13長春の公安警察にて

山形 達也・加藤 正宏

はじめに

山形 達也

 私は中国に滞在中の2005年10月の国慶節の休暇に、同じ瀋陽薬科大学で日本語教師の加藤正宏先生に誘われて長春市を訪れた。私にとってはこれが最初で最後の長春訪問となった。

 以下に記すのは滞在二日目に起こった出来事である。この事件の翌日には体調を崩して瀋陽に戻った私は、いつものように自分のブログに事の顛末を書いて載せたのだった。しかし、それを読んだ中国の親しい友人たちにこのまま残しておくとヤバイと言われて、すぐに消去してしまった。

 消してしまったはずのブログだったが、加藤先生がこれをコピーして保存しておられたので、十五年たった今、それを目にすることになった。

 2005年10月の長春訪問に際しての出来事は私にとっては恐ろしい体験だったが、再読してみたところ、私にも加藤先生にも、案内してくださった張さんにも、そしてその時の人民軍関係者、公安警察の当事者にとっても、格別まずいことはないように思われる。

 最近、インターネットで読めるBPressに『戦後75年・蘇る満洲国(4)新京、満洲国の首都を歩く 【写真特集】消滅国家、満洲国の痕跡を求めて』という記事が載ったことでもあり、昔の事件だが瀋陽日本人教師同窓会のWebsiteに載せることにした。

 中国に滞在された間に同じような体験をされた方々に、それらを思い出してこのWebsiteに書いて頂くきっかけになることを期待している。

 第一部は、私の体験記。第二部は同じくその直後に書かれた加藤先生の手記である。


第一部      公安警察にて    山形 達也

 

その1

 

   私と加藤さんの二人は長春市の公安警察に引き立てられて5時間余を過ごすという、恐らく又とない経験をした

  

   加藤さんは以前は高校の歴史の教師で、特に中国現代史に造詣が深い。長春は戦前まで満州的帝国の首都だったところだ。日本の敗戦後、主権が中華人民共和国に移ってからは、満州帝国は偽満と呼ばれている。その偽満時代は新京と命名されたこの首都には、国家の顔として恥ずかしくないよう日本が国家の持つ財力と技術を挙げて一大景観の都市を作り上げた。その建物が今でも殆ど残されて、今も使われている。

  

    加藤さんは数年前に長春に2年間滞在して吉林大学で日本語教師をしていたころは、毎日街を探訪して歩いたという。加藤さんにとって満州国の首都だった長春はこの上ない研究の宝庫なのだ。私にも見せたくて堪らない気持ちもあるのだろう。国慶節の休暇を利用して長春を見に行きませんかと加藤さんに誘われて、ちょうど10月4日に妻が用事で日本に行ってしまい一人で残される私は、加藤さんの誘いは渡りに舟だった。  

 長春には10月5日に汽車に4時間乗って到着し、その日は加藤さんの友人に会って一日を過ごした。翌6日は、加藤さんの別の友人である張さんが一緒に街を案内してくれるという。(写真は今も長春市に残る新京時代のマンホールの蓋。加藤正宏の「中国史跡通信」よりhttps://sites.google.com/site/masakato75/changchun/cc05)


 この張さんは加藤さんが以前長春で古物商巡りをしているときにたまたま出合って以来朋友となったそうだ。6日の朝、以前は児玉源太郎元帥にちなんで児玉公園と呼ばれ、現在は勝利公園と呼ばれているところでこの張さんに会った。現在78歳の張さんは、実際に会ってみるとその元気さには目を見張る。耳こそ少し遠くなって補聴器の助けを借りているけれど、歩き方、話し方は若者と遜色ない。おまけに話す言葉は明確な日本語なのだ。

 

 話を聞くと以前一時期旅行社にいたことがあったという。日本語が達者なことから日本人の旅行のガイドをしていたこともあって長春の街の歴史に詳しく、今回も会って一緒に歩いて案内して欲しいと加藤さんがあらかじめ頼んだのだった。

 

