15 瀋陽城内井字型の

一部・正陽街


加藤正宏

盛京城図


   古地図の「盛京城図」と略図を見ていただこう。南の天佑門(小南門)と北の地載門(小北門)を結んだ線、これが現在の正陽街である。この線上に描かれている建物は中街路との交差にある鼓楼である。今回はこの正陽街界隈を中心に御紹介する。

   天佑門(小南門)の南を東西に走る道路は南順城路である。この道路を西に向かって行くと西順城街と交差する。ここが旧の瀋陽城城外の西南角になる。嘗て、民国、満州国時期には、この西南角の城内に広大な奉天第一監獄があった。現在、この敷地には瀋陽市国家税務局第二稽査局と遼寧精密儀器廠の看板が掛かっている。ここが監獄であったことを門衛さんに確認して、敷地内を見せてもらった。少しくらい何か痕跡が有るのではと思っていたが、門衛さんが言っていたとおり、60年も前の事で、何ひとつ、それらしい痕跡は残っていなかった。それでも、何かないかと、西順城内街を歩いてみた。西順城街の一つ内側の道路である。随分背の高い塀が遼寧精密儀器廠の敷地を囲んで一部残っている。一般にこんなに高い塀は必要ではない。とすると、今も残る監獄の塀ではなかろうかと考えてしまう。位置からしても符合するように思えるのだが・・・。

    満州国時代の地図では、この西順城内街を北に行くと、瀋陽路(懐遠門と故宮を結ぶ)に到るまでに、第二女子国民高等学校の位置が記載されている。現在もその当時の外観を残したままの建物がそこには存在している。西順城内街が面しているのは、この建物の後方にあるグランドを囲む塀だ。この塀に沿って東に廻り込むと、建物の正面に出る。この建物の正門は承徳路の西端に位置している。そこには張学良の筆跡になる「同澤中学」と刻んだ看板が見られる。「1928.6」の文字も刻まれている。

    元々は、教育に並々ならぬ熱意をもって行動した張学良将軍が、1928年に創設した学校である。校名は「奉天同澤女子中学」と名付けられたが、政治情勢の変化で、行政区名が奉天省から遼寧省になったことで、「遼寧同澤女子中学」となり、更に奉天市が瀋陽に改称されるや「瀋陽同澤女子中学」となった。

    1931年「九・一八」事変(満州事変)後、学校は教育を停止し、1937年11月に奉天省奉天第一女子初級中学になり、1938年には満州国(中国では偽満と称す)の国高制の推進により、奉天第二女子国民高等学校と校名を改めている。

     当時にあっては一流の設備を施した校舎で、教学棟だけでなく、実験棟なども当初からあり、実験室や階段教室それに各科の特別室が設けられ、それぞれに必要な標本(当時張学良が贈った東北虎の標本は今も完全な状態で保存されているとのこと)や掛図、それにピアノなどの楽器も整えられていた。張学良が体育を重視していたこともあって、雨や雪に左右されない体育館やトレーニング室も地下にはあった。建物の窓は鉄枠で二重になっているようだ。

    1945年の光復(日本或いはその傀儡の支配が解かれる)直後の国民党統治時期には瀋陽市第一女子中学と呼ばれたが、48年に現中国政権下になって、瀋陽市第三中学、56年には正式に瀋陽市第三女子中学と改称、郭沫若の書いた校名の看板を掲げた。

    1989年6月3日、張学良将軍の学校創設の功績を記念し、「同澤」の名の恢復を市が批准し、現在名の同澤中学となる。

    正面から見るこの校舎の右後方には、懐遠門(大西門)の対面に建てられ、瀋陽路一直線に故宮を見下ろす高層建築が見える。この新恒基国際大厦はその高さと屋上部分の黄金色で一際目立つ。 

