27  平安座、新富座、南座、奉天座、大陸劇場・・・   

 奉天(瀋陽)の古い劇場・映画館をたずね歩く

加藤正宏

    瀋陽日本人教師の会の会誌「日本語クラブ」第20号(2005年6月発行)に載せた

  「瀋陽の古い映画館を尋ね歩く」を改定し

劇場や映画館もいくつか追加し、写真も増やして、改めてここに紹介する


 平安座、新富座、南座、奉天座、大陸劇場・・・

 奉天(瀋陽)の古い劇場・映画館をたずね歩く

加藤正宏 

 陽が翳り始めた頃、大学の広いグラウンドに○子(とんず、○は〔上に「登」、下に「几」の一字〕)などの椅子を持って、次から次へと人が集まって来る。グラウンドの一辺に白い大きな幕が張られている。幕の少し前から○子(とんず)に腰掛けた人達で埋まっていく。グラウンドに入りきれなくなった人たちは幕の後方にも広がり、グラウンド周辺は人、人、人で埋め尽くされていく。

 1986年、西安の西北工業大学に勤めていた頃に目にした風景である。土曜日ごとに開かれていた映画会だ。映写が始まると、大きな画面に人物や風景が映し出されてゆき、大きな音声で、台詞や効果音が流れる。幕の後方から見ている観客には画面が逆になるのだが、気にすることもなく見ている。色も画像もはっきり見えているので、分るようだ。

 娯楽の王様であった映画がその頂点にあったのは、中国では80年代の後半から90年代にかけてであったと思われる。テレビやビデオの普及で、それ以後少しずつ、観客は減り続け、映画館も寂れていったようだ。

現在、瀋陽でなお映画が上映されている映画館は日増しに少なくなってきているようだ。私の知っているところでは中街の光陸電影院(参照、「加藤正宏の瀋陽史跡探訪の3・中街」にリンク)、大舞台(参照、「15・瀋陽城内井字型の一部正陽街」にリンク)南京南街の中華劇場、太原街の新東北影城それに文化路と三好街の交差するところにある南湖劇場ぐらいである。とは言え、瀋陽薬科大学では週末に大学内の劇場で映画が上映されている。勿論、グラウンドの劇場ではない。きちんとした建物である。

 「瀋陽市志」によれば、1987年、瀋陽市には903の映画を上映する単位があり、その中で市街区にある専門の映画館は22館、映画兼劇場12館、対外に開かれたクラブが23館、対内だけのクラブが201館であった。きっと、大学の劇場は最後の対内だけの部類に属し、この部類はまだまだ残っているのかも知れない。

 しかし、市街地の映画館は上映を止めてしまったところも多い。そして、それらの多くがそれなりの歴史を有した映画館なのだが、正面は何とか映画館の体裁を保っている建物も、その後方を外部から見ると、古びた大きな倉庫のような姿にしか見えない物が多い。既に取り壊されて、このような姿も見られなくなってしまった建物もある。ますますその姿を消していくだろう。その形が消えてなくなってしまわないうちに、見てみたいものと、これら映画館の建物を尋ね歩いてみた。

 





































南湖劇場、06年に衣替えし、

大型餐庁の天幻秀宮となる。

ムーラン・ルージュのライン

ダンスが行われたこともある

 市文化宮(旧・平安座)、解放電影院(旧・新富座)、紅星劇場(旧・南座)と東北電影院(旧・大陸劇場)、新星特級電影院(旧・銀映劇場)


