23 留用


加藤正宏


     瀋陽日本人教師の会の会誌『日本語クラブ』22号(2006年4月1日発行)に掲載されたものに、留用された人物についていくつか追加文を加え、再録したものである。写真も拡大して見ることができるように変えた(写真の上でクリックしてください)

留用

加藤正宏

 

    「シベリアに抑留され、大変でした。」などと、「抑留」という言葉はどこかで目にしたり、耳にしたことのある言葉であろう。しかし、「留用」という言葉はどうであろうか。私自身最近までこの言葉を知らなかった。

  「満鉄附属地」をHPで何回か紹介させていただいく過程で、奉天の附属地についての貴重な情報を寄せてくださる方々と知り合った。これらの方々が情報を寄せてくださるメール文の中で、この「留用」の文字に出会った。目にしたことのない、耳慣れない言葉だとなあと思いながら、「抑留」(他国の人や物を、その国に帰さないで、強制的にそこにとどめおくこと:三省堂の新明解国語辞典)と同程度の意識で受け止めていた。

       私のこのような認識を覆す情報を、栗原節也さん(瀋陽日本人教師会のHP「満鉄附属地」にたびたび情報を寄せて頂いている方)から頂き、この言葉を十分捕捉していなかったことを知った。そして、私はその認識を改める機会を得た。

栗原さんの情報は次のようなものであった。

「留用すなわち抑留とはならないのではないかと思います。 国府時代についていえば、当時の日本人の置かれた立場、情況および彼我の関係から、形式上は命令の形で残った、残された訳ですが、全てが強制によるものではなく、懇願されて残った者、希望して残った者もいたようです。 過去に比べたら不十分であっても住居があり、給料が支払われ、教育設備もあり、行動の自由があったわけですから、抑留的処遇とは少し違うように思います。 なお、共産党、軍の留用者は『國際友人』と呼ばれていたとか・・・。」

   そして、「留用」について書かれた本を紹介してくださった(写真)。NHK取材班による「『留用』された日本人」、サブタイトルは「私たちは中国建国を支えた」というもので、日中国交回復30周年の特別番組を本にしたもの、2003年にNHK出版で初版が出されている。

春節にあわせ帰国した時期、この本を取り寄せ読んでみた。

    日本の敗戦(中国などでは光復)後、東北に残された多くの日本人は帰国を急いだ。そんな中、半強制的な状況下で残らざるを得なかった日本人たちが居た。技能や技術を身につけた日本人に、新中国はその建国に協力を求めたのである。栗原さんの言われているとおり、懇願されて残った者、希望して残った者も居たが、その多くは帰国を頭に描きながら、時の状況下での運命を受け入れ、「留用」(留め用いる)を受け入れてのものであった。しかし、彼ら日本人に対する中国の処遇は戦争捕虜のそれではなく、友人としてのそれであり、栗原さんも言われているように、住居も与えられ、給料も支払われ、子どもたちの教育施設も考慮されていた。それは、中国人の技能者や技術者同等、時にはそれ以上でさえあった。このような処遇の中で、日本人の多くはその勤勉な態度でこれらに応え、新中国建国の初期の活動を支えた。その真摯で勤勉な日本人の態度は、共に建国に携わる多くの中国人の心を捉え、信頼を勝ち得て、友好を深めていった。老百姓(庶民)と老百姓(庶民)が共に働き、共に生活していく中で培われていった実のある友好であった。

       もう一冊、栗原さんは紹介してくださった。2006年1月号の雑誌「人民中国」である。若い頃、私も読んでいた雑誌である。紙質が良くなって、今も発行が続けられていた。武吉治朗の記事「友人として扱われた『留用』日本人」がそれである。この中で、中国中日関係史学会が1999年に「留用」日本人の事跡を発掘、編集して記録に留めることを決議し、その成果として、「留用」日本人の壮絶な生き方を綴った「友誼鋳春秋」(中国語版)が2002年に第一巻、2005年に第二巻を刊行したこと、またこの二冊を日本僑報社の「新中国に貢献した日本人たち」として武吉自身が翻訳したこと、そして、この本訳書に故後藤田正晴氏から「本書に登場する人々は、戦争で破壊された日中両国の友好を、自らの汗と血で修復して、今日の礎を築かれた。両国関係がきびしい状況にあるとき、地道な草の根交流という原点に立ち返るよう、本書の人々は呼びかけている。」との推薦文をもらったことなどを紹介している。

