34 旧奉天独立守備隊司令部―旧湯玉麟公館

加藤正宏

不可移動文物・

旧満鉄図書館などの現状

(その3、旧奉天独立守備隊司令部―旧湯玉麟公館)

加藤正宏

  旧奉天独立守備隊司令部については、2006年9月28日にHPに上梓したのが最初である。HP瀋陽史跡探訪の11「湯玉麟公館(奉天独立守備隊司令部)がそれである。それ以降も、同じく12「旧遼寧省博物館と張作霖の五姨太太の別荘」(06年11月26日)、同じく17「旧領事館や公館が建ち並ぶ旧協和街と旧義光街(07年6月1日)でも取り上げてきた。


 今回、改めてこの建物を取り上げたのは、旧奉天独立守備隊司令部のような保存方法は、不可異動文物の保存方法として、どう評価すべきかと考えたからである。

 前回、前々回で取り上げた旧満鉄奉天図書館や旧フランス領事館は不可移動文物と言われながら、現物の取り壊しや破壊が行われ、移転復元されたり、或いは、されそうになっている。移転復元された建物は文化価値のなくなったものになってしまった。正にこれらの建物は贋物になってしまった、・・・・。

 1 不可移動文物として、構造、配置、装飾が保存保護されているか

 2005年11月15日に実施された『瀋陽市地上不可移動文物和地下文物保護条例』により、「不可移動文物的建築立面、結構体系、基本平面布局和有特色的内部装飾不得改変。」となっている。

 旧奉天独立守備隊司令部(旧湯玉麟公館)はどうだろう。外観の構造や配置が変わっていないか、内部の特色ある装飾が十分保護保存されているのだろうか。この建物を香港の喜倫投資有限公司が使用権を獲得し、2006年10月に補修を開始し、2007年6月末には完成、7月から「湯公館食府」として、営業が始まった。現在、瀋陽でも鮑、フカひれ、ツバメの巣など扱う超高級な広東料理のレストランとして知られている。

 時代商報の記者に、この瀋陽湯公館食府の社長は次のように語っている。「先ずこの地を選んだ訳はただ一つである。それはつまりこの歴史遺産をより良く保護しなければならないということである。」と。

 続いて、記者は次のように記事を書いている。

 彼の考え方は、歴史遺産の保護が先ず優先事であり、利潤はその後の事である。そのために、公館の原容貌の保持に、公司は5000万元強を出資し、すでに壊れたり破損したりしている所を補強したり、補修したりしてきた。6月30日、その湯公館が人々の前に再度その神秘なヴエールをとり、瀋陽の市民は湯公館食府に赴くことで、昔の瀋陽の味覚を体験し、湯公館の濃密な歴史雰囲気を感じ取ることになる。注①

 餐飲文化因它而顛覆(飲食文化はこの公館食府の出現によって今までと大きく変化する)という小見出しには次のようなことが書いてある。

 濃密な歴史雰囲気を備えた湯公館の中に食府が開設されたことは始めての大胆な試みである。瀋陽湯公館食府の真の意義は、瀋陽に五星クラスのレストラン文化を作り出したことにある。その整えられた建築風貌は前世紀30年代の社会地位や歴史的著名人の格式を見せ、同時に豊富な歴史文化の息吹を含んでおり、一般の高級会所が備えたり取り入れたりできないものになっている。注②

 さらに記者は瀋陽湯公館食府を参観して次のように述べている。

 その内部の装飾は湯公館の昔の歴史的な格調を完全に尊重しているだけでなく、多くの人が長年にわたって珍蔵してきた瀋陽の昔の写真が陳列されていたり、瀋陽の歴史上で使われたで異なった名前をそれぞれの個室の名前に用いていたりして、これらの些細な全ての事柄の中に、濃密な歴史的雰囲気が滲み出てきている。注③

 ネット上の愛幇(aibang.com)にも、次のように書き込まれている。

 湯公館は国内最初の真の公館形式で開店した香港式高級広東料理のレストランである。三経街の湯公館食府は補修し整えられ、70年もの積もった埃まみれの埃を削ぎ落とし、湯公館の風格を保存維持しただけでなく、建物にはガラスの覆いを被せ、保護さえ行った。食府内には珍蔵されていた昔の写真や史料などの文物も展示されている。

