24 葫蘆島(葫芦島)に行く

加藤 正宏

葫蘆島(葫芦島)に行く

加藤 正宏

♪♪♪・・・ひょっこり瓢箪島・・・♪♪♪・・・浪を掻き分け掻き分けどこ~へ行く・・・♪♪♪

   おぼろげに覚えているNHKの人形劇ドラマの主題歌である。葫芦島を日本で一般に使われている言葉で言い換えれば、瓢箪島になる。葫芦島市は遼寧省の西南にあり、ここにある龍港は、大きく取り上げられることは少ないが、日中の絡みがある現代史の舞台になったところだ。

   一つは、満鉄が東北中国の経済支配を進めていく中で、これに対抗して中国の民族的利益を守ろうとして、満鉄の路線に並行、或いは交差しながら計画建設が進められた民族的鉄道路線、その南端に物資の輸出入港として建設されようとしていたところが葫芦島の龍港だ。つまり、日本の物資輸送の独占を打ち破ろうとして築港が急がれていたところである。

   もう一つは日本の敗戦後、引き揚げ船が中国を離れ、日本に向かった港であった。

前者について、以下に原田勝正著『満鉄』岩波新書(1981年出版)を少し引用しておく。

   「しかし、中国東北では、張学良の独自の政策がすすめられていた。張学良は、前にものべたように中国側満鉄並行線の計画を以前からすすめてきていた。一九二七年一〇月には打虎山・通遼間を、一九二九年五月には吉林・海竜の間を開業した。前者は、満鉄線の奉天・四平街の西側を、後者は、四平街・長春間の東側を走る。」

   「中国側は張作霖殺害の直後、一九二八年九月に東北交通委員会を設置した。これは、中国東北における交通・通信を統括する最高機関であった。張学良がリードして、この委員会は一九三〇年五月、連山湾をへだてて営口と対する葫芦島に貿易港を建設すること、そしてこの築港から奉天・吉林を経て撫遠にいたる線、チチハルを経て黒河にいたる線、赤峰を経て多倫にいたる線、この三本の幹線一万キロを一五年間で建設するというのである。」(P.134~135)

   残念ながら、満州事変により、中国人の民族的な築港も頓挫し、満州国時代は日本が活用する港として整備されていった。

   このような日中絡みの現代史の舞台であったところを、目にしてみようと2006年の5月の黄金週間の一日を割き、見て歩いてきた。

   8時に瀋陽北駅附近の虎躍バスターミナルから乗車、葫芦島まで3時間強(66元)、11時少し過ぎには鉄路葫芦島駅前のバス待合所に着く。葫芦島駅前の路線バスの運転手さん幾人かに張学良の築港記念碑のある所を訊ねまわったところ、一人の親切なバス運転手さんが、これに乗って途中で乗換えだと教えてくれた。乗り換えの場所も、着いたら指示してくれ、乗り換えバスも教えてくれた。最初のバスは3路バス、約30分乗車、望海広場で乗り換え、11路バスに乗り換えて終点まで10分。3路が1元、11路が5角。そこは葫芦島の港である龍港だ。

     引込み線の直ぐ近くには渤船重工の会社が港を大きく占有していた。その大きな門からの道路の少し入った所、道路中央に毛沢東の立像が建っていたので、その辺りに張学良の築港記念碑もあるのではないかと思って、門衛さんに聞いてみたら、違っていた。引込み線の先を右に行き、海に突き出した小さな丘の上だと教えてくれる。海に突き出した崖が小さな丘のようになっているところに、小さな亭が二つ見える。その上の方の亭に碑が建てられていた。「中華民国拾九年?月貮日立、葫芦島築港開工紀念」、この文字は張学良の手になるものだ。裏面「1930」とある。

     1995年に葫芦島市龍港区人民政府が「葫芦島築港開工紀念」碑址を修築した。その解説によると、その大要は以下のようなことになる。

   葫芦島の北方は天然の良港で、清末以来何回か築港の動きがあった。例えば、清末光緒34年(1908年)、東北三省総督徐世昌が奉天勧業道黄開文に命じ、黄はイギリスの技師を招き、宣統2年(1910年)工事を始めた。実用経費は銀120余万、400強フィート防波堤である。しかし、経費の欠乏により中止となった。

   辛亥革命を指導した孫文が著した『建国方略』には、葫芦島の築港について綿密広大な構想が記されていた。しかし、その願いは達せられなかった。民国8年(1919年)、当局は資金1千万元を調達し、周肇祥を任じ、築港に当たらせた。しかし、内戦が連年続く中、無為に時間は流れ、計画は流産してしまった。

     1929年、国民政府鉄道部長(※部は日本の省)孫科は前議を継続し、北寧鉄路管理局長高紀毅に築港をやらせた。彼は多くの協議を経て、翌年オランダの会社と契約を結んだ。その建築費は640万米ドルで、民国24年(1935年)10月15日以前に竣工というものであった。

     1930年7月2日、築港開工儀式(典礼)が行われ、東北保安指令張学良将軍がわざわざ参加、自ら書いた「葫芦島築港開工紀念」紀念碑の除幕にあたった。

しかし、工事が進むに到る前に、日本の侵略者が侵入し、工事は中途で挫折してしまった。

     1935年、日本侵略者は「葫芦島港築港委員会」を組織し、この工事中途のままであった港を修築し、三つの貨物運送の桟橋を造り、大連航路を開通させた。

    中華人民共和国建国後、党中央国務院は海港建設を十分重視し、南北物資の交流の作用を発揮させた。しかし、文化大革命期間、紀念碑は海に投げ込まれ、数年後に引き上げられるなどしたため、現在の碑は復元や修繕が加えられてきた。

   世紀の交代に際し、区政府は「葫芦島築港開工紀念」紀念碑址を、その原碑を保ち、規模を拡大することを決定し、貨物出入りの多い停車場を避けて、港の見えるこの現在の場所の亭に建設した。

   以上のような大意の解説がなされていた。

    王貴忠著『東北鉄路建設史(1921年―1931年)』満鉄研究中心(1996年出版)P.170~181から少し補足しておこう(中国文から筆者が大意を抜書きしたものである)。