   私の読んだNHK出版の「『留用』された日本人」という本でも、「留用」日本人たちが、後藤田氏が書いているように、戦争で破壊された日中両国の友好を、自らの汗と血で修復しいった内容が、鉄道関係、医師・看護婦関係、空軍軍関係、鉄鋼関係などそれぞれの専門分野で頑張られた様子を通じて紹介されていた。予期しなかった一つの困難な時代状況下に置かれても、頑張り、日中両国の友好の草の根交流の基礎を作っていかれたこれらの「留用」日本人の姿には、胸を熱くされるものがある。

   HP「満鉄附属地」に情報を寄せて頂いた方々の親族にも、「留用」日本人として日中友好の基礎造りに貢献された方が多く、また、「留用」日本人の看護婦として残られ、後には中国人と結婚され、瀋陽に今も住んでいる方に電話をおかけする機会などもあって、「留用」という言葉は、私にはより身近な言葉になってきている。

半強制と自由意志との違いはあるものの、私自身も、早くから日中友好の草の根交流の一つの役割を担おうと考え、1986年~88年(西安、西北工業大学)、2000年~02年(長春、吉林大学)、2004年~現在(瀋陽、瀋陽薬科大学)と、日本語教師として行動してきている。西北工業大学や吉林大学の先生や学生たちとは、中国に彼らを訪ねたり、日本の我が家に彼らを迎えたりして、今でも頻繁に交流が続いているし、街中で知り合った人たちとも文通したり、時には訪ねて行ったりしている。

   「留用」日本人の方々を知るに到り、「留用」日本人の方々が築かれた日中両国の友好の草の根交流に思いを馳せると、その原点を見失わずに、継続して、その役割を担っていきたいものと思いが、改めて心の中に涌いてくる。

「留用」、この言葉は日本のほとんどの辞書で、未だ取り上げておらず、探せない。中国でも日本でも特に取り上げられるようになってから、まだ、数年しか経っていないようだ。この言葉が一般的な言葉となって、辞書に定着し、日中双方の歴史教科書に記載されるような時期が早く来て欲しいものだと思う。双方の教科書に「『留用』日本人」のことが記載されるということは、日中が全ての面で友好を深めている証左にもなるものであろうから。 

 

追加文 (2008年6月23日、記)

 「留用」の例をいくつかご紹介しておこう。

① 「留用」について認識を改める機会を与えてく下さった栗原さんのご家族

   このシリーズ『瀋陽史跡探訪』の「6.満鉄附属地、その1の補足」で、栗原節也さんは「1945年に奉天第二中学校入学。敗戦後の1946年6月引揚げ開始後、生徒数激減により、最終的には1947年10月、中国各機関(交通部、中長鉄路、大学、金融、外交、インフラ関係等々)留用子弟の男女中等学校が合併し瀋陽中学校(旧・弥生町51,53番地・旧満鉄の施設、現在の宇光中学の斜め向い)となり、その後の国共内戦激化により、1948年6月留用解除となり、学校も閉校。」となったと当時の様子を語られている。

   このように、節也さん自身が留用された日本人のご子息であった。ご尊父は誠男(のぶお)さんといわれ、大正年間に大陸に渡られ、満鉄でボイラー関係の機械・設計を担当されておられたという。敗戦(中国では光復)時は働き盛りの40代後半、その技能を国民党政府に見込まれ留用されるはめになったのであろう。留用されたところは中国長春鉄路瀋陽分局房産営繕処(旧満鉄鉄道総局の西の裏手にあった)、まもなく、誠男さんの上司(北京から来た水道の専門家)の中国人田氏が栗原さん宅に同居するようになったとのこと。たぶん、田さんの配慮もあったのであろう、敗戦時に奉天工大に入ったばかりであった栗原家の長兄昭男さんも、中国長春鉄路に1947年には留用されている。昭男さんは中国長春鉄路に勤務中のことを、日本人だからといって差別やいじめを受けたことは一度もなく、普通に勤められたことは今でも懐かしい良い思い出となっているいと述べられている。老百姓(庶民)と老百姓(庶民)の友好の姿がそこには見える。これこそ、「抑留」と「留用」の違いではなかったろうか。

