瀋陽探索

(山形教授夫妻と共に、加藤正宏)

目次


1、 瀋陽よいとこ一度はおいで、

1.日本人教師の会の愉快な仲間たち

    2.皇寺の縁日で食べるシシカバブ 

    3.清朝皇室の菩提寺である皇寺は瀋陽最大のラマ教寺院 

    4.若いときの姿に再会した老孔雀  )

2、篆刻のわが師二人、  

ゴールデンウイークに巡る瀋陽史跡(その1,その2,その3,その4)

4、友人を瀋陽に迎えて、 5、中国の精進料理、  

6、思い切って竹板を買った日、 

7、60年前の歴史に触れた日、 8、何もない、 

9、結婚60周年を迎える遅・苑夫妻、  9、続き  

10、わが師への恩返し、 

11、薬科大学で初めての音楽会、 

12、結婚60周年のお祝いに訪ねて 


 以下の記事は山形達也教授の了解の下に転載させてもらっている。異なる視点からの瀋陽の姿が浮き彫りされて、興味がそそられる。





1,瀋陽良いとこ、一度はおいで

 (ゴールデンウイーク皇寺の縁日) 

日本語クラブ20号(2005年6月号)

瀋陽薬科大学

山形達也

1-1.日本人教師の会の愉快な仲間たち

山形達也(瀋陽薬科大学


 瀋陽に来てたまたま誘われて覗いた瀋陽日本人教師の会に、私たちが入ってしまった顛末は先の19号に書いた。私たちは日本語の教師ではないので厳密に言うと参加資格はなかったけれど、厭な顔一つされなかったので、日本語クラブとホームページという自分の居場所を勝手に見つけて、教師の会に居着いてしまった。


 でも、この会に入ることが出来て、本当に良かった。有能多才、かつ多彩な人たちと知り合えたことが一番に挙げられる。何しろ同業者ではないから、今まで付き合ってきた研究者とは皆それぞれが違う。みんな違って、みんないい。みんな個性的で、みんな愉しい。

 この会で知り合った先生たちの一人に、加藤先生がいる。加藤正宏先生は昨年秋から瀋陽に赴任したので、瀋陽では新顔だけど中国暮らしは長く、中国語も自在に操れる。加藤先生は大変魅力的である。自分の世界をしっかりと持っているのが魅力なのだ。


 加藤先生は瀋陽薬科大学の 新任の日本語教師の一人で、定年のあと昨年秋ここに来るまでは関西の公立高校で世界史の先生だった。今回の赴任が初めての中国ではないという話である。現 役の四十代の教師のころ西安に二年間、そして定年前の二年間は長春で日本語教師をしたという。日本の教職を中断して中国に来て日本語教師をしながら暮らす など、よほどのことがなければ踏み切れないし、たとえそう思ってもよほどのことがなければ周囲の事情が許さないであろう。加藤先生は、それを可能にした 「よほどのことがある」先生なのだ。世界史、特に日中の現代史が専門で、調べれば調べるほど興味が募り、とうとう現場で納得するまで自分の眼で見たいと希求するほどのめり込んでしまったものと思われる。いまの加藤先生の週末の土日の日課は、市内で開かれる古書、骨董市巡りなのだ。そこで現代史に繋がる様々 な本、教科書、写真、地図、紙幣、証書、書類などの資料を見つけている。


 丁度、中国でも日本のゴー ルデンウイークと同じ時期に労働節一週間の休みがある。この時期に加藤先生の奥様は10日間の予定で日本から訪ねて来られたのだった。加藤夫人は文子さん と言う色白の美しい人で、以前は学校の先生だったけれど、加藤先生の長春赴任に合わせて学校を辞めて長春では一緒に暮らしたという。でも、今の加藤先生は ここでは単身赴任である。


 文子さんは水曜日に瀋陽に着いて次の週の金曜日には日本に戻ってしまうと言う。土日もこちらで一緒に過ごしてから日本に戻ればよいだろうにと思う。彼女に言わせ ると、加藤先生は土日には彼女を放り出して自分は一人で骨董市巡りに行ってしまうから、週末前に帰っても同じことらしい。

 

1-2.皇寺の縁日で食べるシシカバブ

山形達也(瀋陽薬科大学)


 瀋陽市の市政府の西に清朝の菩提寺となっているラマ寺院が建てられている。連休で何をしようかと貞子と話しているときに、「清朝の菩提寺とその縁日を見に行きましょう」と言って加藤先生に誘われた。この寺の広場に新年、春秋に縁日が立ち、今年の連休の始まりの5月1日には十万人の人が訪れたと言う話だ。


 朝の8時半に大学傍のバス停で待ち合わせて265番のバスに乗った。バスは市の西側のルートを走り、領事館の横を北上して市政府の建物の近くを通った。五月の風と日射しがバスの中に染みて心地よい。

 市政府の前で降りて建物に 沿って西の方に1ブロック歩いていくと、高い石の中国門がそびえていて北市場と書いてあった。その下に赤い大看板があって、瀋陽和平“五一”皇寺廟会、5 月1日?5月7日とある。ここまで来ると沢山の人たちが集まってきているのが見て取れる。子連れが多い。門をくぐって入ってみると、大きな広場に屋台が沢 山並んでいた。どれも食べ物屋で、よい匂いを発散させている。看板は中国全国から集まったとおぼしく、香港、四川、広東、杭州、云々である。


 やや、こんなことなら朝ご飯を食べてくるのではなかった、と後悔が頭の隅をかすめる。加藤先生は「縁日が出ていてにぎやかですよ」とのことだったが、それが食べ物の屋台だとは聞い ていなかった。何しろ、加藤先生は食べることにあまり関心がないようなので、これを私に事前に言うことなど思いも寄らなかったのだと思う。


 私は食べることが大好きで ある。「人は生きるために食べる」けれど、私は「食べるために生きている」ような気がすると何時もふざけて言っているが、加藤先生からは「いえ、そりゃあ 先生間違っていますよ、人は生きるために食べるのです」という至極真面目な返事が返ってくる。


「この人、美味しいものを作っても、美味しくなくても『うまい』だけで、まったく張り合いがないんやわ。うちの人、ちいとも味がわからへん。」というのは文子夫人の言である。文子夫人はどうもグルメ派のようだ。  


「せっかく来たのだから何 か食べましょうよ」と私は連れを誘ってあちこち覗いてみる。「湖南紹興臭豆腐」には、くさやみたいな匂いの豆腐を置いているし、「椰島鮮椰」にはココナッ ツが沢山並んでいて、「天津一絶天津大麻花」はドーナッツのお化け。「杭州一絶香辣美容蟹」では、手のひらくらいの蟹が4匹串刺しになって天ぷらとなって いる。この美容蟹には大いに興味があったけれど、残念ながら天ぷらを食べるほどはお腹が空いていない。香港何とかと屋号に書いてある店ではせいろの中で小 龍包が湯気に包まれて良い匂いを放っていた。「美味しそう」と、思いは直ぐに学生の白さんが昨夏案内してくれた上海の豫園城隍廟の南翔饅頭店の小龍に飛ん で、思わず口中に唾がわき上がった。一人一つずつ買って食べたけれど南翔饅頭店と違ってちっともジューシィではなく、がっかりだった。


 でも、こんなことでめげて はいけない。別の「西安羊肉泡謨(言偏の代わりに食偏)(ヤンロウパオモウ)」という店では加藤先生が「私は西安に二年暮らしましたがね。この汁にパンを 浸す食べ物は美味しいのですよ」と言うことで、加藤先生と私の二人分を注文した。レタス菜風の野菜と羊肉、パンのちぎったもの、透明なうどんが一人分の椀 に盛ってあって、それをかごに空けて沸騰した湯の中で暖めて、改めて汁を掛けて供された。加藤先生が「懐かしい」と言って食べ始める。食べてみたけれど味 が薄くて美味しいという感じではない。加藤先生も申し訳なさそうに、「これ、一寸美味しくないですね。ホントはパンに沁みた汁の味が実に旨かったのですよ。」とのことだ。おそらく、加藤先生も本当は味は分かるけれど、周りへの思いやりのために口にしないだけなのだ。

 その隣の店の角の軒先には皮を剥いた羊が二頭逆さにつるしてある。店の上には新疆羊肉と書いてあって、店頭では長い炉の中に赤々と炭火が熾り、上に渡した肉の串刺しが炙られて垂れる脂が燃えてもうもうと青い煙を揚げていた。薬科大学の前の通りには小さな食い物屋が並んでいて、何時も夕方になると競い合って、店先で盛大に煙を揚げているのを思い出す。


 今は朝日の中の焼き肉で、揚がる煙が豪気でよい。「ここに新疆省のカシュガルと書いてあるでしょ。カシュガルに行ったことはないけれど、このシシカバブは美味しいですよ。ここで食べましょうよ」と云われて頬張る羊肉のシシカバブの美味さ。黄色い脂まで芳香を放っていて、その旨さは堪えられない。

1-3.清朝皇室の菩提寺である皇寺は

瀋陽最大のラマ教寺院

山形達也(瀋陽薬科大学)


 四人ともシシカバブを二本ずつ平らげて「それではお寺を見に行きましょう」と人混みをかき分けてこの広場の隣の寺に行った。一人3元の入場料だった。境内に音楽が鳴り響いていて、加藤先生の説明では「これはお経です。」 

 単調な音律の繰り返しなので、直ぐに覚えてしまって、一緒に口ずさむことが出来た。最初の建物の前で長い二本の火のついた線香を捧げ持ち、通り過ぎる私たちの方を向いて深くお辞儀 をする人たちがいる。老人だけではなく若い人たちもいる。驚いてよく見ると、順番に東西南北に向かって深くお辞儀を繰り返している。


 このお寺は清朝の二代目皇帝であるホンタイジが蒙古の一部族を攻め滅ぼしたとき、その部族長の林丹汗は、ラマ教の活仏と自分の母を帰順の印としてホンタイジに贈ることにした。その 時伝国の宝である金で出来た大黒天、金字で書かれた教典、伝国の玉爾を白いラクダに乗せて清朝の都である奉天(瀋陽)に送った。ラクダは瀋陽の西3里(1.5 ㎞)のところまで来て力尽きて倒れて死んでしまった。ホンタイジはそのラクダを哀れんで、その地に大黒天を納めたラマ教の寺を1636年に建立し、実勝寺 と名付けたのがこの寺の起源だと寺の案内板に書いてあった。この寺がラマ教なのは蒙古のその部族がラマ教を信じていたからである。


