イギリスの現行紙幣とその周辺 その2

加藤正宏

イギリスの現行紙幣とその周辺 その2

加藤正宏

 先ず兵庫貨幣会の「泉談その206 イギリスの現行紙幣と、その周辺(2)」をほぼそのまま、引用させてもらう。 

旧50ポンド紙幣について

 紙幣の表の中央にみるデザインはフォイニックス(フェニックス)であろう。不死の霊鳥とされるこの鳥は、アラビアあるいはインドに住むと、ギリシャ人やローマ人に考えられていた。デザインにみるように、火中に身体を置き、これによって自らの老いた身体を焼き、死して灰となり、その灰から再び若返った身体となって生き返り、長命を保ち続け、老いては、また自ら火にかかり、上に見た再生を繰り返す。太陽が自らを燃焼させながら、東から西へと進み、そして没し(「死」)、翌日には東から昇る(「生」)、このことと符合する鳥なのである。

 ギリシャのコインにはたびたびこの鳥が用いられている(鳥だけのものと、兵士と共にあるものとあり)。手塚治虫の「火の鳥」もこの類であろうか。

 このデザインの左は空白であるが、女王の透かしが入っている。50ポンド、20ポンド以外のそこには、背面の歴史上の人物が透かしとして用いられていることを考えると、これら2紙幣は10ポンド以下の紙幣と区別されているのであろう。

 さて、背面の人物であるが、我々日本人には全くと言っていいほど、知られていない人物である。

 しかし、イギリス人にとっては知っていて当然の人物なのである。例えば、イギリスの歴史教科書には、1666年のロンドン大火の復興について「大火から数日後に、古いロンドン市街に代わる『新都市』がサー・クリストファー・レンによって王立協会に提出された。レンは建築家であると同時に数学・天文学・科学にも通じており、彼の意欲的な計画がそのまま実現されていれば、ロンドンが世界を驚嘆させるような町に生まれ変わることは間違いなかった。しかし、家を失った被災者達は、焼ける前と全く同じ家を建てたいと望んでいたため、レンの計画にあった広い街路や広場は机上だけで終わってしまった。レンはこのような挫折にもめげず、60以上の教会を設計した。

 レンは、最初に先ず、ロンドン大火を記念する高い円柱を建てた。ロンドン大火記念柱として今日知られているこの円柱は、火元のファリナーのパン屋のあった場所から、およそ130フィートのところにある。レンはまた、王立取引所を立て直したほか、1673年には、国王の命を受けて、セント・ポール大聖堂の新築に着手した。この仕事はレンの生涯を通じて続けられ、レンの名を不朽のものとした。巨大な円天井が出来上がったのは1711年で、大聖堂が公の礼拝に公開されたのは、さらにそれから5年後のことである。レンは工事を熱心に監督し、いつも籠に乗っててっぺんまで昇り、当局と資金の交渉をし、湿った砂と砂利の上にこのような重い建物を固定させるにはどうしたらよいかを考えた。(『全訳 世界の歴史教科書シリーズ』帝国書院刊)と。さらに続けて「レンの設計した建築物はチェルシーの王立病院、ブラックヒースのモーデン・カレッジ、グリニッチの海軍病院をはじめてとして数多い。セント・ポール大聖堂のレンの墓に彫られた墓碑銘ほど、レンの偉業をうまく言い表しているものはないであろう。『彼の記念碑を捜したければ、あたりを見回せ』。ロンドンを訪れた人びとは、長い間この言葉どおりにし、すばらしいセント・ポール大聖堂、そしてレンが建てた数々の教会に感嘆の声を上げてきたのである。」と記す。この教科書は、さらに課題として、ロンドン近郊の生徒にはレンの設計になる建物の写真集をつくることを指示している。

 このように、イギリスの歴史、特に都市の顔である建築にその大きな業績を残したレンは、7人の王や女王の統治した91年間を生き続け、1723年に亡くなった。

 このような業績を知った現在、最高額のイギリス紙幣の肖像として、彼が採用されているのにも肯ける。

 背面左半分は、レンが建てたセント・ポール大聖堂を描いたものである。手前に見える川はテームズで、時代は18世紀ころであろう。現在のそれなら、近代的なビルの谷間からしか、このドームは見ることができない。

