中国の教科書上の日清戦争における愛国者左寶貴 

加藤正宏

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 同善堂 救生門

同善堂(奉天市)と左寶貴

付 中国教科書上の左寶貴、承抱養女契約書

加藤正宏

 

 私の手許には最近入手した絵はがきを含め、奉天市同善堂の資料が幾つか集まってきた。先ず紹介するのは、ネットでもよく見かける絵はがきではあるが、直に手に取って見てみると奇妙な絵はがきである。と言っても、当時の満洲國そのものの姿を語っているものだと言えば、それまでなのだが・・・・。宛先や文面記述の面には「郵便はがき」「貼郵票」「満洲國郵政明信片」「右邊寫収信人名姓住址」とある。「満洲國郵政明信片」なのに、「郵便はがき」と併記するところに、この国の姿が見える。その裏面には奉天市同善堂の門前の写真に解説があるが、日本語だけで解説がなされている。解説には「奉天市同善堂 満洲唯一の慈善事業である。五千余坪の地内には孤児。養老。乞食。娼婦。捨児等を収容する。殊に上図(救生門の丸窓)は貧人の捨児受付所にて是を養育する事は世界に類なき事業で必ず一度は観覧する要あり」とある。

 瀋陽滞在時(2004年から07年)に骨董店店主に写真を撮らせてもらった当時のカラー絵はがきと当時の冊子の一頁を紹介しよう。

 冊子には、右上に看護婦を描いた挿絵が、写真の上部には「博愛の殿堂」との記載が見られる。そして左下角には「奉天市民の福利施設として病める者の上に温い手を差のべてゐる同善堂は慈善院、病院共に優秀な設備を有し、この種事業の代表的なものとして知られる。 奉天 」と記す。写真は「DOZENDO HOSUPITAL、 MUKDEN 同善堂」と白抜き文字が見られ、写真の正門上部に「奉天同善堂」、正門の左右の柱には「同善堂病院」「同善堂慈善院」の看板が懸っている。更に左の柱には「奉天同善堂助産士学校」の看板も見られる。ムクデン(MUKDEN )とは当時西洋で奉天のことを指して使われていた言葉である。

 カラー絵はがきの一枚には、正門に満洲国の国旗と日本国の国旗が襷掛けに掲げられている。そして、「MUKUDEN IS ONE OF THE LARAGEST INDUSTRIAL AND COMMERCIAL CITIES IN MANCHOUKUO 〔奉天大観〕孤児、養老、乞食、捨子、娼婦等を収容する。満洲国唯一の慈善事業、奉天同善堂」との文字が記載されている。もう一枚のカラー絵はがきには「MUKUDEN IS ONE OF THE LARAGEST INDUSTRIAL AND COMMERCIAL CITIES IN MANCHOUKUO 〔奉天大観〕世界に類なき美(うるわ)しき慈善事業、同善堂に見る救生門。」と記載があり、救生門入口を撮ったものになっている。

 これらからして、奉天は勿論のこと満洲国でも誇れる施設であり、建物であったことが理解できる。また、日本人もこれを認めていたから、日本文を記す絵はがきや冊子が製作されたのであろう。

 


 同善堂紹介の冊子

 要覧に付された組織図

 同善堂   正門の2国旗

 康徳六年(1939年)に作成された『奉天同善堂要覧』が存在する。発行者は奉天市瀋陽区小西街三段二四一の奉天同善堂である。文は日本文である。

三九頁に、財団法人 奉天同善堂設立、という項目がある。ここにはつぎのように記載されている。

「本堂ハ前清光緒七年左寶貴ノ創立二係リ財団法人ノ実質ヲ以テ慈善事業ヲ経営奉天市同善堂ト称シ来レルカ康徳三年七月一日従来奉天市公署経営ニ係ル市立病院及貧民収容所ヲ本堂ニ併合奉天同善堂ト改称財団法人ヲ設立同月二十三日之カ設定登記ヲ完了ス」

