17 旧領事館や公館が建ち並ぶ

旧協和街と旧義光

加藤正宏

南満州鉄道(満鉄)の『奉天』市街図部分


 文中の丸囲みの数字は手製地図に示された数字で、位置を示しています

 参照HPも、その箇所をクリックすれば、そこへ飛べます


旧領事館や公館が

建ち並ぶ

旧協和街と旧義光

加藤正宏

「 商埠地:附属地と城内との中間に介在する各国民の居留地で、わが総領事館(駅東25町)を始め英・米・独・佛・伊・ソ聯の各領事館の下に各国の商賈集まり特殊な雰囲気を作っている。十間房から小西辺門へ至る間は明治四十年頃から同43年頃まで、日本商人の一大市街を形成し、商工業の中心地となっていた所であるが、後付属地成るに及んでその繁栄は奪われ昔日の面影はない。ここに満州国側の国立博物館・奉天公園・喇嘛の黄寺・西塔・露国墓地などがある。」(新仮名遣いに改め表記)

 これは昭和11年(1936年)5月に南満州鉄道(満鉄)から発行された『奉天』という旅行案内書の説明記事である。添付されている「奉天市外図」という略図には、イギリス、フランス、日本、アメリカ、そしてドイツの領事館が記入されている。残念ながら、イタリアとソ連の領事館については、地図の上では確認できなかったが、上記の国々の近くにあったのであろう。1919年の地図では、現在の市政府の建物の北側で黄寺(皇寺)の東にアメリカ領事館が見出される。現在八一公園になっている敷地にイギリス、フランスの領事館が、そして北三経街を挟んで、旧の日本総領事館(現在の瀋陽迎賓館)あり、そして更にその東並びにロシア領事館が描かれている。ロシア(ソ連)領事館については、『瀋陽市志第一巻総合巻』(1988年)の大事記に「1936年2月14日 ソ連駐奉天総領事館は日偽当局によって閉鎖された。」とある。

 十間房は現在の市府大路に当たる。小西辺門は市府広場辺りになる。今の地図で考えると、旧領事館が在った辺りは、北は市府大路、南は十一緯路、西は和平大街、東は青年大街に囲まれた辺りに在ったようだ。但し、時期によってはアメリカやフランスやロシア(ソ連)はその位置を変えている。この範囲にあたるところは満州国の時期、協和街、義光街と名付けられていたところと、ほぼ重なる。

 『奉天案内図』(1934年)と『実測最新奉天市街附近地図』(1934年)及び、『大日本職業別明細図』の「奉天市街図」(発行人:木谷彰佑、1936年)には、上記の満鉄の『奉天』(1936年)に添付された「奉天市外図」と同様、現在八一公園になっている敷地にイギリス、フランスの領事館が、そして北三経街を挟んで、旧の日本総領事館(現在の瀋陽迎賓館)あり、そして更にその東並びにアメリカ領事館が描かれている。二緯路と三緯路の間にイギリス、フランス、日本、アメリカの領事館が一並びになって存在していたのだ。ドイツ領事館は六緯路と七緯路、四経街と五経街に囲まれた中にあり、他とは少し離れている。

 しかし、康徳6年2月の『大奉天新区劃明細地図』(版権所有:満州帝国協和会奉天市公署分会、発行所:満州日日新聞社、1939年)の地図には日本領事館の記載はあるが、イギリス、フランス、アメリカ領事館のあった従来の位置は何の記載も無く、文字が削除されてしまっている。同じ康徳6年に満州国治安部が発行した『満州5万分一図 奉天二十号(奉天)ノ二 奉天』(1939年3月20日発行)では、従来イギリス、フランス領事館のあったところにイギリス、アメリカ領事館が、その二国の中間北側の二緯路と市府大路の間にフランス領事館が移っている。

 1939年の9月には第二次世界大戦が始まっている。この前後、日本(及び満州)と欧米の関係はどのように推移していたのか。40年代前半の奉天の地図を所持していないため、欧米の領事館がどのようになっていったのか、今のところ明にすることができないでいる。お持ちの方から、コピーなど頂ければ、この上ないのだが・・・・。

 これら幾つかの地図で、イギリス、フランス、日本の領事館の位置はほぼ変わっていないが、アメリカ領事館の位置が北三経街を挟んで移動していることが分かる。日本の東にはロシアが領事館を設けたときや、アメリカが領事館を設けた時期があるようで、どれがアメリカで、どれがロシアなのかと、それらしき建物前で迷ってしまう。

 

