イギリスの現行紙幣とその周辺 その5

加藤正宏

イギリスの現行紙幣とその周辺 その5

加藤正宏

 先ず兵庫貨幣会の「泉談その223 イギリスの現行紙幣と、その周辺(5)」の内容を削除や追加しながら、70年代の旧紙幣を紹介させてもらう。

旧5ポンド紙幣について

 図は5ポンド紙幣の正面の中央にあるものである。

 建築家レンによって大火災から不死鳥のように復興したことと、50ポンド正面の中央に描かれたフォイニックス(不死鳥)が関わっているように、20ポンドの正面の中央の図も、10ポンドの正面の中央の図も背面の人物と関わりが認められた。5ポンド紙幣の表の中央にある図も上記3紙幣と同様に、背面の人物や図柄との関わりが推測される。

 図柄はウエリントン公爵の戦闘図である。調べてみると、彼が活躍した半島戦争の期間中、常に使用していた図柄に、翼を持った(「勝利」を象徴化した)人物が、右手に勝利を示す月桂樹の冠を持ち、左手で古代の戦車を走らせる、この古典的な図柄があることがわかった。

 となると、この戦闘図は我々がすぐウエリントンと関連づけて連想するワーテルローの戦いではなく、「半島戦争」のそれということになる。

 「ウイーン会議での列国の利害衝突の事情を察したナポレオンは、翌15年2月エルバ島を脱出して3月パリに入り、ふたたび皇帝となった。しかし6月のワーテルローの戦いで、ウエリントンの率いるイギリスとプロシアの連合軍に大敗し、ナポレオンはセントヘレナに流され、ルイ18世が位に復した。」(山川出版・『詳説世界史』)に見られる如く、一般にはワーテルローの英雄として知られていて、半島戦争での彼の活躍は日本のどの世界史教科書にもふれられておらず、教師もこのことについて言及することは、まずないと言ってよいと思う。半島戦争を扱う場合、ナポレオンの大陸支配に対して立ち上がる民族的抵抗としてとりあつかい、スペインやポルトガルの民衆が主人公なのである。農民を中心とした民衆のゲリラ的な抵抗と、それに対するナポレオンの残虐な弾圧は、画家ゴヤの手になる「5月2日の変」

 「5月3日の処刑」の絵によって生々しく伝わってくる。教師が半島戦争に言及するとき、この絵のコピーを利用することが多い。そこで語られるのは、解放者にして侵略者なるナポレオンに対する民衆の抵抗であって、ウエリントンの活躍ではなかった。

 しかし、イギリスの教科書(『全訳 世界の歴史教科書シリーズ イギリスⅣ』帝国書院刊)によると、次のようになる。

 「1808年に始まる半島戦争のなかで、イギリス側のチャンスが到来した。スペイン人がフランスの統治に反対して反乱をおこしている間に、小部隊のイギリスの遠征軍がポルトガルに上陸した。ポルトガルもまたナポレオンに協力することを拒みつつあった。・・・・(筆者による中略)・・・・。ウエリントンは彼の戦術上の手腕をはっきしたのである。すなわち、短い戦闘をやってはそのあと規律正しく防御線の内側に退却するという方法を繰り返して、スペイン内のフランス軍を衰弱させた。1813年までに、彼はスペインを真っすぐに縦断し、ピレネー山脈を越えてフランスの中へと前進することができた。ツールズに到着するやいなや(1814年4月)、フランス軍が降伏したことを知らされたのである。」と。

 そして、ワーテルローの戦いについては、

 「6月18日、ウエリントン公とプロイセンのブリュッハー将軍の率いる連合軍が、ブリュッセル近くのワーテルローでナポレオンを打ち負かした。その戦いは、ウエリントンの言葉を借りるなら、『これまで経験した一番短距離の競争のようなもの』であった。ナポレオンは今度はセント・ヘレナ島に流され、1821年にその地で死んだのである。」と。

ワーテルローの戦いと同等、否、それ以上に半島戦争での活躍が記載されていて、日本でのおさえ方とは違っていることが分かってもらえたのではなかろうか。

 余談ながら、付け加えると、ウエリントンもナポレオンも共に、1769年、前者はアイルランドの貴族、後者はコルシカの貴族の家に生まれている。そして、両者とも10代の初めにフランスに送られ、共にフランスの兵学校で学んだという因縁を持つ。

