31『満洲国・朝鮮民族・日本』と瀋陽西塔付近

加藤正宏

 写真が語る満洲4

(『満洲国・朝鮮民族・日本』

と瀋陽西塔付近)

加藤正宏

   以下に紹介するのは、2005年4月9日に発行した瀋陽日本人教師の会の会誌『日本語クラブ』19号に載せた「満州国・朝鮮民族・日本」(瀋陽日本人教師の会のHPにも登載)のそのままの引用である。この記事に、創氏改名についてと瀋陽市西塔付近の朝鮮族の居住区についてを付け加えをして、今回は紹介している。19号に載せた「満州国・朝鮮民族・日本」を既に見ておられる方は、引用のブルー文字のところを飛ばして、お読みいただければと思う。

Ⅰ、『日本語クラブ』19号からの引用

満州国・朝鮮民族・日本

加藤正宏(瀋陽薬科大学)

 土日の二日間、毎週のように、骨董と古書それにガラクタを販売する二か所の路上市に出かけ、特別なことがないかぎり、この週課(?)を欠かしたことがない。値の掛合いにもだいぶ慣れてきた。市は正午をまわると、出店者の中に帰り始める者が現われ、二時ごろにはぐっと店の数も減ってしまう。だから、次に行く市のことも考えて、最初に行く市には九時前に到着するようにしている。後から行く市は懐遠門(大西門)の近くで、盛京古玩城の周囲にあり、この路上市を見回った後は、古玩城に常設された幾つかのお店を訪ね、親しくなった店主と話をして帰ってくる。どうにか話せるという程度の中国語なので、もちろん筆談も加えてのことである。主に教科書(中華民国、満州国、中華人民共和国の建国期、文化大革命期のもの)を集めている。しかし、その他に教育関係を中心として、少しでも歴史の匂いを留めていて、その匂いを嗅げそうなものを探し、あまり値が張らないものは今までにも種種購入してきた。今回紹介のこの1枚の写真には50元支払った。この写真が、歴史の匂いを濃厚に漂わせ、私の心を掴んでしまったからだ。値の掛合いも忘れて,相手の言い値で購入してしまった。

 前置きはこれくらいにして、写真を紹介しよう。

 写真は小学生のクラス写真である。「國本先生送別記念康徳八年四月十八日」と白抜きされている。校舎の前で三段になって撮っている写真だ。

 康徳八年とある「康徳」は満州国の年号である。1941年に当たる。送別とあるから、先生が転勤か退職された時であろう。中央に女の先生が座っておられる。先生の衣装はチマとチョゴリである。朝鮮の民族服である。女子生徒の多くもやはりチマとチョゴリを身につけている。満州国にあった朝鮮族の学校だと推測できる。

 文字と写真から次のような疑問が涌いてくる。朝鮮の民族衣服を身につけた先生の姓が、なぜ朝鮮族の固有な姓にはない國本なのか、なぜ「老師」でなく「先生」なのか、「紀念」でなく「記念」なのかと。

 國本という姓は朝鮮族の人が創氏改名を強制された時に名乗った日本名の一つであった。また、中国語で使う文字の「老師」や「紀念」でなく、日本語として通常使う「先生」や「記念」になっているのは、日本語学習が強められていた満州国だからこそだと考えられる。

 このようなことが頭を過ぎり、満州国と朝鮮民族と日本この三者の関係を物語ってくれる写真だとの思いが頭の中で強まり、つい、言い値の50元で購入してしまったのがこの写真だ。

國本先生送別記念

康徳八年四月十八日


Ⅱ 創氏改名

 「創氏改名」で思い出すノンフィクションがある。リチャード・キム氏の自伝的な『名を奪われて』山岡清二訳、サイマル出版会、1972年9月12日初版である。

その中から私の心に響いた部分(p112~121)を以下に引用してみたい。引用した部分は茶色文字で示している。

 

 私が学校に着いたとき、先生はもう教室にきていた。若い日本人で、東京の大学を最近卒業したということだ。二十四歳で、もの柔らかな話しぶり、生徒にもかなり優しい先生だ。非常にやせていて、それがあまり目立つので、私たちの学級担任になったその日から、「箸」というあだ名がついた。

(筆者による省略)

