26 朋友(ポンユウ)の

馬さん

(含む、中国教科書の楊靖宇将軍・日清戦争時の鄧世昌についての記述)

加藤正宏

朋友(ポンユウ)の馬さん

(含む、中国教科書の楊靖宇将軍日清戦争時の鄧世昌についての記述)

加藤正宏

     瀋陽北駅の近くに古玩城(骨董デパート)があった。土日にはその古玩城の回りに骨董や古本を扱う路上市ができた。2000年から2002年にかけて、長春の吉林大学に勤めていたときも、帰国にあたって、どうしても瀋陽で一泊せざるを得ず(瀋陽空港を朝8時半に飛び立つ飛行機で帰国)、長距離バスのターミナルのある瀋陽北駅附近にいつも宿泊した。こんなことから、この古玩城の店をひやかして帰るのは帰国時の常で、土日にひっかかれば、この路上市も覗くことができた。

     瀋陽薬科大学に勤め始めた2004年の秋にも、まだこの古玩城は存在し、土日には路上市が立っていた。しかし、10月の初旬の頃、この古玩城が取り壊され、多くの店主が懐遠門(通称大西門)近くの盛京古玩城や魯迅美術学院を更に北に行った魯園古玩城(三好街北詰め)に移る事になったとの情報を得た。この情報を私に知らせてくれたのが馬さんだった。

     彼は路上市で古本を扱っていて、満州国時代、民国時代、中華人民共和国の早い時期の教科書や、文化大革命時期の教科書(課本)を集めている私に、何度か文革期の課本を安価で提供してくれていた人だ。

     路上市は午後の1時過ぎになると店を畳む者がほとんどで、3時、4時過ぎまで残っているのはほんの数えるほどになる。馬さんはそのほんの数えるほどの中の1人であり、私が午前に行けなくて、午後、路上市に出かけたときなど、彼と雑談(勿論、筆談も加え)することが多かった。

    こうして、知り合った彼は私を路上市の仲間に「イーバンレン ポンユウ(日本の友人)」と紹介する。「イーバンレン」じゃない、「リーバンレン」だとその発音に注文を出し、朝鮮語の「イルボン(日本)」から「イーバンレン」と言っているのではないかと言うと、それには答えず、「この日本人は『普通話』で発音し、私の発音が違っていると言っている」と面白そうに話す。今でも、親密の情をもって「イーバンレン ポンユウ」と周囲のだれ彼なしに紹介する。

     彼の出店する路上市も瀋陽北駅から移らざるを得なくなり、魯園古玩城の後方の青空市に店を出すようになった。そして、その場所の位置を詳しく教えてくれたのだ。

     毎週のように青空市に出かける私は、毎週彼と出会い、筆談を含めた雑談を楽しむようになった。私の聴力が十分でなく、聴き取れなかった言葉(一般の中国人に話すような速さで話すことや、日常の生活語でない言葉が多く出てきて)を書いてくれとたびたび私が言うものだから、煩わしくなったのだろう、私のメモ帳に一文一文書いては、分ったかと念を押しながら、筆談することが多くなった。

     あるとき、この青空市で、昭和15年にばら撒かれた号外ビラ(抗日戦争を展開する楊靖宇将軍に対して投降を呼びかけた)を15元で購入した。この時まで、私は楊靖宇について何も知らなかった。そこで、これを持って行き、彼にこの人物はどんな人物なのかと教えを乞うた。

     話が十分理解できないでいると、彼は次のように書いてくれた、東北抗日聯軍総司令、犠牲時、日軍把他運到医院解剖、肚子里尽草根樹皮、包囲深山密林中と。ビラも、戦局で不利になっている楊靖宇に、名誉を保障するから、投降されるようにとの、日本関東軍の部隊長の丁重な呼びかけになっている。山林に隠れ、食べ物も無い状況の中、ゲリラ的な抗戦を続ける楊靖宇に手を焼いていての呼びかけであったのであろう。不利な戦況下でも、あくまでも抗戦し続けた楊靖宇は、抗日の犠牲になって亡くなった時、腹の中には草の根や木の皮だけしか入っていなかったという。中国人は誰もが知っている逸話だそうだ。この話しを聞いてからは、古本市でも楊靖宇を紹介した抗日英雄関係の書物が目に付くようになった。

