25 旧附属地(奉天附属地)への遠足 

(日本の痕跡を訪ねて)

加藤 正宏

附 中国の歴代小学校の歴史教科書上の日中戦争の記述(追記文)

 瀋陽日本人教師の会の会誌「日本語クラブ」第24号(06年11月11日発行)に掲載したものに、マンホールなどの写真を加え、更に、遠足に参加した子弟の多くが現地の学校に通っていることもあったので、満洲事変がらみの歴史について、現地中国の小学校教科書の記述と日本のそれを追加して、再録したものである

 瀋陽史跡探訪の21.旧奉天の建造物の取壊しと合わせて見ていただければと思っている

旧附属地(奉天附属地)

への遠足

(日本の痕跡を訪ねて)

加藤 正宏

 瀋陽の華新国際学校内の瀋陽日本人補習学校、そこの日本人子弟遠足として、旧附属地の満州時代の痕跡を見学するというプランが、岡沢成俊日本人補習学校校長より持ち込まれた。小中学生10人程だという。現地の中国の学校に通っている生徒も居るとのことである。事前授業を1時間弱し、見学の案内と解説をしてくれとのことである。

 歴史に関心があったり、幼いときの思い出とか父や母の思い出を求めてやって来る人にはそれなりに関心の持てる場所や建物、施設が瀋陽にはまだ残っている。

対象は小中学生だ。関心の持てる物や建物があるだろうか。難しい。

何を訪ねて行き、何を見せればよいのか。

ちょっと待てよ。マンホールの蓋の図案はなんとか、持っていきかたで、関心を引出せるかも知れない。図案を謎解きように考え、考えたものが実際あるところを探し、自分の目で確認していくなら、宝探しやオリエンテーリング気分で見学できるかも。

 それなら、当時のマンホールの蓋が多く見出せる北三馬路附近を歩きながら、マンホールの蓋を確認していけばいい。満鉄の「M」の字、「レールの断面」、sewer(下水道、下水管)の「S」、郵便マークの「〒」、「電話」の文字、篆刻文字でアレンジして一つにまとめた「奉天」などを探しながら(参照:HP「13、瀋陽の歴史を刻むマンホール」をクリックしてください)。

 当時の郵便局や電報局はこの近くであり、中山路沿いには旧百貨店の建物もある。また中山 広場(旧大広場)も近くにあり、当時の建築群も多く残っているところだ。これらも紹介できる。更に少し拡大すれば、旧満州医科大学や、旧浪速女学校や鉄道総局等も見ることができる。

 いろいろ紹介できるものあるが、小中学生にはどう紹介したものだろうか。一つ一つの紹介は彼らにとってはきっと無縁なもの。どうしたものか。あれも、これも、あれももと紹介していけば、一つ一つは記憶に残らず、日本に関係があったもの、日本が造ったものが多いというイメージだけが出来上がることだろう。

事実のことだからそれはそれで良い。しかし、これでいいのだろうか。

 街中に今でも残る立派な幾つもの建物が日本と関係があるものだと、歴史的な背景の知識もないままに、単に知らせて、良いものだろうか。

日本は強かった。偉かった。偉大だった。このような優越意識だけを生み出さないか。

 そうなってはまずい。まずいに違いない。じゃ、どうすればいい。

 やはり、当時の歴史的背景の中で、日本が進んでいった歴史事実を理解させておく必要がある。19世紀後半から20世紀前半に掛けて、西洋の近代国家観の成立、その国家による帝国主義の動き、この動きの中に取り込まれようとした中国、日本、朝鮮などの東アジアの情況を把握させておく必要がある。

でも、小中学生だ。どのように、このことを把握させればよいのか。

近代国家や帝国主義の概念はどのように噛み砕けばいいだろう。今の子どもたちは国家そのものがそれぞれ確固として存在していると考えているちがいない。

 200年、300年前は、今のような国家の概念を一般の庶民は全く意識していなかったんだ、自分はどこどこの国の国民だなんて、だれも思っても考えてもいなかったんだ、と言えば、きっと驚くに違いない。勿論、統治者やそれに属する階級は違う、統治領域(領土)の意識は常にあったろうことは確かだが。

 近代の国家観を庶民に与えたのは政府の実施した公教育が大きな役割を果たしているだろう。同じ時期にこれらが不十分であった地域では、西欧の近代国家が軍事力を背景に、未だ近代国家が成立していない統治者の領土を植民地や属領として奪っていった。

 庶民としては自分の生活のことだけで、統治者がだれであろうと、きっと関心がなかったであろう。例え、外国の統治者であっても・・・・。

 日本も危うかったわけだが・・・・。

 中国は正に半植民地化されていった。

 世界の支配者である意識のあった清朝では、英国国王の親書携えて貿易を求めてやって来た使者にも、対等でなく、部下の国が挨拶に来たとして、三跪九叩頭を強制するなど、奢っていたわけだが、アヘン戦争(1840~42)、アロー戦争(1856~60)を通じ、権力に胡坐をかいていたその真の姿が馬脚を現した。

 にも関わらず、腐敗した権力構造の下、その事実は皇帝にまで伝えられず、十分な改革は行われず、半植民地化の道を辿った。

 それに比べ、遅ればせながらも、西欧近代化を模倣し、帝国主義の道を歩み始めた日本、その日本がその植民地や属領として目を向けたのが、朝鮮であり、中国であった。

 それが日清戦争(1994~95)や北清事変(義和団事変)や日露戦争(1904~05)を通じ、進められていった。更にその延長線上に対華21か条要求、満州事変(1931・9・18)、満州国誕生があり、日中戦争(1937~45)と続いたわけだ。

さあ、瀋陽に日本人が関わった建物や道路や施設が多くあることを、小中学生にどう説明したものか。どの辺りから説明したものか。小一時間の事前授業で何を取り上げるのが一番効果的なのだろうか。大まかではあれ、大筋が掌握できるようにはしたい。

 瀋陽に日本人が関わった建物や道路や施設が多くあることは見学で確認できる。事実を確認するための、事前学習は略地図や写真の用意で充分、これらから、逆に歴史の事実に迫ってみるのもいいかも知れない。

 地図で、瀋陽駅とその駅から放射線状に走る幹線道路の話から入ってみよう。

 奉天駅 1908年起工1910年竣工、34年~35年改修 東京駅と同じ建築様式、時期もほぼ同じ。

中華路(千代田通り)、中山路(浪速通り)、民主路(平安通り)