    同澤中学の前の路地を少し北に行くと、そこは瀋陽路である。その瀋陽路の西には懐遠門(大西門)が、逆に少し東に行けば、正陽街と交差し、その先はもう故宮の入り口である。懐遠門と正陽街の中間辺りに、道路に南面した年代を感じさせる建物がある。附近の住民に訊いてみたところ、銀行の建物であったという。最近まで中国農業銀行東陵支行として使用されていたが、今は看板を下ろしている。しかし、地下金庫は今も使われていて現金輸送車が出入りしている。光復前の銀行名は思い出せないとのことであった。この並びには中国銀行などいくつもの銀行が建っていたというが、どれも取り壊されてしまって、これだけしか残っていないとのこと。

    当時の地図に中国銀行の名があるから、確かにこの並びに中国銀行があったのであろう。更に「瀋河区誌」によれば、満州国時期には瀋陽商業銀行、興亜銀行、益農銀行がこの瀋陽路に建っていたという。益農銀行は元々は匯華銀行という民国期に作られた銀行で、中国で言う偽満時期に改名させられたとのことである。地番の位置からみて中国農業銀行東陵支行のあった建物(写真の建物)がこの銀行のようである。 

    同澤中学の前の路地を北に行き、瀋陽路を越え、更に真っ直ぐ進むと盛京古玩城(骨董のデパート)の前に出る。瀋陽路から5分も行かないところである。この路地や盛京古玩城の周囲には土日には古物、骨董、古本、絵画、古文書などの路上市が立つ。この古玩城の南側には中国の伝統的な絵や書が並ぶ。一見の価値はある。篆刻用の自然石も安いのは、1元2元から古玩城の入り口で売られている。

    古玩城の北側を東に進むと、10分せずに正陽路に出る。正陽路渡ると、そこは故宮の西北角になり、故宮の赤い外壁の上から宮殿の屋根が望める。また、そこは商業施設「大家庭」の西南の角にもなっている。この故宮と「大家庭」の間の道を東に5分強も進めば、故宮外壁が少し南に凹んでいる部分に小さな廟を見つけることができる。これが中心廟である。別名を太極廟という。瀋陽城が明朝の洪武帝の1388年に建築された時、東西南北の十字路が造られ、その中心としてこの廟や鐘楼や鼓楼が建てられた。道教の信条によると、無局が太極を生じ(太極廟は無から有に到ったもの)、太極は両儀(鐘楼と鼓楼)を生じ、両儀は四象(四塔)を生じ、四象は八卦(八門)を生じ、・・・・ということになるそうだ。

    清朝では十字路を井字型路に変えてしまったが、廟はその場所に留め置かれ、鐘楼と鼓楼は井字型路の交差するところに移された。移された場所は現在の中央路(中街路)と朝陽街、正陽街の交差するところである。現在、それらの楼は跡形も見られないが、廟は今なお保存されて、最初の場所に存在する。

    正陽路に戻ろう。古玩城の北側を東に進み、正陽路と交差した左角に「大舞台」がある。2006年暮れに、市の関係部門がこの建物を売り出すことを公表した記事が流れた。見出しは「大舞台要売」「具有近百年歴史的瀋陽大舞台劇場昨日正式掛牌出譲」「有百年歴史的瀋陽大舞台劇場昨日掛牌公開転譲」「叫価2521.91万」「趙本山可能出手」などである。百年近い歴史を有する大劇場が民間に公開で売りに出されることになったニュースである。

    現在、この劇場は趙本山が団長を務める遼寧民間芸術団が借り受けて運営している。この劇場が経営難に陥っていた2003年に、趙本山(テレビでも有名な演芸人)がこれを引き受け、「劉老根大舞台」と命名し「二人転(中国東北地方の演芸)」を専門に演出し、人気を回復してきている。この劇場を市は貸すのではなく、買ってもらおうというのである。公開とはいえ、この劇場に関心があり、また購入できるのは遼寧民間芸術団だけであるから、趙本山グループに2500万元で買ってくれと言っているようものだ。新聞によれば、瀋陽市でも最も繁華街の中街に隣接したこの土地は、地価だけでも1912万元の評価があるという。劇場は600の席があり、最も安い50元から最も高い200元までチケットは9等に別れており、現在演出されている「二人転」はいつも満席で、その入場料も莫大で、数年もすれば元は取れるというのだ。その後、趙本山グループが買ったのかどうか今のところ私は知らない。しかし、今も「劉老根大舞台」の看板が掛かっている。