 始業のベルが鳴る前に先生が教室にきているのは、めずらしいことだった。生徒たちはシーンとなって机の上にかがみ、こっそり両足をこすり合わせて寒さをこらえていた。

 先生は教壇の上のイスに腰をかけて、静かに私たちを見ている。

(筆者による省略)

 ベルが鳴った。私たちは一斉に姿勢を正してすわりなおし、シーンとなった。

先生は立ち上がって、やせて骨ばった手に持った一枚の紙を眺めた。長い間彼はなにもいわずに窓の外を見ていた。外は暴風に近い荒れ模様になっており、風がうなりを立てて吹きまくり雪は四五度の急角度で落下している。雪が激しいため私には、凍りついた池の向こうの校舎がほとんど見えないほどだった。

 「さて」と先生がいった。それを合い図に私は号令をかけて、全生徒を起立させ、それから先生に礼をさせた。全員そろって礼をした後、私たちは席にすわった。

 「今日はね」と先生は私たちを見ないで、紙きれを目の前に持ち上げていった。「君たちの全員の新しい名前を聞いておかなければなりません。この学級の生徒はほとんど新しい名前をもう提出しているから、私も知っているんだが、校長先生がおっしゃるには、このなかにまだ新しい名前を登録していない者が何人かいるそうだ。いまから登録していない者を古い名前で呼ぶ。呼ばれた者は今からすぐ家へ帰って新しい名前を聞いてきなさい。その新しい名前は町の当局に正式に登録されたものだ。私のいっていることは、みんなよくわかったかね?」

 生徒がなにも答えないのに、先生はやはり私たちを見ない姿勢で数名の名前を読み上げた。私の名前も呼ばれた。

 「いま呼んだ者はすぐ行ってきなさい」と彼はその紙切れを手のなかでくしゃくしゃに丸めながらいった。「できるだけ急いで帰ってくるんだよ」

 彼は教壇から降りて「ほかの者は静粛にして宿題を復習していなさい」というなり私たちからくるりと向きを変え、部屋から出て行った。

(筆者による省略)

 校舎の外へ出ると目を開けていられないほどの雪だった。息づまるような冷たい風のなかを、私は走った。深い積雪の上で何度もすべったりつまずいたりした。ぼくの新しい名前、ぼくの古い名前、ぼくの本当の名前、ぼくの本当でない名前・・・・・?雪のなかに沈むような重い足どりを引きずりながら、私は考えていた。「ぼくは名前をなくしてしまうんだ。ぼくらはみんな名前をなくしてしまうんだ」・・・・・。

この日を忘れてはいけない

 私の祖母がいった。「この子を家においていきなさいよ。風邪をひきますよ」

父が答えた。「いいえ、お母さん。この子をつれていってちゃんとこのことを見せておきたいんです。このことを忘れないためにも・・・・・」父は朝鮮服を着ている。パンタロンのような白いズボンの先を、かかとのところで縛り、長いそでの白い上衣にブルーのチョッキ、その上にグレーのオーバーを着た左腕には黒い腕章を巻いている。帽子はかぶっていない。

(筆者による省略)

 父は私の手をにぎっていった。「お父さんについてくるんだ。お父さんから目を離してはいけないよ」

 祖母はうなずいた。「これじゃ世も末だよ」と憤慨してつぶやく。「畜生、ほんとに畜生だ!」

 「さあ行こう」と父が私にいった。

(筆者による省略)

 省略部分には著者の父がリンゴ園を持つ朝鮮人の名士のため、日本人警部が著者の父を順番待ちの列を度外視し、手続きを早くさせようとする部分が書かれている。

 警部は玄関のドアのすぐ右にある大きな部屋へ、私たちを案内した。部屋のなかには大きなテーブルが二つ並んでいて、それぞれの向こう側に日本人の警官が一人ずつすわっていた。警官のそばには朝鮮人刑事がそれぞれすわっている。明らかに、日本語がわからない朝鮮人のため、通訳をするのであった。

 ドアのところで会った朝鮮人の刑事が、部屋の奥からイスを持ってきて、父にすわってくれといった。私の父は腰をかけない。

 警部がその刑事にお茶を持ってくるようにいいつけた。

 テーブルの一つで日本人警官と向い会っている男は、日本語ができないので通訳してもらわなければならない。老人である。市が開かれる日、あの野外市場で雑用を手伝っている人だ。