日本のどこの地名だろうかと問うてみよう。日本の代表的都市の地名を引出されば、成功だ。中学生あたりなら、東京、大阪、京都の名前が出てくることだろう。

 なぜ、日本の代表的な地名が付いていたのか、どうしてなのかと訊ねよう。

 彼らに考えてもらうことで、この瀋陽と日本の関わり、その歴史の門戸を開かせたい。

 香港もイギリスに因んだ名前が付けられていたことを挙げてヒントにしてもよい。

 香港の街路の英語名 クインズ、キングス、アビニュー、ストリート

時間があればだが、以下の地名がつけられていたことも挙げ、日本を代表する名前が付けられていたことを加えてもいい。

北は日本の名所旧跡 ( )内は現在の地名

宮島町(勝利北街)、橋立町(昆明北街)、松島町(民族北街)、江島町(蘭州北街)、春日町(太原北街)、住吉町(天津北街)、琴平町(同澤北街)、八幡町(南寧北街)、富士町(南京北大街)、浅間町(徐州街北段)、新高町(南昌街)、信濃町(和平北大街)

南は植物や自然風景 ( )内は現在の地名

若松町(勝利南街)、紅梅町(昆明南街)、弥生町(民族南街)、青葉町(太原南街)、藤浪町(天津南街)、稲葉町(同澤南街)、葵町(南寧南街)、萩町(南京南大街)、白菊町(集賢街)、紅葉町(海口街)、雪見町(和平南大街)

    次にその領域も伝えておこう。

   東は和平大街、西は興工街、北は十馬路、南は八馬路で囲まれた瀋陽市の地域、ほぼ現在の和平区が附属地と呼ばれていたことや、附属地とはどんなものなのか、言葉でなく、その概念を大まかにでも与えたい。

   香港や上海の租界と同じだといっても、中学生でも分からないだろうなァ。

政治、経済、軍事、文化の面で、その国から独立して行使できる地域だということを、噛み砕いて話せればいいんだが、・・・・・。どんな例を挙げれば・・・・。

   附属地は、鉄道附属地のことで、鉄道の保護に必要な鉄道周辺の土地を、租界と同じように、その国から政治、経済、軍事、文化の面で独立させて、使用が許されていたところ、こんなところであったから、日本の名前が付けられたり、日本の関係した建物がたくさん建てられ、今も残っているのだと。このことが理解させられればいいのだが・・・・。

   とにかく、少しでもこの辺りのことが分かるように、小中学生に伝えるにはどうしたらいいのか、・・・・・・。

   借りているだけなのに、自分の国(日本)の土地のように使い、自分の国(日本)で使う名前をつけたり、もともとその土地を持っていた国(中国)から、土地を奪ったような形になってしまっている。だから、いろんな生活に必要な設備も日本や日本人が作ったんだと話そうか。そうすれば日本の〒マークの入ったマンホールや、満鉄のMとレールの断面を組み合わせたマンホールの蓋の話ができる。

   次は、どうしてそんな土地を借りることができるようになったかを、話しておく必要があるだろう。きっとなぜだろうと思うだろうから。

    次のことを説明してやる必要がある。

附属地は帝政ロシアから引き継いだもの。日本が日露戦争に勝って、手に入れたもの。

    じゃ、帝政ロシアはどうして東清鉄道(1901年~マンンチュウリ~ハルピン長春~大連・旅順)の鉄道敷設権を中国から得たのか。これの説明が必要になってくる。

下記のようなポイントを噛み砕くだいて話せれば、説明にはなるんだが・・・・。

小中学生にどう噛み砕くか。

   帝国主義時代の世界情勢と大連旅順などの遼東半島及び東北三省のこと。

* 日清戦争(1894~95)、三国干渉、義和団事変、日露戦争(1904~05)

* イギリスとフランス対立、ロシアとイギリス対立、フランスとドイツ対立

*1902年の日英同盟

    次のことも本当は説明しなければならない。

    1 937年に日本が治外法権撤廃を宣言し、附属地は消滅し、権限は奉天市公署に移ったが、やはり地名はそのまま日本に関係のある地名のまま改まらなかったこと。

   そのためには以下のポイントを説明する必要が出てくる。

* 第一次世界大戦(1914~18)と以後の民族自決と日本

* 1931年、満州事変(918事変)、1932年満州国建国、満州国と日本の関係

* 1937年日中戦争の開始

   ワァーとてつもない大変なことだ。

   とても、これらの内容は高校生大学生対象でも、1時間では消化できない。なおさら、これを噛み砕かなければならない、小中学生には、とても無理だ。

   どうしたって、絞りに絞るしかない。絞らなければしかたがない。

   日露戦争の国際的背景、国と国との当時の関係は、中学生に分かる程度には噛み砕けるが、小学生、特に低学年には無理だろうな。まあ、小学生には我慢してもらおう。

   ロシアから引き継いだ鉄道に附属した土地を、借り受けただけなのに、自分たちの土地のように使っていたことが、理解できればいいとするか。

  こんなことを、前日考えて、事前学習に臨んだ。

  用意していた、日本の代表的な地名が中国の瀋陽にどうして付いていたのかの質問に、中学生が「盗んで自分のものにしたからだ。」と答えてくれた。これはありがたかった。

   これを受けて、「借りただけだが、盗んだのと同じように自分の物のようにしていたんだね。」と応じ、前日考えた所期の目標の最低基準を達成することができる話になんとか持ち込めた。

   見学では、岡沢成俊日本人補習学校校長の課題(低学年はマンホールの蓋の図柄を描く、高学年はマンホールの位置を地図に書き込む、中学生はマンホール分布の地図を作成)を嬉々としてやっている生徒たちの姿を見ながら、これらのマンホールが作られたこの時期の歴史を学んだり、考えたりするとき、少しでもこの遠足の経験が頭をよぎってくれることを私は願っていた。

(2006.10.15)

『コンシエルジュ大連』

2006年11月号124号

旧春日町の電報局

旧満州医科大学の絵葉書と

現中国医科大学

旧大広場の絵葉書

左大和ホテル

左の絵葉書の旧大和ホテル

と旧横浜正金銀行の現在

下の写真の

毛沢東が見やる方向が瀋陽駅

絵葉書・大広場

下2枚の写真は現在

旧奉天警察署

(瀋陽市公安局)_左

旧三井物産ビル

(招商銀行)

右のチョコレート色の建物

旧大和ホテルから

奉天警察署と三井ビル

旧大和ホテル

(現、遼寧賓館)

