09 満鉄附属地  (その3の下、中華路と南京大街)

ここは手直ししていません。「加藤正宏の本館katomasa」に手直し済みあり

このウエッブサイトを御覧の方で、

今ここはどうなっているのか知りたいとか、

ここではこんなことがあったなどの情報がございましたら、

メールを頂ければありがたいです <masahr75@yahoo.co.jp>

加藤正宏

 

2007年4月10日の「時代商報」から建物の情報を追加

下記9、満鉄附属地の最後の方に紹介した中山路の「緑の両塔をもつ旧い建物」について 上記「時代商報」には「奉天紡紗廠弁公楼是被拆除后重建的」とあり、 天紡紗廠のオフィス・ビルで取り壊され、重建されたもののようだ。

なお、「瀋陽地区工廠沿革史料」瀋陽市人民政府 地方志編纂弁公室編(1985年)によれば1923年に奉天紡紗廠は創建され、満州事変後、日本の鐘淵紡績会社が強行にこの工場の株を買い込み、その管理を手にし、新投資を行ない、工場の拡大が行われたとある。この奉天紡紗廠本来のオフィス・ビルはどの時期に建てられたものかはっきりしていないが、鐘紡の管理時期の可能性が大きいのではないかと私は思うのだが・・・・。

満鉄附属地

(その3の下、中華路と南京大街)

加藤正宏

  前回、中華路から南側の南京大街、これに沿った東西両側、及び中華路北側の中山広場までの南京大街の西側を紹介した。今回は中華路から北で、中山広場に到るまでの南京大街の東側④と、中山広場周辺⑤、それに中山広場より北の南京大街と中山路の両側⑥を紹介し、満鉄附属地の紹介を一先ず終えたいと思っている。

和平一校と南昌街を挟んだ対面は雷鋒学校の名を持つ瀋陽38中学である。ここは1941年の地図では青年学校、実践女学校とそのグランドがあったところだ。青年学校の校舎であったのではないかと思われる古い建物が今も存在している。

これに続いて北2馬路(北二條通)沿いに、西半分を取り壊した建物が存在している。この建物が多分南満中学堂であつたのであろう。全満州の公学堂卒業の俊秀を集めた満鉄立の満系中学校であったそうな。光復後、一時、瀋陽市23中学が入っていたようだが、今は瀋陽衛士防盗窓有限公司が使っている。

前回も触れたように、中華路は駅真正面から垂直に延びる幹線道路である。南京大街と直角に交差した東南角には聯営公司という大型の百貨店がある。附属地時代、ここは「忠霊塔」があったところだ。前回紹介したように、この並びの東は大きなのっぽビルが幾つか建設中である。建設中のビルの裾を覆う幕には「曼哈頓広場」「曼哈頓時尚特区」の文字が見られる。マンハッタン・プラザとかマンハッタン流行特区というネーミングから考えると、なかなかモダンな場所になりそうだ。 これら建築中の建物の、中華路を挟んだ向かい、つまり北側には附属時代の建物のままだと思われる新華書店古書部などが建っている。この古書部の角を北に走る道が南昌街である。この南昌街にそって行くと、東に先ず見えてくる大きな建物、これが東北中山中学だ。附属地時代、ここに奉天第一中学あった。現在の建物(写真参照)に、奉天第一中学の校舎の面影が残っているかどうか私には分からない。北1馬路(北一條通)の角まで校舎である。この東北中山中学と南昌街を挟んだ西対面には汽車城(自動車部品のデパート)や自動車関連の店が建ち並ぶ。 更に南昌街を北に進むと、街に沿った東に和平一校(和平大街第一小学校)のグランドと立派な校舎が見えてくる。奉天公学堂の跡地である。現在の建物はその新しさからしても附属地時代のそれとは思えない。

東北中山中学

(旧奉天第1中学)

