大に伴う現象と見ればプルーム流の影響は更に広範囲であったと言えます。
もし数百万年に及ぶ地殻変動の模様をコマ落としで鳥瞰することが出来たとしたら、夥しい火山の活動に連動して見る間に地形が変化して行く有り様を目にしたことでしょう。
中央構造線と大山脈の形成
この時、日本列島の地殻は西南日本を主体に南東に向かって200km近く移動した訳ですが、拡大の南東縁では当然既存の海洋地殻(沈み込み帯)と追突する形になります。
このため拡大の収束側では拡大とは逆に多大の圧縮応力が生まれ、海溝側地殻に対して移動してきた地殻の突き上げが生じました。
中央構造線は日本海拡大の過程でこの収束域に生じた衝上断層帯で、この断層線と直交する方向に100km以上の大陸地殻が海洋側に剥離し削剥されたと考えられています。
日本海拡大時の構造浸蝕 中央構造線(Paleo-MTL)部分で白亜紀の火山フロント構成岩体が三波川変成帯の上に衝上し急激な山脈形成を伴う構造浸蝕が発生した。内帯側MTL境界は領家花崗岩帯最下面でマイロナイト化したすべり面となった。
「日本列島の大陸地殻は成長したのか?」 地学雑誌119(6) 1191 図10 2010 より
衝上断層帯に依る突き上げによって、西南日本外帯は削剥を受けると同時に断層面にそってどんどん隆起するため、古瀬戸海の消滅は中央構造線の活動とも密接に関係したものだったのでしょう。
一般的には中央構造線が白亜紀に造られたと考えられており、以前は私もそのように思っていた訳ですが、先に上げた地学雑誌の特集号に収められた数々の文章により、中央構造線の形成年代は中新世であると考えを改めるに至りました。
その主たる活動期間がどの程度なのか不明ですが日本海拡大期の20Ma~15Ma間の5Maかけて150km幅の上盤側地殻を削剥し得たとすれば一年間に30mm、地殻の厚みを10kmとみなして衝上断層の傾動地形で30kmに渡って表層侵食を受けたと考えても一年間に10mmの削剥量が必要とされます。
削剥された地層は、当時すでに一億年以上を経ていたはずのジュラ紀付加体もしくはその変成帯あるいはより若い領家花崗岩帯ですが、何れにせよそう簡単に取り除けるものではありません。
断層面で破砕され、断層前縁に形成された谷で侵食面が拡大したとしても谷の深さが10kmを越えたとは思えず、断層面下部の砕屑物は地殻外には排出されませんから、侵食は逆断層面での隆起に伴う表層侵食と深さ数kmの断層崖における崩落です。
現在地上で見られる最高高度の山脈でも標高9kmには及びませんから、高度が上がるに従って地殻の破壊が急速に進み削剥量が激増して高度を下げ、夥しい量の砕屑物が断層帯前面及びその背後に発生したはずです。
これが逐次排出されるためには平均的な河川の削剥量の数十倍~数百倍の侵食が必要と思われ、実際にこんなすさまじい出来事が生じたのか正直信じがたい部分もあるのです。
確かに、紀伊半島南部では、中央構造線MTLの南側には日本海拡大の終了期15Ma頃に大噴火した大台コールドロンが存在するのですが、この火口から噴出したはずの夥しい火山性堆積物はMTLの南部では跡形もなく消え失せてしまい表層浸蝕の激しさを想像できます。
(MTLの北部、断層による傾動地塊の低部で河口から30km近くも離れた曽爾村一体には現在も数百mの層厚で残ったが、当時の堆積量は今では想像できないほどの厚みであったと思う)
衝上断層面で地殻の上昇が起こると、内帯側地殻に地殻深部の地質体の露出が生じます。衝上断層面で100km以上に渡って内帯地殻が削剥された以上その深部地層は追突の前縁部に露出する訳で日高山脈の場合には衝突帯の前縁に地殻深部より突き上げられたオフィオライトの露出があります。
中央構造線では、それに変わる地質体として外帯に高深度で形成された三波川変成帯・ジュラ紀苦鉄質火山岩類付加体・黒瀬川帯と続く地帯の露出があります。しかしこれでは外帯と内帯の位置関係が逆になっており、これらをオフィオライトに変わる地質体として地殻深部から持ち上げられたと地質体と見做すことは困難です。
これらの地質体は白亜紀の海嶺沈み込みの際、地殻深部より絞り出されて日本海拡大当時は地表に存在していたとすると、内帯側の地殻下部より中央構造線の断層面にそって突き上げられてきた深部地殻が存在しない事になります。
内帯側深部には、日本海の拡大をもたらしたプルーム流の上盤が存在するはずですが、大陸側地殻の厚みのため断層面はこの境界を境にして上位の地質体に留まっているとして、内帯側地殻の突き上げは、主に花崗岩バソリス部分に断層境界が生じて上盤地殻のみ突き上げたとの解釈です。
更に内帯には断層沿いに海成堆積層よりなる和泉層群が露出しています。このことは内帯側の地殻には衝上断層面に沿った地殻の上昇と削除があまりなかったことを示しているのですが、このへんの解釈は如何に?
