イギリスの現行紙幣とその周辺 その3

加藤正宏

イギリスの現行紙幣とその周辺 その3

加藤正宏

 先ず兵庫貨幣会の「泉談その209 イギリスの現行紙幣と、その周辺(3)」の内容を削除や追加しながら、70年代の旧紙幣を紹介させてもらう。

 

旧20ポンド紙幣について

 紙幣の表の中央にみられる図には、イギリス人が守護聖者とするセント・ジョージが龍退治している図柄が描かれている。

 イギリスでは19世紀の初めに、この図柄が採用され始めたようで、1817年のソヴェリン金貨に、1818年のクラウン銀貨に登場してきている。これらイギリスのコインをジョージ3世のためにデザインしたのはB・ピストルッチ(元イタリアのメダル彫刻師)であった。その図柄は、今回取り上げた紙幣のそれより、一段と躍動的である。

 このB・ピストルッチの図柄は、ジョージ3世、ジョージ4世、ビクトリア女王、エドワード7世、ジョージ5世、ジョージ6世と、それぞれのクラウン貨やソヴェリン金貨や2ポンド貨や5ポンド貨に引き継がれて、1951年にまで至っている。右諸王中のジョージ5世には、向きやデザインは異なるが、ペルシー・メルカルフェの図柄になるセント・ジョージが龍退治しているクラウン貨が存在する。更に、エリザベス2世の硬貨(2ポンド貨や5ポンド貨や最近では20ポンド貨)にもB・ピストルッチのセント・ジョージの龍退治の図柄が引き継がれている。

 今回紹介しているこのエリザベス2世の20ポンド紙幣も、この龍退治のテーマを引き継いでいるものだと言える。

 「泉談その209」




 「泉談その209」から




旧20ポンド紙幣 

 上部カナダ銀行のトークン 1ペニー

 上部カナダ銀行のトークン 半ペニー

 私が所持している中に、B・ピストルッチの図柄になる1ペニーと二分の1ペニーの銅貨がある。上部カナダ銀行のトークンで、年代は1952年と1957年である。カナダがまだビクトリア女王の統治下で、自治領とまだ認められていなかった時期のものである。

 1950年前後に印刷された1ポンド

裏面の左右の円内に

セント・ジョージの龍退治

 1ポンド紙幣 「グレートブリテン

および北部アイルランド連合王国」

 また、紙幣ではジョージ5世の肖像を描いた「グレートブリテンおよび北部アイルランド連合王国」の1ポンド紙幣を所持しているが、これにもセント・ジョージの龍退治が描かれている。

 1950年前後に印刷された1ポンドの背面にも左右の二つの小円内にこの龍退治が描かれている。

 さて、セント・ジョージ(ゲオルギウスともいう)はどんな人物なのであろうか。

 伝説によれば、カッパドキア(黒海の南、現在のトルコ領土内)の美青年の王子で、キリスト教伝道に従事し、ドミナーツスを開始した皇帝ディオクレチャヌスの大迫害の中で、4世紀の初めに殉教を遂げた人物として知られる。彼はいわば「キリスト教徒のペルセウス(ギリシャ神話の中で、髪の毛が一本一本蛇となっている怪物メドウサを退治した英雄)」で、多くの英雄的行為が伝えられていて、その一つがこの龍退治である。

 彼の名にちなむセント・ジョージ旗は白地に赤の十字で1277年から1606年までイングランドの国旗として使用されてきた。現在のユニオン・ジャックはこれにスコットランドのセント・アンドリュー旗(青地に白のX形十字)と、アイルランドのセント・パトリック旗(白地に赤のX形十字)を組み合わせたもので、1801年より使用されている。セント・ジョージ旗そのものは、小型にしたものが現在も提督旗として用いられているという。

絵図

 セント・ポール寺院

地球座(絵図中下部の ↑ 印)

 さて、イギリスにおける「セント・ジョージの日」とされるのは4月の23日である。

 シェークスピアが生まれ、そして亡くなったのも、4月23日(1564年、1616年)といわれる。ただし、生まれの方は23日かどうか確実ではなく、ただ4月26日に洗礼を受けた記録があるので、その日に近い、亡くなった日と同じ日を生まれた日としているとのことである。