② 奉天二中の四回生 杉田和雄さん

   「私は終戦を、学徒動員で行っていた遼陽の関東軍火工廠で迎えた。その後一九四六年に大連で、戦後の中国の経済復興のために協力せよということで中国経済建設学会に技術者として留用されることになった。この学会には満鉄、満鉄中央試験所、関東州庁、学校関係及びその他の多くの技術者が留用された。一九四六年から四七年にかけて留用技術者は、共産党軍と国民党軍の内戦のさなかに山東へまた北満へと移動させられた。家族を含めた我々約二百名のグループは、(引用者による省略)牡丹江を経由し、ハルピンに到着した。ハルピンでは町の中心にある政府の建物に収容され、十日の間に各人の経歴により、鉄道、炭坑、研究所、市政府へと配属され、別れ別れになった。」

   杉田和雄さんはハルピン市政府建設局に留用され、高さ三十mもある「抗日曁愛国自衛戦争烈士記念塔」の建設に係わられ、「抗日」の「日」の文字を塔に刻むに当たっては複雑な気持ちであったことを、五十周年目の中華人民共和国国慶節にあたり、感慨無量に思い出されている。(奉天二中同窓会会誌『砂丘』第17号、2000年5月発行の10~頁の「国慶節と記念塔の思い出」からご紹介した。)

   なお、『砂丘』第14号には四回生の武藤茂春氏や九回生の岩田恭一郎氏も留用者の家族であったことを述べられている。

③ 東京日中友好協会理事の鈴木美緒さんのご尊父

  「鈴木美緒是当時極少没有被遣返的日僑。因為?的父親是很有名的建築師、所以被当時的政府留下来修葺長春戦争中被毀的建築。」

   (この記事は2006年6月26日の瀋陽の「遼瀋晩報」に載せられた記事である。5月25日に開催された「葫芦島百万日僑大遣返60周年回顧曁中日関係展望論壇」に参加された77歳になる鈴木美緒さんへのインタビュー記事の一部で、記事自体は彼女の一家がその後に解放軍中で仕事をし、1953年に帰国するまで、日本人だからと言って苛められ馬鹿にされることがなかったこと(中国人の善良さ)が彼女に日中交流の仕事に向き合わせることになったと紹介するものである。しかし、引用した中国文のように、有名な建築師であった為に中国政府によって留用され、この葫芦島からの引揚げには参加できなかったことを、中国の新聞が認めたものになっている。)

④ 中国医科大学(旧満州医科大学を受け継ぐ)に留用された方々

   「学校在全国聘請了一批高級知識分子、加上原有的師質、這時学校集中了一大批有較高学術造詣和教学、医療水平的専家教授。其中有▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽等(▽は中国人の人名)、以及日籍教授稗田憲太郎、武内睦哉、松原勛、星清岡、安倍三史、明石勝英等。」(『中国医科大学校史』、1981年発行の25頁から)

   「一九五三年歓送両批曾在我校工作的日籍工作人員回国、共計有松原勛、武内睦哉等145名。這些日本朋友在我校多年来勤勤懇懇、与広大教職工合作共事、為?好学校貢献了力量」(『中国医科大学校史』、1981年発行の29頁から)

   この145名もの、中国医科大学の留用者の帰国(引揚げ)は奉天二中の同窓会会誌『砂丘』第17号(2000年5月)の栗原節也さんの「瀋陽中学校時代の回想」では「一九四八年、四月・満洲医科大学関係留用者、空路北京経由で帰国。」とあり、5年後にもまだ145名の方が留用されて残っていたことになる。中国文に見られるように全国から招請したとのことであるから、これら全ての方が満洲医科大学から引き続き留用されていたとは限らないだろうが・・・・。東北各地の医療関係で勤務されていた日本人の中には、初めから共産党政府に留用された者も、また国府による留用が終わった後、更に引き続き現中国の共産党政府の留用された者もいたであろう。それにしても、1953年の段階でそれら留用者の合計が145名にも達していたのだ、一つの大学で。

