12 旧遼寧省博物館と

張作霖の五姨太太の別荘

加藤正宏

手製の地図


旧遼寧省博物館

   と張作霖の

 五姨太太の別荘

(タイトルの四姨太太を五姨太太に変更、07・5・11)

加藤正宏

 前回紹介した旧奉天独立守備隊本部がある瀋河区は北三経街を挟んで和平区に面している。つまり、北三経街の西側は和平区、その東側は瀋河区である。

 旧遼寧省博物館は和平区十緯路26号にある。旧奉天独立守備隊本部とは区が違うが、歩いて5分とかからない地点にこれら二つの建物は建っている(手製地図参照)。そして、これらの建物はどちらも湯玉麟の公館として建てられた、或いは建てられようとしていた建物である(一部のガイド書には湯玉麟の子、湯佐栄の住宅とある)。

 前回も紹介したが、湯玉麟は張作霖と盟を結んだ義兄弟で、奉天派軍閥の一人、嘗て東三省巡閲使署中将顧問、熱河省都統兼省長、奉天陸軍第十一師団師長などを務めていた人物である。

 今回紹介しようとしている旧遼寧省博物館は、公館として1930年に建て始められたのだが、1931年の満州事変(九一八事変)により中座し、その後、日本と満州国(中国では偽満州国という)により引き続き建設が進められ、1934年に竣工したもので、1935年から45年まで、満州国の国立中央博物館奉天分館として使用された。この続建の間に個人住宅の間取りから、公共的な博物館の間取りに改められている(69の部屋になるはずだったのが、22の大小不統一な陳列室になった)。敷地面積は19600平方メートル、建築面積は3800平方メートルの博物館である。単純に考えて、140メートル四方の敷地、60メーター四方建築面積の大きさぐらいになる。手製地図でもみられるように、その敷地は十緯路と九緯路の間、四経街と五経街の間のそれぞれ1ブロックをその範囲としている。建物は四層の建物で、地下も一層あった。

 収蔵されていた収蔵品の中には、遼代の皇帝や皇后の墓誌銘(このようなものを「哀冊」という)も多くあった。これらは湯玉麟と湯佐栄が内蒙古の辺りから奪ってきたものだそうだ。現在、これらは政府広場の近くにできた新しい遼寧省博物館に引き継がれている。今年(2006年)6月10日、私は新博物館で、これらの「哀冊」を見る機会があった。なかなか見応えのあるものであった。

 6月10日は、2006年の今年から「文化遺産の日」と決められ、文化遺跡や博物館などの場所はこの日は無料で入場できることになった。瀋陽では、希望者の殺到するであろう故宮・張氏帥府・清昭陵は人数制限するため、前日に無料の参加券が配られた。これにも、人が殺到したようだ。私は、当日無料で入場できる遼寧省博物館をこの日参観した。しかし、期待していた「清明上河図」は見ることはできなかった(特別展覧の時以外には常設展覧はされていないとの事であった)。でも、貨幣展覧などをみることができた。

 とにかく、6月10日は入場料が無料になる日、頭に置いておくに越したことはない。

 博物館の収蔵品は基本的には歴史文物と歴史のある芸術品(絵画、書道芸術、刺繍)がその重要な収蔵品になっている。芸術面に浅薄な知識しかもたない私でさえ知っている有名な作品も幾つかある。例えば、「清明上河図」注*「唐欧陽詢書夢奠帖」などがそれである。前者など、土産物の工芸品として、巻物になったり、その一部を扇子や陶器の絵として用いられていることが多い。多くの方がご存知のように、絵巻物である。絵は北宋の都であった?梁(現在の開封)の虹橋を中心に?河の両岸で活動する各階層の人物を描き、当時の複雑な社会構成や民俗風貌を伝えたものになっている。

一言余談を、

 「遼瀋晩報」と瀋陽の10名の知名な画家が共同で、現代の「清明上河図」として、中街版「清明上河図」の作成が行われていることが、10月末の「遼瀋晩報」紙上で報道されていた。長さ30メートルの巻物に、2006人の人物(今年の年代に合わせた人数)、それに懐遠門、故宮、劉老根舞台など標示建築、興隆大家庭、ソニー(蘇寧)電器、○1○1流行館、龍撮影婚紗影楼、大公明眼鏡、ケンタッキー(背徳基)など流行場所、天益堂薬房、ヘンダリー時計眼鏡(亨得利鐘表眼鏡)、二百商場などの老舗がここに描かれているとのこと。いつか、この絵を見ることがあるかもしれない。

