文章

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私は文章を考える時

息が荒くなるらしい。

父親はそれがたえられなくて

私に文句を言う。

私がつらそうなのがガマン出来ないのである。

私はそんなにつらい気はしないのだが

結構頭を使っているらしい。

私が論理的に考えるのは大学の物理の影響であり

そしてみがきがかかったのは

読書と短歌と俳句だろう。

面白い事を文章にするのは

ボケとツッコミを友達と経験した事と

面白い小説読んでるってのもあるかもしれない。

結論として

私にも本当の事はわからない。

ただ結論の部分として足りているか足りてないか

そこの直感は私の気持ちがあらわれているかあらわれていないかが

判断基準になっている。

あとは

滝のように

流れていく

そんなおもいで文章にしている。

そうなったのは

物理、読書、短歌、俳句を繰り返してきたからだと思うし

私の今の現状を仕事でも表現したからだと思う。

そういう意味で

私は何を考えて行動しているか常日頃から

よく考えているからかもしれない。

<<---追記2014/08/02

国語のテスト出来る奴も

本人の中身が気薄だから点とれるだけで

普遍性があるからじゃあない。

やっぱり科学とか数学とか哲学とかやって最終的に国語が出来る奴が

普遍性にたどりつく。

20歳そこらで普遍性があるとは私には理解出来ない。

それ相当の経験が無くて普遍性にたどりつくはずもない。

若い頃の国語の高得点は本人の中身の気薄からきているのではないかそう思う。

そんなに中身のある奴が20歳そこらでいる気がしない。

<<--追記2014/09/03-04

一つ疑問なのは

私の文章能力はどうやって出来たかである。

多分高校受験の英語が出来たから多分中学生の時には形成されてたような気がする。

私は当時を振り返って見れば

もっと文章を作るべきだったような気がする。

でも英語を書けたというのは私にそれなりの文章が書けたからだと思う。

私の気持ちを文章にする能力がその中学時代にはもうあった。

それはなぜか私にはあんまりピンとこない。

私自身本音でいきてたぐらいしか思いつかない。

<<--追記2014/09/04

人間違う時間をみんなに割り当てられている。

私にしかない時間を私が使っている。

学生時代に受験勉強にあけくれた人生とはほんの少し違う人生を私は送ってきた。

それが文章にあらわれているのと違うかと思ったりした。

他人の何かとてつもない勉強と私は他人と違っている。

そんな気がした。

私には本を読み。文章を書く時間があった。

人に訴えたい気持ちを文章にした。

そういう時間が私にあったのが今も幸いしているのではないかそう思ったりする。

そんな時間も無く時間に追われた他人との決定的な違いは

私の文章にあらわれているのではないかそう思ったりする。

私の文章には気持ちがある。

それが如実に決定的に違っている。

そして論理的に説明しようと努力してきた。

そういう意味であの当時から世界に訴えたかったのではないかそう思ったりする。

もうそろそろ

勉強はじっくりやるものではないだろうか

何も大学受験に熱心にならんでも勉強はできる。

そういう事が私の件だけでも如実にあらわしていると思わざるおえない。

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2014/07/17 新規作成