旧奉天警察署

この後方に。

奉天神社があった

毛沢東像の後方に

見える建物は

旧東洋拓殖奉天支店

ここは満州事変のときに

関東軍司令部が置かれた

東拓入り口の右に記念牌

東拓の建物は、コリント式列柱で、美しい

現在、瀋陽市商業銀行

民主路(平安通り)

下の写真は

民主広場(平安広場)

中華路(千代田通り)

駅前のソ連紅軍記念碑は

移築されて、現在はない

中山路(浪速通り)

下の写真の先には

中山広場の毛沢東像

































マンホールの図柄を描く

小学生と見守る保護者


改定追記文(2008年7月27日) 加藤正宏

   教科書の記述はその国のその時代の政府の意図が入れ込まれる代物であることを私は認識しており、記述されているから史実として正しいのだとは必ずしも思ってはいない。実際、正確な史実が明らかになった後も、中国の教科書上で長期間訂正なされなかった「日本が卑怯な方法を採った」という事柄について、兵庫県社会科研究会の研究紀要(1996年第43号『中国教科書にみる日清戦争の記述について』)で取り上げたこともある。      ここに中国の教科書の記述を紹介するが、史実として全面的に肯定しているものではない。実際、このような記述の教科書が中国で使われていた、いることをご紹介するものであることを御承知おき戴きたい。

* ① 高級小学適用 歴史 第四冊

    新華書店発行 発行年不明(1950年?) 全14章、全42頁中 縦書き

八、九一八事変

【従瀋陽淪陥到上海抗戦】

一九二九末、帝国主義列強開始了経済恐慌(註一)、対植民地的搶奪更加激烈、日美両国帝国主義搶奪我東北的闘争也更緊張了。日本因為経済力量闘不過美国、就用武力搶奪、発動了対我国的軍事侵略。一九三一年九月十八日、日軍突然?領瀋陽、向長春・永吉進兵。蒋介石命令東北軍隊不准抵抗。不到両個月、遼・吉・黒三省全成了日本帝国主義的殖民地。一九三二年一月二十八日、日軍又進攻上海、十九路軍将士受人民的推動、奮起抗戦。国民党反動派一心破壊抗戦、圧迫十九路軍従上海撤退、五月五日與日本帝国主義簽訂了辱国喪権的上海停戦協定。

【偽満洲国和李頓調査団】

一九三一年十一月初、日本勾結漢奸在天津搗乱、把清廃帝溥儀架走(註二)、準備製造東北傀儡政権。一九三二年三月九日、偽満洲国宣?成立、用溥儀檐任執政名義,由日本派駐重兵、鎮圧東北各地的義勇軍。国民党反動派只知道依靠帝国主義、要求国際聯合会制止日本的軍事侵略。並且通告全国軍民、叫大家等待国聯来解決、不准抵抗日軍的侵略。可是、国聯実際上只是英国的工具、而英国的外交政策是支持日本北進反蘇的、当然不会制止日本的侵略行為。至於一九三二年三月派出的李頓調査団、名為調査中日衝突、実際却是到中国来視察蒋介石進行反共大内戦的情況的。後来、李頓調査団発表的調査報告書、竟然主張由列強共管東北。一九三三年二月、国聯大会通過調査報告書、日本反対這種?法、並宣?退出、国聯。

【紅軍北上抗日】

一九三三年、日本侵?熱河、侵攻冀察、二十九軍和抗日同盟軍先後自動抵抗。蒋介石公然宣称『侈言抗日者殺無赦』、破壊了二十九軍的長城抗戦、派兵解決了在察北抗戦的抗日同盟軍。従一九三三到一九三五年、南京政府?次和日本帝国主義締結協定、断送了冀察両省的大部分主権。中国共産党従九一八事変発生、一貫的堅持抗日闘争、支援和領導了歴時的抗日運動、並一再要求国民党停止内戦。国民党反動派非但置之不理、而且加緊進攻紅軍。一九三四年、中共決定紅軍北上抗日。這一年十月、紅軍主力退出中央蘇維埃区(註三)。開始了有名的二萬五千里長征。一路渡過許多天険、衝破国民党反動派軍隊堵載包囲、終於在一九三五年十月到達陝北蘇維埃区、会合陝北紅軍、建立了準備抗日戦争的戦略根拠地。

問題:

一、      蒋介石為什麼不准東北軍隊対進攻的日軍抵抗?国民党反動派為什麼要圧迫十九路軍従上海撤退?

二、     国民党反動派対日本的侵略採取什麼?法?国際聯合会為什麼不能制止日本対中国的侵略?

三、     紅軍為什麼北上抗日?

註解:

一、    因為生産和消費不協調、造成了工人失業和商業蕭條、這叫做経済恐慌。

二、   辛亥革命以後、清廃帝仍舊住在故宮裏面。馮玉祥発動北京政変的時候、才把他逐出故宮、?到天津去。

三、   指?南?西一帯。

* ② 高級小学 歴史課本 第四冊

原編者 前華北人民政教育部教科書編纂委員会

改編者 人民教育出版社 1950年新華書店原版 1954年六版

全14章全44頁中

八 抗日運動的開始

【九一八事変】 第一次世界大戦期間、日本帝国主義野心勃発、妄想使中国変為日本一国独占的殖民地。大戦終止以後、由於中国人民反対日本帝国主義的闘争、以及其他帝国主義的干渉、它只好収起野心、譲中国回復到帝国主義各国共同支配的半殖民地地位。一九二九年底、資本主義国家発生恐慌(注一)。日本帝国主義看到美・英等国一時不能和它争奪中国、又看到依頼美・英帝国主義的蒋介石政府決不敢抵抗侵略、就乗機武装進攻中国、貫徹它獨覇中国的野心。一九三一年九月十八日、駐在中国東北境内的日本侵略軍突然攻?瀋陽。蒋介石命令東北軍(注二)絶対不准抵抗。東北軍逐歩向山海関方面撤退。日本侵略軍就在一九三一年内?領了遼寧、吉林、黒竜江三省。

