14 瀋陽城内井字型の

部・朝陽街


加藤正宏

瀋陽城内井字型の一部・朝陽街

加藤正宏

 「瀋陽史跡探訪3」で紹介した「中街」、これを除いた、井字型道路周辺を、今回と次回に渡って紹介する。明代の城内には十字路の道路が造られていた。清代にこれが井字型道路に変わった。現在もその形が維持されている。

 その井字型の構成を見ておこう。その北側部分の東西に走るのが中街(正式には中街路、或いは中央路)である。南側を東西に走るのが瀋陽路である。東側部分を南北に走るのが朝陽街である。西側部分を南北に走るのが正陽街である。これら4本の道路が城内に井字型を形成する。「街」は南北に走る道路、「路」は東西に走る道路だ。瀋陽路は大東門(撫近門)から大西門(懐遠門)に到っている。その中間に故宮がある。故宮は道路の北側だ。

(*「瀋陽史跡探訪3」の略図、古地図、「瀋陽史跡探訪4」の清代瀋陽古城平面図、を参照ください)

 

今回は朝陽街周辺を紹介する

 徳盛門(大南門)のあった手前の南順城路から北上していこう。

 朝陽街の南西の角には、「発財恭喜」の文字を刻む円形方孔銭を鼻に通した黄金の二匹の象が置かれている「魅力厨房」というレストランがある。この西隣に、「帥府弁事所(或いは帥府舞庁)」、その更に西隣には「張氏帥府」前の広場がある。最近ここに軍服姿の張学良の像が建てられた。張学良が亡くなって、4、5年経た今日この頃、完全に歴史上の人物となって、ここに姿を現したといえそうだ。

 ちょっとしたエピソードを御紹介しよう。この像に刻まれた彼の生没年代は1901・6・3―2001・10・15となっている。「これは事実ではない。事実を記すべきだ。」との意見が新聞に掲載されたことがある。その彼の主張は「生まれは6月4日だ。」というものだ。彼が言っていることは事実のようだ。しかし、張学良自身がある時点から4日を避け、3日を誕生日として使うようになったのも事実である。そう、父の張作霖が爆殺され亡くなったのが、1928年6月4日だったからだ。生物学的には4日の生まれというべきなのだろうが・・・・。 

 創建1914年の張作霖とその息子張学良の官邸兼私邸であった旧居「張氏帥府」はどのガイドにも地図にも紹介されているので、カットさせてもらうが、「張氏帥府」見学の穴場だと思われる場所を紹介しておこう。そこは帥府北側の道路だ。ここから眺める「張氏帥府」の建物には趣きがある。是非北側の道路まで足を運んでもらいたい。 

 周辺にある「帥府弁事所(或いは帥府舞庁)」と「趙四小姐楼」は一応紹介しておこうと思う。

 「帥府弁事処」は張作霖、張学良の客人を接待する場所として建てられ、使われた建物だ。建物の中には2階まで吹き抜けた、周囲を回廊で装飾した大きなダンスホールがあり、回廊の後にはそれぞれ客室が設けられていた。このようなことから、この建物は「帥府舞庁」とも呼ばれていたとのこと。現在、遼寧煤鉱安全監察局衛生所になっているこの建物を、北側から見てみると、文化大革命の名残りが建物の壁(左右のトップ)に今も残っている(うっすらと帽子を被った毛沢東の顔が見える。家屋の左手の方にも中央を向いた顔が見える。左右対称に描かれている)。 

 「趙四小姐楼」は「張氏帥府」の東隣にあり、趙四小姐(趙一荻)に与えられた住居だ。住居の西北角に彼女の寝室があった。日が差さず寒い場所だったが、そこからは大青楼(張氏帥府内)の張学良の執務室の灯りが見える場所である。趙四小姐は張学良が本当に愛した女性(肩書きは秘書)で、戦後、台湾に移った1964年には正式に結婚している。 

「帥府弁事所」と「趙四小姐楼」の間にあって、その東端が朝陽街に面している建物、これが張作霖、張学良が設立した「辺業銀行」であった建物である。現在この建物は「金融博物館」として活用されている。

 2006年に12月1日に開館したばかりだ。80を越す等身大の客や行員の蝋人形で、1920年代の銀行業務を再現していたりして、入館するや、当時の世界に紛れ込んだ感じになる。やはり20年代の中街の街並みやその情景を12mもの模型で作ってあるのもある。また、分厚い鉄の扉の向こうに本物の地下金庫室を見ることもできる。ロンドンのシティやニュヨークのウオール街に建つ建物などの模型も見られる。ビル・ゲイツ(勿論蝋人形)と一緒に写真を撮ることもできる。勿論、古代からの貨幣の展示もある。展覧は7部分に分かれているだけでなく、迷うほど部屋が多い。中国人にとっては垂涎の品は、第一套人民紙幣(1948年12月1日から1955年5月10日まで流通)であろう。この62種すべての現在の市場価値は100万元以上とのことである。

