19「瀋陽曾有

『靖国神社』」の記事

が新聞に


加藤正宏

「瀋陽曾有『靖国神社』」の記事が新聞に

(皇姑区岐山中路11号の『満州霊廟』)

 加藤正宏

1、一日目の記事

   2007年6月14日、「瀋陽曾有『靖国神社』」の見出しが新聞「華商晨報」に躍った。小見出しには「皇姑区岐山路附近的『満州霊廟』始建于1938年、日本人曾在此供奉侵華戦争中戦死的日本士兵」と書いてあった。1938年に建てられたこの霊廟は、中国への侵略戦争中に戦死した日本兵士を日本人がここに祭ったものだというのである。

   記事の中には、民俗専門家の斎守成さんの話が紹介されている。彼の話では、「満州霊廟」既に70年の歴史を持っており、曾て日本人が建造したもので、中国への侵略戦争中に戦死した日本兵士を専ら祭ったものだという。また、これは典型的な日本式建築だし、当時、上の階には主に戦死した日本人兵士の位牌が、下の階には祭祀の道具が置かれていたが、早くから兵士の具体的な事柄についてはどんなものか全て分からなくなっていたと言う。そして、この霊廟は少なくとも東北三省で最も完全に保存されている建築物だと言えるし、一つの生きた歴史を記録した化石で、また更に日本の中国侵略の罪証でもあるのだと彼は言う。

     霊廟を以下のように新聞記者は紹介している。

   霊廟は高さ20メートル近く、面積は約600平方メートル強、上下二層の石造りの建築である。建物の周囲には赤に着色した石造りの柱が並ぶ。人民共和国建国後、この霊廟は「遼寧省公安庁老幹部活動中心」として老人たちの憩いの場となっている、と。

   この記事を目にした翌日、この日は講義も無かったので、朝早く現地に出かけて行った。薬科大学からは214路に乗り、終点の龍江広場まで行き、岐山路を西に向かう。北陵大街を越え、岐山路中路に入ると、その道路に沿った北側には省公安庁の立派な建物が聳えている。更に行くと、岐山三校という小学校がある。この小学校の道路を挟んだ南に公安派出所が見えた。この公安派出所を門の片方とし、その南に居住区が広がる。遼寧省公安庁の家族が住む居住区である。道路沿いに霊廟を見つけられなかった私が、ここかしこで訊ねて聞き出したのが、この居住区である。この居住区内に霊廟があるという。何も悪いことをしているわけではないが、公安派出所が門になっていることで、少し躊躇したが、意を決して住人の出入りに合わせ、その後に続き、中に入って行った。しばらく行くと、大きな木々が影を落とす小さな公園とその中心に東屋を見つけた。その公園の外れに新聞に掲載されていた建物があった。

   いろいろな角度から写真を撮ってみた。しかし、私の感覚では、どうも日本の神社の感覚がしてこない。昨日の新聞では、東北三省でも最も完全に保存され日本の神社だといっていたが、私は長春(満州国の首都新京)でも、幼稚園になっていた神社の一部を見ているし、公主嶺でも民家に転用されている神社を見ているので、どうも違和感を感じる。日本の神社の感覚は木造が主体であるのに、ここはコンクリートで出来ているのだ。屋根瓦に描かれているのが龍である。屋根の角には動物の人形が何体か安置され戴っかっている。このような形式は中国のお寺や廟の感覚である。

HP:(07 長春に残る日本に関わりのあった宗教建築物)参照

    公園の東屋に憩う老人に話しかけてみた。老人たちはやはり日本の神社だという。そして、今はアパートが建っている辺りを指差しながら、附属の建物があったとか、この神社と対に成る建物がこの西に建っていたとかと説明してくれる。件の建物から出てきた老人がいたので話しかけてみると、見に入って好いよと言う。二層になっているこの建物は半地下の一層の上に上層の部屋が積まれている。だから上層の部屋に入るにも、外部からも少し階段を上がって内部に入る。建物の上層一層がそのまま一部屋になっている。そこにはゆったりとした間隔で、幾つもの雀卓やビリアード台、それに将棋の台が配置されていて、老人たちがそれぞれの場所で楽しんでいた。入り口に居た老人に、新聞で見てきたこと、自分が日本人であることを告げて、内部の写真を撮ってもいいかと尋ねてところ、しばらく考えた後、なぜか断わられてしまった。でも、中に入って直に見ても良いという。入り口から全貌出来たので、中に入るのは遠慮し、しばらく観察した後、表に出た。