 このことが、20ポンド紙幣の表裏にセント・ジョージとシェークスピアの両人を配した理由であろうか。

 この4月23日、シェークスピアの生地、ストラットフォード・アポン・エイボンでは、街路に世界各国の国旗が翻り、シェークスピアの生家を出発してきた、花束や花輪を手にした人々の列が続く。その行く先は、シェークスピアの墓のある聖トリニティ教会である。その先頭には世界各国の代表者と共に同市の市長や近隣の市長連が進む。もともとは、このような大々的なものではなく、地元民が地元の偉人を記念し、誇りを持とうとした小さな企画から始まったものである。しかし、今では国際的な祝典の様相を帯びてきている。このことは、シェークスピアを永遠の天才と、世界の人々が認めている証拠でもあろう。かく言う私も、シェークスピアの名に惹かれて、この町を訪れた一人である。

 その時、入手した絵はがきを提示しておこう。左上はバンクロフト公園に建つシェークスピアの像、右上はヘンリー通りに建つシェークスピアの生家、中央はシェークスピアと結婚したアン・ハサウエーの家(シェークスピア時代の典型的な藁葺の農家)、左下はエイボンの川岸に建つシェークスピア劇場(1932年に完成。玄関前にはシェークスピア劇の登場人物の像が並ぶ。劇場内には彼に関わる文献その他を集めた図書館や博物館もある。)、右下は聖トリニティ教会(記念劇場と同じくエイボンの川岸に建つ。シェークスピアはこの教会の教区教会で洗礼を受け、この教会の墓地に葬られた)である。

 2013年の旅行でも、この町を訪れた。訪れたのが4月20日だったので、この国際的な祝典の雰囲気が漂い始めている感じであった。

 ヘンリー通りの両側には黄色い旗が何本も一定の間隔で靡いていた。その旗の一本一本にはシェークスピアの顔と、それぞれ異なる彼の作品目が書き込まれていた。私にも馴染みが深い、Romio and Juilet、 Othello、 King Lear、 As You Like It、 The Merchant of Venice など、日本での題名が思い浮かぶものもあったが、写真の右手前の旗の Much adoe about Nothing(空騒ぎ)など私などには思い当たらぬものも数多くあった。

 20ポンド紙幣に描かれたシェークスピアの像は、ウエストミンスター寺院の詩人のコーナーに建つシェークスピアの像である。左手に持つ原稿には、最後の作品「あらし」からの文章が数行刻まれている。肘をついている書物の下にある台座に彫られた3人の顔は、左からエリザベス女王、ヘンリー5世、リチャード3世である。

 ここに彫られたエリザベスはもちろん現在の女王ではなく、シェークスピアの活躍した時期の統治者、かの有名なバージン・クィーンの異名を持つ女王である。シェークスピアの作品には「仙女王」として『真夏の夜の夢』に登場していると考えるむきもあるが、むしろ、シェークスピアなどの活躍を生み出したイギリス・ルネッサンス時期の統治者として彫られたのであろう。

 ヘンリー5世、リチャード3世、こちらはイギリスの君主としてというより、シェークスピアの作品の主人公として彫られたものと思われる。

 この像は19世紀の新詩人たちの記念碑、記念像に取り囲まれ、その中央に位置している。新詩人たちは誰一人としてシェークスピアのテクニックを真似たのではないが、しかし、彼らのすべてが、何らかの形でシェークスピアの影響下にあった。

 この詩人のコーナーのあるウエストミンスター寺院にシェークスピアの遺体を移すという話が、彼の死後まもなく起こったというが、これは実現しなかった。

 彼の作品で「ロミオとジュリエット」を知らない人はないであろう。映画に演劇にたびたび登場しており、それらから親しみを感じている人も多いはずである。かの有名な「ウエストサイド物語」の筋や骨組みもこの作品からえ得ているのである。日本でも、明治に時期に坪内逍遥が翻訳し出版している。

「ジュリ

おゝ、ロミオ ロミオ! 何故に卿(そなた)はロミオぢゃ! 父御(ててご)をも嫌ひ、自身の名をも棄てや。それが否ならば、せめても予(わし)の恋人ぢゃと誓言しや。予や最早(もう)キャビャレットを廃めうほどに。~~~~

この場面であろうか、紙幣にも描かれている。

 そして、これらの劇は当時の絵図()に描かれた地球座で上演されていた。地球座とはテームズ川を挟んだ向かい側にセント・ポール寺院が描かれているが、大火以前のそれで、前回紹介したレンの設計したそれではない。

 

 さて、日本の歴史教科書ではシェークスピアをどのように扱っているのであろうか。

 「シェークスピアは人間性の葛藤を描くすぐれた戯曲を残した。」<山川・詳説世界史>、「イギリスでは、エリザベス1世時代にシェークスピアが出て、あらゆる型の人間を描きだし・・・・」<中教・新版世界史>、「こうして、エリザベス時代のイギリスは栄え、文化面でも、哲学者のフランシス・ベーコンや『ハムレット』や『ベニスの商人』などで名高い、シェークスピアらが活躍した。」<三省堂・新世界史>など、どの教科書にも取り上げられている。

