16 蒸汽機車博物館の開館には  

まだ時間がかかりそうだ


加藤正宏

蒸汽機車博物館の開館には

まだ時間がかかりそうだ

加藤正宏

     このHPの交流者掲示板にみしさんが質問を寄せてくださったのが昨年06年の11月の末であった。

「①    満鉄の『あじあ号』は、何両くらい造られたのでしょうか。

② 大連にもある、という噂を聞いたのですが、本当ですか?あるとすればどこにあるのでしょうか?」というものであった。

     私は『あじあ号』について、十分な知識を持っていなかったので、次のように返事した、「実のところ、関心が『あじあ号』まで、行っていないものですから、十分な御返事ができないのですが、大連、瀋陽ともに保存されているようです。私自身、植物園に見に行ったんですが、鉄西区の森林公園に移管中と聞きました。その後、今年5月頃の新聞で、もうすぐ開館できると目にしいていましたが、みしさんは既に見てこられたんですね。私の『探訪記』に情報を寄せていただいている栗原さんが、『あじあ号』の情報もあつめておられるので、連絡して見ます。」と。

     それから栗原節也さんとみしさんの間で、交流者掲示板を通じて何回かやりとりが行われている。

     この掲示板でも、栗原節也さんが紹介されているように、当時にあっては世界最新の超特急機関車であったようだ。学習研究社『満州帝国』を参照に紹介させてもらうと、この流線型の外観を持つ「バシナ」型蒸気機関車が牽引する「アジア」号は当時の世界鉄道界・技術界に大きな衝撃を与えたという。最高時速は110キロ出していたという。日本の現在の新幹線にもそれらの技術が受け継がれてきているという。

     現在の中国の書籍にも、「最も豪華なのは日本が1934年に製造した『亜細亜』号で、設計時速は130キロ、動輪の直径は2メートル、外部は流線型で、特急列車を牽引していた。(拙訳)」(『説古道今話瀋陽』の「瀋陽蒸汽機車陳列館感」)、「日本川崎重工業株式会社が1934年に生産した藍色流線型の『亜細亜号』蒸気機関車、これは当時世界最先進で且つ速度が最も速い機関車で、解放前、東北のハルピンと大連の間で運行されていた。時速は130キロ、車体の外部は全て鉄で包装され、現代的な風格を備えていた。当時12台しか生産されておらず、目下、中国に僅か1台残るのみである。(拙訳)」(『歴史文化名城瀋陽』「瀋陽蒸汽機車博物館」)と記載されていて、「アジア」号に対する評価は高い。数字などや現存の数など、栗原さんが紹介してくださっているのと違っているが、当時にあってはスケールの大きな最先端の物であったことはこのように中国でも認められている。

     私も、常々この「アジア」号を見てみたいと思っていたが、多くの中国の観光書籍や地図に記されている蘇家屯にあった陳列館(1984年創建)は既にそこには無く、2002年から3年にかけて植物園の中に移動させられていた。植物園の中にあるという情報を得て、05年5月に植物園に出向いたが、既にここも引き払われていて、鉄西森林公園に建設中だと植物園の方に聞く。

    鉄西森林公園は当時の地図には、記載が無く、また一般の中国人の方に訊ねてもはっきりしなかった。位置も確認できないまま、日が過ぎていったのである。でも、新聞では何回か、関連記事を見かけた。しかし、それは予定であったり、予想であった。例えば、花博覧会にあわせて開館する予定だとか、春節の時期には開館されるであろうというものであった。そして、それらは単発の記事で、その後は音沙汰なしという状況で、開館したという記事は現在も目にしていない。

       そんな中、みしさんが昨年11月末に建設中の「瀋陽蒸汽機車博物館」を見学されたという情報をこのHPの交流者掲示板に書き込んでくださったのである。

     よし、私も見に行ってこようと思ったものの、学期末で忙しかったことや春節を活用した帰国もあって、行動が取れなかった。ようやく、この3月になって、新しい地図を買い、鉄西森林公園の位置(旧来の地図では重工北街に面した「市于洪苗園」)を確かめ、最寄のバスを調べ、行動に出ることにした。