    1908年の計画は次のような目的や理由があった(上記碑文に書かれた以外に)。冬季不凍の海で、天然の良港であったことや、ここから鉄道線を伸ばせば、錦州、朝陽、赤峰、熱河承徳、瀋陽などの貨物を扱うことができること、大小40余艘を受け入れられる商業港として考えることができたこと。築港期間は1910年に工事を開始し、6年で完成する予定であった。しかし、辛亥革命で工事は停止されてしまった。その後も何度か工事が再開されたが、資金の不足で停止されている。

     1919年の計画は張作霖が遼西と内蒙古を開発させるために、港と鉄道路線を造ることを提案したもので、奉天省政府と北京政府の交通部が調印し、資金1千万元を双方各半分負担するものであった。しかし、直系軍閥が統制する北京政府は東北に港を造る事に積極的でなく、これも資金欠乏で挫折してしまった。

    1929年の計画には張学良が積極的に関わった。葫芦島商港の建設は、奉天省政府の長年の計画項目であった。1927年夏、自前で建設した打通(打虎山・通遼間)鉄路と奉海(奉天・海竜)鉄路が竣工した。そこで、張学良は積極的に東三省交通委員会の築港計画を支持した。1928年5月東北当局は葫芦島商港と京奉(北京・奉天)鉄路を軸の中心とした自前の三大幹線鉄路網計画を制定した。

     1929年夏、張学良は葫芦島商業大海港を修築する決心をし、北寧鉄路局に築港の資金を準備し、毎月、鉄路利潤から50万元を築港基金に抜き取り、瀋陽の各大銀行に蓄えるように指示した。(オランダとの築港会社との築港契約については、契約金、期間等、「葫芦島築港開工紀念」碑址に書かれている内容と変わらない、また、1930年7月2日の張学良が出席した築港開工紀念の典礼の様子も碑址内容と同じだ。)

     1931年9月、北寧鉄路局は毎月の築港費用の他に、瀋陽の中外の各大銀行に預金をした。匯豊和花旗銀行の預金は英国の国債と利息を安定的償還するために、また、中国銀行、交通銀行、更に辺業銀行、東三省官銀号に、合わせて6364809,87元大洋(銀貨をさす単位)、その内、築港基金が5282554,27元を占めていた。九一八事変(満州事変)以後、その築港基金の中の100万米ドル(オランダの築港会社の損害要求は139万米ドル)をオランダの築港会社に弁償費として支払っただけで、日本と偽満州国は残りの築港資金を全部取り上げ、自分のものとしてしまった。

   このように、日本帝国主義が発動した「九一八」事変(満州事変)による東北領土奪取後、築港工程は停頓を余儀なくされ、北寧鉄路局が各銀行に預けた築港基金と各預金も日本軍に差し押さえられてしまった。なお、北寧鉄路は瀋陽から葫芦島までの312キロを走る鉄道であった。

    以上、『東北鉄路建設史(1921年―1931年)』の内容から見てみると、日本の満鉄を中心にした東北の経済支配に対する、その独占的な支配に対抗しようとしていた中国の民族的な動きが読み取れる。

   また日本からすれば、これらの動きは大変な脅威であったに違いなく、これを力で抑えざるを得なくなり、皇姑屯事件(1928年6月4日、日本では満州某重大事件、あるいは張作霖爆死事件)や九一八事変(1931年9月18日、日本では満州事変)を引き起こすことになったのであろう。

   海に突き出た崖でできた丘(碑が移された丘)の一角に、大きなコンクリートの壁が円形を成している。更に山側に同じようなものが二つ、計三つ存在する。地元の老人に聞いてみると「油庫」、「偽満時期の油庫」だという。石油貯蔵タンクだというのだ。当時はコンクリートで出来ていたのかと、金属製のタンクに見慣れた私には少し奇異な建造物に見えた。しかし、当時の中国と日本の関わりを今も示している建造物が存在していることには強く興味がひかれた。

   この丘に連なる丘陵を登っていくと、その眺望は素晴らしく、この記念碑の建っている丘も、港全体も、全て良く見渡せる。美しい海岸線が港の外に続いている。渤海に突き出した遼東半島その先端は大連や旅順になる。そして、この半島の西側に広がる遼東湾の海岸線を見てみると、東の海岸線に営口、そしてそのちょうど対面の西の海岸線に葫芦島が位置していることが確認できる。

   いろんな思い抱きながら、この海岸線から日本に向かった人々が、光復(日本の敗戦の1945年)以後、たくさん居られた。そのことを日本人としてはしっかりと頭に刻んでおくべきであろうと、私は思っている。大きな歴史の流れの中に組み込まれた大勢の日本人が、個人としてはどうすることもできない人生の大きな大きな変転を受け入れ、当時の厳しい状況の中、様々なことを胸に抱きながら、故国日本に向かったのだ。

    東北の奥地から、長春や瀋陽に移動し、更にそこから葫芦島へ、そして故国へと、これらの厳しい移動については、いろんな方がその体験を新聞、雑誌、本、HPなどに紹介されている。なかにし礼さんも、1946年にハルピンから葫芦島へ、そして佐世保に上陸されている。とにかく、葫芦島までの移動が大変だったことが、どの方の手記からも伝わってくる。

     私の手許にも、その体験が幾つか寄せられている。ご紹介しておきたい。

   瀋陽を出発し、葫芦島にいたるまでの思い出は山田さん同様です。途中暴動で破壊された建物に泊まったように思います。列車はなんども止められ、物品、女性を要求されたと聞きました。引き上げ船はアメリカ軍のliberty型だったと聞いていました。

    始めて見る米兵を少し覚えています。船中発熱で死亡する子供がいて、水葬しました。私も高熱を発し、舞鶴港につき、両親の実家の三重県の津に着いたときは、がりがりにやせていて、口の悪いおじにお前は骨皮筋衛門やなといわれました。

     以上、瀋陽日本人教師の会の仲間の辻岡邦夫さん

   小学5年生、確か港には昭和23年6月のなかばの午後到着し、同日午後しばらくしてから直ちに乗船、天気の良い、夕方の陽射しがまだ強く明るく、夕刻5時過ぎに引き揚げ船・山澄丸7千トンは港を離れて行ったように記憶を甦らせております。添付のスナップ(筆者がお送りした葫芦島の写真)からなんとなく、潜在的な想い出の風景の一部にあったような気がしてまいりました。

