30 満洲飛行機

製造株式会社 満人育成工


加藤正宏

写真が語る満洲3

(満洲飛行機製造株式会社 満人育成工)

加藤正宏


 今回は21cm×27cmの大きな写真2枚である。一枚には左から「満飛技能者養成所学生卒業師生撮影紀念康徳九年七月十五日」と記載、もう一枚には右から「満洲飛行機株式会社満人育成工第三回卒業生紀念撮影康徳十一年一月六日」と記載がある。康徳九年は1942年(昭和17年)、康徳十一年は1944年(昭和19年)になる。前者の師生の背景には飛行機が配されている。どちらも、写真を所持していたであろう人物の顔の周りを赤鉛筆で四角に囲んでいる。後者の満洲と満人の「満」が初めは「蒲」としか読めず、どのあたりの地名かといろいろと調べてみたが分からず、困ったものだが・・・・、満の字であった。

 この青年が育成工として卒業したのは満州国崩壊1年半強前であった。この航空機関係の技術を身に着けた中国人(当時は満人と呼称)青年はどのような人生を歩んだのであろうか。その技術を生かすことができたのであろうか。これら二枚の写真が60年強を経た21世紀になって路上市に出てきたのを考えると、当人にとって航空機関係の技術者であったことに誇りを持ち続け、その証として大切にしていたものと判断できる。当人も亡くなり、孫、或いは曾孫の時代となり、写真が孫や曾孫に語りかける内容を失ってしまったのであろう。だから、このように路上での売買の対象になったと考えられる。

 さて、満洲飛行機株式会社であるが、『瀋陽百年(1900-1999)』注1

「到了20年代、張作霖父子在瀋陽辟建東塔、北陵機場、従国外買回一批飛機、還開?了航空工廠、但也只能維護、修理飛機、生産些機身、機翼、尾舵、炸弾架之類的零部件。“九一八” 事変后、日寇強占了瀋陽的機場和航空工廠、組建了“満州航空株式会社”、 “満州飛行機製造株式会社”、生産過旧式民用客機。1941年12月太平洋戦争爆発后、美国不時派飛機来空襲、“小鬼子”?得屁滾尿流把大部分機械設備搬到黒竜江白城市(今属吉林)去了。日本投降、蘇聯紅軍解放瀋陽時、又○(手偏に斥)走了不少“満飛”留下的機器設備。1946年秋、国民党軍隊接管瀋陽、把残存的破旧飛機和零星機械等、当“廃鉄”売給商人。瀋陽航空工業従此一蹶不振。」

とある。

 大まかな文意は次のようになるであろう(赤字部分が写真と関連)。

20年代になると、張作霖父子が東塔、北陵に飛行場を開設し、外国から飛行機を購入し、飛行機工場も造った。でも、それは飛行機を維持し修理するためのもので、まったく生産に関しては何もしていない。満洲事変後は、日本がこれらの飛行場や工場を奪い取り、“満州航空株式会社”や“満州飛行機製造株式会社”をつくり、旧式の民間旅客機を生産した。1941年12月太平洋戦争が起こって後は、アメリカがしばしば飛行機で空襲を仕掛けたので、恐れおののいた日本人は大部分の機械設備を黒竜江の白城市に移した。日本が投降し、ソ連紅軍が瀋陽を解放したとき、満州飛行機製造株式会社がまだ残していた機械設備はソ連によって持ち去られた。そして、1946年秋、国民党軍隊が瀋陽を受け継ぎ管理したとき、破壊されて残こされていた機械なども廃鉄として商人売り渡されてしまった。このようにして瀋陽の航空工業は廃ってしまった。

“満州航空株式会社”や“満州飛行機製造株式会社”が受け継いだ東塔飛行場やこの飛行場を開設した張父子について少し見ておこう。

 『大東区文物古迹普査匯編(民族工業部分)』注2に拠ると、

「東塔機場始建于1920年10月、1924年東塔機場建有一条500米長的?道、1040平方米的綜合楼、長240米、寛24米的飛機庫和維修廠房。瀋陽日軍攻占后、在原有?道基礎上、修建了長1500米、寛80米、厚0.12米的混凝土結構的?道。安装了航空灯塔等設施。1945年9月、国民党空軍接収機場、并将?道加厚0.1米。1921年、先后購買20架英製愛佛羅和法製高徳隆飛機。1922年9月、創?東北航空学校、1923年9月、張作霖任命張学良航空処 総?兼東三省航空学校校長。瀋陽解放后、東塔機場成為東北航空運輸重要枢紐、一直到1989年4月16日、民用航空運輸、遷移到瀋陽桃仙機場。」