雷鋒学校の裏手、つまり西、南京大街から少し東に入ったところに、旧附属地時代のものと思われる家屋が、二軒ばかり、未だ取り壊されずに残っている。そして、これを南北から挟むようにして、高層ビルの建築が進行中である。北1馬路(北一條通)側のそれは日本、韓国、中国の自動車に関する全てのことを扱う総合ビル、北二馬路(北二條通)側のは高層住宅のビルだ。この高層住宅のビルの建てられているところは、附属地時代からの消防隊の建物があったところだ。2002年にはまだ火の見櫓を見たという人がいる。でも、2003年には建物は取り壊され更地になっていたという。

附属地内ではないが、北2馬路(北二條通)を東に行き、和平大街を越え、その延長(十緯路)上を、八経街と交差するところまで行くと、瀋陽市城市規劃展示館がある。ここには、清代から附属地時代も含めた現代までの、瀋陽の地図や関連の文書が展示されている。そればかりでなく、それぞれの時代の都市模型や、未来の都市模型などが作られていて、見ることができる。瀋陽(旧奉天)の都市の変遷に関心のある方にはお勧めの場所である。無料だが、中国人でも、入館には身分を証明するものが必要なので、我々も勿論必要、入館の希望の方は、お忘れなく。

北2馬路(北二條通)から北4馬路(北四條通)の広大な敷地には、中国医科大学とその附属医院が建っている。南昌街を北に突き当たったところが中国医科大学の南門だ。南京大街の正門が通常は閉鎖されているから、現実的にはこの南門が正門の役割をしているようだ。

門を入ると直ぐ右に大講堂がある。この大講堂は元々南満医学堂本館であった。外部も内部も当時の原型を今でも保っているようだが、入り口の階段となっているところの中央には、中国医科大学の校歌が刻まれた石版が嵌め込まれている。

南満医学堂は1911年に南満州鉄道株式会社によって設立され、1924年には昇格して満州医科大学となり、旅順工科大学と共に、満州に於ける最高学府の一つとして、附属地時代には大きな役割を担っていた大学であった。1945年8月15日の中国の光復(日本の敗戦)後、中長鉄路医科大学、鉄路医学院、国立瀋陽医学院と国民党治下で名を変えてきたが、1948年の中共による瀋陽解放にともなって、延安からやって来た中国医科大学に組み込まれ、その建物や設備は中国医科大学となった。

この大講堂と棟続きになっている建物は、長く図書館として使われていた建物である。外形は原型を保っていると思われる。今は研究生院となっているが、きっと写真のような本も蔵書されていた時期があるのであろう。この「日本醫事雑誌索引」は古本を扱う路上市で見つけて写真を撮らせてもらったものだが、左頁に「南満州鉄道図書印」の朱印と青の満鉄マークと日付の印、そして右頁には「満鉄医 図書 科大学」の朱印を見ることができる。

基礎医学院の建物も外観は附属地時代のままだそうだ。この大学の日本語教師渡辺京子さんの紹介してくれた留学生の森谷俊文くん(残留孤児のお孫さんでもある)の案内で、建物を俯瞰できる綜合棟の16階に上ってみた。南を望むと、大講堂、そして南門、その先を眺めると、南昌街に沿って、和平一校、東北中山中学が見える。西を見ると附属第一医院の背部と南京大街越しにホリデイ・インと遼寧賓館が見える。この二つのホテルの間の道路が北3馬路(北3條通)である。中山路を越えた西側の北3馬路には附属地時代のマンホールの蓋が豊富に残っている。郵便マークのものが2種、満鉄のもまた2種(S付いたのと付かないの)、デザインが微妙に異なる奉天市公署のものが幾種か、ここを歩くだけで多くのマンホールの蓋を見ることができる注a

西南に目をやると、基礎医学院の建物が真下に見え、まさに「日」の文字になっている。このことは、中国医科大学に関わっている者の間では、誰もが知っている事柄のようだ。

基礎医学院は附属第一医院の南並びにあって、南京大街に面しているめったに開けられない正門から入った所にある。門扉の横には「中日医学教育中心」の看板も掛かっていて今も日本との関わりの強いことが窺える。

