33 旧満鉄奉天図書館

加藤正宏

不可移動文物・

旧満鉄図書館などの現状

(その2、旧満鉄奉天図書館)

加藤正宏

 私が瀋陽薬科大学で勤務していたのは、2004年9月から07年の7月末の3年間である。その間の夏季冬季のそれぞれ2ヶ月、合計4ヶ月は日本に帰国していたので、年8ヶ月滞在の3ヵ年、瀋陽で生活していたことになる。この3ヵ年の間に10数回(2ヶ月に1回くらいの割りで)も出かけて行き、写真を撮ったのが旧満鉄奉天図書館の建物である。それだけ、その姿に魅せられ気になっていた建物であった。

1、満鉄奉天図書館

 西澤泰彦氏が「交差点を渡ると、左に大きな公園、右に小さな図書館がある。図書館は満鉄の施設としては珍しい木造でしかもスパニッシュ様式の建物。多くの人々が書物に目をとおす閲覧室の光景は昔も今も大差はない。」注①、「奉天図書館:この建物は1921年竣工で、満鉄の施設としては珍しい木造モルタル塗りのスパニッシュ様式。写真は竣工時のものだが、現在も外観は当時のまま、瀋陽鉄路局図書館として使われている。」注②、「満鉄は、鉄道附属地の各地に住民の知的欲求に対応すべく図書館を設け、大連と奉天にはそれだけでなく、社員の業務上の情報収集や研究者向けに図書を提供する本格的な図書館を設けた。 奉天図書館の建物は、鉄道附属地の中央に一九二一年一一月に竣工したが、それは満鉄の建物としては珍しい木造建築であり、その様式は公共建築には稀なスパニッシュ様式であった。」注③、「満鉄の建築としては珍しいスパニッシュ様式の奉天図書館。鉄道附属地に対する『建築規則』でレンガ造を推進していた満鉄が木造建築を建てたことも珍しい。外壁にモルタルを分厚く塗ることで耐火性能を維持した。1921年竣工。」注④と紹介している。

 西澤泰彦氏は「現在も外観は当時のまま」と書かれているが、私が瀋陽薬科大学に赴任した頃(2004年)には、当時のままとは言えないものになっていた。南一馬路(旧南一條路)に面した正面の、向って左部分が撤去され、そこには鉄路招待所(団体の宿泊所)のビルが建ち、図書館の左右対称性を壊しているだけでなく、図書館そのものを圧迫している感じを与えていた。そのような形になっていても、なお魅せられる優雅な建物であった。

なお、満鉄奉天図書館の前身は1910年に奉天小学校内に設けられた図書閲覧所で、その後1915年に駅前の満鉄事務所の二階に移転、17年には奉天簡易図書館と呼ばれるようになり、20年に奉天図書館と正式に呼ばれるようになった。その翌年の21年に竣工した、南一條路(現、南一馬路)と萩町(現、南京南街)の交差する西北角の新しい建物に移り、光復(日本の敗戦)前まで、情報収集や研究者向けの図書館として、その役割を果たしてきた。この間25年には後方に四階建ての書庫が建てられ、29年にはアメリカのブランド工場で造られた鋼鉄製の書架も取り付けられた。

 現中国が瀋陽を解放した1948年以降は瀋陽鉄路局の図書館として使われてきた。この一角には図書館、招待所だけでなく、図書館の北側に図書館の建物と同じような色と壁の校舎もつ瀋陽鉄路第五小学が隣接していた。その北西にはのっぽのビルが見え、その天辺に華晨汽車とCANONの広告看板が見える。このビルは中華路(旧千代田通り)に面したビルだ。

 満鉄奉天図書館は、衛藤瀋吉氏の父である衛藤利夫氏が図書館長(1922年~42年)であったとき、閲覧方法を開架式から閉架式に改め、その分、必要な書物を捜しやすいように、著者・書名・件名などのカード目録が整備された。また、時局に合わせ、「時局文庫」と銘打って、満洲や蒙古関係の書物を陳列し、公開して、入室自由、閲覧自由を認める特別室も設けられた。この部屋は「満蒙文庫」の部屋とも呼ばれたという。

 衛藤利夫氏と満鉄奉天図書館については、衛藤瀋吉氏が「大学の専科を出て後、東京帝大附属図書館の司書となり安月給を惜しげもなく書籍に投じ、極貧の中で暮らした。大正八年満鉄が司書を求めているのに応じて、大連図書館勤務となった。翌九年新設の満鉄奉天図書館に移り、以来昭和十七年まで勤める。大同学院非常勤講師であったのはこの図書館長時代のことである。」「昭和十七年満鉄の停年にはまだほど遠いのに、とめるのを振り切って図書館長を罷め、東京に移った。ひとつには私のすぐ上の兄三男を病で失ったことにもよるが、満洲国に絶望したこともその一半の原因をなしている。」注⑤と書いている。