 この日は長春の街の北の方をだいぶ歩いて、午後の4時過ぎには駅前に近い幼稚園を訪ねたあと、その直ぐ西には独立守備隊がいた西大営の跡があるのでそれを見ましょうかと言うことになった。今は中国の軍の施設になっているという。(写真は香港にある中国人民解放軍の基地「新圍軍營」で、本文とは関係ありません。写真はhttps://m5hk.com/archives/6543から)

 

 行ってみると塀に囲まれ広壮な門の左側には銃を抱えた衛兵が、そして右には旗を持った衛兵が直立不動で立っている。塀には「軍事処につき機密を守ること、ここで車を停めてはいけない」というようなことが書いてある。もちろん写真を撮ってもいけないはずだが、張さんが「写真が撮れるかどうか訊いてみます。」と言って門の横にある衛兵詰め所に行った。

  

 その間、門越しに中を見ると中は広い広場で三方が建物に囲まれているだけで何もない。こうやって見ていても何も機密が見えるとは思えない。やがて張さんが戻ってきて言うには、「ここでは駄目ですが、路を渡ったあちらの角からなら写真を撮っても良いと言っています。」

  

 この軍施設の前の路はさして広くなく直ぐに渡りきって、加藤さんと二人それぞれに門を斜めに見ながらデジカメを構えた。門の両側にいる二人の衛兵のうちの左側の衛兵が見えていた。写真を1枚撮って、さてこの後はどうしようかと言いながら、目を上げるとこちらを目指して衛兵が歩いてくる。右側にいた衛兵のようだ。旗を振ってこちらを指し、こちらに来いという身振りをしながら近づいてくる。そして鋭くなにやら言っている。

  

 ここで写真を撮ってはいけない、とでも言っているのだろう、それに答えて張さんは、おそらくあそこで許可を貰ったのだと弁明している。しかしそれでは済まなかった。

 

「ちょっと来いと言っていますから行ってきますね。何でもないですよ。」と言って先ほどの左側の衛兵詰め所に向かった。私たち二人はどうしたものかとその衛兵を見ていると、「来!」という。

  

 また路を渡って詰め所まで近づいたが、私たち二人にはそこで待てという身振りだった。張さんは中に連れて行かれたが、彼の声が聞こえてくる。張さんは補聴器を付け始めたのはごく最近だそうで、耳の遠い人に特有の症状である大声で話す。開いた窓越しに聞こえる声を聞いた加藤さんの翻訳によると、「張さんは、あらかじめ訊いた門衛所で写真を撮って良いと言われたから、あの二人は写真を撮ったのだ。何が悪いのか納得できない。」と言い続けているらしい。

  

 10分くらいして左の門衛詰め所から張さんが出てきたが衛兵も一緒である。張さんは私たちの方を向いて右手を挙げて「ちょっと待っていて下さいよ。直ぐですからね。」と大声で言いながら今度は右手の詰め所に連れて行かれた。広場の奥からは立派な軍服を着た人たちが次々と詰め所にやってくる。今度は窓が開いていないので中の声は聞こえないが、窓越しに張さんが数人を相手に喋りまくっているらしい様子が見て取れる。私たちは相変わらず門の外の歩道に立ったままである。

 

2005/10/09 10:35

 

 その2

 私たちが最初に衛兵に呼び止められて25分くらい経った頃、詰め所から張さんが出てきたが、3人の軍人付きだった。張さんと中国語で言葉を交わした加藤さんによると、近くに公安警察の派出所があるので、公安に行って話を続けるという。軍人の一人は一本筋の上に星が三つの金色の肩章を肩に載せ、一人は筋一本と星が二つである。後の一人は筋一本だけだった。挙動から推測すると筋一本に星三つの肩章が上の階級らしい(あとで上尉、日本でいうと大尉相当とわかった)。この三人と一緒に5分くらい歩くと「西三条公安派出所」というのがあって、私たちは中に入るよう指示された。

  

 入ったところは狭いながらもホールになっていて目の前には値班室と書いた大きな受付窓口を持った部屋があり、加藤さんと私はこのホールの椅子に座るように言われた。前の値班室には数人の警察官がいたが、のんびりと夕方の食事休憩をしているように見えた。