     114路のバスが瀋陽北駅前から鉄西森林公園まで走っている。先ず。北駅で乗り換えて114路のバスに乗ることにしたんだが、これは新しいバス路線らしく、駅前のバスターミナルにはこのバス停はなく、その発着場所を知る者も少なく、随分と尋ね歩いて、ようやく見つけた。駅前のバスターミナルの出口の向かいに凱莱大酒店(グロウリア・プラザ・ホテル)がある。この横の迎賓街に114路のバス停北站站前があった。

     114路は機関車博物館のある鉄西森林公園から瀋陽北駅までの路線である。停留所は以下のようなものになる。北站站前、北京街、市人大、八一公園、遼寧日報社、和平北大街、中山広場、太原街、瀋陽站、興工北街、北三東路、北四東路、雲峰北街、興華北街、貴和街、陶工街、保衛街、市交通技術学校、衛工街、?工街、肇工街、北四西路、鉄西森林公園。ほぼ、1時間弱の路線である。車窓からこれまでこのHPで紹介してきた建物、これから紹介しようと思っている建物を目にすることができる。

     北站站前から北京大街へ出て、南下、哈尓濱路高架をくぐると、北京大街から分かれ人民大会堂の西を南下、右に実勝寺(皇寺)の壁、そしてその北市場と書いた寺牌が見えてくる。皇寺と隣接する太平寺(錫伯族の家廟)の前の広場には清朝の皇帝の坐像が半円形を成している。    

     市府大路との交差を更に南下すると、そこは北三経街で東に瀋陽迎賓館(旧日本領事館)、西に八一公園(フランス、イギリス領事館跡)が見え、中山路と交差するところには遼寧日報社(旧満州日日新聞社跡地)が建つ、バスはこの交差点を曲がり、中山路を西に向かう。和平北大街を越えて中山広場までは、このHPの瀋陽史跡探訪「9、満鉄附属地(その3の下、中華路と南京大街)」で紹介した旧奉天ホテル、旧浪速女学校、旧赤十字支社を見ながら中山広場(旧大広場)回るサークル道路に入る。この広場の周辺の建物は前記のHP「9、満鉄附属地」で紹介しているように、ほとんどが旧満州国時期の建物である。

     バスは、中山路(旧浪速通)を駅に向かい、右に旧藤田洋行(秋林公司)を、左に旧満蒙百貨店を見、太原街を越え郵便局を過ぎ、その角を北二馬路に沿って西に向かう。この時、中山路沿いに旧安東銭荘(アマゾン・ブラジル焼肉店、撤去される予定だがまだ存在している)と旧七福屋デパート(上部が倍思賓館で下が維康薬房)が見える。この辺りについては、このHP「7、満鉄付属地」を見ていただければと思う。瀋陽站バス停は北二馬路にあり、瀋陽駅からはだいぶ離れている。

     バスは鉄道線路の下、ガードを抜けて鉄西区に入る。ガードを抜けると更に踏切があり、この踏み切りの南、線路を引き込んでいる駅敷地内に立派な給水塔が見える。駅の正面からはこのような給水塔があることは分からない。給水塔についてはこのHPの「5、満鉄附属地」を御覧頂けば、瀋陽市内の3種の給水塔を比較できる。バスは興工北街と交差し、左つまり南に曲がる。曲がった後も、しばらく家屋の間から同じ給水塔が見える。


































































114路のバス内

皇寺と隣接する太平寺の前の広場









瀋陽迎賓館

中山路の郵便局

絵葉書 亜細亜号と奉天駅

旧安東銭荘と旧七福屋

鉄道線路敷地内の給水塔

鉄西工業区域内工場

    そして、北四東路に交わるところからは北四路を一直線に西に向かい、その終点が重工街を越えた鉄西森林公園となる。鉄西森林公園の手前の?工街、肇工街辺りを通過する時、鉄西区が工業地帯であることを実感させられる。まさに工場の敷地が並ぶ。

    森林公園(数年前の地図では于洪苗園)は森林のイメージはなく、大きな工事現場のイメージであった。青い色のトタンで塀を巡らした広大な領域の中に、大きなスタジアムや体育館が建設中である。バス停近くの住人数人に機関車博物館のことを聞いてみると、一人が知っていて、青いトタンの向こう、建設中のスタジアムの南にあるという。青のトタン塀の隙間から入り込んで、南に向かう。あっちこっちが、ゴミの埋め立て地なっていたようで、それを整地し始めているという感じであった。

