21 旧奉天の建造物の取り壊し

加藤正宏

旧奉天の建造物の取り壊し

(ここ数年で満鉄附属地の旧建造物は姿を消すのでは・・・)

加藤正宏

マンホールを観察する学生たち

旧中央電報局を撮る

    東北大学のS教授の依頼で、日本語科最終学年の4年生と、それに院生を加え、15人ばかりの中国人学生と附属地を見て回ることになった。4年生は進路が決まっており、その多くが6月末には瀋陽を離れることになる。その中には上海の宝山製鉄所に決まった者もいるとのことだ。S教授の考えは、瀋陽(旧奉天)に在る大学で日本語を学んだ学生たちに、日中の近現代史の現場であった瀋陽そのものの姿をしっかり見ておいてもらおうということのようであった。

     旧南三馬路(旧南三條通)から南五馬路(旧南五條通)の間の天津南街(旧藤浪町)と同澤南街(稲葉町)には附属地時代の一戸建て住宅がたくさん残っていたのだが、ここ数年で次々取り壊されてきている。

     私のHPは、どうあれ、日本人である立場で記述してきている。その私のHPを見られての依頼であるが、私の紹介する建物、街並み、道路のマンホールは日本人の私の目から捉えているだけに、中国人学生にとっては違和感を感じるのではないかと、私は危惧し、本当に私の案内でよいのかとS教授に念を押してみたところ、問題は無いと言われる。

     学生たちは、まったく何も知らない、だから、これを機会に中日の歴史的事実に目を向け、考えてみようとする糸口が少しでも学生たちに生まれればと思っていると。単なる観念的な抗日の近現代史だけではなく、事実をみることから歴史を考えてみる態度が学生たちに生まれることを願っていると。

     このような依頼を受けて、瀋陽駅(旧奉天駅)附近から、どのように歩いて案内しようかと考え、下見に出かけた。驚いたことに、駅附近の民主路(旧平安通)の南は大々的な取り壊しが進んでいて、満鉄のマークを壁に残していた建物は既に無く、満鉄の独身寮の青雲寮も一部を残して取り壊されていた。こんなこともあって、見て歩くには見るポイントとポイントの間の距離が遠くなってしまったところも出てきて、どうコース取るべきかと悩んでいたところ、S教授からミニバスを用意できたので、バスで行きましょうと連絡が入る。渡りに舟というべきか。

     朝の8時に集合場所に行ったところ、そこに待っていたのは公安のミニバスであった。私の行動が、或いは今回の附属地歴史探訪が、監視の対象として目を付けられたような感じがして、何かしっくりしないものがあったが、S教授や学生たちは全く意に介していなかった。しかし、これは私の思い過ごしで、一人の参加学生の関わりから手配できたミニバスであった。附属地のポイントを巡るに当たって、どこでも駐車ができて、バス以外逆行できない一方通行の道路も逆行できるということで、公安の車が選ばれたということだ。それはそれで、分かるのだが、この公安の車を個人の車のように私的に使えるのが私には解せないのだが、S教授や学生にとってはなんら不思議なことではなく、当然のことようだった。運転する警官の横に席を与えられ、警官に道を指示するはめになったのだが、思いのほか彼は気さくな人物で、私の細かい指示にも応じてくれた。でも、午後からは勤務が入っているということで、彼は12時には車ごと去って行った。

     HPの「附属地」で紹介した、ポイントを4時間かけてみて回った。マンホールの蓋などは今回新たに満州電信電話株式会社のマンホールや満鉄MSマークのマンホール(民族路と二馬路つまり旧弥生町と南二條通の交差上に)を見つけた。しかし、建物は次々と姿を消していっている。まだ、残っているのもここ1、2年で姿を消していくのではないだろうか。

     中国人学生たちの目には、今なお残り、活用されている、日本人が建てた建物やインフラストラクチャーがどのように写り、意識されたのであろうか。これらの事実をどのように歴史の中で捉えることになるのであろうか。案内する私に、質問や疑問を投げかける学生たちは、全くと言っていいほど、具体的な史実そのものを知っていなかった。中国の歴史教科書に記載されている抗日戦争では、民族の屈辱とそれに対する英雄的な抗戦が学ぶ対象の中心になっていて、具体的な史実にまで触れることがないからだろう。





     S教授の意図した、現実から見てみる目を養う糸口に、今回の歴史探訪がなり、今すぐでなくても、将来、史実そのものから日中の関係を考えていく中国人が一人でも多く生まれて欲しいものと思う。

     旧奉天の建造物の取り壊しが進み、その多くが消滅してしまう前に、これらの建物やインフラの存在から、真の歴史事実を中国人も、また日本人も学び、その事実の上に日中のこれからの友好関係を築いていきたいものである。


     太原街の中心部分では過去のものがほとんどは取り壊され、新しい建物に姿を変えてきている。太原南街(旧青葉町)でも、旧ガスビルや解放電影院(旧新富座)が取り壊されて更地になり、長距離バスターミナルとなってしまった。

 旧南三馬路(旧南三條通)から南五馬路(旧南五條通)の間の天津南街(旧藤浪町)と同澤南街(稲葉町)には附属地時代の一戸建て住宅がたくさん残っていたのだが、ここ数年で次々取り壊されてきている。


取り壊し後

写真は解放電影院(旧新富座)のあった辺り、写真は旧ガスビルから旧新富座辺りまで旧青葉町がバスターミナルになっている、

取り壊される前の煉瓦のアパート・

満鉄マークあり

満鉄の電話マンホール

満鉄・青雲寮取り壊し(上2枚は取り壊し前)(2枚は取り壊し

最下段は旧弥生小学校附近

フロントガラスに公安・・・

用意されていたミニバス

解放電影院(旧新富座)

解放電影院の後部

旧ガスビル

附属地時代の一戸建て住宅も取り壊しが進む、文革の歴史を残す家も


取り壊された煉瓦のアパート

(昆明南街・旧紅梅町)

 同じように、中街周辺もまた取り壊しが急激に進んでいる。馬家焼麦という伝統的な店も壁には「折」に似た字で、右が「斥」となった字が壁に殴り書きされている。8月までには立ち退きを命ぜられている。この建物裏側一帯も全て取り壊される。瀋陽史跡探訪、15 瀋陽城内井字型の一部 正陽街「追加 馬家焼麦の建物も取り壊されてしまう」にリンクしてください。

 なお、瀋陽日本人教師会HPの「日本語クラブ」第24号(06年11月11日発行)「旧附属地への遠足(日本の痕跡を訪ねて)」 加藤 正宏 (瀋陽薬科大学) を併せて見ていただければ幸甚である。

 この「旧附属地への遠足」は写真付きで「瀋陽史跡探訪」25で紹介している。

 

馬家焼麦

取り壊しのための垂れ幕