 清朝は二代目のホンタイジ のあとの三代目の順治帝の時に、長城を山海関で破って中原を制覇し都を北京に定めたが、その後の康煕帝、乾隆帝、嘉慶帝、道光帝などは瀋陽まで巡幸し、必ずこの実勝寺に詣でて仏を拝んだ。それで、この寺は清朝皇室の寺、略称して皇寺となったという。


 本殿の中心には釈迦像、右には普賢菩薩があってどれも金色ご極彩色に輝いている。どこがラマ教なのか、本物の仏教を知らないから違いも分からないが、僧侶の付けている赤紫の衣服が ふわっとしていて、日本の僧侶のそれとは違っていることが珍しい。ラマ教はチベットと思っていたのに、「蒙古にも布教されていた」ことも新しい知識である。

1-4.若いときの姿に再会した老孔雀

 山形達也(瀋陽薬科大学)


 この寺の横の広場には屋台の縁日が出ているが、それとは別の一画に清朝の12 人の皇帝の像が円形に並んでいる。右の端が初代皇帝ヌルハチ、次がホンタイジ、順に廻って左へ12番目の最後が溥儀の像だった。この溥儀は子供の頃退位したので、姿は子供である。西太后に操られて末期を迎えた清朝のことは、最近の浅田次郎の小説「蒼穹の昴」に詳しい。西太后を奥さんにした駄目皇帝は誰かと見て歩くと、どうも先入観のせいか全く覇気の感じられない容貌を持った像が、問題の9代咸豊帝だった。

 この清朝皇帝の像の円形広場を取り囲んでいる屋台は食べ物ではなくて、玉、篆刻、書画、ひょうたんの彫刻、卵の彫刻、切絵を売っている店など、一つ一つ見ていくと愉しい。貞子たちは卵の彫刻の店によって店主が卵に躍動感のある馬を彫るのに興じて見入っている。卵の殻に彫っても壊れやすい卵では買うのも考えものだと思って、私は切り絵の店を覗いて歩いた。


 卵彫刻のとなりの切り絵の売り子さんは愛くるしい小柄な女性で、ほとんど買いそうになったけれど、三軒先におじいさんが店番をしている切り絵の店があったことを思い出した。その店には額があって、彼の写真と説明がある。正確には読みこなせないけれど、この岳文義さんは1931 年生まれで、中国民間文芸家協会会員、中国剪紙学会副会長、遼寧省剪紙学会会長と書いてある。20歳代の時に独学で切り紙芸術に飛び込んで、今まで金賞、 銀賞、受賞は数知れずと云う。店先には関羽、孔雀などいろいろの切り絵が置いてあった。「これらは貴方が作ったのか」と訊くと、そうだという。この際、可愛い子ちゃんよりも老芸術家に敬意を表したい。


 そう思って作品を見てみると、ここに飾ってある孔雀が一目で気に入ったのだった。濃い青い紙で作られていて、孔雀の広げた羽が全体として丸い絵となった切り絵である。孔雀にこだわったのには訳がある。


 研究室で女子大学院生の麦 都さんに私は「老孔雀」呼ばわりされている。訪ねてくる若い女子学生を相手に丁寧に説明をしていると、あとで何時も「老孔雀開屏、自作多情」と言ってから かわれている。「雄の孔雀が歳を取ったことも忘れて、雌の前で尾羽根を広げているけれど、すり切れてみじめな尾羽根に、雌孔雀は目もくれない。」という意 味である。先生にひどいことを言うものだが、この文義さんの作った孔雀は見事なものだ。値段を聞くと百二十元という。額がなければ30元だ。でも、額に 入っていないとただの紙切れで扱いに困るので、額入りを百元にしてくれたのを機に買ってしまった。立派な額に入っていて重い。


 この後これをずっと持って歩く羽目になってしまったが、研究室に戻って包みを開けていると、なんとちょうど部屋に入ってきた院生の麦都さんが着ている赤いブラウスには、丸く孔雀の模様が刺繍されているではないか。


「やあ、雌の孔雀さん。」と彼女にこの孔雀の絵を突きつけて、孔雀に挨拶させた。「今日は。ほら、これは、ぼくの若いときの絵姿ですよ。」


 びっくりした麦都さんは、それでも「へえ。老孔雀も昔はこんなにハンサムだったんだ。」と話を合わせる。


「これなら雌孔雀もついて行きますよ。先生、日本に行っているあいだ先生の椅子に飾っておいて下さいね。大事にしますから。」

何だか、やっぱり言うことが憎らしいね。 

2、篆刻のわが師父二人

(日本語クラブ27号 2007年11月号)

瀋陽薬科大学

山形 達也


1.わたしの趣味は何?

中国に来てからはいろいろな人たちに出会う。日本にいる頃と違って、同業の研究者仲間に会うのはきわめてまれである。会うのは中国人のこともあるし、日本語の先生たちのこともあるし、何処でどうなっているのか説明もし難い人たちに会うこともある。そのような時、「先生は何が趣味なんですか。暇な時は何をしているんですか。」と訊かれることがある。


 日本にいる時は訊かれても困らない。仕事場を離れてうちにいる時は休養と決めているから、音楽を聴くか、ビデオで映画を見るか、本を読んでいる。私の育ち盛りの頃はテレビがなくいわゆる活字世代として育っているので、どんなジャンルの本でも読むことが好きである。映画は大好きだけどマンガは苦手で、読むのは文字である。


 さて、中国にいると仕事以外に何をしているか。音楽はない。聴くことも演奏することも、歌うことも出来ない。DVDは何枚か持ってきたけれど、コンピュータのDVD-ROMが壊れていて、観ることも出来ない。本は日本に帰るたびに物色して面白そうな小説を買ってくるけれど、長持ちしない。あっという間に読み切ってしまう。あとは教師会の日本語資料室の本だけが頼りである。


 本は、資料室から何時も借りて来られるわけではない。それじゃ、どうするか。夜うちに帰って食事をすませたあとの時間が問題である。殊勝にも中国語の勉強をしようと思ったのは、ごく初めの時だけだ。覚える端から忘れる中国語にとても付き合いきれなくて、投げ出すのに時間は掛からなかった。

 

2.師父加藤さんに導かれて知った篆刻


 そして何時のことだったか、薬科大学の日本語教師の加藤正宏さんに篆刻を勧められたのだった。石も買った、篆刻刀も買った。それでもなかなか始めなかった。やがて加藤さんの彫った石を見て、そして妻の彫った石を見て、やっとそれなら、私もやってみるかという気になったのだ。それ以来時々彫ってみる。加藤さんが中街の路上市で見つけて買ってくれた「篆刻書」を見ながら、篆書を彫るのである。

【写真は師夫・加藤正宏さんと文子夫人】


 大昔から印章は人々の生活に使われてきたことは想像に難くない。実際、博物館に行くと有史の頃の印章の発掘品が出土している。交易の時に品質保証というか、中身はちゃんとしていますよ、すり替えていませんよと保証するために物品に封印をした時に使われた封泥が、印章の起源だとあるものの本に書いてあった。容れ物を縛ってそのひもの結び目に泥を付けて印鑑を押す。泥は乾いて紐の結び目にくっついている。これを壊さないと紐は開けられない。つまりこの紐を開けていないという印に、封泥は使われ、その目的で印鑑が出来たという。このとき押された印章は、名前であるのも残っているし、模様もある。


 ものの本によると中国の漢代に封泥がよく発達したけれど、紙が発明されて以来、封泥の必要性が薄れてしまったという。それまでの木簡・竹簡は、表面をけずれば容易に字を書き換えることができたので内容保証の封印が必要だった。しかし紙になると文書が簡単に改ざんできなくなるので、封泥による封印の必要は薄れ、印鑑が発達するようになったようだ。


 でも、この封泥は最近までも使われていた。私の父は弁理士で、戦前から欧州相手の国際特許事務所を経営していた。例えばドイツから日本で特許を取りたい時に先方から書類も来るし、発明品の実物も送られてくる。これがボール紙の円い筒に納められ、紐が掛けられて結び目に赤いベークライト様の固まりがついてこれに印章が押してあった。開ける時にはこの印章は壊れるので、壊れていなければ中身は入れた時のままの本物の保証になるわけだ。この仕組みが今も世界で使われているだろうか、私は寡聞にして知らないが。


 印章は自然発生的に必要に迫られて始まったものに違いないが、篆刻という言葉となると、芸術品を意味するらしい。調べてみると「古璽を研究対象とした宋の金石学を出発点に、元の趙孟頫らが刻印をこころみて印学を再興したのが篆刻のはじまりとされます。じっさいには明の文彭・何震に実作が存在して篆刻の専家としての始祖とされ、篆刻芸術の第一頁がひらかれることになります。」(遠藤昌弘著作選


 別の引用をすると「明時代になると,多くの文人が盛んにこの印章を私印として制作するようになり,これが徐々に芸術性を帯びてきて“篆刻”と呼ばれるようになりました。その後,この篆刻の印影は,書画の落款の一部として使用されるようになって,次第に書道や絵画と並んで,一つの独立した芸術となりました。そしてこの“篆刻”を含んだ“書道,絵画,落款”の芸術は,三位一体となって古代中国の伝統的な芸術の一つとなりました。」(古代文化研究所 古代の印章篆刻


 つまり、印章というと実用で、篆刻というと芸術作品になるのだという。同じ字を書いても、板に書いて店先に掲げれば「看板」で、紙に書いて部屋に飾れば「書道」というようなものらしい。

 

3.師父加藤さんに連れられて石漁り


 篆刻に使われる石は巴林石(内モンゴル巴林右旗の山麓より産出)、寿山石(福建省寿山郷より産出)とか青田石(浙江省青田県産出)などよく知られた石がいろいろとある。むかし子供の頃、道の舗装や敷石に書く時に使った蝋石よりも少し堅いが、玉ほどには堅くない。なお蝋石は岡山県の東部から今でも産出されていて、今では落書き用としてよりも、タイル、耐火物、建材用の素材として使われているようだ。


