18 文官屯に残る鳥居

加藤正宏

文官屯に残る鳥居

加藤正宏

   3年過ごした瀋陽も、この2007年7月には引き払うことなった。瀋陽薬科大学での日本語教師としての任務を終えてのことである。この間、長春に滞在していた時期(2000年から02年)に負けず劣らず、瀋陽の街を自分の足で歩き回ってきた。しかし、その多くは和平区と瀋河区である。前者は旧満州附属地、後者の多くは旧城内及び城内と附属地を結ぶ間の商埠地であった。大東区、皇姑屯区、鉄西区には十分足を伸ばすことができなかった。

   そんな中で、一度出かけて行って気になっていた大東区の場所がある。文官屯である。瀋陽に来てすぐ、同僚と212路バスに乗ってその北の終点まで行ったのだが、その終点が文官屯の724廠正門であった。このときの見聞はHPの瀋陽史跡探訪1「関東軍第90兵器工廠の大劇場」(04年10月12日)で御紹介した。そのときにも記したが、その本来の目的は瀋陽から長春まで走る長距離バスの中から見えた鳥居のようなものを確認することであった(九一八博物館を越えて高速道路に入るまでの間)。しかし、見つけることはできなかった。

   しかし、この時、HPを御覧になった佐伯邦昭さんから貴重な情報を頂いた。

「これは文官屯国民学校の北側にあった文官屯神社の鳥居がそのまま残されているものです。拝殿はもちろんありませんが、鳥居をなぜ壊さないのか不思議です。」と。

この鳥居を確認せずに帰国しては悔いが残るという思いが強く、212路バスの終点、724廠正門まで再度出かけてみた。724廠正門には3本の旗が翻っていた。黄色の東基集団の旗、赤の国旗、紺の中国兵器の旗である。東基集団とは関東軍の南満造兵廠を受け継いだ企業集団である。佐伯邦昭さんが言われる「関東軍第918部隊 南満造兵廠」の「講堂」(私が大劇場と紹介した建物)まで先ず行ってみた。その前の広いグランドには、簡単な運動をやったりトラックをゆっくりと歩いたりしている老人がいる。このトラックは普通に歩いて一周回るのに5分かかる。私の歩数で550歩ほどであった。グランドを挟んで「講堂」と対極に当たるあたりに土俵があったそうだ。ただ、話してくれたのは戦後移り住んで来られた方だというから、信用していいのかどうかは迷うところである。

これらグランドで憩う老人たちに、鳥居の写真を見せて、近くにないかと訊いてみた。ほとんどの者は知らなかったが、ある老人が日本の神社の門だろうと言って、その場所を丁寧に教えてくれた。

   言われたとおりに、724廠正門から真っ直ぐ西へ、212路バスが来た通りを行くと、終点一つ手前の正新路停留所に到り、バスはそこから引き込み線に沿って斜めに南に向かう。しかし、そこを曲がらずにそのまま真っ直ぐ、引込み線を越え行くと、300メータくらい先の突き当たりに、鳥居が見えてきた。あった、あった、確かにあった。もちろん、朱の色はどこにも見られないセメントの肌をそのまま見せた鳥居ではあるのだが、確かに取り壊されもせず、そこに存在していた。連れも驚き、よくまア、こんな物が残っているねと声を上げたくらいである。724廠正門と鳥居は一直線上の両端に位置していることになる。

   しかし、これは私が瀋陽から長春に行く高速バスの中で見たものではなかった。高速バスの走る8車線道路の望花街からは、この地点は見えないのだ。望花街は長春までの鉄路と並行して走っている(鉄路との間には距離はあるんだが)が、この発見した鳥居のあるところはその本線でなく引き込み線をだいぶ入った近くにある。そして、その鳥居の後ろ西3メータくらいには裏門のような物あり、そこには「遼寧兵器工業大学」と「瀋陽 東基集団技芸学校、瀋陽経済工業学校」の文字を刻む黒い牌が左右に掛かり、その後方には学校の広い敷地が広がっている。その敷地の反対側を望花街が走っているはずである。なお、724廠などを統轄するのが碑中にある東基集団である。

   鳥居はあたかもこの学校の二重門の一つであるかのような感じさえ与えている。鳥居の柱には赤ペンキで「旧物収購入→」と店の方向を指す落書きが見られる。鄭重な扱いが為されているとは言い難い。しかし、鳥居の上のほうを見ると、横に渡した横木(コンクリート製)の先が一部割れて剥奪しそうになっているのを、幾つかの金属の箍で、これを防いでいる。そこまで、原型を保持しようとしていることと、ペンキの落書きとを合わせて考えると、そのミスマッチが不思議でならない。