  

 この派出所の扉が閉まると外からは外光が一切入ってこない。私たちは薄暗いホールに残され、一方で張さんは中の別の部屋に連れて行かれた。

  

 30分くらいすると公安警察の黒い制服を着て肩に星一つの肩章を載せた警官が私たちの前に来た。中国語が話せるかと訊いてから「是」と返事した加藤さんに向けてひとしきり喋った。加藤さんの解説してもらうと、「張さんは、許可を得て写真を撮った以上、あの二人は悪いことをしていない。それを罪に問うのは間違っている、と言い続けている。しかし、軍としてはこうやって一旦問題にしたのだから、後には引けないだろう。公安の見るところでは、撮った写真のフィルムを差し出せば、解決するのではないだろうか?」ということらしい。

  

 公安警察の人は、張さんと軍の間に立って、「私たちの撮った中から問題の写真を消せば済むことだ」と言う。私たちもそう思う。機密に属するとされる軍の写真が欲しいわけではない。デジカメの1枚を消せば済むことだ。加藤さんはそのようにこの警官に話してから、さらには奥の方で大声を上げ続けている張さんにも言おうとして、奥に行って「張さん。張さん。」と呼びかけたが張さんは興奮して加藤さんを全く受け付けない。加藤さんは張さんに何度か話そうとしたけれど全く聞いて貰えず、張さんは軍人に向かって主張を繰り返しているようである。

  

 私たちは、入って正面にある写真撮影室と書いた看板を見ながら、後でここに入れられて写真を撮られるのだろうか、そしてその先どうなるのだろうかと不安な気持ちのまま、この公安の堅い椅子に座っていた。私たちは逮捕されてはいないが、肩に一本線の入った金章を乗せた軍人一人に見張られている。

  

 公安警察派出所に来て1時間近く経った頃、張さんは軍人、公安警察官と一緒に出てきて外に行こうとする。「えっ。」とうろたえると、私たちにも付いてくるようにと、見張りをしていた軍人のひとりが身振りで伝えた。加藤さんが彼らに話しかけて分かったところによると、公安警察の本部に行くのだという。  

 本部と聞いて不安が増してくる。しかし小型ワゴン車に載せられて公安警察本部に向かう途中の加藤さんは嬉しそうだ。加藤さんによると戦前は大同広場と呼ばれ、今は人民広場と呼ばれる広場に面して公安警察本部があるが、これは戦前も首都警察庁の建物だったという。歴史研究家の加藤さんとしてはこの建物にも入ってみたかったけれど、以前は入り口の衛兵に追い払われ、この公安警察本部の建物は加藤さんにと、ては垂涎の建物だったのである。(写真は旧・満州首都警察庁で、現・長春市公安局・長春市国家安全局である。本文に書いた通り、加藤さんはこの事件でやっと中に入ることが出来た。写真はネットから入手)

 もう時間は6時過ぎで外は暗くなっている。国慶節の休暇と言うこともあってこの公安本部も勤務時間外らしく窓からは明かりが漏れてこない。開けられた自動門扉を通って車を正面玄関に乗り付けて、私たちは中に誘導された。しかし、車寄せの玄関ドアの先の二つ目のドアを入ったところの大きなホールまでだった。ここの造りは日本の古い官庁の建物と大変よく似ている。

 右手の受付で張さんの要求に基づいて、中にいた警官が電話をかけ始めた。派出所から一緒に来た公安の幹部警官も中に入っている。窓口のこちら側には張さんと軍人が立っている。私たちは玄関ホールに残されたまま、内部を眺めていた。正面には飾りの付いた手すりに囲まれて二階への大理石の階段がある。(写真は1936年(昭和11年)に完成した旧・満州国務院で施工は大林組。現・吉林大学の一部となっている。国務院は首相官邸、各省庁の集まった行政組織の建物で、その階段の手摺に立つのは加藤先生。手摺についているのは満州国紋章 https://sites.google.com/site/masakato75/changchun/cc05)