との記載が見られる。

 この記載には、東塔飛行場の滑走路について、張作霖が創建した時のものが、日本や満州国の支配する時期には規模が拡大されていること、また国民党が管轄した時期にも少し厚みを加えたことなど、その変化が実際の数値で示されている。張父子が購入した機種が英国製と仏国製であったこと、航空学校の創られていたことや張学良がどんな任に着いていたのかなども伝えている。

 “満州飛行機製造株式会社”の技術者養成とは直接の関係は無かったと思うが、張作霖や張学良には、次のような航空関係者の養成の動きもあった。

 『大東文史資料 第十輯』注3の「張学良将軍和東北空軍」に拠ると、

「1920年、張作霖在戦勝段祺瑞后、所獲得的戦利品中就有10余架飛機和一批飛行員。北洋軍閥段祺瑞和徐樹○(左に金、右に争の一字)是我国最早擁有飛機的軍隊。而張作霖亦早有建立空軍的打算。掌握北京政権后、他把這个想法付諸于行動。首先、派第一、三聯軍正副軍長張学良和郭松齢赴日本考察、学習日本軍隊的先進装備和訓練方法;在瀋陽成立軍官教育班、招収有文化的青年進行培訓。其后、在奉天農業実験場南(今新光動力機械公司)、劃地2万平方米、修建了機場、因此地与瀋陽四塔之一―東塔相毘隣、故取名東塔機場。在機場内建築了1040平方米的綜合楼、一条500米的土質?道、還建有?公楼、倉庫、宿舎等。東塔機場于同年10月16日交付使用。這是東北最早的機場和空軍基地。1921年1月正式成立了東三省航空処、張作霖任命奉軍参謀長喬?雲為航空処処長、隷属東三省巡閲署。当時、張作霖任東三省巡閲使。

1922年9月、張学良在東塔機場創?東三省航空学校。1923年9月、張作霖対航空処進行調整、張学良被委任為東三省航空処督?、兼任東北航空学校校長。秉承父命、張学良直接掌管了初建時期的東北空軍大権、直到抗日戦争簿爆発。」

 以上、張作霖の空軍に対する思いや考え、その中で張学良や郭松齢を日本に派遣し、日本軍の先進的装備や訓練法を考察、学習させたこと、また東北で最も早い時期に東塔飛行場を造り、東三省航空処を成立させ、東北航空学校を作り、その権限を張学良に託していっていたことが上記の記述から分かる。張学良はこれに応えて、空軍の内実を高める行動を取っていっている。例えば、次のように軍官を仏国へ留学させ、航空に関して学習体得させている。

 「他(張学良のこと)従陸軍軍官中精心挑選了徐世英、陳鴻陸、高志航等12名優秀軍官、分両批到法国留学、于1925年畢業回国。同年・・・(筆者による省略)・・・28名優秀青年和機械師、翻訳等7人、由香港赴法国巴黎毛蘭納航空学校和法国西南部克魯亜徳亜的高等龍航空学校学習。1926年秋、転入法国南部的依斯特陸軍航空学校訓練、学習駕駛技術。結業后又転到里昴的法国正規軍35団参加実際戦闘見習、接受各種厳格的専業訓練和系統的航空理論学習、他們将航空駕駛技能掌握的十分嫻熟。這些人因其学有所成。」

 今回のテーマにした写真に絡む「満飛技能者養成所」や「満洲飛行機株式会社満人育成工」の研修或いは訓練所はどこに設けられていたのであろうか。

『瀋陽文史資料 第二十四輯』注4に「偽満陸軍航空学校概略(1944-1945)」という記述がある。

 「偽満初期、日偽協定偽陸軍人数限制在6万人。只建歩、騎、砲(除重砲)、工、輜等兵種。・・・(筆者による省略)・・・。到1941年12月、太平洋戦争爆発后、日本関東軍所属部隊大批被抽調南洋戦場作戦、而増加偽軍人数、以補充其不足的兵力、偽軍迅速膨張到15万人、而建設飛行隊、高射砲隊等特殊部隊、偽航校而建立。