【中国人民要求反抗日本的侵略】 九一八事変発生以後、中国共産党即提出「組織羣衆,組織遊撃隊、積極反抗日本侵略」的號召。九月下旬、上海民衆し首先起来響應、十萬学生罷課、三萬搬運工人罷工、商界也発起抵制日貨。中国人民的抗日運動很快的在全国各地展開。蒋介石政府通告全国国民、只説東北事件已経向国際聯合会(注三)提出、等待「公理」解決、希望全国軍隊日軍避免衝突、全国民衆保持鎮静態度。各地民衆和海外華僑都表示不満、通電譴責主張不抵抗的人、要求懲?失地的負責人。十二月間、日本帝国主義逼迫東北退入山海関。中国人民非常憤激。各地学生紛紛結隊到南京、要求立即出兵抗日、修復失地。軍警?阻学生的示威隊伍、発生了流血惨劇。愛国学生的示威運動雖然遭受圧制。民衆的抗日熱潮却越来越高漲、並且発生了局部抗戦。

【東北和上海的局部抗戦】 日本侵略軍従瀋陽向東北各地推進、東北人民首先響應中国共産党的號召、組織抗日遊撃隊進行武装闘争。其他各地愛国民衆和海外華僑得到消息、熱烈的捐款慰労抗戦軍隊、中国人民的抗日運動更加発展。日本帝国主義要挟蒋介石政府取締中国人民的抗日運動、接連在天津、青島、厦門、福州、上海等處挑釁。一九三二年一月二十八日深夜、日本海軍陸戦隊在上海進攻中国駐軍。国民党第十九路軍(注四)在抗日高潮的影響下、起来抵抗日本侵略軍的進攻、得到上海民衆的熱烈支援。那時候、上海民衆在中国共産党推動之下、組織抗日救国会。抗日高潮発展到頂点、有不少愛国青年投奔軍隊参加抗戦。但是十九路軍和上海民衆英雄的抵抗了一個多月、因為蒋介石政府甘心売国和任意破壊、不幸終於失敗。従此中国人民更加認識清楚、要抵抗日本帝国主義侵略、決不能依靠売国的蒋介石政府。

注解:(筆者による省略)

問題:

一、      九一八事変以前、日本怎様侵略中国? 九一八事変是在怎様的情況下発生的?

二、      九一八事変発生以後、中国人民怎様表示? 蒋介石政府為什麼只去告訴国際聯合会?蒋介石政府怎様圧制人民的抗日熱潮。

三、      東北和上海的局部抗戦怎様発生的?十九路軍在上海抗戦為什麼終於失敗?

以下の章は次のような章が続く

九 抗日民族統一戦線的建立

十 抗日戦争

* ③ 中国歴史補充教材 長春歴史(小学五、六年級用)

長春市教育局教学研究室 1958年8月 全3章全6頁中

一、敵偽統治時期的長春

偽満十四年的亡国奴生活:“九一八”事変以后日寇扶植溥儀做傀儡皇帝、成立偽“満洲国”。将長春改名“新京”、做偽 “満洲国”国都。接着又建立了各種敵偽統治機構、把長春做為統治和奴役東北人民的中心。従此東北人民就在日寇的残酷圧迫下、過着牛馬不如的亡国生活。

日寇利用漢奸、憲兵、特務及警察対人民進行統治、統治者任意敲詐勒索。老百姓対這種圧迫稍有不満、即以“反満抗日”、“思想犯”等罪名逮捕監禁或殺害。在政治上、人民無任何自由和権利。在経済上、日寇残酷地略奪東北物質資源和人民財富、施行了“経済統制”、 老百姓吃橡子麺、穿更生布、連火柴、獵燭、肥皀等日品都買不到、人民只能過着苟延残喘的生活。在文化上麻酔人民、強迫学生学日語、叫大家都講日本語、企図使中国人民忘記祖国語言。毎天譲学生還按時“遥拝”和 “黙祷”、宣伝 “日満協和”等、進行一系列的奴化教育。在日偽統治下、成千万的東北人民、被日寇抓去当労工、很多人死亡在強制労働中。青壮年被挑 “壮丁”、当偽軍、叫中国人打中国人。東北人民生活在水深火熱之中。

1945年8月、蘇聯紅軍対日宣戦、解放了東北、日寇宣布無条件投降。8月17日、蘇聯紅軍進入長春、日偽的一切統治機構全部瓦解。長春人民結束了十四年悲惨的亡国奴生活、回到了祖国的懐抱。

* ④ 小学校歴史試用郷土教材

瀋陽市教育局編 発行年代不明(50年代末、60年代初?) 全8章全16頁中

四、瀋陽人民的排日運動

日俄戦後、日本帝国主義的魔爪也伸進東北―従俄国手里奪取自長春至旅順一段鉄路、奪去旅大租借地、又在東北開辟商埠十余処、取得鉄路修築、鉱山開採、森林採伐等権。

日本的商品充満東北各大城市的市場、使我国的工商業遭到排擠、人民生活悪化、因此、瀋陽人民同全国人民的“排日”闘争不断発生。尽管日本帝国主義支使軍閥進行迫害、闘争還是一次比一次的高漲。

規模最大的一次要算“五卅”運動。日本帝国主義在青島、上海殺害中国同胞的暴行、同様激起瀋陽市民的憤怒。青年学生、愛国知識分子和群衆在共産党的号召下、挙行了抗議大会、同時又掀起“排日”運動的高潮。

在六月十日那天、首先、大中学校学生七百多人在小河沿挙行抗議大会、併通過“抵制日貨”“罷工”“ 罷課”三項決議。会后、高挙着反対日本帝国主義的標語在街上遊行。

南満医大的中国学生提出聯名“ 退学宣言書”、南満中学堂的中国学生也紛紛退学、一致対日本帝国主義殺害中国同胞的罪行表示憤怒和反抗。

当時、“排日”闘争最主要的形式是“抵制日貨”。在十多年的抵制日貨運動中、以這次為激烈。好多青年学生、愛国知識分子在大街小巷里、大力宣伝不買日貨、提倡国貨、特別是工農群衆的争勁頭更大。誰也不買“洋火” “洋布”等 “日貨”、有的過去買到手也尽量毀壊。

大家都買中国貨。老百姓不乗日本火車、従瀋陽到営口去、本應乗南満線火車、因為這条線是日本的、老百姓寧肯繞道、乗上瀋山―大通線火車。

這場激烈闘争使日本帝国主義遭到厳重的打撃。在瀋陽的日本資本家的商店和工廠陥于停業状態、使南満鉄路的客運也蕭条下来。

瀋陽、“排日”運動的烽火、很快就焼到盖平、熊岳、営口・・・・等地。

問題:

説一説瀋陽人民怎様進行抵制日貨運動?結果怎様?