中国の光復(日本の敗戦)後も、中国の依頼で中国に留まり、建国初期の中国医学に貢献した(医学の分野だけでなく、これらを留用という注b )日本人が多数いた。

「中国医科大学校史(1931~1991)」からは、原満州医科大学の日本籍の教授や卒業生が留用されていたことが読み取れる。例えば22頁に「・・・、有部分日本籍畢業生為中日友好做了有益的工作。」、24頁「・・・、学校薈萃一大批学術造詣和教学、医療水平較高的専家、教授、主要有:(中国人の名が18人続く)等、還有日本籍教授:(日本人の名が9人続く)等。」などとあり、また159頁からの附表「中国医科大学外籍教授、専家名表」には日本籍の教授、副教授、講師が13名記載されていて、彼らの任教期間は1947、49、50年のいずれかからいずれも53年までになっている。

このような中国医科大学であるが、もちろん延安以来の医科大学の伝統を重んじ、学生に常に意識させることも忘れてはいない。基礎医学院の前には石碑が建てられていて、そこには「救死扶傷・実行革命的人道主義」と毛沢東の特徴ある文字が刻まれている。前掲の写真「中国医科大学」の看板と「中日医学教育中心」の看板の間の奥に見えるのがそれである。この毛沢東の題詞は大学院棟内部でも大きく書かれたのを見た。この題詞は、衛生学校から中国医科大学に改名した最初の第一期生が1941年に卒業するにあたって、毛主席に請い、彼からもらった題詞で、中国医科大学学生及び教師の座右銘になっているもののようだ。

 

      中山広場周辺に話を移そう。

中山路(旧浪速通)と南京北街(旧富士町)と北4馬路(北四條通)が交差しているのがこの広場で、附属地時代には大広場と呼ばれ、その中心に日露役記念碑が聳えていた。今は駅に向かって立つ毛沢東の大きな像と革命群像がそれに取って代わっている。毛沢東の頭の先まで13メートルある。彼を取り囲む58人の工農兵でも3メートル弱ばかりある。制作されたのは1969年文化大革命の最中である。この時期、文化大革命時期には紅旗広場と呼ばれていた。この広場の周辺の建物には、附属地時代の建物が多く残っていて、観光ガイドなどにも紹介されていることも多く、ご存知の方も多いと思うが、私が気付いた点をご紹介しておきたい。

瀋陽駅から中山路を来ると、ロータリーに入る手前右に格式ある建物が建っている。これが遼寧賓館である。1949年の建国以来、瀋陽の各種の祝賀行事の中心会場になってきたところである。1997年の香港返還に際しても、華やかな祝典が持たれたのがこの場所だった。内部もなかなか格式のある造りが感じられる。2006年3月現在一泊が358元である。一度泊まってみるのも面白いかもしれない。ロビーに「遼寧賓館(旧大和旅館、鉄路賓館)成立七十五年来接待中外重要歴史人物百人録」というのが掲示されている。もちろん、そのトップは毛沢東で、周恩来、劉少奇、朱徳と続く、これらの人物は一つ前の人民元100元に揃って図案化されている人物達だ。この後、5人飛ばして次に名があるのが陳雲である。陳雲までに記載されている9人の宿泊はそれぞれ年月が一つ記載してあるだけだ。しかし、陳雲の宿泊については「建国初多次」と記載されている。これは中国共産党が国民党政府から瀋陽を解放するにあたり、陳雲が瀋陽解放の全指揮を執る瀋陽特別市軍事管制委員会主任を担当していたことによるものだ。そのとき、この遼寧賓館にはその委員会の事務所が置かれていた。広場のほぼ対面にある二つの立派な建物、旧東洋拓殖奉天支店と旧大和旅館、時期は異なるが、それぞれ瀋陽の政治体制を大きく変化させる指揮所が置かれていた場所なのだ、1931年の満州(九一八)事変のときの関東軍の司令部が前者に、1948年の瀋陽解放時には瀋陽特別市軍事管制委員会が後者に。陳雲に行を割きすぎてしまったようだ、話を戻そう。この他に、京劇の梅蘭芳、作家の矛盾、文化人郭沫若などの名前もある。また、林彪や張学良の名もある。