 本来の旧博物館の話題に戻す。

光復後(1945年の日本の敗戦後)、国民党政権下で国立瀋陽博物館になり、中共による解放によって、1949年東北博物館となった。その後、1959年に遼寧省博物館と改名し、2004年まで博物館としての役割を果たしてきていた。しかし、市政府広場周辺に新館ができたことで、収蔵品のすべての移管が完了した2004年をもって、博物館の役目をこの建物は終えて、人が訪れることの無い場所になってしまっている。

 しかし、イオニア式の飾り柱を有するこの建物そのものもだが、この建物を囲む3メートルの高さのあるコンクリート塀と、ドーリア式列柱を飾り柱とする正門入り口(十緯路に面する)は、どっしりとしていて、訪れる者はその存在感に圧倒される、そんな感じを強くもたされる。是非直に立ってみていただきたい。北門(九緯路に面する)もどっしりしているが、門の役目はしておらず、門に内接して高層のアパートが建っている。

旧遼寧省博物館

(湯玉麟、或いはその子の湯佐栄の屋敷)

遼代の皇帝や皇后の墓誌銘

土産物の工芸品として「清明上河図」

日時計の観察所

旧博物館本館の東側の古い住宅

旧博物館北門

 入り口東側方向の塀の外れには、この旧博物館と同じ頃に作られたのではなかろうかと思われる民家もまだ存在している。また博物館本館の東側住宅地には日時計の観察所のような所が残っている。 

  敷地の西側にあるコンクリート塀(五経街沿い)は「人口文化長廊」になっている。1ブロックにもあたるコンクリート塀全面に絵画と文字(三字経)を対にした29もの額が取り付けられている。その額は瀋陽市和平区人口和計画生育局計生協と瀋陽市人口和計画生育委員会生協が編輯した「人口文化 三字経」のそれである。

  その編者の序によると、

 「三字経」は宋代以来広く伝えら流布してきた一種の啓蒙教育読み物である。その言葉は精錬され、内容も豊富だし、学び易く書き易いばかりでなく、声を上げて読むのに適していて、多くの人々に親しまれた読み物であった。その後、この「三字経」の体裁をとった各種の啓蒙書が編まれたが、どれもよく効果を上げてきているとし、この形式を用いて「人口文化知識宣伝」に供するための「人口文化 三字経」を編集したというのである。

 旧博物館の長いコンクリート塀の活用としては、なかなか良い思いつきである。「江帆楼閣図」唐・李思訓、「洞天山堂図」五代・董源、「雪景図」五代・巨然、「桃源仙境図」明・仇英、「松石牡丹図」清・李?、「蝦」近、現代・斎白石、「群馬図」現代・徐悲鴻など五代から現代までの名画が人口三字経と共に描かれていて、まさに道路に面して、博物館の画廊の役割を果たしているかの感じがある。しかし、残念なことに、注意して見て通る人は少ない。

 「人口文化 三字経」の内容だが「新時代 新歩伐 中国人 要奮発 成育事 要計画 利自己 利国家」「生児女 要計画 応遵循 『計生法』 学好法 用好法 生育事 法制化」「再生育 有規定 『省条例』 写得清 想仔細 看分明 盲目生 違法令」と「独生子女」政策の法や条例に従うことを求めている。また、次のようなものもある、「青年人 有朝気 愛工作 愛学習 晩相恋 晩嫁娶 先立業 后娶妻」「多子女 不多福 没銭花 没書読 住房擠 欠衣服 ?媽? 生活苦」。晩婚奨励と子沢山の不幸を説いている。

 次のようなものもあるが、張作霖が生きていてこれを見せられたら、きっと苦虫つぶした顔をすることだろう。

「一夫妻 一个娃 三口人 一个家 低出生 国力大 小日子 頂呱呱」(写真参照)、「小日子」は小さな所帯、「頂呱呱」は最高に素晴らしいという意味だ。

 張作霖は正妻のほか5人の妾がいた。子供は14人あり、女の子は6人、男の子は8人いた。その長男が張学良である。1898年の第一子の誕生から1925年の第十四子の誕生に至るまで、30年弱の間、子供を儲けてきたのが、張作霖である。きっと苦虫つぶした顔で、張作霖はこの「人口文化 三字経」を見つめることであろう。