五、九一八事変

“九一八”事変的原因和経過

“九一八”事変発生的主要原因是蒋介石背叛革命、対帝国主義一貫屈膝投降、対内屠殺革命的中国共産党和各大人民。日本帝国主義看到這一点、就乗機製造種種事件、作為借口、陰謀独占中国。

1931年9月18日、日軍自己的砲弾炸毀柳条湖附近一段鉄路、誣説中国軍隊破壊。当夜、日軍炮轟北大営、併向城内進攻。当時、東北軍有好幾十万、瀋陽有全国最大的兵工廠和製炮廠、還有二百架飛機。本来有足<句多>的力量抵制日本軍挑?、但是、在蒋介石的“絶対不准抵抗”的命令下、使日軍僅用一夜的時間占領了瀋陽城。

国民党反動派採取不抵抗政策、僅僅三个月的時間、遼寧、吉林、黒竜江三省的広大的領土、四千多公里長的鉄路、豊富的森林、煤鉱、都被日寇占領了。東北三千万同胞在日本帝国主義鉄蹄下、過着悲惨的生活。

< >内は一字の文字、日本字にないためにこのように表した。

中国共産党号召人民抗日

“九一八”事変発生以后、中国共産党立刻提出反抗日本侵略的号召。広大人民怒吼起来了。東北人民紛紛参加抗日義勇軍、到処打撃日本侵略軍。

中国共産党組織東北南部各工鉱区数万工人的抗日救国運動、積極組織抗日救国団体、建立人民抗日武装、広泛開展愛国運動和抗日遊撃戦争。1932年3月29日、瀋陽東三省兵工廠的工人挙行武装起義。共産党員李兆麟在渾河一帯領導農民抗日救国軍六百多人、曾経幾次攻打瀋陽城。1932年7月25日、抗日救国軍?領大南辺門、把偽靖安軍和偽警察打得抱頭鼠竄、把前来督戦的警察庁長斎小辮(斎恩銘)的轎車打破、?得他?掉匣槍只顧逃命、当天又焚毀東関飛機廠的飛機。后来、抗日救国軍隊伍発展到幾千人。

上海、広州等地的工人挙行反日大罷工、工商業者自動抵制日貨、許多城鎮的群衆都挙行反日集会和遊行示威。中国人民的抗日運動很快地在全国各地開展。各地人民和華僑熱烈捐款,慰問東北抗日的義勇軍、他們一致反対不抵抗政策、要求修復失地。

問題

1、“九一八”事変是怎様発生的?

2、“九一八”事変発生后、中国共産党和広大人民怎様対待日本帝国主義的侵略?

* ⑤ 文化大革命の時期の課本

「遼寧小学試用課本 常識 史地部分」というのが発行されているが、特殊な時期でもあり、林彪の権力を握っていた時と追われたときで、内容も毎年(1969、70、71年)変化しており、今回は紹介を見送った。

 

* ⑥ 全日制五年生小学課本 歴史 下冊

人民教育出版社中小学歴史編纂室編 1983年4月第2版 全23課全78頁中 

第十九課 西安事件

国民党反動派“圍剿”紅軍的時候、1931年9月18日 、日本帝国主義対中国東北発動了侵略戦争・国民党政府対日本侵略採取不抵抗政策。日軍很快占領了中国東北和華北的大片土地。中華民族処于亡国滅種的生死関頭。1935年8月1日、中国共産党提出建立全国抗日民族統一戦線的主張、要求国民党政府停止内戦、一致対外;号召全国人民団結起来、共同抵抗日本帝国主義的侵略。全国人民饗応中国共産党的号召、掀起了抗日救国的新高潮。

由于中国共産党抗日民族統一戦線政策的推動、全国人民抗日怒潮的影響、国民党政府的東北軍和十七路軍的広大官兵都要求停止内戦、共同抗日、不願意同紅軍作戦。(九一八事変の項目なく、上記以降、筆者による省略、この文の後、張学良と楊虎城が督戦に来た蒋介石を捕らえ、内戦停止、実族統一戦線を形成した経緯を記述しているのみで、満洲関係の記述はなし。)

* ⑦ 小学課本 歴史 下冊

人民教育出版社歴史室編 1987年6月第2版

中国史部分全15課 全48頁中、以後世界史部分

第十一課 西安事変

1931年9月18日 、日本帝国主義対中国東北発動了侵略戦争・国民党政府対日本侵略採取不抵抗政策。日軍很快占領了中国東北和華北的大片土地。中華民族処于亡国滅種的生死関頭。1935年8月1日、中国共産党提出建立全国抗日民族統一戦線的主張、要求国民党政府停止内戦、一致対外;号召全国人民団結起来、共同抵抗日本帝国主義的侵略。全国人民饗応中国共産党的号召、掀起了抗日救国的新高潮。

1936年春、国民党政府的東北軍将領張学良和十七路軍将領楊虎城、接受了中国共産党聯合抗日的主張、停止向紅軍進攻、併多次要求蒋介石聯共抗日。

(九一八事変の項目なく、上記以降、筆者による省略、この文の後、張学良と楊虎城が督戦に来た蒋介石を捕らえ、内戦停止、民族統一戦線を形成した経緯を記述しているのみで、満洲関係の記述はなし。)

* ⑧ 小学課本 歴史 補充教材

人民教育出版社歴史室編 1991年10月第1版 全49課全142頁中

第29課 “九・一八”事変

長期以来、日本帝国主義一直想覇占中国。1930年前后、日本国内到処是失業的工人和飢餓的農民。工農群衆不満意日本政府的統治、反抗闘争的怒火遍及城郷各地。為了擺脱困境、日本帝国主義加快侵略中国敵歩伐。那時候、中国内部、以蒋介石為首的国民党反動派竭尽全力圍剿紅軍。日本帝国主義決定乗這个機会、出兵占領中国東北、逐歩呑併全中国、把中国変成它的殖民地。

1931年9月18日深夜、駐扎在中国東北的日本侵略軍、派遣一小隊士兵、以巡視南満鉄路為名、来到瀋陽北郊柳条湖。柳条湖北面約800米就是中国東北軍的北大営。這小隊日本兵、炸毀柳条湖一段路軌。又擺上三具穿着中国士兵服装的屍体、誣称中国軍隊破壊鉄路。接着、日本侵略軍以此為借口、攻撃中国東北軍北大営、炮轟瀋陽城。這是“九・一八”事変。