    もう一度、外から眺めてみたが、やはり違和感がある。日本の神社の感じではない。

2、二日目の記事

 帰宅し、今日(2007年6月15日)買ってきた3紙(「華商晨報」、「遼瀋晩報」、「時代商報」)に目を通していて驚いた。昨日の今日なのに「華商晨報」に、紙面の半分も割いて「瀋陽『靖国神社』」「供的原是『漢奸』」の文字が躍っていた。A3面の「今日焦点」にだ。「焦点提示」という、その取り上げた理由が書かれているところには、まともらしい口上が先ず書かれていた。「日本の靖国神社は日本の近代史上軍国主義の対外侵略拡張の精神支柱であった。この神社は、明治維新以来の歴代の戦争、その戦争の多くは対外侵略戦争、で死去した亡霊を神として祭祀してきた。瀋陽でも一つの『靖国神社』―皇姑区岐山中路11号の『満州霊廟』―がまだ残っている。」と、しかし、続く文には「昨日、記者が探訪したこの『満州霊廟』記事を報じた後、多くの瀋陽人の関心を惹き起こし、多くの読者から、更に詳細な史実を知りたいとの希望の電話をもらった。また、ある読者からは私たちに更に多くの手がかりが寄せられた。」(引用文は、全て加藤の拙訳、大意訳)と書かれており、手がかりをもらって、昨日の記事の訂正と追加をせざるを得なくなったのが実質的なところだといえそうだ。

 昨日の記事ではこの建物は日本人の造った典型的な日本式建築だと記載されていたが、今日の見出しには「供的原是『漢奸』」の大見出しの他に、「『満州霊廟』其実剛建成一半」だとか、「為何建成『中日混合』式建築」「『霊廟』供的原是低級『漢奸』」「聯営、八一劇場一帯也曾建過『靖国神社』」などが小見出しとして紙面を賑わしている。

 建物は中日混合の建物であり、神社の提供者は元来身分の低い「漢奸」であったとの内容である、昨日の記事との違いは歴然である。

私の感じていたことが当たっていたのである。日本人が見て、日本の神社として考えるには違和感がある建物なのだ。 

「『満州霊廟』其実剛建成一半」の記事(拙訳)に拠れば、次のようになる。

 満州霊廟は本来の名は奉天霊廟といわれたもので、瀋陽市の工商各界と一般市民に「自主的な寄付金」を日本の侵略者が強制して建てたもので、最初の計画では東西に対象の大殿、それぞれの南北に附属建造物、神社の南に牌坊式大門(鳥居か?)配置し、北側には花園、また築山や防空壕があったとのことである。しかし、後に日本が全面的な中国への侵略戦争を展開するに及んで、東北三省はその後方基地となり、鋼鉄、石炭は元より、あらゆる戦争に必要な建材は前線の支援や軍事物資の製造に回され、霊廟建築の進み具合は極端に遅くなった。更に、太平洋戦争勃発後、日本軍は両面戦争で建築物資入手が更に厳しくなった。1945年に日本が投降するまで、只、東の大殿―現在保存されているこの建物―が出来上がっていただけであった。対置される西の大殿は基礎が打たれただけであった。「日本の投降後、中国人は遍くみんなが一種の報復と鬱憤晴らしの心理状態になった。」と遼寧省档案館研究館員張樹純さんは語り、更に「当時、日本人を見かけると殴りかかり、日本の品物を見かければ破壊した。多くの日本人が残した家屋はこの時に取り壊された。」と付け加える。それなのに、既に70年にもなるこの奉天霊廟はずっと保存されてきて、今もってどこも損なわれていない、と。

 