   それにしても、奉天から葫芦島まで現在では3時間程度で行けるとは・・・当時 止まったり、動いたり、途中 八路軍などの戦場地域を右往左往し乍ら移動して・・・本当に 隔世の感一入で御座居ます。従って、葫芦島の港には到着し、出港までのほんの4,5時間くらいしか居なかったので詳細思い出せなく残念です。

   乗船して、未だ夕刻の明るい陽射しの中、甲板上の舞台では、田畑義夫の「返り船」や「異国の丘」の歌をギターとともに慰問の芸能人だったのだろうか、船が港を出ると同時くらいに、賑やかに、行われておりました(『高千穂会会報』30号26~27頁ご参照戴きたい)。

    以上、上記の辻岡さんの友人、山田二郎さん

   以下『高千穂会会報』30号27頁からの引用(山田二郎さんが書かれた原版は縦書き、旧漢字であったが、数字など横書きするために算用数字に改め、漢字も現在の漢字に改めている。上陸の日付も訂正されたのに改めた。)

昭和23年6月3日

   最終、奉天市大和区朝日街4段地区より奉天引き揚げ集結所に集合。

昭和23年6月4日

   翌日、奉天飛行場より貨物飛行機にて錦州飛行場へ移動、近くまでトラックで移動し4~5日間アンペラ生活・父が有り金全部を持って、近くの市場で買物をして、兄貴全員に青色のバスケットシューズを買って来てくれた。

昭和23年6月9日

   錦州駅より、雨の中葫芦島まで貨物列車で移動。

昭和23年6月10日

    葫芦島港より、夕陽の輝く中、山澄丸(7千屯)に乗船、船上で毎夕「異国の丘」「戦友」「誰か故郷を思わざる」等々の歌声が船一杯に響き轟きわたっていた。

昭和23年6月13日(16日?)

玄界灘の激しい船酔いを経験・通過後、静かな朝靄の立ち込める中、静かな佐世保港に入港(現在の浦頭)。

昭和23年6月17日

   太陽が燦然と輝く午前10時頃、引き揚げ援護局の人に、毛布を家族人数分(6枚)だけ一人ひとりに一枚ずつ渡してもらい、保健所の人々に体一杯真白になる程、DDTをかけられ乍ら、第一歩を浦頭に上陸。浦頭より7~8キロメートルを徒歩にて引き揚げ一時寄留寮(現在のハウステンボス)へ行き、約十日間くらい其の寮に寄留。

    以上、『高千穂会会報』30号に山田二郎さんが書かれた文からの引用(27頁)。

 

    以下は、「留用」(注①)で家族が瀋陽に残り、中学生の時期まで瀋陽で暮らした栗原節也さんの記憶である。

   葫芦島の桟橋から引揚船の山澄丸(山下汽船の貨物船)に乗船した日は1948年6月12日で、16日大村湾針尾島沖着、17日上陸でした。12日の10時過ぎ頃に錦州を発ち、葫芦島に着いたのが、13時頃ではなかったでしょうか。すぐに乗船し、ウインチでの荷物積み込みが終わった夕刻(夕日が沈む頃?)に出港しました。周囲の景色とか港の状況とかを確かめたという記憶は残っていません。

    6月4日:留用解除、遣送命令、6月5日:学校閉校、6月4~8日:引揚げ準備(買物、書籍検印、荷造り等、長兄は小隊の名簿作り)、6月9日:集中営入り、6月10日昼頃?: 飛行機で錦州へ⇒集中営入り、6月11日夕方?:線路下に荷物とともに移動・野宿といった日程(これらの日程についても、幾つかの説がありますが・・・)だったので、かなり疲れていたと思います。

   8日頃春日町に買物に行った時、突然睡魔に襲われ、歩きながら一瞬眠ったことは覚えています。そんな状態だったので乗船してからもボンヤリしていたと思います。 ただ、すごく脳裏に残っていることは、船が離岸した時、期せずして陸に向かって“バカヤロー”の声が起きたことです。この“バカヤロー”には、各人様々な気持ちが込められていたのだと思います。 「早く帰りたかったのに、残されて・・・」、「希望に溢れて渡滿したのに、夢が破れて・・・」、「帰る気はないのに帰らなければならなくなって・・・」、「不本意な、不自由な、不便な生活をさせられて・・・」等々の気持ちではなかったかと、後年になって考えました。

    以上、栗原さんから頂いたメール。

    辻岡さんは舞鶴に上陸されていて、山田さん、栗原さんの二人は佐世保に上陸されている。帰り着いた場所は異なるが、葫芦島までの道中、船中でのご苦労は、御三人共も、いろんな方々が新聞、雑誌、本、HPなどに紹介されている体験と同じような厳しい体験を共有されておられ、身体に刻み込まれておられるように思われる。

   山田さんと栗原さんは同じ引揚船で帰国されたのではないかと私は思っている。15、6歳の中学生であった栗原さんも、正確な日時は記憶されていないところもあるようで、いろんな方々から情報を得られて、栗原さん自身の記憶を再構成されていかれたようだ。勿論山田二郎さんもそうであろう。60年弱も昔のことである。これは仕方のないことであろう。山田さんと栗原さんの出港日の記憶が少し違うが、6月の半ばに出港して6月17日に日本に着いておられる。船の名も到着の日時も同じだ。きっと同じ船で帰国されたのであろう。

   山田さんも栗原さんも、同じ船に乗船されてはいたが、それぞれの思いや感慨があられたことと思う。これは乗船されていたすべての人がそうであったのではなかろうかと思う。大きな歴史の歯車の前に、自分自身の人生が大きく転換されていくのを感じておられたであろうから。

   丘陵の頂から、美しい海岸線を見ながら、60年前後以前に夕陽を浴びながら出港していった船やその船で故国に向かった引揚の方々を思い浮かべつつ、小1時間過ごした。ここ葫芦島から、九門口長城に行く予定であったが、交通の便が良くないことがわかったので、計画を変更し、日帰りで瀋陽に帰ってきた。だから、その日は葫芦島のみの個人旅行の1日であったといえる。バス会社の違いか、帰りは55元5角で済んだ。

 

注① HP瀋陽史跡探訪23「改定版 留用」、または、会誌『日本語クラブ』(2005年度第2号 総第22号)「留用」参照、山田さんのご家族も留用で瀋陽に留まられたと聞いている。 

参考図書

『満鉄』原田勝正著 岩波新書(1981>年出版)