  「前后从全国聘請了一批知名専家、教授来校執教、再原有的師質、学校薈萃一大批学術造詣和教学、医療水平較高的専家、教授、主要有:▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽、▽等(▽は中国人の人名)、還有日本籍教授:稗田憲太郎、武内睦哉、松原勛、星清綱、安倍三史、明石勝英、高橋秀馬、井橋節太郎、二戸源治等。」(『中国医科大学校史』、1991年発行の24頁)

     なお91年のそれには附表があり、附表「中国医科大学外籍教授、専家名表」には上記の方以外に、戸井田登、梅原一雄、三木三五郎、高鍋正雄の名が記載されている。星氏の名については91年のものが正しいのではないかと思われる。

   1981年発行の『中国医科大学校史』では、留用された人たちを日本の友人(日本朋友)と呼び、とても勤勉で、多くの教職員と共に事を為し、学校を良くするために大いに貢献したと記載されているが、1991年発行のそれには見当たらない。

   これは編纂時期の中国の社会・政治の事情の違いによるのだろう。前者は1978年に日中平和友好条約が調印された後であり、後者は1989年の天安門事件の外国による批判に対し、国内の引き締めが強くなっていた時期で、外国の中国への貢献を記載することそのことが憚れたのだと思える。

   しかし、書かれずとも、事実には変わりは無く、中国人自身が認めるように、留用者達の貢献は大きかったものと考えられる。

⑤ 本間武子さん

   満州国赤十字社の看護婦であった彼女は、留用のめにあい、その後中国人と結婚し、残留婦人となられた方である。

Photograph from Asia 25 「 娘たちのいる中国で暮らしたい」千島寛、写真・文

では、86歳の彼女を紹介している。

91歳の彼女をインタビュした記事や写真を、田村充さんが2005年8月17日の読売新聞で紹介している。彼女はこの年の4月に脳血栓で倒れ、寝たきり状態で、彼女の四人の娘家族が毎日交代して看病に当たっている様子が紹介されている。

   ところで、これらの紹介よりも10年、15年も早く、彼女の中国での存在を紹介した記事が奉天葵小学校同窓会会報『あふひ草』に載っている。金子甫さんの『あふひ草』第12号「残留婦人との出会い」である。

   「『このあたりに日本人のお母さんがいるから聞いてみたらどうですか』というガイドの勧めにしたがって、本間武子さんのお宅に伺ったのである。本間さんは75歳のお元気そうな美しい婦人で~若いときにはさぞや人の目を引いたであろう~、驚くほど綺麗な日本語で話しをされた。終戦当時は満洲赤十字の看護婦として新京(今の長春)にいたが、その後瀋陽に来た。国府軍の下での留用、共産軍の下での収容所入りを経て結婚し、(引用者による省略)、4人の娘が生まれ、みな結婚して、本間さんを養ってくれている。今は末娘と一緒に暮らしている。現在は反日感情はないが、以前は母親が日本人だということでいじめられたので、娘たちは日本語を習いたがらず、誰もしゃべれない。10年前に、佐渡にある実家の、財産放棄の手続きをしに帰国したことがある。その時の土産に持ち帰ったラジカセなど電化製品は、中国に戻った時に没収された。今はそういうことはないであろう。もう一度帰ってみたいと思うが、永住帰国の気持ちはない。残留孤児が養父母を置いて日本へ帰ってしまうのは納得ができない。以上のようなお話を聞いたが、まだまだ話足らぬ様子だったので、その晩ホテルに来て頂いた。近くに住んでいるという3番目の娘さんが付き添って来られた。この人の月給は75元(三千円弱)で、食べるのには困ることはなくなったが、洋服を買うには2、3ヶ月分の収入が必要と言うことだ。『よかったら、一緒にいらっしゃい』と皆さんが言われたので、にぎやかな歓談の中へお連れした。それがとても嬉しかったらしい。私達が帰国するのを追いかけるようにとどいた手紙には、次のように書かれていた。『43年ぶりに、はじめて暖かい皆々様の御心に触れた感じでした。・・・・日本に生まれ、長生きしたおかげで、楽しい一時をすごさしていただきました。・・・・北陵公園での散歩に、日本の方達にお目にかかる折も・・・・なつかしくお話をと思いつつ、避けつづけてきた私でした。まだまだ、残留婦人に暖かい手をさしのべて下さる方達もいられる事を知り、なつかしさで一ぱいです。』 私たちが、満洲に行ってなつかしさを満喫しているときに、なつかしい気持ちを抑えて、私たちを眺めている人たちがいるとは、思いもよらぬことであった。これから、瀋陽に行かれる方もおられるであろうが、会いに行かれたら、本間さんはとても喜ばれるであろうと思う。」

