29 今も日本語が話せる遅さんと苑さん夫婦

加藤正宏

写真が語る満洲2

(今も日本語が話せる遅さんと苑さん夫婦)

加藤正宏

 今回の写真はひょんなことから縁ができ、数度お宅までお邪魔し、お付き合いさせていただいた中国人御夫婦(遅さんと苑さん)が所持されている写真である。この出会いや付き合いの様子については、HP加藤正宏の中国史跡通信の瀋陽史跡探訪の「8.満鉄附属地その3の上」や、山形達也さんのHP「瀋陽便り」(05年の「60年前の歴史に触れた日(6月26日)」「ない、何もない(8月28日)」、「結婚60周年を迎える遅・苑夫妻前編、後編」)で詳しく紹介している。ご覧いただければと思う。

 

 写真左は遅文証さんが学ばれた大連沙河公学堂(6年間)、写真右は大連市立実業学校商業科(3年間)での写真である。

都市の小学校のことを公学堂と関東庁の管轄下では呼んでいた。大連や旅順など日露戦争後に得た遼東半島南部は日本の租借地として関東州と呼ばれ、関東庁の管轄下にあり、満州国の管轄下ではなかったので、満州国の教育制度の国民学校(4年)とか国民優級学校(2年)の呼称ではなかった。

 「日本侵占旅大四十年史」注①によると、旅順大連では、日本人向けの初等教育の学校としては尋常小学校が設けられ、中国人に対しては都市に公学堂、農村に普通学堂が設けられ、はっきりと日本人と中国人の初級学校は区別されていたという。普通学堂は4年制であった。公学堂は、1905年以来1945年の日本の投降まで、旅順と大連に合わせて21校の公学堂が設立され、それら分校として更に9校が設けられていた。

 公学堂は全て日本の統治当局が管轄する官立の学校であった。初等科四年、高等科二年に分かれ、初等科を卒業し高等科に進むのは中国人にとって、易しいことではなかったという。1940年の統計によると、中国人の高等科への進学は半分弱(45.69%)、これに比べ、日本人の尋常小学校で高等科へ進んだものはほぼ全員(99.88%)であったという。

 左の写真は中国服を着た男子生徒たちと先生である。これは公学堂の高等科の時の写真であろうか。右の写真には「大連市立実業学校第二次卒業生臨別紀念撮影」と白抜きの文字が見える。

 遅文証さんの話では、大連で大正八年に生まれたという。それにしても、日本の年号で生年月日を、大正八年十二月十一日と言われたのには驚いた。日露戦争後、この地域は日本の租借地だったのだから、当然と言えば当然なのだが・・・。

 大正八年(1919年)であれば、今年86歳なのだが、数え年でご本人は年齢を勘定されているのか、87歳と言っておられた(* 2005年9月にお聞きした時点で)。

 大連沙河公学堂(6年間)では、生徒はすべて中国人であったが、1年生から4年生までの初等科では、日本語を毎日2時間程度学習させられたという。4年生までは中国人教師が担任で、日本語も教えるが、日本語以外の科目は中国語で教えられた。

 5年生6年生の高等科は日本人の先生が担任で、全て日本語で授業が行われたとのこと。各学年2クラスで、1クラスの人数は60人ぐらいだったのだそうだが、遅さんの話から考えると、学校には少なくとも4人以上の日本人教師が配属されていたことになり、中国人の先生も日本語が少しは話せる力がなければならないことになる。校長も日本人が多かったそうだから、日本の租借地の中国人教育も日本の支配下に置かれていたことになる。遅さの話は、公学堂が日本の統治当局が管轄する官立の学校であったことと、符合する。

 大連市立実業学校商業科(3年間)の入学試験は日本語で出題され、270人中国人が受験、10人しか合格しなかった。

クラスは60人で、1クラスには中国人は5人だけであったという。先生は全員が日本人であり、中国人の先生は一人も居なかった。

 大連市立実業学校は正式には大連市立協和実業学校であったと思われる。関東州公立学校規則により、設けられた公立学校で、最初は3年制であったが、後には4年制に改められている。

 実業学校を卒業したのは18歳の頃であったという。前回聞いた1932年に卒業の方が誤りのようだ。1932年では13歳くらいで卒業し、森永製品販売株式会社に勤めたことになる。この辺りは本人も少しあいまいなようだ。

 森永製品販売株式会社(3年間)では社員としては遅さんだけが中国人であった。会計事務ができ、中国語も日本語も堪能な社員としてとして、扱いは日本人と同様であったとのこと。下働きの人には5、6人の中国人が居たそうであるが・・・・。

 その後、大連鉱油株式会社(4年間)、天津徳盛永五金行(? 年間)などに勤められたという。日本語が堪能であったために、憲兵隊の通訳も命ぜられたこともあるという。

 戦後、次に紹介する苑宗雲さんと出会い、結婚され、たくさんの子供さんやお孫さんに恵まれ、現在は過ごされているのだが、日本人と関わりのあった人物として文革時期にはつらい目に合われているようだ。でも、自らは口にされない。しかし、子供さんたちはその時期は大変だったと口にする。でも、具体的な話をしようとはされない。一口や二口で話せる内容ではないのであろう。

 4枚の写真は苑宗雲さんの写真である。左上の写真は大連伏見台公学堂(6年間)でのもの、右上の写真は旅順高等公学校師範での写真である。下の写真は師範での級友たちとの写真である。下左の写真には卓球やテニスのラケットを持った女子学生が写っている。そして、白抜きの字で「二六〇一 敬送徐苑二位女史」とある。かがんでテニスのラケットを持っているのが、苑さんである。