     日本の扶桑社の歴史教科書が話題になった時、日本ではたくさんの歴史教科書が出版されていて、県や市や各学校がこれらの教科書の中から選んで使用していること、また、そのほとんどは歴史の史実を押さえ、侵略は侵略と記載していることを話したところ、99パーセントが善く正しいことでも、1パーセントが悪ければ、それが例え1パーセントでも問題であり、責められることなのだと、彼は言いながら、口頭では伝わらないと思ったのか、次のよう文を書いて私に寄こした。

     「一个人毎天都在説話、可能説千言万語、但有一句話是罵人話也不行聡是罵人話。好比一个做事、做了成百上千个好事、但做錯一个事、触犯了国法也要処分的。

    更に、次のような文も付け加えた。

     「為什麼当前民族対立、想一想日本右派政治家対戦争給亜細州人民帯来的災難、毫無悔改之意、我們想起来、能不痛恨??」

     これは次のような意味であろう。

     目前の民族(日本と中国)対立の原因は、戦争(日本人の行った)がアジア人にもたらした災難を少しも反省しようしない日本の右派の政治家に思いが到ると、私たちも恨みを思い起こさずに居られないからだ。

      こんな話を持ち出されたこともある。これも筆談であった。

     「二戦、珍珠落后、美国参戦、殺死大批日本人、大轟炸殺死很多日本平民、原子爆弾広島長崎、但日本右派認賊做父、現在還把自己坐在美国戦車上、当馬前卒

     第2次大戦時、パールハーバーの戦い後、アメリカの参戦で、たくさんの日本人が殺され、多くの一般人も爆撃を受けて亡くなり、原子爆弾も広島や長崎に落とされながら、日本の右派は敵に仕え、現在は更にアメリカの戦車の上で、その手先になっていると、アメリカに組み込まれている日本に歯がゆい思いを抱くと同時に理解できないでいるようだった。アジアにある日本と中国が一緒になって、アメリカの強引な世界支配に対抗すべきだとの言葉さえ口を吐いて出てくる(2007年3月9日)。

(以上が、会誌に既に発表したものである。以下は未発表部分の元原稿。)

 

       2005年4月9日の事件(北京の日本大使館への投石など)の翌日、瀋陽領事館の東にある三経街まで行ってみると、その大通りに面した歩道に、ここ半月ばかりの新聞が数紙貼り付けられたベニヤ板が立てかけられていた。新聞の記事は、文科省による日本の教科書(扶桑社版)認可を取り上げ、批判したものである。

     傍らの垂れ幕には、強烈抗議日本悪意簒改歴史教科書」「堅決反対日本聨合国常任理事国」「中韓聨手、撞沈吉野!瀋陽百万市民大簽名の文字が踊っていた。垂れ幕の「吉野」の文字が傾いて書かれている。

     日清戦争(甲午中日戦争と中国では呼ぶ)の黄海海戦で、日本の軍艦吉野に体当たりを考えて、命令を出したにもかかわらず、その体当たり前に沈んでしまった清の指揮官鄧世昌の思いが描かれているようだ。中国の小中学の教科書では、鄧世昌は勇敢に日本と戦って陣没した英雄として、必ず描かれている人物である。

      ベニヤ板の看板と垂れ幕の近くに、長机が一脚置かれ、人々に署名の呼びかけが行われていた。車も頻繁に行き交っている道路幅も広い車道に面した歩道のために人通りも少なく、署名する人もさほどではなく、呼びかけ人の声のみ大きく響いていた。

     呼びかけ人と、道行く人の対応をしばらく注視していたが、ふと、気がついてみると、そのすぐ傍の車道に警官が数人乗ったパトカーが止まったまま動かずにいた。アメリカ領事館から100メーター、日本領事館から200メーターほどぐらいの所だから当然なことかもしれない。 

     この後、領事館から500メーターも離れていない魯園古玩城後方の青空市に出かけた。ここに店を出す馬さんに会うためだ。

     そして、昨日の北京大使館の事件(05年4月9日)について、これをどう考えているかを訊ねてみた。彼はこの事件を全く知らなかった。そこで、投石事件の様子や、さっき見たばかりの、三経街の署名活動の様子を伝えたところ、彼は、デモは政府の指示よるものだと言い、今の中国では、政府の許可(黙認も含む)無くして、デモは行えないとはっきり言い切った。そして、私が問題とした事柄につい、自分の考えを述べてくれた。 