 この図は兵庫貨幣会誌に載せた図である。左が旧5ポンド紙幣背面の図、紙幣のそれが誰の原画か定かではないが、左の肖像画の構図とそっくりだと私には思える。それぞれの身体は真正面向いているようで、実はそれぞれ少しずつ左右に傾いている。組んでいる左右の腕が上下逆になっているが、服装や勲章なども全く同じである。トーマス・ローレンスの描いた右の肖像画を鏡に写せば、紙幣のそれに完全に合致しそうだ。ローレンスがウエリントンのこの肖像を描いたのは、ウエリントンが公爵の爵位を授かった1814年、40歳半ばの頃である。

 透かしはウエリントンの顔である。その顔は一つでなく、上下に連続し、図に見られるように甲・乙・丙などの紙幣の幅で切り取られ、紙幣ごとに異なっている。



 5ポンド紙幣の正面の古代の戦車




























 「5月3日の処刑」










 ウエリントンの透かしと

トーマス・ローレンスの描いたウエリントンの肖像と紙幣の肖像

現5ポンド紙幣について

 背面は右にエリザベス・フライ(1780-1845)、左にワークハウス(軽犯罪者を収攬し、短期の矯正労働を課する施設)における彼女の活動を描く。19世紀に刑務所の改善に寄与した社会活動家がエリザベス・フライであった。私たち日本人にはほとんど知られていない人物と言えよう。

 しかし、イギリスの教科書(『全訳 世界の歴史教科書シリーズ イギリスⅣ』帝国書院刊)では、一頁強にわたって、彼女の業績を取り上げている。その主要部分を引用しておく。

 「監獄改革への彼女の関心は1813年にさかのぼる。その年イギリスにやって来たあるアメリカ人のクウェーカー教徒が彼女にニューゲイトにおける悲惨な状態について語った。きちんとした寝床などなくて、不潔なわらがあるのみ、病人のための医者や薬もなく、しかも超満員の状況であった。フライ夫人と彼女の友人たちは最初、子供たちのための衣類の包みと婦人が横たわるための清潔なわらを届けた。そのうち、とうとう彼女は直接女囚と話をするために監獄の構内におもむいた。看守は彼女が襲われるのを心配して、押しとどめようとした。ところが彼らが驚いたことには、『平のクウェーカー教徒』の服装をしたフライ夫人の威厳ある姿が入っていくと、囚人たちはその場に立ち止まったのである。そして彼女の慰めの言葉に静かに聞き入ったのちに、彼らはまた来てほしいと懇願するのであった。 30年間、フライ夫人は監獄および囚人護送船をより人間的なものにするために、倦むことなく働き続けた。『処罰は恨みを晴らすためのものではなく、犯罪を少なくし、罪人を改心させるためにある』と彼女は言った。彼女のニューゲイト訪問は定期的に行われた。そして彼女はそこでの訪問者と講師の当番表を作成し、監獄内に学校を設け、婦人のための裁縫教室をはじめた。」

 「フライ夫人によって提案された多くの改革は、彼女の死後になってやっと実行された。一つの例は、流刑の廃止(1853)である。しかし彼女の影響力の最大の成果は、婦人がもはや足かせをはめられたり、囚人護送船に乗せられたりすることがなくなったことである。エリザベス・フライ―『監獄の天使』―は、女性が公事に活発にかかわることは不適切と考えられていた時代にあって、イギリス史上、最も偉大な女性の一人として、フローレンス・ナイチンゲールと同列に並べられる。」

紙幣左の図柄の内容がこの教科書の解説で十分理解できると思う。








 エリザベス・フライ

 

監獄改革 

 背面の人物や図柄

ブリタニア

 紙幣の正面(エリザベス2世の肖像がある側)左に円形のホログラムがある。紙幣の傾け具合で、「5」になったり「女性像」になったりする。この女性像は古代ギリシア・ローマ風の鉄兜をかぶり、ユニオン・ジャックが描かれた盾と海原を統べるトライデント(三叉の鉾)を持つ女神で「ブリタニア」という。旧5ポンド紙幣でも正面中央の2頭の馬が引く古代戦車の下の円内に「ブリタニア」が描かれている。そういえば、どのイギリス紙幣にもこの「ブリタニア」を描く小円が描かれている。例えば、私の手持ちでは10シリング(1960-70年の間発行)や1ポンド(1960-77年の間発行)などは正面と背面にこの「ブリタニア」を描く。勿論、コインなどにも刻まれてきた。旧の貨幣単位では、1グロートが4ペンス、1シリングは12ペンス、2シリングが1フロリン、5シリングが1クラウンで、20シリングが1ポンドであった。

 

 円形のホログラム

「ブリタニア」

 10シリング(1960-70年の間発行)

 1ポンド(1960-77年の間発行)

 このシリーズの『続 イギリスの現行紙幣と、その周辺 その3』に掲載した1ポンド紙幣にもブリタニアが描かれている。上記のそれとは異なり、正面を向いたブリタニアである。比較していただければと思う。