九・一八”事変爆発時、中国東北軍駐遼寧有6万人、駐吉林省有8万人、駐黒龍江省有5万人、共計19万人。而駐中国東北的日本侵略軍僅1万余人。中日兵力対比、数量相差如此懸殊。駐守瀋陽的東北軍要求抵抗日本侵略者。但是、蒋介石下令“絶対不抵抗”。第二天清晨、日軍占領瀋陽城。随后、日軍陸続侵占了遼寧、吉林、黒竜江三省。東北軍十幾万人撤入関内。只有四个月零18天、東北三省就淪亡了。100万多平方公里的錦綉河山、豊富的鉱山資源、都由于

蒋介石的不抵抗政策、断送得干干浄浄。

不久、日本帝国主義扶植清朝廃帝溥儀、建立了偽“満洲国”傀儡政権。接着、日本與偽満洲国簽訂了《日満議定書》。這个議定書、在“日満共同防衛”的借口之下、事実上確認了日本侵略軍対中国東北三省的殖民統治。日本帝国主義瘋狂掠奪東北的豊富資源。在日本帝国主義的鉄蹄下、東北3000万同胞過着恥辱的亡国奴生活。東北三省成了日本帝国主義侵略全中国和東南亜的一个重要戦争基地。

習題:

1、        填空:_____年9月18日深夜、日本侵略軍炸毀南満鉄路_____一段路軌、反誣称中国軍隊破壊、借口攻撃中国東北軍北大営、炮轟瀋陽城。這就是“九・一八”事変。

2、        問答:“九・一八”事変発生后、中国東北三省為什麼会很快淪亡了?

* ⑨ 小学課本 歴史 下冊

人民教育出版社歴史室編 1992年4月第3版

中国史部分全30課全94頁中、以後世界史部分

第7課 “九・一八”事変(⑧の1991年の補助教材と同じ)

 

* ⑩ 小学課本 歴史 文図結合実験課本 下冊

吉林教育学院編 1993年12月第一版

中国史部分全30課全117頁中、以後世界史部分

第7課 “九・一八”事変

1、長期以来、日本帝国主義一直想覇占中国。1930年前后、日本経済発生困難。為了擺脱困境、日本帝国主義決定乗蒋介石全力圍剿紅軍的機会、出兵占領中国東北、逐歩呑併全中国、把中国変成它的殖民地。

2、1931年9月18日深夜、駐扎在中国東北的日本侵略軍、派遣一小隊士兵、以巡視南満鉄路為名、来到瀋陽北郊柳条湖。柳条湖北面約800米就是中国東北軍的北大営。這小隊日本兵、炸毀柳条湖一段路軌。又擺上三具穿着中国士兵服装的屍体、誣称中国軍隊破壊鉄路。接着、日本侵略軍以此為借口、攻撃中国東北軍北大営、炮轟瀋陽城。這是“九・一八”事変。

3、九・一八”事変爆発時、中国東北的兵力19万人、而駐中国東北的日本侵略軍僅1万余人。中日兵力対比、数量相差如此懸殊。駐守瀋陽的東北軍要求抵抗日本侵略者。但是、蒋介石下令“絶対不抵抗”。結果、十幾万東北軍幾呼一槍未発地退入関内。

4、第二天清晨、日軍占領瀋陽城。随后、日軍陸続侵占了遼寧、吉林、黒竜江三省。只有四个月零18天、東北三省就淪亡了。100万多平方公里的錦綉河山、豊富的鉱山資源、都由于蒋介石的不抵抗政策、断送得干干浄浄。

5、1932年3月、日本帝国主義扶植清朝廃帝溥儀、在東北建立了偽“満洲国”傀儡政権。接着、日本與偽満洲国簽訂了《日満議定書》。這个議定書、事実上確認了日本侵略軍対中国東北三省的殖民統治。

6、日本帝国主義瘋狂掠奪東北的豊富資源、強占肥沃的土地、残酷地圧搾東北人民。在日本帝国主義的鉄蹄下、東北3000万同胞過着恥辱的亡国奴生活。東北三省成了日本帝国主義侵略全中国的一个重要戦争基地。

(六つの項目それぞれに画或いは図が付いている)

* ⑪ 九年制義務教育小学実験教材 社会 六年級上冊

瀋陽市教育委員会社会教材編写組編著 遼寧民族出版社

1993年7月第1版 全26課、全96頁中

25 “九一八”事変

長期以来、日本帝国主義一直想占領中国東北、進而呑併全中国。1930年前后、日本経済発生了危機、国内到処是失業的工人和飢餓的農民。広大人民不満日本政府的統治、反抗闘争的浪潮席巻全国。日本帝国主義為了擺脱経済困難、加快侵略中国敵歩伐。那時候、中国内部、以蒋介石為首的国民党反動派竭尽全力圍剿中国工農紅軍。日本帝国主義決定乗這个機会、出兵占領我国東北、逐歩呑併全中国、把中国変成它的殖民地。

1931年9月18日深夜、日本関東軍駐瀋陽守備隊河本末守中尉的率領下、以巡査鉄路線為名、向柳条湖走去、他們一面像小偸一様窺視着北大営東北軍的動静、一面小心地在離北大営800米左右的鉄軌下埋放了一顆小型炸弾,拉開定時引信后、悄悄地溜走了。10点多鐘、轟然巨響、炸弾爆炸。然后、又擺上三具穿着中国士兵服装的屍体、誣称中国軍隊破壊鉄路。日本関東軍以此為借口、攻撃中国東北軍北大営、炮轟瀋陽城。這就是轟動世界的“九・一八”事変。

“九・一八”事変爆発時、中国東北軍駐遼寧有6万人、駐吉林省有8万人、駐黒龍江省有5万人、聡共有軍隊19万人。而日本侵略軍在東北僅有1万余人。中日兵力対比、数量相差如此懸殊。駐守瀋陽的東北軍要求抵抗日本侵略者。但是、蒋介石下令“絶対不抵抗”。第二天清晨、日軍占領了瀋陽全城。1932年2月初、遼、吉、黒三省全被日軍覇占。100万多平方公里的錦綉河山、無尽的宝蔵、都在蒋介石投降売国的不抵抗政策下断送了。

1932年3月、日本帝国主義扶植清朝廃帝溥儀、建立了偽“満洲国”傀儡政権。接着、日本與偽満洲国簽訂了《日満議定書》。這个議定書、在“日満共同防衛”的借口之下、事実上確認了日本侵略軍対中国東北三省的殖民統治。日本帝国主義大肆掠奪東北的資源、強占田地、残酷地圧搾東北人民。在日本帝国主義鉄蹄下、東北3000万同胞過着恥辱的亡国奴生活。東北三省成了日本帝国主義侵略全中国和東南亜的一个重要戦争基地。