2、瀋鉄図書館(旧満鉄奉天図書館)の取り壊し

 このHPのシリーズの「22、旧千代田小学校界隈と旧南一條通(2007・12・15)」「8、満鉄附属地(2006・01・03)」でも、旧満鉄奉天図書館については触れてきている。特に前者では、2ヶ月を期限に取り壊しを始めるというビラが2006年6月2日付で玄関の扉に張り出されたこと、しかし、2007年8月上旬の帰国に際しても、工事塀で囲まれてはいたものの取り壊されてはいなかったこと、帰国後に中国の友人にメールで確かめたところ、この土地の使用権を香港の長江実業の経営者李嘉誠なる人物が6億元で購入、この地に商業ビルを建てることになっていること、建物は瀋陽政府の判断で別な場所に原型のまま建て直す計画だが、その場所は確定していないことなどを紹介した。

 その後の様子を、白菊(奉天葵小学校20年卒)さんがHP「瀋陽近譚(物語)」の「奉天満鉄図書館の現状」で紹介されている。貴重な写真、それに取り壊しに関する瀋陽市民の動きなども、中国のネット「瀋陽論壇」から採録し翻訳掲載されていて(これらは満鉄会報09・01に掲載予定の原稿の転載とのこと、但し、09年2月12日付けの朝日新聞の記事があり、01は1月のことではないようである。)、2009年に1月中旬に取り壊されるまでの経過がよく理解できる。特にこの中で紹介された、08年4月1日付で、中国記憶論壇遼寧版全体網友、瀋陽歴史文化遺産保護志願者の連名で、国家文物管理部への請願書は貴重な資料であろう。そのような動きにも関わらず、取り壊しは実行されてしまった。白菊さんが書かれているように、「所詮は『ゴマメの歯軋り』でしかないのか」というところであろうか。

瀋鉄図書館(旧満鉄奉天図書館)、鉄路招待所、瀋陽鉄路第五小学のあったところは、現在は更地になり、本格的な工事用の外塀で囲まれてしまった。今年(09年)9月に瀋陽に行かれた栗原節也(私のHPに何度も情報を寄せてくださっている方)さんから頂いた写真でも、「新世界中国地産(瀋陽)」の文字を書き巡らした外塀が更地を囲んでいる。11月に中国友人に送ってもらった写真では、工事車両が出入りし、クレーンなども設置され始めたようだ。


更地: 

右上角は 遼寧中華劇場

(提供:方家)

旧駅前満鉄事務所

瀋陽鉄路第五小学

後方に華晨などの広告牌

満鉄図書館の蔵書印

門扉に貼られた

移転の通知

工事塀で囲われた図書館


 瀋陽鉄路第五小学の運動場から見た旧満鉄図書館、

 4階建てのボックス状の建物は書庫

左部分が撤去され、そこに鉄路招待所












更地

(提供:中国人朋友 許広軍)

更地の囲い

(提供:栗原節也)

3、移転移築

さて、どこに旧満鉄奉天図書館は移転移築されるのか、されたのか。中国のネット「中国記憶論壇遼寧版」に、09年1月15日付で孫葉新さんがネット仲間に提供した写真と解説がある。それによると、和平区南三馬路10号(遼寧電影製片廠が取り壊された跡地)に移転移築され、08年10月8日から工事が始まったとある。但し、冬季は工事が停止されるので、現在は進行していていないとのことである。この建物の東隣には車向臣の旧居があることも紹介されている。そして、写真提供者の孫葉新さんは、「悔しい、立派な美しい老建築が二棟取り壊され、一棟の贋物の建物が建てられるとは」と嘆いている。

ネット仲間は、孫さんの嘆きと全く同じ「立派な美しい老建築が二棟取り壊され、一棟の贋物の建物だけに」だけでなく、「元の建築はいつまでも維持し続けることはできないと思うよ」「落ち着くところ、きっと懐遠門と同じで、文化価値はなくなる」「全てのものは、人類共通の財宝である」「こんなの、ズボンを脱ぎ、屁をかましてしまえ」との反応を見せた。

懐遠門(大西門)はできるだけ原型の形式を踏んで再建されたといわれるが、どうしたことか、懐遠門(大西門)の門額は誤って、内外逆に文字が嵌め込まれ、外側が漢字になっているなど、やはり多くの面で原型を伝えて居らず、文化価値がない建造物になっている(このHPシリーズの「4、瀋陽城市城壁と城門」を参照ください)。