 この頁に先立ち、九頁から十一頁にかけて、以下のように本堂の沿革が紹介されている。

 「清ノ光緒七年五月左寶貴公ハ私財ヲ投シテ、現在ノ堂内ニ天然痘予防疫製造所ヲ創始セラレル、是レ當時省民ノ大半カ天然痘ノ病源地タル山東ヨリノ移民ニシテ、是等ノ来往交通ニ因リテ、其病毒傳播スルニ至リ、天然痘ニ殪ルルモノ枚挙ニ邊アラス、而モ防疫ノ施設見ルベキモノナク、公ハ此ノ悪疫ノ防遏ヲ期センヲ動機トシテ、本堂ヲ開設セラレタルモノナリ。續テ育嬰所養老所ヲ開設シテ如上天然痘ノ豫防、嬰児ノ保護、貧民救済等ノ社会事業ニ貢献セラルルニ至ル、是レ本堂ノ濫觴ナリ。同二十三年時ノ将軍依公ノ称讃セラルル所トナリ、萬善同帰ノ意義ヲ以テ本堂ヲ同善堂ト総称ス。

爾来施医所、幼稚園、小学校、女子実業学校、救養学校、医科専門学校ヲ設立シ亦接生(産婆)伝習所、ヲ置キ通信機関トシテハ民報社等ヲ設ケ更ニ木工、印刷、毛氈、裁縫、毛布、紙匣製作ノ教養工廠ヲ設置シ、収容者ニ対スル普通教育ハ勿論授産授業ノ教養ニ努メ、亦省会警察庁主管ノ済良所ヲ本堂ニ併合シ、其他康熙初年江蘇浙江両省出身在奉有志ノ創立ニ係ル小東関所在珠林寺ノ移管ヲ受ケ、霊柩ノ保管ヲ為シ且ツ供養法会ヲ営ム。

本堂ハ左寶貴公ノ私財ヲ以テ開設セラレ、爾後公ノ徳望ニ依リ蓄積セラレ民国初年ニ於テハ既ニ基本財産トシテ二百萬圓ヲ有シ、其ノ果実ヲ以テ事業経営ノ資ニ充當シ自給自足他ニ類例ナキ好条件ヲ具備ス。

然ルニ公陣没後ハ、旧東北軍閥ノ支配ニ移リ幾許ナクシテ、基本財産ノ大部分ハ彼レ軍閥ニ壟断セラレ事業漸ヲ追フテ逆境ニ陥リ、為メニ医学専門及ヒ女子実業ノ両学校ヲ始メ民報社、毛布、綿布ノ教養工廠ハ閉鎖ノ止ムナキニ至リ満洲事変直前ニ於テハ非常ナル困憊ヲ来シ、僅ニ育児養老ノ消極的救済ヲ継続シ居リタルニ過キサルノ悲境ニアリシカ、満洲事変直後時ノ関東軍司令官本庄閣下ハ、板垣参謀長ヲ伴ハレ本堂ヲ巡視左寶貴公ノ事跡ニ御賛同特ニ授産助成金トシテ多額ノ寄付ヲ申出ラレ尚基本財産ノ管理経営方法ニ関シ御理解深キ御指導ヲ賜ハリ本堂財産ノ管理ハ、一時奉天市公署ニ移サレタルカ、康徳三年七月一日市制発布ト同時ニ市公署ヨリ移管引継ヲ受ケタル基本財産九十萬圓ヲ以テ財団法人トシテ独立シ、従来ノ従来ノ奉天市経営ニ係ル市立病院及貧民収容所ヲ本堂ニ併合シ奉天同善堂ト改称セリ。亦之ト同時ニ組織ヲ改メ総務慈善病院ノ三部ニ分チ育児、幼児、幼稚園ノ三所ヲ保育所ト育児ホームニ養老、残廃ノ二所ヲ養老所救護所ニ貧民工廠ヲ授業所、貧民収容所ヲ職業補導所ト改メ病院ニ施医所ヲ併合済良救産ノ二所ハ従来ノ儘トス。