 さて、この建物について少し紹介しておこう。

 ウイリアム王子とキャサリン妃に、今年、ジョージ王子が生まれ、世間の大きな話題になっているが、そのジョージ王子の祖父チャールズ皇太子と祖母ダイアナ妃の結婚式が挙行されたのがこの建物である。1981年7月29日である。チャールズ皇太子とダイアナ妃夫妻のクラウン貨も存在する。

 このような、この大聖堂に起こった大きな事柄を、現在から遡りながら、ひろいあげてみると、1977年:女王の即位25周年祝典儀式(この年、これを祝して、馬上にエリザベス2世を配した記念貨が鋳造される)、1965年:ウインストン・チャーチルの国葬、1951年:ブリテン大祭の儀式、1945~58年:大聖堂の修復、そのクライマックスは新しい祭壇の奉納、1940年:ドイツ空軍による急襲で一部破壊、1935年:ジョージ5世とメアリーの25周年祝賀儀式、1897年:ビクトリア女王即位60周年祝賀儀式、1852年:ウエリントン公爵の国葬、1806年:ネルソン卿の国葬、1708年:新大聖堂の最後の石が置かれる、1675年:新大聖堂建設始まる。1666年:旧大聖堂、ロンドンの大火で焼失、などとなる。

 遡ってきた、この最終の時点がレンの活躍した時代で、前述の教科書の引用にあるとおりである。

 この大聖堂のドームはローマのセント・ピーターに次いで世界で2番目に大きく(異説ではフィレンツェのマリア・デル・フィオーレが2番)、地上から十字架の先端まで、111メートルあり、道路から最上段まで650段の階段がある。地下には、世界でも最も大きい地下聖堂と言われる納骨所があり、クリストファ・レンやネルソンやウエリントンの墓が建っている。

 この大聖堂の北西の塔には13の鐘があり、毎日曜日の午前と午後に及び、大事な事柄が執り行われるとき、これらの鐘が鳴り響く。また、南西の塔、別名時計塔には5つの鐘があり、時刻鐘となっているのは1716年に取り付けられた約5トンの「巨大なトム」と呼ばれるものと、1882年にぶら下げられた重さ16トン半の鐘「巨大なポール」と呼ばれているものである。毎日、午後1時に5分間鳴らされ、これを聞きながら職人たちは昼食をとりはじめる習慣であったという。

この大聖堂は、首都の寺院として、国家の祝典儀式の中枢の役割を担い、またロンドン市に関わる儀式に用いられることで、イングランドの他の寺院より多くの参拝者を引き付けている。

 セント・ポール大聖堂、これに対して、ロンドンにはウエストミンスター大聖堂がある。後者の官庁的な正式名称は「ウエストミンスターにあるセント・ピーター大聖堂」である。セント・ポールとセント・ピーター、つまり聖パウロと聖ペテロ、両者はキリスト教の最大の伝道者である。それぞれ並び称せられる聖者の名前を付けているが、前者はロンドンの教会や教区民とつながる司教座大聖堂教会、後者はロンドン市民と直接つながりを持たず、王室や議会と特別な関係を持っている。王室の戴冠式や結婚式はここで行われるのが普通である。チャールズ皇太子の結婚がセント・ポール大聖堂で行われたのは異例である。

紙幣デザインの寺院平面図に筆者が矢印を入れている所は、馬に乗ったウエリントン(5ポンド紙幣)の記念像があるところである。

旧50ポンドの

女王とフォイニックス 

 現行紙幣の

エリザベス2世


 ギリシャのフォイニックスを刻むコイン



 旧紙幣のレンの肖像
















 セントポール大聖堂

平面図と

82年に川岸から撮った

写真



サッチャー元首相

国葬時の

セントポール大聖堂

写真継ぎ合わせ

ドームは左手塔の後方 















 チャールズ皇太子とダイアナ妃



 女王の即位25周年祝典儀式 


新50ポンド紙幣について

 以上、1980年代に旅行し、目にした50ポンド紙幣のレポートである。今回(2013年)出会った50ポンド紙幣の肖像は、マシュー・ボルトンとジェムズ・ワットの二人である。