更に下がると、世界各国の国家元首、政治首脳として、イギリスの労働党党首で首相にもなったアトリー、ソ連のフルシチョフ、インドネシアのスカルノ、カンボジアのシアヌーク、北朝鮮の金日成などの名が見られる。

更に下がると、侵華日軍、関東軍、南満州鉄道、偽満州国の軍政要人や国民党高級将領として、秩父宮親王、本庄繁、梅津美冶郎、松岡洋右、南次郎、土肥原賢二などと共に、溥儀や蒋介石の名なども見られる。

これらの人物の泊まった空間に自分を置くことができるのだ。泊まってみる価値があると私は思うのだが・・・、いかがであろう。特に201客室は5部屋続きのこのホテル最大最高の客室で、毛沢東など多くの著名人がこの部屋に宿泊している。1932年、満州事変(九一八事変)の調査のために、国際連盟から派遣されてやって来たリットン卿も、やはりこの部屋に宿泊したのではないだろうか。

遼寧賓館のもう一方は南京北街に面している。この南京北街を渡り、ロータリーに沿って進むと、そこは昇龍大酒店(ドラゴンホテル)という大きな新しい建物だ。1936年の地図では太原街に移る前の鉄路総局がここにあったようだが、附近の中国人の話では、最近までここには病院があったのだという。西澤泰彦氏の著書「図説満州都市物語」では満鉄奉天医院が建っていた場所だ。いずれにしても今は旧い建物は存在しない。この隣にはこれも新しい鉄路公安局の建物がある。

広場の円周に沿いながらその先の道路、北4馬路(北四條通)を渡ると、そこは瀋陽市総工会と瀋陽市商業銀行の建物だ。これは附属地時期には東洋拓殖奉天支店のあったところである。1931年の満州(九一八)事変のときに関東軍司令部が置かれたところだ。コリント様式の列柱が美しい、どっしりした建物だ。

更に進んで、中山路を横切ると、華夏銀行瀋陽分行である。これも立派な建物で、こちらの列柱はイオニア様式でなかなか優美だ。ここに取り付けられている銘板には「瀋陽市文物保護単位 興業銀行旧址 瀋陽人民政府公布 瀋陽市弁公室立 一九九六年七月十七日」とある。1939年の大奉天新区劃明細地図や1941年の地図などでは興業銀行となっているが、1934年の大奉天HOTEN案内地図や1934年の奉天附属地番地入図では朝鮮銀行となっている。このことから考えると、朝鮮銀行であった建物が光復前には興業銀行と呼ばれていたということになる。しかし興業銀行と言っても、満州興業銀行というもので、満州国と折半で朝鮮銀行が作ったものであり、もともとは朝鮮銀行の建物であった。そのことは、入り口の上に今も残る朝鮮銀行券のマークである五弁の花が物語っている。朝鮮銀行券には「此券引換に金貨又は日本銀行兌換券○圓相渡可申候也」と平仮名混じりの文字が額面○圓の右横に書いてある。この銀行がどんな銀行であったかを物語っている。