(A)中山路以北

 手製のこの辺りの略図を見ていただこう。

 市府大路の南、和平北街と北三経街に挟まれたところに、八一公園がある。公園の南西角の道路の南(正確には和平北街と三緯路の交差する南東角)に立派な年代を感じさせる建物が建っている。附近の住民に訊いてみたところ、光復(1945年8月15日)前は小日本の建物だったという。その後一時、国民党の高官が住んでいたという。現在、和平北街側の入り口には「中国国民党革命委員会 遼寧省委員会」と「遼寧省人民政府 台湾事務弁公室」の看板が掛かっている。

 気になったので、いろいろ文献にあたってみた。

 張学良を主とする奉系新派の将領に万福麟という人物がいた。その人物の公館として、前世紀20年代初めに建てられたのがこの建物である。もちろん1931年の九・一八事変(満州事変)後には日本の管轄下に置かれていたのだろう。住民の小日本の建物のというのと合致する。「九・三」勝利後(日本が正式に投降文書上で署名したのが1945年9月2日)、国民党と共産党が停戦などについて談判をこの建物で行っている。実際には停戦には到ってないが、このようなことがあった建物だからこそ、上記のような看板の掛かる事務所になっているのであろう。

 三緯路を、和平北街を越えて西に向かうと道路の呼称は変わり、北九馬路になる。この北九馬路の次の路地の角辺りまで、英国領事館の敷地で、満州国時代には三緯路・北九馬路の北側は和平北街のような道路で分断されてはいなかった。

 北九馬路の上記路地角から北を望むと、しゃれた時計台を持つ郵政管理局②が見える。市府大路に面しているので、大路から眺めるのもいいが、このように后面から眺めてみる、のも良い。この建物は中華民国奉天省政府が1927年に建てたもので、西欧の古典式建築様式を取り、建物は壮観で、当時の東北にあっては一流の郵政大楼であった。この建物も九一八事変(満州事変)後は満州国(或いは日本)の管理する建物として使用されていた。

 北九馬路をもう少し行くと、柳州街と交わる。この交わった辺り道路に満州電信電話株式会社のマンホールの蓋(このHP13・「瀋陽の歴史を刻むマンホール」を参照を見ることができる。もちろん、奉天市のマンホールの蓋もここかしこで見られる。交わったところから柳州街沿いに少し行くと、瀋陽巻煙廠の壁に新型生育文化長廊が見られる。私が市内で見つけている三つの長廊の一つである。毛沢東の肖像のパネルから始まり、鄧小平、江沢民、胡錦濤と続き、更にすごい数のパネルが取り付けられ、並んでいる塀である。4人の肖像の下には、次のような文字が記載されている。毛沢東「人類在成育上完全無政府主義是不行的、也要有計劃生育」、鄧小平「我們的人口政策是帯有戦略性的大政策」、江沢民「実行計劃生育是我国一項長期的基本国策」、胡錦濤「人口資源環境工作是強国富民天下的大事、是全面建設小康社会的必然要求」と。旧国立博物館の塀にも人口をテーマにした長廊があり、中国の人口問題の重さを感じさせられる。

  八一公園南に沿った三緯路から八経街を少し南に下ると、道路の東に「瀋陽市文物局」「瀋陽市文化局」など4枚の看板を掲げる門に到る。この門を入った中に、屋上に「中国移動通信」という看板を掲げる建物が見える。前世紀20年代末、30年代初めに建てられた旧鄒作華官邸である。鄒作華は日本の士官学校砲兵科に学び、帰国後、段祺瑞の辺境防備軍にあったが、後、張作霖の奉軍に参加した将領である。九・一八事変(1931年の満州事変)後、国民党政府によって陸軍砲兵学校の校長に任命されている。共産党の大陸解放(1948年)前に台湾に渡った。この建物は1935年からはフランス領事館として使われたようで、建物には「瀋陽市不可移動文物 法国駐奉天領事館旧址 瀋陽市文物局立」の牌が今は取り付けられている。当時の地図に記載されているフランス領事館の位置は現在の八一公園内及び、二緯路の北で市府大路の間に見られる。しかし、現在、これらの建物は存在しない。しかし、後者の市府大路に面したところには、旧中法匯理銀行支行の建物が今もある。中法匯理銀行は中国とフランスが共同出資して設立した銀行で、この建物は1925年に建てられた。九・一八事変(満州事変)後、日本や満州の金融機構による排除によって、営業は停滞し、1933年には停止された。1939年の地図では奉天商工会の建物になっている。光復(1945)後、つい最近まで瀋陽市公安局刑警支隊の建物であったが、現在は瀋陽安大物資公司の看板が掛かっている。チョコレート色の壁に緑の屋根のどっしりとした建物で、市府大路から見える立派な建物のひとつだ。