 中街の路上市に行くと、そのような篆刻用の石と並んで練習用の石が山積みで置いてあり、一つ1元で売られている。道ばたのござに商品を拡げたおじさんに訊くと通常は2元という言い値で売っている。


 でも、ひとつ1元と言ってはいけない。加藤さんは元来高校の世界史の教師で、特に中国の近現代史に興味があって、中国に滞在して古物商を巡って、今は特に民国の頃の教科書を探している。雨が降る時以外の毎週土日には必ずこの辺りを徘徊して、ここに店を出している人たちの誰彼となく知り合いになっている加藤さんが「そんなことを言わないでよ。私はあなたの朋友でしょ。だから連れも朋友なんだから1元にしなさいよ。」と言ってくれるので、一つ1元になるのだ。この石を13個選んで「これで10元にしてよ。」と勇を鼓して頼むと10元になったりするわけだ。加藤さんは宿舎で暇な時には篆刻をしているそうで、加藤さんから篆刻の手ほどきを受けたのだった。


 加藤さんにここで篆刻用の石を選んで買うのだと言われて石の山から選り分けるが、初めの頃は石の綺麗さにだけ目を惹かれて選んでいた。やがて石に彫るようになってから、石の肌理に注意し、いろいろの色が混じっている時は、彫る時の障害にならないかなどに気を配って選ぶようになった。

石を彫っていて失敗しても、紙ヤスリで底面をごしごしと擦って平らにしてまた彫り直すことが出来る。と言うことは、失敗してもやり直しが利くけれど、そのたびに石の高さが減っていく。だから背の低い石は買ったらあとで困るとか、だんだん知恵がついてきたものだ。石の質を見て篆刻用の石として細長く整形してあるものも買うようにもなった。


 2元くらいのはまだまだ練習用の石だけれど、道ばたではなく古玩城の中に入ってちゃんと店を構えたところに行くと、30元くらいから始まってあとは天井知らずである。


 篆刻を始めてから、素人として一番気を遣うと言うか、一番大事だと思ったところは、石の上に裏返しの字を書き込むところである。道ばたで注文に応じて篆刻をしている人たちがいる。彼らは注文されると細い筆を使って篆字をいきなり初めから裏返しに石の上にさっさと書く。さっと書いたらできあがりでたちまち彫り始める。こう言うのはプロだから出来ることだ。


 この最初をいい加減にすると、いい作品にはならない。もちろん、私にとって裏返しの字を石の上に書き込むというのは大変な作業である。正字を篆字で調べて納得するまで何度も紙に書く。次はこれを左右裏返しにして書く練習である。これが書けるようになったら石の上に書いてみる。私は水性インクの細いフェルトペンで薄い色から書いていって、気に入らないと濃い色を重ねて字を修正してから、彫り出す。つまり彫り出すまで一晩や二晩を遣ってしまう。一旦彫り出すと、2-3時間の集中作業である。


【写真:薬科大学ともお別れの加藤夫妻と並んで】







3、ゴールデンウイークに巡る瀋陽史跡

山形達也(瀋陽薬科大学)


2005/05/04 11:11

3、ゴールデンウイークに巡る瀋陽史跡 その1

山形達也(瀋陽薬科大学)


 五月になるとハイネの「美しき五月になれば」という詩を何時も思い出す。美しい詩だけれど春が徐々に訪れる日本ではあまりぴったり来なかったが、瀋陽で暮らしてみるとハイネの気持ちがよく分かる。瀋陽では11月から3月まで寒く長い冬に耐えなくてはならない。高緯度のドイツも同じだろう。4月半ばになるとそれまで零度以下だった気温が,どんどん上昇して、凍った土から芝生が青く芽を伸ばし、木々の芽が一斉に吹き始める。桃が開花して直ぐレンギョウが続き、今はライラックが花盛りだ。長い冬を越して一斉に春に目覚めた生命の躍動に心躍る気持を今瀋陽で味わっている。


 5月1日のメーデーから始まる一週間は、中国でも労働節休暇と呼ばれるゴールデンウイークである。今年は後ろの土日も一緒にくっつけると9日間の大型連休となる。故郷まで片道4日 も掛かるような学生はさすがに帰省しないけれど、天津、上海(上海だと片道汽車で28時間という)から来ている学生は、二三日前から休みにして故郷に帰 る。

 私たちはこの休みの一日、瀋陽で得た友人である加藤先生に案内されて瀋陽史跡と隠れた名所巡りに出かけた。加藤先生は薬科大学の日本語教師の一人で、昨年秋ここに来るまでは関西の高校で世界史の先生だった。今回が初めての中国ではなく、現役の四十代の教師のころ西安に二年間、そして定年前の二年間は長春で日本語教師をしたという。日本の教職を中断して中国に来て日本語教師をしながら暮らすなど、よほどの興味がなければ出来ないし、たとえそう思ってもなかなか周囲の事情が許さないであろう。加藤先生は、その「よほどのことがある」先生なのだ。世界史、特に日中の現代史が専門で、調べれば調べるほど興味が募り、とうとう現場に自分の身を置きたいと希求するほどのめり込んでしまったものと思われる。いまの加藤先生の週末の日課は、市内で開かれる古書、骨董市巡りなのだ。そこで現代史に繋がる様々な本、写真、証書などを見つけている。


 丁度、加藤先生の奥様も10日間の予定で日本から訪ねてこられていて、ご一緒した。彼女は文子さんと言って以前は学校の先生だったけれど、加藤先生の長春赴任に合わせて学校を辞めて長春では一緒に暮らしたという。でも、今の加藤先生は単身赴任なのだ。これは以前『一緒に来てくれてありがとう』に書いたように、「亭主はともかく、自分の築き上げた生活も大事なのよ。中国に行きたければ一人で行っていらっしゃい。」というケースだろう。


 文子さんは水曜日に瀋陽に着いて次の週の金曜日には日本に戻るとのことだ。土日もこちらで一緒に過ごしてから日本に戻ればよいのにと思うが、彼女に言わせると、加藤先生は土日には彼女を放り出して自分は一人で骨董市巡りに行ってしまうから、週末前に帰っても同じことなのだという。


 さてこの日曜日は朝8時半に大学の前のバス停で待ち合わせた。もう風は冷たくなく、空も青く澄み渡り、黄砂の気配もない。私たちは数日前までの冬の衣装を脱ぎ捨てて軽装である。加藤先生は古物市までの2kmくらいの距離を普段は歩くそうだけれど、今日は私たちに付き合って一緒にバスに乗った。バスの代金は1元。ワンマンバスで、乗るときに1元を運転席の横の箱に入れる。運転手はおつりを呉れないから、もし1元がなくて大きな札しかないときには、自分がにわか車掌になって、あとから乗る客から自分の釣り銭が出来るまで金を受け取らなくてはならないと聞いている。バスは誰もが遊びに出かける気楽な服装をした人たちばかりでいっぱいだったが、貞子が吊革につかまると、直ぐ若い男に席を譲られていた。

 在瀋陽日本国総領事館の近くの停留所でバスを降りた。「2週間前の反日デモの時はこの手前にバリケードが置かれていて、ここまで入れなかったのですよ」とのことだ。領事館は50mくらい先の角にあるが、今は逆の方向に戻って運河に掛かった橋を渡る。瀋陽市内には運河が掘巡らされていて、この河畔は随所に公園となっている。これらの河畔公園を含めて緑地帯が市内面積の25%を占めるという話で、この一帯は市内屈指の風致地区である。その角に「瀋陽魯園花卉文玩中心」という二階建ての奥行きの長い建物があり、一階は生花の問屋、二階が骨董商だという。その関係で、この裏の河畔の広場に週末に古書・古物の市が立つのだそうだ。


 店を通り抜けて外に足を踏み入れると、アスファルトの地面に2メートルくらいの幅に布を敷いて、その上に古本が広げてある。古本屋にはそれぞれ得意な分野があると見えて、紅衛兵の 紅い手帳や紅いその手の本だけを置いている店、小説本ばかりの店、人体芸術写真・素描などヌード本の店、昔の教科書が主体の店など様々だ。古本の表に「唐 宋詩選」なんて書いてあると、思わず「あるある」なんて声が出てしまい、店の親父に声をかけられてしまう。貞子は日本の歌の本を見つけて手にとって中を見 ると、「五線紙がない。えっ、これ数字で書いてある」ということだった。


 二胡の楽譜は見慣れた五線紙ではなくて数字で書いていると聞いたことがある。きっとそれだろう。知った歌なら数字と音との関係が解読できるということになって、知っている歌の載っ ている歌の本を探し始めた。とうとう日本の歌が中国語となって一緒に書いてある歌の本を見つけて、2元で買っていた。15年前に出版された本で、裏には定価は0.3元と書いてあった。


「同学門 手拉着手 走在田野 和地頭」

 これは「おてて、つないで、のみちを、ゆけば」の「靴が鳴る」である。音程は「1123,5565,332112,3212」と書いてある。ドは1,ミは3、ソは5,上のドは上1点付き1であることが直ぐ分かった。


 古本屋の中での加藤先生の顔なじみは、教科書、地図、古い写真などを扱っている人たちで、加藤先生はもう半年通ってお互い親しい友だち同士のようだ。文子夫人は「我的太太」、私たちも「我的朋友」といって紹介されて、彼らに暖かい笑顔と親しげな言葉で歓迎された。その一人は、有名大学の出身で定年後、好きなことを始めてこの道に入ったという。そこにはロシアが出版した日露戦争前の満州地方の地図があった。いまちょうど石光真清の書いた四部作「城下の人・曠野の花・望郷の歌・誰のために」(中公文庫)を日本語資料室から借り出して読んでいる。欧米の列強の露骨な圧力におびえながら日本が富国強兵の道を走る明治・大正時代を、明治元 年生まれの石光真清が自分の数奇な軌跡を記述することで描ききっている奇書と言って好い。いまこの時代に惹きつけられていて、とても関心のある時代であり、旧満州という場所である。でも、値段を聞くと千元(約1万3千円)とのことで、とても物好きで買える値段ではないことが分かった。