本堂ハ六十年ノ歴史ヲ有シ其ノ間幾多ノ変遷ヲ辿リ来レルカ康徳三年七月一日財団法人ニ改組セラレ以テ劃期的ノ一大革正ヲ見タルモノトス。」

また、経営については次のように記す。

「創始者左寶貴公ノ遺徳ニ依リ約二百萬圓ノ基本財産ヲ所有シ之レカ果実ヲ以テ自給自足シ事業モ愈々順調ニ進ミツツアリシカ、偶々旧東北軍閥跋扈ノ禍ヲ受ケ基本財産ノ大半ハ彼等ニ壟断セラレ経営困難ニ陥リ自滅ノ運命ニアリシ折柄、本庄閣下ノ御支援ヲ蒙ムリ漸ク更生ノ緒ニツキ財源ノ確立、業務ノ刷新改善ニ一新紀元ヲ為シ新ニ五ケ年計劃ノ下ニ旧軍閥ニ禍セラレタル基本財産ノ調整回収ニ着手シ、各方面ノ御理解深キ御指導ニ依リ改租後二箇年半ニシテ百十餘萬圓ヲ回収シ基本財産二百萬圓ニ復活スルニ至リ、本堂ノ基礎漸ク堅固不動ノモノト為リ病院ヲ増設シ診療機関ヲ充実シ、授産授業ニ積極的拡張ヲ図リ、育児方法ノ改善ヲ期シツツアルカ、更ニ躍進満洲國ノ情勢ニ順応スヘク一大拡張ヲ要シ其ノ使命重旦大ナルヲ痛感シ、日夜研究努力中ナルモ加之各位諸賢ノ御指導御鞭撻ヲ希ヒ世界的社会事業トシテノ使命ニ邁進シ最終ノ美果ヲ修メテ、左寶貴公ノ遺志ヲ遂行センコトヲ期ス。」

 

 ここには、創始者の左寶貴公を称え、その遺志を遂行すると表向きに表示しているが、関東軍(本庄閣下の・・・・)即日本の支援などにより、中国の軍閥の壟断下で経営困難になっていた同善堂を建て直したことが述べられている。そして、その建て直しは満洲國躍進に順応させて行われているということである。

 日本文が主たる同善堂の絵はがきがいろいろ発行されたり、このような日本文の『奉天同善堂要覧』が印行されたりしているのは、ここにその要因があるのであろう。

この『奉天同善堂要覧』が印行された康徳六年以降はどうなっていったのであろうか。中国のネットから少し引用してみよう。下記ネットには参考になる写真が豊富であり、またそれらの解説も適切である。参考にされたい。

编辑/ 瑞雪烹梅 ネットにリンク

 

 同善堂,是沈阳最大、历史比较悠久的慈善团体。清光绪八年(1882年),常驻奉天的爱国将领、盛京总兵左宝贵,鉴于太子河、浑河泛滥成灾,贫民百姓流离失所,传染病流行,先后在省城内创设了牛痘局、惜字局、义学馆、栖留所、育婴堂、施粥厂等慈善机构,是为“奉天同善堂”的雏形。

 

 清光绪二十二年(1896年),即左宝贵在中日甲午战争中牺牲后二年,当时的盛京将军依克唐阿,将左宝贵创办的各慈善事业汇总,咨部立案,划归奉天督军公署管辖,并取“万善同归”之意,定名为“同善堂”。堂址设于省城怀远关外高台庙胡同(今沈阳市红十字会医院住院处)。从此,它依靠自有土地房屋、商号庙产、利用地租及军界财团资助、群众捐助,得以不断地扩充和发展。

 