 三経街を挟んで八一公園の向かいには迎賓館が現在ある。日本降服(1945年、中国の光復)後は一時ソ連の領事館になっていた。この迎賓館は元元は日本領事館であった建物である。日露戦争後、最初に日本領事館が置かれたのは小西辺門附近(現在の市府広場辺り)にあった左宝貴将軍(日清戦争で戦死した中国での英雄)旧宅だったそうだ。日本領事館はここから1912年に完成したこの迎賓館なる建物に移ってきている。この辺りには既に多くの領事館が集まっていた。この日本領事館の東にはアメリカ領事館やロシア(ソ連)領事館があった。既にこれら取り壊されてしまったそうだが、領事館の集まるこの地域には各国の有力者(この中には日本人だけでなく、北方軍閥や高官も)が競って移り住んできたそうだ。

 中山路沿い、迎賓館の東に立派な大きい建物が建っている。建物の配置から虎頭楼と呼ばれていた建物である。旧于珍公館である。于珍は日本の陸軍士官学校で学んだ軍人で、奉軍内で日本の士官学校派と中国の陸軍大学派に分かれていく中で、士官学校派の重要な人物になっている。中国陸軍大学派が張学良を暗に支持していたこともあって、その対極にあったことから、日本の特務機関長の土肥原と日本憲兵隊長の三谷清は、九・一八事変後、于珍に治安維持の手助けを求めている。引き受けらなかったにも関わらず、于珍が張学良と関係が良くないと判断した日本は、時間かけて彼を取り込む方策に出て、于珍の隣に満州国奉天警務庁庁長三谷清を住まわせ、その活動を監視させたといわれる。しかし、そんな状況下でも于珍(事変以来、抗日活動に身を投じていた)が抗日将領を匿ったのがこの建物であった。1937年の七七事変(日中戦争の口火となった盧溝橋事件)後は、建物の主であった于珍は北京(北平)に移り住んでしまった。その後は日本或いは満州国の要人の建物になっていたのではなかろうか。

人民共和成立(1949年)後は、瀋陽軍区政治部が、その後、幾つかの役所が使用、そして最後に瀋陽市人民大会常務委員会が使用後、活用されず現在に到っている。

この建物の周りには、三谷清が住んだのかも知れないような古い当時の建物がいくつか残っている。更に東に行き、青年大街手前辺りまで行くと、私の感覚ではロシア風だと思われるような建物が今も一軒残っている。

 旧于珍公館の南には二経街が南北に走る。この通りの道沿いにも当時の建物と思われる建物がいくつか残っている。昨年出版された趙玉民著「瀋陽市史跡図説」には六緯路の南にある瀋陽軍区政治部幼児園内の建物が旧ドイツ領事館だと記載されている。しかし、私の手元にある地図では、ここにドイツ領事館が置かれたものはなく、軍閥や当時の高官の建物ではなかったのかと思われる。

 中山路に戻ろう。三経街と交差するところに大きい高層の建物が、ここ3年近く建築途中で放置されている。満州国時代の地図で確認すると、ここには六国会館が在ったところである。六国というのがどの国に当たるのか分からないが、少なくとも日本は入っていたであろう。この交差点の、旧六国会館跡地の斜め向かいに満州日日新聞支局があった。現在、遼寧日報の建物がそこに存在する。ここから少し中山路を西に行くと、八経街との交差手前北側に電信関係の会社入るビルが建っている。数年前まで瀋陽市電信局長途電話分局並びに電報分局であったところである。そして、満州国時代、奉天電報電話局がここにあった。内部はともかく外観はほぼその当時の建物の姿を残しているように思える(当時の写真と比較して)。

 中国では、自分たちには負であった遺産でも、活用できるものは活用して臆するところがないようだ。そんなことは気にならないようだ。上記のように、満州国時代の業務を受け継ぐような形で、受け入れ活用している例もよく見かける。敵対する者の物であれば、完全に否定し、破壊してしまいたいと、私などは考えてしまうのだが・・・・。

全体図

下方により細部な略図































































旧万福麟公館(右手前)、

後方中央・遼寧日報社

左後方・

旧六国会館跡地に建つ建設中ビル



下の写真・旧万福麟公館の一部




旧郵政管理局



満州電信電話のマンホールの蓋




新型生育文化長廊





中法匯理銀行旧址

法国駐奉天領事館旧址





旧日本領事館・迎賓館

迎賓館と公館の間の館





旧于珍公館・虎頭楼

旧ロシアの建物?