2005/05/16 09:55

3、ゴールデンウイークに巡る瀋陽史跡 その2

山形達也(瀋陽薬科大学)

 古書の前で加藤先生はしゃがみ込み、幾つかの教科書を手早く広げて調べている。やがて「ほら、先生」といって見せてくれたのは「高小2修身教科書」というもので、出版は中華民国二十七年と書いてあって1938年に当たるそうだ。「酒を飲むな、煙草を吸うな」から始まっている。高小2年というと、今で言うと中学二年生に当たる。中2といえば子どものようだけれど、日本でも明治時代の初めには高等小学校を出て代用教員になった時代があったから、青年として扱われても不思議ではあるまい。この修身教科書の終わりの方には「中日経済協力」「中日合作東亜和平」などの項目が出てくる。出版は北京だからいわゆる傀儡偽満州国ではない。日本が攻め込んでいた中華民国である。日本が仕掛けた戦争で戦禍が中国全土に広がっていた時代だけど、中国では日本はアジアの一番近代的な工業国で、日本に見習って国力を高め一緒にアジアの平和に尽くそうと子ども達に教えていたのだ。

 青空の下の古物市では、本のほかに首飾りの玉や腕飾りを冷やかしたりして2時間以上楽しんでから、先ほど通り抜けた大きな建物の二階に上がった。 明るい陽光の下から暗い建物の中に入ったので、両側の店は暗くて全部仕舞た屋に見えてしまったが、目が慣れてくると立派な篆刻の店、貨幣の店、画幅の店、書の店、玉石の店など間口二間、奥行き一間半位の店がずらっと並んでいる。加藤先生はここでも顔なじみで、あちこちの店に立ち寄って挨拶をしていく。上品な店主のいる書画の店では、とうとう私たちも椅子に座り込んでお茶までご馳走になってしまった。この店主は勤めを持ちながら、週末はここに来て好きな商売をしているとのことだった。


 店を出て河畔に立つと、もう初夏といって良い温度の中で、風が頬を優しく撫でて心地よい。河畔にはライラックの樹が立ち並んでいてその全部が満開なので、まき散らす香りに全身が包まれてこれも快い。この河畔から領事館は直ぐで、南三経街という広い道に面して米国総領事館、この奥の西には日本総領事館と続いている。広い道と日本総領事館に続く道にはトヨタのハイエースに似た公安の車が隙間なく並んでいた。日本総領事館の入り口は二重に閉鎖されていて、警備の警官、武装警官が門の周辺に多数立つほかには人影がなかった。反日デモ発生を厳重に警戒しているのだろう。


 米国総領事館から反時計回りに日本総領事館を通り過ぎてその横手に出ると、別の入り口があって、瀟洒な3階建ての建物がほとんど出来上がっていた。かねて聞いていた話によると、総領事館の敷地の中に日本会館を建てて日本文化の紹介、日中交流の場に使うとのことである。この5月23日から28日まで、在瀋陽総領事館と遼寧省人民政府の共催で開かれる「 2005年瀋陽中日経済交流活動週間」がこの会館のオープニングを飾るはずである。4月に火の手の挙がった反日運動がこの「 2005瀋陽中日経済交流活動週間」開催に水をかけたに違いない。


 反日デモの燃え広がる最中の4月19日に李外相が党高級幹部を集めて「反日デモの静観は国益に反する」という演説した。それ以来、目に見える反日運動は収まっているが、歴史認識の違いという問題の根本が解決していない以上、不安の種を抱えたままの開催となるであろう。日本からも沢山の経済界の人々が参加して、この催しを成功させて欲しいと願っているのだが、どうなるだろう。


 この新築の建物を過ぎてそのまま進むと、日本総領事館の裏手の北に当たる敷地に北朝鮮の旗の翻る建物が出来ていた。加藤先生の解説によると、彼の着任時には建築中だったそうだ。建物はベージュと穏やかな茶色で彩られた高級別荘風の建物だが、日本国総領事館よりも塀が高いこと、門が格子ではなく中が見通せないことがいかめしい印象を与えていた。ここももちろん高い塀の外側がさらに金網の柵で囲まれて、多くの警備兵の姿が見られた。北朝鮮領事館の北側一帯は大きな公園になっていて、休みのことではあり、沢山の家族連れでにぎわっていた。


 中国の公園の特徴は、子供用の遊具だけではなくて老人用の遊具が多数用意してあることである。老人が手すりにつかまりながら前後に遊具で足を動かしている。横では老人が鉄棒にぶら下がっている。私も真似をしたけれど懸垂のあと逆上がりが全く出来なくなっていて、いつの間にか老人になったことを自覚した。

 子どもを避けながら公園をどんどん歩いていくと、北朝鮮領事館の裏手の東に当たる位置に同じような作りの同じ色の建物が見えて来て、これは韓国の旗を掲げていた。当然これは韓国領事館であろう。どちらも将来一緒になることを考えていて、北が南を併合するから同じ色の建物でいいよと言ったのか、南が北を吸収するつもりで同じにしてお こうと言ったのか、どちらか分からないが、同じ趣向の建物というのはなかなか暗示的でよい。


 先刻降り立ったバス停に戻る途中、歩道の煉瓦色の敷石に綺麗な字で大中小学生に学業を教えますという白墨の字を見つけた。「随到随学」というのは何時からでも始めますという意味だろう。大学生のアルバイトだろうか。薬科大学で聞いたことだけれど、日中・中日翻訳などは高額が稼げるので大歓迎らしいが、何時もあるわけではない。高校 生、受験生に受験勉強を教えるのはごく普通のアルバイトなのだそうだ。レストランのウエイトレス、ウエイターなどは学則で禁じられているという。ここでは 大学生はエリートなのだ。


 バスに少しだけ乗ってから、瀋陽市の街の昔の中心を目指して歩いた。この昔の街の中心は故宮と繁華街の中街を含む一帯で、戦後まで大きな城壁に囲まれていたという。日本が瀋陽に奉天という昔の名前を付けて、旧満州、今の東北地方の経営に乗り出してからは、瀋陽城の西に奉天駅を作って、そちらが新しい瀋陽の中心として発展したとい うのが加藤先生の解説である。ちなみにこの奉天駅、いまの瀋陽南駅は、辰野金吾設計の東京駅に似た優雅な駅舎である。ただし、奉天駅は1910年完成、東京駅は1914年竣工なので、奉天駅の方が古いから、似ているのは東京駅と言うべきだろう。バスを降りて広い道を歩くとやがて横手に奉天路という広い道が見えてきた。以前の街の名前がここに残されている。

 

2005/05/08 11:13

3、ゴールデンウイークに巡る瀋陽史跡 その3

山形達也(瀋陽薬科大学

 奉天路を北に向いて歩いていくと、歩道いっぱいに車を置いて水洗いしている自動車修理工場があった。加油站と呼ばれるガスステーションでは、そう言えば洗車をしていないみたいだから、別の小さな商売が出来るのだろう。水しぶきを避けながらそこを通り過ぎると直ぐ左に、奉天路に面して南清真寺があった。

 ここは回教寺院でここも境内は ライラックの花の盛りである。境内は黒い服を着て白い帽子をつけた人たちで溢れていた。煉瓦作りであることを除けば、回教寺院といっても外観は私たちの知っている一般の寺とほとんど変わりのない造作だった。内部を覗くと、人々は床に拝跪してメッカの方角を拝むので絨毯を敷いた広々とした空間だった。回教では男女一緒に礼拝することはなく、寺院が男女別に分けられているとか、寺の横に男女別の大きな沐浴室が設けられているとか、加藤先生の説明に初めて知る ことが多かった。本堂の裏手に回ると、本堂奥には三層六角形の望月塔がそびえていた。これも日本の寺の塔と変わらない反りの屋根を持ち、優雅な印象である。加藤先生に言われて気付くと、上部の水煙に代わって先端に「新月と星」というイスラムの印(実際には三日月と星)が高々と掲げられていることが、違っていた。

  清真寺を外に出ると加藤先生が「ほら、周りを見てご覧なさい」と指さす。周りは住宅街で、周りは6〜7階建ての住宅ビルが沢山目に入る。言われてみると、周囲のビルには壁に青い模様が入っている。屋上の隈取りも鮮やかな青色である。この青色はこの寺を回教寺院として特徴付けている色である。ここは瀋陽の回教信者の集落で、東北地方では最大であるとのことだった。

 回教寺院から東に向いて歩いていくと西順城路に面して道教の寺院があって、一人2元で中に入ることが出来た。ここは私たちの大学から日本語資料室に行くときの通り道で、何か由緒深げな建物で以前から気になっていたところだった。道教の寺は道観(道教宮観)と呼ぶそうだ。建てられたのは1663年 の清代初期である。中にはいると直ぐに関帝殿があった。横浜中華街の豪華な関帝廟を見慣れているのでそれと比べると素朴である。


 真正面に関羽、右に義子の関平、左に部将の周倉の像がある。入ってくる人は皆像の前に拝綺して額ずいている。孝心、忠節の権化として尊敬を集め、武神としてあがめられ、後代になって科挙に受かる神様、無病息災を祈る神様、招財開運、商業の神様にまでなってしまった。両側の壁には関羽の事跡が描かれていた。三国志の有名な劉備、関羽、張飛の桃園の契りが描かれていて、こうやって知っていることが出てくると喜ばしい。おまけに描かれている関羽の顔が、中国で作られた大河テレビドラマの三国演義に出てくる関羽そっくりなので、これまた大いに喜んでしまった。もちろん関羽として世の中に広く流布されている顔の役者を選んだのだろうけれど。関帝殿の左手には馬の石像があり、これはそれ以前は呂布が乗っていて曹操から贈られた赤兎馬であろう。皆通りがかりにこの馬をなでていくので、私も尻と鼻面を撫でて三国志の世界に浸った。