 まだ行ったことはないので写真で見ただけだが、昔の国務院の階段の大理石の手すりの飾りと似た感じである。外に面している窓ガラスには四つ目格子の飾りが付いていて、中国的な印象だ。

 日本が造ったものでも中国にある満州国のものだという意識だったのだろう。写真を撮りたい。この建物の内部の写真は今では残っていないだろうし、現在日本人は入れないから今の写真もないはずだ。しかし、軍の機密を撮ったと言ってこうなっているのに、ここで公安警察内部の写真を撮ったら、今度こそ釈明の余地はないだろう。(写真は関東軍司令官官邸内部階段。撮影は加藤正宏)

 警官は電話を掛けていたが相手に通じないみたいだった。状況は分からないが、張さんが友人の吉林省の幹部に連絡すると言っていたらしい。なお、この長春は吉林省の省都である。

   私たちはまた小型ワゴンに乗せられて先ほどの公安派出所に戻った。この公安本部のある人民広場は駅からまっすぐ南に延びる人民大街(満州国時代の中央通り)にあって、私たちは往き帰りを、現在でも街の目抜き通りであるこの人民大街を車で通っている。夜になっていてネオンが輝いて街並みが美しい。車の動きに合わせて、隣の加藤さんが解説してくれるので、労せずして長春の夜景を観光している気分である。2005/10/09 10:36

その3

  派出所に戻って中に入って15分もしないうちに、私たちは派出所に新たにやってきた20人乗りのマイクロバスに案内された。運転手は兵隊のように見える。車は派出所から西の方角に行ったので、はじめは先ほどの問題の発端の軍施設に連れて行かれるのかと思ったが、直ぐに全然覚えのない町並みが現れて来た。

  

 小説のシーンが浮かんでくる。拉致されるとか、こういうときは後でどこを通ったか分かるように少しでも町並みを覚えようとするものではないか。そう思って右や左を探したが、目立つものはない。通りの名前も都合良くは現れては呉れない。

  

 そのうち車は街の西の方向に行ってから大通りを南下したところでロータリーがあり、その西北の角の建物に着いた。地名では西安広場と読めた。6階建てくらいの高さのこの黒っぽい建物は大きな門と塀に囲まれ、建物にはどこにも名前が出ていない。建物の正面には計10メートルくらいの巨大なパラボラアンテナが見える。きっと軍か公安警察の建物だろう。

  

 車は中に入って、張さんは最初守衛の小屋で話していたが、やがてこの真っ黒な(あるいは真っ暗な)大きな建物に案内されて消えてしまった。車の残ったのは加藤さんと私。運転してきた兵隊は私たちを残して車外に降りて門衛となにやら楽しそうにしゃべりまくっている。この点は日本人が苦手とするところだが、中国の人は初対面でも直ぐに親しく話を交わす特技があって羨ましい。

  

 依然として私たちは拉致されているけれど逮捕されているわけではない。やがて加藤さんが「小便がしたいですね。」と言って車の外に出ようとした。兵隊が飛んできて開けてくれる。「トイレを貸してくれ。」と加藤さん。すると「大か小か?」と門衛が尋ねた。「小だ。」と聞いて門衛は横の塀を指して、そこですればいいという感じの返事をした。いいのか?いいさ、いいさ、そこに行きな。と言った調子で、私たちは植え込みの塀に向かって並んで小便をすることになった。最後にした立ち小便は一体何時だったのか覚えていないくらい昔のことだ。門衛と兵隊が話し興じているすぐ横で、しかも政府施設とおぼしき建物の構内で、私たちはかくも堂々と公認の立ち小便をしたのだった。

  