一、設施簡況

偽航校位于奉天(瀋陽)市西郊于洪屯、占地面積120万平米。由主楼?公(指揮部、教学、管理機構組成)。有飛機場、飛機庫、材料廠、機械修理廠(有各種機床設備)、操縦者(飛行員)教室、集会室、宿室、医務所(有手術室、超短波治療機、飛行員特殊検査儀器及器材)等設施。

二、各類人員情況

 校長是陸軍中将(日本人)。以下飛行員少尉至上校30人、少年航空兵3个連隊200人、医務人員軍医4人、衛生士兵10人、事務軍官20人、其他軍官3人、工人20人、総計人数300人(以上為略数)。・・・(筆者による省略)・・・。飛行員中幾乎都是日本人。只有1名中国人、曹上尉教官、兼航空兵第二連隊長。・・・(筆者による省略)・・・。

1944年、由于日軍南洋戦場節節敗退、美国空軍在東北及日本本土頻繁轟炸、迫使日偽軍加強対空部隊的充実力量。日本妄想以東北作最后的大陸戦場、要中国人替他們当犠牲品。1945年7月、由偽軍中抽調10余名中国人下級軍官于航校作完飛行員体験、尚未最后結論、日偽已○(誇の字の左の言→土)台。

三、飛機種類

擁有各類飛機6種約30架:(1)偵察機、為30年代双翼機。(2)轟炸機、有2台発動機。(3)95式教練機、有前后2个同様座席。(4)95式戦闘機。(5)97式戦闘機(650馬力)。(6)隼(Hayapusa)式戦闘機(1100馬力)是在美機轟炸瀋陽以后、于1945年春調入使用的新型飛機、僅有4架。能作戦的飛機只有97式、隼2種、在15架左右。戦闘機的装備只有一挺重機槍。・・・(筆者による省略)・・・。

四、対空作戦

・・・(筆者による省略)・・・。

 1944年12月7日及21日、美機B29先后両次空襲瀋陽発生空戦。第一次空襲時、有一架偽航校的97式戦闘機、被美機撃落、中尉飛行員春日園生(日本人)被撃斃、機毀。一架美機“空中分解”墜落。2名機組乗員乗降落傘着陸被俘、其他9名機組乗員喪生。偽航校認為是春日園生撃傷后所致。偽満皇帝溥儀特別嘉奨、給航校第一航空隊賜名“蘭花特攻隊”。併賞賜航校全体官兵毎人一盒特製的“蘭花御賜煙巻”。将航校景観和飛行員的活動情況、拍成新聞簡報、大勢宣揚為皇帝売命精神、鼓舞飛行員的戦闘情緒、在航校曾上演過。・・・(筆者による省略)・・・。

 第二次空襲時、偽航校飛機未損失。有2架日軍航空隊的飛機被美機撃落。1架美機墜毀、全機乗員11名全部喪生。

1945年6月、在美機B29空襲鞍山時、偽偽航校2架隼式戦闘機前去阻撃、上校飛行隊長(日本人)喪生、機毀。1945年1-8月、日本投降前、瀋陽上空時有美機B29、1架或2架、高空8000至9000米飛行。日偽飛機未進行阻撃、地面部隊亦未対空射撃。

五、飛行事故

・・・(具体的な事故をいくつも挙げているが、筆者によって省略)・・・。

僅1944年11月至1945年7月、不到1年時間、発生飛行事故千起、死亡飛行員3人、墜毀飛機3架、傷2架。

六、偽航校解体

 1945年8月8日、蘇聯軍対日宣戦。蘇軍向東北日軍大勢進攻。偽航校于8月9日得到情報“発現蘇聯地面部隊由虎頭侵入。”8月15日上午、各連隊全体集合、収听広播。日本天皇裕仁詔諭、向中、蘇、美、英、法五国無条件投降。

 8月17日、1架蘇軍戦闘機、在機場上空盤旋、俯衝掃射、地面無反応。8月20日、蘇軍30余名、乗一架大型運輸機在機場降落。偽航校被蘇軍接収、武器、飛機被収?、人員離散、偽航校解体。」