 道教寺院の中では、関帝殿の後ろには老君殿、玉皇殿が順番に並んでいて、それぞれ太上老君、玉王大帝が祭られている。太上老君は道家を創始した老子のことで道教では神として崇められている。玉皇殿に祭られている玉王大帝はギリシャ神話で言えばゼウスに当たると考えてよい。老君殿の前では高校生位の女性4人が並んで長い線香の束に火を点けてそれを捧げ持って真剣に拝礼して祈っていた。この火を付けた線香は、こうやって祈った後はその後方にある大きな護摩壇に投げ込まれて盛大に煙を上げている。


 頭髪を頭上高く髷に結って黒い衣服を付けて一目で道士と分かる人たちが参拝客の世話を焼いている。老君殿の回廊の横では若い女性の二人連れが跪き、白い四角い筒のようなものの上部 に火を付けて、下部を手で捧げ持ち、隣に立つ道士の叩く木魚を聴きながら、火が燃え尽きて支える手が危なくなるまで熱心に祈っていた。このように若い人の参詣が多いところを見ると、革命で無宗教を推し進めたはずだけれど、宗教心は人々の心に強く宿っているらしい。


 玉皇殿の奥には三官殿があって、伝説上の三官大帝である、尭、舜、禹が祭られている。面白いのは、この隣の建物には唐代の科挙に落ちたけれど剣術を好くし、豪放洒脱で人から好かれた養生術の大家の何某という人が神に祭られている。何でも彼でも都合よく取り込んで神にしてしまって祈るという宗教は、日本人にはなじみがあって、好感が持てる。自分を厳しく律するなんてなかなか私たち凡人には出来ることではないし、偉い人にあやかって楽に生きていきたいと気易く願える宗教は気楽で好 い。


 宮観をでた後は西順城路をわたり、加藤先生について細い道を伝って歩く。両側は煉瓦作りの一階建ての共同長屋が続いている。長屋の切れ目から中を覗いて加藤先生は「何だと思います」とのことだった。周りと違う大きな家が見えていて、加藤先生によると奉天軍閥の高官の家だということだった。隣と比べて屋根の水仕舞いが丁寧に作ってあるとか、軒の下の支えの入り方が違うとか加藤先生の説明は丁寧である。この後、大きな韓国料理屋の裏手に入って、細い路地を曲がらずにどこかのうちの横手の階段を加藤先生はすたすたと昇りだした。先頭に立って上まで着いて、その踊り場の突き当たりに張ってある鉄条網から下に首を出して見せて、「覗いてご覧なさいな、これが城壁の残骸ですよ。」ということだ。代わって貰って網の隙間から首を恐る恐る出して左下手を望み見ると、石垣がある。これだ。これがいま評判の瀋陽城の城壁の残骸なのだ。


 いきなり瀋陽城の城壁が話に出てきて分かり難いかも知れない。いま私が瀋陽にいて参加している瀋陽日本人教師の会というのがある。この会のホームページを昨年から引き継いで作ってきたのは私である。ホームページを愉しめるものにするために様々な企画を立ててきたが、その一つが会員一人一人のタレント性を紹介する「会員交流のペー ジ」だった。加藤先生はこの企画に乗ってくれて、「瀋陽史跡探訪」という記事を書き始めて、最近の「満鉄付属地その一」に至るまでもう5回も執筆を重ねている。その中に、「瀋陽城市城壁と城門」というのがある。

(http://www.geocities.jp/kyoshikai_shenyang/sakuhin1kato.htm 既に被消去)


 加藤先生のその記事によると、清の初代皇帝となるヌルハチが満州地方を平定したとき、いまの瀋陽の地は既に明の作った瀋陽衛と呼ばれる城市があった。ヌルハチはその中心に宮廷の建 物となる故宮を造営して、この地を都とした。清という国名を名乗る女真族が、山海関で万里の長城を越えて明の支配する中原に侵入する前のことある。城壁は明時代の城壁を改修して頑丈なものに作り替え、上部の幅6メートル、高さ12メートルに及ぶ巨大なものであった。こうやってこの宮廷と付属の地域を高い塀で囲んだ瀋陽城を中心に瀋陽の街が出来た。その後日本が支配した時代は、奉天駅を中心とする満鉄附属地が中心となって広がり、この合体したものが今の瀋陽の原型になっているとのことだった(瀋陽の歴史も、加藤先生の「瀋陽史跡探訪」に詳しい)。



2005/05/14 06:21

3、ゴールデンウイークに巡る瀋陽史跡 その4

山形達也(瀋陽薬科大学)


 加藤先生の記事によると『しかし、中国建国後1958年の「大躍進」の時に、北順城路に沿った南側の部分の城壁の基礎段を残して、城壁は全て取り壊されてしまった。1982年に、この基礎段は市級文物保護単位に指定されたが、既に城壁の基礎として使われていたレンガは住民によって持ち去られたり、その基礎段の上やその傍らに建てられたバラックの建築資材に化けてしまって姿を消し、市民から忘れ去られてしまった』という。

 いま、この一体を訪れると、瀋陽城の西の城門、東の城門、西北の望楼が見られるが、これはその後に再建されたもので、昔の城壁は跡形もないと思われていた。ところが、昨年の12月に城壁の基礎部分の一部が発見されて歴史的に価値のあるものとして一躍脚光を浴びたということだ。瀋陽市はこれを修復して歴史公園を作る計画だという。加藤先生はその新聞記事を頼りに大変な苦労をしてそれを探し出して、「瀋陽史跡探訪」の中の「4.瀋陽城市城壁と城門」に紹介を書いておられる。

(http://www.geocities.jp/mmkato75/shenyang4.html 前の物で既に消去されている)


 今、韓国料理屋の横手の露地を入って階段を上ったところから左下手にわずかに俯瞰できたのは、加藤先生が自分で発見したこの城壁の10メートルくらいの基礎部分なのだ。しかしその北側には直ぐこれに接して建物が建っているので近づくことができない。


 それで大回りをして南側に廻るとそこには屑やさんがあった。加藤先生がそこの人に店の裏に通して貰うよう頼んで、ゴミを掻き分けながら奥に廻ると、2メートル位の高さで煉瓦と石の城壁のでこぼこの基礎部分の一部が目の前に続いていた。

 幻の瀋陽城城壁の一部を始めて目にしたのだ。しかも、これを目にした人はほとんどいないはずだ。これを訪ね当てた加藤先生の案内なしにはとても見つかるところではない。先ほどから悩まされていた空腹感も忘れて、興奮に暫しそこに佇んでいたのだった。


 そのあと私たちが昼ご飯を食べるために目指したのは、正陽街に面した馬焼麦という名の1796年開店のイスラム料理店の老舗だった。瀋陽のどんなガイドブックにも載っている有名店 だけど、私たちも加藤先生もまだ来たことはなかった。1時過ぎなのにひどく混んでいて、1階、2階の大部屋を素通りして幸いなことに包房(小部屋)まで案 内され、おそらくとっておきの豪華なテーブルに導かれた。焼麦は焼売と本質的に同じ感じで、この店では中の餡が二十種類くらい選べる。私たちは羊肉、牛 肉、そして三鮮を選んだ。三鮮はニラ、卵、エビである。それぞれ二両(百グラム)を注文した。このほかにおかず三品を取った。さすがに評判の高い店で、塩辛くなく味がよく、私たちは大いに満足した。これにビールを2本取って、勘定は115元だった。この味でこの値段なら全く文句はない。


 昼食を堪能してまた細い路地を歩くと、煉瓦造りの高さの低い長屋が両側に続く。道は狭い。その長屋の壁には、明らかに城壁の煉瓦を利用したと思われる黒い大型の煉瓦や石が組み込ま れているのを見ることができた。今の時代の私たちは、「なんてことを」と思うが、当時としては不要になったものを再利用するのは当然のことだろう。


 さらに歩いて、広い道に出た。この道は北順城路と呼ばれていて、瀋陽城の北側を巡る道路である。この道に沿って歩くと、先ほど見た城壁の基礎部分のあった場所よりも少し東側で、「ここにも城壁の一部が見つかったのです」とのことだった。城壁のための盛り土で高くなった段と城壁の一部を利用してバラックが建っていたが、これらは昨年末の瀋陽市の城壁公園計画に基づいた立ち退き命令により、あっという間に取り壊されたそうである。しかし、それから5ヶ月たった。家の取り壊された後の廃墟はそのままになっていて、家造りに利用されていた城壁の黒い煉瓦は今ではほとんど残っていないほど、持ち去られてしまったらしい。「城壁で名高い石や 煉瓦があるそうだから記念に持って行こう」というのか、「使えるものなら何でも手に入れよう」というのか。ま、両方だろう。


 この後私たちは中街の西北の一帯の道の両側に布を並べている路上の骨董市に案内された。ここも、古本を置いている店、置物の店、壊れた楽器を並べている店、貨幣の店、鍵の店、小石を置いている店、篆刻の店、玉飾りを置いている店、そのほか有りとあらゆる思いつく物は何でも商品になるという感じで並べられている。その中で私の目指し たのは、石である。石といっても判子の彫れる石で、加藤先生から、1〜2元で売っている石に自分で篆刻が出来ると言うことを聞いて是非やってみたい、それにはまず石を手に入れなくてはということになったのである。


 石といっても堅くはなく、 柔らかくて刃物で削れる石だそうだ。コンクリート色の石ではなくて、玉の親戚みたいな少し透明の様々な色あいで、色模様の混ざり具合がまた様々で楽しい。例を挙げると、ちょうど3センチくらいの径で高さ5センチくらいの手にすっぽりと握れるくらいの石である。その下面は平らに磨ってあってここにナイフで刻 むのだという。


 しゃがみ込んで石を選ぶと、どれも表情があってその微妙な違いがどれも気に入ってしまってなかなか決め難い。やっと8個選んで買おうとしたら、加藤先生に「またここに来ると、また違う感じの石があるから、今日は5個くらいにしたら」と言われて、5個で10元を支払った。すごく安く貴重な宝石を手に入れた気分である。立ち上がって みると、貞子と文子さんがいない。この道端の古物市のそばに、これまたビルに入った骨董店があって、加藤先生によると、彼女たちはこの中に店を持つ加藤先生のなじみの店に行っているという。


 探して行って見ると、店主はかなりの彫刻の匠のようである。店で見本を見せられてすっかり気に入って、貞子は猪を彫って貰うように加藤先生抜きで文子さんの助けを借りて交渉をしたところだったという。加藤先生の中国語の仲介なしで話が成立したので、二人とも興奮している。