 終わってみると、公安本部にいる時に「トイレに行きたい」といえば良かった、きっと公安の構内が見学できただろうに。惜しいことをしたという考えがちらっとかすめた。車に戻ろうとすると、門衛は、中で休んでいけという。厚意を受けてこの政府施設の門衛詰め所に入れて貰った。彼らは外でおしゃべりに興じている。くたびれたソファが二脚あって私たちはそこに座って中をじろじろと眺めた。門扉に向いている受付窓の下には木製の机があり、電話機が乗っているだけで、あとはベッドが1台。机には灰色で赤いバンドの軍帽というか軍人のかぶる帽子が置いてあった。大型の立派な徽章が着いていたがどこのかものは分からない。ソファには赤い筋の入ったねずみ色の制服が無造作に置いてあった。もちろん私たちは触りもしなかった。

  

 時間はどんどん経って、すでに8時近い。一体どうなるのだろう。両者の現在のやりとりは分からないが今までに聞こえてきた張さんの主張だと、「軍施設かも知れないがその門衛所で許可を得て、ふたりに写真を撮って良いといったのだ。もしそれがいけないとなると、二人に写真を撮って良いと言った私の立場がない。写真を撮ったことをとがめて、私の面子をつぶすのか?」ということらしい。

  

 この覆面の施設に来て1時間以上経った。別のところにいるので想像するだけだが、大きな声で主張を繰り返す張さんに、軍の二人も怒った様子もなく未だに対応しているらしい。軍としては、最初に「撮って良い」といったかも知れないが、そのあと「駄目だ」といった以上、「時間をつぶさせて済みませんでした」と言って引き下がることはあるまい。張さんの言い分を通したら、最初に「良い」といった門衛詰め所にいた兵隊を公式に咎めなくてはならなくなる。軍事施設関係を写真にとってはならないだろうことは私にも分かる。軍が民間人相手に一旦始めたことを取り下げるとは思えない。

  

 それにしても、張さんは凄い。共産党が支配する国の、解放軍の軍人相手に「これでは自分の面子が立たない。」と言って3時間以上も大声を上げて頑張っているのだ。78歳の老人が、だ。昔の日本国軍隊のやり方を知っている私は、解放軍も誰彼構わず威張り散らしているのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。少なくとも高圧的に問答無用で自分の主張を一般人に押しつけることはしていないようだ。

  

 ただし後で考えてみると、張さんは郭松若が何度目かの入党を果たした1956年の直後に入党していると話していたから、古参党員である。古い年配の党員に敬意を表して、軍と公安はじっと我慢の子だったのかも知れない。

  

 軍施設の前で写真を撮ったのは4時半を回った頃だったから、それから3時間半経った8時10分になって、建物から張さんがほかの人たちと出てきた。張さんが言うには「心配ありませんよ。日本語の分かる王さんという人が一緒に来てくれます。私は帰りますが、大丈夫ですよ。」

  

 みると新たに知らない黒服の人が二人増えている。一人は、その日本語の分かるという王さんで、もう一人は普通の乗用車に張さんを案内して乗せていた。

  

 「日本語とデジカメの分かる人の立ち会いで、撮った写真を消すみたいですよ。」加藤さんは囁いてくれたが、今まで間に入って頑張っていた張さんが帰ってしまう上に、王さんが冷たい声で私たちに「来なさい」と先刻乗ってきた車に乗るように促すので心細さが増して来た。

 

2005/10/10 16:14

 

 

その4

  非公開の建物から戻るこのマイクロバスには、先ほどの運転手、高級軍人二人、公安派出所の幹部風の警官一人と私たち二人のほかに、張さんと入れ替わった形で新しく王さんが加わった。ほかの人たちは何か談笑しているが王さんはむすっとして何も言わない。

 

 やがて先ほどの公安派出所に戻って中に入ると、今まで見たこともない人たちが更に3人も増えている。「二階に行きましょう。」と王さんに言われて私たち二人は二階に上がった。廊下を挟んで小部屋が両側に4つずつあるみたいだ。私たちはすでに顔を見知ったここの公安の幹部一人と王さん以外の更に3人の、合計5人に囲まれている。なんだか雰囲気が悪い。先ほど立ち小便のあと、公安本部にいた時にトイレに行きたいと行って中を見れば良かったと思ったことを、もう後悔していた。あんなことを思ったりするから・・・。

  