 日本人の警官はインクつぼにペンを入れながら、テーブルの上の大きな台帳から顔を上げずに、そばにいる朝鮮人の刑事にこういった。「このお年寄りにいいなさい。もし決心がつかないのならこちらで名前を選んであげるとね」

 朝鮮人刑事は一枚の紙をとり出して老人に見せ、警官が行ったことを通訳した。

老人はその紙を見て激しく首を振った。そこには名前がいっぱい書いてあった。「どれでもいいですよ」と彼は口のなかでもぐもぐいった。「どれにしてもおなじことでさ」

 朝鮮人刑事はここのところは通訳しないで、リストのなかの一ヵ所を指で押さえ、「この名前ならどうかね、おじいさん?」といった。

 老人は「どれでもいいですよ。だれもそんな名前で私を呼ぶわけじゃないし。それだろうが、ほかのどんな名前だろうが、・・・・・ね。」と答えた。

 「それでは、これがあなたの新しい名前として登録されますよ」朝鮮人刑事は、警官に〝新しい〟名前、つまり日本名を伝えた。「よし」と警官がいった。その名前を台帳に書き込んでから、彼はきいた。「家族の名前はどうするのかね?」

(筆者による省略)

 私の父がチョッキのポケットから、一枚の紙片をとり出して警部に渡した。「警部さん、これがあなたのご所望のものだと思います。お気に入れば幸いです」と父はいった。

 警部は紙を見て「そうです、そうです」といった。イワモト・・・・・「イワモト・・・・・。なるほど、これは結構な名前ですな。あなたのお人柄をそのまま表していますよ。山のそばのお宅やリンゴ園、あのまわりの岩山を思い出しますなあ。さっそく登録いたします。申すまでもありませんが、証明書ができるまでお待ちになる必要はありません。あとでだれかにお宅まで届けさせますから・・・・・」

 「イワモト」・・・・・「イワモト」私は、おそるおそる声に出していってみた。私たちの新しい名前、私の新しい名字。「イワ」―岩。「モト」―本、根、基、礎・・・・・。「岩の礎」それが私たちの〝新しい〟名前になる、私たちの〝日本姓〟になる・・・・・。

(筆者による省略)

 「この光景をしっかり見ておくんだよ」と父は私にささやいた。「そしてよく憶えておくんだ。この日のことを絶対に忘れてはいけない」

この石段から門を通り抜けてへいの外まで、ぎっしりと並んだ人々の群れを、私はあらためてよく見た。

(筆者による省略)

私はこの光景を見ながら考えていた―ぼくたちは名前を失ってしまった。ぼくの名前はなくなった。この人たちも警察へ入ったとたんに名前をなくなしてしまう。あの半分ガランとした大部屋へ入って、ダーク・ブルーのインキつぼにひたしたペンで、〝新しい〟日本名をあの大きな台帳に書き込まれたとたんに・・・・・。

(筆者による省略)

 正午までに私のクラスの子供には全員、新しい名前がついていた。各学級は全生徒の新しい名前のリストを校長に提出すると、ただちに日本神社に行くことになっていた。皇国の神々を礼拝すると同時に、私たちに日本名ができたことを天皇に報告するのである。少なくとも週に一度は、学級ごとにその神社へ行って、日本帝国の勝利と繁栄のために一時間の黙祷と祈祷をすることが、義務付けられていた。

 この本の裏表紙には「パール・バック女史が《傑作》と絶賛!」と記されている。パール・バックはあの有名な『大地』を著して、中国の農民の姿を描いたノーベル賞作家である。そして、その彼女が人生の最後近くで、絶賛したのがリチャード・キムのこの『名を奪われて』であった。『名を奪われて』が発刊された数年後、日本で翻訳されて半年後には、彼女は亡くなっている。

 パール・バック女史による評価は別にしても、この『名を奪われて』を読むと、創氏改名当時の情況が私にはよく伝わってきた。

 創氏改名について、改名は強制でなく任意であった、改名を許可しただけである。日本名に改名を求めたのは朝鮮人だという人がいる。麻生太郎もこのような発言をしている。

 しかし、上記の引用のように学童を通じて、せざるを得ない情況に追い込んでいるのも、一種の強制と考えていいのではないだろうか。このように、植民地という社会のいろんな分野で、改名せざるを得ない情況を作っておいて、任意で許可制だったのだから、改名は自ら求めたもので強制ではない、と言っていいのだろうか。