     私の聴力が不十分で、聴き取れていないといけないと思ったのだろう。私のメモ帳に一区切りの文を書いては、分ったかと念を押しながら、また書くという方法をとりながら、話していく。

      彼が書いたのは次のような文である。

     「日本国力現在強、想望聨合国機構改革進入常任理事国、但近来一切做法(指日本執政的政治家)不好、1、做出与中、韓、俄、不好的事、如領土問題、有争議、不該在這个時候提出、釣魚島、竹島、四島、2、参拝神社(有戦犯)、3、修改歴史教科書。徳国、罪行超過日本、但人家能正確対峙歴史問題、向受害国謝罪、受到各国諒解。中国、常任理事国、有否決権。

        強国となり、国連改革で常任理事国入りを果たしたいとする日本だが、日本の政権の座にある政治家の最近やり方が悪いと、具体的に三点を挙げて指摘し、中国は常任理事国として拒否権を有しているから、中国政府はこのような状況下では拒否権を発動することになるだろうという、これが彼の考えである。

     真正面から過去の歴史に対峙し、被害を受けた国に対して謝罪したドイツは各国の諒解を得ているとして、ドイツを引き合いに出し、戦争に対する責任を明確にせず、むしろ歴史を歪曲している日本の執政者に対する不満と批判がそこには見て取れる。

     私も、教科書については再度弁明をしてみた、「一般の多くの国民はあの保守的な教科書には、批判すると同時に反対していること、そして、ほとんどの教科書が今度の戦争がアジアの国々への侵略戦争であったことを記述している」と。しかし、文部科学省が例の教科書を認可したこと、それは日本の国家機関が認可したことであり、即それは中国人にとっては、国家の意思としてしか受けとめられなかったようだ。国家の意思に沿うようにしか発言できない国で生活してきている中国人にとっては、さもありなんと思われる。思想、表現、出版の自由とは縁遠い今の中国では仕方のない事かも知れない。

      しかし、日本政府も出版の自由を認めるにしても、近隣諸国の誤解を受けぬように、明確に戦争責任を認め、それにふさわしい誤解を受けない行動が必要であろう。

      日本やアメリカ等とは民主や人権についての見方や考え方が違う(民主、人権、不一様看法)と彼も認めているものの、中国では、どんな形式の政府の容認でも、また黙認でも、政府の意思によるゴー(やれ)のサインなのだ。

     彼の考えでは、このデモも政府の指示によったものだろうと看る。黙認も含めてのことである。衛星放送で見た北京のデモでの様子(日本大使館への投石に、何もしない警官の姿)を見ていて、彼の言っているのも一理ありそうに私には思えた。

 

     北京の大使館事件の1週間後の16日(土)、インターネットの呼びかけで、瀋陽でもデモが行われようとしていた。この時期、中国政府が抑えにかかったこともあって、私の大学でも禁足令がとられた。学生の話では、校外に出ることは原則的には禁止とされ、出ねばならない時は、理由を明らかにし、門で名前を書かくようにとの指示が生活指導の教師から出たそうだ。学内に何人か警官もやってきているとのことであった。

     土曜日は何も起こらなかったが、17日(日)にデモが組織された。瀋陽市内の一部の大学の学生がデモに参加し、ビラを撒きながら領事館に向かったという。

        私自身、外出するかどうか迷ったが、デモでの危険を考えて、カメラ、電子辞書など持たずに、いつものように三好街北詰めの魯園古玩城の市に出かけた。三好街北詰には川が流れており、ここに掛かる橋は三経橋という。この橋から北が南三経街となる。ここから数百メートル北上するとアメリカと日本の領事館が並ぶ路地が左に見えてくる。橋から一番近いバス停の名前も「アメリカ領事館」である。

     文化路と三好街の交差するところから、三好街を北上する人がいつもより多い。ほとんどの者がピンクのチラシを手にしている。子供が小さな国旗を手にして振りながら、親とおぼしき者と歩いて行くのも何組か見かけた。途中で、私も若い人からピンクのチラシをもらった。道路に駐車しているほとんどの車のワイパーにもチラシが挟んであった。チラシの内容は以下のようなものである。 

