37 奉天省官立
東関模範両等小学校と
少年周恩来
加藤正宏
奉天省官立東関模範両等小学校と少年周恩来
加藤正宏
今年2011年は辛亥革命100周年にあたる。10月10日、中国各地の新聞がこれを取り上げた。瀋陽でも、『遼瀋晩報』『瀋陽日報』『瀋陽晩報』など各紙がそれを報じていた。各紙は辛亥革命100周年の記念切手についても記事にしていた。切手に取り上げられている孫文や黄興についてはブログのヤフー、ライブドア『中国地方都市における日本語教師のつぶやき』でも取り上げているので見て頂ければ幸甚である。ところで、『瀋陽晩報』には辛亥革命の時期の奉天市(現在の瀋陽市)の地図上に、故宮大政殿・奉天火車站(奉天駅)・四平街(現在の中街)・盛京施医院・東関模範学校の位置が示した記事が掲載されていた。東関模範学校の位置には少年周恩来の顔写真も掲げられていた。
正に、少年周恩来が奉天(瀋陽)で学習していた時期は辛亥革命が起きた1911年前後の時期であった。
奉天省官立東関模範両等小学校は少年であった周恩来が3年間学習した学校であった。現在もこの建物は存在する。
瀋陽晩報
瀋陽日報
遼瀋晩報
辛亥革命の頃の瀋陽
辛亥革命100周年記念切手
有吉佐和子が1978年に訪中した時に、この建物を見学している。帰国後、先ず週刊新潮に掲載され、その連載が終わった1979年春には新潮社から『有吉佐和子の中国レポート』として、その見聞記が紹介されている。以下に、引用させてもらおう。
「 旧満鉄ビルを見に行った足を伸ばして、瀋陽第六中学校というのに出かける。周総理の少年時代を記念した展覧会場という大きな看板があって、その隣に昔風の煉瓦作りの建築物があった。
校長の宋廷鈺氏が、わざわざ私たちのために出迎えていてくださった。
『建物が古くなったので、現在修理中なのです。国慶節には一般公開できる予定です。現在は、中国人にも見学は遠慮してもらっている所です。いろいろ不便な通路などありますが』
・・・・・・(HP掲載人による一部省略)・・・・・・。
『周総理がこの学校で修学されたのは一九一〇年秋から一九一三秋までの三年間で、当時は奉天東関模範学校といいました。周総理は十二歳から十五歳までの少年期を此処で過ごされたのです』
『どうして周総理は、瀋陽にわざわざ来られたのでしょうか』
『周総理の伯父に当たる人が、清末から中華民国の初期にかけて、この瀋陽で度支財政庁の小役人として働いていたのです。周総理は、江蘇省和淮安県に生まれ育ったのですが、この伯父さんにずっと経済援助を受けていました。この学校は当時一番いい学校だというわけで、伯父さんのところで預かるという形で通学したのだと言われています』 階下の四室が展示室になっていた。写真も、周総理のお習字も大きな額に入って飾られていた。
『周総理在世中、幾度もこの学校に記念室を作りたいと申請したのですが、決して同意してくださいませんでした』
『すると、この展示室は?』
『周総理が亡くなられた後、すぐ作りました』
『はい、すぐです。もちろんその時の規模は今より小さいものでしたが』
・・・・・・(HP掲載人による一部省略)・・・・・・。
少年時代の周恩来の辮髪姿という珍しい写真が大きくひきのばして飾ってある。当時の机と椅子も復元され、彼の席の上に、説明文がのっていた。
『この学校は、日本の植民地時代には日本人も入学していますか』
『いや、その頃は奉天第三高校と呼ばれていましたが、中国人だけの学校だったと思います』
・・・・・・(HP掲載人加藤正宏による一部省略)・・・・・・。
中でも私の目を惹いたのは、孫文が日本で編集発行していた『民報』が何冊か、古びたものが展示されていたことだった。清朝政府の腐敗を弾劾し、三民主義による中国民族の新しい独立を説いた孫文は、今でも新中国の国父と仰がれている。彼の未亡人宋慶齢は、一九七五年まで国家副主席であった。七五年以降現在までは全国人民代表大会常務委員会副委員長である。
日本に亡命していた孫文が祖国に送っていた『民報』を、少年時代の周恩来が愛読していたのかと思うと、私には感慨があった。十二歳から十五歳の頃に受け入れた思想が、やがて革命家周恩来の芽生えとなったのであろう。
北京では、小学生時代の作文が展示されていて、人々は熱心にそれを手帳にメモしていたが、この展示場にある作文にはすでに愛国の熱情が見えていて、もっと印象的だった。」(168頁から170頁)