 日本帝国主义者侵占沈阳后,打着“亲善”的幌子,企图利用左宝贵的声望来笼络人心,确保他们的殖民统治,在日本金泽市铸就一尊左宝贵铜像,于1940年派专人“涉海跨洋”运到奉天同善堂,并举行了“隆重”的“揭幕式”。但事过不久,日本帝国主义发动了太平洋战争,又把他们亲手竖起的铜像搬倒、熔化作了炮弹,彻底暴露了日本侵略者的真面目。

 

1945年“九·三”胜利后,国民党接收了同善堂(1947年9月改名为沈阳市救济院)。1948年11月2日,沈阳解放后,“沈阳市救济院”出人民政府接管,于1949年初改为“沈阳市生产教养院(隶属市民政局)”。1957年,同善堂的主要部分由市卫生局接管,改为医院,即沈阳市红十字会医院。

 このネットの情報によれば、日本は左寶貴の声望を利用し人心を籠絡しようとして、1940年には「親善」という名目の下に日本の金沢でわざわざ鋳造し取り寄せた左寶貴の銅像の除幕式を盛大に執り行ったが、太平洋戦争が始まると自分たちで建てておきながら、取り壊し鋳つぶして砲弾にしてしまったという。

 1945年の日本の敗戦後には、国民党が同善堂を摂取し、1947年には瀋陽市救済医院となっていたが、1948年末には現中国人民政府が瀋陽を支配しその管理下に置かれ、49年には瀋陽市生産教養院(市民政局管轄下)となり、57年にはその主要部分は市衛生局の管轄下に置かれ、医院となった。つまり、現在の瀋陽市紅十字会医院がそれにあたる。

 現在の瀋陽市紅十字会医院 董煥芳さん提供

 瀋陽薬科大学で私の学生だった董煥芳さんが今も瀋陽に在住するので、同善堂に縁のある物が何かがないか、瀋陽市紅十字会医院に出向き写真を撮ってもらうよう依頼してみたところ、董さんは以下のような返事と共に、現在の瀋陽市紅十字会医院の写真を送って来てくれた。

「先週の土曜日に瀋陽紅十字会医院に行きました。でも、その病院は もう普通の病院になりました。古い建物が 一つも残っていませんでした。職員さんに聞いたのですが、『十年前、もう 取り壊しました』との答えでした。

 病院の庭にちょっと出て探しました。でも、ほんとに何も残っていません。病院の歴史などを紹介する看板もありません。」

残念なことである。私自身、10年前の2004年には瀋陽薬科大学に赴任しているのだが、9月からで、多分その時期には取り壊されていたのではないかと思う。バスで紅十字会医院前を何度も通っているが、既に近代的な建物であったように思う。

 

今回の同善堂に絡めて、中国の中学や高等学校の歴史教科書上の左寶貴についての記述を紹介と、同善堂の済良所に絡めて、承抱養女契約書の一例を紹介しておく。

 

付1 

中学や高等学校の歴史教科書上の左寶貴

 

 上記『奉天同善堂要覧』には、巻頭に9頁に亘って「本堂創始者左寶貴ノ略歴」が記述されている(このHPでは紹介は省かせてもらった)。その左寶貴について現中国の歴史教科書にどのように記述されてきたかを、筆者の修士論文『中華人民共和国における愛国主義教育の変遷』(1994年度兵庫教育大学修士論文―95年3月)から転載し付記した。90年代までの入手できた歴史教科書の記述を全て取り上げているが、参考として見て頂きたい。内容は日清戦争における愛国者左寶貴である。なお、内容が同じであったり、似通ったりしているので、適当に飛ばして読んでいただければと考える。すべて筆者の拙訳による。

***加藤正宏の中国で収集した教科書の表にリンク***

 