 加藤さんが王さんに「取り調べをするんですか?」と聞くと、「そう、一人ずつ別々にして行動を調べます。」という返事が返ってきた。「そんなあ。」と思いながら加藤さんと顔を見合わせるが、致し方ない。

  

 中国語が分かるためか加藤さんが最初に呼ばれ、私は一つ間を置いた別室に案内されて座って待つように言われた。開け放ったドアからは加藤さんの声が聞こえてくる。時には中国語、そして時には日本語で話している。王さんの通訳が入っているのだろう。内容は今日どこを見たか、連れは誰か、どのような事情で写真を撮ったかというようなことが途切れ途切れに聞こえてくる。

  

 45分間一人で待たされたあと、王さんに私は来るように呼ばれた。同時に加藤さんからも声を掛けられた。「今日のことを訊かれましたが、それだけですよ(安心して下さい)。」

  

 小部屋に入ると奥の左手に尋問兼記録係とおぼしき年配の警官、右手にニヒルな顔つきの王さんが座っている。左の警官が何か言うと、王さんが「これから今日の行動を訊きますから正直に答えて下さい。」「先ず名前と生年日?」

  

 すでに一人で待たされている間にパスポートとデジカメのメモリーカードは渡してあった。メモリーカードはPCに入れて内容を調べるからということだった。先方はすでに私の名前を知っているのでメモを見ながらわたしの名前を書いている。

 

「長春には何時来ましたか?」

 「長春には何の目的で来ましたか?」

 「中国には何時来たのですか。」

 「中国で何をしているのですか?」

 「給料は幾ら貰っていますか?」

 「長春には何度来たのですか?」

 「ほかに中国のどこに行きましたか?」

 「今日はどこを見たのですか?」

 

 やがて質問は、「今ここにいる理由は分かっていますか?」となった。もちろん「分かっています。軍の写真を撮ったからでしょう。」と返事をすると、「軍の写真を撮ってはいけないことは知っていましたか?」と直ぐに訊かれた。

  

 「塀に『軍施設につき禁止』と書いてありました。でも、『許可を得たから撮って良い』と言われたので、写真を1枚撮っただけです。」

  

 「軍の施設に興味はありますか?写真を何かに使う目的がありましたか?」と畳み込まれた。答えは「いいえ。先刻撮った軍施設の写真を何時でも消すつもりです。」

  

 このようにした問答は左の警官が合計3枚の紙に書き、それを私に見せながら王さんは1行1行を早口の日本語で説明してくれた。「これで間違いありませんね。」「それなら、それぞれに日付とサインを入れて、名前のところに拇印(ただし人差し指)を捺しなさい。」

  

 そのあと、別の黒めがねの人が入って来て先刻渡したメモリーカードが渡された。「この内容は調べました。返しますからカメラに入れて自分で写真を消しなさい。」と王さんが言う。見ると、もとの写真はちゃんと残っている。勝手に消してはいない。

  

 これを選んで消そうとしたが、落ち着いているつもりでも、何故か操作が間違っているみたいでこの1枚の消去がどうしても出来ない。すると黒めがねさんが、手を出して私の手からカメラを取って、あっという間にこの1枚を消去した。「太棒了(凄い)。」思わず言うと、黒めがねさんは親指を上に突き出してニッコリした。いや、凄いよ、まったく。持ち主がオタついているというのに。あとで聞くとソニーのデジカメを持っているという。

  

 これで10時。長かった一日もこれで終わりで、このあとは黒めがねさんの車で宿まで送ってもらった。訊くと黒めがねさんも王さんも公安だというが、制服ではなく、袖にpoliceと縫い込んだ黒ジャンパーを着ている。覆面の別働隊か?