一説に旧ドイツ領事館?









旧奉天電報電話局

(左手前)

旧満州銀行の住宅

満州国の政務官の住宅か?

六緯路以南

六緯路以北

B) 六緯路から十一路まで

 旧協和街にある現在の中山路は旧五緯路である。その南にあるのが六緯路である。三経街と四経街に挟まれた六緯路、その南には瀋陽部隊駐在地が広がる。その一部に目立った愛心女子医院が建つ。六緯路を挟んで北向かいに旧い建物が三軒並んでいる。「瀋陽近代建築」によれば、これらは東から旧任政棟寓所、旧盧景尉住宅、旧満州銀行の住宅である。任政棟も、盧景尉も、図書館で調べてみても、1931年から45年に掛けて、彼らの名は蒋介石や張作霖の周辺の人には見当たらない。上記の書物の建物の多くには旧住人の説明がされているが、これらの人物については説明がない。満州国時代の政務官或いは要人の可能性が高い(現在の中共の立場からは、語るに及ばない人物との考えなのだろう)。四経街と六緯路の交差する南西の区域は旧地図のどれにもドイツ領事館との記載が見られる。しかし、当時の建物は残っていない。現在、一戸建ての立派な建物が何軒も建っている。ここも瀋陽部隊の幹部の建物のようである。この南には現在も消防署があるが、旧地図でもここには消防署があった。建物自体は同じものではなさそうだ。四経街を挟んで消防署の向かいには和平区科普文化長廊がある。この塀の内側は瀋陽部隊駐在地である。と言っても一般の兵士のそれではなさそうな高級な一戸建て、或いはそれに近い建物の一部が見える。 

 四経街と五経街に挟まれた七緯路に面した北側に、同澤倶楽部がある。正面上部に「since1929○曰無衣 与子同澤」(○の字は上に「山」下に「己」)の字が見える。建物の前庭にある説明の看板には、次のような内容が記載されている。

「同澤倶楽部は1929年に愛国将軍張学良によって建てられ、東北軍政高級領導の娯楽の一つの豪華な交際場所であった。欧州建築様式の風格を為し、瀋陽文物主管部門で最初に選ばれた数少ない優秀建築で、移動させてはならない文物として名簿に入れられている。同澤は詩経の《秦風・無衣》に語源があり、『○曰無衣 与子同袍 ○曰無衣 与子同澤』の『同澤』は気高い愛国感情、積極的な向上、友愛の下の結束などを象徴するものである。」(拙訳)

 内部は見応えのある空間を造っている。コリント式の柱、天井にはギリシアの神や天使の浮き彫りが見られる。観客座席1200席あり、舞台、化粧室、演技者の控え室などもある。2006年には同澤倶楽部という最初の名前に戻ったが、この建物はいろいろと名前を変えてきている。先ず、九・一八事変(満州事変)後には瀋陽電影院と名を変え、洋画専門の映画館となった。この映画館で中国最初のトーキー映画が上映されたという。人民共和国による解放後、労働宮、紅領巾電影院、芸術宮、延安電影院、瀋陽芸術宮などと名前を変えてきた。とにかく歴史のある建物である。

 七緯路から瀋陽市公安医院の角を五経街に曲がり、少し南に行くと、旧于学忠公館がある。彼は張学良の重要な将領で、張学良に従い、蒋介石には従わなかった将領で、張学良の起こした西安事件注1後、周恩来や葉剣英、劉伯承ら中共指導者とも交流をもった。蒋介石が台湾に渡るとき、彼の一家にも飛行機が回されたが、断わり、中国に残った人物である。現在この建物は遼寧申揚律師事務所(弁護士事務所)になっている。

 更に南に行くと、西に立派な建物が目に入ってくる。五経街の西、八緯路の北側に建つ旧張作相の建物である。現在は国家安全局の建物になっている。その西は張作霖の五姨太太の別荘であった。現在は市物資局になっている(これらの建物については、このHPの「12・旧博物館と張作霖の五姨太太の別荘」を参照ください)。

