加藤正宏
以下に御紹介するのは、2005年11月12日に発行した瀋陽日本人教師の会の会誌「日本語クラブ」21号に載せた『マンホールの蓋を尋ねて』(瀋陽日本人教師の会のHPにも登載)のそのままの引用である。その後、いくつか新たにマンホールの蓋を写真に撮ったので、ここに写真を追加し御紹介したい。
2000年から2002年にかけて、私は吉林省長春市にある吉林大学で日本語の教師を勤めた。吉林省長春市は満州国(中国では偽満)の首都であった新京特別市である。現在(2004年~)、瀋陽薬科大学に在籍し、同様に日本語の講義を担当しながら合間を見つけては、日本と関わりのあった瀋陽(旧奉天)に存在する場所や建物を、直に自分の目で見てみたり、当時のことを知っている方から聞き取りをしたりしている。吉林大学に勤めていた頃も同じように行動していた。マンホールの蓋を見て歩く楽しみを覚えたのは吉林大学に勤めていたその頃で、長春市(旧、新京特別市)の街路を尋ね歩いていた。
西澤泰彦著「図説『満州』都市物語ハルビン・大連・瀋陽・長春」ふくろうの本・河出書房新社(1996年初版)の、「マンホールの蓋」(95頁)に4枚の写真を掲げた一文があり、瀋陽の満鉄附属地に残る満鉄のマンホールの蓋(満鉄のMにレールの断面を組み合わせた図案に、アルファベットのS字付き)、満州電信電話株式会社のマンホールの蓋(Mの上下にTを配し小円となし、小円の左右に「話」と「電」で挟む)、新京特別市のマンホールの蓋(中央の小円に「下」の字、これを左斜め上から「京」、右斜め上から「新」の文字が挟む)、満州最古のマンホールの蓋(満鉄のMにレールの断面を組み合わせたもので、図案そのものが他に比べて大きい)が紹介されている。そして、新京の文字は字のままなので別にし、他のものについては図案の絵解きをされている。S字は下水の意味するアルファベットの頭文字、 MTT は Manchuria Telegram Telephone の頭文字による略で、満州電信電話株式会社を指していると絵解きする。そういえば、NTTは日本電信電話公社の略号であった。生粋のアカデミズム分野からは認知されない「路上観察学」のうちでも、このマンホールの蓋による分野はまともな学問と渡り合うことができる数少ない分野の研究だし、奥深い学問だと、西澤泰彦氏は評価する。そして、イラストレーターの林丈二氏が本格的に始めた分野であることも紹介している。
これら先達の示唆を受けて、私もこのマンホールの蓋を観察して歩くようになった。最初に見つけたのは、長春市(旧、新京特別市)の中南海(北京の政府要人が住む地域)と呼ばれていた朝陽路、中華路の路上や吉林大学の構内の路上であった。新京の文字のある蓋を最初に見つけたときは嬉しくて何度も靴先を文字の辺りこすりつけ、文字を確かめ、いろんな角度から写真を撮ったものだ。このような私を訝しげに眺めて通り過ぎていく者が多数であったが、時には立ち止まる人も居て、何をしているのか訊ねられた。誰も気にせず、踏みつけて通っているマンホールの蓋である。訝しがるのも当然であったろう。公の街路上のマンホールの蓋にはアスファルトやセメンで文字を塗りこめてしまっていたのが、剥がれて姿を見せてしまったと言う感じのものも多かった。現中国になって、満州国の旧首都名が漢字で刻まれているこの蓋は目障りであったにちがいない。しかし、それらを全て取り替える経済的な無駄もしたくは無かったので、セメン張りなどしたのではなかろうか。