 この「偽満陸軍航空学校」(勿論、当時にあっては「偽」などを冠した名称ではなく、これは現中国での呼称)は1941年12月の太平洋戦争突入後に建立されており、今回話題に提供している写真の年代とも合致する。記述はパイロット育成を中心としたものになっているが、材料廠、機械修理廠(有各種機床設備)等の施設も設けられていることを考えると、満洲飛行機株式会社と連携して、技能者養成所、中国人(当時は満人と呼称)技術労働者研修或いは訓練所が開設されていた可能性もあるし、満洲飛行機株式会社で養成、研修や訓練を受けた者がこの学校に派遣されていた可能性もあるのではなかろうか。

 この「偽満陸軍航空学校」は奉天(瀋陽)市西郊于洪屯にある飛行場に設けられた学校であった。奉天(瀋陽)にあった飛行場の位置については、佐伯邦昭さんのHP「満洲奉天(瀋陽)飛行場の思い出」注5に掲載された「1945年までの奉天飛行場概図」が大いに参考になる。

 上記中国文「四、対空作戦」の記述の中に、春日園生さんのことが記述されている。これも、佐伯邦昭さんのHP「航空史の思い出」注6の1-03櫻井清さんの本文「特攻機で散った春日中尉」や佐伯邦昭さんの付録2「蘭花特別攻撃隊の歌」と関わりのある部分である。

 上記中国文では「特攻機で散った春日中尉」の件があって、それを満洲国皇帝溥儀が特別に称讃し、隊員を励まされて、皇帝から「蘭花特攻隊」の名を賜ったと記述されており、この記述からすると、この件以降に「蘭花特攻隊」と呼ばれることになったといえる。この時、航空学校全体官兵みんなにそれぞれ一盒の特製“蘭花御賜煙巻”が与えられたと記述されている。「恩賜のたばこ」というところか。

 「蘭花」については、上記中国文に参考としての注が付いていて、以下のように記述されている。

 「“蘭花”―以蘭花之図案形表示。蘭花是偽満的皇室花、是皇室、皇権、偽満洲国的象徴。多用于皇座、皇宮大門、銭幣、郵票上。参見《偽満洲国史》扉頁、1981.3。」

 瀋陽が米機に襲撃された件については、当時瀋陽に住んでおられた方々が記憶されていて、記録されたものもあり、ここに紹介しておく。

 「空襲も3回ほど経験したが、アメリカのB29が鉄西の工業地帯や奉天飛行場を目指して、扇形の編隊を組んで、高度1万メートルの上空を飛来するさまは壮観だった。迎える味方の高射砲は届かずに虚しく炸裂するのは口惜しかった。また満州国空軍の『蘭花特別攻撃隊』が体当たりして一機を撃墜したのも見たが、のちにB29の残骸が忠霊塔の境内に展示されたとき、その大きさとともに機内に中国の紙幣や硬貨が用意されていたことにも驚かされた。」(千代田小学校19回生、曽根満州男)注7

栗原節也(平安小入学、葵小卒業、二中在学)さんも、「忠霊塔で記憶にあるのは、杏の樹、境内にあった二三の展示物(鉄の舟艇、米軍のB29エンジン部残骸)程度」だったと語られ、B29の残骸のことを記憶されている。

 B29の残骸を見られた方とエンジン部の残骸を見られた方があるようです。このことについて、村上節子さん(千代田小17回生)が以下のような情報を寄せてくださっている。

 「忠霊塔にB29の残骸が展示されていたことは私が萩町1の我が家から忠霊塔を横切って通学していたのでよく覚えています。その大きさに驚きながら。ところが同期生と話していて食い違ったことはエンジンだけで残骸そのものは展示されていなかったと主張する者がいました。結局、残骸があまりにも大きくて邪魔?当初の目的を達した?ので或るときからエンジンだけの展示になったようです。残念ながら私はエンジンのみの展示を覚えていないのです。」

 「卒業する頃は、奉天の上空にB29が編隊をなして飛来し『空襲警報』が出ると社宅一階の畳を上げて床下に避難しました。」(志津里秀一、旧姓中野)注8

 「奉天での学校生活以外の記憶としては、B29の空襲で満蒙百貨店前の道に爆弾が落ちて大きな穴が出来ていたこと。特攻隊の兵士も見ました。B29の残骸は忠霊塔に持ち込まれ、その大きさに驚いたことでした。」(森本良佑)注8

 「B29の空爆も二度程あり、一度は焼夷弾が落ちて奉天駅や鉄西の方が被害を受けたそうです。そのときの爆風で裏口の戸が音を立てて開いたり閉じたりして驚きました。」(増田滋子、旧姓東郷)注8