A 高級中学 本国近代史 上冊 編著・宋雲彬 人民教育出版社

1949年三連書店原版 52年修訂原版53年印刷

「 9月15日、日本軍第一軍が大将山県有朋の指揮下、平壌に総攻撃した。日本軍は北門要塞を攻撃し、左寶貴自ら督戦し、壮烈にも犠牲となった。葉志超は当日の夜、諸軍を率いて城を棄てて逃げ出し、・・・」

 

B 高級中学課本 本国近代史 上冊 編著・宋雲彬 人民教育出版社

1953年一版 54年3版57年印刷

「 9月14日、日本軍の先頭部隊が郊外に達したので、葉志超は城を棄てて逃走しようと想った。左寶貴は堅く抵抗を決意し、彼は親兵を派遣して葉志超を監視させ、彼が逃げるのを許さず、自ら部隊を伴い北の玄武門山頂を守った。次の日、日本軍は回り道して北門を攻め、左寶貴は自ら作戦を指揮し、敵に厳重な殺傷を与えた。敵は横並びの砲を用いて砲撃したので、左寶貴は砲弾にあたり陣没し、玄武門の守りは失われた。」

 

C 高級中学課本 中国歴史(高級中学三年級第一学期適用)人民教育出版社

蘇壽桐、王仁忱、沈鏡如、孫守仁編 1957版57年印刷

「清軍の統帥と将領は城を棄てて逃走しようと想った。しかし、聡兵左寶貴は城を守ることを堅持し、更に親兵を派遣して統帥を監視させ、彼の逃走を防止した。左寶貴は部下を率いて北城の玄武門山頂の要衝を守った。日本軍は大軍を用いて猛攻したが、左寶貴は城の上で指揮をとり、大変多くの敵を殺傷した。日本軍は横並びの砲を用いて砲撃し、左寶貴は勇敢にも犠牲となった。平壌は陥落した。」

 

五年制中学課本 歴史 一年級第二学期 上海教育出版社 華東師範大学編 上海中学歴史課程革新委員会審訂 1960年版60年印刷

記述なし

 

初級中学課本 第三冊

人民教育出版社編集出版 一九六〇年5版63年印刷

「9月、日本軍は平壌城外の要塞を侵略し占領した。朝鮮を援助する清軍は左寶貴の統率下で、平壌の玄武門を堅く守り、日本侵略軍に重い打撃を与えた。支援を得られぬことから、彼らは最後には壮烈にも犠牲となった。日本軍は平壌を占領した。」

 

F 中国人民解放軍空軍中学課本 中国歴史 第二分冊

1964年版64年印刷 中国人民解放軍空軍条例教材編審小組編

中国人民解放軍空軍政治部

「聡兵左寶貴は城を守ることを堅持し、更に親兵を派遣して葉志超を監視させた。9月15日、日本軍が大軍を用いて猛攻するのに、左寶貴は城頭に登り指揮をとり、力戦して陣没した。左寶貴が亡くなるや、葉志超は直ぐに撤兵の命令を下し、部隊を率いて五百余里を狂奔し、21日に鴨緑江を過ぎ、中国国内に退却していった。」

 

G 上海市農村初級中学課本 中国歴史 第一冊 上海教育出版社編集出版

1963年一版 1965年三版65年印刷

「9月、日本軍は平壌に進攻した。清将左寶貴は部下の六個営を率い、玄武門の要衝を守り、敵に少なからぬ殺傷を与えて後、砲弾にあたり犠牲となった。しかし、この方面の軍事聡指揮の葉志超と大将の衛汝貴等は城を棄てて逃走し、一気に五百里強の路を駆けて行った。清軍は朝鮮領域内での戦争に完全に失敗した。」

 

H 上海市中学毛沢東思想教育学習教材 中国古代近代階級闘争史(二年級用)

上海中小学教材編写組 1970年版70年印刷

記述なし

 

I 山東省中学試用課本 歴史(中国古代、近代史)

山東省中小学教材編選組編 1970年版70年印刷

記述なし

 

