35 旧満洲中央銀行

千代田支行、

及び奉天自動電話交換局

加藤正宏

大日本職業別明細図奉天市街図昭和11年(1936年)

不可移動文物・

旧満鉄図書館などの現状

(その4、旧満洲中央銀行千代田支行、及び奉天自動電話交換局)

加藤正宏

 ここ数回の「不可移動文物・旧満鉄図書館などの現状」シリーズでは、1、旧フランス領事館、2、旧満鉄奉天図書館など、取り壊して移転し(或いは移転を目論み)、完全な贋物になったもの、それに、3、旧奉天独立守備隊司令部―旧湯玉麟公館のように、主楼の取り壊しはないものの、外観は大いに変わって見える不可移動文物について、見てきた。

 今回は外観の改造は特に見られない、旧満洲中央銀行千代田支店、及び奉天自動電話交換局の現状をご紹介しておこうと思う。

1、満洲中央銀行千代田支行

 旧満洲中央銀行千代田支行(上掲地図の)については、私のこのHP瀋陽史跡探訪の8「満鉄附属地その3の上―中華路と南京大街付近」で既に紹介してきた。

満州事変(九一八事変)の翌年の1932年、東三省官銀號を改め、満洲中央銀行奉天分行は成立した。満洲中央銀行奉天千代田支行のこの建物も、東三省官銀號の建物であった。この時、辺業銀行も満洲中央銀行奉天大南門支行となっている。朝陽街の東三省官銀號と辺業銀行については、HP瀋陽史跡探訪の14「瀋陽城内井字型の一部朝陽街」で既にその写真を紹介している。下線部をクリックし、見ていただければと思う。

 千代田支行のこの建物は満州国消滅(中国での光復)後、一時は国民党政府の支配に入るが、48年の現中国による解放後は、省総工会(労働組合最高指揮機構)の管轄下に置かれた。また一時期、和平区の公安局の建物として使われていたこともあるようだ。外部に大きな広告が取り付けられることはあったが、建物そのものは長い間、使用されず、少し寂れ燻ぶった感じを見せ、不可移動文物として、文化財保護と並行させて経済活用することの困難さを市民に語りかけているようなところがあった。

 しかし、南京大街と中華路の交叉するこの辺りは今や瀋陽の中心街の一つを構成する。この区画には、大街を東に越えれば、昔の忠霊塔区域には聯営物業大厦や「曼哈頓広場」「曼哈頓時尚特区」とニューヨークの中心街の名をとったマンハッタン区域があり、中華路を南に渡ると新世界百貨のビルがあり、その南は更地になって、正に現在、商業開発のためのビルの基礎打ちが始まっている。そこは旧満鉄奉天図書館・瀋陽鉄路招待所・瀋陽鉄路第五小学の跡地である。この中心の中心に今回の建物がある。経済活動に目ざとい経営者たちの目に留まらないはずがない。

 写真に見られるように、世界の高級ブランド時計を扱う百貨店として生き返ったようだ。表面の壁が補修されてきれいになっている。中央正面のカーブした面に立つ4本のイオニア式列柱の上には、「亨吉利世界名表中心(ヘンジリ世界有名時計センター)」という文字が見られる。中国語の「表」には時計の意味がある。列柱の間にできた左右の入口の上窓には大きな時計の絵も見られる。更に中央部の上方には1928の数字が見える。この数字はこの建物の創建年代を示したものであろう。内部は定かではないが、主楼の外観は確実に文物(文化財建築)として保護がされていると言えよう。



09年11月に

中国人朋友の許広軍に依頼し撮影

写真提供:方家



許広軍撮影、「亨吉利世界名表中心」「1928」



写真提供:栗原節也

当時の絵葉書:隣には中国銀行、

その隣には教会の塔、道の先には駅



赴任した04年頃はこのように大きな広告が掲げられていた

帰国した07年には、このように寂れ燻った感じになっていた

 満洲中央銀行千代田支行  中華路から見た建物

下 正面のカーブとイオニア式の列柱が美しい

2、その他の不可移動文物の銀行

 銀行関係の建物の中には不可移動文物に指定され、保護が求められているものいくつかある。第一陣の不可移動文物70の中には今回取り上げた満洲中央銀行千代田支行の他に、法国匯理銀行(参照:HP瀋陽史跡探訪の17「旧領事館や公館が建ち並ぶ旧協和街と旧義光街」、美国花旗銀行、志誠(城)銀行が見られる。

 志誠(城)銀行は満洲中央銀行千代田支行の西隣の建物だ。現在は中国工商銀行がそこに入っている。掲載した1936年の地図では、中国銀行と記載されている所だ。中国銀行は満洲国時代には半停業状態にあった。この時代、満洲国や日本は金融統制をひき、中国のいくつかの銭庄や銀行を合併させている。その時合併させた銀行に付けられた名前が志誠(城)銀行であった。当時、この銀行を通じて反帝愛国運動がひそかに展開された歴史があり、満洲国滅亡後、一時期この名の銀行が復活し、この建物で活動していた。そこで、文物名として志誠(城)銀行と表されているようだ。この建物もイオニア式の貼り付け柱や西洋的な装飾が見られる。