   金子さんはこの文の後に、本間さんのお宅への道筋や行き方、手紙の差し出し住所を記載されている。もちろん、金子さん自身、本間さんと頻繁に文通されていたとのことですが、2006年11月30日にもらった手紙が最後になったそうです。

奉天葵小学校同窓会会報『あふひ草』の第20号(1995年8月発行)に篠崎正卓さんの次のような呼びかけが掲載された。

「お願い 瀋陽訪問を計画されている方に是非お願いします。会報12号に紹介されている残留婦人本間武子さんは83歳の高齢で現在も健在ですが、残留婦人もいなくなり日本語をしゃべる機会もないそうです。戦争犠牲者の一人でもある本間さんに故国の香りのするもの、茶、のり、内地米、味噌、醤油など少しでも持参して慰めて上げて下さい。宿泊飯店を知らせれば本人が飯店に来られます。住所 中国瀋陽市○△□▽・・・・。

   この呼びかけに応じられた葵小学校同窓会メンバーが、何度か本間さんに会いに行かれている。『あふひ草』の第21号(96年8月)、23号(98年8月)、24号(99年8月)では筑木静治さんが、26号(2002年1月)では鈴木利幸さんが詳しく報告されている。金子甫さんの話では、吉田正満もこの活動に大いに尽力された方だとのこと、また、本間さんの2度の一時帰国にも際しても、葵小学校同窓会メンバーが歓迎し、何人もの方が接待に参加されている。最初の帰国時には金子甫さんがホテルをお世話された由。

   もちろん、呼びかけ人の篠崎正卓さんも会いに行かれたり、文通を頻繁にやられていらっしゃる。2005年の秋にも瀋陽を訪問され、本間さんにお会いする計画を立てておられたが、ご破算になり、栗原節也さんを通じて、当時瀋陽にいた私(筆者)に次のような申し入れがあった。

「瀋陽・日本人教師の会」の方で、要らなくなった「雑誌、週刊誌」のようなものがあれば、本間さんに廻して貰えればご本人喜ぶだろうと思うので協力をお願いしたい、但し、年齢が年齢(93歳)だけに、活字を読む気力があるかどうか分らないので、本間さんのお気持ち聞いた上でということで、とにかく電話をかけてください、「加藤さん(筆者)から電話があるかもしれない」と手紙を出しておきますからとのことであった。

   このように私自身も本間さんと少し係わりを持たせていただくことになった。以下は本間さんに電話した時の様子である。

   夏休みに日本に帰国中に上記のような依頼を受けていて、瀋陽の大学に戻った9月に入ってから電話をかけた。電話は少し自信がなかったものの(例えば、篠崎さんのことをどのように発音すればよいのかとか)、娘さんが出られたので、「本間武子さんいらっしゃいますか」と「本間武子在??benjian wuzi zai ma?」と中国語で訊ねたところ、本間武子さんにすぐつないでくださったので、篠崎の中国語の発音は不要だった。本間武子さん自身はしっかりした口調、明快な日本語で、話された。90歳を越えているとは思われないような若若しいお声ではっきりと話されていた。

   篠崎さんの手紙が届いているかお聞きしたところ、届いていないとのこと。体調は良くなく、3ヶ月寝たきりだそうで、娘4人が交互に看病に来てくれているとのこと。日本の雑誌や本をお届けしましょうかと申し出たところ、読むだけの体力さえ今は無く、残念ながら、お会いする力もないとのお話であった。篠崎さんには、孫にお年玉などいろいろとしていただき感謝していること、その孫たちも大学を卒業したことを、篠崎さんにお伝えくださいとの伝言を受けた。お孫さんで日本語を学んでおられた方が、体が弱く、日本に留学することを諦めてしまったとも話されていた。最後に、私の勤める大学と、私の部屋の電話番号をお伝えしたところ、番号が8桁なので、一つ一つ言っても、何度も間違われ、娘さんに交代してもらって正確な番号と勤め先をメモしてもらうようなこともあった。お別れする時、「孫がお訪ねするかもわかりません」と話されていたのが印象的だった。