「社会」について解説しておくと、

1988年の国家教育委員会頒布の《九年義務教育全日制小学、初級中学教学計?》規定により、小学校段階に社会課を開設し、これまでの歴史課と地理課を取り消すことになった。このとき頒布された1988年の教学大綱の修正訂正を経て、1992年正式に教学大綱が頒布され、小学校では歴史は社会に組み込まれることになった。

* ⑫ 九年制義務教育課本 社会 五年級第一学期

上海中小学課程教材改革委員会 上海教育出版社 1993年6月第2版

全21課全62頁中

15、抗日戦争

1931年9月18日、日本侵略軍炮轟我国東北的瀋陽市路、接着侵占東三省、妄図進一歩滅亡中国。当時南京国民党政府採取“不抵抗政策”、日軍很快就占領了整个東北地区、3000万同胞淪為亡国奴。

(以降の西安事変、盧溝橋事変、南京大屠殺などが記述されている、筆者によって省略されている。)

  ⑬ 吉林省九年義務教育 五年制六年制小学教科書 社会 第五冊

吉林文史出版社出版 1998年5月第1版

全26課全85頁中

第10課 抗日戦争的爆発

“九・一八”事変

長期以来、日本帝国主義一直想覇占中国。正当国民党反動派全力圍剿紅軍的時候、日本決定 乗機出兵占領中国東北、然后逐歩呑併全中国。

1931年9月18日深夜、駐扎在中国東北的日本侵略軍、派士兵炸毀瀋陽北郊的一段鉄路、反誣是中国軍隊破壊的、併以此為借口、進攻中国東北軍北大営、炮轟瀋陽城。這就是“九・一八”事変。

当時、中国東北軍完全有力量撃退日本侵略者、但是、蒋介石為了全力“圍剿”紅軍、堅持“攘外必先安内”的政策、命令東北軍“絶対不抵抗”。這様、中国

東北三省很快就淪亡了。100万多万平方千米的錦綉河山、被蒋介石断送得的干干浄浄。

説一説

1、        説一説“九・一八”事変的時間、原因和経過。

2、        “九・一八”事変発生后、中国東北三省為什麼很快就淪亡了?

(以降の西安事変、盧溝橋事変などが記述されている、筆者によって省略されている。)

以上、私が収集している教科書の内、中国の小学校教科書に記述された満洲事変(九一八事変)の記述である。

さて、これらの記述と、現在日本で使われている小学校の記述と比較されて、どのように思われるであろうか。下記に日本の教科書の一例を挙げておいた。

下記の日本の教科書を見る限り、日本の教科書としては史実を的確に簡潔に記述しているのではないだろうか。

掲載の写真を材料に満州の開拓で苦労された日本人の様子などから、具体的な内容を一、二加え、「日本の侵略」の文字にからめて、土地を奪われた中国人の側の視点(この点が中国側から見れば欠けていると見るのであろうが・・・)も同時に少し加えれば、大きな歴史の歯車に組み込まれた両国庶民の歴史が十分伝えられる。史実さえしっかり押さえられていれば、重点の置き方は日中よって違っていても仕方がないことであろうと私は考えている。


最後に、参考のために、中国の教科書記述の内容を大づかみに日本語で記しておく。

①の教科書では、

1929年の経済恐慌を背景に殖民地争奪が激烈化し、中国東北地方が日米の争奪対象となり、経済力でアメリカに劣る日本は軍事力による武力行動に出て、満洲事変(九一八事変)を起こしたこと、蒋介石の命令で抵抗せず、2ヶ月もしない内に東北三省が殖民地になってしまったことなど、述べられている。

満洲事変や溥儀を立てて建国した満洲国については、日本の傀儡政権であること、国民党が国際連盟に提訴し、リットン調査団が派遣されたが、国際連盟がイギリスの道具であって、イギリスは日本が北進してソ連に対抗することを支持しており、日本の侵略を阻止できるものではなかったことなどが述べられている。

このような中、一貫して抗日行動をとっていた共産党の軍隊紅軍が、抗日のために北上し長征を遂げ、抗日の根拠地を造ったことを取り上げている。

②の教科書では、

第一次世界大戦後の1929年の恐慌により、アメリカとイギリスは中国の争奪が不可能になり、これらの国に頼っていた蒋介石政府が侵略に対して抵抗しない政策を採ったこと。この機に乗じ、中国を日本一国の植民地にすべく、日本帝国主義は1931年9月18日に満洲事変を起し、その年の内に東北三省を占領してしまったことが述べられている。

また、この日本の侵略について、上海や東北での民衆や学生の反抗の様子を記述し、売国的な蒋介石政府では決して解決できないことなどが述べられている。

③の教科書では、

満洲事変(九一八事変)で生まれた傀儡政権溥儀の満洲国について、その成立していた14年間の様子を述べている。

長春が新京と名を変えられ、満洲国の首都になったこと、漢奸、憲兵、特務及び警察を利用して勝手気ままに人民から恐喝し脅し取る統治が行われていたこと。これらに一般民衆が不満をもつと、「反満抗日」、「思想犯」等の罪名で逮捕監禁或いは殺害にあったし、政治面でも何の自由も権利もなかったこと。経済面では東北の物資を奪い、経済統制をしいたため、民衆はどんぐりの麺を食べ、再生の布を纏い、マッチやろうそくや石鹸さえ買うことが出来なかったこと。文化面では学生に日本語を学ばせ、皆を日本語を話すようにさせて、中国人民に母国語を忘れさせようとしたり、毎日学生に「遥拝」と「黙祷」をさせ、また「日満協和」等を宣伝して、奴隷化教育を進めたこと。連れ去られて労働者とされ、強制労働中に死亡する者も多かったこと。青年や壮年の者が満洲国軍の兵にさせられ、中国人が中国人と戦うなど塗炭の苦しみの中におかれたことなど。

そして、最後に、1945年8月にソ連の軍による解放で、長春の人民は祖国に復帰できたことが記述されている。

④の教科書では

四、瀋陽人民的排日運動の項目では、日露戦争後の日本が奪った権利について、長春から旅順までの鉄道、旅順大連租借地、東北の外国貿易の許された都市十余処を獲得、鉄道修築権、鉱山開採権、森林採伐権等を挙げている。このことによって、日本の商品が東北に充満し、中国の商工業は押しやられ、生活は悪化し、そのため絶えず排日闘争が発生していたこと。五三〇運動では、排日闘争が最高潮になったこと。学生が日本商品のボイコット、ストライキ、サボタージュのスローガンを掲げ、デモを行ったこと。満洲医科大学の中国人学生が連名で退学届を提出したことや、満鉄に乗らずに遠回りになるが、民族路線(張学良が敷設した)に乗ろうとしたことなどが記述されている。