移転地を地図で確認してみよう。地図上に示したAからBへ移転している。カラーの大奉天案内地図では満鉄消費組合が南三條通と南四條通の間に描かれているが、これは誤りで、南二條通と南三條通の間、輸入組合と同じブロックに描かれるべきものである。この地図では忠霊塔の西に満鉄奉天図書館が描かれている。また、平安座が平安広場のところに描かれている。

孫葉新さんが提供している、旧満鉄奉天図書館の移転移築場所の基礎建築写真には、平安座の入っていた建物(現、瀋陽市文化宮)が後方に見えている。この建物は軍艦の形態をなしているといわれたが、その軍艦の煙突2本も微かにではあるが見える(このHPシリーズの「5、満鉄附属地、その1」を参照ください)。

奉天附属地

地番入り平面図の一部

昭和7年

奉天地方事務所土木

大奉天案内地図の一部

昭和9年

奉天広告

取り壊されてしまった遼寧電影製片廠

人民教育家 車向臣の旧居

新図書館の基礎打ち

孫葉新さん撮影


市文化宮

旧平安座の入る建物



奉天市全図の一部

昭和7年

大阪屋号書店

4、新・満鉄奉天図書館

 工事は冬季には停止されていて進行していないと、今年(2009年)初めに、孫葉新さんが紹介していたが、工事に進展が見られたのだろうか気になり、11月に入り、中国友人にメールで確かめてみた。友人はほぼ完成している新・満鉄奉天図書館の写真を数枚送ってきてくれた。移転前の旧・満鉄奉天図書館と新・満鉄奉天図書館を見比べてもらいたい。旧・満鉄奉天図書館は地下一階、四階建ての書庫を有す本体は二階ないしは三階建ての建物であった。新・満鉄奉天図書館はどうであろうか。本体自体が五階建ての建物になっている。また書庫と思われる、車向臣の旧居の東隣の建物は六階建ての建物だ。外壁の色は似せてはあるが、これで不可移動文物の移築とみなして良いのであろうかと疑ってしまう。

 本来の建造物は、少なくとも本体は木造モルタル塗りの建物であったはずである。孫葉新さんの基礎打ち写真を見るかぎり、建物は鉄筋コンクリート柱による骨組み方式のようである。五階、六階建の建造物であれば、木造建築は一般には無理である。以前より狭い敷地に建てるのだから、原型を損なわずに建てられるはずがない。正面入口、窓など少しは原型の姿を取り入れようとしているのであろうが、別物である。瀋陽市公用建築設計院が設計し、瀋陽故宮古建築有限公司が施工に当ったようだが、旧文物の再建にはなっていないと言えよう。正に、立派な美しい老建築が二棟取り壊され、一棟の贋物の建物が建てられたのである。

5、再建復元はどこの請負

 ところで、この再建に関わったのは上記の瀋陽市公用建築設計院と瀋陽故宮古建築有限公司であったかどうかも定かでない。孫葉新さんが写真に撮った「工程概況牌」には工程名称:鉄路図書館、建設単位:瀋陽鉄路房地産開発集団有限公司、施工単位:瀋陽故宮古建築有限公司、設計単位:瀋陽市公用建築設計院、管理単位:瀋陽市極東建設工程監理有限公司、建築形式:框架、建築層数:5層、開工日期:08年10月8日などを記しているが、建築面積、施工許可証号、竣工日期の年月日などが空白のままで記載されていない。特に、施工許可証号が記載されていないのはどうも腑に落ちない。

 中国の友人が知らせてくれたネットのアドレスに、「遼寧省招標投標監管網」があった。入札の募集及び応募の監視管理ネットである。そこに、「瀋陽鉄路局図書館異地換建項目」というのがあった。募集単位は瀋鉄房地産開発集団有限責任公司、募集代理機構は瀋陽入札募集センターである。そして、その入札募集公告にはその趣旨や、建設地点、工程規模、建設期間などの工程項目や応募人資格などが明示され、入札応募期間や必要書類、入札応募の連絡先、そして請負者を入札により決定する日などが記載されていた。

 具体的な主な内容は、建設地点は瀋陽市和平区南三馬路10号、工事の開始日は2009年4月7日、完成日は2009年6月30日、応募資格は文物保護工程施工三級以上、入札応募期間は2009年3月9日から3月13日まで、入札による請負者の決定は2009年4月2日9時30分(北京時間)などであった。そして、この公告の掲載日付は2009年3月9日になっていた。

 ネットに掲載されたこの公告は、どのように解釈すればよいのだろうか。既に建築現場に掲げられた「工程概況牌」では工事は2008年10月8日から始まっており、設計者や施工者の名も記載され、基礎打ちの工事も既に始まっているのに、ネットの入札募集公告では、請負者募集を入札によって行なおうとしている。既に始まっている工事なのに、工事期間も新たな2009年の4月,5月,6月の約3ヶ月としているし、どうしてなのか、全く分からない。