『東北鉄路建設史(1921年―1931年)』王貴忠著 満鉄研究中心(1996年出版)

『山海関外第一市 葫芦島巻』陳玉彬著 遼寧教育出版(1995年)

 

追加記事―

中国の新聞を中心にー

(2008年7月7日、記)

    中国で「引揚げ」をどのように報道しているか、しようとしているのかを新聞記事ご紹介しておこうと思う。

   葫芦島に出かけてから2ヶ月弱後の6月の下旬、新聞二紙に「葫芦島」の文字を見つけた。

   一つは2006年6月20日の華商晨報という新聞に①「日軍油罐将変和平公園」のタイトル、「葫芦島市紀念百万日僑俘大遣返60周年 公園初定6月25日奠基」のサブタイトルで掲載された記事である。もう一つは2006年6月23日の遼瀋晩報の②「葫芦島将建和平公園」という記事である。

     前者の華商晨報の記事を紹介しておこう。その主文は以下の内容(拙訳)である。

   中国を侵略した日本軍が建設した三つの石油貯蔵タンクが和平公園の主体になろうとしている。葫芦島市が数千万元を投資して、この三つの石油貯蔵タンクを中心とした和平公園を造り、100万強の日本人が葫芦島から乗船して引揚げたことの記念にしようとしている。

   小見出しの一つは「三大油罐見証日軍侵華史」で、その大意は次のようなものである。

   葫芦島港すぐ近くの西山に三つの巨大なセメント造りの円形の池が造られた。これは当時日本侵略軍が葫芦島港に造った石油貯蔵タンク(油庫)であった。タンクは直径60m、深さ10m弱あり、歴史資料の記載では、1943年に建造されて、葫芦島に建設された製油所に送る原油貯蔵タンクであった。当時、日本軍が東南アジアから略奪した原油を、この三つのタンクに集め、ここから現在の葫芦島旧市街にある製油所に運ばれ、精製された。日本の敗戦投降後、これらのタンクは荒廃してしまったのだが、まだ一つのタンクには凝固した原油が有る、と。

   私が5月にそれらを見て歩いた時には、どの油庫のも凝固した原油など、目にしなかったが、荒れ果て、土が積もった草の生えているその下には、凝固した原油が見られたのかもしれない。

   二つ目の小見出しは「儲油罐将改造和平公園的主景」で、記者が葫芦島市で見た計画図案や市の企画部門の責任者からの説明を下に、企画されている公園の姿や、理念、建設に掛かる費用などを紹介している。その内容は次のようなものである。

   和平公園はこの三つの油庫が主景となり、それぞれ改造した油庫の間に二つの軸線を造り、三つの油庫を結びつけて、その内二つは引揚げ資料館にし、一つには日本移民の引揚げの苦難を、もう一つには、中国人民の過去の憎しみを考慮せずに日本人の引揚げを手助けした善意、及び中日両国人民が和平を祈願し、歴史を鑑とし、未来に向かって好ましくなるようにしたいとの願いを展覧する。最後の一つの油庫は休息館とする。この公園のテーマは百万の日本人の引揚げを記念するものだから、この公園には更に和平広場を造り、引揚げの地の記念碑を建て、引揚げの彫像などを建てるとのこと。

    この三つの油庫を和平公園の主体とすることで、日本の中国侵略の物的証拠が、(戦争そのものに対する)警告を与えるものになる。6月25日につまり百万の日本人の引揚げ60周年記念日に公園の基礎を打ち込む儀式が行われる。公園への投資総額は5000万元から6000万元の間になる。

   完成図が掲載されていて、その下に次のような記事も見られる。

   1946年から1948年、侵略日本軍に伴なわれ中国にやって来た日本の移民と日本の戦争捕虜、合わせて1051047人が葫芦島港から乗船し、日本へ引揚げた。史学界では「百万日本僑俘大遣返」という。2006年が大遣返60周年である。

   遼瀋晩報の6月23日の②「葫芦島将建和平公園」もほぼ同じ内容である。

   華商晨報の①「日軍油罐将変和平公園」の続報が6月23日に③「日僑日俘来華紀念遣返」として掲載された。サブタイトルは「葫芦島和平公園6月25日奠基 日本前首相村山富市等賓客将應邀参加」となっている。

    主文は以下のようなものである。

   記念碑の形は出港を待ち錨を下ろす船のようである。記念碑は当時中国侵略の日本軍が遺棄した油庫の傍らに立てられた。記念碑の上には「1051047 1946-1948」の字が刻まれている。ここは正に葫芦島市が和平公園を造っている現場で、数十名の労働者が緊張しながら工事をしている。6月25日、日本の前首相村山富市と180名の当時葫芦島から引揚げた日本移民と捕虜がここにやって来て和平公園の基礎を打ち込む儀式に参加する。

     小見出しには「大遣返紀念活動規模空前」「活動的主題是『以史為鑑』」の文字が躍る。6月25日に開催される「葫芦島市百万日僑大遣返60周年回顧曁中日関係展望論壇」は、中国外交部(部は日本の省)が批准し、遼寧省人民政府と中国人民対外友好協会が主催し、省政府外事処、ニュース担当処や葫芦島市政府が受け持ち、中日友協、中国人権発展基金会、日中友協、宮崎市日友好協会と日本信州葫芦島市友好協会が共催するもので、論壇の規模の大きさと来客の地位の高さは葫芦島市にあっては空前のものになる。

   日本からは前首相の村山富市、日中友好協会理事長村崗久平、宮崎市長津村重光などが招かれて論壇に参加、中国側は外交部(日本の外務省)、遼寧省委員会、省政府の指導者が参加する。他に、180名の当時この葫芦島市から乗船して引揚げた人たちも自費でこの論壇に参加し、葫芦島市を観光する。これらの人が6月24日までに葫芦島にやって来る。

     今回の活動の主題は「熱愛平和、反対戦争、以史為鑑、面向未来」で、論壇に参加したり、和平公園の基礎を打ち込む儀式に立ちあい、参加した日本人と中国の関係筋の指導者が和平公園に植樹することになっている。論壇の開幕式には村山富市式辞を述べ、引揚者の刈甲子男さんと国弘佑子さんが演壇に立つ。日本共同社、時事通信社、朝日新聞など主要マスコミの記者が30名強やって来、中国の中央や省級の記者がやって来て報道することになっている。