五、九一八事変の「九一八」事変的原因と経過の項目では、蒋介石の日本の侵略に対する不抵抗政策が東北3000万の同胞を日本の帝国主義の統治下の悲惨な境遇に追いやったものだとし、不抵抗を採った当時の国民党の軍事力が日本に勝っていたことを具体的に記述し、不抵抗政策をとった国民党を批判している。

中国共産党号召人民抗日の項目では、共産党の呼びかけで、抗日救国の運動を展開した瀋陽、上海、広州などの様子が記述されている。

⑤の教科書は

今回紹介していない。

⑥の教科書では

九一八事変の項目がなく、簡潔に満洲事変(九一八事変)が起されたことと、国民党の不抵抗政策と共産党が抗日民族統一戦線を主張したことが記述されている。日本の侵略についてもあっさりした記述になっているのは1978年の日中平和条約締結をみていたからであろうか。

⑦の教科書でも

⑥の教科書と同様、九一八事変の項目がなく、簡潔に満洲事変(九一八事変)が起されたことと、国民党の不抵抗政策と共産党が抗日民族統一戦線を主張したことが記述されたものになっている。私が省略した部分では、張学良と楊虎城の名を挙げ、彼らが起した西安事変の内容を記述している。

⑧の教科書では、

先ず、満洲事変(九一八事変)直前の日本の経済状況と、中国の蒋介石を党首とする国民党が共産党紅軍を包囲殲滅しようと必死になっていて、国内が分裂していた状況に乗じ、日本が東北に出兵し、次々と中国を殖民地化していったことが述べられている。

次いで、九一八事変の具体的な内容が語られ、日時、場所、方法が述べられている。中国人兵士の服装を着せた三人の死体を線路上に置き、中国軍隊が鉄路を破壊したという罪をでっち上げ、これを口実に国民党の東北軍北大営を攻撃し、瀋陽を陥れたことが具体的に述べられている。

そして、事変が勃発した時点の中日の軍隊の人数比較で中国軍が圧倒的に優位であることを明らかにし、100万強平方キロの美しい山河や豊富な鉱物資源が蒋介石の不抵抗政策で綺麗さっぱり失われてしまったことに言及している。

最後に、清朝の廃帝溥儀を立て傀儡政権満洲国が建てられたこと、日本は《日満議定書》を取り交わし、 “日満共同防衛”の口実の下、事実上中国東北三省の殖民統治を行い、無茶苦茶に東北の豊富な資源を奪っていき、東北3000万中国人が恥辱的な亡国の奴隷生活下に置かれたこと、東北三省が日本帝国主義の全中国と東南アジアを侵略する重要な戦争基地になったこと等が述べられている。

この補助教材は1989年に起った天安門事件に対処し、愛国主義を一段と強化するために編纂されたものの一つである。

⑨の教科書は、

⑧の1991年の補助教材と全く同じ

⑩の教科書では、

⑧、⑨の教科書内容とほぼ同じ、六つの項目に分け、それぞれ図画が配されている。

⑪の教科書では、

先ず、満洲事変(九一八事変)直前の日本の経済状況と、中国の蒋介石を党首とする国民党が共産党紅軍を包囲殲滅しようと必死になっていて、国内が分裂していた状況に乗じ、日本が東北に出兵し、次々と中国を植民地化していったことが述べられている。以上のように⑧の教科書とほぼ同じである。

次いで、九一八事変の具体的な内容が語られ、日時、場所、方法が⑧の教科書と同じように述べられている。ただ、内容は⑧の教科書よりも詳しく、中国人兵士が鉄路を破壊したとする偽装工作をした関東軍駐瀋陽守備隊の指導者の名前や、こそ泥のように、こっそり国民党北大営東北軍の動静をうかがいながら偽装をやった様子が語られている。

この後は⑧の教科書の内容とほぼ同じである。

⑫、⑬の教科書では、

簡潔に満洲事変(九一八事変)を記述したものになっている。

 

日本の小学校

現行教科書の一例

 教科書は教育出版株式会社 2005年1月20日発行(2004年3月10日検定済)の6年生用の社会科教科書である。

1 戦争と人々の暮らし

中国との戦争が始まる

「どうして戦争が起ったのかな。」

《日本はどうして戦争を始めたのだろう。》

私たちは、図書館の資料も活用して、戦争が始まったころの社会の動きを調べていきました。

昭和の初めごろ、都市では不景気のために失業者が増え、農村では作物の値段が下がって、生活に行きづまる人々が多くなってきました。こうした中で、軍の指導者や政治家は、「満州(中国の東北部)を手に入れれば、国民の生活はよくなる。」という考え方を広めていきました。

1931(昭和6)年、日本軍は、南満洲鉄道の路線を爆破し、これを中国軍のしわざであるとして、攻撃を始めました。これを満州事変といいます。満州全土を占領した日本軍は、満州国をつくり、政治の実権をにぎりました。

(以後の本文は満州事変や満州国と直接には関わりの無い日中戦争太平洋戦争の内容になるので省略)

 

写真「満州にわたって土地を耕す子どもたち

日本からは多くの人々が満州にわたり、苦労して土地を開たくして、たくさんの農作物を日本に送りました。

写真「軍事訓練をする女性たち

農作業のかたわら、日本の侵略に反対する中国人の反撃に備えました。

学習のてびき 「学習ファイルをつくろう」

調べた事実 「国際連盟脱退」

満州事変の調査を行った国際連盟は、満洲国の取り消しと、占領地からの引きあげを日本に求めた。しかし、日本はこれに従わず、1933年、交際連盟を脱退して、世界から孤立していった。(「社会科資料集」より)

自分の意見 「満州の豊富な資源」

石炭や鉄鉱石などにめぐまれていた満州は、資源が少ない日本にとって、重要な土地だったのだと思う。今は、必要な資源は外国から輸入している。国と国が協力し合う関係ができていないと、輸入や輸出はできないんだなと思った。

以上の教科書の記述内容は、「史訪会」(旧「兵庫教育大学東洋史研究会」)の新地比呂志さんに提供いただいたものである。


中国の小学校

教科書表紙

(左本文の

教科書順)