九緯路と三経街が交差する東南角に、旧独立守備隊司令部の建物にもなった旧湯玉麟公館(このHPの「11、旧湯玉麟公館」を参照ください)の建物が存在する。中共の解放後、一時は中級人民法院にもなっていた建物である。3年前に瀋陽に来た時は、建物一部から飛来した種が芽を吹き、木が生えているという状況で、主の居ない建物として荒れていた建物である。2007年5月末現在、大きく変貌を遂げようとしている。2004年に移動させてはならない文物として市の名簿に登録され、そのため、建物は取り壊すこともできない代物になっていた。しかし、昨年9月、建物の窓枠が取り外され、内部の瓦礫と思しきものが外に放り投げられ、土煙を上げていた。とうとう取り壊しかと思っていたら、周りに足場が組まれ、外壁が化粧され始め、そして終には建物の周りに鉄骨が組まれ、その鉄骨に大きなガラス板が嵌め込まれ、建物の大部分がショウケースに入ったような形になってきた。そして、そのガラス板の一部には「湯公館食府」の文字が取り付けられた。レストランに姿を変えたのである。買い主も取り壊しのできない建物だけに、知恵を絞ったのであろう。5月26日の遼瀋晩報には「『湯公館』変菜館」のタイトルが躍っていた。そして、「罩上玻璃『湯公館』要改飯店」や「文物部門認定如此改造不違法」という小見出しも見られた。

 四経街が九緯路と結ぶところ、道路の南に旧博物館(もう一つの旧湯玉麟公館)の裏門が一部見られる。高さのあるどっしりとしていて味のある建造物だ。

五経街と九緯路が交差する西北角の少し奥には、台湾同胞聯誼会がある。この建物は満州国時代には満州航空会社が使用していた建物である。そして元を辿れば張作霖の盟弟としての契りを結んだ張作相の建物だ。

 五経街を九緯路から十緯路に到る東の壁(旧博物館の壁)は、「人口文化三字経」の長廊になっている。十緯路を回り込めば、そこは旧博物館(旧湯玉麟公館)の入り口である。(参照、このHPの12「旧博物館と張作霖の・・・」

 十緯路が三経街に到る手前の路地を南に下り、十一緯路に交わる東角に、交通銀行が存在する。私が3年前に瀋陽に来た時には、十一緯路側の建物の壁に英国匯豊銀行旧址の文字が書かれた瀋陽市文物保護単位の牌が見られた。その牌の一段下の石には「THIS STONE WAS LAID 0N THE 31ST MAY 1931」の英文字が刻まれていた。現在、牌は取り外され、外壁の化粧直しが行われたときに、窪みが埋まり、刻まれていた文字も見えにくくなってしまっている。

 英国匯豊銀行の奉天支店は1917年に開設され、現在交通銀行が営業しているビルが建てられ、ここで営業が始まったのは1932年のことであったという。本店は香港に1864年(同冶3年)設けられている。1931年に九・一八事変(満州事変)が起きて、東北軍政要員や官商が関内に逃げ込んだため、新しいビルになってからの営業は芳しくなく、更に満州国や日本の経済統治下で営業は悪化し、1937年この建物を奉天三井物産株式会社に売り渡し、営業を縮小した。このため、このビルは各商社や洋行が賃貸するオフィスビルに変わった。そして、1941年12月8日、日本が英米に宣戦したことで、英国匯豊銀行の奉天支店も敵の財産として、日本や満州国の管理に移され、業務は停行に至っている。

 現在この十一緯路の下に、馬路湾から懐遠門(大西門)に向かう地下鉄工事が進行中である。近代化の浪がこの瀋陽の街にも押し寄せている。今回御紹介した建物もしだいに姿を消していくのではなかろうか。

 

 

注1、1936年、共産軍と戦う張学良と楊虎城の軍を督戦に来た蒋介石を捕らえ、内戦を停止させ、国を挙げて抗日戦争を戦うように求めた事件で、この結果、第二次国共合作が成立した。

 

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参考文献

「瀋陽近現代建築」瀋陽市城市建設档案館 瀋陽市房産档案館 編著 2002年

「瀋陽百科全書」 遼寧大学出版社 1992年

「歴史文化名城瀋陽」 瀋陽市政協学習宣伝文史委員会 編 2006年

「瀋河文史資料5」 政協瀋陽市瀋河区文史資料研究委員会 1999年

「張学良旧居」 遼寧画報出版社 1999年

「瀋陽市志 第10巻 金融」 瀋陽出版社 1992年

「虎頭楼、万公館里的、『爺們児』」遼瀋晩報

(2007・5・10)

「『湯公館』変菜館」 遼瀋晩報

(2007・5・26)
























同澤倶楽部

旧于学忠公館

























旧独立守備隊司令部

湯公館食府

旧満州航空会社


































英国匯豊銀行