07 長春市に残る日本に関わりのあった宗教建造物
加藤正宏
長春市に残る日本に関わりのあった宗教建造物
加藤正宏
神武殿
新入生の軍事訓練
結婚記念写真撮影
神武殿の後方から
神武殿の正面
吉林大学の前衛校区北敷地内に建っているのが神武殿だ。白壁のどっしりとした神社のような建物で景観も素晴らしい。このため、結婚記念の写真を撮る背景として利用されることが多く、専門の写真店の者が新郎新婦に細かい指示を与え、ボーズをとらせている場面に、私も何度か出くわした。もちろん、大学の構内だから、新郎新婦がポーズをとっていた同じ場所で、九月には新入生の軍事訓練が行なわれていた。現在、この建物は吉林大学が経営する職業学校として使われている。この建物には「長春市重点文物保護単位 日本神武殿旧址」と刻まれた石板が埋め込まれている。この建物は満州国時代の建物で、古老の話では、ここを通る日本人は必ず建物に向かって拝礼していたという。(2001年記)
「長春05 、 70年前、ここに満州国の首都があった。」に飛ぶ
長春市では、他にも、満州時代の日本の宗教的な建物を現在もいくつか見ることができる。以下、新京神社、東本願寺、太子堂、建国神廟、西本願寺、天理教、建国忠霊廟を紹介してみよう。
新京神社
省政府第一幼児園
玄関左右に石版
省政府第一幼児園の筆者
駅前近くにある新京神社はその社務所を中心に省政府第一幼児園が、拝殿を中心に長春市政府第二幼児園ができている。重点文物保護単位と記した石板には「日本の天照大神を奉じて拝礼させ、中国人民を思想上愚弄したものだ」との内容が刻まれている。神社の入り口であった人民大街に面し所には鳥居はなく、奥まった第二幼児園の裏門に、横木が一本欠けたセメント造りの鳥居が見られる。
第一幼児園と鳥居
市政府第二幼児園(拝殿を活用した幼児園)
2002年6月、省政府第一幼児園で建物の取り壊しが始まった。そして、1週間ぐらいで完全に取り壊されてしまった。廃材というか神木というか、これらはトラックに積まれ運び去られた。建物が姿を消した西南方向には市政府第二幼児園が見え、取り壊された西の方角には西広場近くの給水塔が見えている。しかし、新しくできる省政府第一幼児園のビルがこれら景色をまた遮ってしまうことであろう。(2002年記)
東本願寺
市政府庁舎の近くにある東本願寺は第二実験中学の中にあり、一般に知られることは少なかった。今年になって、周囲にあった校舎が建替えのため取り壊され、忽然とその姿を現した。新中国成立当時、この建物の周辺は東北装甲軍区司令部が管轄していて、ここに勤めていた古老の話では、装甲車の群れ中に、日本の寺廟が一際目立っていたという。その後、学校の敷地となり、校舎の陰にそのほとんどが隠れてしまってはいたが、建物は長春市の重点文物保護単位とされ、学生たちの愛国教育基地としての任を担ってきている。
(2002年記)
解体中の校舎と東本願寺
中学内の東本願寺
太子堂
駅前の郵電局の北側を東に行った所にある太子堂は周囲に庶民の住宅が密集し、全体像を眺めるのが困難なくらいだ。日本人の奉納した「洗心」と刻む大きな石の手洗いようなものが、庶民の住宅の中に取り込まれいた。そこの家人の話では家屋の下の地面には蓮の華を刻んだ石が埋まっているという。(2002年記)
庶民の住宅の中に取り込まれた太子堂
昭和9年十月吉日 洗心
天理教
天理教の敷地は、長春市政府(満州時代の康徳会館跡)と人民大街を挟んで建つ市民病院(満州時代の日本海上火災保険ビル跡)、その東隣にあった。現在、長春市政府第一幼児園になっている。この幼児園は市立幼児園ではなく、長春市政府に勤める者の子弟が通う幼児園である。由緒のありそうな建物がいくつか学舎になっているが、幼児園の事務の方もいつごろの建物か知っておられなかった。(2002年記)
建国神廟
復元した廟の礎石
学芸員から説明を受ける
塀に組み込まれた鳥居
世界興亡図表掛図