   『あふひ草』の第33号(2007年8月発行)に鈴木利幸さんが「瀋陽在住の本間武子さんは、去る6月10日に亡くなられました。」と情報を寄せられている。

留用で留めおかれた中国の大地で、4人の娘さんそしてお孫さんに看取られ、本間武子さんは往生された。戦争で破壊された日中両国の友好を、自らの汗と血で修復されていかれた方の一人が本間武子さんではなかったであろうか。

   また、彼女をその人生の後半で支えようとした奉天葵小学校の同窓生の動きにも、何かほんわかとした心を暖められる思いがする。

⑥ 金子 甫さんのご尊父

『あふひ草』第12号に「残留婦人との出会い」として最初に本間武子さんを紹介された金子甫さんも、ご尊父(金子 勇)が留用され、ご家族よりも1年後に帰国されているとのことである。

     その帰国時には今回掲載させてもらった「奨状」及び「任命書」を持ち帰っておられる。勇さんは大林組の土木建設機械工場(鉄西)に勤務していて、ソ連軍が満洲の施設・物材を根こそぎ撤去した時、機械などを巧みに隠して中国側に引き渡したことを高く評価されたようだとのことである。今から考えると命の危険を冒しての行動であっただろうと息子さんの金子 甫さんは述べられている。

   金子さんから、2枚の写真(当時の文書)を受け取られた栗原節也さんが以下のコメントを付けてその写真とメールを送って下さった。

   2枚とも、私は初めて見ました。1枚は彼の父が危険を冒して機器を隠し、中国側に引き渡したその功績に対する獎状。 この獎状が留用者の身分、扱いを示唆しているように思えます。もう1枚は、留用の「辞令」だと思います。「東北行営」(後に東北行轅)から、各人ごとか集団ごとかは別にして何らかの形で、書面により「発令」されていたであろうと推定していましたが、この資料を見て間違ってはいなかったような気がします。

   「東北敵偽事業資産統一接収委員会」の名は、日本語読みでなかなか語調が良いので覚えていました。他に「資源委員会」「物資調節委員会」「経済委員会」といった名のものもあったように思います。その他にも多くの委員会が「東北行営」の機関としてあったのではないかと思います。

   「獎状」本文中に見えにくい字が有りますので、下記しておきます。

   査前大林組於八一五光復後竟能竭力維護該廠使機器未受損失實屬有功於我國考其事蹟殊堪稱嘉許特發給獎状以資褒獎此状

以上

(2008.7.13記)

   瀋陽市人民政府地方志編纂弁公室の『1840~1987 瀋陽大事記』によれば、「1945年の8月20日にソ連軍の後方バイカル方面軍の近衛タンク第五軍先遣隊が瀋陽に進入し、瀋陽を解放した。」とある。また「9月18日には彭真、陳雲、葉季壮、伍修権などが瀋陽に到り、当面の主要任務を確定した。」とある。

   この時点では、ソ連軍の解放下に中国共産党勢力が入り込んでいたのだが、11月中旬に入ると、アメリカの飛行機や軍艦が国民党の軍隊を搬送してきて、その抗日戦争勝利の果実を奪い取っていった。

   『瀋陽大事記』によれば、「11月21日、ソ連軍は《中ソ友好同盟条約》を根拠に、瀋陽を国民党政府に渡すため、共産党政府機関や部隊が瀋陽を撤収することを求めてき、共産党政府は瀋陽撤収を決めた。」「1946年、1月15日、国民党第52軍が瀋陽鉄西区に入る。」「3月12日、ソ連軍は瀋陽から全部撤収し、翌日、国民党52軍が瀋陽を占領した。」「4月5日、国民党“東北行轅”主任熊式輝と“東北保安司令官”杜聿明が別々に5日と18日に錦州から瀋陽にやって来た。」とある。