上・前楼、中・師生合影、
下・部分拡大―前列中央周恩来
(路上一で入手の1978年の絵ハガキより)
上・辮髪の周恩来、中・教室、下・図書室
(路上市で入手した1978年製絵ハガキより)
周恩来の書
(1978年製絵ハガキ)
有吉佐和子は初めてこの学校で周総理の塑像を見かけ、「生前は決して作ることを許さなかったというものを」と驚き、またそこで、周総理がペンネームを三つ(伍豪、飛飛、翔宇)も持っていたことを知って、嬉しかったのか、知り合った中国人に告げまわったようだ。
ただ、翔宇などはペンネームと言うよりも、中国でよく用いられた「字」のようだ。周恩来は生後先ず「大鸞」と名付けられた。翔宇はこの「大鸞」に因んだ「字」だったようだ。親鸞聖人の鸞である。鸞は中国で想像され生み出された美しい鳥で、想像上の鳳凰と同様に尊重されている。大鸞の飛翔をさしているのであろう。我々が知っている「恩来」は五歳で家塾に通うようになった時に付けられた名前だそうだ。
奉天省官立東関模範両等小学校の同級生に与えた「書」に書かれた名が翔宇であったり、翔を分かち書きし羊と羽となっているのはこの「字」である。
奉天(瀋陽)での周恩来を、別の本から引用して紹介しておこう。
『人間周恩来 世界に慕われた《大地の子》』 中国児童少年出版社 蘇叔陽著、竹内実訳サイマル出版1982年出版。
「 一九一〇年の夏、恩来は東北にやって来た。
かれはまず、鉄嶺の銀崗書院で半年学んでから、一九一一年、こんどは瀋陽(当時は奉天といった)の東関にあった模範両等学堂で学業を続けた。
その学校は立派だった。県城の東門の外れ、万泉河畔に、赤く塗った柱、青い煉瓦の二階建て校舎が建っていた。
・・・・・・(HP掲載人加藤正宏による一部省略、なお青い煉瓦は黒い煉瓦の誤訳か?)・・・・・・。
もともとは満州族の風習で、満州族は中国を占領すると、全国の男に服従心を示す証拠として、辮髪を強制した。辮髪をしないと、謀反を図っているとみなされ、死刑になった。
辮髪は、中国の歴史に大きな波を建てた。清朝末年に、革命派の人間はまず自分の辮髪を切った。こういうわけで、ちっぽけな辮髪を切るか切らないかは、当時にあっては、革命的か、革命的ないかという問題になったのである。
そのころ、この学校には山東省出身の歴史、地理の教員、高亦吾がいた。民族主義の思想をもった進歩的な知識分子で、宣統(清朝最後の皇帝、溥儀の年号)年間に、つまり革命がまだ海のものとも山のものともつかないときに辮髪を切って、列強および腐敗した清朝政府を憎む決心をあらわした。
一九一一年、恩来は瀋陽東関の模範両等学堂に入学して、高亦吾先生の授業を受けるようになった。
高先生は教室で、興奮して革命志士の愛国的な行動を語った。国を愛さなければいけないというその教えを聞いて、生徒たちの血はわいた。
先生はあるとき、恩来や級友に向かって、一九一一年四月二十七日に広州で蜂起し、失敗して壮烈な死をとげた七十二烈士の行動(黄花崗も役)を語った。その話しぶりは悲壮で、恩来は胸が高まり、熱い涙を流した。
高先生はまた、当時の革命的な書物についても語った。恩来は先生が推薦した『革命軍』を読み、革命家鄒容が十九歳で書いたこの書物に深く感動した。
若い恩来は救国救民のために自分の一生を革命に献げようと決心した。
この年の十月、孫中山先生の指導する辛亥革命が成功し、清朝を倒し、中華民国が成立した。この報せが瀋陽に伝わると、たちまち校内はわきかえった。歓呼の声のなかで、恩来はいそいでハサミをもってくると、奴隷と屈辱のしるしである辮髪を切りおとした。
学校で最初に辮髪を切りおとした生徒は、かれだった。これは当時にあっては勇気のいることだった。
上・前楼、
中・前楼後方に後楼、
下・前楼の後方から
上・後楼、
中・後楼の右の緑屋根は礼堂、
下・後楼の後方から
辮髪の周恩来と辮髪を切った周恩来(路上市で入手した周恩来生誕100周年 1998年記念絵ハガキ)
二冊の本に収録された作文
*中華が決起するために
瀋陽で勉学していたとき、恩来はまだ十二、三歳の少年だった。かれは刻苦勉励、よく先生や級友と、自分が新聞や書物を読んで考えた問題について語りあった。もっとも多く討論したのは、どのようにして国を救うか、この救国をどのように民衆に訴えるかということだった。
恩来は、教室では真剣に授業を聞いた。宿題もまじめにやったし、先生を尊敬し、級友とも団結、礼儀ただしく、規則を守った。