   式典の前日の6月24日にも、華商晨報では特別報道がなされた。④a「恩」の文字を大きく写した写真とタイトルが三つ、タイトルは④b「中国父母養大日本遣孤」、④c「我勧老郷給日俘米吃」、④d「葫芦島是日僑再生地」である。

   これら三つのタイトルに先立ち、「日俘日僑大遣返60周年」の重点提示として、下記原文が書かれている。

   6月25日、葫芦島市将挙行『葫芦島市百万日僑大遣返60周年回顧曁中日関係展望論壇』、併将侵華日軍遺棄的油罐傍建起和平公園。届時、日前首相和180名当年被遣返的日僑日俘也将来参加和平公園的奠基儀式。

   当年中国有日僑日俘300万人、僅在葫芦島就遣返了1051047人。従1946年5月7日開始、経過両年四个月、葫芦島展開日僑大遣返工作。中方対此還提供了極大的財力、物力和人力保障。

     この原文に見られるように、今回の特別報道は将に、中国が中国人が引揚げには大いに手助けしてやったんだぞという内容になっている。

    ④a「恩」の文字を大きく写した写真の下には、下記のような内容が記載されている。写真は内容からすると佐々木宗春さんが立てた碑に刻まれた「恩」の字の写真ということになる。

   1946年、佐々木宗春さん引揚げ者の集団と共に葫芦島にやって来たが、重病になり、この危険で困難な状態のとき、三人の葫芦島人が彼女を死神の手から救い出し、食べ物を与え、困難を克服するように励ましてくれた。彼女はすごく感動を覚えた。

   2001年と2002年に80歳を越えた佐々木宗春さんが葫芦島に二度やって来て、恩人を探した。彼女は自己のあまり多くない年金の中から8万円を供出し、銀杏の木4株を買い、葫芦島の龍湾公園に植え、恩を感じたことを刻んだ碑を立てた。

   ④c「我勧老郷給日俘米吃」の内容だが、サブタイトルは「80歳抗聨老戦士回憶押運戦俘過程」で、小見出しに「日軍戦敗 決戦成『追討遊戯』」、「以徳報怨 勧百姓拿米給戦俘」「日僑日俘 一天消耗粮80万公斤」とある。これら小見出しを基に大掴みの内容を述べておこう。

    教導旅団(文中に「教導旅(抗聨)」と書いてある)の老戦士が戦争捕虜を護送した過程を思い出して述べたものである。

   8月8日にソ連が対日正式宣戦をやってから、日本軍中最精鋭部隊の関東軍との間に、日ソの一大決戦行われ、日本の投降にはまだ2年前後は必用だろうと思われていた。だが、95万と号する関東軍は日本軍の各地での惨敗によって、士気が低落し、短期間でソ連の中国東北地方攻め入るのを許し、決戦どころか「鬼ごっこ」のようになってしまった。

   関東軍の大部分の官兵はソ連と中国軍隊の捕虜になった。捕虜の眼は絶望に満ち、中国人の報復に遭うのを恐れていた。でも、彼らの予測から外れ、中国人は「徳を以って怨みに報いた」のである。当時中国人自身じゅうぶん食べられなかったのに、人道主義観念から、彼らを護送する我々は、仕事として、農民に米を提供し捕虜に食べさせてくれるようにお願いした。が、日本人を「小鬼子」とみていた農民は提供することを拒んだ。それでも、護送者たちが懇々と言い聞かせ、農民たちもようやく心を動かし、高粱米を手にすることができた。捕虜たちは感激し、立て続けに自己の有罪であることを述べたという。

  「日僑日俘 一天消耗粮80万公斤」については原文を見ていただこう。

   同時、日本在戦時向中国東北派出的約130万『移民』、開始了瘋狂的逃亡。

   自1912年起、日本即開始試験向整个遼東半島、朝鮮半島『移民』、訳30万以上的日本退伍軍人、青少年被強迫移住這里、成了稀釈中国人口、『出則為兵、入則為民』的特殊部隊。爾後他們又軍隊的支持下搶占了大量中国農民的土地、使之成了無家可帰的流民。

民国政府接収東北后、留在東北各地的『移民』有110万左右、其中婦女占70%左右、児童10%、老弱病残5%、其余才是青壮年男子。

百余万日僑日俘在東北多留一日、就要給民国政府多増加一日負担、僅粮食一項、毎人毎天以一斤計算、一天就要消耗75-80万公斤。因此、大遣返工作被列入了最重要的工作日程。

    従1946年5月起、東北百万日僑日俘大遣返工作全面展開了。

   上記原文には、どれくらい日本人がいつから移民してきたのか、どんな人が移民してきたのか、どんな土地に入植してきたのかが記載されている。例えば、本来、中国の農民の土地に入植してきたのであると。ところで、この中で、若者が無理やりこの東北に移住させられてきたと書かれていることには納得しない日本人が居られるかも知れない。

   満蒙開拓青年義勇隊として参加されたご本人たちは満洲国建設の使命と新天地開拓の夢と希望に燃えていて、当然であったであろう。国策として送り出される彼らは、県や市町村あげての見送りを受けて旅立ったのである。国から吹き込まれた王道楽土の建設、五族共和の夢を純粋に受け止め、彼の地に渡ったのだ。そして、そのことを愛国として疑うことはなかった、また、疑うことができなかった若者たちであったろう。

しかし、大きな歴史の視点から見れば、原文に書いてあるように、国策によって無理やり東北の地にやられた青年たちであったのではなかろうかと私は思う。

     敗戦時に東北に居た移民の数、婦女、児童、老人や病人、壮年男子の%が示されている。壮年男子ほとんどいない。これは東北現地で兵役に取られていたからであろう。いみじくも原文で『出則為兵、入則為民』的特殊部隊と書かれているとおりである。

   敗戦後、狂ったように逃亡を余儀なくされた130万人もの移民、その日本人移民や捕虜を100万以上抱えた「民国政府」の負担は大きく、日本人移民や捕虜の一日の食料は80万kgになり、日本人を送還させることが急務になったことが1946年5月からの引揚げ事業になったとある。

   ここで、この記事の面白さは「中国政府」の負担ではなく、「民国政府」の負担になっている事である。この事業が現在の中国共産党政府でなく、国民党が指導していたものであることを認めた記事になっていることである。