現在の西南日本の地質断面図 中央構造線(MTL)を挟んで白亜紀の火山フロント構成地殻と白亜紀高圧変成帯の三波川変成岩が接する。その間に存在した100km以上の内帯地殻がMTLにそって衝上し浸蝕削除された。
「日本列島の大陸地殻は成長したのか?」 地学雑誌119(6) 1177 図2 2010 より
北海道東部と日高山脈
現在の日本列島の主要部は、日本海の拡大に伴いに朝鮮半島からシホテ・アリン山脈にかけての大陸沿岸部を形成していた大陸地殻が移動してきたものですが、北海道の日高山脈から東の部分は起源を異にします。
この部分のみ、北米プレートに乗って現在のアリューシャン列島の方角からプレート移動してきた地殻(千島弧)で、日本海拡大期(25Ma~15Ma)の前後に、北海道西部の地殻(東北日本弧)と追突して北海道の東半分の地殻を形成しました。
北海道の地体構造概略。東北日本弧に属する地殻は日本列島拡大前は中国沿海州やサハリンと地続きの大陸東縁部に存在し、沈み込み帯に伴う付加体群(西南日本と類似の)が存在する。
千島弧については、衝突前の位置や陸弧の配置等私には今ひとつ良くわかりません。衝突の前縁部は日高変成帯となり、海洋底より海洋地殻最深部に至る地質体の露出が見られる。
産業技術研究所 シームレス地質図を元に作成。出典は「日高衝突帯前縁部における白亜紀付加体の地質構造」 地質学雑誌112(11) 2006 P700のFig1.(A)によります。
その追突地帯では地殻が隆起して現在の日高山脈が造られたそうです。この時、追突してきた千島弧が低角度の衝上断層を介して西側地殻(東北日本弧)の上にまくれ上がり、海洋地殻最下部にあるマントルかんらん岩から地殻表層の岩石までが水平に近い帯状配列をなすオフィオライトが形成されました。
通常、マントルかんらん岩は地表に隆起する過程で加水反応によって蛇紋岩化してしまうのですが、日高変成帯のオフィオライトに見られるかんらん岩は変質していない物が多く大変美しいそうです。
ただし現在では日本周辺のプレート配置が変化しており、北米プレートの境界はフォッサマグナの東縁と考えられているようで、過去のプレート衝突帯で現在も断層運動が継続されている訳でもないようです。
プレートとプレート境界の決定は簡単な問題ではなく、東北日本から北海道西部をマイクロプレートに含める見方もあります。
マイクロプレートとは太平洋プレート、北米プレート、ユーラシアプレート等の大型プレートの会合する境界付近におけるプレート移動速度の複雑な変化を吸収するために生まれた小さな緩衝地帯のようなものです。
地殻(プレート)を移動させる主な力は、対流移動する下部マントルとプレート間の粘性抵抗からくる摩擦力だと考えられますが、マントル対流がほぼ流体的挙動をするのに対し、本来剛体である上盤地殻にはそこまでの粘性は期待できません。
このためマントル対流の速度ベクトルが複雑な変化を見せる対流境界付近では、プレートはマントルの速度ベクトルに追従できず置き去りにされるか弾性破壊して破断されます。
この断層面がプレート境界となるわけですが、プレート境界の周囲では速度ベクトルの変化を吸収するため地殻が更に細かく別れる可能性が在るわけでこれがマイクロプレートと呼ばれるものです。
この概念は、無闇に拡大するとプレートテクトニクスの否定にも繋がるものですが、薄っぺらい剛体としての地殻の運動を考える以上、ある程度マイクロプレートの存在を認めてモデル化をより現実的にするほうが地殻の動きを正確に再現できると思われます。