   瀋陽駅から民主路を太原街まで行き、民主広場(旧・平安広場)到ると、そこに軍艦の形を真似たという、日本人が1942年に設計し建造物(平安座という劇場が入っていた)、現在の市文化宮が在る。今もここには劇場が在る。賑やかな太原街の南の端がここ民主広場であり、太原南街をこの広場から少し北に行くと解放電影院(旧・新富座)に到る。曲線の壁が優雅な建物だ。この映画館は1928年以来の伝統を持つが、87年に大型改造をし、91年にさらに改修をして、今は映画だけでなく総合娯楽場(ダンス、玉突き、カラオケ、ビデオなど)になっている。しかし、映画館の入口には内部改装による営業停止の貼紙あり、傍らに、次のような掲示があった。つまり「新東北影城 中興七楼 観映電影的観衆朋友 請到中興七楼新東北影城」と。中興ビルは中華路と太原街が交差する北西角の存在感ある大きなビルである。映画を見たい人は中興ビルの七階の新東北影城に行ってくれということだ。たぶん近いうちに、この解放電影院では映画は上映されなくなるのであろう。

   太原街には、東北第一いや東アジア第一だと言われた、有名な東北電影院があったとされる。しかし、今は取り壊されてしまっている。中興ビルと太原北街を挟んで商貿飯店があり、この飯店の北側は現在工事中で、大きなビルが建ちつつある。そこが、2003年11月まで東北電影院があった場所なのだ。瀋陽でも最も早い時期に建てられた映画館が東北電影院(旧名、大陸劇場、南京大劇院、東方紅影院と時代に応じ名を変えてきた)である。太原街地域の地価が、この映画館を取り壊させたのであろう。中興ビルの新東北影城という名はきっとこの映画館の名を継承したものだ。それにしても、規模やその歴史からも、取り壊される前に一度見てみたかった建物である。

2009年追加分

   民主広場(現在は広場というよりロータリー)と交わる太原街北東角には五交化商場と看板の上がる四階建の建物が建っていた。この建物が旧ガスビルの建物(05年末には取り壊されてしまった)だが、構造やタイルの色から考えると、どうも戦後に一階を建て増した感じだった。この建物の隣一つ越えて、民主広場(旧平安広場)の東には、「満鉄附属地、その1」で紹介した市文化宮が建っている。この軍艦型の建物には、平安座という映画館が入っていた。

   平安座について次のようなメールを頂いている。

   前略ごめんくださいませ。突然失礼いたします。

     今、私は加藤正宏先生の「瀋陽歴史探訪2」を拝見し、胸がいっぱいです。「6 満鉄附属地」の中に記されている劇場「平安座」は、8年前に他界した母の住んでいた所で、祖父が支配人をしていたと聞いています。祖父は建設前に東京の劇場を廻り、どこかの劇場を参考にしたとも聞きました。音楽、歌舞伎、演劇、園芸、宝塚歌劇、映画など様々な演目が日夜繰り広げられましたが、戦後はロシアに接収され、しばらく数人の将校と生活をともにしたと聞いております。10年前に、平安座の建物は今もあることを、母は友人から伝え聞いておりましたが、思いもふくざつだったのでしょう、中国の地を踏むことはありませんでした。しかしながら、私は是非この目で平安座を見てみたいと思っており、今日加藤先生のウェブページに行き着き、涙があふれました。直接加藤先生にメールを差し上げたかったのですが、アドレス不明のため、こちらのページに長々と書き込みをさせていただきました。場違いは承知の上ですが、どうぞお許しください。また、加藤先生への連絡方法を教えていただけたら幸いです。(2005年9月1日) きよたくみこ

     奉天での記憶として、千代田小学校の同窓生である森本良佑氏は『十三歳の証言』で、「平安座で見た『風の又三郎』」を挙げておられる。

     解放電影院(旧・新富座)は06年には取り壊されてしまったが、「ここでは鞍馬天狗、大菩薩峠、風雲将棋谷などの時代物が主に上映されていた」と奉天二中に在籍しておられた栗原節也氏(葵小学校卒)が情報を下さっている。また、「母は芝居が好きで新富座に歌舞伎がかかると、私と妹は揃いの服を着せられ一緒に出掛けたものでした。ガスビルで食事をしたり、デパートで買い物と、明治生まれの母は結構モダンな生活をしておりました。」と千代田小学校の同窓生である吉田和子さんは回想されている(『十三歳の証言』)。