ロータリー北側の南京北街を渡ると、小豆色で装飾が何もない箱型そのままの四階建てビルが建つ。現在、招商銀行の建物になっている。ここにも銘版が掛けられていて、「日満空軍大楼旧址」と書いてある。1939、41年の地図では三井物産のビルになっている。このようなことから、銘版は誤りを記載しているという人もあるが、満州国の末期のごく短い時期には日満空軍大楼として、使用されていた、或いはこの三井物産のビルに日満空軍の本拠が置かれていたので、このような呼び名があるのかもしれない。何の根拠も無く市政府が銘版に記載するとは思われない。しかし、今年の2006年3月1日に出版された最新の「歴史文化名城瀋陽」にも、日満空軍大楼のことは触れられておらず、1948年の解放後に解放軍瀋空指揮部が使用したとの記載が見られる。この辺りのことを誤って、銘版に記載している可能性もある。今のところ、私には分からない。

隣はどっしりとした瀋陽市公安局である。附属区地時代の奉天警察署である。ここにも銘版が掛けられている。

ロータリー西側の北4馬路(北四條通)を渡ると中国工商銀行中山広場支行だ。ここにも瀋陽人民政府公布の銘版が掲げられていて、「横浜正金銀行奉天支店旧址」とある。入り口前に小さな瓦斯灯が建っていて、その基壇には1925の数字も見られる。横浜正金銀行は海外に向けて創られた日本の銀行で、世界三大為替銀行の一つ呼ばれたこともある銀行、戦後、東京銀行となり、合併統合を重ね、東京三菱銀行を経て、現在の三菱東京UFG銀行に繋がっている。

この中国工商銀行中山広場支行は中山路を挟んで、遼寧賓館と隣り合わせで、これで、中山広場の外周を一巡りしてきたことになる。

さて、瀋陽市公安局と中国工商銀行中山広場支行の間の北4馬路(北四條通)を西、つまり太原街に向かうと、中国工商銀行の裏手、同澤北街には何軒か傷んではいるが、附属地時代の民家だと思われるのが今も残っているし、岩間商会の地図に記載されている勧業公司の建物だと思われるのもある。また瀋陽市公安局の裏手である西側は「八一」の体育館、図書館、劇場が集まった場所になっている。附属地時代には、ここは奉天神社や外苑のあったところである。当時の写真集には「新開地ニ在リテハ敬神ノ心ヲ満足セシメ能ハザルヲ遺憾トシ敬神家相謀リテ新市街公園ノ東部ヘ大宮ヲ奉献シテ大国主神ヲ祭神シ以テ居住民ノ氏神ト為シ奉天神社ト称ス」とある。敷地内の北側には人民解放軍関係の家族の住むアパートが並び、その北は北5馬路(北五條通)で、この道路を越えた北側は、「満鉄附属地その2、中山路と太原街」で紹介した広大な軍区の敷地(瀋陽鉄路局敷地と太原街を挟んで向かい合う)である。東西は南京北街から太原北街までの広がりを持つ。この敷地内に組み込まれてしまっているのが、附属地時代の加茂小学校だ。もし、その建物の一部でも残っているとするなら、古さが感じられる人民解放軍軍区司令部問診部の建物ぐらいしか考えられないんだが・・・・・、後で述べる嶋田さんの持って来られた卒業アルバムの学校とは、どうも違う。この軍区は北5馬路から南京北街を少し北上したところにも広い門がある。人民解放軍を象徴する星(紅い星に八一と黄金色で上下にデザインした)が左右の門柱に取り付けられている。この門の遥か一番奥に見える高い大きい建物が太原街を挟んで瀋陽鉄路局と面している軍区の建物であろう。この建物は向かい合う鉄路局の建物に対抗して、一階高く建造されているとのことである(大阪産業大学工学部大学院に留学中の宋昊翔さんの話)。

話を少し戻して、「八一」の図書館などの諸施設が集まっている場所だが、その南、北4馬路(北四條通)に南接しているところは、今は金星賓館の敷地や建物になっている。「満鉄附属地その2」で紹介したように、春日小学校のあったところだ。

なお、「八一」は中国人民解放軍のこと。共産党が決定し、朱徳、周恩来、賀龍などの指導下に、1927年8月1日に起こした南昌起義で動いた部隊、これが中国人民解放軍の前身だとの考えから、この名が用いられている。