   ④d「葫芦島是日僑再生地」のサブタイトルは「百万日俘日僑、四个月吃掉1.2億元」で、先ず「大遣返掲秘」とあり、引揚げの秘密を明らかにするとして、次のように記している。

    当時、中国にいた日本の移民や捕虜は300万人、葫芦島から引揚げたのは105万人であった。当時、ソ連軍は旅順、大連、営口で日本の移民、捕虜を送還することを禁止していた。そのため、葫芦島が日本の移民や捕虜の再生地になったと。

    小見出しは「葫芦島遣返中国1/3日僑」、「四个月吃掉1.2億元」、「一根麻花救了一日本人」である

 「  芦島遣返中国1/3日僑」では、遼寧省社会科学院歴史研修所の副所長張志坤の話が紹介されている。大まかな内容は次のようなものだ。

   中国からの引揚者は上海や広州など十幾つの港から総数で約300万人であったこと、その内、1948年9月20日までに、東北から引揚げた人数は140万強、そしてこの中の1051047人が葫芦島から引揚げ、中国からの引揚げの1/3が葫芦島たったと。

「四个月吃掉1.2億元」では、葫芦島での引揚げ時期、人数、掛かった費用などが記載されている。

   引揚げ第一陣は1946年5月7日18時30分から40分に2隻の船に分乗し、葫芦島を離れる。それから2年4ヶ月かけて、1051047人が葫芦島から引揚げ、この港からの引揚げは終了した。

   この大引揚げには、中国側が最大の財力、物力、人力を提供した。国民党の東北行轅日僑俘管理処経費移交対照冊の記載によれば、1946年5月から8月の引揚げ経費は1.47億元、その内1.2億元が食事に使われたと。

「一根麻花救了一日本人」では、この引揚げ期間の中国人の温情と善良を紹介するものになっている。

   雑賀伊人の命を救ったのは中国人がくれた一本の麻花であったとか、1997年に「葫芦島再訪の旅」でやって来た旅行団が、この地が忘れられない場所であり、この地で50年前に中国人から受けた温情と善良は生涯忘れられないと述べているのを引き合いに出し、引揚者の食料は、中国人が提供したもので、高粱、小米、玉米、大豆、なんでもあった。提供した中国人自身はどの家も野菜で飢えを忍んでいたのだが・・・・と。

   事実、このような方も居られたであろう。しかし、逆に多くのものを中国人やソ連軍に奪い取られたに引揚者も多く居たのも事実だと、引揚者の方の回顧された記録などから筆者の私は思うのだが・・・・。記述は今回の式典に合わせた偏面的な記述になってしまっているようだ。次に取り上げる④b「中国父母養大日本遣孤」も中国や中国人の温情と善良を書き綴ったものになっている。

④b「中国父母養大日本遣孤」では日本人残留孤児を子供として大切に養育した内容が綴られている。

    残留孤児は5000名以上、養父母は数万人強で、その多くは東北に住んでいたクリックしてください)。具体例として、蒙古族の養父母に育てられた烏雲(日本名立花珠美)を取り上げている。

   内容は、貧しい養父母が自分たちは我慢しても子供にはきちんと衣服を着せ、十分食べさせ、9年も学校にかよわせてくれ、病気で高熱を出した時など必死に看病してくれたと、また、隣人たちも誰も、私を日本人だと知っていながら、軽んじたり、憎んだりせず、何か美味しい物があると一椀持って来てくれたと、残留孤児の烏雲の言を引いたものだ。

   この残留孤児の烏雲は親族を探しに8回も日本に行って、今は中日両国の友好交流に全力を挙げている方だそうである。しかし、引揚げとは直接関係のない彼女と養父母や村の人々との係わりを記載しているのは、中国や中国人の温情と善良を言わんが為の殊更の記事のように筆者には見える。

筆者としては残留孤児が語った次の記述に強く関心を抱かされた。原文は次のようなものである。

   1945年8月、日本宣布投降。一天深夜、一些日本軍人把我們集中起来上了?車。第三天早上、1500多名全部為日本人的隊伍在格根廟停了下来、帯隊的日本軍官瘋狂地下令大家自殺以效忠天皇。媽媽抱着妹妹、拉着我跳下山溝、姐姐和両个弟弟不知去向。

    媽媽将妹妹放?在地上。拿起刺刀、就那麼一下、妹妹当時就没命了。我?呆了。等媽媽回過頭抓我時、我?命地乱竄、過了一会、没听見動静、回頭才看到媽媽已経倒在妹妹的身辺、?也自殺了。原来?不忍心・・・・・?看我?了、就譲我?了。

   日本軍の軍官が全員に天皇への忠節を以って自殺するように命じたこと、命令に従って母が妹を刺し殺し、更に彼女(語り手の残留孤児)を捕まえようとしたが、懸命に逃げる彼女を見て、逃げるに任せ、自らは自殺してしまったことが語られている。

   教科書記述で問題になった沖縄戦の集団自決における軍人の係わりが想起させられる。でも、軍人だけの責任ではないように筆者は感じる。日本の当時の社会全体に、作り上げられていた空気が、このような軍人の命令になって、ごく自然に現れたのではなかろうか。その空気を作ってきた政治とその下請けになっていた教育にこそその根があったに違いないと私は考える。 

   式典が終わった翌日、2006年6月26日付け華商晨報には⑤「『生命駅站』又迎遣返日僑」のタイトルが踊っていた。サブタイトルは「葫芦島百万日僑大遣返60周年活動昨日挙行 唐家?及日本前首相村山富市出席」である。

   この記事には新華社(中国の国営通信社)の記事の転載に加え、唐と村山両氏の友誼樹の共同植樹の写真と次のような小見出し、小小見出しで構成されている。「和平公園昨日奠基 『栽?樹表達我的感激』」、「日本老人:当年我就是這上船的」、「宮崎市長:我的父母姐姐従這里回国」、「村山富市:日外相『歪招』難実現」、「当年検察員:国恨家仇抛在一辺」

   小見出し、小小見出しは、和平公園での基礎打ちで植樹して感激したことを紹介している。

   日本の老人のそれは、当時の中国人の援助に感謝し、植樹した樹のようにずっと友好が永遠であることを望んでいる様子が。

宮崎市長それは、自らの父母や姉がここから引揚げてきたことを告げ、中国人への感謝を述べる一方、中日の友好には相互理解が必要だが、日本の教科書には近現代史の日中関係の記述が少ない、だから日中両国青年のもっと交流を多くしなければならない。このため、毎年数十名の中高校生を葫芦島に行かせ、この時期の歴史を理解させたいというもの。