ワットは私たち日本人も馴染みの人物である。世界史教科書にも必ず登場してくる。例えば、好学社『高等学校 世界史B』では「1765年ワットが、これまで炭坑の排水用にしか使われていなかった蒸気機関を改良し、のちさらに紡績機やその他の機会にも利用できるものにした。木綿工業の飛躍的発展もこれによって可能になったのであるが、それだけにとどまらず、蒸気力はやがて多くの工業や交通機関にも用いられ、産業・交通の原動力となった。」である。産業革命を推進する技術革新に功績のあった人物として私たちの頭にインプットされている。

 しかし、マシュー・ボルトンについては、日本人で知っている人はほとんど居ないのではなかろうか。でも、イギリスの教科書にはしっかりとワット共に記述されている。イギリス人にとっては良く知られた人物なのである。

 イギリスの教科書からポイントを紹介しておこう。「ジェームズ・ワットの生涯」という小項目である。先ずワットが蒸気エンジンの発明者だといわれることは誤解を与えるものだと述べ、ふと浮かんだインスピレーション(薬缶の蓋が蒸気で持ち上がるのを見てという逸話か?)がその発明の基だということを否定している。そして、続けて「彼(ワット)はグラスゴー近郊のグリーノックで数学教師の孫として、1763年に生まれた。建築家で造船技師であった彼の父はジェームズに立派な教育を受けさせた。そこで彼は21歳のとき科学機器製作者として身を立てることができた。彼の工場はグラスゴー大学の構内にあったので、当時の主要な科学の発達と接触を保っていた。大学にある装置の中には、ニューコメンのエンジンの演示模型があった。1763年に彼はその修理の注文を受けた。修理中に彼はその効率の悪さに気づいた。」、引用を少し飛ばして、「この最初の改良はいっそう重要な改良を生んだ。」、「ワットは改良型蒸気ポンプを製造し、実験を継続するための資金援助を必要とした。」、そこで、提携した鉄工所経営者と製造を開始したが、失敗し、次いで「ワットの発明はまだ完全なものではなかったが、バーミンガムの鉄器製造業者、マシュー・ボルトンによって救済された。「1774年にワットはスコットランドからバーミンガム北部のボルトンのソーホー工場に移住した。」、「ボルトン・ワットという会社名技術史上、最も有名なものとしたのは、ワットの発明の才能と結合した技術の精度であった。」、「蒸気時代を実際に将来したのは回転運動の発明であった。」、「『回転エンジン』は蒸気の利用は範囲を大幅に拡大した。」「ボルトンとワットは、1800年までに砂糖精製工場・水道給水所・製粉所・醸造所など、実際に石炭が適切な価格で入手できるところにはどこにでもエンジンを設置した。彼らの特許は1775年から1800年まで独占を許し、その特権を十分に利用して、イギリスに300台以上ものエンジンを設置した。」とある。

このように、ワットの発明や技術を製品化した実業家がボルトンであった。二人が50ポンド紙幣に共に肖像として採用されるのにも肯ける。二人の前に描かれているのは彼らが発明し実用化していったエンジンを備えた機械であろう。

上記の旧・現紙幣の間に発行された50ポンド紙幣

 なお、ボルトンとワットの肖像の紙幣の前の紙幣は、イングランド銀行の創始者ジョン・フーブロン(1632~1712)を肖像とし、現イングランド銀行の地(スレッドニードル街)に建っていた彼の邸宅と門番がその左に描かれている。イングランド銀行が創設された1694年から300年を経た1994年に発行されており、イングランド銀行設立300年記念の紙幣ともいえる。

 表の君主の肖像も同じエリザベス2世であるが、旧紙幣とは異なる新たな王冠を戴いた少しふっくらとしたエリザベス2世である。

2013年9月 HPに記入

*『兵庫貨幣会誌』196号 昭和57年5月号

*『世界の歴史教科書シリーズ4 イギリス Ⅳ』帝国書院 昭和56年

*『高等学校 世界史B』好学社 昭和40年


 ジェムズ・ワット



マシュー・ボルトン






 工作機械










































































ジョン・フーブロン

 フーブロンの

邸宅と門番