01 日本に関わりのあった

長春に住んでみて

加藤正宏

日本に関わりのあった長春に住んでみて

~一時期、長春は新京と呼ばれていた~

加藤正宏

建國日之晨

康徳二年三月一日、為吾國建國紀念之良辰。朝起後、旭日漸昇照射屋瓦光華燦欄。

比戸皆懸國旗、随風飄蕩。市民倶現興高彩之色。

新京特別市政公署、聯合國務院各官庁於大同廣場共同擧行慶祝大會。由満・日公私要人、

軍隊學生?體、社食事業?體等、約一萬五千人参與之下、擧行盛大慶祝式典。・・・

『初級小學校 國文教科書 第五冊』 (満州國)文教部

今年の三月一日前後、どれだけの日本のマスコミが満州国建国の事柄について報じるだろうか。上記の初級小学校の教科書でも「由満・日公私要人」とあるように、日本人を抜きには考えられない満州国である。二〇〇二年三月一日は満州国建国七○周年にあたる。

私は一昨年の九月から、長春の吉林大学で日本語の専家として勤めている。大学生と院生に日本語や日本社会について、講義するかたわら、街中に出歩いては、一般の庶民と交流したり、半世紀以上経過している建物の写真を撮ったりしてきた。満州国当時の建物が公私共にまだまだ残ってはいるのだが、ここ数年の中国の経済発展は、この長春にも及んできていて、庶民の家屋はもちろん、公的な建物であった物も一部は取り壊され、そこに新たな建物が姿を見せている。

満州国の官吏養成学校であった大同学院は吉林工業大学の校務楼として活用されていたが、私が長春に着任する数か月前に取り壊され、その更地には新しい校務楼が建設されようとしていた。また、社会科学院として活用されていた外交部(部は日本の省にあたる)の建物は、取り壊しが始まったばかりであったから、辛うじて写真を撮ることができたのだが、今そこにはハイカラな高層住宅しか見ることができない。西広場に面した旧敷島女学校の建物も、昨年取り壊されてしまった。また、満州国時代の民家もどんどん少なくなりつつある。

人民大街(旧中央道とそれに続く旧大同大街)に面する建物で、現在も活用されている


旧大同学院(吉林工大)



旧外交部と、その跡地に建つビルと旧総理官邸




旧敷島女学校とその跡地に建つ長春広報電子大学

 代表的なものを、人民広場(旧大同広場)の手前まで紹介してみよう。

駅前付近

新京(長春)駅

 取り壊され、エスカレーターも装備された新しい駅舎になっていて、昔の面影を見ることはできない。古い写真では、四本の石柱が立つギリシャ建築風の中央バルコニー、その上の三階の部屋の三角形の妻には大きな時計がはめこまれ、大正時代の雰囲気を感じさせるものであった。

この駅前広場を起点に三本の幹線道路が設けられている。一本は東南の南広場に向かう勝利大街(旧日本橋通り)、もう一本は西南の西広場に向かう漢口大街(旧敷島通り)、正面を南に向かうのが人民大街(旧中央通り)である。

満鉄新京支社

 駅の南、人民大街と漢口大街とに挟まれたところに建つ四階建ての薄茶色のタイルを貼り詰めた建物で、外観もあまり変化なく、現在も長春鉄路分局として活用されている。

ヤマトホテル

 駅の南、人民大街と勝利大街とに挟まれたところに建つ満鉄直営のホテルであった。現在は春誼賓館というホテルとして活用されている。玄関やロビーの外観はほぼ以前のままである。ホテル門前には、長春市重点文物保護単位の石板が立てられていて、「日偽軍政要人和社会名流」が多く利用したことが刻まれ、愛国主義教育基地の一つになっている。なお、このホテルは一九四五年から四六年にかけて、中共長春地下党組織がたびたび集会などの活動場所として利用したところでもあったとのことで、その点からも重点文物保護単位の愛国主義教育基地となっているのだろう。ロビーの壁面に、この地下党組織の活動が詳しく刻まれている。 このホテルの裏にあった南海楼や八千代館を経営していたという方の、お孫さんに聞いたところによれば、このホテルの一○一室は楼や館で会合を持つ特別なお客の為にいつもキープされていたという。お座敷政治を垣間見る感じである。


人民大街(旧中央通り)

中央通郵便局

 建物は人民大街に沿う東に建つ。建て替えられているが、敷地はそのまま郵便局の敷地として活用されている(寛城区郵政局、市郵政局)。






旧大和ホテルから望む駅








旧大和ホテル(春誼賓館)

新京神社

 淞江路と龍江路に挟まれた、人民大街沿いの西に建ち、多色で、原色の少しけばけばしい門が日立つ幼児園(省政府第一幼児園、市政府第二幼児園)の建物として現在活用されている。社務所や拝殿が園児たちの教室になっている。省や市に勤める人たちの子弟約五〇〇人が学んでいるという。日本人の目からは、銅版葺きの屋根の形から、神社であった