   ガスビルも、新富座も、その北隣の派出所も取り壊され、既にその影も形も見出せない更地となり、遼陽など遠方に出掛ける長距離バスの車庫地と化してしまっている。

東北電影院(旧・大陸劇場)

   大陸劇場について、奉天葵小学校の同窓生である鈴木利幸氏は「一人で映画を見に行ったことがあった。ゴーンと鐘を突く音色と共に、映写が始まった記憶がよみがえってくる。」と回想されている(『あふひ草』第26号)。

   千代田小学校の同窓生である牧野金剛氏も「春日町の大陸劇場に、伊国のエチオピア戦争の映画『空ゆかば』を見に行った。」と回想している(『十三歳の証言』)。また、葵小学校卒の栗原節也さんは「戦時中は戦争物をよく観に行っていた。」と回想されている。

   この電影院は当時東京の銀座にあった最大の映画館をまねて1938年に日本人浜口嘉太によって建てられた、4階建の座席が2400もあるのもので、東アジア最大だと号していたものであった。館内にエジプト風の壁画が開設時から掛かっていたそうだが、その取り壊しに当って、取外して博物館に展示するとの情報があったことを、栗原節也さんが伝えてくださっている。

新星特級電影院(旧・銀映劇場)

   旧・春日町(太原北街)と旧・住吉町(天津北街)の間にあり、地番は太原北街89巷10号にあった。東北電影院(旧・大陸劇場)が太原街2段15里2号だから、その近くである。栗原節也さんの情報では、東北電影院の北側路地にあったとのことである。栗原節也さん曰く、「1940年代からと思うが、外国物を観る時はこの映画館だった(にんじん、民族の祭典、美の祭典など)。」。

   1936年にできた映画館であるが、銀映から変じて、一時は新聞電影院と呼ばれていたことがある。中国語で「新聞」はニュースのことであるから、ニュース映画の上映館になっていたのであろうか。

紅星劇場(旧・南座)

 太原南街(旧・青葉町)と南八馬路(旧・南八條通)の交差する手前東側に位置している。地番は太原街287号である。1930年代に日本人によって建てられた映画館であったが、戦後紅星劇場として知られていた。私が見に出かけた07年には「華夏民俗村」というレストランになっていた。栗原節也さんが訪ねられた02年に既に「華夏民俗村」になっていたとのことである。初め、「華夏」は中国を指す古称だから、中国民俗村だと思っていた。でも、このレストランには Bilingual Chinese Folk Custom Villiage との看板文字が見られる。英文であり、Bilingualと書いてある所をみると、この「夏」はどうも「夏威夷(ハワイ)」の「夏」をダブらせているように思われる。

 

B、民族電影院(旧・奉天座)、群衆電影院(旧・保安電影院)と北市場の人民電影院(旧・雲閣電影院)

 和平区の北市場はかつて文化娯楽の密集した地域であった。ここには前後して、民族、群衆、人民そして解放後建てられた星光の4館の映画館があった。このうち、民族、群衆の両館は今も道路脇に建っていて、その姿を見ることができる。どちらも、南京北街(太原北街と並行して走る)と交差する道路を少し東に入った所に在る。民族電影院は市府大路(瀋陽駅前~市政府広場~)沿いに、群衆電影院は皇寺路沿いに、交差するところから少し東に行けばよい。