では現在地表を覆うプレートの境界とはどのようにして決められるのでしょう。海溝のように明確なプレート境界が存在する場合以外は、プレート境界の決定は定点のGPS観測に依る相対速度ベクトルの比較により、類似したベクトルを持つ点同士は同一プレートと見なすわけです。
しかし地殻の移動量は小さい上に地殻の弾性変位もあり、同じプレートだからといってどの場所でも等しい速度ベクトルを持つわけでもありません。また海洋底の場合にはGPSによる位置測定も簡単には行えないのでプレート境界の正確な決定は意外と困難なようです。
フォッサマグナ
もう一つ、日本海拡大期に生じたものにフォッサマグナがあります。日本海を押し広げたプルーム流は大きく3つに別れその2つが日本海を拡張し、もう一つは日本の中央部に湧昇し日本の地殻を東西に断ち割ります。
このとき生じた裂け目はプルームで満たされ、日本海と同様の海洋底玄武岩で覆われてフォッサマグナとなりました。従ってフォッサマグナの底部は海洋底と同質であり大陸地殻は存在しえません。
これら一連の動きによって、それまではほぼ直線であった日本列島の地殻は、フォッサマグナを境にして西日本は時計回りに、東日本は反時計回りに回転し、ほぼ現在の日本列島の地形が形作られました。
プルームの展張は日本海を開き日本列島をくの字に折り曲げ、拡張前の方位が岩石に保存された。
「マグマの生成と多様性の仕組み」 RikaTan January 2011 p13 より
この時の回転は岩石に記録された古地磁気方位の研究によって明らかにされており、日本海の拡大を初めて実証的に検証したのも京都大学と神戸大学の研究者に依る一連の古地磁気研究でした。
その後この裂け目は中新世以降の堆積物で埋まり、中新世の火山岩と中新世以降の堆積岩によって占められた富士川から糸魚川へと列島を南北に横断する大地溝帯は、明治の地質学者ナウマンによってフォッサマグナと名付けられました。
フォッサマグナの南方には伊豆半島が広がっていますが、フォッサマグナが形成された当時は、まだ伊豆半島は現在の位置になく、南東に500km以上も離れたフィリピン海プレートの洋上に存在した島弧群でした。
現在、八ヶ岳に始まり伊豆半島を経て伊豆大島、三宅島、八丈島へと続くこれらの火山列は、伊豆-小笠原島弧と呼ばれ、フィリピン海プレートに対して太平洋プレートが沈み込むことにより形成された火山フロントの構成火山群です。
伊豆-小笠原弧に属する火山島は、現在でもフィリピン海プレートの移動に連れて日本に近づき、プレート上にある伊豆半島を本州に追突させて地殻の下へと沈み込みませています。
プロト伊豆弧の衝突
その前身が、日本海拡大の頃にフィリピン海プレートに乗って順次日本へと近づき、今から1500万年前(15Ma)頃から日本列島と衝突し始めます。
15Ma~6Maにかけて起きたプロト伊豆弧の衝突と付加により、丹沢山地等富士山北部に広がる山地群が造られるのですが、この時地殻の最も薄いフォッサマグナ地溝帯をめがけて沈み込んだ訳です。
伊豆-マリアナ島弧の追突は太平洋岸に帯状配列していた日本中部の付加体群を大きく内陸側に押し込みその地体構造に著しい歪を与えた。
プロト伊豆弧の衝突は無理やり日本列島の中央部を押し広げる形となり、それまでの地体構造はフォッサマグナを頂点に大きくハの字型の変形を受けます。
当然周辺の地殻に対しても非常に大きな圧縮場を生み出したわけで、先に述べた15Ma以降の古瀬戸海の急速な消滅の一因でもあったと思われます。
鈴鹿山脈の周辺が隆起し始めたのもこの頃からですから、この圧縮場は鈴鹿山脈隆起の一因ともなったはずで、伊豆-マリアナ島弧の衝突は200km以上離れた三重県にも大きな影響を与えたと言えます。