中山広場の東側の北4馬路(北四條通)は中国医科大学の北境で、今は新しい高層の病棟が建っているが、この敷地内にも満鉄や奉天市のマンホールの蓋を見つけ出すことができる。

ちょっと、閑話を一つ。

北4馬路(北四條通)の中国医科大学北門の近くに、公衆便所がある。この公衆便所に行ったときのこと、そこの女性服務員の代わりに留守番をしていた老人と知り合いになった。使用料を訊ね、2角を払い、用を足して出てきた時、中国語で「なかなか清潔だね」と声を掛けたところ、遠慮がちに「日本人ですか」と中国語で声を掛けてきた。中国語で「そうだよ」と応えると、「初めは南方人かと思ったが、やはり日本人でしたか」と見事な日本語で応じてきた。発音から、南方人だと思い、「なかなか清潔だね」と便所の状態を話題にしたことで、日本人かなと思ったそうだ。彼は78歳、謝承と言い、日本語では車掌と同じ発音だと字を書いてみせる。本当に上手な日本語を話す。大連の公学校(6年間)を卒業し、協和実業学校(4年間)に入り、1944年に卒業したという。公学校の1年から毎日、日本語の授業があったのだそうだ。公学校にも日本人の先生が居たという。実業学校では全てが日本人の先生で、日本語での講義であったが、学生は全て中国人(当時は満人と言っていたそうだ)であったとのこと。流暢な日本語の話せる謝承さんそのものが中国東北地区と日本の関わりを今に伝えてくれている生き証人のように私には思えてくる。謝承さんはよくこの公衆便所に来て服務員さんの手助けをされているので、この公衆便所に立ち寄れば会える可能性が高い。

 

      中山広場以北に話を移そう。

中山路が、南京北街と和平北街の間を、広場から東北に北6馬路(北六條通)の少し先まで対角線を引くように走っている。その辺りまでが、附属地であったところだ。この間の中山路沿いには、古い趣のある建物がいくつも見かけられる。まず、華夏銀行瀋陽分行(旧満州興銀)の隣だが、1941年の地図では赤十字支社とあるが、正にそのとおりだと思われるような建物が建っている。

中山路と北5馬路(北五條通)の交差する点から東を見ると、チョコレート色の壁にブルーの屋根の建物が見える。瀋陽市第二十中学(旧浪速女学校)だ。壁に1921の数字が見える。二十中学の道路の向かいもそうだが、この北5馬路沿いには古い建物やビルが今も多く見かけられる。

中山路が延びている方向に目をやると、商業ビルだったのではなかろうかと思われるビルが両側にそれぞれ並んで建っている。手前西側の建物には遼寧国際モデルセンター国際モデル学校の看板なども見られる。1934年の地図や案内図の地番などによれば、山葉洋行(楽器を扱う)が入っていたようだ。遠くに見える緑の小ドームを両端にもつ建物は、北6馬路(北六條通)の手前にある建物だ。外観が美しく、目を引く建物である。しかし、その外観とは異なり、今は建物の役割をなしていない。道路側の面だけ残して、後方は取り壊されてしまっていて、外観だけのオープン・セットのようになっているのが、少し裏に回り込めば分かる。建物の中山路に面した外観だけを壊さずに市政府が残しているのはどうしてなのだろうか。この辺りは歴史を感じさせる建物の並びが、道路側から見る限り、美しい街並みを構成しているからだろうか。中山広場(旧大広場)からこの北6馬路(北六條通)までの中山路(浪速通)の両側に今も並び建つ建物が嘗てどんな華やぎを見せていたのか、知りたいが、私の手元にある地図や文献では不十分なことしか分からない。ただ、北6馬路(北六條通)、中山路(浪速通)それに柳州街(隅田町)が交差しているところ、北6馬路と柳州街に挟まれて中山路の東沿いにあるどっしりとした建物はどうも旧奉天ホテルのようだ。1934年の「大奉天遊覧案内」では一流ホテルとして大和ホテルをトップに紹介した後、その他の一流旅館として8館を紹介している。その中にこのホテルもある。6馬路や柳州街を越え、中山路西側沿いに行くと、和平北大街に交わる手前の角に大倉商事、つまり大倉組の建物があった。今もその建物は残っている。大倉商事より手前にブロードウエイというダンスホールもあっようだが、今はそれらしいものはない。