 民族電影院(E)は道路に面した最上部にこの5文字が見られる以外、全面を広告で覆われていて、映画館だったとは思えないくらいだ。今はダンスホールとしても使われているのだろう「舞庁」と看板が見られる。この他にビリヤードやビデオ鑑賞の部屋になっているようだ。映画が上映されなくなってから、もう随分となるそうだ。もともと、この映画館は1910年に造られ、「奉天座」と名付けられていた映画館兼劇場であった。瀋陽でも最も早い時期にできた映画館の一つで、日本が敗戦した1945年まで、ずっと日本人の経営下にあり、日本語の映画が上映され、日本語の演劇が上演されてきていた。ただ、建物は最初の建物(現在の和平大街辺りにあった)ではなく、1941年に失火消失した後に、この地に建てられたものである。当時を知っている人によると、座席は無く、地面に直に座って見るようになっていたのだそうだ。その地面には一条の分離帯があったそうで、これは当時の奉天警務処の規定により、男女を分けるためにも設けられた線であった。映画館の中で、男女が一緒に座ることが、当時は許されていなかったのだ。

 群衆電影院(A)は1940年に修建され、43年に営業を開始した映画館で、当初の名前は保安電影院あった。営業から数年もせずして、満州国(中国での呼称は偽満州国)の崩壊、そして国民党を打ち破った共産党の東北解放によって、その統治下に入り、その文化娯楽を担う映画館として、大きな役割を果たした。60年代にいち早くカラーのシネマスコープの映画を上映したのもこの映画館であった。でも、現在この映画館には、映画の看板ではなく、東北三省で行われている演芸、「二人転(女形と道化が踊ったり歌ったり、笑いと共感を呼ぶもの)」の看板の方が大きく掲げられている。演目は「老曲小調、幽黙小品、笑話戯曲、脱口秀等」とあり、日本の漫才や漫談に近いのではないだろうか。映画の方は半年も前の、10月の上映映画だとして、半分剥がれかけたポスターが8枚貼られたままである。まともに読めたのは、題名が「蜘蛛侠2(SPIDERMAN2)」「正義守望者(The Watcher)」「天羅地網」などであった。切符売り場の入り口には、手書きで「群衆劇場 ○(左に「イ」、右に「丁」の一字)業 内部装修 暫○業 開業時間?行通知 本劇場 3/3(○は停の略字か?)」と書かれた看板が立てかけられていたが、内部を改装補修している様子はまったく見られなかった。この映画館も近いうちに取り壊される運命にあるのだろう。

 北市場街に人民電影院が在る。この外観3階建ての大きな長方形のような建物で、2階の角の部分に人民電影院と看板が取り付けてはあるが、それ以外に映画館らしいものはなく、映画館だと気づかずに通り過ぎてしまう。1988年に全面改装されてはいるものの、この映画館も1936年の満州国の時代に、ここに建てられた伝統を持つ建物なのだ。しかし、今はまったく映画館の機能を放棄し、その一部が住民の棲家となっているようだった。でも、入り口から入ったところには観客席に入るドアが今も左右対称に残されていた。

2009年追加分

 人民電影院(C)の原名は雲閣電影院と言い、中国人李雲閣によって建てられた映画館であった。この人民電影院の近くにあって、演戯が主ではあったが、映画も上映されていたのが、中国人によって創建された大観茶園であった。1920年代に建てられ、30年代半ばに改築され、70年代末に更に大きく改築がなされて、映画も上映できるようになった。この大観茶園は遠近を問わず、東北地方ではその名を知られていた有名な劇場であった。戦後、唐山評劇院、東北評劇院、青年劇場、遼寧青年劇場と名前を変えてきたが、映画が上映されたのは最後の遼寧青年劇場の時期であった。その遼寧青年劇場(B)も今は見る影も無い落ちぶれようである。また、映画館ではないが、劇場としては中国の伝統的な建築様式を採用した建物の中山大戯院(D)がこの区域の営口西路13号にある。1920年代後半に中国人によって建てられた。満洲国時期には東北評劇院と改名され、戦後には遼寧京劇院、井崗山劇場、瀋陽大戯院と改名した劇場である。2007年にはその中国的な建物が存在していたのだが・・・・・。