    昼間は、「劉老根大舞台」前は自転車の預かり場所になっているが、舞台が掛かる夜の7時から9時半まで、この時間帯には大型バスや小型バスが何台か停まっている。瀋陽市外からもバスを仕立てて「二人転」を見に来ているそうだ。

「大舞台」の歴史を紹介しておこう。

   清朝光緒34年(1908年)、この場所に「慶豊茶園(当時、翠芳楼あるいは慶豊大舞台と呼ばれていた)」を開いた。その後、新たな出資者を得て、1912年に「明卿大舞台」と改名し、劇場戯院となった。その後、満州国の大同2年(1933年)に日本人の長橋栄一が劇場の社長になり、「奉天大舞台」と改名し、京劇、評劇(東北の地方劇)、?子(拍子木を使って歌)などが舞台にかかり、それぞれの一流の演者がやって来て演じていたという。光復(日本の支配から解放)後、つまり1945年8月15日、「瀋陽大舞台」となり、文革時期には「瀋陽劇場」と名乗った時期もあるが、「瀋陽大舞台」を恢復、現在は「劉老根大舞台」と看板が掲げられている。

    この劇場の周りで売られてきた食べ物の中に、大舞台の名が付くものがある。北京の豌豆黄色(豌豆のゼリー)、天津の狗不理包子のように、その土地を代表する名物となっている。大舞台の油炸?、大舞台の麻花がそれである。

    大舞台の一つ置いた北隣には李連貴薫肉大餅店がある。160年強の歴史を持つ薫肉大餅で、東北地方ではよく知られている名物食だそうだ。19世紀の頃、店によく飲みに来る漢方薬の医師の指摘で、漢方薬の9素材(肉寇、桂子、丁香、紫寇、砂仁、肉桂、白?、山奈、干姜)を、肉を煮るときに加え、独特な味付けに成功したとのことである。庶民的な店で、いつも人でいっぱいである。瀋陽駅前に分店があり、私も一度食べたことがある。

    更に少し北に行くと、もうそこは清朝の頃には鼓楼があったところになる。中央路(中街路)と正陽街との交差するところだ。2006年11月、中街の道路に面し、その北側に建っていた旧老天合糸房(ゴールドのドームを持った1920年代末に建てられた建物、現東風商場で何氏眼科眼鏡店が入っていたー加藤正宏の瀋陽歴史探訪・3、中街参照)などが姿を消してしまい、旧鼓楼附近北側は完全に建物が無くなってしまった。



 地下鉄の設置などと関わりがあるのかも知れないが、大工事という感じである。新聞報道によれば、20メートル強の高さの旧老天合糸房の道路に面した壁は30余りの塊に分けて保存され、2008年には、新しく建てられる商業センターの瀋陽恒隆中街広場の中庭に、道路に面した表面の壁だけは復元されるとのことである。表面だけでも保存されるのはまだいいほうかもしれない。

    この交差点から歩行者道路になっている中街を東に歩きながら歩道に目を落としてもらうと、満州電信電話株式会社のマンホールを目にすることができる。一度意識して歩かれてみたらどうであろうか。

    正陽街に戻ろう。中街を越えて北に歩を運ぶと、道路の西側に百年老店を騙るかのような店舗が06年暮れより、お目見えしている。新大陸美容美髪学校である。その店頭の像に副えられた看板には、明末清初に城内のこの正陽街にやって来て理髪を始めた人物(塑像)の、その来歴を紹介し、この学校が、現今、美容師の専門家になろうとする後継者の教育のために、その歴史を鑑としており、(このような歴史的)学習環境を大切にしていただきたいと、学校の宣伝をしている。文面は以下の通りである。