   金子さんのご尊父が東北敵偽事業資産統一接収委員会の主任委員である徐箴から大林組の保管責任者に任命されたのが1946年(民国35年)5月17日である。「獎状」をもらわれたのは46年の10月5日である。「獎状」の文面によれば、「八一五光復後」とあるから、日本で言う8月15日の敗戦後、でき得る限り工場の機器を損なわないように保護維持してきたことに対して獎状が与えられたようだ。しかし、ご尊父が保管責任者に任命されたのは国民党の統治下に入ってから2ヶ月が経過している。そして、獎状が与えられたのは更にその5ヶ月弱後である。どうしてだったのだろうか。

    半年強ものソ連の占領下にソ連の略奪を逃れ機器を保護維持していたご尊父の意図はどの辺りにあったのであろうか。ソ連の瀋陽撤収時期と国民党の任命(辞令)や獎状の発せられた時期のずれの中に、日本企業の何らかの生き残りへの模索がなされていたのではなかろうかと考えるのは穿った考えであろうか。

   以上のHP「留用」を見られた森川行雄さんがメールをくださいました。森川さんのご尊父も「留用」されたことが、そこに述べられており、HP「留用」の追加文として、メール原文を掲載させてもらいました。

森川行雄さんのご尊父(2009年10月記)

加藤正宏様

   “留用”を拝読。

   “留用”にこんな意味合いがあるとは、思っていませんでした。 父は中国共産党に8年間留用されました。多くの帰国者との交流の中で、“留用者”とは普通の言葉として使っていました。

   確かに、中国で民間人なのに残留させられた人達は、捕虜には当てはまらず。抑留に近いと思いますが、希望で残った人もいて、中国では留用と都合のよい呼び方をしたのだと思います。奉天でも大勢、国民党に留用されたことを知りました。ここでは新京と同じで国共内戦の渦中に巻き込まれ、大変だったと思います。

     ハルビンは1946年2月ソ連軍が引揚げた後は、中国共産軍が支配し、治安は安定していました。

   私は、1944年3月に大連朝日国民学校を卒業して、ハルビン中学へ入学しました。栗原節也さんより1年上になります。

    1946年7月引き揚げが始まるので、団の編成にかかっていた時、突然父に残留依頼書が届けられました。立派な大きな賞状の紙に、中国の鉄道再建のために残留して協力して欲しい。との内容で、依頼者は呂正操鉄路軍司令官(後の鉄道部長、副総理)名になっていました。当時、父森川善雄(モリカワ ヨシオ 44才)はハルビン三○樹鉄道工場長(満鉄7工場の一つ)でした。(「三○樹」の○の字は左に「木」、右に「果」の字)

     私達家族(母、姉、妹3人)は、1946年8月に集団帰国をしました。私達をハルビン駅に見送りに来ていた父には、警護の意味で中共の兵隊二人が従いていました。

その時の話しでは、国共内戦は停戦しているし、1年もすれば帰国できるだろうと楽観していて、8年間も留用されることになるとは思ってもいませんでした。

   その後父は、総工程師として1946年10月から旧満鉄技術者の日本人60名、中国人200名と共に、牡丹江→三橋・成都→西安→天水→蘭州→武漢→鄭州と、鉄道工場と機関区の復旧・建設に従事することになったのです。

中共としては、有能な人材を教育費をかけずに、安い賃金で使っていたのですから有効・便利だったでしょう

   敗戦後の三反・五反運動の中で、留用者達は不自由な生活を強いられ、そのうえ毎晩夕食後の、日本人党員の指導による共産主義学習は大変な苦痛でした。いつ密告、陥れられ批判されるか分からない不安な毎日でしたが、団員は協力して時の過ぎるのを待ったのです。この苦労は不景気の日本へ帰国して、共産主義教育の話しをすると、すぐ「アカ」だと誤解され就職できないので話さず禁句で、一般の人は知りません。

     中国の日本僑報社刊行の「新中国に貢献した日本人たち」は、中国側から見れば只で、各方面の優れた技術を取り入れられたのですから、評価しているのでしょう。その間、真面目に働いていた留用者達が、本当に「日中友好を、自らの汗と血で修復して・・・」と考えていたのでしょうか。当時各人が留用生活に、どれ程満足感を持ち報われていると思っていたのかは疑問です。

   みんな日本へ帰りたい一心だったに違いありません。

   故後藤正晴氏の推薦文など、帰国者にどんな援助の言葉となったのでしょうか。

   留用された人達、その家族の運命は大切なこの8年間にすっかり狂わされました。

中国では重用されたとは言え、帰国に際し中国からは褒賞・手当はなく、帰国してからも、何ら補償・給付、助けもなく、無一物から自力で生活の方策を探さねばならなかったのです。