旧博物館の近くに、張作霖の四姨太太の別荘がある。私が入手している多数の資料やガイドブックのどれにも、この建物について記載はないのだが・・・・。

 五経街沿いに、旧博物館の北から1ブロック北上した八緯路との交差する西北の角にその建物はある。瀋陽市国家安全局になっている建物と、その西にある瀋陽市物資局の建物である。なかなか見た目に美しい趣のある西洋的な建物である。その角で、雑多な修理をしている人を囲んで数人の人が話していたので、この建物について訊いてみたところ、張学良の妾の別荘だという。修復されたのだが、修復前の方がもっと立派だったと、この建物の北側に住むという女性が語ってくれた。張学良の妾というのが少し気になって、その後も何回かこの辺りに出かけて、いろんな住人に訊き続けてみると、どうも張作霖の妾と秘書の建物で、最初に私に語ってくれた人は、張父子の区別ができていなかったようだ。妾は四姨太太とのことである。名は許可?といい、早く父を亡くし、母と苦労してきたせいもあるのか、彼女は子供たちに、自分の力で生活する能力をつけさせようとして、厳しく指導したようだ。このため、四人の子供(男の子の学曾、学思、女の子の懐瞳、懐曦)は権力者や貴族の悪臭には染まらなかったという。

 最後に、今回紹介した旧遼寧省博物館は現在(2006年11月)修復中である。前回紹介した旧奉天独立守備隊本部も取り壊しでなく、修復中である。その現場の写真を撮っているので紹介しておく。

 

注*  この絵については種種の論争が未だにあるとの事。北宋か南宋か創作時期はいつか(作者の張擇端はいつごろの人)、描かれているのは秋か春か、北京故宮博物院に現存の作品についても真偽が別れる(真筆か)、これが完璧なものか(欠損の部分はないか)、などである。なお、瀋陽に保存されているのは明の仇英が模写したもので、長さ525センチ、幅26センチ弱の絵巻物で、絵の中には人物684人、家畜96頭、122家屋、8つの橋、舟25艘、樹木124本が描かれている。

2007年5月11日、追加変更

 瀋陽市国家安全局の建物、瀋陽市物資局の建物について、追加変更をしておく。

 瀋陽市国家安全局の建物は、張作霖と盟約を結んで、盟弟になった張作相の官邸の一つであった。張作霖が爆死した後は張学良をバックアップし、行動してきた人物だ。九一八事件(満州事変)後は、張学良に従い下野し、天津に移った。彼のもう一つの官邸を満州航空株式会社が占有したことから考えて、事変後はこの建物も日本の支配下にあったものと思われる。

 瀋陽市物資局の建物は張作霖の妻の別荘だが、住民たちが言ってい四姨太太ではなく、五姨太太であることが、遼寧画報出版社の『張学良の旧居』(1999年出版)に記述されていた。つまり、「第六篇 張氏家族、六 帥府里的掌家人ー寿夫人」の記述に「張作霖の六人の夫人中、張作霖が最も好きで愛したのが第五夫人の寿氏であった。彼女は小青楼の主人であるばかりでなく、大帥府の家庭内での実質的な主人であった。」「帥府を拡大増築する時、張作霖は特に彼女の為に、帥府の東院に2階建ての青煉瓦の小さな建物を建てた。俗称、小青楼という。どの部屋も豪華で典雅であった。別に、寿夫人は商阜地五経街に更に別荘を持っていた。これは他の夫人たちにとっては手の届かない夢のようなものであった。」(どちらも拙訳による)とある。

参考図書

*「瀋陽名勝」李鳳民編 東北大学出版社 1996年

*「歴史文化名城瀋陽」 瀋陽政協学習宣伝文史委員会編 瀋陽出版社 2006年

*「大東文史資料」第三輯 (湯玉麟 孫徳昌著)

政協瀋陽市大東区委員会文史資研究委員会編 1989年

*「瀋陽市志」第13巻 瀋陽市人民政府地方志編纂弁公室編 瀋陽出版社 1990年

*「瀋陽百科全書」 主編 武迪生 遼寧大学出版社 1992年

*「瀋陽近現代建築」瀋陽市城市建設档案館・瀋陽市城市房産档案館編著 2002年

*「華商晨報」(省博物館復元湯公館)2006・11・2、

*「遼瀋晩報」(明日文博場所全都免費看)2006・6・9

*「遼瀋晩報」(遼博専家破謎「清明上河図」)2006・8・31

*「遼瀋晩報」(掲秘中街版「清明上河図」)2006・10・24

*「遼瀋晩報」(中街版「清明上河図」草図完成)2006・10・26

*「遼瀋晩報」(中街版「清明上河図」価値不可估量)2006・10・27

*「人口文化 三字経」和平区人口和計画生育局計生協編 瀋陽出版社 2004年

*「遼寧文史資料」総22輯 (張作霖家族及家産 張志強著)

中国人民政治協商会議遼寧省委員会文史資料委員会編 1989年

*「中国東北」(張作霖妻妾子女知多少? 晴雪著)1994年創刊号

瀋陽市物資局

瀋陽市国家安全局









三字経

「人口文化長廊」












旧奉天

独立守備隊本部