11 湯玉麟公館

(奉天独立守備隊司令部)


加藤正宏

独立守備隊の看板のある

絵葉書

湯玉麟公館

(奉天独立守備隊司令部)

加藤正宏

 北三経街を走るバスの中から、古いが、格式のある建物が、道路沿いの東に見える。九緯路と北三経街と交差する東南角に位置している(瀋河区北三経街71号)。その東隣は市48中学だ。また、建物の南には父兄から金をすごく拠出させて建てただろうなと思われる現代的な二経2校が建つ。

 北三経街は、南下して十一緯路と交差する南に入ると、南三経街と呼称され、更に南下し十三緯路過ぎ、十四緯路に到ると、この西側にアメリカ、日本、韓国、北朝鮮の領事館が集まる領事館区域である。そこから少し南下したところは南運河だ。三経街はこの運河に掛かった橋を超えると、名前を変えて、三好街となる。この三好街を更に南下して文化路と交したところより南が、電気・電子で有名な三好街商店街である。

   上記の南運河と接した三好街の北詰め西に、魯園古玩城があり、毎土日にはその古玩城の西の広場で青空市が開かれる。私はその青空市に出かけた後、いつも大西門(懐遠門)近くの盛京古玩城の路上市を梯子する。このとき、三経街の領事館バス停から258路に乗り、小西門に向かうのだが、バスの中からいつも目にするこの建物が気になって仕方がなかった。格式のある建物なのに、ベランダや3階の屋上には種が飛んできて根付いてしまったのか木が生えるなど、久しく放置され、使用されない建物が朽ちていく例に漏れないと思えるような感じの建物である。

 中国で偽満と言われている満州国時代の地図(康徳6年)や満鉄鉄道部旅客課発行「奉天観光地図」昭和11年(1936年)で、その位置を調べてみると、「守備隊司令部」と書き込まれている。また、古玩城の骨董・古文書の店などを回って絵葉書を探してみると、白黒とカラーの2枚の絵葉書を見つけた。店主の了承の下、写真を撮らせてもらったが、そこには次のような文言が記されていた。カラーのそれには「全満の鎮護奉天独立守備隊司令部」、白黒のそれには「(奉天)元湯玉麟邸たりし独立守備隊司令部」とある。もともと日本が建てた建物ではなかったようだ。

 湯玉麟は張作霖と盟を結んだ義兄弟で、奉天派軍閥の一人、嘗て東三省巡閲使署中将顧問、熱河省都統兼省長、奉天陸軍第十一師団師長などを務めている。

 『歴史文化名城瀋陽』や『瀋陽近現代建築』によれば、この建物は1929年に湯玉麟公館として地上四階・地下一階の西洋式建築として建てられ、現中国建国後は中央人民政府副主席、東北人民政府主席の高崗の屋敷となり、更にその後、瀋陽市中級人民法院となっていたが、現在は使われていない、とある。また、2004年に、瀋陽市第一批不可移動文物として登録された、とある。しかし、これら二著には、日本の独立守備隊司令部として、この建物が使用されていたことには、全く触れていない。この時期の独立守備隊の評価がどうであれ、まったく触れていないのは正確な歴史記述、歴史認識としては欠陥あると言わざるを得ないと私は思う。

 このような中国の認識の流れとどこかでつながっていると思われる独立守備隊の文字が記載された新聞記事を目にした。ご紹介しておこう。 

『遼瀋晩報』2006・9・14

 大見出しに「侵華日軍士兵碑現身法庫」、小見出しに「85歳見証人講述石碑来歴『九・一八』歴史博物館専家称該碑極其少見」とある。

 内容は瀋陽市法庫県で明らかにされた石碑の話である。石碑の発見の事情と、当時の事情を知っている老人の話が紹介され、専門家の石碑の評価が紹介されている。

 この碑は約半メーター、40キロぐらいの花崗岩の碑で、正面には「故陸軍歩兵曹長小杉喜一:故陸軍歩兵上等兵涌井茂二戦死之処」、背面は「昭和六年十二月二十二日戦死:独立守備歩兵第二大隊、第三中隊、第一中隊建」と刻まれている。

 この碑の持ち主は、父から「この碑は日本侵華の罪証だから、きちんと保存して置くように」と言われていたのだそうだ。1990年、移転後の村の小学校の跡地にあった平屋の一部を彼の父が購入、その後これを補修していて、壁の材料として用いられていた、この碑を発見したとのこと。