 孫引きで申し訳ないが、鈴木武雄著『朝鮮統治の性格と実績―反省と反批判』に「創氏改名が末端行政当局によって自己の皇民化行政の成績を誇示する手段として強制されるに及んで、朝鮮人の反感を買うに過ぎない結果となったのである。例えば創氏しない者に対しては、日本内地への渡航許可を与えないというような強制が行われた。」注①とその一例が示されている。 

 引用した上記ノンフィクションで、担任の日本人教師が児童に改名を求めて申し渡しをするときの姿に、良心に痛みを感じている日本人の姿を垣間見る思いがする。その一方、時代や社会に逆らえない人間の弱さを感じてしまう。巷の庶民や日本警察下の朝鮮人刑事たちも時代に大きく逆らうこともなく流され、或いは迎合していっている姿がそこに見えている。資産家で名士である著者の父、巷の庶民、日本警察下の朝鮮人刑事たちの改名時の行動や思いがよく伝わってくる。 

 著者の祖母が「これじゃ世も末だよ」と憤慨してつぶやき、「畜生、ほんとに畜生だ!」述べる箇所がある。その畜生という文字を、創氏改名に当って、名前に取り入れて抵抗した者もあったとのこと。祖母のように、相手を畜生といっているのではないが、名を奪われて自らが畜生になったも同じだと、「畜生」を分かち書きして「玄田牛一(くろだうしいち)」という名で申請した者がいるという。この他にも「犬飼徳太郎」、これは「犬」「飼」「徳」「太郎」全てが犬を表すもので、犬になったも同然という抗議が込められているという。「徳」はdog、「太郎」は日本で犬に良くつけられていた呼称だそうである。実際に役所で受け付けられたものかどうかは定かではないが、天皇陛下をもじったものさえあったという。

Ⅲ、瀋陽西塔付近と朝鮮族学校 

 長春(満洲国の旧首都新京)の吉林大学で日本語教師をしていた2000年代初め、宿舎の門衛をしている古老から、○○街より西は日本人街、○○街と△△街の間は朝鮮人街、▽△から東は中国人(当時は満人と呼称)街だなどと、住み分けがあったことを地図の上で教えてもらったことがある。

 瀋陽でもやはり住み分けがあったようで、附属地は日本人街、商阜地は混在地域、城内は満人地域、そして西塔付近には朝鮮人街ができていた。

 西塔(瀋陽の東西南北の四塔については後日紹介の予定)付近は、1900年代初めには沼や澤で未開墾地域であり、墓があちらこちらに造られているような場所であった。そこへ、朝鮮人の入植が始まり、1913年には朝鮮人のキリスト教会も建てられた。

 1931年の満洲事変(九一八事変)後、朝鮮族の移民が急増し、36年には朝鮮族の戸数は800戸に達し、人口も大いに増えた。様ざまな店もでき、医院さえこの地にできた。1945年夏の日本の敗戦、満洲国の消滅時期には1000戸強の朝鮮族の戸数が数えられていた。 

 「祖国を持たぬ人びと・・・・、祖国からはじき出され追い立てられている人々。日本人に自分たちの土地と家庭から追い出された人びと。日本人はこの人びとをおどして強制的に土地を二足三文で買いたたいている。先祖伝来の土地を奪われて難民となった農民は、いま新しい根を求めて異国へ向う・・・・。」

これは『名を奪われて』の中で、著者の母の独白である。事実、私の知人である朝鮮族中国人の方の父も、農業移民として東北中国に遣って来られたのだそうだ。

 今回HPで紹介した写真の学校がどこだか分からない。そこで、朝鮮族学校の一例として、西塔付近の学校について、紹介することにした。参考にしていただければと思う。

 『遼寧少数民族』注②『瀋陽朝鮮族志』注③によれば、1980年代後半、この地区には、朝鮮族の一つの小学校と一つの中学校(現在の日本の中学と高等学校にあたる)があった。現在もそうではないかと思う。 

 以下、上記二著書を参考に記述する。

 小学校は『瀋陽市和平区西塔朝鮮族小学』である。場所は和平区西塔街一段長沙一里十四号に有る。幼稚園は1950年代前半にこの小学校の附属幼稚園として生まれ、10年後には独立した幼稚園となった。しかし、幼稚園はその後西塔付近から和平区の別の地区に移転している。