 愛幇(aibang.com)に転載された瀋陽晩報(2008年4月3日)には次のように書かれている。

 湯公館内に一歩足を踏み入れると、玄関前の庭もガラスのカバー(筆者注:温室のような)で覆われ、玄関前の4本の柱も依然しっかりと元の所に立っている。ホールに入ると、既に室内装飾は完全に現代のレストラン風になっていて、唯一変わらないのは足下の玉石のフロア(床)だけであった。その斑模様と華麗で堂々とした現代装飾との間には強烈な違いが感じられ、その玉石のフロアは時空を越えて昔に返るような感覚を人に与えている。

 現在、湯公館食府の企画総監の陳建偉が紹介するところによれば、これらの玉石は当時湯玉麟が友人に託して、国外から運んできた珍奇な石材で敷き詰められたもので、当時のまま、全く動かされておらず、現在の上等な装飾に比べても、玉石のフロアは少しも遜色がなく、当時の豪華さを想像し、知ることができるものになっていると。 公館一階のホールには随分と多くの昔の写真が掛けてあり、その中の一つは1931年製の絵による瀋陽地図で、そこには明確に『湯公館』が標示されている。湯公館の当時瀋陽での知名度はこのことによってもその一端が分かる。

   湯玉麟が虎の習性を愛したと聞いていたが、記者は一階のホールに大型の肘掛椅子を見つけた。虎の敷き皮はそこにはなかった。でも、当時の情景がぼんやりだが、見えてくるようだった。

    張閭実が紹介してくれたのは、公館前方の正門入口の石段はこの館の主人と重要な客人の使用に供され、客は車で直接正門前まで乗り付けてよく、乗り付けた後、そこから公館に入ったという、現在、正門は封鎖され、公館に入るのには両側の仮設石段を行かなければならない。これは以前には部下や使用人の通行に供されたものであったと。当時は厳格な身分制度が見られたとの話。

   また、この公館には二つの階段があり、一つは主なる階段で、一階から三階まで、主人と客の使用に供された。主なる階段の傍らに現代の非常階段に類似した階段があり、それは大変狭く、一階から四階までの間は完全に封鎖され、使用人が一階から自分たちの四階の部屋に、公館の全ての廊下や階段を全く通らずに行けるようにしたものであった。

 民国初年の尊卑の観念は依然厳格で、主人と使用人の地位の差は非常に大きかったと張閭実は語る。だから、当時は玄関も階段も寝室階の設計も身分さを考慮したものであった。但しこれは湯公館の設計の話だけでなく、当時は身分が非常に重んじられていたので、どこでも同じであったとのこと。

 以上、瀋陽晩報(2008年4月3日)の記事を筆者が拙訳したものである。なお、張閭実は張作霖の孫で、張氏家族の帥府の飲食文化を伝えてもらうために、湯公館の顧問として、台湾から迎えられている人物だ。

 さて、外観は温室のようなガラスのカバーは被っているものの、基本的な構造には大きな変更はない。内部の特色ある装飾なども保護保存されているようだ。移動不可文物の保存の一つの方法であるのかも知れない。

 文物部門もこの改造は違法ではないと認定している。湯公館が改造施工中に、主楼を取り壊しての改造はなく、この方法は不可移動文物の破壊の範疇には入らないと、瀋陽市文化局文物処の猛繁涛処長が表示したのだ。

 しかし、もう一方で、一般の庶民や建築学家たちは『得体の知れないもの(不倫不類)』になったと思っている。注④

 歴史的な建物の有効利用なのか、歴史的な特色の消滅なのか、保護と利用の間の矛盾をどう捉えるか、どう保存するか、はこれら文物についてまわる問題なのだろう。

2、湯公館食府

 現在、食府となった建物はどのようになっているのであろうか。多くのレストラン紹介や設計紹介のネットやブログ(易比網、請客800、大衆点評、瀋陽名統網、網絡114、瀋陽旅遊網、CGS創業聯盟、就愛設計網、中国建築与室内設計師網、Stile.Sina.Com、Windows Live)から、その姿を見ておこう。

 食府の補強補修は元構造の配置を保留し、簡単な設計手法の新古典要素を取り入れ、光り輝く豪華なクリスタルのシャンデリアを取り付け、元からの玉石のフロア(床)を残し、壁には中国と西洋の融合した油絵が掛けられた。一階は大広間で、テーブルが11脚、方形も円形もある。円形のテーブルの上には西欧式蝋燭のスタンドが置かれ、笠が被されて明度が落とされ、少し薄暗く、全体的に得体の知れぬ感覚を醸し出している。天井には西洋絵画が描かれている。例えば、ローマのバチカンにあるシスティナ礼拝堂の天井壁画の一部「デルフィの巫女」の絵も見られる。二、三階は豪華な包房(個室)で、全部で九つ、各部屋には「盛京」のような歴代の瀋陽の都市名がつけられている。