 ブリタニアについてはボナンザ第10巻第8号に溝田泰生氏が「英国コインにおけるブリタニアの沿革」を著しておられ、その内容は大いに参考となる。

 「ブリタニア」とはイギリスを擬人化した女神であり、象徴とされる。由来はグレートブリテン島のラテン語名で、西暦2世紀のローマ帝国で、ブリタニアは擬人化され女神となり、のちにはイギリスの象徴とみなされるようになった。

 溝田泰生氏が「ローマ征服時代に、コイン上にブリタニアの像が最初に現れるのは2世紀である。今日残されたコインから、それはローマ皇帝ハドリヤヌス(117-138)、アントニウス・ピヌス(138-162)、コモヅゥス(177-192)時代のものである。」と記されている。

 私もイギリスで購入したコインガイドを調べてみた。写真で示したような頁が『COINS OF ROMAN BRITAIN』に見つかった。   「ブリタニア」のコイン上の起源はローマ帝国時代にあったのだ。それも、皇帝のイギリス(ブリテン)訪問記念であったり、イギリスでの戦勝記念として造られたのだ。女神の下に「BRITANNIA」と刻まれている。当時のコイン上の盾にはもちろんユニオンジャックは描かれていない。

 溝田泰生氏の記述では「このブリタニアの像が、後世イギリスで、イギリス人によって最初に描かれるのは、前述のようにチャールズ2世の時代になってからである。」「イギリスのコインに、ブリタニアが初めて現れるのは、チャールズ2世の1672年である。・・・・(筆者による省略)・・・・。半ペニー銅貨とファージング銅貨が初めて発行されたが、これらの銅貨にブリタニアが初めて姿を現すことになる。ブリタニアは左向きの坐像である。ジョージ4世以降は、右向きの坐像に変化する。右手は肘を深く上の方に曲げて、木の小枝を抱いている。左手は下に下げて矛を持ち、ユニオン・ジャックを描いた丸い盾に手をかけている。像の左右に BRITEN NIA の銘字があり、下部に年号が入っている。」とある。チャールズ2世はピュリタン革命(1649年)後の王政復興(1860年)で王位についた人物だ。

 貨幣単位のペニーとファージングであるが、1ペニーが4ファージングにあたる。半ペニーは2ファージングとなる。これらは旧の貨幣単位であるが、1ポンドが240ペンスに相当していた。現在は10進法になり、1ポンド100ペンスになっている。

 『COINS OF ROMAN BRITAIN』より

ジョージ3世 ペンス(1797年) ファージング( 1799年、1806年)

ウイリアム3世 ハーフペンス 1700年 

 ジョージ2世 ハーフペンス(1750年)  ファージング(1749年)  

ジョージ4世 ファージング

(1826年正面に年代、背に年代の2枚) 

ウイリアム4世 

フアージング(1835年)

 グロート銀貨( 1836年)

 エリザベス2世

2ポンドシルバー

 現10ポンド紙幣    ホログラム

ホログラムの図柄はブリタニアだが、

5ポンドのホログラムのブリタニアの姿とは異なる。

エリザベス2世

2ポンドシルバー 

 上段 半ペニー  下段 フアージング

左からビクトリア2枚、エドワード 7世、ジョージ5世の背面

ペニー

上段   左からジョージ3世とビクトリア3枚

下段  エドワード7世、ジョージ5世、ジョージ6世、エリザベス2世の背面 

 上段2段はペニー

3段目は半ペニー

4段目はファージング

 私もブリタニアを刻むいくつか異なるペニーとファージングを所持しているので、写真に撮り上下に掲示しておく。手持ちの最も古いのはウイリアム3世(1694-1702)の1700年銘のコインである。

 手持ちはこのように僅かであるが、イギリスのネットには随分と写真が紹介されているので、その一部のリンク先を提示しておく。 リンク先1 リンク先2

 ジョージ3世、 オールドタイプのビクトリア

ビクトリア、 エドワード7世のフロリン銀貨

 上下 ビクトリア エリザベス2世(ニューペンス)

左右 ジョージ5世 エドワード7世

 溝田泰生氏によれば、帆船や燈台の有無、矛先の違い、盾の違い、ブリタニアの座り方や向き、左右の足の前後、坐像か立像かなど、それぞれの国王の時代や時期により変化があるとのことである。