道路上の古本市で、古い掛図を買わないかと見せられた。満州国時代、学校の教室に掛けてあった「世界興亡図表」という掛図で、その真ん中に、日本、左に西洋、右に東洋(中国)を年表風に纏め、左右両端にそれぞれの興亡図を描いたものである。日本の部分は天皇家に繋がる神々から書き始められ、天皇は天照大神の子孫になっていた。
溥儀の皇宮内に建国神廟があった。同徳殿の南にある庭園の中である。神廟は天照大神を祭る白木造りの建物で、日本の宮中にある「賢所」に相当するものである。毎月一度決まった日に、溥儀は満州国の大臣や高官をともない、神廟参拝の儀式に参加していたという。
満州国崩壊にあたり、火が放たれ、建物は焼け落ち、現在は礎石だけが残っただけだ。でも、周りをよく調べてみると、鳥居の形が偽皇宮の塀にその姿を留めている。庭園南の塀の外は皇宮衛士の官舎になっていた。廃屋としか言いようのないような状況で今も旧官舎は存在する。この官舎の南にまた塀がある。この塀にも鳥居の形をした門がある。この塀の外は現在光復路運輸市場になっていて、大型トラックが頻繁に出入りしている。
庭園から外部を望む
皇宮衛士の旧官舎
旧官舎の外部の塀に鳥居、塀の外は運輸市場
なぜ、天照大神を祭る神廟が満州国皇宮内にあるのか、疑問の起こるところだが、日本の天皇家の祖先とされる天照大神を祭り(「昭和天皇御自身、満州国に皇祖天照大神を御祀りすることに不本意であらせられた」注aにもかかわらず)、参拝せねばならなかった満州国皇帝の国がどのような国家であったかは言わずもがなであろう。
嵯峨井 建は「とくに両廟(建国神廟と建国忠霊廟)は、建前として満州国皇帝の意思により創建されたものであるが、実際は関東軍の主導によって構想のはじめから完成に至るまで一貫して推し進められた。」注bとはっきり述べている。
康徳7年(昭和15年、1940年)にこの廟の鎮座祭が執り行われている。
(2002年記)
西本願寺 跡
建設街と西中華路の交差する所、広い敷地に西本願寺が建っていた。しかし、満州国崩壊後の共産党と国民党の内戦で焼失し、今はその塀の基礎部分のみが寺跡を物語っているだけだ。現在、西本願寺跡には地球科学学院の学舎が建ち、学生たちが行き交っている。
(2002年記)
建国忠霊廟
人民大街沿いの南端少し手前にある航空大厦の後方、そこに建国忠霊廟がある。現在、空軍が管理する敷地内にあり、ほとんどの者がその存在を知らない。外国人は敷地に入ることは認められていない。最初は金網の破れから住人が出入りしているところを見つけ、入っていたが、特に髪の毛や目の色が違うわけでもないので、堂々と敷地入り口から出入りしてみたところ、写真を何度か撮ることに成功した。
建国忠霊廟は、満州国建国にあたって、亡くなった日本人や中国人の御霊を祭るところであった。満州国版の靖国神社というところだろう。満州国当時、大学生であった一老人の話では、この廟の建設に勤労奉仕させられたとのことである。建国忠霊廟の鎮座祭も、建国神廟に遅れること約2ヶ月、同じ年の康徳7年(昭和15年、1940年)の9月に、鎮座祭が執り行われている。
このとき合祀された人数は「二四、一四一柱の五族の英霊を鎮祭する。」注cと嵯峨井 建は述べている。より具体的には「武藤元帥以下、日本関係者一万九千八百七十七名、朱家訓中将以下満州国関係者四千二百六十四名、合計二万四千百四十一名が祭神として合祀されました。」注dと辻子 実が書いている。その後も毎年、合祀された者が追加されていったのであろうが・・・・。
人民大街沿いから
外国人禁止入内
多くの人員を動員して造られ、多くの者が合祀された廟ではあったが、現在、まったく放置されたままである。その塀の壁に文革のスローガン「高挙毛沢東思想○大紅旗○○○」「戦無不勝的毛沢東思想万歳」をうっすら残しながら。
参道にあたるところであったのであろう、石造の灯明台が今も残る。
(2001年記、2004年一部追記)
注a 「建国神廟と建国忠霊廟」嵯峨井 建 著
『神道宗教』第156号、平成6年9月発行、48頁
注b 同上 27頁
注c 同上 54頁
注d 『侵略神社』辻子 実 著 新幹社2003年9月発行 225頁