     「毎个中国人都應会唱的歌曲の題の下に、大刀進行曲」「歌唱祖国のそれぞれの歌詞が書かれ、その下に免費下載抗日歌曲鈴声!」「時時不忘、日日収听とあり、携帯電話にダウンロードができる電話番号の記載があった。 

    「大刀進行曲の歌詞全てと歌唱祖国の何度も繰り返している歌詞を下記に書きとめておく。後者の歌はまさに愛国を歌った内容で、前者の大刀進行曲の抗戦を強く歌った歌詞とは異なる感じがするが、愛国を強調するには抗戦を取り上げるのが、最も効果的なのであろう。

大刀進行曲の歌詞

大刀向鬼子們的頭上○去!

全国的兄弟們!抗戦的一天来到了、

抗戦的一天来到了!

前面有東北的義勇軍、后面有全国的老百姓、

?們工農軍隊勇敢前進、戦勝全部敵人!

把他們消滅、消滅、消滅!

大刀向鬼子們的頭上○去一殺!

*上記変換できなかった○部分は左が石、右が欠の一字で、斧や刀でばっさりと切るの意味である。

歌唱祖国の繰り返しの歌詞

五星紅旗迎風飄揚、勝利歌声多麼響亮;

歌唱我們親愛的祖国、従今走向繁栄富強、

歌唱我們親愛的祖国、従今走向繁栄富強、

     三好街の北詰めにある三経橋を越えた辺りの三経街南詰めには、午前中は黒い制服の警官と緑の服の兵士が何重にも道路を封鎖していた。南からの人々の流れはそこで堰き止められ、人数が徐々に増えて、幅の大きな道路が橋の近くまで人で埋め尽くされた感じを呈するまでになっていった。

     しばらくそれを眺めていて、やはり、写真に撮っておきたくなり、宿舎にカメラを取りに帰った。しかし、簡単な昼食をとって再度やってきたときには、橋の附近には警官と兵士の姿が見られなくなっており、デモは解散したかのようであった。

     古玩城の青空市にいる馬さんのところに寄って、件のチラシを見せながら、領事館の周囲を見に行こうと思うのだが、危なくはないだろうかと尋ねてみた。デモは政府がやらせていることだ、心配しなくてもよいと彼は言う。我々庶民(老百姓)には関係が無いことだ、でも、今日は領事館周辺では喋るのは控えた方がいいと注意してくれた。群集心理が働いて、デモなどを見に来ている人の中には、外地(中国の他の地域)の言葉を話す者は不審に思われ、これらの者に対し、日頃の鬱憤晴らしをする者も出てくるかも知れないからとのことである。私の中国語は外地(中国の他の地域)から来た者のと思われるそれで、瀋陽のそれではないことを心配してくれたのだ。

     中国人は、話の内容が通じれば、その言葉や話し方に違和感を感じても、中国は広いのだから自分たち本地(地元)人と違っていて当然だと考え、話し手を外地人だと容認する。それは、中国語が流暢ではないアジア系の外国人をも含みこんでしまう。私もそのような例の一人ということ。

       脇道をたどり、領事館に近づいてみると、領事館を取り巻くように警備の警官や兵士が取り巻き、それを遠巻きにあちらこちらに分散し、見物している民衆(老百姓)の姿が少し見られるだけで、昼食時のNHK衛星放送でやっていたようなデモは既に見られなかった。

     しかし、この段階でも、警備のものものしさは北京や上海の時の映像で見たよりも、すごかった。兵士は警官の後方5メーターほどに位置し、五重の隊列を組み、道路を封鎖している。兵士はヘルメットに楯、長靴に脛当てという物々しさである。デモが解散された後も、領事館のごく近くはこのような状態が続いていたのだ。私が領事館に近づいた3時過ぎには、これらの物々しい兵士や警官と、それを見守る見物人がいるだけで、デモ隊も居なく、それほど緊張感は伝わって来なかった。ただ、その物々しさに気おされて、近くでは写真は撮れなかった。

     民衆(老百姓)の中に入ってみると、知ったかぶりした人物が解説している。学生たちが日本政府に抗議しようとしているのだと得々として語り、学生たちが抗議しているのは、釣魚島の問題や、戦犯を祭る靖国神社への首相参拝、日本の改竄した歴史教科書が主なものだと。わがポンユウの馬さんが話していた内容だ。周りの者は全くこれらのことを知らなかったようで、ほとんどの者がただ頷いているだけである。私も馬さんの注意を守り、口を挟まずに、その他大勢に徹し、じっと聞き耳を立てていた。