J 歴史(中国古代、近代史) 吉林省中小学教材編選組編 吉林人民出版社

1972年72年印刷

記述なし

 

K 全日制十年制学校初中課本 試用本 中国歴史 第三冊 人民教育出版社

中小学通用教材歴史編写組編 1979年二版80年印刷

「9月15日、日本の侵略軍は大軍を用いて平壌を猛攻した。平壌は朝鮮の歴史的名城で、形勢は堅固であった。清軍の統帥葉志超は平壌に駐屯し守備についていたが、戦争の準備をせず、なんと城を棄てて逃走することを想っていた。聡兵左寶貴は抵抗を堅持し、自ら北城の玄武門城頭に登って清軍の指揮をとり、日本軍の進攻してくるのに抗い戦った。彼は更に親兵を派遣して葉志超を監視させ、彼の逃走を防止した。激烈な戦闘の中で、左寶貴は清軍を指揮し、沢山の敵を殺傷し、砲手が陣没すると、彼自らが大砲を放ち敵を砲撃し、身体に傷を受けたところも多かったが、なおも傷を包んで敵を迎え、最後には砲弾に当たり、壮烈にも犠牲となった。葉志超は生を貪り死を恐れ、平壌を放棄して後、五百里強を狂奔し、鴨緑江を渡り、中国国内に退却して行った。」

 

 

L 初級中学課本 中国歴史 第三冊 編者胡文彦 審訂者蘇寿桐

人民教育出版社 1981年版85年印刷

K教科書の内容と同じ

 

M 職工業余中等学校初中課本 歴史常識 上海工農教材編写組編

上海教育出版社 1983年版83年印刷

「平壌は朝鮮の歴史的名城で、形勢は堅固であった。清軍2万人がここに集まり、葉志超に聡指揮を任せた。9月15日、日本軍は平壌に進攻したが、聡兵左寶貴が清軍の指揮をとり、北城の玄武門を堅く守り、勇気を奮い敵に抗い、日本の侵略軍に重大な殺傷を与え、最後には左寶貴も砲弾にあたり、壮烈にも犠牲となった。」

 

N 職工業余中等学校高中課本 歴史 上海工農教材編写組編

上海教育出版社 1983年版84年印刷

「9月15日、日本軍は大軍を集結し、平壌を猛攻した。聡兵左寶貴が北城の玄武門城頭に登って清軍の指揮をとり、力戦して陣没した。葉志超は李鴻章の抵抗しないという命令を執行し、平壌を放棄した。」

 

O 小学教師進修中等師範《史地》教材 歴史 陝西人民出版社

北京、陝西、河南、甘粛、内蒙古《史地》教材編写組

1985年版65年印刷

「9月15日、日本軍四万は平壌に猛攻したので、清軍統帥葉志超は城を棄てて五百里を狂奔し、中国国内に退き帰ってきた。聡兵左寶貴は北城の玄武門で部隊を率いて力戦し、勇敢にも犠牲となった。」

 

P 職業高級中学課本(試用課本) 中国歴史 全冊

編者臧嶸、王宏志、李隆庚 審訂者蘇寿桐

人民教育出版社 1985年版86年印刷

「9月、日本軍は平壌に進攻した。清軍の聡兵左寶貴が勇気を奮い敵と戦い、壮烈にも犠牲となった。清軍統帥葉志超は敵を恐れ戦いに怯え、慌てふためいて生命の危険から逃れた。」

 

職工業余中等学校高中課本(試用課本) 中国歴史 全一冊(文科適用)