   その時に、新設された大阪府布施市(現東大阪市)徳庵の引揚者住宅で、生活に、就職に困っていた沢山の人達を見て来ました。やっとの思いで帰国してきた人達の焦りの中、先に帰国した先輩達の親身の努力で徐々に就職ができて、故国での辛い再出発となったのです。

   1949年10月中国共産党が建国宣言をし、国際社会入りを果たしたにも拘わらず大勢の留用者を使用し続け、さすがにあのソ連ですら、民間留用者の帰国を勧告したくらい。国外からの攻勢に抗しきれず、1953年3月から送還が始まりました。

父が帰国の際には、働きの成果として、自分の物は何でも持って帰ってよい。とのことで、私達が置いて来た座敷机、鏡台、碁盤等の家具、持ち出しを禁止された写真を全部持って帰りました。それが中国の厚意だと言えるものなのでしょうか。子供の頃に家にあった物として、唯一重たい(5寸厚)碁盤が手許にあります。

しかしその時、母は帰国後の心労で1948年11月に39才で亡くなっていました。

   私のハルビン中学の同級生で、留用された父親とともに残った人は数名おります。ハルビンで過ごした人は日僑学校へ、その後中国人の高校・大学へ進学し、1953年帰国して国立大学へ編入したり、2~4年遅れて大学入学を果たした者もいます。また、鉄道工場の建設に従いて行き各地を廻り、学校へ行けず、8年間の苦労の末,中共では模範労働者として表彰されても、日本での学歴がなく、いい仕事に就けない者もいて、明暗を分けました。

      インターネットで図書館に、“留用された日本人”NHKスペシャル・セレクション出版がありましたので申し込みました。この放送があった頃は、中国大連に住んでいて、気が付かなかったのです。留用者のことは、父の話や、同窓会での友人達の話を聞いていましたが、全体像としての捕らえ方はしていませんでした。この本を読んで“留用”の意味を改めて考えて見ます。

以上

※     「三反・五反運動」

  「三反運動」とは「精兵簡政・増産節約の実行、汚職反対、浪費反対、官僚主義反対」を主張し、軍の精鋭化と行政の簡素化、経済生活の向上を図った運動,「五反運動」とは「資本家たちの贈賄、脱税、国家資材の横領、手抜きと材料のごまかし、経済情報の窃盗」の5つの害毒に反対する運動。(参照:宇野重昭、天児慧 編 『20世紀の中国』 東京大学出版会 )




























































































































































































































「哈爾濱建築芸術」より

黒竜江科学技術出版社

1990年発行





中国医科大学校史、開いた頁、

日本籍教授の氏名表



旧満州医科大教授の家

大学附近にあったが、

数年前に取壊される



大学病院の玄関 


病院玄関の後方から

右上のパラボラが立つ

建物は旧大和ホテル


病院玄関の南の学舎

上からは

「日」の字に見える


真ん中と右は新病棟

中央奥のブルーの建物は

旧浪速女学校


右手前の古い建物は

旧南満医学堂本館

左奥にグランドが見える


旧本館の右が大学南門

中央奥の

右手ブルーの屋根の建物

旧奉天第一中学




























































































































任命書(辞令)


奨状

森川行雄さんのメールに以下のような記述がある。

「その後父は、総工程師として1946年10月から旧満鉄技術者の日本人60名、中国人200名と共に、牡丹江→三橋・成都→西安→天水→蘭州→武漢→鄭州と、鉄道工場と機関区の復旧・建設に従事することになったのです。」

1952年、天水から蘭州の天蘭線が開通している。毛沢東も「慶賀天蘭路通車、継続努力修築蘭新路!」の祝賀メッセージを寄せている。この時の祝賀列車には、鉄道関係技術として留用され協力した日本人の中から数名の者が乗り込み、喜びを共にしたという。森川行雄さんの御尊父もきっと関われていたことであろう。 

 集まった群衆が手を振り旗を振る中、天水駅から終着駅の蘭州まで毛沢東の肖像を掲げた祝賀列車が完走した。