 「理髪 明末清初年間、有一戸陳氏人家的剃頭匠、挑着理髪箱来到盛京城内皇城付近(現址:正陽街56号甲)在街頭給一位富貴人家理髪時的情景 新大陸美容美髪学校為教育当今学習本専業的后来者、以史以鑑。請珍惜現在的学習環境?!」 

   正陽街を更に北に進むと、同じく道路の左側の百年老店馬家焼麦館に行き着く。イスラムを象徴するブルーの外壁が際立っている。その歴史は古く、清朝嘉慶元年(1797年)、小西門に屋台で店を開いてから210年にもなる。現在の場所に店を構えてからでも半世紀弱になる。とにかく、ここのシュウマイ(焼麦)は美味しいと私も思う。

      馬家焼麦館の一つ手前の路地を西に入ると、現在は何軒かの民家として使用されている旧汲金純公館に到る。民国年間に建築された建物で、熱河督統の汲金純の建物であった。現中国建国時にはこの建物は瀋陽鉄路局医院宿舎として使用されていた。現在残る建物は東半分で、1980年代半ばに西半分は取り壊されている。 

    正陽街は北順城路までである。正陽街の左右、北順城路の内側には瀋陽城の城壁の一部が今も残っている。この瀋陽の城壁についてはー加藤正宏の瀋陽歴史探訪・4、瀋陽城市と城門を参照していただきたい。



追加  馬家焼麦の建物が取り壊されてしまう(07・5・13)

     2007年5月12日の『遼瀋晩報』に「告別211歳馬家焼麦」の見出しがあり、馬家の店が取り壊されることになったことを私は知った。移動期限は最終が7月28日、それ以前には店を閉めなければならない。このことを知り、現場に見に出かけた。

   正陽街の中街北側の道路沿いは、既に一部取り壊しが始まっていた。

 「馬家焼麦」の裏にある汲金純公館辺りから千徳路街路に面した建物はどれもペンキで「拆」の文字が大きく書かれ、たくさんの横幕や、垂れ幕がなびいていて、それはそれは壮観である。「拆」は「折」似た字で右は排斥の「斥」の字で「取り壊し」の意味だ。

    それらの垂れ幕や横幕にはできるだけ素直に早く立ち退くことが、住民の義務だというようなことが、また、早く立ち退いた者へは金額が加算されることなど、つまり、お役所が立ち退きをスムーズにさせるための文がいろいろな書き方で書かれている。

 垂れ幕と同じような内容が壁いっぱいに書かれているところもある。そして、路上には路上市ができていた。立ち退きになる人たちが要らなくなった物を処分しようとしてできた市に、更に便乗してその市に参加してきたも他所者も加わり、ごった返していた。滅多に見られる光景ではない。そこで、写真を次ぎ次と撮っていた。

    突如、私は呼び止められ、何事かと思って応対していたら、無理やり、その地区の派出所連れて行かれた。制服を着たポリスが10名ばかり居たであろうか、私を連れて行ったのはきっと私服のポリスででもあったのであろう。写真を撮ったことが問題だったようだ。

    どこの者だと訊かれたので、日本人であると応じたら、身分証の提示を求められた。携帯していないと述べると、名前を書けと言う。

    仕方がないので、書こうとすると、訪問者用の用紙を持ち出してきた。私は何も自分の意思でここを訪ねてきたのでなく、連れて来られてたのだから、訪問者ではない。そこで、そこには書かないと言って、新聞の上に名前を書いた。

    しかし、なかなか字が上手いと彼は言いながら、結局はその訪問者用の用紙に私が新聞の余白に書いた私の名を書き、更にコメントも書いている。

    なぜ写真を撮ってはいけなかったのか、それは法律上のことかなどと不満をぶつけて尋ねる私に、まともに応えはなかった。禁止されていたのなら仕方がないが、私は全く知らなかったのだし、私は決して悪いことはしていない、新聞で知って、取り壊される「馬家焼麦」を記念に写真に撮っておこうと思って来ただけなのだ。そして、その近くで取り壊されようとしていた建物が在ったので、写真を撮ただけなのだから。