 取り壊しが進んでいた北市場付近のこと、遼寧青年劇場も瀋陽大戯院も2009年現在なお存在しているだろうか、定かなことは分からない。

市文化宮

市文化宮劇場映画館

解放電影院

中華路と太原街の交差

中興ビルと商貿飯店(右)

商貿飯店の東側通路

この奥に旧大陸劇場

市文化宮、下の建物は旧・輸入組合の建物

旧・ガスビル(最上階は建て増しか)の取り壊し

旧・派出所と

旧・新富座

(解放電影院)

解放電影院跡から

北を望む

解放電影院跡から

南を望む

遠距離バスの溜り場に

東北電影院

栗原節也さん撮影

新星特級電影院

栗原節也さん撮影

旧・南座(紅星劇場)の南の

小建築は派出所だとか

民族電影院(旧・奉天座)、

数ヶ月で看板は取替え

群衆電影院(旧・保安電影院)、現在は「二人転」のみ?

人民電影院

遼寧青年劇場

中山大戯院

北市場と市政府周辺

C、皇姑影劇院(旧・大寧劇場)

と利群電影院(旧・瀋陽大戯棚)

 瀋陽北駅から267路バスで皇姑影劇院に行く。道路を挟んで皇姑区人民検察院の斜め北側に建物は在った。今は映画館の機能は果たして居らず、閉鎖されていて、その旧切符売り場の前で露店を開いていた人に聞いてみると、もう数年前から映画はやっていないとのことであった。昨年11月20日の「華商晨報」の記事によれば、2002年までは映画も上映されていたとのことだったのだが・・・。

 正面は3階の建物に見えるが、劇場そのものは2階建て建築となっていて、正面の左右の壁には大型の壁画が一幅ずつ描かれている。京劇と地方劇の人物が描かれているという。向かって右は定かではないが、左は確かに人物を描いたものだと見て取れる。解放前後に建て直し、皇姑影劇院と名付けられた建物で、当時の流行であったソ連式風格を持っているとのことである。後部の観客席やスクリーンのあった建物の箱部分つまりその外郭は改築に当たってもそのまま残ったのではないだろうか。そんな思いでレンガ壁の大きな大きな倉庫のような建物を、周囲を回りながら写真を撮っていった。

 建て直し前の建物は大寧劇場と呼ばれ、日本人の出資による日本人経営の劇場で、1930年代に建てられた娯楽場所であった。新聞によれば、当時の建物を知る人の頭に残っているイメージとしては、瀋陽駅の風格に相当するような建物だったそうだ。少しオーバーな表現ではないかと私は思うが、壊され改築されてしまっているので、その真偽は確かめようがない。

 この劇場がある皇姑区華山路は鉄道線路と興工街の延長線上との間に挟まれた地域にあり、満鉄附属地或いはその拡大部分の中(線路の西側)にあり、この道路の両側は日本人地区になっていた。

更に華山路を西に向かい、珠江街を越え、瀋陽市公安局皇姑分局の手前に在る小路を南に2ブロックほど行くと、利群電影院であった建物に辿り着く。

 ここは瀋陽大戯棚(後、瀋陽大戯院と名を変更)として1931年劇場が建てられたところだ。映画が盛んであった80年代前半に大改築して3階建ての建物になり、現代に到っているとのことだが、外見も内部もまったく映画館としてのイメージをなくしてしまっている。

 1階と2階は正に生鮮市場である。3階に上ってみると、ダンスホールになっていた。入り口に立てかけた黒板に「早朝6時~8時、5角。一日8時~22時、1元。5月の定期、ダンス仲間の購入拡大を歓迎。」と書いてある。映画館がこのように変わったという証拠だと思い、写真を撮った。フラッシュが閃光し、入り口近くに居た大勢が一斉に私を訝しげに見遣った。