 苑宗雲さんは遅さんの一つ下で、大正9年(1920年)に天津で生まれている。 聞き逃してしまったが、幼くして大連に移住していたのだと思われる。

 大連伏見台公学堂(6年間)では、1、2年の担任は中国人で、1日1時間ばかりの日本語以外は全て中国語での授業で、日本語の方は簡単な単語と短文で、「花が咲いています。」「鳥が鳴いています。」などだけだったそうだ。

 3年生から6年生まで、日本人の鳥居先生が担任となり、母子家庭になっていた苑宗雲さんが勉学に専念できるようにいろいろと配慮をしてくださったとのこと。上級の学校に進学できたのもこの先生のおかげだったと今もすごく感謝されている。

 鳥居先生の授業は日本語で全て行われたとのこと。2年までの簡単な日本語で理解できたのかと訊ねたところ、分らないと生徒が言うと、鳥居先生は中国語に訳してくれたという。このような形だったから、全ての授業が日本語の授業でもあったわけで、3年から6年までの4年間、ほぼ毎日が日本語の授業であったということになる。

 「日本侵占旅大四十年史」注①によると、大連伏見台公学堂は初等科までは男女共学、高等科(5年、6年)では男女は別学になったという。写真も女子生徒だけになっている。

 旅順高等公学校師範女子部(前回、お聞きしたときには大連高等公学校師範女子部と聞き間違えていた)の入学試験は日本語による出題であった。この学校は関東州でも有名校で、入学の難しい学校だったそうで、師範女子部の他に五年制の中学部と、師範男子部があった。中学部は更に上級学校に進学する人達で、私費であったが、師範部は官費であったとのこと。そういえば、日本も師範学校は官費であったと聞いたことがある。写真にも女子学生だけでなく、男子学生も写っている。

 師範部の学生は、全て中国人で、先生は漢語の先生以外は全て、日本人だった。スポーツの好きだった苑さんは体育の大野先生に眼をかけられたとのこと。そういえば、下左の写真はそれを物語っていると言えよう。この写真の白抜き「二六〇一」は皇紀の年代を数字にしたもののようだ。1940年ということであろう。

 3年生の時の修学旅行も官費で、22日間の旅行であった。九州(活火山の阿蘇山の火口など)から神戸、大阪(女性が大きな荷物を背負って商売に行くのなどを見る)、京都、伊勢(二見ノ浦の夫婦岩など)、名古屋、東京(皇居の二重橋や宝塚歌劇など)を見てきたとのこと。写真も残っている。これはHP瀋陽史跡探訪8で紹介した。

 4年生の教育実習を終え、1942年に卒業、22歳で大連西崗子公学堂に勤務(3年間)する。師範は官費なので、3年間は学校に勤務しなければならなかった。「日本侵占旅大四十年史」注①によれば、この勤めた公学堂は生徒数が多く、2000人を超過する規模のマンモス校であったとのこと。喉を痛めていたので、唱歌は教えなかったが、それ以外の全ての科目を教えたとのこと。勿論、日本語も毎日1、2時間教えた。しかし、一般の科目は日本語でなく中国語で教えたという。

 その後、故郷に帰り、天津横浜正金銀行(1年間)、更に三菱天津商業株式会社分店(3ヶ月) に勤め、 光復(日本の敗戦)で仕事を失ったという。光復以後家庭に留まって、仕事には出なかったと言われたが、定かでない。

 遅さんとの結婚が光復の年(1945年)の10月10日に行われている。新しい中国で、若い女性が仕事を持っていなかったとは考えにくいし、結婚を機に家庭に納まるとも考えられない。能力や経験があっても、日本と関わりがあったために外されたのであろうか。この辺りは微妙で、しつこく聞き出すのはためらわれ、聞き出せていない。

 最後に、遅文証さんと苑宗雲さんに最初にお会いした町並みの写真を紹介して終わらせて頂くことにする。この町並みは中国医科大学の南西角(南京北街と北二馬路の交差する所)の南西に位置し、北二馬路に沿いに南京北街を西に渡った南に位置する。北一馬路と北二馬路、南京北街と南寧北街に囲まれた区域で、旧日本住宅が並んでいた所である。

 瀋陽薬科大学に赴任した2004年9月から気にかかっていた場所である。今回紹介する写真は05年3月に撮った写真で、この時は南京北街に面して同澤一校という小学校(満洲時代の興福寺の跡)がまだあったので、写真には小学生の姿も写っている。山形夫妻と出かけ、遅文証さんと苑宗雲さんに出会った6月下旬には既に小学校はなくなっていた。そして、夏季休暇を終えて8月下旬中国に戻ってきたときには、この地区には何一つ建物は建っておらず、完全なる更地になっていた。現在(09年)はきっと高層建築の建ち並ぶ地区に姿を変えているのではなかろうか。

注① 遼寧人民出版社・1991年出版 、第十章 日本統治旅大時期的殖民教育

 

筆者と苑さんと遅さん

遅さん家族と山形夫妻









大連沙河公学堂










子供さん

お孫さんに囲まれて








大連伏見台公学堂 





旅順高等公学校師範













師範の同級生たちと

下の右端の立派な邸宅が満洲医科大学教授の家、

この路地は同澤一校の裏側、旧日本住宅が並ぶ