 これで夕方の4時になって、この日の瀋陽探訪はこれでお終いとなった。加藤先生に案内されて過ごした充実した一日だった。貞子は骨董市で加藤先生の知人に紹介されても挨拶以上のことは言えないし、ものを買おうと思っても言いたいことの百分の一も言えない状態に一念発起したらしい。翌日は研究室で学生の胡丹くんを捕まえて久しぶり に中国語で話し始めた。胡丹くんも以前は「破門ですよ」と言ってはいたけれど、中国語で話しかけられて機嫌の悪いはずがない。たちまち二人で意気投合して中国語が熱く交わされていた。賑やか過ぎるけれど、まだ休みなんだから、ま、いいか。



2005/06/03 09:11

4、友人を瀋陽に迎えて その1

山形達也(瀋陽薬科大学)


 今週前半の火曜日、友人が二人瀋陽に訪ねてきた。一人は修士時代の研究を私が指導したので、私の教え子と言ってもよい大貫洋二さんで、今はバイオ関係の会社の中堅である。もう一人の小川博さんは、最初に出会ったとき私は大学にいて彼はバイオ関係の会社員だった。小川さんの会社が新しく扱おうとしている商品の市場性、将来性について質問されたのが最初で、それ以来妙にウマがあって、いつの間にか友だちになっていた。


 小川さんは化学の出身で大学院の修士も終了している。もし続けていれば研究者になったに違いない緻密な頭脳を持っているけれど、彼の日常やりたいことは音楽なのだ。空いている時間は、バイオリンを弾き、リコーダーを奏で、歌を歌い、オペラに出演しているか、音楽仲間とビールを飲んでいる。ただし、仕事はプロそのもので、それ故に私の尊敬する友人の一人なのだ。自由になる時間を増やすために、今は自分の会社を持ち、言ってみればバイオのフリーターとして働いている。


 この小川さんと一緒に訪ねてくる大貫さんを指導したのは15年前だった。学生のときから妙に老成した雰囲気を漂わせている人で、会社に入ったときも全く新人らしい様子はなく、周囲の様子がまだ全く分からないのにずけずけと思ったことを会社の偉い人たちに提言してのけたと聞いている。大貫さんとは彼の卒業後もバイオの研究会や学会でよく顔を合わせたが、実は彼は大の音楽好きである。小川さんは毎年1回府中芸術の森劇場でオペラにでて歌っているが、数年前から大貫さんがそれを観に行く常連に仲間入りするようになってからは、新橋のアルテリーベでも互いによく顔を合わせるようになった。

 この新橋のアルテリーベは、毎夕歌い手が生で出演する音楽レストランで、ビヤレストランといった方がよいかも知れない。瀋陽に来る前は、小川さんに会うというと何時も場所はアルテリーベだった。当然、この二人はビールが大好きで、昨年の夏会ったときもビールを飲めなくなっている私を前に、このアルテリーベで気持ちよく飲んで歌っていた。


 この私の友人ふたりが東京から瀋陽5日間の予定で遊びにきた。目的は、餃子を食べて地ビールをたらふく飲んで、どんな音楽会があるか覗いてみて、瀋陽の名所旧跡も廻って、ついでに私のいる薬科大学にも寄ってみようか、と言うものらしい。


 瀋陽にはサッポロビールの名残の雪花ビールがあるけれど、この生ビールが何処で飲めるか分からないので、「瀋陽日本人教師の会」の先生たちにメイルで質問をした。さらには瀋陽では音楽会は何処でやっていますか、何処でその情報が入りますかということも尋ねた。


 すると、雪花の生ビールは夏になるとあちこちの路上レストランで飲めること、しかし雪花ビール専門のビヤホールはないこと、それ以外の店で作っている地ビールが飲めるレストラン情報など、次々と先生たちからの情報が届いた。音楽会情報は○○新聞を買えば載っていること、大劇場に行けば窓口に公演予定が張ってあることも教わった。加藤先生はわざわざ大劇場に行って窓口の情報を持ってきて下さった。ありがたいことである。しかし、雑伎団は常設ではやっていないし、週日に音楽会もない。この瀋陽は未だ文化都市とは言えないらしい。


 友人二人は午後3時半に空港に到着してホテルまでリムジンで運んで貰えるという。それでその日は5時にホテルに迎えに行って、そのあと大学に連れてきて研究室挙げての歓迎会をすることになった。研究室のパーティは時々やっているけれど、今年は卒業研究生が全員男子と言うこともあって、彼らが配属されてから1回しか開かなかった。おまけに4月に入ってからは反日デモに端を発する硬い世情が研究室でパーティをする雰囲気を許さなかった。


 その期間、薬科大学の中で何が起きたと言うこともないけれど、研究室の学生は日本人の私たちとは「距離を置きたい」という感じであった。4月10日、17日と瀋陽では初めてこの手の街頭デモがあったが、4月19日に中国政府の李外相が共産党の幹部を一堂に集めて「反日デモの猖獗は中国の国益に反するから鎮めるように」という演説をした翌朝になってやっと、彼らの態度が元に戻ったのだった。

 

 

付録

 今回友人を瀋陽に迎えて案内するのに当たって、瀋陽に来て知り合った教師の会の先生がたにいろいろと情報をいただいて大いに助かった。生ビールが何処で飲めるかとか、音楽会情報はどうやって得たらよいか、さらにはどこそこのレストランが美味しいなどの貴重な情報だった。なかでも加藤先生は何か見に行ける催し物がないかとあちこち調べて、雑伎団があること、そしてその切符の手配までして下さった。


 雑伎団の最初公告されていた予定公演日は火曜日だったが、実際には切符は売り出されていなかった。しかし公演行われることになって、それは木曜日にあることになったという。


 それなら行けるというので切符をお願いしたら、いや、一日延びて金曜日になったということだった。最後の晩だけれど是非行きたいとお願いしたら、前の日になってそれが再三延期されて土曜日になった。二人は土曜日の朝瀋陽を発つのでこれでは無理である。予定がくるくる変わるのは中国式なのだと思うしかなかった。


 あとで加藤先生に聞くと、丁度24日〜28日に「2005年瀋陽中日経済交流活動」週間が瀋陽市と日本総領事館との主催で開かれたので、雑伎団公演はこれを睨んで最も都合のよい日に変えられたのではないかとのことだった。    偉い人の都合に合わせるために何ごとも間際まで決まらないのは、大学の会議でもうなじみになっている。


 それにしても、間に入って加藤先生、いろいろありがとうございました。沢山の貴重な情報を下さった先生がた、どうもありがとうございました。おかげさまで、二人はもちろん、私までたっぷりと瀋陽を楽しむことができました。



2005/07/07 22:00

5、中国の精進料理

山形達也(瀋陽薬科大学)


 先日薬科大学の日本人の教師たちが集まって一緒に食事をした。集まりの名前は特別についてないけれど、薬科大学の職員として在籍している日本人の親睦の会である。


 薬科大学では長い間、日語コースのある薬学と中薬で3年生になったときに日本語を1年間みっちり教え込むというスタイルを続けていた。薬学に2クラス、中薬に1クラスあるので、日本語の先生は3人で良かった。1週30時間のうち日本語が24時間。日本人教師はこの中の日本語会話を12時間受け持っている。しかし、昨年秋からは日語コースでは1年の初めから日本語を勉強し始めるというやり方に変えた。それで昨年秋からは6人の教師が必要になって倍増したのである。ただしこの態勢は2年間続けばよく、それからはまた3人で十分という態勢に戻るはずだ。


 そんなわけで私がここに来た時は、日本人の先生たちが特に集まることもなかったけれど、昨年からは、私たちや隣の部屋の池島教授も加えて、合計10名の大所帯の親睦会が定期的に開かれるようになった。今回は今期一杯で薬科大学を辞めて日本に戻る先生が一人あったので、その送別会として計画された。


 今回の幹事は池島先生だった。彼は中国が大好きで1996年に日本の職をなげうって長春医科大学に来て以来、中国で研究・教育に従事している。中国語を英語並みに自由に話して理解できる人だ。瀋陽に移って以来すでに3年半経ち、まるで瀋陽育ちのようにこの地に詳しい。市の中心近くに般若寺、大仏寺、慈恩寺などの仏教の寺の集まった一画があって、「そこには精進料理を食べさせる店があります。珍しいですよ。今度はここでやりましょう。」ということになった。お寺には精進料理が付きもので、京都を巡れば珍しくも何ともないけれど、中国では私たちの誰もが初めて味わう料理である。


 今学期で日本に戻る予定の沢野先生は、数日前に急病になり運び込まれた救急外来で手術が必要と言われて、どうせそう言うことならと、辞任を早めてその翌日には急遽日本に戻ってしまった。それで、送別会の名目はなくなってしまったけれど、良くしたもので、2年前に薬科大学で日本語の先生だった二人の先生が、彼らの受け持った学生が卒業するのに合わせて薬科大学を訪ねて来ていた。というわけで11人が素菜の店に集まったのである。


 お寺のある一画と公園を隔てて向かい合っているので、立地はとても良いレストランである。「素菜を食べると健康によい」という意味の対聯が入り口の両側を飾っている。広々とした1 階にはお坊さんを中心に人々が並んで撮った写真があちこちに飾ってあったが、1階にお客は一組だけで静かだった。2階の個室に案内されたあとで加藤先生が服務員に聞くと、人々は昼間にお寺に参詣するので、この店が混むのは昼時なのだそうだ。


 池島先生が服務員とやりとりしながらメニューを選び、雪花ビールを取ってまずは乾杯。運ばれてきた精進料理は、豆腐や野菜をふんだんに使ってというたぐいのものではなく、魚やエビ、肉などの形に作ってあるのが珍しい。炒飯に入っているハム、小エビ、玉子まで、別の素材で作ったそっくりさんなのだ。