瀋陽で勤務するようになってからも、絶えずマンホールの蓋に注意を向けていたが、簡体文字を刻む蓋やアルファベットのピン音を刻む蓋など、現中国のそれと思えるものがほとんどであった。ただ、やたらと各所で見かける記号(マーク)だけの蓋が気にはなっていた。しかし、長期間分らなかった。或る時、謙光社発行「満州慕情」満史会編(昭和46年)の中の写真を見ていて、奉天市公署の写真が目に留まった。その門扉にマンホールの蓋と同じマークが付いているではないか。早速、マークを奉天の文字で絵解きを試みたがうまくいかない。そんな時、路上の古玩・旧書市で奉天市公署の別の写真を入手した。ここにも、門扉に例のマークがついている。やはり、このマークと奉天市公署とは関わりがあるはずだと、いろんな中国人知人に尋ね歩き、私の推論も述べてみたが、確とした答えは得られなかった。薬科大学に集中講義で来られている貴志先生の知人で、遼寧省図書館勤務の方にも聞いてみたが、返事は梨の礫であった。そうこうしている時、路上市でもインテリとして仲間内から一目置かれている人物が、篆刻に使われる篆字の奉と天を1字に組み込んだものだと教えてくれた。ただ、これが奉天市公署のマークだったか否かについては、彼も知らなかった。私自身、篆字の辞書で確かめてみたが、納得いくところまではいかなかった。でも、2字を1字に組み込んだのだから、少し無理があるのも仕方がないとろだと篆字の奉天だと認めることにした。これは奉天市公署の管轄下にあったものだから、市内各所に見つけることができる。同じ鋳型のものばかりではなく、マークの基本は同じだが、デザインには数種あるようだ。
満鉄のマークを最初に発見したのは、中国医科大学(旧満州医科大学)病院の敷地内であった。その近くには「+」を刻む蓋も見かけた。病院を意味しているのであろうか。
それ以後、なかなか見つけることができなかったのだが、瀋陽駅(旧奉天駅)の近くの街路でいくつも見つけることができた。勝利大街(旧宮島町、旧若松町)、昆明街(旧橋立町、旧紅町)、民族街(旧松島町、旧弥生町)、蘭州街(旧江島町、旧霞町)など、太原街(春日町、青葉町)より西側(駅寄り)をくまなく見て歩けば、探し出すことはさほど難しいことではない。一度歩いてみてはいかがであろうか。
勿論、当時満鉄附属地が設定されていた都市では、この満鉄のマークのマンホールの蓋を探すことは可能である。私は吉林省の長春市(旧、新京特別市)でも、見かけている。
昆明南街(旧紅町)では、壁に残された満鉄のマークも見つけ、「加藤正宏の瀋陽歴史探訪」の「満鉄附属地その1、補足」(瀋陽教師の会HP、会員交流のページ)で写真を紹介させてもらっている。現在、マンホールの蓋に刻まれた満鉄のマークに4種類のマークを見つけている。一つは、西澤泰彦が紹介しているMの文字にレールの断面を中央に配し、円で囲み、下にSの文字を刻むものである。二つ目は、マークを円で囲むだけで、Sの文字が無いものである。三つ目は、Sの文字が無く、マークを二重円が囲む比較的大きな蓋のものである。四つ目は、マークを「話」と「電」の文字で挟みそれを円が囲むものである。それぞれ用途分けがあったのかどうかははっきりしない。Sのはsewer(下水管)とはっきりしている。右書きの電話に満鉄マークのそれは満鉄附属地の電話関連施設だったのであろうか。直ぐ傍には中国鉄道のマークに左書きで電話と書いたマンホールの蓋が並んで存在していた。たまたまそこに居た中国人に訊ねたところ、満鉄のは古くて、中国鉄道のは新しい、古くは右書き、現在は左書きだと答える。でも、中国鉄道のも「電」が簡体字ではないではないかと問うと、50年代末ぐらいまでは繁体字が使われていたとのこと。右書き、左書き、簡体字、繁体字の区別でおおまかな時代分けも可能だということになる。