 美国花旗銀行(インターナショナル バンキング コーポレーション)はアメリカ最大の商業銀行の一つで、1928年に花旗銀行奉天支行が商埠地の十一緯路に設けられた(上掲地図の)。

 花旗は星条旗のことで、星を花と考えてのことのようだ。1931年の満洲事変(九一八事変)までは、奉系軍閥の砲弾や武器の購入等の決済に使われ、順調であったが、事変後、営業は不振になり、35年には閉鎖され、41年には太平洋戦争の開始で、日本や満洲国の敵国財産として管理され羽目になっている。外観はそのまま保護されて、現在は貴賓楼というレストランになっている。6本のイオニア式列柱とそれぞれに対応して道路側に立つ照明柱も特徴的である。ここで食事をしたことがあるが、内部の天井なども保護維持されているものではないかと思われる。前回紹介した湯公館食府のように値が張るようなこともないレストランである。






貴賓楼の天井

工商銀行(旧志誠銀行)の

右が旧千代田支行

中国工商銀行(旧志誠銀行)

本来は旧中国銀行の建物(上掲の地図参照)

アメリカの旧花旗銀行、列柱とその前に対応して立っている照明柱が美しい

3、奉天自動電話交換局

 和平区太原北街34号にある(上掲地図の)。中山路と太原北街が交叉した西北にある。関東庁内務局土木課が設計し、施工は奉天木組に任され、1927年に起工、28年に竣工した建物である。アコーディオンの蛇腹のような壁面は他に見られない特徴である。当時の絵葉書を見てもそのユニークさは感じ取れる。

 満洲国の消滅、日本の敗戦(中国側の光復)後、瀋陽電信局機械修配所、瀋陽市電話三分局、瀋陽市電信局電信三分局、瀋陽電信局供応所と名前を変えつつも、20世紀は電信電話関係の業務を行う建物として活動してきていた。

 私が瀋陽薬科大学に赴任した2004年9月には、この建物の正面入口には中国銀行の看板が取り付けられ、銀行がその業務を行っていた。しかし、1年を経過した頃、この正面入口は封鎖され、看板も無くなっていた。帰国した07年7月末も、まだ封鎖されたままの状態であった。

 今年(2009年)11月に中国の友人に現状を尋ねてみたところ、写真を送ってきてくれた。中国聯通(China Unicom)がこの建物に入り、営業していることが分かった。正面入口には不可移動文物であることを称する牌も掲げられている。この建物本来の通信業務に立ち返ったようだ。

 この建物周辺の道路(蘭州北街と交差する北三馬路と建物に沿った太原北街の歩道)には、今なお奉天自動電話交換局の頃の遺物が残されており、見ることができる。それはマンホールの蓋である。円で囲んだ郵便のマーク「〒」を挟んで右から左へ「電」「話」の文字が刻まれている。

電話関係のマンホールの蓋には満洲電信電話株式会社のもの、満鉄のものなどを瀋陽市内で、今でも見ることができる。中街の遊歩道や九馬路と交叉する北市街に満洲電信電話のそれ(TMTを縦に重ねた図案を右左から電話の文字で挟む)は見ることができる。満鉄のそれ(Mとレール断面を図案化したマークを右左から電話の文字で挟む)は、南三馬路と昆明南街の交叉する東北角に見られる。これらについてはHP瀋陽史跡探訪の13「瀋陽の歴史を刻むマンホール」やHP瀋陽史跡探訪の7「満鉄附属地 その2、中山路と太原街」やHP瀋陽史跡探訪の25「遠足(瀋陽日本人小中生)」を見ていただければと思う。

 取り上げた今回の不可移動文物は、外観の保護が意識された活用になっていて、第二回で取り上げた満鉄奉天図書館の扱いとは、大きな差があることを今回は感じた。


(2009年12月14日掲載)

 

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参考図書

*        『瀋陽近現代建築』瀋陽市房産档案館 瀋陽市城市档案館 2002年

*        『瀋陽市志10 金融』瀋陽市人民政府地方志編纂弁公室 1992年



*2021年夏季を最後に、

Googleのサイトが新しくなり,

閉鎖することにともない、指示に従って、Upgrade する過程で、変換移管している。

2021年6月上旬





郵便局の電話

  満洲電信電話、TMT

満鉄の電話

聯通の看板、方家撮影

左中央に郵便局、その後方に電話局、


「〒」マークと「電話」の文字の付いたマンホールの蓋が見られる歩道

写真提供:中国人朋友 許広軍

太原北街(旧春日町)

この旧電話局に沿った歩道を

北に行くと鉄道総局がある。


正面入口には聯通の看板と

入口向って右には

不可移動文物の黒牌

許広軍撮影

空家の時期

中国銀行の看板