とにかく、中山路沿いの今も残る多くの古い建物が何の建物だったか、よく分からない。情報があればお寄せ願えればありがたい。

最後に附属地時代に隅田町5に住んでいた方の話を紹介し、「満鉄附属地」の紹介を一先ず終えさせてもらうことにする。

北6馬路、中山路それに柳州街が交差しているところから、中山広場の方に向けて撮った写真を見ていただこう。右(西)に郵便局そして件の外観だけのオープンセットのようなビルが見え、そして左(東)手前には旧奉天ホテルと次の協和整形の文字が見えるビルの間に、旧隅田町(柳州街)が見える。柳州街と伊寧路(交差点から一つ南に下がった路地)が交差する角に、自分の住んでいた家を探しに来られた方を、案内したことがある。

その方、嶋田健さんとの出会いは、私が中国医科大学敷地で古そうな建物を撮って廻っていたときのことで、グランドまで来たとき、グラウンドを写真に収めておられた人を見かけ、声を掛けたことによる。中国人ガイドを案内として、奥さんと共に、中学生になるまで育った奉天(現瀋陽)を見て廻っておられる途中であった。このグラウンドに来られたのは、嶋田さんの父がこの医科大学のグランドで、医大生とラグビーをしていて怪我をした場所だからだそうだ。

嶋田さんが住んでいたところは隅田町5で、2階建煉瓦造りの建物だったそうだが、ガイドの持っている地図では町名までしか分らず、確定できなかったと言われる。そこで、私の所持している康徳6年の地図で確認し、もう一度確かめに行ったわけだ。そこには7階建ての集合住宅が建っているだけである。そこの住人に聞いてみると、91年まで、そこに2階建煉瓦造りの建物があったという。きっと嶋田さんが住んでいた家であろう。彼の家は久保義洋行と言い、貿易の品を扱っていたそうだ。住居は角にあり、その道路の向かいにはパン屋さんがあったという。これも当時の建物の姿はなくなってしまっていた。パン屋さんはロシア人がやっていたパン屋さんだったとのこと。嶋田さんのお宅が面していた伊寧路を西に中山路に到ると、そこは蘇州街とも交差しており、その蘇州街の南方を見ると、旧浪速女学校の建物だ。この交差点をそのまま伊寧路を行き、桂林街と交差する東南角まで行くと、そこには当時の二階建ての建物が今も残っている。嶋田さんのお宅もこのような建物だったのかも知れない。

嶋田さんは加茂小学校の卒業で、今でもその終了記念の写真集を持っていて、そのコピーを今回も持参して来られていた。それには「昭和十八年三月 修了記念 奉天 加茂在満国民学校」とあり、記念写真の横には佐々木学級と横書きした下に、写真にあわせて佐々木先生と生徒46名の名前が書き連ねてある。生徒の名前の中には、都澤ジョージ、ボリス・フィリボフなどの名も見られる。嶋田さんの話では日本人がほとんどであったが、ロシア人やドイツ人も居たのだそうだ。ロシア人は共産主義から逃れてきた白系ロシア人、ドイツ人はナチスから逃れてきたユダヤ系ドイツ人だったという。満州国に住む日本人も含め、当時の世界情勢を窺わせる話だ。

 