「〒」マークを「話」と「電」の文字で挟んだマンホールの蓋も見つけている。最初に見つけたのは太原街郵政支局(旧中央郵便局)の北側、配送車などが出入りする北三馬路(旧北三條通)と蘭州北街(旧江島町)の交差する路上に「〒」マークとそれを挟んで摩滅し読み取れない文字を見つけ、大発見をした気持でいた。このマークは日本の郵便局のマークである。それが路上に残っていたということは、日本の租界地であったかのような満鉄附属地の姿をはっきりと物語っているからだ。この大発見を紹介したくて、友人の山形夫妻を案内してきて、文字が解読できなくて残念なんだがなどと言いながら、得意げに見ていただいた。その後、北三馬路(旧北三條通)から太原北街に出て、歩道を中山路に向かって歩いていたところ、夫妻から呼び止められ戻ってみると、なんとそこには、「〒」マークを「話」と「電」の文字で挟んだ完全なマンホールの蓋があるではないか。これこそ大発見である。太原北街の歩道に立派なのがあったのだ。山形夫妻の大大発見である。このことで、文字解読の問題も解決した。郵便と電話の関係だが、現在は分離しているものの、中国でも郵電部と昔は言っていたし、日本でも郵便局の中に電話部門があったようだ
このように、マンホールの蓋が、その設置されている土地について、その歴史を語りかけてくれている。この語りかけに耳を傾けてみるのもおもしろいことだ、目を皿のようにして、路上を見て歩きながら。
なお、西澤泰彦著が紹介していた満州電信電話株式会社のマンホールの蓋(Mの上下にTを配し小円となし、小円の左右に「話」と「電」で挟む)、満州最古のマンホールの蓋(満鉄のMにレールの断面を組み合わせたもので、図案そのものが他に比べて大きい)の二つは未だに見つけ出せていない。
以下に私の見かけたマンホールの蓋の写真を掲げる。(記、2005年10月10日)
上記記載以後に新たに見かけたマンホールの蓋がある。そこで、これまでの蓋と共に、ここに写真を掲載することにした。新たに見つけたのは、一つは満州電信電話公社のそれで、北9馬路と、中街で発見した。西澤泰彦著「図説『満州』都市物語ハルビン・大連・瀋陽・長春」ふくろうの本・河出書房新社(1996年初版)の、「マンホールの蓋」(95頁)に4枚の写真のうち3枚まで見つけたことになる。もう一つは、奉天のマークの下に「栓火消」の文字を刻むマンホールの蓋である。これは会誌「日本語クラブ」21号に載った山形達也さんの『わが師への恩返し』(←クリックすればここへ飛びます)で提供された話題ともリンクさせて、考えることもできそうだ。
瀋陽の歴史を刻むマンホール
上左は家屋の壁に残っている満鉄のマーク、
満鉄マークのマンホールの蓋と
それに似ている現・中国鉄路のマークのマンホールの蓋
「電話」の文字の向きにも御注意ください。
満鉄Sマーク
下段の中二つは他のデザインと異なる。下段左は裏返しか?
満鉄S無しマーク。中右のマークは他と異なる。
二重円の中の満鉄マーク
満州電信電話株式会社のマンホールの蓋のマーク
〒マークと「話電」の文字、
筆者の写っている写真は山形達也氏撮影。
奉天市公署のマークとそのマークを刻むマンホールの蓋
マークの特徴ごとに各行に纏めてみた。マークの頂点。
形や太さを比較してください。
警察のマーク
病院のマーク?
満州国首都の
新京特別市のマンホールの蓋
左は奉天のマークに「栓火消」の文字がある。中左のそれは右書きか、左書きか、時代は?
山形達也氏が『わが師への恩返し』で主張されているようにきっと右書きであろう。
「栓」「火」「消」のそれぞれの文字の底辺が中心を向いていることからして、納得できる。
とすれば、これも光復(1945年8月15日)前のマンホールだ。
奉天マークのそれと、中左のそれとの住み分け関係はどうだったのだろうか。
関係は附属地と奉天市との関係によるものであったのだろうか。
1937年には治外法権撤廃が行われ、附属地も法的には奉天市の管轄に入っている。
中右は現在の瀋陽市のマンホールの蓋だ。「消火栓」が左書きになっている。
右は丹東で見かけた物で、現在の物だと思われる。文字は「消防」となっている。