他人と違うと言ったら
「一日続く緊張感」ぐらいしか思いつかない。
そんなのは男にも女にもそういう人はいるだろう。
私はそういう人は好きな方である。
私も頑張ってみたくなる。
もしかしたら私はそういう緊張感が高いのかもしれない。
でも私自身そんなに緊張している実感がない。
普通にいろいろアンテナたててる。
もしかしたらそれが緊張感があるのかもしれない。
一点集中っていうより
分散している。
それが長続きのコツかもしれない。
やっぱり私が見てても
色々気を使ってアンテナのある緊張感のある人は
魅力的である。
そういう人と見つめ合って話が出来れば風情があるなあと私は思う。
どうせならそういう付き合いをしたい。
そういう意味では私も他人も同じな気がする。
私だけが例外ではない。
そう私は思っている。
//2014/09/29 追記
究極は
緊張の中に愛がある。
緊張の中に笑顔がある。
緊張の中に礼儀がある。
緊張の中に大局観がある。
緊張の中に聞く耳がある。
緊張の中にみずからを問う心がある。
まああんまり緊張しても体に良く無い。
それが私自身の現状である。
そんな状態でいきている成れの果てである。
//2014/09/29 end
//2014/09/30 追記
私自身建設的な話の出来れば満足する方である。
外見だけで私は判断出来ない。
一度や二度の話でも判断出来ない。
やっぱり中身が無いと無理ではないかそう思う。
そういう意味で母親とは良く話をした。
でも親族だからと言って
そういう中身のある話が出来るわけでもない。
そういう意味でなかなか話して満足するのは難しい。
母は母の役割をしたが
それはそれで珍しい事かもしれない。そう思い始めている。
当たり前が当たり前になっていない。
だから私は簡単に判断してはいけないそう思っている。
責任と信頼と建設的な会話自体が珍しいそう思っている。
//2014/09/30 end
//2014/10/28 追記
情報処理の人工知能で
神経のシナプスによる数学で
私の好みの分析が出来るとかで
Kindleで好みの女性は何かつながりで
ここ数ヶ月写真集を買ってみた。
結論は見た目では判断できないである。
会話次第で私の好みもかわる。
そんなに見た目で決定的な判断なんて不可能である。
女を知れば知るほど
見た目では判断できない。
ようは相手の中身次第で私の好みもかわってくる。
従って私の好みはだだのその場の確率論であって
理論にはなり得ない。
でも私にも選択する権利はある。
向こうの側もそうである。
そういう事に気付いていない女が
主張するのはいかがなものかと思う。
結局きりつめて考えれば
冷静にどこまで真剣に話せるかだと思う。
私の基準はそこにある。
話ししても仕方ない奴だと思えば拒否である。
それが私の最終判断である。
//2014/10/28 end
2014/09/27 新規作成