 その中から、大柄な男が出て来て、「何をしているんだ。何のために撮ったんだ。話を聞こう。」と気色ばんで言い、ホールに連れ込もうとする。慌てて、「利群電影院」と「皇姑影劇院」の名前と住所を書いたメモを見せ、「これらの映画館が現在どのようになっているか見てみたかったのだ。」と先ず述べ、「利群電影院」がこのようなダンスホールに変わってしまっていたので、写真に撮っていただけで、特別な意図はまったくなかったと弁明に努めた。

 なんとか分ってもらえたが、踊って行けと言われて、断るのにまた困った。昨今の日中関係から考えて、とにかく日本人とばれずに済んでほっとしたものだ。ところで、日本人より中国人の方が人生を楽しむ術を知っているんだなぁと、早朝のダンスで感じさせられた。

2009年追加分

 戦後、大寧劇場は皇姑劇場、紅衛劇場、皇姑影劇院、皇姑文化宮と名前を変えて最終的に皇姑影劇院になった劇場であった。一時は、ダンスやビリヤードやビデオを楽しめる総合娯楽場にもなっていたのだが、今は見る影も無い。建物の壁の周囲は廃品倉庫に化けてしまっている。

 ところで、文化大革命時期に紅衛劇場と名前が変わっているが、当時「紅」と名を変えられたものが多い。例えば、中山広場(旧・大広場)が紅旗広場、中山公園(旧・千代田公園)が紅旗公園など、その他にも紅衛広場、紅工広場などと改名された場所も多い。参考のために当時の路線図を示しておく。

 

D、北陵電影院

 1、2時限の講義を終えて、すぐに265路バスに乗り、北陵電影院に出かけた。日本の戦犯が裁かれた場所である。2002年に映画館としての役割を終え、今はこれといった用途のないままに、建物も荒れてきている感じだ。ほとんどの扉に鍵や鎖が掛けられていたが、一部のドアが押せば開いたので、中に入ってみた。このロビーには洋画のポスターが4、5枚貼られたままであった。「What Women Want」の題名に、「男人百分百」との中国語の題名を被せたポスターなども見られた。どうして、このような翻訳になるのか分らないが・・・、もしかすると、中国語の題名は英文題名の解答なのかもしれない、つまり、「完璧な男性」。

 闖入者があったことに気づいて、人が出てきた。そこで、「審判日本戦犯法廷旧址」を参観させてもらいたい、「審判日本戦犯資料展室」もあるはずだと申し出てみた。その人は私を表に押し返しながら、「もう何もここには無い、九一八博物館に行け」と言って相手にしてくれず、外に追い出されてしまった。審判の行われたところだけでも見せてもらおうと再度交渉したが、まったく相手にしてくれない。仕方がないので、映画館の表に取り付けられた2枚の牌子を写真に収め、映画館の横手や裏側に回り、その概観を収める。1枚の牌子は瀋陽市の文物保護単位であることを明示するもので、もう1枚は「審判日本戦犯特別軍事法廷旧址」の説明である。訳してみると次のようになる。

審判日本戦犯特別軍事法廷旧址

1956年6月9日―7月20日

 1956年4月の「拘留中の、日本が中国を侵略した戦争で罪を犯した、分子に関しての全国人民代表大会常務委員会の決定」により、1956年6月9日から7月20日にかけて、最高人民法院特別軍事法廷は瀋陽と太原の2箇所で別々に鈴木啓久、富永順太郎、城野宏、武部六蔵等の4つの案件45名の日本人戦犯の裁判を行った。1956年6月9日午前8時30分、瀋陽特別軍事法廷が正式に開廷され、日本の前陸軍中将師団長鈴木啓久など8名の主要な戦犯の裁判が行われた。これは中国人民が1840年のアヘン戦争以来、初めて、中国の国土で中国人が裁判官として、いかなる外来の妨げも受けずに、外国の侵略者を裁いたもので、中国の大地で起きたこのことは、当時、世界の注目を集めた大事であった。