 入札による請負者の決定日(4月2日)以降の「遼寧省招標投標監管網」の請負者当確欄の頁を調べてみても、この工事の請負者が決定されたという事項の記載は全く見つからない。勘繰ってみると、政府の許可のないまま建築し始めたこの工事、政府や民衆の手前、形式的にしても入札の募集をせざるを得なかったのかもしれない。もし、このような背景の中で建造された建物であれば、外観がそっくりだとしても中身はいい加減で、文物としての建物の条件を備えられなかったであろう。況して外観さえ大きく変化させてしまっているこの新鉄路図書館(新・満鉄奉天図書館)については、何をか言わんやである。

6、車向臣の旧居

 今回のテーマの余録である。新・満鉄奉天図書館に囲まれたように残され、整備された建物が車向臣の旧居である。車向臣の名は、私は始めて目にした。車向臣の「臣」の発音は「chenの2声」である。忱も同じ発音である。そこで、車向忱とも書かれている人物だ。「瀋陽百年」注⑤でようやく彼についての記述を見つけた。表題は「車向忱:人民教育家」というものである。この人物紹介を要約してみると、次のようになる。

 1897年、遼寧省法庫県生まれで、1918年に北京大学高等補修班で学習、翌年19年強烈な愛国心を抱いて『五四』反帝国愛国運動に参加、その年に大学の哲学系に入り学習する。1921年、大学附属平民夜学を創設する。その後、瀋陽で平民学校を興すだけでなく、多くの民衆を目覚めさせ、日本の侵略に対する反対工作を行う。1930年には多くの群衆を組織し、日本が輸送するアヘン数百箱を焼きはらった。自国の品を用い、日本の物品を排斥し、アヘンを吸うこと拒むようにと、学生に提唱させ、全東北人を驚かせる。1931年の九一八事変(満州事変)後、北平(北京)に潜入し、『東北民衆抗日救国会』を成立させる。生命の危険を冒し、北平から東北に三回も潜入し、抗日義勇軍と連絡を取り、抗日工作を推し進めている。

 1935年には、西安に赴き、東北から逃げ出してきた人々の児童のために、私立東北競存小学校を創設、中共地下組織と国民党の張学良の支持下に『東北民衆救亡会』発起し成立させた。西安事変では中共と国民党の間にあって、平和的な解決に貢献する。この後、北競存中学校を創設し、学校に中共地下支部を建立し、秘密連絡基地とし、多くの革命志士を育て、送り出した。

 1949年東北人民政府が成立すると、政府委員に選ばれ、教育部長になり、東北実験学校校長、瀋陽師範学院院長、瀋陽体育学院院長を兼任した。人民教育家として、理論を実際的な民主教育と結合させる態度を常に維持し、各方面の人材を育成し、全東北の教育建設を大いに推し進めた。

 1971年、『四人組』の残酷な迫害を受けて、冤罪を晴らすこともできずに亡くなった。でも、1978年10月、中共遼寧省委員会は車向忱の無実の罪を雪ぎ、冤罪を晴らし、名誉を回復させた。

 以上、人民教育家、車向忱の紹介である。ところで、旧居を示す黒色牌には「 瀋陽市不可移動文物 車向忱旧居 瀋陽市文物局立 」と金文字で書かれている。第一陣の瀋陽市不可移動文物の中には車向忱旧居はなかったのだが・・・・。

 

次回は旧奉天独立守備隊司令部(湯玉麟公館)の現状を紹介する。

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参考図書

注① 「図説 満洲都市物語」83頁、西澤泰彦、河出書房新社、1996年

注②        同上、82頁の写真解説

注③ 「図説 満鉄 『満洲』の巨人」102頁

西澤泰彦、河出書房新社、2000年

注③        同上、101頁の写真解説

注④        「渺茫として果てもなし―満洲大同学院創設五十年―」昭和56年

「大同学院創設五十年に寄す」中の「父のことども」衛藤瀋吉

注⑤ 「瀋陽百年」295頁、瀋陽出版社、1999年

取り壊し前の瀋鉄図書館(旧満鉄奉天図書館)

スパニッシュ様式

外壁モルタルの木造建築

満鉄奉天図書館




新しく建てられた瀋鉄図書館(旧満鉄奉天図書館)と車向臣の旧居

撮影:中国人朋友 許広軍

工程概況牌

施工許可証号は無記載

遼寧省招標投標監管網の

瀋陽鉄路局図書館異地換建項目








美しく化粧直しされた車向臣の旧居

黒色の牌には瀋陽市不可移動文物とある。

撮影:中国人朋友 許広軍