 「奉天の満洲飛行機(満飛)が高等練習機(97戦複座型)の組立工場として日本の航空戦力養成に重要な役割を演じていたことは把握済みで、最優先目標に準ずる重要優先目標とされていた。」「この日激(ママ)撃に出撃したのは満州国軍奉撫飛行団九七式戦闘機四八機、一式戦闘機(隼)三機、二式戦闘機(鍾馗)一機で、春日園生満軍中尉(蘭花特別攻撃隊)が蘇家屯上空で体当たりして散華している。二式戦も体当たりした。・・・(米機の機種や機体番号、乗員人名を詳しく挙げているため、筆者によってこれらを省略)・・・。落下傘降下して捕虜になったのは何れも機銃手で軍曹のW・HとK・Bの二名、他の乗員九名は全員戦死した。」(奉天二中十一回生、四塚 勝)注9

 最後に『十三歳の証言』注8巻末に掲げられた「蘭花特別攻撃隊」から少し引用しておく。但し、これは陸士会編『礎』、同徳台編「先駆」から抜粋ということなので、陸士会編『礎』からの孫引きの記述になる。

 「昭和十九年十二月七日、春日中尉はB29に体当たりしてその一機を粉砕し、自らもまた戦死、その後西原少尉、松本少(ママ)校ほかも体当たり攻撃により戦死を遂げた。」「春日中尉等の戦果により『蘭花特別攻撃隊』の存在と行動が認識されて満洲国民の意気はあがった。満洲日日新聞では「蘭花特別攻撃隊」の連載。満洲電電公社の森繁久弥氏作詞を含む何編かの歌の発表又満映と大映共同制作(主演笠智衆、水島道太郎)の映画化が進められた。」(千代田小学校17回生 村上節子)注8

 皇帝の為に命を捧げるなど国民や飛行士の戦意高揚の宣伝に利用されたことは上記中国文「四、対空作戦」にも記述されている。

 ところで、紹介してきた日本人の「蘭花特別攻撃隊」の呼称の使い方は、中国の文献 『瀋陽文史資料 第二十四輯』とは異なる。春日中尉がB29一機を粉砕し、自らもまた戦死したことに対して、皇帝溥儀が賞賛して隊にこの呼称を与え、初めて使われ始めたものだというのが上記中国文献での記述である。しかし、日本の文献はこの事件以前からこの呼称があったかのような書き方である。

 皇帝溥儀が「蘭花特別攻撃隊」名を下賜されたというのは、実際に既に呼称されていた事実の後追いとして、造られた話であったのであろうか。それとも、後世の者が不用意に時期を分けることも考慮せず、よく知られるようになったこの呼称を、安易に全時期に使用するようになったのであろうか。

 なお、『十三歳の証言』注8巻末に掲げられた「蘭花特別攻撃隊」の付記には次のような記載がある。

 「映画の中で歌われたのであろうか・・・当時の私たちの愛唱歌のひとつに『蘭花特別攻撃隊の歌』がある。いろいろ調べてみたが正確な歌詞はわからない。記憶にある方は補足、訂正してください。(千代田小17回生 村上節子)注8、 参照 注6の追加

蘭花特別攻撃隊の歌

大満洲の大空を 護りてかたき神鷹は

蘭花の薫るそのごとく わが国軍の花と咲く

蘭花特別攻撃隊

唸るエンジンの急降下 見よ必中の体当たり

銀翼ガンと突っ込めば のびし巨体は火を噴いて

B29 落ちゆきぬ


*    第二次大戦中、B29に体当たりしたパイロットは、四十五人(四十四機)、そのうち、九七戦によるものは二機で、いずれも満洲国空軍であった。これら九七戦は二機とも満洲飛行機工廠製であったと考えられる。

*    護国奉天壱号機から五号機までの献納者は、奉天の市民一同であり、これらの五機の献納式は昭和十七年八月三十日に奉天飛行場で行われた。

(参考資料) スケール・アヴィエーション誌、エア・ワールド誌」

 上記に紹介した佐伯邦昭さんのHPの蘭花特別攻撃隊の歌詞と付き合わすと、同じところもあるが、その違いにも気づく。

 最後にもう一度“満州航空株式会社”や“満州飛行機製造株式会社”の話題に戻そう。前記の栗原節也さんが次のような情報を寄せてくださっている。

 「 日露戦争時の『児玉源太郎』氏の息子さんは、満洲時代、奉天にあった『満洲飛行機製造』だったかの社長をしており、その家が旧萩町東側と平安通南側の交差地点の角にありました。何時も門が閉まっており、門柱には「児玉公館」の表札が掛っていたので、私はてっきり「特務機関」だろうなと思って見ていました(敗戦前頃の表札は「濱田公館」)。」