 この博物館の後方の2階展覧室の窓から、「張氏帥府」の中庭が望める。 

 「金融博物館」を朝陽街に沿って少し北上すると科隆酒店がある。この酒店の朝陽街向かいに路地があり、少し入った所に基督教培訓中心がある。この建物は光復(1945年8月15日)以前には基督教青年会館であった。この近くに住む人の話では、張学良はこの建物を舞踏場としてたびたび使っていたという。中に入れてもらえなかったので、近くの建物の2、3階の階段から写真を撮った。写真に見られるように、それらしい大きな建物今も残っている。 

 更に朝陽街を北上すると右手に、屋根の頂が青緑、全体が黄瑠璃瓦の二階建て中国式建物が見えてくる。現在、これは瀋陽市少年児童図書館になっている建物だ。それ以前は瀋陽市立図書館であった。更に光復(日本の敗戦で日本の支配が解ける)前は満鉄公署であった。城内に置かれた満鉄の出張所というところであるが、実際のところは日本の特務機関の役割をしていたところだ。張作霖や張学良の動きを監視したり、政治・軍事・経済の情報を集めていたところである。この場所は李氏朝鮮の高麗館景佑宮があったところである。日露戦争後、最初はこの建物を活用していたが、20年代に日本人の設計によって現在のような建物に建て替えられた。

 

 瀋陽路に到る前に、朝陽街は盛京路と交わる。この盛京路を少し西へ行くと、盛京路と瀋陽路の間に渡って瀋陽市公安局瀋河分局がある。この一部の建物は偽満警察署(現在の中国での呼称)であったという、今も活用されているようだ。

更に、少し西に行くと、やはりこれも盛京路と瀋陽路の間に「旧東三省総督府」がある。盛京律師事務所のあるところを北に少し入ると倒壊寸前の感じの建物が見える。これが清末民国初期の東北と奉天(遼寧)省の最高権力機構の所在地であった建物だ。この建物後方はすぐ瀋陽路である。故宮東隣の消防隊の前の南路地を入るとこの崩壊しかけた建物の後方に行き着く。壁には「危ないから近寄るな」と書かれている。紅い旗には「搶救古建築 伝承文化遺産 延続歴史篇章」と黄色の文字が躍る。倒壊寸前の感じの建物だが、瀋陽市の移動させてはならない文物に指定されている。いつまで保持できるだろうかというのが私が見た率直な感じである。

 更に朝陽街を少し北上し瀋陽路を越えると、朝陽街沿いの西に「瀋陽市総商会」「瀋陽市工商業聯会」の看板を掛ける大きな建物に出会う。この大きな建物は1924年に建てられた「奉天商務総会」の建物である。当時の原型を今も保っている。「奉天商務総会」は清朝咸豊年間に一つの民間商業組織として生まれたもので、後で紹介する長安寺内に初めは設けられていたものである。 

 「瀋陽市工商業聯会」の朝陽街を挟んだ斜め北向かいに「老久華」染物店及び工場があった。いや、2006年12月現在のところ、その玄関は何とか取り壊されずに存在している。しかし、この朝陽街の商業城の南にある老久華洗染廠が月末には完全に撤去されると、新聞で報じられている。そのとおり、後方は既に撤去が始まっていた。新聞によれば、この撤去の際に、高さ約2メートル、幅1メートル半の壁に紅い福の字が書かれ、その四角には彩色の蝙蝠の絵が描かれたものが見つかったそうである。蝙蝠は福と同じ発音をし、吉祥の象徴であり、この壁の絵は100年近い年月を経たものだと、故宮博物館の専門家が鑑定し、保存のため、既に北塔の碑林に運ばれたとのことである。

 1914年に創建された「老久華」は瀋陽で現存する最も古い企業の一つである。染物工場としては先頭を歩んできた企業であった。1950年代の後半にはソ連のフルシチョフ主席を案内して朱徳副主席が見学に来たこともある工場だ。しかし、設備の老朽化や環境問題などを抱え、ここに到って姿を消そうとしているのが現状だと言える。