 特筆すべきは二階、三階の「お手洗い」である。どちらも15,6平米の部屋で、一般のレストランの包房くらいの広さはあり、中に入ると、まるで龍宮城に入りこんだ感じだという人もあるし、壁際の便器に気がつかなければ、皇女の寝室に入りこんだと感じだという人もある。部屋の中には豪華なソフアがあり、小さな書棚、西欧式のスタンドがあって、それはほんとうに美しいそうだ。以上、ネットやブログから採録した。

 四階は本来、張閭実が言っているように、使用人の部屋だったようだが、改築補修され、独立した超特大の包房になっている。カラオケの間、休憩場所、露天ゴルフ練習所がある。このような環境は瀋陽ではめったに目にすることができない注①とのことである。

 味についてはさまざまな評価が記載されているし、お勧めの料理なども記載があるが、味音痴の私には関心がなく、省かせてもらうが、異口同音して語られるのが価格がとてつもなく高いということである。各人最低300元は必要だし、その上にサービス料も必要だ。だから、支払いも最低で数千元、最高では万元にもなるようだ。でも、環境とサービスは確かに素晴らしいとか。何回か利用した人のコメントでは、味についてはごく普通、特に好きな料理も見当たらない、料理人の水準もごく一般だ。だから、ここでの高額な価格はこの歴史的な公館の環境や雰囲気に支払っているようなものだ、との感想である。

3、湯公館の歴史

 私のHP瀋陽史跡探訪の11「湯玉麟公館(奉天独立守備隊司令部)」(2006年9月28日)、同じく、12「旧遼寧省博物館と張作霖の五姨太太の別荘」(06年11月26日)、同じく、17「旧領事館や公館が建ち並ぶ旧協和街と旧義光街」(07年6月1日)を見ていただきたい。

 少し、付け加えをしておこう。

建物について:

 前世紀二三十年代、瀋陽の東北軍将領はそれぞれ自己の公館を建設した。当時の西欧式建築風格の影響を受けて、たとえ日本の設計士の建築であっても、どれも西欧式建築を模倣したものになっていた。

湯玉麟が建てたこの建物は、1931年の九一八事変(満洲事変)後、奉天独立守備隊司令部となり、現中国の成立した1949年には東北人民政府主席の高崗の住居に、更にその後、瀋陽市中級人民法院となっていた。2000年に中級人民法院が移転した後は主のない建物となり、前庭を利用して自動車学校が開かれていたこともある。しかし、荒廃が進んでいた。そのような中、2004年に瀋陽市不可移動文物に指定されたのである。

湯玉麟について:

 1871年に生まれ、1937年に亡くなっている。字は閣臣、綽名は湯大虎、湯二虎で、生まれは遼寧省阜新、少年の頃は地主の下で働く作男であったが、緑林(山中に集合し、時の権力に反抗したり、強盗したりする集団)に参加、若くして土匪の長になる。

 当時、盗賊や匪賊が横行し、地盤を争い、互いに喰いつ喰われつしていた。ある深夜、張作霖が来歴不明の匪賊の集団に包囲され、困っていた時、湯玉麟がこの包囲を突破し、脱出を成功させた。しかし、脱出後すぐ、張作霖の奥さんと子供の張学良が見当たらないことに気がついた。しかし、張作霖は自己の力を保存するため、母子の救出をあきらめ、残忍冷酷にも急いで逃亡を図ることを命じた。しかし、湯玉麟は敵陣に再度戻って、その戦場から張母子を救出した。このようにして、張作霖との関係は一般とは違ったものとなり、義兄弟の関係を結ぶようになった。湯玉麟は土匪を奉天新民知府の軍に編入し、正規の軍人生活に入る。

 後日、張作霖が奉天督軍になってから、張作霖が他の人物たちを師長にして、湯玉麟を旅長としたままであったことから、彼は心に不満を抱き、部下の非法な行為も見逃し、好きなようにさせていた。このため、部下が警察とひと悶着お越し、張作霖の激怒に触れ、対立したとき、「どこへ行ったって、飯は喰えるんだ。」と啖呵を切って、200人強の部下を伴ない下野し、昔の土匪の本業に戻り、張作霖の何度もの呼び戻しにも、首を縦に振らなかった。