 この小学校は長い歴史を持っている。創建は1920年、奉天市(現在の瀋陽市)小西辺門外喇嘛(ラマ)廟に建てられた「奉天育英学校」が始まりであった。学生40~50名、教師4~5名からの出発である。

 その後、校名を「奉天実業普通学校」、続いて北市場に移転し「奉天普通学校」と改名、満州事変(九一八事変)の起こった年の暮れに、西塔街二段北玉温里五号に新校舎を建てて移転している。この場所は下記に紹介する現在の「瀋陽市立朝鮮族第六中学」の敷地である。1940年に「奉天西塔尋常小学校」と校名を改め、高等科を附設した六年制の小学校となった。1942年、「奉天西塔在満国民学校」と改名、24学級、在校生1500名強、教師40名強の学校であった。更に学校には三つの分教場(大利、興順街、東関)があった。

 1945年8月15日の光復(日本の支配から解放)後、校名は「韓国西塔小学校」と改名、中国共産党の瀋陽解放後の1949年には「瀋陽特別市立朝鮮族西塔小学校」となり、1950年には「朝鮮民族中心校」となり、54年には「北市区西塔朝鮮民族完全小学校」となる。55年には、現在「瀋陽市立朝鮮族第六中学」がある敷地から和平区西塔信義里に移転する。1960年に「瀋陽市和平区西塔朝鮮族小学」と改名し、63年には更に移転し、現在(1980年代末)の場所である西塔街一段長沙一里十四号に位置する。 

 学校の管轄部署の変遷を見てみると、まず1920年に個人の学校「奉天育英学校」として誕生し、その年の暮れに、奉天朝鮮人居留民協会に受け継がれて「奉天実業普通学校」改名、その後「奉天普通学校」と改名し、22年には奉天日本人居留民会の管理に移り、1940年からは日本大使館在満教務部の管理下で「奉天西塔尋常小学校」となり、42年には「奉天西塔在満国民学校」と名前が改められた。光復後、国民党管理下に「韓国西塔小学校」となった後、中国共産党の瀋陽解放により、「瀋陽特別市立朝鮮族西塔小学校」、続いて「朝鮮民族中心校」、「北市区西塔朝鮮民族完全小学校」、「瀋陽市和平区西塔朝鮮族小学」と名前は変わるものの、中国人民政府の管轄下に置かれている。 

中学校について述べよう。

 満洲国崩壊時期、瀋陽には朝鮮族の中学校が五校あったが、1945年8月15日の光復(日本の支配から解放)後、三校が、そして残りの二校も国民党の支配時期に学校としての機能がストップしてしまった。

 中学が再興されたのは、中国共産党の瀋陽解放後の1948年末であった。最初の学校は「瀋陽市立朝鮮人民中学」と名付けられ西塔地区に造られた。1955年に蘇家屯にその分校ができ、翌年これが独立して「瀋陽市立朝鮮族第二中学」と名付けられた。これに伴ない,本校のほうは「瀋陽市立朝鮮族第一中学」と呼ばれることになった。本校の「瀋陽市立朝鮮族第一中学」は西塔地区から、その後、皇姑区崇山路に移転してしまう。文革以後の70年代末から80年にかけての数年で、瀋陽市内各地に「朝鮮族中学」が四校も増え、校名は順次に三、四、五、六と付けられて「瀋陽市立朝鮮族第六中学」の呼称に到るまでになった。加えて「瀋陽市朝鮮族職業高級中学」もでき、この時点で、合計七ヵ所の朝鮮族中学が瀋陽に存在することになった。

「瀋陽市立朝鮮族第六中学」は西塔地区に1980年に造られた学校で、校址は瀋陽市和平区西塔街二段北玉温里五号、上記の朝鮮族小学校が嘗て置かれていた所でもある。即ち。朝鮮族学校とは1930年代の初期以来所縁のある場所である。

 「学校(校門)は延辺街に面していて、ご存知の通り、朝鮮料理の店、サウナ、クラブ等が並ぶ路地です。夏休みなので、門も閉まっていて、誰もいませんでした。普段、下校時はジャージ姿の学生達が大勢いるのですが。」と、夏季休暇中の朝鮮族第六中学の様子を池本千恵さん(瀋陽日本人教師の会の仲間)がメールで伝えてくれている。掲載の写真も池本さんに依頼して撮ってもらったものだ。