     機関車博物館の外観はほぼ出来上がったいたが、周囲には未だ煉瓦がたくさん積まれた状況で、周囲はまだ全く整備されていない状況である。ガラス張りのこの建物は幾つかの入り口があり、その閉められたガラス戸に顔をくっつけてみて見ると、機関車の後部が少し見え、全ての機関車が中央を向かった配置されているようだった。見えた機関車は「あじあ」号ではなかった。蘇家屯にあった陳列館が所蔵していた機関車の全てが勢揃いしているとすると、16台がここに揃っているということになる。日本の「あじあ」号以外に、アメリカ、チェコ、ポーランド、ドイツ、ルーマニア、ソ連そして中国の機関車、20世紀初頭から60年代までの機関車である。最も古いのはアメリカが1907年製造した小型機関車で、中国のそれは1957年製造のJS型、1960年製造したQJ型だそうである。

鉄西森林公園バス溜まり場

建造中のスタジアムと体育館

機関車博物館の外観とガラス越しに見えた機関車

    とにかくまだ開館していないので、中を見せてくれなかった。このため、十分確かめることはできなかった。みしさんが昨年見学された時は写真まで撮られたとのこと、羨ましいかぎりである。私が瀋陽滞在中に開館されれば、必ず見に行きたいと考えている。その時は、追加報告をさせてもらう予定である。

    ところで、この博物館の近くを鉄道の線路が走っていて、ときどき博物館の後方から汽笛が聞こえてくる。博物館の周りのまだ整備されていない空き地では何人もの大人が凧揚げに興じている。汽笛を背後に聞きながら、凧の揚がっている東の方の空を眺めていて、目を地上に移していくと、鮮やかな薄緑の塔の先端が2柱見えてくる。これは、重工街に面したイスラム教寺院のミナレットである。

奉天街の南清真寺

鉄西清真寺

奉天街の東清真寺

    今回の小旅行、114路線による小旅行は、このイスラム寺院を訪ねるところで、終わりにしたい。一般に中国本土に建てられたイスラム寺院は中国の寺院に倣った建物になっていることが多い。瀋陽の場合でも、奉天街に面した南寺などこの例である。しかし、ここ重工街に面したイスラム教寺院(清真寺)は、新疆や中央アジアやイランなどで見られる形の建物モスクで、この辺りでは珍しい。建物を訪ね、ターバンを頭に巻いた人たちに、この寺の歴史を訊いてみた。この寺は正式には鉄西清真寺というのだそうだ。彼らの話してくれたところでは、1940年からの歴史をもつモスクで、現在の建物モスクは1992年に建てられたものだそうだ。なぜ、私がこの寺に関心を持っているのか疑問だったらしく、ムスリム(イスラム教徒)なのかと問われた。私の住んでいる神戸にはモスクがあり、イスラム教についても関心を持っているが、無宗教であると答えると、今からでもムスリムになれると信者になることを勧められる。この話は、丁重にお断りし、西安での経験を話して、断食月間後のお祭りは大変賑やかであったこと、男女は別の寺でお祈りをしていたなど、私の見た西安でのムスリムたちの生活を伝えた。そして、質問を投げかけてみた。なぜ、男女別れて祈るのか、4人まで奥さんが認められるのはなぜかなどと(歴史的な背景の中で女性保護の主旨から生まれていたことは知っていたのだが)、男女が平等ではないのではないかと水を向けてみた。彼らは若い人も、老けた人も、口を揃えて、平等だという。男女それぞれ役割が違うのだ、妻を4人娶る時は、4人の妻を全て平等に遇する必要があるなどという。その気真面目なやりとりの中に、私がいつもイスラム教徒から感じる信仰に帰依している人の敬虔さをここでも見出し、彼らに好感を抱きながら帰途についた。

 

参考図書

*歴史群像シリーズ84「満州帝国」 学習研究社 2006・4・24

*「説古道今話瀋陽」(瀋陽蒸汽機車陳列館感)

瀋陽市精神文明建設弁公室、瀋陽市工商行政管理局 2001・9

*「歴史文化名城瀋陽」(瀋陽蒸汽機車博物館)

瀋陽市政協学習宣伝文史委員会 2006・3・1

*「瀋陽名勝」(瀋陽蒸汽機車陳列館)東北大学出版社 1999・6

 

瀋陽史跡探訪に戻る

加藤正宏の中国史跡通信に戻る