以上で、一先ず「満鉄附属地」は終わらせてもらおうと思っているが、骨董店の店主や、路上で古本を扱う人たちと知り合いになって、高くて購入はできなかったものの、写真を撮らせてもらった写真や資料や絵葉書があるので、「附属地の補足」としてご紹介したいと思っている。

注a マンホールの蓋のデザインについては、「瀋陽日本人教師の会 日本語クラブ」の21号、2005年度1号(2005年11月12日発行)を見ていただきたい。

注b 留用については「瀋陽日本人教師の会 日本語クラブ」の2005年度2号総22号(2006年4月1日発行)2005年度3号総23号(2006年6月24日発行)を見ていただきたい。

「日本語クラブ」総23号の「胡芦島」の写真を追加した。これらは拡大して見ることができる。また、発行時期に新聞の話題にもなっていたので、その新聞も紹介しておく。

旧奉天ホテル

緑の両塔をもつ古い建物

中山路5馬路の交差点から北を望む

旧浪速女学校

(瀋陽市第二十中学)

中山路と北5馬路の交差点から旧女学校(20中学)

中山広場北側の中山路より見た毛澤東、旧満州興銀、旧赤十字支社

旧朝鮮銀行の玄関

真上の花のマーク

とイオニア式列柱

旧東拓(右手前)と旧満州興業銀行(左奥)

南京街に面した医大正門の看板と毛沢東の碑

日の字に見える基礎医学院

中国医科大学(南満医学堂本館と図書館)

和平一校

(奉天公学堂跡地)

朝鮮銀行紙幣

医科大学講堂(南満医学堂本館内部)

瀋陽ヤマトホテルのロビー

瀋陽ヤマトホテル(大和旅館)

遼寧賓館玄関から見て、

瀋陽市公安局と

招商銀行(向かって右)と

中国工商銀行

勧業公司

八一施設

劇場の左は図書館、門の真正面は体育館

奉天神社

伊寧路桂林街の交差するところにある古い家

中山路沿いの建物の奥、蘇州街の突き当りに旧浪速女学校が見える

中山広場に向けて(左手前の旧奉天ホテルと協和整形ビルの間が旧隅田町)

医大南門から南昌街を俯瞰

満鉄図書・満鉄医科大学図書の印がある

瀋陽市城市規劃展示館

北1馬路と2馬路の間の旧宅

龍港の造船所

胡芦島龍港の停車場

崖から見る港

海に突き出た崖

築港記念碑

油庫

右の油庫が記念館に

 

参考図書

中国医科大学校史(1931-1991) 遼寧科学技術出版社 1991年

瀋陽近現代建築 瀋陽城市建設档案館 瀋陽市房産档案館 編著 2002年12月

社会主義改造時期的瀋陽 中共瀋陽市委党史研究室編著 瀋陽出版社 2002年

中国人民解放軍歴史簡編 遼寧大学出版社 1985年

図説満州都市物語 河出書房新社 ふくろうの本 西澤泰彦著 2000年4版

瀋陽名所古跡「中山広場毛沢東主席塑像」 遼寧大学出版社 1986年

歴史文化名城瀋陽 瀋陽市政協学習宣伝文史委員会編 瀋陽出版社 2006年3月1日

遼瀋晩報「尋捜瀋陽 名人故居、官邸三『遼賓 濃縮時代映像』」2000・6・23

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

奉天 岩間商会宝石部 井上ひさし所蔵よりコピー

大奉天新区劃明細地図 版権 満州帝国協和会奉天市公署分会 発行所 満州日日新聞社 康徳6年(1939年)3月版

大奉天HOTEN案内地図 奉天広告社 昭和9年(1934年)

大奉天遊覧案内(諸官庁・学校・社会・商店名入) 奉天広告社 昭和9年(1934年)

奉天附属地番地入図(8 瀋陽《旧奉天・附属地・1934年》) 柏書房復刻による

地図 至誠堂(京城府本町) 昭和16年(1941年) 1部分のコピーのみ