「為何建成『中日混合』式建築」の記事を大意訳してみると、以下のようになる。

 「見て御覧なさい。この建築の形式と風格は完全に中国の古典建築の様式だ。日本人がどうしてこのような『中日混合』式の建築を? 少し奇怪であり、深く研究するに値する。」と記者に遼寧省档案館研究館員張樹純さんは語った。長年、日本の中国侵略史を研究してきた張樹純さんは、同時に以下のことを認めざるを得ないという。奉天霊廟に供養され埋葬されているのは、一人として名前が知られた人物は資料の中に探せないこと。そして、これは大変奇怪ななぞであること。

 

「『霊廟』供的原是低級『漢奸』」の記事では、上記の張樹純さんの疑問に答えるように、著名な収蔵家で、歴史研究者の詹洪閣さんの考証を紹介している。

 奉天霊廟を建てて奉献したのは日本人ではなく、「満州」を建立し維持する為に献身してきた将士―漢奸!だ。日本の侵略戦争が急を告げていたとき、その彼らの面子から建築し続け、日本の降伏後も未完成だったその半分の建物も完成させたのだ。奉天霊廟に祭祀された何種かの人物は抗日武装によって撃ち殺された「靖安軍」などの偽満州軍の兵士、病死の漢奸、偽満州国の官員であった、一部分の日本人も排除されてはいなかったけれど。

 一人として名前が知られた人物は資料の中に探せないのは、ここには侵略日軍にも漢奸にも大人物が根本的に埋葬されていないからだと解釈できると。

 そして、次のようにも話している。日本の侵略者が瀋陽に建てた類似の建築:忠霊塔、奉天神社に、毎年春秋の2季節に中小学生が行って祭祀に参加することが満州国時期には強要されていた。これは日本が中国人に対しておこなった奴隷教育の一部分である。奉天霊廟は瀋陽に現存する唯一の中国侵略の祭祀建築であり、重要な罪証としての保存意義がある、と。

 

「聯営、八一劇場一帯也曾建過『靖国神社』」の小見出しで関連記事が紹介している。

 1908年、日本の侵略者は現在の南京街公司一帯に「忠魂碑」を建築した。後に、更に「忠霊塔」を建て、日露戦争中に戦死した日本軍官兵を祭祀するのに用いた。

 1915年、現在の和平区の八一劇場の位置に全てが日本様式の「奉天神社」を建てた。鳥居、拝殿など三殿をもち、日本特有の神社として欠けるところがないものであった。この奉天神社は当時の明仁天皇即位4周年記念し、南満州鉄道が提唱し、組織し、建築したものだ。神社内に祭られたのは主に日本人の官吏や軍人の霊であり、すべて満州国建国期に、戦争或いは病気で亡くなった者だ。遼寧省档案館研究館員張樹純さんが記者に語ったところでは、抗戦期間、日本軍内部で口伝えされていた言葉に:「満州には既に300の神社がある」というのがあったそうだ。

 史料の記載に拠れば、「九一八(満州事変)の当夜、日本軍は東北軍の駐在地北大営へ進攻、合わせて20人が負傷し、2人が亡くなった。日本軍の慣例に従って、この2人は奉天神社に葬られた。

 抗戦勝利後、「奉天神社」、「忠魂碑」、「忠霊塔」は憤怒した中国人によって取り壊された、と

3、二日間の新聞記事を読み終えて

この2日間の新聞記事で、瀋陽の靖国神社と紹介された廟は、日本人の英霊が祭られる神社とは言えない代物だと、このように私は考える。建物形式も、また祭られた人も日本とは縁がないといえる。どの国においても、国の為に身を奉じて亡くなった人を祭祀する廟があるものだ。贋物(偽物)の国であっても、その国の支配層に入り込んだ連中にとって、国を護持することは大切なことで、国の為に身を奉じて亡くなった人(亡くなった本人は国のためにとは考えていないかも知れないが)を祭祀する廟を造るのであろう。瀋陽霊廟もこの例の一つに違いない。この廟は満州国の為に身を奉じたと支配層が考える者を祭祀した廟であろう。

 それなのに、住民たちには日本の神社だと思われていたし、今も思われているのだ。このことが重要なこと、大切なことだと私には思われる。庶民にとって、満州国は名前があっても実体(もしかしたら名前も)はそこには存在せず、そこに見えていたのは日本という国であったのだろう。日本の支配に対する認識があったのだと思う。