 強く弁明し、説明もしてみたが、受け付けられない。私は決して壊人(悪人)ではないと抗議するが、まったく相手にしてもらえず、カメラからフイルムを出すように求められる。抗議も空しく、仕方なく写ったものを消す方法を提示すると、「馬家焼麦」以外は全部消してしまった。

    汲金純公館の写真もである。撮った写真のどこが悪いのか、私には全く納得できなかったが、推察するに、このような棚戸(あばら家、バラック)を強権で強制引越しをさせている官権の姿を知られたくなかったのだろう。とにかく、これらのことを国の恥だとの考えていてのかも知れない。

    写真の消去が終わり、派出所から解放されて、表通りまで戻ろうとした。流石にもう写真は撮れなかったが、せめて壁面にペンキで書いてある語句をメモしておこうとしていると、私を取り調べした二人が私の直ぐ前に現われ、何をしているのかと問いかけてきた。私は気がつかなかったが、付けて来ていたのだ。

    これには少し恐さを感じたが、それでも敢え、これさえも駄目なのかとて問うてみたところ、一人は不管(どうでもいい)と言うが、一人は不行(駄目だ)と言う。消されてしまった「汲金純公館」の前に来ていたので、再度、敢えて、この建物は写真を撮ってもいいのではないかと言ってみた。もちろん、強硬な方の一人が不行と言って拒否してきた。

   結局、滅多に経験できない経験をしたんだと考えるしかない、今日の一日だったと言うことになる。棚戸の取り壊しの写真は全く残せなかった。(5・13)

参考文献

大奉天区劃明細新地図 満州帝国協和会奉天市公署 康徳6年2月(1939年)

瀋陽近現代建築 瀋陽市城市建設档案館・瀋陽市房産档案館編 2002年12月

瀋河区誌 瀋陽市瀋河区人民政府地方志弁公室編 1989年7月

瀋陽掌故 瀋陽市瀋河区人民政府地方志編纂弁公室編 1989年

瀋陽市志通信訊 1988年第2期 総第31 (従大舞台油炸羹説起き)

期瀋陽市人民政府地方志編纂弁公室 瀋陽市地方志学会

瀋河文史資料 第一輯 (風味老店―大舞台麻花店、李連貴薫肉大餅店、馬焼麦館、)

中国人民政治協商会議瀋陽市瀋河区委員会文史委員会 1987年11月

瀋河文史資料 第二輯 (瀋陽小古跡ー中心廟)

中国人民政治協商会議瀋陽市瀋河区委員会文史委員会 1990年2月

瀋河文史資料 第五輯 (瀋陽大舞台、汲公館、瀋陽市同澤高中)

中国人民政治協商会議瀋陽市瀋河区委員会文史委員会 1999年7月

歴史文化名城瀋陽 瀋陽市政協学習宣伝文史委員会偏 2006年3月

華商晨報 2006年12月7日 大舞台関連

遼瀋晩報 2006年12月7日 大舞台関連

遼瀋晩報 2006年11月16日 旧老天合糸房関連

瀋陽城内井字型の一部・正陽街

加藤正宏

略図




旧監獄の塀か

鼓楼のあった交差点

旧老天合糸房は既に 取り壊されている














「同澤中学」

張学良将軍創設の奉天同澤女子中学

満州国時期の第二女子国民高等学校
























旧益農銀行





















瀋陽路に面した古玩城入り口

と中国絵画




大舞台前から

故宮後方を見る

故宮と

商業施設「大家族」に挟まれた中心廟




大舞台





李連貴薫肉大餅店から

中街を望む




北側にあった旧老天合

糸房がマクドナルドの ガラスに

写っている





































新大陸美容美髪学校



























満州電信電話株式会社

のマンホール




















































































旧汲金純公館