   村山富市のそれは、今回の活動で新たに知ったこの引揚げ期間に生まれた100名もの新生児の送還に、改めて中国人の善意や恩情に感動した様子と、外相麻生太郎の靖国神社の非宗教法人化の提案は大変困難なことだと述べたことを伝えている。

   検察員のそれは、抗日の父が日本の憲兵に逮捕、殺害され、自らも獄に繋がれた中国人が、検察員として関与し、心の中にある恨みの感情を抑え、日本人の引揚げにできるかぎりの援助をしたというもの。

   次に転載された新華社の記事をそのまま、原文で紹介しておこう。中国政府の見方がそこには見られるだろうから。

   葫芦島百万日僑大遣返60周年回顧曁中日関係展望論壇昨日在遼寧省葫芦島市挙行、国務院唐家?和日本前首相村山富市共同出席開幕式。

唐家?在開幕式上発表了題為『以史為鑑、面向未来、努力推動中日世代友好』的講話。

唐家?説、60年前、中国人民承受着日本軍国主義侵略給中華民族造成的巨大創傷和犠牲、?助百万日本僑民従葫芦島踏上了帰国之路、葫芦島成為戦後日本僑民『生命的駅站』。

唐家?指出、近年来、中日関係遇到了厳重的政治障碍、我們希望日本領導人以対歴史、対人民、対未来高度負責的態度、做出正確決断、消除両国関係的政治障碍、使中日関係回到正常発展的軌道。這符号両国人民的根本利益、也是国際社会的普遍期待。

唐家?強調、中国政府堅持以『和平共処、世代友好、互利合作、共同発展』的方針為指導、為改善和発展中日関係做出了不懈努力。希望日方也能?従戦略高度、用長遠眼光看待中日関係、与中方一道做出相向努力、要堅定不移地維護中日関係的政治基礎、正確対待歴史、妥善処理台湾問題。

村山富市在講話中説、中国人民寛広的胸懐和人道主義精神、令日本人民深為感動、我們体会到了中国人民対日本人民的深情厚誼。前事不忘、后世之師。我在1995年的講話闡述了日本応走的道路。那就是要汲取歴史教訓、不要譲悲劇重演、応深刻反省歴史、促進世界和平和発展。現在重要的是、日方要以実際行動落実這一精神、認真対待併妥善処理与中国的関係、加深相互理解、与中方共建和諧合作的双辺関係。

論壇由遼寧省政府、葫芦島市政府、中国人民対外友好協会和日本日中友好協会等団体共同挙?、中日双方近500人出席、部分当年被遣返日僑和家族也専程来華。

遼寧省省長張文岳、対外友協会長陳呉蘇也参加了論壇開幕式。

従1946年5月到1948年、中国人民従人道主義出発、投入大量人力、物力和財力、将105万日本僑民従葫芦島港遣返回国。

   式典が行われた時期の国務院外交部長(部は日本の省に当たり、日本の外務大臣)唐家?の講演は「歴史を鑑とし、未来に向って、中日世代の友好を推し進めていこう。」というタイトルの下、60年前中国人は日本の侵略による多大な被害に耐えて、百万の移民の引揚げを援助し、葫芦島が引揚者の「命の駅」になったと先ず指摘し、そして現実の中日の関係に触れている。

   近年、中日関係厳しい政治障害にぶち当たっている。私たちは日本の指導者が歴史や人民や未来について、高度な責任ある態度をとり、正確な決断をなし、両国関係の政治障害を除去し、中日関係を正常な発展軌道に戻されることを望んでいる。このことは中日両国人民の根本的利益に合致し、また国際社会の普遍的な期待でもあると。

中国政府は「和平共処、世代友好、互利合作、共同発展」の方針を堅持することを指導しており、中日関係の改善と発展のために、たゆまず努力をしている。日本の方も、中日関係を高度な長期展望下に、中国と共に努力し、中日関係の政治基礎を揺るぎなく固め、正確に歴史に対処し、台湾問題を適切に処理しなければならないと。

   将に中日関係改善への呼びかけになっている。2006年この年の9月末まで、日本では小泉潤一郎が首相の任に当たっていて、靖国神社参拝で、中国との関係が冬の時代であったことを考えると、この式典の重みを筆者は感じる。

   招請されて、やって来た元首相村山富市は次のように講演している。

   中国人民の広い度量と人道主義に日本人は深く感動させられ、中国人の深い真心を身体で感じ取った。起きたことを忘れず、後世の師として生かさねばならない。私は1995年に、日本の行くべき道を明らかにした。それは歴史の教訓を汲み取り、悲劇を繰り返さないように、歴史を反省し、世界平和の発展を促進させるというものであった。現在重要なことは日本側が実際行動でこの精神を示し、中国との関係を適切に処理し、相互理解を深め、中国側と共に調和の取れた双方の関係を築くことだと思っていると。

   最後に新華社伝次のように締めくくっている。

   1946年から1948年にかけて、中国人民は人道主義から出発し、大量の人力、物力、財力を投入し、105万の日本移民が葫芦島港から引揚げて行ったのだ。

2006年6月26日付けの遼瀋晩報にも、⑥a「百万日僑大遣返60周年活動在葫芦島挙行」⑥b「我一半是中国人 我恨戦争」の見出しが踊っていた。

   前者⑥aでは、新華社の記事内容と同様の唐家?と村山富市の挨拶を簡潔に紹介し、これに遼寧省省長の張文岳の挨拶の一部が加えられている。省長関連の原文は次のようなものである。

   近年来、作為中国重要的沿海対外開放省?、遼寧与日本的経貿合作不断増強、日本已経成為我省最重要的経貿?伴之一.