   鳥居の前は、学校の敷地と、少し旧い感じのするレンガ造りの建物と、正新路で囲まれた三角形のような土地ができている。ここは小さな墓地のようになっていて、前世紀50年代に埋葬された人たちの墓が草叢の中に見え隠れする。そして、その一角に大きな烈士記念碑が建つ。表には「五二工廠職工烈士記念碑」、背には星のマークの下に「永垂不朽 ?磊 王雲舞 湯飲訓 張召 一九五〇年七月題」と刻まれている。年代から見て、建てられたのは解放直後である。中華人民共和国(共産党)のために活動し、工廠で犠牲となった烈士の功績を称えた碑だろう。抗日で犠牲になった者なのか、国共内戦時に犠牲になった者なのか。鳥居と近接して建てられたこの碑が、抗日時の犠牲者なのかどうかは、日本人としては気になるところだ。敢えて対置させたようなところがあれば、日本への強い反発が込められていることになる。

   墓石の合い間に畝を作り、黄豆(大豆)を植えて、その小さな畑の世話をしていた老人に話しかけてみた。

この碑について、五二工廠は光復(日本の敗戦)前の関東軍の南満造兵廠で、国民党の支配下ではこう呼ばれていたのだと老人は話してくれた。つまり、この碑は国民党支配下で犠牲になった共産党支持者の碑で、抗日によって犠牲者となった烈士の碑ではなかった。

   鳥居についても、訊ねてみた。老人は日本の神社の一部であることを知っていた。そして、逆に靖国神社と同じかと私に尋ねてきた。歳は69歳だというこの御老人の口からも、靖国という言葉が出てきたのには驚いた私だが、先ず「違う」と答えて、次のように話してみた。「日本にも、神々がたくさん居て、その神を祭って、その神様にいろいろとお願い事をしたり、命や健康を守ってもらうのが神社だ。靖国神社と違って、戦争とは全く関係が無い。」と。私の片言中国語だから、意図が十分伝わったかどうかは定かではないのだが・・・。侵略戦争と関係ないことを強く主張しようしたものだが、なぜ、ここに神社が建てられたのかと更に問われていたら、また問われずとも、神社が建てられる状況がどんなことかに思いが到っていたら、私の抗弁も虚しいものだと気づいていただろうが、・・・私はこの時、そのことには気づいていなかった。

   そして、また、私は訊ねていた、この鳥居はどうして潰されないのかと。政府の指示で動かしてはならない、取り壊してはならない物になっているからだと彼は答える。その政府の考えが、どの辺り(上級或いは、ごく身近な地元の政府の考え)のものなのかは彼も知らなかったし、なぜなのかも分らないと言う。更に、この近くにこのような鳥居が他に無いのかという私の疑問に応じて、親切に答えてくれた。もう一つあると言う、そして、その方向を指し示してくれた。その指先は現に見ている鳥居の奥の校門の更に奥、学校の広い敷地の奥を指していた。

    遼寧兵器工業大学の南、東機汽車修理廠(自動車修理工場)の北の敷地にそれはあり、8車線道路の望花街側から見えるとのこと。東機汽車修理廠は、大きなブルーの液化タンクが見えている東北機器製造聡廠(これも東基集団の一つ)の敷地、その北に隣接するところだから分かりやすい。正に私が瀋陽から長春に行く途中、高速バスの中から見かけた鳥居がそこにあるようだ。

   正新路を西に、遼寧兵器工業大学の北側の塀に沿い、望花街に向かう。途中、大学の正門があった。門に正式な名のであろう「遼寧兵器工業職工大学」の看板が掛かっていた。その上の金属牌には「東基集団有限公司 技工学校」と書かれていた。これも、東基集団(旧関東軍 南満造兵廠)統轄下の学校だということになる。

      望花街に回り込んで、しばらく南下したが、道路からはそれらしき物は見えない。東機汽車修理廠からもう一度Uターンして、少し道路沿いを北に戻り、農園の実習棟のような建物があるところから、中に入ってみた。人が出てきたので、写真を見せて訊ねてみた。50歳くらいの方だったが、それは日本の神社の一部だろう、なぜ探しているんだと訊かれた。素直に日本人であることを述べて、まだ残っていると聴いたので見てみたいというと、何の拘りも無く、垣の破れているところまで案内してくれて、あそこに見えるだろうと木々に隠れている鳥居を指差して教えてくれた。恐る恐る、破れから入っても良いかと言うと良いとの返事、身をかがめ垣の破れから、雑草と手入れが全くされずに繁茂している木々の中に分け入った。ここも職工大学の一部のようではあるが、敷地内でも全く関知されず放置され場所のようであった。写真だけ撮って直ぐに出てきた。5月末の現在、木々の葉に遮られて、いくら望花街の街路からは注意していても、見つけ出すのは難しい。そこにあるのを知っていて、やっと柱の一部を探し出せる程度である。でも、葉が茂っていない冬には、注意してれば確かに街路から見える位置には在る。