 1931年の「九・一八」事変の発生時に、10歳だった現在85歳の老人、彼のこの碑に関する話の主な内容は次のようなものである。

 当時の村は三百戸強の人家があった。また附近には胡子(HP筆者による注、馬賊、匪賊?)、村民はたぶん天?(HP筆者による注、天の助け?)と呼んでいた。あの時期、日寇の装甲車部隊が村の西附近にあって、彼らはたびたび焼・殺・奪をくりかえし、村民は皆、これを憎み、歯軋りしていた。そんな中、12月20日、この日、村の鶏が騒ぎ、犬が吠え出した。バイクに乗った一名の日寇をまさに本来の天?が殺し、別の2名の日寇がバイクに乗って村に逃げ込んできたのである。村民は協議した上、この2名の日寇を20数名の村の若者が、旧式の銃や石塊で殺した。この後、やって来た日寇は機関銃を村民に向け発射し、何人かの女性と子どもが殺された。二日目、日寇が再度やって来て、村の西から東に向けて放火し、また4,5名の村民を刺殺した。そして、12月22日、村の石工を探し出して連れて来、2名の死亡兵士の碑を刻ませ、村の西端の路辺に立てた。日寇の列隊が敬礼後、村民もお辞儀をさせられた。最も村民を怒らせたのは、この石碑の前を通過する時、常に姿勢を正し、礼をすることを日寇が要求したことであった。不敬な礼が為された時、軽い者は顔を殴られ、重い者は憲兵隊に連れて行かれ、再び生きて帰ってくる者は少なかった。

 以上、当時の情況を回想しながら話す老人は平静ではいられない様子を見せていたと取材者は記している。

 専門家曰く、碑にエピソードがあるのは少なく、価値があるとものだと。つまり、この石碑は日寇が瀋陽を侵略した歴史の証拠であり、また、日寇の侵略に抵抗した歴史の証明でもあり、大変価値のあるものだとの評価する。 

左の写真と同じ角度の

絵葉書

庭は自動車教習所











解体中の旧独立守備隊司令部

当時の絵はがき 「独立守備隊第4中隊故陸軍歩兵伍長新国六三君之碑」



『遼瀋晩報』2006・9・17

 大見出しに「三張『九一八』事変原版照片首次曝光」、小見出しに「這三張照片為日軍侵華再添新罪証」とある。そして3枚の写真が添付され、写真下に数行の説明がしてある。

 左下写真の下には「銃を持つ日本の『民兵』が東北軍民を護送している」とある。

 右上写真の下には「『九一八』事変爆発地点がついに鬼子(日本人)の葉書になった。」

 右下写真の下には「写真は北大営を夜襲した日寇最初の死亡者新国六三の墓碑である。」

 これらは瀋陽市図書館で挙行されている「抗戦文献史料展」に展示された、侵華日本軍自身が撮った「九一八」事変の写真原版である。

 これらの写真には、更に詳しいそれぞれの解説が、本文に加えられている。その中から、右下写真の解説だけ紹介しておこう。解説は「入侵北大営時両名鬼子被打死」のタイトル下になされている。その大意は次のようになる。

 この縁が黄色くなった写真、でも図像が明晰なこの写真には、時間の経過が感じ取れる。正に1931年9月19日、北大営が占領された後、日寇随軍記者が撮ったものである。画面は北大営の一角、営舎前に木の柵で作ったスペースを使って、祭祀場とし、その中央に一つの石碑を据えたものである。碑には「独立守備隊第4中隊故陸軍歩兵伍長新国六三君之碑」と書いてある。手前には日本祭祀特有の酒器がある。柵の後ろの壁にも同様に漢字で新国六三戦死処と書いてあり、更に時間もはっきり示している、1931年9月18日夜と。写真の左下角には「北大営夜襲第一の犠牲者、新国伍長碑」と書いてある。

 以上の解説がこの写真にはなされている。 

 これら新聞の報道は、「九一八」事変(満州事変)発生75周年の日を前に、キャンペーンを張ったものであることは明白であろう。そして、上記碑文に見られるような「昭和六年十二月二十二日戦死:独立守備歩兵第二大隊、第三中隊、第一中隊建」や「独立守備隊第4中隊故陸軍歩兵伍長新国六三君之碑」を中国侵略の事実として見ている記事から考えると、独立守備隊に対する中国人の意識がどのようなものか分かる。このように形成された独立守備隊の意識と、残すべき文化財的な建物とが重ね合わされるとき、独立守備隊が関与した時期の建物の歴史については、無視され語られることがなくなるのであろうか。

 どのような評価であれ、事実が語られないのは正しい歴史認識とは言えないだろう。

 2004年に瀋陽市第一批不可移動文物と指定を受けていたにも関わらず、なぜか、2006年9月現在、旧湯玉麟公館(奉天独立守備隊司令部)は解体され始めている。旧公館の庭で行われていた棒を立てただけの自動車教習所も既に無くなっている。

 同様に、「附属地」で紹介した満鉄図書館や駅前のソ連紅軍の陣亡将士記念碑も解体撤去されようとしている。瀋陽では今大きく街の姿が変わろうとしている感じがある。

 

参考図書

『歴史文化名城瀋陽』 瀋陽市政協学習宣伝文化史委員会 編 瀋陽出版社 2006年

『瀋陽近現代建築』瀋陽市城市建設档案館・瀋陽市房産档案館 編著 2002年

『遼瀋晩報』2006・9・14

『遼瀋晩報』2006・9・17

『遼瀋晩報』

06・9・17


『遼瀋晩報』   06・9・14