 この情報は、児玉源太郎氏のお孫さんと、千代田小学校、奉天二中と同級生だった方から得られたとのこと。旧萩町は現在の南京南大街、平安通は現在の民主路。

我がHP「瀋陽史跡探訪」の「17.旧領事館や公館が・・・・」で紹介しているのが満州国時代に満州航空会社が使用していた建物である。現在は台湾同胞聯誼会の建物で、五経街と九緯路が交差する西北角の少し奥にはある。この建物は元を辿れば張作霖の盟弟としての契りを結んだ張作相の建物だ。旧博物館(旧湯玉麟公館)のすぐ近くにある。

 余談だが、1948年の共産党による瀋陽解放で、解放軍瀋陽空軍指揮部が本拠を置いたのが中山広場(旧大広場)の旧三井物産のビルである。現在は招商銀行の建物になっている。この建物の文物保護単位の銘版には「日満空軍大楼旧址」と書いてある。一時、日満空軍大楼として使われた時期があるのであろう。

(2009年6月18日記)


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(参考文献、HP)

注1 劉迎初、呂億環 主編 瀋陽出版社出版 1999年12月発行の82頁、執筆者 鄧謙

注2 大東区文化体育局出版 2004年7月発行 の16頁「16、東塔機場」

注3 中国人民協商会議瀋陽市大東区委員会 文史資料委員会編 2000年1月発行

「張学良将軍和東北空軍」23頁~、執筆者 鮑景雲

注4 瀋陽市政治協商学習宣伝文史委員会編 2001年12月発行

「偽満陸軍航空学校概略(1944-1945)」215頁~、執筆者 張景徳

注5 佐伯邦昭さんのHP「航空史の思い出」2-01

「満洲奉天(瀋陽)飛行場の思い出」の「1945年までの奉天飛行場概図」(リンク先)


注6 佐伯邦昭さんのHP「航空史の思い出」1-03、櫻井清さんの「特攻隊で散った春日中尉」、


佐伯邦昭さんの「蘭花特別攻撃隊の歌」リンク先)



注6の追加: 栗原節也さんより情報を頂きました。

「このような三番の歌詞はなかっただろうか。」と言われ、記憶されていた以下の歌詞を紹介して頂きました。「遠い昔のことなので、間違いなしとは言い切れません。」とも話されています。なお、歌詞や作曲者は当時の奉天の新聞(満洲日日新聞)で見、メロディーはラジオで聞き覚えたように思うとのことでした。二番は全く覚えていないとのことです。

三番

ああ悠久の大空に

わが荒鷲は神去れど

その名は薫る永久に

蘭花特別攻撃隊

蘭花特別攻撃隊

なお、別な方のHPで、満州写真館 満州航空(リンク先)にも航空写真が多く収められている。

 以下のアドレスはヤフーのHPサービス終了の残滓として残している。

http://www.geocities.jp/ramopcommand/_geo_contents_/080510/hikouki.html

注7 『千代田・最後の生徒たち 奉天1945年―残像を紡ぐ―』 2005年11月1日発行

奉天千代田国民学校 終戦時在校生の記録 49・50頁

注8 『十三歳の証言』 奉天千代田在満国民学校 昭和二十年卒業生の記録

奉天千代田小学校十七回生同期会、 2002年11月1日発の17、23、75、117頁

注9 『砂丘 第23号』 奉天二中同窓会 2006年8月発行 39頁

 

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満飛技能者養成所

学生卒業師生

撮影紀念



満洲飛行機株式会社

満人育成工 第三回卒業生紀念撮影












瀋陽文史資料 第二十四輯

偽満陸軍航空学校概略 

(1944―1945)

張景徳


















上・皇宮大門 

2枚目・詔書

3枚目・紙幣

4枚目・切手










満洲航空株式会社

の建物















中山広場から

旧三井物産ビルを見る

(左のチョコレート色の建物)