例えば日本海拡大の初期(20Ma~17Ma)に堆積した瀬戸内区鈴鹿層群は鈴鹿山脈南部の標高300~400m辺りに多く分布していますが、その一部は標高850m以上の仏峠周囲にも見られます。
このことは、現在の鈴鹿山脈の主稜線上に見られる地層が当時は海抜以下の水面下で堆積したことを意味し、今日までに鈴鹿山脈が1000m近く隆起したことを示しています。
伊豆半島の衝突
プロト伊豆弧の衝突と付加に続いて、100万年前には伊豆半島の衝突が始まります。これは現在も進行中の現象で、数百万年後には伊豆半島も日本列島の下に沈み込んでその一部が箱根や富士の辺りに付加されて残されることでしょう。
伊豆半島に代表される伊豆ーマリアナ島弧は、それ自体が太平洋プレートのフィリピン海プレートに対する沈み込みによって生じた火山列ですから、伊豆半島より日本列島の下ではプレートの沈み込みが重なって起きている訳で、島弧の延長線上にある箱根や富士山が火山となるのも納得します。
因みに箱根火山が活動を開始したのは今から65万年前、富士山はそれよりずっと若くて10万年前に箱根火山群の一つとして誕生したそうです。
山脈の隆起
日本を形成する基盤岩はほぼこの頃には現在と同じような形となり、後は山地の隆起と侵食に伴う砕屑物によって扇状地や沖積平野が低地に形成され今に至るのですが、これ以前には各地の山脈はまだ今ほど高く聳えていなかったようです。
日本の中央部を形成する北アルプス、中央アルプス、南アルプス等の2000mを越す山地が隆起を始めるのは新生代第四紀に入ってからで、多くは100万年前(1Ma)以降に急速に隆起したものだと考えられています。
これらの山脈は、フィリピン海プレートと太平洋プレートの沈み込みと伊豆ーマリアナ島弧が日本中央部に衝突して日本列島下に潜り込むことにより生じた圧縮場によって隆起し始めたものですが、1Maの伊豆半島衝突以降の影響が大きいのでしょう。
新生代第四紀 氷河期から現在へ
白亜紀以降、徐々に下がり始めていた地球の気温は変動を伴いながらも低下を続け、更新世(258万年前~1万年前)に入ると200万年前頃から氷河期と呼ばれる寒冷化気候へと移行します。
極地や高地では氷床が夏にも溶けず発達した氷河が谷間を埋めて地表の1/4近くが小売で覆われる状況が出現しました。
氷河や氷床の発達は海水面を100m以上も低下させ動植物の生態系にも激変を与え、人類の先祖が登場したのもこの時期です。
周期的に繰り返す氷河気候は既存の生物の生存に大きな障害となり、それを乗り越えるために進化を遂げた最大の生物が人間であったと言えます。
私の知識を整理する意味で書いたこのお粗末な文章のために、多くの方々の貴重な労作を参考にさせて頂き、また時には著作者の方々に無断でその中の図版等を転載させていただきました。
本来個人的な知識の記録を目的として作り始めたものですが、Webpageと云う形式がこの種の文章の作成にはうってつけであることが分かってから、申し訳ないと思いつつも転載させて頂いております。
その他の出典
1 大陸と海洋の起源 ―大陸移動説― (上)(下) ウェーゲナー著、都城秋穂・紫藤文子訳 岩波文庫
2 活動的大陸縁の肥大と縮小の歴史 磯崎行雄 丸山茂徳 中間隆晃 山本伸次 柳井修一 地学雑誌 120(1) 2011
3 超大陸と日本列島の起源 M.SANTOSH 千秋博紀 地学雑誌 120(1) 2011
4 日本列島の大陸地殻は成長したのか 鈴木和恵 丸山茂徳 山本伸次 大森聡一 地学雑誌 119(6) 2010