張作霖が観劇をしていたとき、その演目の関羽と張飛の『古城相会』を見て、涙を流し、「あの兄弟たちは別れても、又会うことができている。でも我が義弟は一度去って、戻ってこない。」と漏らしたという。その話を聞いた湯玉麟が大いに感動し、急ぎ、張作霖の下に戻り、以前の非を悔い、二度の直奉戦争や郭松齢の叛乱で戦功を立て、第12軍軍長兼第11師団長に昇進し、そして程なく熱河都統になった。

 九一八事変(満洲事変)後、国民党政府は湯玉麟に熱河主席と第36師団長を任せたが、1932年、日本軍が大挙して熱河に侵攻したため、熱河を守ることが無理だと判断した湯玉麟は資産をまとめ天津に落ち延びた。このため、日本軍は10日もかからず承徳を占領している。湯玉麟は逃げ延びた天津のイタリア租界で1937年、68歳で病没した。注⑤

高崗について

 現在の中国が建国されて後、一時期、東北人民政府主席の高崗がこの湯公館は住んでいた。1954年、中華人民共和国中央人民政府副主席でもあった彼が党の分裂を図り、党の権力を簒奪しようとしたとして失脚させられ、最後には自殺し、身を滅ぼしてしまうのだが・・・・。彼は東北王として、東北の独立を望み、東北をソ連の第17番目の共和国にしようとしていたと多くの中国人が思っているとのこと、でも、これらは史実に根拠を置くものではなく、劉少奇同様であったものと思われる。時の権力掌握者はその対抗馬と考えられる人物を貶める噂を流し、庶民にこれらを刷り込むことが往々にしてあるものだから。

 彼は、1905年、陝西省横山県に生まれ、若くして陝甘辺区革命軍事委員会などで活躍、現在の中華人民共和国建設に大いに寄与した人物の一人でである。

大学と関わりの情報について:

 瀋陽大学に「酒店管理専業系(ホテル管専業学部)」が設けられていて、2008年12月29日、湯公館が「瀋陽大学就業実訓基地」となる式典が、2009年に卒業する学生40名強が参加し、湯公館で行われた。中国の大学生就業難の問題解決の一方法であろうか。

 この式典で、瀋陽市のレストラン及び料理人協会の副秘書長張国玉が言うには「瀋陽湯公館食府は我が市最高クラスのレストランの一つで、香港式独自の一派を打ち立て、我が市のレストラン飲食界のひとつのモデルとなった。」と。注⑥

(2009年12月8日記)

参考文献

注①        時代商報(2007年6月29日)

「湯公館:歴史里、那魚的滋味」より、拙訳

注②        同上

注③        同上

注④        遼瀋晩報(2007年5月26日)より、拙訳

「罩上玻璃罩 『湯公館』変菜館」の「文物部門認定如此改造不違法」

注⑤        遼瀋晩報(2007年5月18日)の「没住過主人的湯公館」と

瀋陽晩報(2008年4月3日)の「湯公館的歴史」から筆者が要約

注⑥        遼寧新聞網(08年12月29日)

「瀋陽大学就業実訓基地掲幕儀式在湯公館挙行」より、拙訳


独立守備隊司令部の

カラーの絵葉書


自動車教習場になっていた頃

独立守備隊司令部の絵葉書


21世紀に入り、

荒廃していた湯公館、

建物に樹が生えている。


完成した湯公館食府



不可移動文物であることを考慮しながら、

建設中の湯公館食府



取り壊しをしているのかと思われた時期の

旧湯公館(旧独立守備隊司令部)



瀋陽旅遊網より転載


帰国間際の07年6月、7月に撮った写真


中国の朋友 許広軍さんに

2009年11月に撮影してもらったもの


時代商報

(2007年6月29日)


中国建築与室内設計師網より転載


瀋陽旅遊網より転載



大日本職業別明細図

奉天市街図

昭和11年(1936年)

この地図では

独立守備隊司令部とある

ブルーの文字で明記した


召使の使用する階段

瀋陽旅遊網より転載


主楼を取り壊さないでの改造


遼瀋晩報

(2007年5月26日)



天井画

瀋陽旅遊網より転載


ヴァチカンのシスティナ礼拝堂の天井壁画

「デルフィの巫女」、

ヴァチカンで購入の冊子より

遼瀋晩報

(2007年5月18日)