 そう言えば、現10ポンド紙幣と現5ポンド紙幣の円形ホログラムに描かれたブリタニアの姿は異なっている。特に矛の位置が異なっている

 手持ちコインの中

左隅がイオニア貨とトークン 

トークン ブルタスとブリタニア 

 イオニア諸島合衆国のコインにはベニスの支配とイギリスの支配が図柄に明確に刻まれている 。

 ところで、ローマ帝国の皇帝やイギリスの国王を正面に刻まぬ「ブリタニア」のコインも存在する。私も2枚所持している。

 一枚はイオニア諸島合衆国1レプトンのそれである。イタリアの足先のイオニア海、ギリシア本土の沿岸に位置するこれらの島々は、いろんな国々の支配を受けてきた歴史を持っている。それらの支配の中でも、13世紀初頭から15世紀にかけて支配したベニス(有翼の獅子)と、1815年から64年にかけて保護国としたイギリス(ブリタニア)の支配を物語るのがこのコインである。

 もう1枚はブルタスの像を刻んだものだが、彼は国王でもないし、ローマ皇帝でもない。シーザー(カエザル)に「ブルタス、お前もか」と言わしめた暗殺者ブルタスでもない。一団のトロイ人を率いて、イングランドにやって来て、イングランドの礎を築いたとされる、伝説上の人物である。中世のイングランド伝説から造られたトークンなのだ。

旧紙幣と現紙幣との間に発行された5ポンド紙幣

 紙幣肖像にはジョージ・スチーブンソンが描かれ、その左には彼が造って走らせた機関車『ロケット号』が描かれている。日本では、東京―名古屋間を結ぶ超特急のリニアモターカーが2027年に開通し、最高速度時速550キロを出すことができるとの発表が行われて、話題を提供している(2013年)が、その出発点でもあったのがこの機関車がであったろう。

 日本の教科書(実教出版『高校世界史』)は次のように記載している。

「スチーブンソンが蒸気機関車を実用化(1814年)してから交通機関に鉄道が登場し、馬車にたよってきた陸上運輸は、画期的な発展を遂げた。」

そして、蒸気機関車ロケット号の挿絵説明には次のような記載がある。

「スチーブンソンが製作したロケット号は、平均時速22.5キロ。1830年リバプール―マンチェスター間にしかれた鉄道を走る最初の機関車となった。」

 勿論、イギリスの教科書には「ジョージ・スチーブンソンと『ロケット号』」の見出しの下、写真も含め数頁にわたって記載されている。しかし、「彼(スチーブンソン)はしばしば機関車の発明者とみなされるが、ジェームズ・ワットの場合と同様に、彼はパイオニアではなく、偉大な改良者であった。蒸気でピストンが効率的に駆動される機関車という主な特徴は、すでにトレヴィシックのエンジンに含まれていた。」と記載があり、トレヴィシックの功績の上に彼の功績が積み重ねられたことが明記されている。そのこともあってか、トレヴィシックの蒸気機関車が2ポンドコインに登場している。

  スチーブンソン


ロケット号 


 トレヴィシックの

蒸気機関車 2ポンド

 発行予定のチャーチル肖像の

5ポンド紙幣

2016年発行予定の5ポンド紙幣

 イングランド銀行の総裁が新5ポンド紙幣の肖像にチャーチルを取り上げたことについて、「彼の指導力は我々が今日享受する自由が生き残るのを手助けした」と述べたそうだが、イギリスの教科書(『全訳 世界の歴史教科書シリーズ イギリスⅣ』帝国書院刊)には次のように書かれている。

 「 首相に任命されてから三日後、チャーチルは下院で、『私の提供できるものは、ただ血と労苦、涙と汗のみである』しかし『いかなる犠牲を払っても勝利をおさめる』と、演説した。彼が何を言いたかったかは、はっきりしていた。断固たる決意の面でヒトラーに匹敵する指導者を持ったのである。」

 「一連の演説のなかでチャーチルは、他の誰にもできなかった調子で、イギリス人の挑戦的な精神を表現した。それに対する反応はすぐに現れた。人々は軍需工場で働くために集まってきた。彼らはまた、地方防衛義勇隊に加わった。」

 最後に、再度イギリス人の思いを紹介しておこう。

 「チャーチル首相の戦時中の演説は、今も私の耳にありありと残っている。ラジオから流れる彼の言葉に、私たちは食い入るように耳を傾けたものだった。聞いているうちに、あの暗い戦いの日々の彼方に、一条の希望の光がさしそめるのを感じたものだった。彼の言葉の力によって、絶望的な状況も一変するかに思え、すべてが無意味に見える時にも、確かな意味が与えられる思いがした」(『イギリス人のことばと知恵』 ピーター・ミルワード著 安西徹雄訳)

 なお、チャーチルについてはイギリスの現行紙幣とその周辺 その1でも紹介している。また、イギリスの自治領ジブラルタルでは本国に先駆けて、1995年に50ポンドの肖像として登場している。

 2013年9月26日ネットに上梓