編者臧嶸、王宏志、胡文彦、李隆庚 審訂者蘇寿桐

人民教育出版社 1985年版86年印刷

「9月15日、日本軍は平壌に猛攻した。清軍統帥葉志超は城を棄てて逃走することを企図していた。聡兵で回族人の抵抗を堅持し、親兵を派遣して葉志超を監視させ、彼の逃走を防止し、また自ら北城の玄武門城頭に登って、清軍の指揮をとり、日本軍に抗い戦った。激戦中、清軍は沢山の敵を殺傷し、砲手が陣没すると、左寶貴自らが大砲を放ち、身体に傷を受けたところも多かったが、なおも戦闘を継続し、最後には壮烈にも犠牲となった。生を貪り死を恐れる葉志超は平壌を放棄し、中国国内に逃げ帰った。」

R 幼児師範学校課本(試用課本) 中国歴史 全一冊

編者李隆庚、臧嶸、王宏志、胡文彦、邢克斌 審訂者蘇寿桐

人民教育出版社 1986年版87年印刷

「9月15日、日本軍は平壌に進攻した。清軍の聡兵左寶貴は勇敢に奮戦し、壮烈に犠牲となった。朝鮮での清軍統帥葉志超は敵を恐れ戦いに怯え、慌てふためいて国内に逃げ帰った。」

 

S 中等師範学校課本 中国歴史 全一冊

編者胡文彦、臧嶸、王宏志、邢克斌、李隆庚 審訂者蘇寿桐

人民教育出版社 1986年版87年印刷

「9月15日、日本軍は四路に分けて平壌を猛攻した。清軍聡兵左寶貴は自ら北城の城を棄てて逃葉志超玄武門城楼に登って、作戦を指揮したが、砲弾にあたり犠牲となった。清軍統帥葉志超は生を貪り死を恐れ、慌てふためいて北に逃げた。」

 

T 初級中学課本 中国歴史 第二冊 清絵張路紅

編者王宏志、邢克斌 審訂蘇寿桐 歴史地図編者王剣英

人民教育出版社 1987年版87年印刷

「9月中旬、日本の侵略軍は平壌に猛攻した。清軍統帥葉志超は平壌に駐屯し守備についていたが、戦争の準備をせず、城を棄て逃走することを想っていた。聡兵左寶貴(回族)は抵抗を堅持し、自ら北城の玄武門城頭に登って清軍の指揮をとり、日本軍の進攻してくるのに抗い戦った。彼は更に大砲を放ち敵を砲撃し、身体に傷を受けたところも多かったが、なおも傷を包んで継続して敵を迎え、最後に砲弾にあたり、勇敢にも犠牲となった。葉志超は生を貪り死を恐れ、平壌を放棄、五百里強を狂奔し、中国国内に退却して入った。」

 

U 高級中学課本 中国近現代歴史講座(必修)人民教育出版社歴史室編

著者彭明 責任編集李隆庚、李偉科 挿絵・図李恵喬、孫平等

人民教育出版社 1990年版91年印刷

記述なし

 

V 義務教育三年制四年制初級中学教科書 中国歴史 第三冊

主編王宏志、李隆庚 責任編集馬執斌 審閲丁名楠、陳梧桐

人民教育出版社歴史室編 人民教育出版社 1992年版92年印刷

「日本軍は平壌を包囲し攻撃した。清軍の回族将領左寶貴は兵を率いて奮戦し、砲弾にあたり犠牲となった。清軍統帥葉志超は城を棄て逃走し、平壌は陥落した。」、

「日本軍先鋒が平壌に迫ると、葉志超は城を棄てて逃走することを主張した。左寶貴は堅く決意し敵に抗うことを主張し、平壌城と存亡を共にすることを誓った。日本軍が平壌城に総攻撃を発動したとき、 左寶貴は病をおして玄武門城楼上で指揮した。清軍は沢山の日本軍を殺した。日本軍が潮水と同じように湧いてきた時、“勢いが既に瓦解していることぉ知り、必ずしぬことを志した”彼は自ら大砲に点火し日本軍を砲撃した。紅纓帽を取り黄馬褂を脱ぎ、敵の注意をひきおこすことを免れるようにと、部下が勧めた。左寶貴は動揺することなく言った:我が朝廷の服を着ているのは、士卒に、我ここに在りと知らしめようと想ってであり、そのことによって、彼らは最後まで敵と血戦ができる、と。全軍の将士は鼓舞され、勇敢に敵を殺した。激烈な戦闘は黎明から午後まで戦われ、左寶貴は壮烈にも犠牲となった。」