     その場の雰囲気からは、特別反日的でもなく、政治のことは私たちには関係がないというスタンスに立っているような民衆(老百姓)がほとんどのようであったが、戦犯が祭られている靖国神社へ国家代表が参拝することや、一部の教科書の歴史改竄を聞かされて、日本は侵略に対してまだ反省もしないのだとの、思いを新たにした者も居たようで、深く頷いている者も居る。

     また、ある時、馬さんが日本の自衛隊は世界有数の軍隊だと言ったことがある。中国の方が世界有数ではないか、日本が持っていない原爆も所有しているし、それを打ち込む手段ももっているではないかと切り返したところ、アメリカが持っているのだから、自衛のために持たざるを得ないと言う。そう言いながらも面白かったのは、中国は軍隊を持っていないと言い出したことである。そんな馬鹿なこと、大きな軍隊があるではないかと言う私に対して、一つの党が持っている軍隊だ、中国国家の軍隊ではないという。老百姓(一般庶民)のものではない、老百姓の意向が全く反映させられないのだからとも言う。私から看れば、矛盾した主張だが、党に対する老百姓(一般庶民)の複雑な屈折した感情そのものがちらっと姿をあらわしたように私には思えた。馬さんが見せてくれた身分証には工程師(エンジニア)という肩書きが書いてあった。

      また、こんなこともあった。

     瀋陽市のお祭りで、各国の、各企業の花車が政府広場から青年大街を巡行した日に、彼に見に行かないのかと問うたところ、働かなければ生活できない我々には無縁なことがらだと素っ気無く言われたものだ。瀋陽で行われた世界花博を見に行ったかと尋ねた時も同じような答えが返ってきていた。党が現在指導する今の社会へのくすぶった感情がそこには窺える。

     私にとって、馬さんは、中国社会の情報を得たり、中国人の感じ方や考え方を知る上で欠かせない人物の一人になっている。私の中国像構築には、このような中国人が何人もその土台を提供してくれている。

(2007年3月7日)

日本の歴史教科書の批判や、

日本の国連常任理事国入り反対の記事

「瀋陽日本人教師の会」の会誌「日本語クラブ」に載せた『ポンユウの馬(仮名)さん』(通巻25号・2007年4月14日発行)の元来の原稿をここに紹介する。会誌に発表した原稿は、中国での発表を考えて自己規制をし、元来の原稿の半分以下に抑えたものであった。今回、これを解き放つことにした。

緑字の部分が既に会誌に発表した部分である

後半の黒字の部分が未発表の部分である

魯園古玩城後方の青空市

電子塔から見る三経橋

三経橋からの魯園古玩城

楊靖宇に

投降を呼びかけるビラ

『冒着敵人的砲火前進』―遼寧抗戦英雄故事(中学版)

遼寧人民出版社、2005年版 楊靖宇

九年制義務教育課本

八年級第一学期

上海教育出版社

1996年版

小学課本

歴史 上冊

人民教育出版社

1991年版

警官と兵士が封鎖していた

三経街南詰(A)

魯園古玩城(B)

日本の領事館(D

(左記地図上のD)

ジャパン・ウイークに

日本領事館へ招かれた

中国人大学生

日本領事館の東隣

アメリカ領事館横の

三経街に停車する

パトロールカー

禁足令に伴う通知

年代は誤って記載

本来2005年

ばら撒かれたチラシ

抗戦と愛国の歌詞.

曲は無料で携帯に

ダウンロードできる

上記地図上のA

三経街南詰、

三経橋から撮影

横断歩道辺りで17日午前

警官と兵士が封鎖

17日午前中

警官と兵士が封鎖し

人で一杯になっていた場所

上記地図上のA

17日の午後、日本領事館へ脇道を行く

右の写真は左の写真の部分拡大図

警官の隊列後部には兵士の隊列

上記地図上C

中国瀋陽の宿舎で見たNHKの衛星放送による

日本の領事館や大使館へのデモとその警備に関する報道

瀋陽市の祭りに参加する花車

瀋陽で開催された花博