   この後、望花街の反対側に渡り、望花街に沿い1キロは続く材木置き場の西向こうに文官屯の駅舎を遠望し、写真を撮った。この駅舎に行くには線路を越えねばならず、その横切る道路は南であれ北であれ、遠くにあり、随分遠回りしないと行けない。後日、とにかく行ってみたが、駅は使用されていず、駅前もほんとに寂れたものであった。しかし、そこの住人の話では駅舎は昔のそれではないが、駅前のこの建物は当時のままだと語ってくれた。

 

    以上、私の文官屯における鳥居の見聞記である。

付記

   ところで、HPで「文官屯」を検索していて、五十川進さんが登載された「いその、山、遍路、紀行、闘病、そしてファミリー」を見つけた。その中に第二の故郷として、文官屯が取り上げられ、母や兄や姉の記憶を記録、その記憶を確認するべく、かの地を訪ねられている様子が書かれている。

   父の五十川市太郎さんは砲兵器製造に関わる優秀な技術者として、戦争中、アジア各国の最前線に単身赴任して、砲兵器のメンテナンスに従事しておられ、やがて一九四〇年以降、中国東北地方(旧「満州」)に赴き、「関東軍」の戦線拡大とともに「満州」各地を転々と移動し、砲兵器のメンテナンスを行なわれたという。「満州」でも遥か北西部、ハルピンはおろかチチハルやハイラル、黒龍江方面まで赴かれていたとのこと。「腰を据えて仕事に従事するように」との大阪砲兵工廠の社命により、1943年6月に「内地」より家族を呼び寄せ、この文官屯の地に家族を迎えられ、1946年までここに家族と共に住んでおられたとのことである。当時の住所は「満州国奉天市趙家溝区文官屯藤見町七丁目一-八 南満砲兵工廠官舎」であったとのことである。このHPを書かれた進さんは、戦後日本で生まれて方であるが、御家族の記憶を臨場感のある形で纏められている。是非、このHPを開かれることをお勧めする。

   さて、鳥居だが、五十川進さんは次のように記載されている。

「踏み切りから三・四分程走ったところで、対向車線越しのレンガ塀に囲まれた敷地に『鳥居』が残っているのを発見した。『鳥居があった』と私は叫んだのだが、バスはそのまま通過した。そして二・三分走行した後少し広い通りを南方面へと左折し、工場の方面へと向かった。」

「 朱塗りは剥げてしまっているが、粛然として屹立している。本殿の建物は全く跡を留めていないが、『鳥居』の手前には、兄が登ってカラスの卵を取ってきたであろう戦前からあったと思われる大木も現存していた。『藤見神社』跡の隣は、姉や兄が通った『国民学校』の跡地であるが、現在は『遼寧兵器工業大学』と『瀋陽工業学院』となっている。そして道をはさんで東南側に、五十川家の第二の故郷である『南満砲兵工廠官舎』が存在していたのだが、かつての居宅の現存については確認できなかった。『遼寧兵器工業大学』『瀋陽工業学院』の南端から先はやはり、『立ち入り禁止区域』で、それ以上は近付けず」

「『遼寧兵器工業大学』と『瀋陽工業学院』は、戦後に作られた学校であるが、その門柱は、姉や兄が通った「国民学校」の門柱を使用しているとのことであった。」と。

    これを読みながら、私の見つけた鳥居のどちらを五十川進さん見られたのか、国民学校の門は現在の遼寧兵器工業大学の正門なのか裏門なのか、藤見神社は一般に文官屯神社と呼ばれていたのだろうかなどと、歩いて見て回った所と五十川さんの記述とを頭の中でつき合わせていた。

 (2007年6月8日、記)

 

どちらが旧「国民学校」の門なのだろうか?






















724廠正門

講堂(大劇場)

旧南満造兵廠グランド























鳥居とその後方に校門

金属の箍と

「旧物収購入→」の落書きがある鳥居







五二工廠職工烈士記念碑」

碑の左後方に鳥居が見える




ブルーの液化タンク


































冬季なら望花街から見える鳥居












木材置き場の奥に駅が

文官屯駅前

駅前に残る光復前の建物