 ことはすぐに分かる建物だ。また、淞江路に面した裏門にはセメントで造った鳥居の一部が今もそのまま使われている。

 このように、日本の神社だと分かる形を残したまま、園児の教育活動の場所として、現に活用されているこの場所も、愛国主義教育基地としての役割を果たしている。建物の入り口には長春市重点文物保護単位の石板がはめ込まれ、以下の文言が刻まれている。

建成干一九三二年、占地一万余平方米為磚木結構日本民族式建築、主要有正殿偏殿等当時旧址内供奉日本天照大神、令人頂礼膜拝、以在思想上愚弄中国人民。

 この天照大神を祭った神社は頂礼や膜拝など人に強制し、思想面で中国人を愚弄するものであったとあるが、日本語がなめらかに話せる八四歳の中国人の李永聚さんから、拝礼をしたくなくて、必ず回り道をして帰ったという話を聞く機会があった。その老人は満鉄公学校(三年生から六年生まで毎日一時間日本語の授業があった)を大同元年(一九三二年)に卒業し、満鉄長春旅客部に配属され、職場では日本語の語学検定を常時受けて、検定一等に合格し、語学手当二○円を給与三○円の他にもらっていた方だ。日本の敗戦まで満鉄に勤めていた、その方が回り道をしていたのだから、一般の中国人の感情は推し量られる。

 同じ建物を、人生の大事な所に印象付けている者もいる。当時、長春在住の日本人の若者である。「一九四五年三月四日、午前四時頃起床して八紘寮を出、在寮生と共にまだ薄暗い大同街を新京神社まで駆け足し、ワッショイ、ワッショイと掛け声勇ましく送られて入隊したのも忘れることができません。」(島軒憲一)、「三月、五月と生徒は勿論先生方も入営し、新京神社まで寮旗を押し立てて見送った。」(布施 登)、「十二月八日朝五時前、‥・・・大東亜戦争の勃発を知り、戦勝祈頗に行こうと言うことになり、全員一団となって、駆け足で、白い息を吐き吐き、新京神社・海軍武官府・関東軍司令部・忠霊塔の順に祈願して廻ったが、その後満系学生が祈願に不参加の満系鮮系学生を吊し上げる事件がおこり、‥‥・」(森田健男) これらは新京法政大学同窓会編集の『南嶺慕情』(平成五年十月発行)より引用させてもらったのだが、当時の日本人にはこの神社が戦争と切り離せないものになっていたことが分かる。「当時はせいぜい人生二十五年だと覚悟していた。」と上記引用の島軒憲一さんは述べており、その最後のお祭りであればこそ、鮮明に意識されるのも当然なことであったろう。しかし、日本人以外にとっては、また違っていたことも当然のことであったろうことは、森田健男さんの回想がこれをよく物語っている。

 嵯峨井 建『満洲の神社興亡史』(芙蓉書房出版)によれば、もともとは日本人居民の私的祭祀による小祠として、満州国成立以前の大正年代に、長春神社として生まれたものであったという。日本の傀儡なる満州国の成立と共に神社の性格が変質していったのであろう。

帰国をした二〇〇二年中頃には、人民大街沿いの社務所を活用した幼児園は取り壊されて、新しい建物に建て替えられようとしていた。後方の市政府第二幼児園の建物は壊されずに今も健在である。

満鉄図書館

 人民大街を挟み、新京神社のほぼ向かい建っている。最近までは長春市の映画フィルム発行公司であった。この東隣に接して、日本人子弟が通う室町小学校(現在の天津路小学校)があった。そして、小学校に南接し弥生家政学校(現在の天津路小学校)あった。室町小学校その東隣には、中国人の通う大和通国民学校と大和通国民優級学校(現長春市寛城区教師進修学校と現長春九十二中学)があった。大和通国民学校と大和通国民優級学は元々が満鉄公学校で、前述の拝礼を避けて回り道をしていた李永聚さんが卒業した学校であり、満鉄公学校の流れが続いていて、日本の敗戦まで、中国人子弟の学校でありながら、校長は全て日本人であり、教職員も半数以上が日本人であったという。

旧新京神社社務所や拝殿

鳥居の一部?




新幼児園建設のため旧神社解体(上→下)







教室で使われていた掛図

毛沢東の巨大な立像  児玉公園

人民大街(旧大同大街

児玉公園

 人民大街と北京大街(旧八島通)が交差する南西部に、中央に池を配置した回遊式の大きな公園があり、その入り口付近に児玉源太郎の大きな騎馬像が人間の高さの二倍ほどの台座の上に建っていた。公園の名はこれに由来している。現在その同じ位置に同じような台座に建つのが毛沢東の巨大な立像である。しかし、毛沢東公園ではなく、勝利公園と呼ばれている。この勝利公園では暮れから正月にかけて、氷で造った動物や建物にさまざまな色の光を通して、夜目に鮮やかに浮かび上がる氷燈祭りが例年行なわれている。