 取り壊し始めている後方建物の壁に、スプレーで書かれた落書きを見つけた。紹介しておこう。「供応政府号召 支持城市建設 提供優質服務 奉献人文関懐」「推進棚区改造加快城市建設歩伐」「依法拆遷服務百姓」。政府の呼びかけに応じ、都市建設を支持し、良きサービスを提供し、人の世のために配慮を捧げよう。バラック地区改造を推進し、都市建設の歩調を速めよう。取り壊し立ち退くのは庶民への勤めだ。なんだか、私には市政府の回し者が書いたものように思え、逆にこの取り壊しにはずいぶんと反対があったのでは考えてしまう。

 とにかく、100年を越えた歴史をもつ企業がここに消えようとしている。 

 この北にはいろんなバス路線のバスが停まる。朝陽街は北行きの一方通行の道路だ。同じ場所にいくつも停留所がある。どの停留所も「商業城」で「中街」ではないが、少し北にある中街に向かう者はここで降りる。この停留所の西は、古い一軒の住宅を残し、現在大きな更地になってしまっている。更地の更に西が故宮であり、その北には瀋陽最大級の商業ビル「大家庭」がある。 

 朝陽街を更に北上すると、中街路と交差する。昔はここに鐘楼があった。この交差点から道路先の北西を見ると立派な建物が見える。中国工商銀行瀋河支行である。元来、「東三省官銀号」であった旧址である。光緒11年(1905年)創業の銀行で、瀋陽に入ってきた奉系軍閥は全てこの東三省官銀号の経済的な後ろ盾を受けていた。張学良は東北三省最大のこの銀行を重視し、この銀行業務を発展させた。しかし、この建物は1931年の九一八事変(満州事変)の翌日、日本軍に占領され、翌年32年には停業、満州中央銀行(中国では偽が付く)の建物に改称された。1945年の光復(日本の敗戦で日本の支配が解ける)後、東北銀行となり、51年には中国人民銀行に吸収され、その後現在の銀行の管轄するところになっている。

 とにかく、どっしりとした立派な建物である。内部も吹き抜けの大きな空間を擁する品格のある建物だ。内部にも入れるから、雰囲気を味わってみられてもと思うが、銀行内では写真は禁止になっているので、御注意あれ。 

 中国工商銀行瀋河支行の東に、瀋陽で最も古い仏寺がある。長安寺である。「先有長安寺、后有瀋陽城」という言葉があるそうで、唐朝時期創建された古寺だという。「長治久安」が名に込められているという。清朝時期何度も建物は修復されてきたのだそうだが、19世紀中頃の同光年間の頃から、この寺で金銀市、銀銭市が毎日立つようになっていたという。そんなこともあって、商会が清末に成立、このような中で先に述べた「奉天商務総会」も成立したのであろう。

 長安寺内にある碑に「紅楼夢」の著者・曹雪芹の亡父の名が見つかっているとの事である。

 この後、さらに北上すると北順城路に到る、昔、福勝門(大北門)のあったところである。今、ここはバスのターミナルになっていて、多くのバスがここから発着している。ここまでが、井字型の一本をなす朝陽街である。

 

参考にした新聞、著書

華商晨報 2006年10月11日 「百年『老久華』拆遷読秒」

時代商報 2006年12月13日 「百年『老久華』月底拆遷完」

遼瀋晩報 2005年6月3日 「瀋博把家安在帥府傍」

華商晨報 2006年11月28日 「新去処:金融博物館」

時代商報 2006年11月28日 「金融博物館『克隆』老中街」

遼瀋晩報 2006年11月28日 「花20元銭去看張作霖地下金庫」

遼瀋晩報 2005年6月30日 「尋捜『金銀庫胡同』(奉天省公署)」

瀋陽日報 2006年3月7日 「危機原来是東三省総督府」

「瀋陽掌故」瀋陽出版社 1989年

「瀋陽名勝」李鳳民 編 東北大学出版社 1996年

「歴史文化名城瀋陽」瀋陽市政協学習宣伝文史委員会 編 瀋陽出版社 2006年

「説古道今話瀋陽」瀋陽市精神文明建設弁公室 他 編 2001年

「瀋陽景点民間説」遼寧大学出版社 1898年

「張学良旧居」 遼寧が報出版社 1999年

「瀋陽近現代建築」 瀋陽市城市建設档案館・瀋陽市房産档案館 編 2002年

 


























張学良の像と帥府

毛沢東の帽子を被った横顔が残る

帥府舞庁

レストラン

見学の穴場・

帥府北側の道路から見る





旧辺業銀行が金融博物館となった

(2006年12月1日)

20年代当時の銀行内部

(著者も紛れ込んでいる)



基督教青年会館



満鉄公署


「旧東三省総督府」と紋章、正面、後方側面

旧奉天商務総会


「老久華」染物店と

スプレーで書かれた落書き



旧東三省官銀号






長安寺