 国家意識が全面に出されているこの現中国で、殊更「瀋陽曾有『靖国神社』」と今回その当時の支配関係を意識させた新聞記事を掲載した意図はどこにあったのだろうか、言うまでもなく国家意識を絶えず意識下に呼び戻す役割を担わせているのだろう。

 

 私は国家意識が強く出てくる事象に出会うとき、いつも考えてしまうことがある。

 現在のように、どの国も教育面で国家意識を強く打ち出してはいなかった時期、そして今のように教育が国民に普及していなかった時期には、庶民にとって国家意識は存在していなかったはずだと。自分たちを支配し,自分たちから何かを取り上げる(搾取する)身近な支配権力をそこに見ていただけだと。庶民にとって、自分たちの生活が以前に比べてより良くなれば、それで満足し、支配者が誰であろうと、また違った国であろうと彼らには全く関係はなかったことだろうと。


この記事に関連した絵葉書の資料だとブログで提示されている方からメールが入りました(2015年1月)

正に、この建物「満洲霊廟」建設時の絵はがきで川上徹氏の「瀋陽だより№16」にも、絵葉書と写真が並べて貼り付けられています。

確かに姿や形はそのままという感じです。でも、人物との比較で、どうしても同じものに思えません。

規模が異なるように思えるのです。でも、よく分かりません。

都市や住所を確定できるものがあればいいのですが・・・。

例えば、新京の建国忠霊廟などは規模が大きく、付随の建物も多く、添付されている建築途中の絵はがきなどとも合致します。

いずれにせよ、このような満洲霊廟が建てられていたことが、絵葉書でも確認されたことになります。

情報ありがとうございました。

    この方ブログのアドレス(Yahoo! JAPANのサービス 終了の為に現在見られず)

このHP記事中に新京の建国忠霊廟へのリンクを貼ってありますので、ご覧下さい。

これらの記事と併せて確認していただければと思いす。

  上記記載後:

再度ブログ作成者福島泰弘氏より、西岡大元氏の情報を頂き、私自身、福島泰弘氏のブログ(リンクしています)に掲載の『執政府内廷局 為』をじっくり見てみましたところ、奉天を示す『盛京』の文字及び、陵廟地として20畝を発給していることを確認しました。1畝は666,7平方メートルです。そこで、当時の満州国奉天の地図で確認したところ、文字は薄れていましたが、何とか「満洲霊廟」と読める、かなり広い土地を見つけました。私がHPに紹介した建物がある辺りであることでも一致しました。その広さを考えると、福島泰弘氏のブログに掲載されている工事現場を含む写真にも納得がいきました。


 滿洲霊廟奉賛会発行の滿洲霊廟建設記念の第一集の絵葉書の包には会の会長、副会長、理事、発起人が肩書と共に記されている。そこには滿洲最高位の人名や高位の日本の陸軍将軍の名が列記されている。つまり、名誉会長・前国務総理大臣・鄭孝胥、会長・国務総理大臣・張景恵、副会長・陸軍中将・楠山又助、理事長・日本駐在大使・謝介石、理事・陸軍中将・小磯国昭、理事・陸軍中将・小林正三郎が名を連ねる。最後に建立発起人として西岡大元が常任理事を務めていることが示されている。

絵葉書の包装紙にはこれ以外に「若し滿洲方面で戦病死或は殉難されました御縁故の方が御座いましたら御手数乍ら左記へ御法名又は俗名死亡月日、年齢等適当にご記入下さいませ。霊廟で朝夕御供養さして戴きます。」の文面を記し、法名又は俗名死亡月日、年齢、施主などを記入する欄が設けられている。

絵葉書販売などからも、霊廟建設の資金集めに建立発起人西岡大元らは苦労していたものと推察できる。

 

 更に、中国から持ち帰りの『皇姑文史資料 第5輯』(1992年出版)の7頁には「大殿的主持、由在侵華戦争中立過功的日本軍特務――西崗大員以和尚的身份帯領両名小和尚主持。」とあります。崗は岡、員は元と発音が同じで、西岡大元を指しています。

「日本帝国主義侵華証罪 “満洲霊廟”」の全文を、写真で添付しておきます

以上、福島泰弘氏のブログの記事は正しく、疑問を投げかけて、お騒がせしたことをお詫びいたします。