瀋陽人民政府制定

一九九六年六月九日

 文の最後の辺りには、半植民地でなくなった、独立国としての誇りが強く窺える。40周年を記念して、1996年には当時の法廷の姿が恢復され、人々の参観に供され、資料展示室も企画されたようだが、私に対応した人によれば、ここには何もなく、全ては九一八博物館に展示されているとのことである。

 この北陵電影院の場所は、瀋陽北駅の真北で、黒竜江街77である。バス停なら「北陵電影院」停留所になる。265、279、280、281、290、292の路線バスがここに停まる。

 東北大学出版社出版「瀋陽名勝」の「審判日本戦犯法廷旧址」の項で、編者の李鳳民は最後に「前事不忘后事之師」と書き出し、我々は世界の人民に戒めて、日本帝国主義の中国侵略罪悪史をしっかり心に刻むことで、このような歴史を2度と起こさせぬようにせねばならない、と結んでいる。

 この「北陵電影院」も早晩取り壊されてしまう運命にあるのではないだろうか。日本人としては、現代史の現場そのものとして見ておく価値のある場所だと、私は考えている。

 それにしても、その時々の民衆に娯楽を提供してきた映画館が、戦争犯罪を裁く法廷でだけでなく、文化大革命の時期には吊るし上げの舞台の役割を担った現場であることも忘れてはならないことだと思う。今回取り上げた映画館劇場はどれも文革時代にはこのような歴史を刻んできている。

(2005年5月記、改定2009年5月)

2009年追加分

 満洲国皇帝溥儀の『我的前半生』(群衆出版社1996年第19次印刷、初版64年)の第九章の六に「日本戦犯」(p510)という項目がある。

 「六、七月間、我和幾个同伴去瀋陽、出席軍事法廷、為審判日本戦犯向法廷作証。」(六月、七月の間に、私と数人の仲間は瀋陽に出掛け、軍事法廷に出席し、日本戦犯を審理するため法廷で証言を行った。)で始まり、瀋陽で審判があったのは撫順に拘留されていた戦犯で、溥儀と四名の満洲国(中国では偽満洲国と呼称)の大臣が証言したこと、証言の対象者は満洲国総務庁次長古海忠之と総務庁長官武部六蔵であったことが述べられている。この溥儀が出席した軍事法廷が開かれた場所が北陵電影院であった。しかし、溥儀のこの著書には古海忠之の判決前の最後の陳述についての記載はあるが、武部六蔵については記述が見当たらない。

それも当然であった。北陵電影院の軍事法廷に、溥儀が出席して証言した時、武部六蔵はこの軍事法廷に姿を見せていなかったのである。

 『皇姑文史資料 老照片専輯(十六)』(2005年出版)によれば、戦犯管理所長の申請と医者の判断(高血圧、動脈硬化、脳血栓による半身不随で、治療するも、効果が見られなく、4年にもなること)により、人道主義精神に基づき、中国医科大学(リンク)第一附属病院で行われたからである。この資料には弁護人が武部六蔵から話を聞いている写真と、軍事法廷が病院の一室で行われている写真を収めている。二枚とも、武部はベッドに横たわったままである。判決は二十年であったが、病気のこともあり、翌日には仮釈放が認められている。

 なお、この資料には、溥儀が古海忠之について証言している写真と証言の記録に署名している写真二枚も収められている。

(2009年5月10日)

大寧劇場跡に建つ皇姑影劇院、

ソ連式風格の建物

旧・瀋陽大戯棚

2階の生鮮市場

ダンス場入口の黒板

北陵電影院の前面

北陵電影院の後方

軍事法廷旧址の看板

北陵電影院のバス停

文革期の市内路線図

軍事法廷を紹介した頁

証言をする溥儀と証言陳述に署名する溥儀

軍事法廷の行われた

北陵電影院

中国医科(旧・満洲医科)大学

第一附属病院で

武部六蔵への

弁護人の聞き取りと臨時軍事法廷