5 日本におけるプレート造山論の歴史と日本列島の新しい地体構造区分 磯崎行雄 丸山茂徳 地学雑誌 100(5) 1991
6 日本列島の地帯構造区分再訪 磯崎行雄 丸山茂徳 青木一勝 中間隆晃 宮下敦 大藤茂 地学雑誌 119(6) 2010
7 横ずれ説:日本列島の起源と形成についての考察 田沢純一 地質学雑誌 110(9) 2004.9
8 地球の歴史(改訂版) 井尻正二 湊正雄 岩波新書 1965
9 日本列島の誕生 平朝彦 岩波新書 1990
10 地球と生命の歴史 丸山茂徳 磯崎行雄 岩波新書 1998
11 日本列島の古地理学 中間隆晃 平田岳史 大藤茂 青木一勝 柳井修一 丸山茂徳 地学雑誌 119(6) 2010
12 日本列島の誕生場 椚座圭太郎 後藤篤 地学雑誌 119(2) 2010
13 太平洋型造山帯-新しい概念の提唱と地球史における時空分布- 丸山茂徳 大森聡一 千秋博紀 河合研志 BF.WINDLEY 地学雑誌 120(1) 2011
14 古生代日本と南北中国地塊間衝突帯の東方延長 大森聡一 磯崎行雄 地学雑誌 120(1) 201
15 東アジアの250Ma大陸衝突帯と日本 石渡明 辻森樹 地学雑誌 121(3) 2012
16 中生代初頭の日本・朝鮮・中国東部に2列のプレート収束境界が並走した証拠 磯崎行雄 地学雑誌 121(6) 2012
17 飛騨外縁帯の地質構造発達史 椚座圭太郎 丸山茂徳 地学雑誌 120(6) 2011
18 岐阜県上宝村一重ケ根地域より算出したオルドビス紀コノドント化石について 束田和弘 小池敏夫
19 三重県志摩半島東部の黒瀬川帯中生界から見出されたジュラ紀白亜紀放散虫化石 大田 亨 今井智文 石田直人 坂 幸恭 地質学雑誌 118(9) 2012.9 地質学雑誌 103(2) 171-174 1997.02
20 日本海の拡大と構造線 柳井修一 青木一勝 赤堀良光 地学雑誌 119(6) 2010
21 古瀬戸海と瀬戸内火山岩類 柴田博 糸魚川淳二 山野井徹 沢井誠 佐藤隆春他 アーバンクボタ No.28 1989.3
22 瀬戸内区の発達史 吉田史朗 地質調査所月報Vol43(1/2) 1992
23 東海湖と古琵琶湖 東海層群-3 伊勢湾西岸地域 吉田史朗 アーバンクボタ No.29 1990.3
24 東海層群の層序と東海湖盆の古地理変遷 吉田史朗 地質調査所月報Vol41(6) 1990
25 プロト伊豆-マリアナ島弧の衝突付加テクトニクス レビュー 平田大二 山下浩之 鈴木和恵 平田岳史 李毅兵 昆慶明 地学雑誌 119(6) 2010
26 伊豆小笠原弧北部端、箱根火山周辺の地形・地質テクトニクス 平田大二 山下浩之 川手新一 神奈川博物館調査研報2008.13.1-12
27 中央日本のネオテクトニクスと伊豆小笠原弧 竹内章 地学雑誌 100(4) 1991
28 室生火砕流堆積物の供給火山 室生団体研究グループ・八尾 昭 地球科学vol62.97-108 2008
29 紀伊半島北部の室生火砕流堆積物と周辺に分布する凝灰岩の対比およびそれらの給源 山下透 檀原徹 岩野英樹 星博幸 川上裕 角井朝昭 新庄裕尚 和田譲隆 地質学雑誌113(7) 340-352 2007
30 西南日本弧前縁の圧縮テクトニクスと中新世カルデラ火山 三浦大助 和田穣隆 地質学雑誌 113(7) 283-295 2007
31 島弧会合部のテクトニクス -北海道の場合- 木村 学 構造地質 第28号 1982
32 日高衝突帯前縁部における白亜紀付加体の地質構造 植田隼人 地質学雑誌 112(11) 699-717 2006