 黒めがねさんの車は長春市を南北に貫く大通りを南に向けて走った。長春に来てもまだ見ていない、旧満州国の官庁だった大きなビルである八大部、溥儀の宮廷になる予定だった建物が明かりで綺麗に彩られている。地質宮と呼ばれているこの建物は大きな文化公園の北側に南面して建っていた。

(写真は旧・満州国皇帝新宮殿、現・長春地質学院地質宮。戦争末期資材不足で未完成のままで、使われることはなかったという。ネットから取得。下の写真はその夜景で、加藤正宏撮影)

 公式に禁じられている軍の建物の写真を撮ったが、私たちに特に意図はなかった上に、最初に門衛詰め所にいた人から許可を貰っていたわけだから、私たちは写真を消すだけで済んだのだった。軍としては写真を残すわけにはいかないが、友人を罪に問われることには納得できない張さんの強い主張があった。軍としてもいきさつを聞くと張さんの言い分は無視できない。それで写真は消すことになったが、張さんの顔を立てて私たちは罪には問われなかったのだろう。

 

 この「張さんの言い分を無視しなかった」ということが凄い。中国が変わってきたのか、あるいは権力の二重構造を垣間見たのか。

  

 玉虫色の見事な解決である。解決までに時間は掛かったけれど、公安警官が自分の車に乗せて宿まで送ってくれたので、街の40%が公園だという美しい長春市の夜の表情を楽しむというおまけもあった。 ただし宿に着いたのが10時半で、近くのスーパーも料理店もすでに店じまいをしていて、夕食を食べるところがない。私たちは貴重な経験をしたこの長い一日を夜の食事抜きで終えたのだった。

 

2005/10/11 05:04

第二部 長春での偶発事案  加藤 正宏

 

 山形さんが取調べを受けている時、私は待機している公安官と軍関係者に話しかけ、写真を撮った経緯を話し、私たちは特に軍の施設の写真が欲しいわけではない、軍の詰め所に訊ねたら、道路を越えたところからなら撮ってもいいと言われたと張さんから言われて撮っただけで、許可されていなかったら撮っていない。有れば有ったほうがいいが、無くたって特に困らない、これらの写真は消去しても何ら問題は無いと話したところ、彼らも事情はとっくに知っていたようで、頷くだけで、反論はしない。とにかく、軍関係の写真を撮ると煩わしいことになるから・・・・との話であった。

 軍と公安との取り決めで、軍関係の写真を撮った者については公安に報告し、公安もそれらの者を取り調べなければならない規定があるとのこと。ここまで時間を食ったのは、張さんが納得せず、省の外事所に連絡してもらい、経緯を話し、解決しようとしていたかららしい。張さんとしては、詰め所で確認し、我々に撮ってもいいと言った手前、簡単には引き下がれなかったようだ。公安の人物が我々に言っていたように、日本の友人の手前、彼も面子にこだわっていたのだろう。でも、軍と公安との規定の中で動いていてしまったものを、何も無かったことにはできないのも、当然の話で、最終的には張さんもしぶしぶ納得せざるを得なかったようだ。

このような結果になったことで、居たたまれなくなったのか、日本語を話せる人が付いていくから大丈夫ですと言って、我々がこれから、どのようなことを求められるかも告げずに、(その場から逃げるかのように)去っていったのだと思う。(写真は旧・満州首都警察庁で、現・長春市公安局・長春市国家安全局。長春吉林大学に滞在中の2001年中に入れてもらえず外から撮影した)

 山形さんの取調中、公安官や軍関係者と話していると、メモリーカードから焼いた写真を持って私服の公安官がやって来た。

  我々が撮った軍施設の写真の他に、我々が写っている写真が数枚あった。食事の時に撮った写真だとか、人物が大きく写っている写真である。この件の当事者の写真として、参考に焼いたようだ。話を聞いている限り、特に我々の写真を撮っておく必要はなかったようだ。メモリーカードに無ければ、焼きもしなかったとのこと。軍施設と言っても、門が写っているだけである。私もその写真を見ながら、「保密」にするところが有るとは思えない、どうして、この写真がまずいのかと、