 

Ⅳ、朝鮮族学校の教育内容 

A 満洲国時期

 1937年12月1日の満洲国に対する治外法権撤廃前もその後も、実質的に日本の統制下に朝鮮族の教育が行われ、朝鮮総督府普通学校の規定に準じたものが行われた。

 その教育方針は 1、言葉や思想や感情面で日本人との融和 2、日本の公民教育の進行 3、農業などの実務教育の重視 などであった。

 小学校の学習内容は、『瀋陽朝鮮族志』注③を参考に纏めてみると、次のようなものになる(192頁)。

1年生から4年生までは

修身、国語(=日本語)、朝鮮語、算術、唱歌、図画、手工、体操、

5年生と6年生は

上記科目に国史(日本史)、地理、自然、後には満洲語(中国語)が加えられている。

 教科書は満洲語(中国語)以外は全て朝鮮総督府編教科書と日本の文部省編の教科書が採用された。

 その他に学校行事として、日本国旗の掲揚や、「君が代」の斉唱、日本の祝祭日に儀式を参加し、天皇の詔書を読み上げ、神社に参拝した。

 朝鮮半島では「一九三八(昭和十三年)年三月四日には、新しい朝鮮教育令が公布され、朝鮮語は随意科目に繰り入れられ、実際上、学校では朝鮮語はまったく行われなくなった。」注④そして、満洲国にあっても、この動きは起こっていったものと思われる。

 

B 中華人民共和国時期

 1953年、62年、85年の朝鮮族の小学校と中学校の教学計画表を写真で提示してみた。53年の小学校では高学年にのみ中国語(漢語)あり、朝鮮語が中国語の12倍である。しかし、中学になるとその比率は少しではあるが中国語のほうが多くなっている。62年になると中国語も小学校低学年から学習が始まり、小学校でも朝鮮語は中国語の2倍強程度に減少している。中学ではやはり中国語のほうが多く、1倍半強ほどだ。85年には、小学校での比率が、朝鮮語が中国語の2倍半くらいで、中学では中国語と朝鮮語の比率は53年時期とほぼ同じで、中国語のほうが少し多い程度である。

 建国当初ほどには民族語が優先されているとは言えない。民族語の基本を身に着ける期間が保障はされてはいるものの、大学、更に社会に出て行くに当って、中国語の修得は欠かせないものになっているし、教学課程もそのようになっている。

中国籍を持つ朝鮮民族の中国語学習と日本統治下の朝鮮民族の日本語学習で大きく異なる所は、朝鮮語や朝鮮文化の抹殺にあるのだろう。でも、表面だけを見ると、大国に組み込まれて、その大国で活動し生活するには、民族語だけでは通用しない状況、それどころか、その多くを中国語を使わざるを得ない状況下に置かれているのは、差こそ多少あれ、日本統治下と同じように思えるのだが・・・・・。

 同じような情況下で生活する新彊の人たちは、このような情況をどう受け止めているのであろうか。(2009年8月24日記)

 

注① 『日本統治下の朝鮮』山辺健太郎著 岩波新書 1971年

注② 『遼寧少数民族』 遼寧文史資料第二十輯 遼寧人民出版社

中国人民協商会議遼寧省委員会 文史資料研究委員会編 1987年

注③ 『瀋陽朝鮮族志』 遼寧民族出版社 1989年

瀋陽市民委民族志編纂弁公室編 責任編集:朴忠国

注④ 『近代日本と朝鮮』中塚明著 三省堂新書 153頁 昭和44年





































































80年代の初級中学歴史課本 中国語課本と朝鮮語課本

左は表紙の比較、中と右は甲午中日戦争(日清戦争)の頁の比較




















『名を奪われて』

































西塔の隣にある中韓旅遊商業広場

西塔街 ハングル文字が見える































瀋陽市立朝鮮族第六中学

(写真提供:池本千恵さん



















































































































































































普通学校漢文読本表紙と奥付

著作兼発行者は朝鮮総督府

本文の漢字の合間にハングル文字が見られる











左から1953年、62年、85年の教学表(小学校と初級・高級中学校)