国防会館

 勝利公園の南東の角にあり、現在ここは丁香花園大酒店という料理店になっている。建物の骨格は変わっていないようだ。

関東軍司令部

 団結路(旧府後路)を挟んで国防会館の南に位置している。現在、中国共産党吉林省委員会の建物になっていて、外観は旧のそのままになっており、天守閣と櫓を備えた日本の城郭を連想させる。この敷地の南に走る道路は昔も今も新発路と呼ばれている。新発路を挟んでこの建物の正門とほぼ向かい合っている建物の中に、北方航空(現在、吸収されて南方航空に改名)の事務所が入っている。航空券の購入手続きが行なう時、職員の後のガラス張り大きな窓から、まともに省委員会の建物が見えるのだが、写真をとることは憚れる。道路の反対側の歩道沿いから写真を撮るしかない。

 ハプニングを一つご紹介しておこう。省委員会の建物も斜めからの遠景で撮れてはいたのだが、真正面からもこの建物を撮りたくて、正門前の大きな道路を挟んだ正面からシャッター切ったところ、衛兵の一人が物凄い勢いで道路を横切り、私のところにやって来て、フィルムを抜くことを要求した。美しいから撮っただけで、内部を撮ったわけではないし、撮ってはいけないことも知らなかったとなど、何度も弁解して許しを乞うたのだが、聞き入れられず、フィルムを抜くことを承知しない私は門の内側にある衛兵詰所に連込まれてしまった。要求に応じない私の態度に、詰所にいた迷彩服の上司では判断が下せなかったようで、電話で更に上の上司に指示を仰いだ。しばらくして、平服の上司がやって来て、身分証の提示を求め、いろいろと私に質問をしてきたが、しばらく考慮して後、フィルムも抜かずに私を解放してくれた。中国の大学に勤務する身分証の効果があったのだろうか。しかし、ひょんなことで、共産党省委員会の敷地に足を踏み入れることができた。中国の政府や委員会の建物には衛兵が必ず立っていて、自由に門内に入ることを許さないばかりでなく、写真を撮ることも認めないことを既に知っていた私だけに、今回はラッキーだったとの感じが強い。

 この関東軍司令部の西、康平街の手前に関東軍司令官官邸があった。現在は松苑賓館として活用されている、林の中にある立派な西洋館で、溥儀の皇宮よりもずっと風格がある建物である。

さらにその西には忠霊塔が建っていたと言われるが、軍の管轄区内にあり、その痕跡を確かめることもできない。

関東局

人民大街を挟んで関東軍司令部の東に位置する。現在、吉林省人民政府の建物として活用されている。

旧国防会館





旧関東軍司令部






関東軍司令官官邸



関東局

東本願寺

 人民大街の西沿いの北安路の北に、第二実験中学が現在は建っている。この敷地内に東

 本願寺の姿を見ることができる。古老の話では、満州国が崩壊し、国民党との戦いに勝利した時点で、ここは東北装甲車軍区となっていたという。現在の中学の建物は無く、装甲車に寺は取り囲まれていたという。その後、校舎が敷地の周囲を取り囲み、寺の屋根瓦が少し見えるだけ、一般の人の目からは寺は姿を消してしまっていた。昨年、校舎の建替えがあり、突如、またその全体の姿を見せ、長春の人々の関心を惹いた。現在は新校舎が完成し、また校舎の内側に取り込まれてしまい、姿を消してしまっている。現在、この建物は中学の閲覧室の看板が懸かっているが、教室としても活用されているようだ。この建物にも長春市重点文物保護単位の石板がはめ込まれている。


康徳会館

 北安路を挟み、第二実験中学の東南にあるのがこの建物で、長春市人民政府の建物になっている。昔の写真と変わらず屋上には三層の望楼が今も有って、独特な姿を見せているが、建物の本体は二層増えて、四層から六層の建物に姿を変えている。三層の望楼の下の二層はよく見れば下の四層とは少し違っているのが分かる。一階の腰は石を積んだ石垣の感じを演出した建物である。この部分に長春市重点文物保護単位の石板がやはりはめ込まれている。石板には「東北が占嶺されていた時期、中国にやって来た日本の財団に、交通・食事・宿・郵便電信のサービスをする場所であった。(摂訳)」とある。満州に進出してきた工場や企業の事務所になっていた所のようだ。古老の話では、地下に「味覚」という食堂あり、昼食時は日本人でずいぶん賑わっていたという。

旧康徳会館(現長春市人民政府)

海上ビル

 人民大街を挟んで康徳会館の対面にあるのがこのビルで、当時の正式の名前は東京海上火災保険会社ビルであった。現在、この建物は長春市中心医院として活用されている。

このビルの東隣は、天理教会の敷地があったところである。現在、長春市政府第一幼児園がここにある。教会の建物が今も使われているのかどうかはよく分からない。

海上ビル

三中井百貨店

 今もここには百貨店が建っている。その名は長春百貨大楼という。この百貨店の南を走っているのが重慶路(旧豊楽路)、満州国の時代はこの路面を市電が走っていた。これ活用してだと思われるが、旧の市電架線にそって、昨年までトロリーバスが走っていた。


豊楽劇場

 この百貨店の西に豊楽劇場があったが、建物の外観はそのままだが、大きな薬局に変身している。 人民広場(大同広場)の周囲とそれより先は次回に紹介する予定である。