公安官や軍関係者に問いかけてみた。でも、「とにかく、軍関係の写真を撮ると煩わしいことになる」との返事しかもらえなかった。

 公安官や軍事関係者がこのようにしか答えられないのも仕方がないことだが、このような質問ができるくらい、写真が届いた頃には、親しく話が交わせるようになっていた。


友人が明日一日しか長春に居られないんだが、偽満(満州国)の建物が多く残っているのはどこか、見て歩きたいんだが、どこに行くのがいいかと地図を開きながら、訊ね、アドバイスなども既に受けていた。と言っても、私の方が本当はよく知っていたのだが、メモリーカードの写真のことなどもあるので、私の方から話題をそちらに振ったからだ。彼らがアドバイスしてくれたのは新民街の八大部と偽皇宮である。それにしても、これらの会話を通じて、我々が取調べを受けているのは、規定上、必要なため形式的にやっているものであることが感じられた。



左は

写真は国務院の夜景

 取り調べも終わり、デジカメに詳しい公安官(1982年に吉林大学の法学部を卒業した)のマイカーで、宿舎まで送られて行く時、この新民街を南に向け走っていたので、意図せずして八大部の建物を電燈の灯り下に見る幸運にも恵まれた。(写真は旧国務院夜景




「張さんへの手紙」

 

 お元気にお過ごしのことと思います。私も元気に過ごしております。


 10月にお会いしてから、もう2ヶ月が過ぎようとしています。すぐに手紙や写真を送るべきところ、大変遅くなってしまって申しわけありません。

 

 張さんには、長春に住んでいた頃と同じように、この10月もいろいろと案内していただき、本当に感謝しております。山形達也教授も大変喜び感謝しておりました。山形教授は張さんと話ができたことも楽しかったし、長春が初めてだったので、良い思い出になったと話しております。彼は学生(修士、博士課程)からの緊急の電話(実験内容についての相談や指導要請)があり、翌日瀋陽に帰りましたが、もう少しじっくりと長春を見てみたかったと話しております。また、機会があれば行ってみたいとのことです。

 

 山形教授も、私も、私たちより元気に歩かれ、案内してくださる張さんの元気さには圧倒されました。でも、あの日はハプニング(偶発事件)が起こり、張さんには晩くまでその処理にあたっていただき、大変ご面倒をかけてしまいました。張さんが、体力を消耗され、疲れきってしまわれたのではないかと二人で心配しておりました。

 

 張さんが主張されていたことは正当な主張(写真を撮ってもいいかどうか尋ね、了解を得てから写真を撮ったのですから、問題にされることが本来おかしいことです。)ですから、張さんが執拗に軍や公安局の人たちと交渉されていたのも当然だと思います。でも、軍や公安の規律は簡単に曲げられるものではないのでしょうね。張さんが確認したときに、答えてくれた軍の門衛さんの失言だったのでしょう、きっと。

 

 このハプニングは、私たちに一般ではできない経験をさせてくれました。派出所に行ったのも、公安局本局に行ったのも、公安局の車に乗ったのも初めてです。調書を取られたのも初めてです。張さんには大変ご苦労をかけていましたが、私たち二人は、調書を取られたとき以外は待っているだけだったので、特に不安になることもありませんでした。むしろ、一般には入ることのできない公安局本局(偽満首都警察庁旧址)に入れたことなど、一般には入れない場所に入ることができたのは幸運だったと思います。当局と交渉しておられた張さんには申し訳ないですが、公安局本局(偽満首都警察庁旧址)で待っているとき、窓の形や、戸の形や、床などを見ながら、中国的な要素と日本的な要素がどこに見られるかなど話していました。今から考えると、便所へ行きたいと言って行かせてもらえていれば、玄関だけでなく、もう少し内部も観察できただろうと、残念に思えてくるくらいです。

 

 私は、翌日は古玩城の友人たちを訪ね、そのなかの友人の1人と昼食をとり、吉長道尹公署や汪精衛の駐大使館、偽皇宮などを見て歩きました。その翌日には、文廟や民主路の八大部の建物を見て歩きました。八大部の建物以外はほとんど観光のために、形が変わって新しくなっていました。観光化された建物には歴史が感じられず、残念です。

 

 張さん、健康に十分気をつけてお過ごしください。いつか妻と共に長春に行き、張さんにまたお会いできるのを楽しみにしています。

 

加藤正宏(2005・11・28)