教科書のほかにも読書に心掛けた。かなり広い範囲にわたって書物や新聞を読み、社会科学の書物のほかにも、自然科学や軍事にかんする書物も、よく読んだ。
何冊かの書物を内容を対照しながら読み、比較し、もっとも科学的な内容と回答はなにか、つかもうとした。
ある日、学校の魏校長が生徒を集めて質問した。
『勉強はなんのためにするのか?』
めいめい答えだした。
『自分の将来のためです』
『お金をもうけて、金持ちになるためです』
『お父さん、お母さんを手伝って帳簿をつける』
そういったのは、父が商人である子だった。魏校長は恩来にたずねた。
『きみはどうだ。なんのために勉強しているんだね』
恩来は立ちあがって、大きな声で答えた。
『中華民族が決起するためです』
中華民族が強大になり巨人のようにそびえたつために勉強するといったのだ。先生も生徒も、尊敬の眼でかれを眺めた。
小学三年のとき、すでに恩来は成績優秀とされ、その作文は省に送られて小学生の模範作文として印刷されたことがあった。題は『東関模範学校が二周年を迎えた感想』で、これは後に上海の進歩書局が出版した『学校国文の成果』と、上海大東書局が出版した『中学国文成績集』という二冊の本にも収録されている。
これは九百字余りの文章で、実によく書けている。先生や級友に対して熱情あふれる希望をよせ、先生と生徒がいっしょになって、国家の将来について大きく困難な責任を担おうと呼びかけている。わずか十三歳の少年が、このようなことを考えていたというのは、まことに尊敬に値する。
恩来は中学を卒業したあと、日本留学をひかえて、瀋陽の母校を訪ね、先生や級友たちにあったことがある。仲のよかった級友に、次のようなことばを記した。
『志は四方にあり』
『願わくば中華が世界に雄飛する日に会わん』
中華民族が独立し、繁栄したら、ふたたび会って喜びを語りあおうとやくそくしたのだった。」(21頁から25頁)
1978年製絵ハガキ・
周恩来が級友に与えた書
19 78年第1期表紙
22頁
23頁
24頁
これら二著で
『勉強はなんのためにするのか?』と質問したエピソードは前者の雑誌『革命文物』では、以下のように記載されている。
「在課堂上、魏校長問大家為什麼上学、有的説是為了尋求出路。有的説是為了発財致富。当問到周恩来同志時、他庄重回答説“為了中華之崛起。”由于周恩来同志的南方口音、魏校長一下没有听清、于是他又沈静、大声地重複了一遍:“為中華崛起而読書”( 魏校長当時兼教修身課、一九五八年去世、生前曾対子女多次談及此事。)」
また、『人民的好総理』では、以下のように記載されている。
「 有一次(1911年底)、兼教修身課的魏校長在講到“立命”一節時、問同学們:“諸生為什麼而読書?”
有的回答:“是為了帮助父母記帳”、 有的回答:“為了個人前途”、 有的回答:“為了明礼而読書”、也有的回答:“為了光耀門楣而読書”。
当魏校長問到周恩来時、他庄重地回答:“為了中華之崛起。”魏校長一怔、因周恩来是南方口音、他自己没听清楚、走近他又一次問道:“為什麼読書?”“為中華之崛起而読書!”周恩来提高声音大声答道。」
蘇叔陽著の本では即答の感じで書かれているが、上記二著では周恩来の発音が南方発音であったため、校長が再度質問し、周恩来は二度答えている。答えた“為中華之崛起而読書!”を竹内実は「中華民族が決起するためです」と訳しているが意訳のようで、その後に説明している箇所の「中華民族が強大になり巨人のようにそびえたつために勉強する」というのが寧ろ直訳に近いと思われる。「崛起」は「山などがそびえたつ、そそりたつ」の意味だからだ。
上記の雑誌『革命文物』、『百个愛国主義教育示範基地叢書 人民的好総理 周恩来紀念館』、『歴史文化名城瀋陽』瀋陽市政協学習宣伝文史委員会編瀋陽出版社(2006年出版)、『説古道今話瀋陽』瀋陽市精神文明建設辦公室編(2001年出版)などを参考に、周恩来が学んだ奉天省官立東関模範両等小学校がどのようなもので、どのような歴史を歩んできたのか見ておこう。
この建物は保存され現在も残る清朝末期の新式の小学堂で、前房・校庭・前楼房(教室棟)・礼堂(講堂)・後楼房と校庭を挟み4つの建物からなっている。建物は煉瓦と木造によるもので、前楼房・後楼房は二階建てで、教室前面には赤く塗った木造の廊下が張り出している。