 イギリスの教科書(帝国書院刊『世界の歴史教科書シリーズ3 イギリス』では、10頁にわたりエリザベス時代の演劇を取り上げている。その大半の記述がシェークスピアのことである。彼の生涯、戯曲、舞台の構造など多岐にわたって記されている。

 入手した絵はがき

 20ポンド紙幣の

シェークスピア像 

「泉談その209」から

20ポンド紙幣の

シェークスピア像 




 シェークスピア

の生家



右手前の旗

「空騒ぎ」の英文 


































 「泉談その209」から

  20ポンド紙幣の ロミオとジュリエット

 

現20ポンド紙幣について

 2013年に目にした20ポンド紙幣の肖像はエリザベス2世(表)とアダム・スミス(背)であった。透かしはエリザベス2世で、透かしとエリザベス2世の肖像の間にある縦に連なる楕円のホログラムには「20」と「アダム・スミスの横顔」が交互に見られる。「20」は見る角度によって「£」に変化する。

 アダム・スミスについて、日本の世界史教科書で触れていない教科書はない。その中から、中屋健一・別枝達夫・松俊夫の三人で著した三省堂『世界史』からアダム・スミスについて引用してみよう。

 「産業革命期のイギリスに出たアダム・スミスは『諸国民の富(国富論)』(1776年)の中で、重農主義の狭い見解を打破して、富の源泉を人間の労働一般に求め、労働の生産力が分業によって高められること、個人の自由な経済活動が公共の福祉を増進させることを説き、重商主義の理論を徹底的に批判して、自由放任主義・自由貿易主義を強調した。」

紙幣の中央の工場での分業を描いた絵の下に印字された英文、上記教科書の記述に合致するものである。

「The division of labour in pin manufacturing;(and the great increase in the quantity of work that results)」

 イギリスの教科書(帝国書院刊『世界の歴史教科書シリーズ3 イギリス』でも、もちろん彼のことは取り上げている。

 「“自由貿易” に向かう変動の真の出発点となったのは、グラスゴー大学教授、アダム・スミス(1725-1790)によって1776年に出版された書物であった。それは『諸国民の富の諸原因に関する研究』とよばれた。その書は、海外からの安い商品を人為的により高くする関税によって外国貿易を制限しようとするあらゆる試みは、全面的に誤ったものである、と結論した。」

 この翻訳された教科書では、アダム・スミスの“自由貿易”の面を強調した記述になっていたが、もちろん日本の教科書のような記述の教科書あるものと思われる。

旧・現の間に発行された20ポンド紙幣

 なお、シェークスピアとアダム・スミスの紙幣の間に、発行された20ポンド紙幣に取り上げられたのは、マイケル・ファラディ(1791-1867)と音楽家エドワード・エルガー(1857-1934)であった。

 右にファラディの肖像、左に学生を指導するファラディを紙幣の背に描く。

 マイケル・ファラディについて、前述の三省堂『世界史』教科書から日本での扱いを紹介しておく。

 「イギリスのファラディの行った電流と磁気に関する実験は、その後理論化され、電磁気学として物理学の新しい分野となった。」

イギリスの教科書(帝国書院刊『世界の歴史教科書シリーズ3 イギリス』では次のように紹介している。

 「人間が電気というものを理解し、それを利用するようになることに貢献したのは、多くの国の科学者であった。しかし、最初に電流の持続的流れをつくり出す機械的な方法を見いだしたのは、イギリス人のマイケル・ファラディ(1791-1867)であった。1831年に、彼は馬蹄型の磁石の両極の間にコイルを回転させると電流がつくり出されるということを示した。電磁誘導という彼の原理は、発電機および電動機の両方にとっての出発点であった。」

 エドワード・エルガーについては日本の教科書にも、イギリスの教科書にも記載が見当たらない。でも、『威風堂々』や『愛の挨拶』などで知られる作曲家であり、指揮者であり、バイオリニストでもあるイギリスを代表する音楽家だそうだ。左の建物は彼の故郷のウースター大聖堂だそうな。

 音楽に疎いせいもあってか、私はこの人物については全く知らなかった。日本でもよく知られた人物たちが肖像として取り上げられていると思ったが、私を基軸に考えると、そうでもない感じになっている。

2013年9月18日 HPに上梓

 






 現行20ポンド紙幣



 ポログラム

 20ポンド紙幣の

アダム・スミス




































マイケル・ファラディ

20ポンド紙幣


エドワード・エルガー

20ポンド紙幣

 ウースター大聖堂