「甲午戦争中に左寶貴が慷慨し述べた詞:『敵軍隊を深入りさせ、正に奇襲で痛撃するのが良い、その船を返さず、再び中原を、良く正視せず、・・・(省略)・・・もし戦わずして退けば、如何に朝鮮に顔向けできようか、如何に国に報えようか』」

「左寶貴(1837年―1894年)山東費県人で、貧苦の回族の農民の過程に出生した。彼は勇敢に戦い、軍を治めるのは厳格、明快で、少しずつ昇任し聡兵となった。彼は甲午中日戦争中の民族英雄であり、また国のために身を捧げた最初の将領である。」

 

W 高級中学課本 中国近現代史 上冊(必修)人民教育出版社歴史室編

編著者王宏志、胡文彦、李隆庚、馬執斌、史明迅、邢克斌、李偉科

主編王宏志、李隆庚 責任編集馬執斌

人民教育出版社 1992年版93年印刷

「1894年秋、日本軍は四路に分けて平壌を包囲攻撃した。清軍の将領馬玉昆は将士を指揮し、血を浴びて敵を殺し、多くの敵を殺傷した。清軍の回族の将領左寶貴は自ら玄武門城頭に臨み、作戦を指揮したが、不幸のも砲弾にあたり犠牲となった。清軍統帥葉志超は城を棄てて逃走し、鴨緑江北岸に退いた。日本軍は平壌を占領した。」

 

X 九年制義務教育課本 歴史(試用本) 八年級第一学期

上海中小学課程教材改革委員会 上海教育出版 1992年版93年印刷

「日本軍は平壌を包囲攻撃した。平壌の清軍は2万も居て、人数は日本軍よりも多かったが、しかし、統帥葉志超は生を貪り死を恐れ、城を棄てて逃走しようと想っていた。聡兵左寶貴は許可しないことを堅持し、彼は自ら玄武門に登って、砲に点火したが、不幸にも砲弾にあたり陣没した。葉志超は部隊を率い500里を狂奔し、国境に退却して入った。」

「平壌戦役の清軍将領中、陣没したのは只左寶貴一人が居るだけである。」

 


付2 

承抱養女契約書

 右上より、下へ

次いで、

左上より

下へ

各一頁内

文面は

縦書きで、

右より左に

読み進む。

 同善堂には済良所と言うのが設けられていた。『奉天同善堂要覧』には次のように記載されている。

「済良所ハ芸酌婦ガ抱主ノ虐待ニ耐エ兼ネ或ハ家庭ノ不和又ハ夫婦喧嘩ノ結果本堂ニ保護ヲ求メ来レル者ヲ収容ス・・・(省略)・・・」

 ここに記述されている芸酌婦にからみ、都市は異なるが、売り飛ばされて芸酌婦になる少女についての生の契約書を入手しているので、ご紹介しておく。12歳の少女を二千五百円で抱主と本人及び生母が契約している。時期は康徳10年(1943年)、場所は満洲國の首都新京市での契約である。期間は10年、未成年の6年間は養父母に扶養され、成年になる18歳から4年間酌婦として営業に就き、6年間の扶養費とその営業期間に生じた経費などの償還が明記されている。満期の10年後に、これら借款の償還が完了していれば、抱主は束縛できないとあるが、4年では償還ができない仕組みになっていたのではなかろうか。この契約主であった少女はどうなったのであろうか。同善堂はこれら女性の駆け込み寺としての役割を果たすこともあったのであろうか。

写真は倍率%を200,400にされると十分読める・・・。