 中国料理の魚というと大きな魚を蒸すか、煮た上で、さらにそれを調理する。中国料理で魚がでると目の前の大皿から箸で魚の身をむしり取ることになるが、この餡かけの魚も「箸応え」は本物の魚そっくりだった。魚の身の流れの方向に毟らないと「肉が取りにくい」ようになっているし、皮もついている風だし、よくぞここまでと思うほど、似せて作っている。そして味はというと、一寸干した魚みたいで、それでも魚みたいな噛み応えのある味である。池島先生によると、「小麦粉、そば粉、大豆の粉、豆腐などでこのような肉は作ります。魚の皮は海苔ですよ。」ということだった。大皿の魚には頭としっぽもついている。池島先生は、本物と違って「この頭としっぽは全部食べられるから、簡単でいいですよ。」と言いながらかぶりついていた。本物に似せてはいるけれど、骨まではついていないのだ。


 エビが皿に綺麗に並んでいる。殻を剥いて背わたを取ってという格好で、背中の切り込みまでついている。味はともかく噛んだ感じの歯ごたえはエビといってよい。よくここまで本物そっくりに再現できるよう料理人は「精進」したものだ。魚やエビは分かり易いけれど、きのこなどの炒め物に入っている平たいものは口に入れて、「これは何だろう。」と皆で判じ物に頭をひねる。「これ、アワビのつもりかな、日本でも『がんもどき』って言うから『あわびもどき』があってもいいんじゃない?」と言う 意見が出た。これは豆腐が原料みたいだ。料理が運ばれてくるたびに、中身は何に似せて作ったのか、そしてその原料は何なのかと、皆が意見を言い合って賑やかに楽しんだ。


 「それにしても面白いですね。こうまでして魚やエビを食べた気になりたいのでしょうかねぇ。殺生を禁じて肉を食べないことはわかるけど、その形に似せてまで食べたいというのは、とてもいじましい努力ですよね。それこそ煩悩というのじゃないですかね。坊主がこんな煩悩を持っていて、しかも煩悩を持っていることをあからさまに出して、いいんでしょうかねぇ。」と言いながら、池島先生は料理を食べ、一方で、何しろ無類の酒好きだから、これも食べるよりも飲む方が好きという峰村先生や南本先生たちと白酒を飲み続けている。アルコール度が52度という白酒の、もう二本目なのだ。

考えてみると私たちは煩悩だらけだが、好きなものを食べて、好きなことが出来て、ありがたいことだ。お寺にあやかった中国の精進料理を食べながら、改めて俗人・凡人である幸せを噛みしめた。


 二年前ここにいて、今回の卒業式だけに参加したと思っていた二人の先生は、一人は日本語教師として、そして一人は薬学専門語用語を教える講義を受け持つことで、この8月末から私たちの仲間になることになった。つまり次回の顔ぶれは今日と同じだ。次回の幹事は私である。

 

 



2005/07/11 14:34

6、思い切って竹板を買った日

山形達也(瀋陽薬科大学)


 日曜日の朝、薬科大学の加藤先生から電話で、昼頃大西門の青空市場に行きませんかと誘いがあった。「今日そちらの都合が良ければ、一緒に出掛けて、判子を頼むのに付き合いますよ。私は今から、いつものように三好街の市場を見に行って来ますから、11時にこの間のバス停で会いましょうか?」とのことだった。


 これはその数日前の日本人の先生の集まりの時に、妻の貞子が加藤先生に「何時かご都合良いときにお願いしますね。」と頼んだ返事である。彼女は大西門の市場に以前加藤先生に連れられて行って、顔の広い加藤先生に店を紹介されて一度判を彫って貰っていた。また今度もそこに連れて行って戴こうというわけだ。


 今回は私も一緒に、212番バスに15分位乗って大西門で降りた。大西門は故宮のある大通りの西の端で、加藤先生によると昔は瀋陽城の西門としてここに立派な門が築かれていたとのことだ。中華人民共和国成立後にこれらの城壁・城門はすべて壊されてしまった。その後一部復元された時に、この大西門も復元されている。門の上に望楼が乗った大きな建物だが、コンクリートで作られた表面に石垣が描いているのが見え見えで、芝居の書き割りのように安っぽいのが何とも残念である。あと四百年経つと、今の故宮位寂びてくる。

 この通りは故宮の前を通る大きな路だが、北に平行に走る中街に抜ける細い露地がある。ここが土日の週末に路上市で賑わう場所で、加藤先生は毎週の週末には毎日、そして週日の午後も時々ここを訪れては、教科書や本の出物を漁っている。路地に入ると両側に店が出ている。地面にござや布を広げた店がほとんどで、古本、教科書、判子の道 具、古いペンダント、飾りなど様々なものが売られていた。左手のちいさな屋台は判子を彫る若い人で、加藤先生はここに寄って「出来てる?」と自分の注文を 確かめていた。


 「もうあと1字。」という返事を聞いて「じゃこの辺を廻って後1時間くらいしたら寄るからね。」と言うことで、路上の店を覗きながら先に進んだ。


 大きな建物の入り口近くでは判子の素材を売っている店が多く、綺麗な角形に切った石を並べているほかに、様々な石を置いている。地面のござの端の方には一つ1〜2元の石がよりどりみどりで置いてある。「一ついくら?」「5元。」と返事が返って来て探す意欲が萎えたけれど、加藤先生が交渉して「5つ以上買ったら、一つ1元。」という値段になった。加藤先生抜きではたちまち足元を見られてしまう。

 どれも石の模様が実によい。判に彫らなくても眺めているだけで楽しめる。選んでいる間に加藤先生は今日の目的の判を彫る店を見てきて、今日は店を開けていないけれど、この後ほかのところを覗きましょうかと言うことになった。この店のおじさんには6個の石を選び、隣のお兄さんのござでは3個の石を選んだ。9個で9元。ずっしりと重く、鞄のひもが左肩に食い込む。


 古物商の集まっている大きなビルの二階に行くと、加藤先生はあちこちから声を掛けられて挨拶しながら通り過ぎた。廊下で縁台将棋みたいにして座り込んでいる人たちもいる。この中の一人も顔見知りと見えて挨拶を交わして通り過ぎたけれど、後ろから大きな声で呼び止められて、その人の店に連れ戻された。


 店の奥に入って店の主人と何やらを覗き込んでいる。店先の中華民国時代の教員免状などを眺めていたら、加藤先生に呼ばれた。ホウロウ製の昔の店の看板風で日本のカタカナが横に書いてある。「これなんでしょうね。右から読んでフクスケストシフ?それとも左から読んでフシトスケスクフ?」

言われて覗き込んだが意味不明。でも昔のことだから右から読むに決まっている。「あ、そうか。ストシフはストーブだ。ブの点々が横棒の上に来て、しかも看板としてデフォルメされているから分かり難かったのだ。」と、謎解きが出来て、加藤先生もホッとしている。この店の人が古物として仕入れたけれど、よく分からないというので訊かれていたわけだ。こんなものも売り物になると言うのが驚きである。


 そこを出てその先は、以前も連れてこられたところで、加藤先生とは親しい友達のようだ。店には古い額、ポスター、絵巻、飾りの玉、ペンダントなど、ところ狭しと飾ってある。店の主人の王さんは、「今日はちょうど良い、二胡の弾ける人が来ているからね、彼が二胡を弾いてくれるよ。」と言って、店でおしゃべりをしていた中年の男の人に、上に張り巡らせた紐に引っかけてある楽器を外して渡した。彼は椅子に座って、中国民謡を聴かせてくれた。狭い店に朗々と、そして嫋々と、二胡の音が響く。王さんによると、彼は腕はよいけれど楽器が悪いのだそうである。店の売り物なのに自分で悪口を言っている。二胡の演奏を聴きながら引っかけてある二胡を見ていたが、同じところで引っかかっているはずなのに、縦にぶら下がった二胡の長さがまちまちである。へえー、そんなものかなあと感心した。

 その横に掛かっている竹製のカスタネットみたいなものを取って、王さんが鳴らし出した。右と左と構造が違う竹製の楽器で、聞くと竹板と言うそうである。右と左で音が違うから綺麗にリズムが刻める。二胡のおじさんが帰ってしまうと、今度は左手の竹板で馬のひずめの音、パッカ、パッカと言う音を出し始めた。次には少し急調のパカポコ、パカポコ、とも鳴らすし、パカッ、パカッと言う音も左手のひねり一つで出すのだ。右手の竹板では、パカッ、パカッと言う乾いた音と、止まり掛けの少し落ち着いたパッカ、パッカと言う音も出している。王さんは昔は体育の教師だったという。竹板の演奏がとても鮮やかである。


 こういうのを、黙って見たり、聴いたりしている手はない。思わず手が出て、王さんに手を添えられて、持ち方、打ち方を教わり、手首を激しくひねってみる。わーお。パカパンと音が出た。馬の蹄の立てる音には似ても似つかないが、出だしは上場である。横で主人が「天才だ。」と言っている。王さんの奥さんに注いで貰ったお茶を飲みながら、加藤先生もにやにやして「天才だってねえ。」と言っている。


 こういう店を何時も加藤先生に連れられて廻っているだけでは芸がない。この際買ってみるか?それで、「いくら?」と聞いた。80元。うーん、ちょっと高いねえと胸算用をする。すると、すぐに「だけど、友達だから50元にしよう。」と王さんはかぶせてきた。こりゃ、ここの主人の王さんとこの先近づきになるかどうかの分かれ道だ。おまけに加藤先生のメンツを立てるかどうかも懸かっている。つまり私が男かどうかも懸かっている。男は決断。迷うことはない。よし買った。と言うわけで、左右で1対の竹板打楽器を買ってしまった。


 さあ、この日から、夜中にうちのアパートは近所に負けない音を出すことになった。毎日1ヶ月練習すれば出来るようになりますよと王さんは言っていたが、1週間経っても、カチャカチャ言うだけで、まだ全く進歩がない。幻の天才だったらしい。「天才だってねえ。」と言ってにやにやしている加藤先生の姿が目に浮かぶ。

 





2005/08/21 04:55

7、60年前の歴史に触れた日

山形達也(瀋陽薬科大学)