その歴史は、清朝末年、光緒三十一年(1905年)に奉天学務処が「廃科挙、興学堂」を実施したことから始まった。光緒三十四年(1908年)、奉天に前後して10箇所の官立両等小学堂が創られた。周恩来が1910年に入学したのはこの一つである第六両等小学堂であった。この小学校は第七両等小学堂と一緒になって、その年つまり宣統二年(1910年)奉天省官立東関模範両等小学校となった。当時、これらの小学堂は整理され、同じように西関、南関、北関、中央模範両等小学堂と呼ばれるようになっている。両等とは初等小学四年、高等小学三年だったので、これを合わせた呼称である。
1931年の満州事変後、日本の進出侵略により陥落し、奉天は形式的には満洲国の支配都市となった。そこで、この学校も名前を変え、奉天第三国民高等学校となった。学生は中国人(当時、満人と呼んでいた)だが、校長は日本人で、日本語が必修であったという。
1945年日本の敗戦(中国での光復)後、1949年には瀋陽市第十六中学と瀋陽市幼児師範学校となる。最初に紹介した有吉佐和子さんはこの瀋陽市第十六中学に1978年に訪れたのだ。建物が修理中で学生は別な所で学習していて、有吉さんは学生とは会ってはいないのだが・・・・。
その1978年に、有吉さんが訪れる数か月前に周恩来同志少年時代展覧室がこの建物に開設された。建物が修復され、前楼の前の校庭に周恩来の像が建てられたのも、これに合わせてやられたものだろう。この白い花崗岩に彫られた像が正式に除幕されたのは1979年の9月28日だったというから、有吉さんが見た塑像はまだ未完成未発表のものであった可能性が高い。1989年にも小修理が行われている。
1993年には、この学校は瀋陽市東関模範小学校の名前に復し、瀋陽全市から学生を受け入れ、周恩来が魏校長に答えた「為中華崛起而読書」の宏大な志向に合わせ、基礎教育実験校・教学改革的示範学校・対外開放窓口学校として、「惜時」「明理」「篤学」「創新」を尊ぶ校風を標榜する学校となった。
奉天第三国民高等学校の学生名簿
周恩来生誕100周年記念絵ハガキと周恩来の塑像
『人民的好総理』の30頁から37頁
25頁
26頁
27頁
28頁
私は2004年秋から2007年の夏まで瀋陽で生活していて、数度この周恩来が学んだとされるこの建物を見に出かけたのだが、「周恩来少年読書旧址」の額は掛かっているものの、門房のドアは錠が掛けられたままで、入ることができなかった。周囲で聞くと修理中だとの話であったが、槌音は全く聞こえなかった。ただ、外部から写真を撮ることしかできなかった。
この旧址の建物の向って右傍らに、大きなコンクリートの校舎が見られた。この校舎の壁には上記の「惜時」「明理」「篤学」「創新」の文字が見られた。
2005年からは、市から東北育才教育集団に経営が移り、東北育才東関模範小学となって、この東北育才教育集団が「周恩来少年読書旧址」の管理も受け持つことになり、現在に到っている。
建物は2007年から09年にかけて、1978年以来の大規模な維持修理が行われ、09年5月に再度開館されるようになったとのことである。紀念館には、この大修理に伴い、道路に面した前房の前の広場に少年周恩来の像も加えられた。
現在、この紀念館は土・日(9時から11時半と13時から16時まで)のみ開館で、1日50名の人数制限も行われているそうだ。身分証を提示し、入場券をもらう。費用はいらない。見学できるところは校庭と前楼房に限られ、礼堂・後楼房は参観不可であり、紀念館での撮影も禁止されているそうだ。
ところで、この記念館となった建物は1931年から45年にかけて、満洲国の奉天第三国民高等学校になっていたことを紹介したが、この建物が建つ万泉河畔にある万泉公園には今も満洲国時代に建てられた遺跡建造物が人目を引いている。それは給水塔である。1935年に竣工したこの給水塔は瀋陽(当時は奉天)でも最も早い時期の給水塔で、商阜地までも供水し、65年までその役割を果たしていた。高さ約50メーター強のその姿は現在も優美である。「周恩来少年読書旧址紀念館」を見学されたら、ここまで足を伸ばすことをお勧めする。なお、瀋陽には付属地内にあった給水塔、奉天駅後方にある給水塔もまだ残っている。
最後に今日文摘雑誌社の周恩来誕辰100周年特輯『永遠的周恩来』から、その一生涯の年表と写真を紹介しておく。
門房楼、その入り口、右の近代的建物には 「惜時」「明理」が見える
少年周恩来の彫像
附近の地図と万泉公園ある給水塔