   引揚げの件というより、遼寧省と日本の経済貿易関係の重要さを語ったものになっている。過去の歴史の係わりを、抜け目なく、省の経済発展につないでいこうとしている強かさが見られる。事実、この年の9月6日、日本政府が遼寧省に提供した「草の根」無償援助プロジェクトの署名式が瀋陽で実施され、海城など4市県のプロジェクトで、合計25.3万米ドルの無償援助がおこなわれ、阿部 孝哉総領事が署名式に出席し挨拶を行っている。 

   少し余談だが、1980年代後半に、技術協力と共に20億円の資金無償援助で長春中日友好浄水場が造られたのもこのプロジェクトだったと聞いている。長春(旧満洲帝国の首都新京)で知り合いになった中国の老人(この時のプロジエクトで通訳をされていた方)が、戦後、日本は中国にいろいろと支援をしているのだが、そのことを一般の中国人も日本人も知らない。ここの上水道は日本人の援助で出来たものなのだがと、残念そうに、話されたことがある。彼は満洲時代、新京法政大学の学生であった。 

   2007年4月にも、遼寧省省長のこの張文岳が総勢200名の経済代表団を率いて来日し、「遼寧省経済貿易交流会」を行い、沿海地区の発展を画策している。このように見ると、2006年6月25日の葫芦島百万日僑大遣返60周年回顧曁中日関係展望論壇も日中(特に東北)経済交流発展の足場造りの役が担わされていたとも言えそうだ。 

⑥b「我一半是中国人 我恨戦争」の小見出しには、60年後の焦点として「数百人簽『葫芦島和平宣言』」「能再回葫芦島真好」、60年前の記憶として「当年的中尉検査員説 有殺父仇仍人道対待日僑」「目撃者説 総会有人給半个大餅子」そして、日本人移民との対話として、写真と共に「被遣返時我才1歳、我恨戦争」の見出しが記載されている。その他に、葫芦島での当時の引揚げする幼女の乗船写真、それに今回建てられた引揚者を記念した碑の写真が掲載されている。 

   「自分は半分は中国人だ、戦争を恨む」というタイトル下に、数百人が和平宣言にサインしたこと、葫芦島に戻って来られて良かったという感慨などが記載されている。そして、ここでも、26日付け華商晨報と同様、検査員の仇に対しても人道的であった中国人の話が取り上げられ、目撃者の話として、最後には煎餅の半分を有る者が施した中国人がいたこと、中国人が善良であったことが語られている。その目撃者は日本の敗戦前の日本軍の悪行ついても語っている。 

   今回建てられた記念碑には「1050000 日本僑俘遣返之地」の数字や文字が刻まれている。数字は引揚者の人数であろう。奉天千代田小学校同窓会の「エピローグ『十三歳の証言』『千代田・最後の生徒たち』」(2006年9月発行)にも、17回生の金子穣さんがこの建立された碑の写真を掲載し、「コロ島 いま・昔」というタイトルで紹介されている。なお、同誌には引揚げ時の写真や、「引揚船にまつわる物語」の特集もある。

 

   以上、式典がらみの葫芦島の中国の新聞記事を中心に紹介してきた。紹介してきたことでも分かるように、式典は引き揚げそのものを表面に掲げたものにはなっているが、中国側のその狙いは日中関係の改善、経済交流の進展にあったものだといえよう。中国の新聞の報じる内容は、正に朝日新聞(06・2・23日付)の報道していた内容に合致する。 

  「引き揚げから60年 忘れがたき『コロ』島」(朝日新聞06・2・23)によれば、2006年に葫芦島での送還事業の記念式典を開くことになった背景として、二つ挙げている。一つは国民党政府の果たした抗日戦争での役割を積極的に評価するようになった変化(引き揚げは国民党の管轄下で行われた)、もう一つは、冷え切った日中関係の改善のために「引き揚げに際しての恩義を中国側に抱く日本人との民間交流を通じ、関係改善の手がかりをつかめないか。」というものである。

 

     さて、中国側の意図は別として、引揚げについて、日本人としてきっちりとその歴史を押さえておく必要がある、歴史を以って鑑とするためにも。

   加藤聖文氏によれば、満洲からの引揚げの間に犠牲になられた民間人は約18万5千人で、広島の原爆で約15万人前後、東京大空襲で約8万4千人、沖縄戦で約17万人、これらに比べて民間人の犠牲では引揚げのそれが最多だそうである。このような犠牲を払いながら130万人もの日本人が引揚げてきたのであるから、日本人としては正確にその歴史をその脳裏に刻んでおくべきであろう。

   引揚げの現実を、当時の国際状況、アメリカやソ連、中国(国民党、共産党政府)の意図などを十分理解しながら、全ての日本人がその引揚げ現場の苛酷さを知り、胸に脳裏に刻んで、歴史を以って鑑としなければならない。

   2006年11月27日、九段会館大ホールで開催された「引揚60周年記念の集い~いま後世に語り継ぐこと~」は意義のあるものであったろう。その基調講演で、加藤聖文講師の「満州引揚の実態について」の講演がなされ、講演は「引揚60周年記念会誌」に採録されている。当時の国際状況を知るには恰好のものになっている。満洲にあった各学校の同窓会会誌にも転載されていることが多い(奉天葵小学校同窓会会誌「あふひ草」33号、奉天二中同窓会会誌「砂丘」24号など)。

   ドキュメンタリー映画「葫芦島大遣返」(岩波映像販売株式会社)のビデオやフィルムなども、引揚げの現実を我々に伝えてくれる良き資料となっている。

 

蛇足:葫芦島は島ではない、半島と書いて島でないのと同じように。

 

    瀋陽日本人教師の会の会誌『日本語クラブ』23号(2006年6月24日)に掲載したものを、引揚げ60周年の中国の新聞記事を追加、改訂して再録したものである。写真なども大きくして見る(写真の上でクリックしてください)ことができるようにしてある。なお、葫芦島とあるが、島ではない、陸地の一部である





















































引き込み線

渤船重工

左の引込み線から続く

プラットホーム

左の港湾から海岸沿いに

海に突き出した丘へ、

丘の上には碑が建つ
























丘に建つ石碑亭

海に沈められていた紀念碑と

年月日を記す基壇



































































































西山から眺める三つの油庫

油庫の右奥に石碑亭

油庫の外観と内部、右端の油庫の内部は水が溜まっている



















































































































































































































華商晨報06・6・20

遼瀋晩報06・6・23


華商晨報06・6・23


























































































華商晨報06・6・24




































































































































































































華商晨報06・6・26

























































遼瀋晩報06・6・26


















































































奉天二中同窓会会誌24号

岩波映像株式会社の

ドキュメンタリー映画パンフ