 私たちが昨年末の一日を日本人教師の会で知り合った中道夫妻と過ごした瀋陽の州際飯店は、南京北街という大きな通りを挟んで、中国医科大学と向かい合っている。この大学は日本が最初に大陸経営に乗り出した母体となった満州鉄道株式会社の満鉄病院として1911年に建設され、その後満州医科大学となったのだった。今は中国医科大学という名であるが、前身は満州医科大学、さらには満鉄病院として日本が作ったものである。


 しかし、新中国の歴史の中では消されている。ついでに言うと、瀋陽薬科大学は満州医科大学の一部として始まったけれど、今の大学の歴史では消されていて、そのことを目にすることはない。


 この大学の構内にあるマン ホールの幾つかに満鉄のマークの入った鉄の蓋が使われているということで、初夏の一日、加藤先生にそれを見てくださいと言うことで誘われたのだった。構内の北の方を歩くと、蓋の幾つかにMの字とレールの断面を組み合わせたマークが鮮やかに浮き出ていた。戦後60年、歴史の足音に耐えてまだ秘かにここにマークが残っている。


 大学の通用門をでると、目の前は南京北街で、向かいには1〜2階建ての洋風の古い建物が見える。姿形は、以前加藤先生の瀋陽フィールドワークと題して数週間前に瀋陽歴史散歩の会が開かれたときに見た、昔の日本人の住宅と似ている。「きっとそうですよ。行ってみましょうよ。」と私たちは加藤先生と声を掛け合い、広い路を横切って向こうに渡った。


 この瀋陽フィールドワークは中辻恵美先生が企画したもので、歴史に興味を持って毎週末瀋陽中を歩き回っている加藤先生を師として招いて、瀋陽の歴史を勉強しようというものだった。 何も知らずに歩いていれば、ただの異国の街だけれど、歴史を知って歩けば、初めての瀋陽にも愛着が出るというものだ。折角一年、二年と住む街だから、愛することなく見過ごしたら、あたら無駄な時間を過ごすことになりもったいない。

 瀋陽の街をそうやって歩いたのはただの一回だけれど、この住宅の一画に来ると、ぴんと来た。これは明らかにほかとは違う。石塀に囲まれた一画の住宅の中で、最初の広壮な建物の門の内側には松が生えていて、門は冠木門だ。間違いなく日本人住宅だったと思える。その先の並びにも1階建てだけれど、屋根の勾配のきついしゃれた住宅が建ち並んでいる。私たち三人は右手の住宅に目をやりながらその路をゆっくりと歩いた。


 路に椅子を出して座っている人たちがここにもいる。加藤先生はこの人たちに声を掛けた。「私たちは日本人だけれど、あそこのうちは昔日本人の住宅だったのでしょうか?」と言うことらしい。すると白いTシャツ姿の笠智衆を思い起こさせる品の良いおじさんが、なんと日本語を交えて返事し始めたのだ。ごく断片な日本語だったけれど、それでも昔ここに日本の医者が住んでいたことが分かった。それと、もうすぐ工事をしてこの住宅一帯を取り壊してしまうことも。


 「学校の修学旅行は日本で、船に乗って日本に行って、厳島、京都、奈良など見ました。」とのことだ。こんな話をしているうちに周りに人はどんどん増えて15人くらいになっただろうか、皆ニコニコしている。集まった人たちはだれもが人なつっこく話しかけてくる、私も除外してくれない。知っている単語を総動員するけれど相手の言うこ とが分からなくてじれったい。


 ふと気付くと貞子がいない。おばあさんがいない。きっと近くなのでおばあさんのうちに誘われたのだろうと、左手のうちを一つずつ覗いて歩くと二軒目で声が聞こえた。声を掛けた上で玄関扉の布をめくると、そこは6畳間くらいの部屋で、住宅の外壁を利用して増築された部屋のように見える。中にはおじいさんと子供たち夫婦と思える年輩 の二人がいて、しきりに中に入るように、招じられた。おばあさんは苑さんと言う名前だった。連れ合いの遅さんは一つ上の87歳で、やはり日本人の学校を出て大連で日本の会社の森永に勤めていたそうだ。


 私たちが「森永」と聞いてもぴんと来ないでいるのがわかって、「ビスケットやチョコレートの森永ですよ。」と奥さんの苑さんが説明を入れてくれた。「あ、あのキャラメルの森永・・・。」と、今更ながら昔からここにもその味があったことを認識した。


 遅さんは「もうずいぶん長いこと日本語を話していないから、上手くは話せませんです。」と言いつつ、戦前の日本人が威張っていた時代で、日本人と中国人の間には厳然とした階級差があったけれど、陳さんは会社では会計課にいて、ずいぶん仕事が出来たという話を日本語でしてくれた。戦後は中国の工場で簿記が出来ることでかなり地位が高くなったらしい。しかし文革では昔日本人の企業にいたと言うだけで、三角帽子をかぶらされて総括を迫られたという痛ましい話だった。その後は通訳業に転じたという。息子夫妻と思ったのは、兄と妹の二人の子供たちだった。品の良い人たちで、私たちを捜して後から入ってきた加藤先生と話が弾み、話が尽きない。


 60年前、日本人と深く、ポジティブに関わり合った人たちに私は瀋陽の街で初めてこのようにして出合った。まだ会ったことはないけれど、日本人からひどい目にあった人たちも、同じように現存しているのだ。戦後60年が経った今、日中の関係を考えるときに、歴史の中にまだ風化していないこの人たちの視点があることを決して忘れてはいけないことを思った一日だった。

 

 

2005/08/30 06:50

8、なに何もない

山形達也(瀋陽薬科大学)


 私たちが瀋陽に戻った翌日の金曜日に、瀋陽薬科大学の日本語教師である加藤先生も関西から戻ってこられた。今回は文子夫人も一緒だった。彼女は日本の衆議院総選挙があるので、その投票に間に合うよう瀋陽には2週間の滞在である。日曜日の今日、何時ものように瀋陽の街を一緒に見に行こうと誘われた。


 朝9時にアパートの下のバス停で待ち合わせて、中街のある大西門まで212路バスに乗った。久しぶりの瀋陽の街がだいぶ綺麗になっている。路に沿って街路樹が急に増えている。薬科大学も高さが2メートルある無愛想な石と煉瓦の塀を壊して、軽やかな鋳鉄製のフェンスに換えている。塀と歩道の間には、もうこの春に楊を二列に植えてある。商店街の看板も綺麗に取り替えているところが多い。


 胡丹くんに先日聞いたところによると、来年のガーデニング博覧会が瀋陽で開かれるのに合わせて街を綺麗にしているのだという。商店街の新しく取り替える看板も、まず市の担当者に見せてデザインが承認されないといけないそうだ。といっても、看板を綺麗に作り替える費用は、瀋陽市ではなく個人持ちなのだという。どの店も数百から数千元の出費だ。


 中街の路上市も、加藤先生に連れられて来るのがこれで数回目なので、置いてある品物が少しは目に留まるようになってきた。今までは、どれもそこに置いてあるものが珍しくふわふわと目移りがしていた。たとえば、掌中に入る気付け薬入れに様々の素材があり、飾りや絵の題材にも様々なものがあることが分かってきた。


 古本も、これまでは「唐詩選」や「紅楼夢」みたいな知っている名前しか目に入らなかったけれど、今ではかなりの題名が目に飛び込んでくる。印鑑用の石も高価なものから1元で買える石まで沢山あるけれど、目利きということはないにしても、一つ1元の石の中から気に入ったものを至極簡単に選び出すことが出来るようになってきた。


 やがて古物商の入った大きな古物会館に着いてその二階に行ったのは、二ヶ月前に買った竹板を持ってきたからである。1ヶ月で出来るようになるとのことだったけれど、いくら練習してもその時聴いた音にはならない。根本的に扱い方が間違っているのではないかと思って、店の主人の王さんに再度習おうと思ったのだった。


 竹板を出して左手に付けて手を振ってみる。バシャ。王さんは「上手くないというのでなくて、それは違う。」と首を振って、竹板を私の手から取って自分の左手に付け、パカポコ、パカポコ、そして次にはパカッ、パカッ、パカッ、とやって見せてくれる。手の動きが速すぎてよく分からない。「ゆっくりやって下さいな。」すると、ゆっくりと 一回だけ、パカポコ。

 このやりとりと何度もやっていると、一緒に来た加藤夫人の文子さんが可愛い声で「私もやってみたい。」


 それで王さんが壁から外してきた別の竹板を左手に装着して、手を振ると、パカポンと音が出た。「すごい。最初の一振りで音が出るなんてすごい、天才だ。」と王さんはじめ賞賛がいっぺんに文子さんに集まった。私は王さんのように鳴らしたくて左手を振っているけれど、ちっとも王さんの音にならない。加藤先生も、見ているうちにやってみたくなって「貸してご覧よ。」と文子さんから奪い取って、「ほら。」と王さんに向けてやったけれど竹板はゆらゆら振れているだけで音が出ない。妻の貞子は右手用の竹板でパカポンと鳴らそうとしている。


 王さんは連続してならさなくて良いから、「一回だけ鳴らしなさい。手の緊張を取って、手を洗ったあと水を手から払い去るように降ってご覧。」と何度も教えてくれる。パカポコ、パシャ、カシャ、フチャ、の音を聴きながら、結局、文子さんがA、私がB、貞子がC、加藤先生がDと成績が付けられてしまった。褒められたからでもないだろうが、文子さんは「私もこれが欲しい。」ということになって彼女も竹板を手に入れた。


 「再見。」「また教わりに来ますね。」ということで店を後にしたけれど、文子さんは竹板を鞄に入れずに左手に付けて、音を出しながら歩いている。とても気に入ったみたいだ。自分に素直に振る舞える文子さんはもう大事な友人の一人だ。竹板の仲間となったことも嬉しい。


 満州時代の絵はがきを中心に置いている店に寄ったりしているうちに昼になった。中街の馬焼麦の店に行って美味しく昼食を食べた後、私たちが目指したのは、中国医科大学近くの旧日本人街に住んでいる遅さん、苑さん夫妻の住居だった。二ヶ月前に思いがけず出合った87歳と86歳 の二人は、旧満州国時代に日本語教育を受け、その後数奇な人生をたどった人たちだ。今日の目的は再度会って昔の話をもっと聴きたいというのがひとつ。もう 一つは、遅さんは戦前の大連にあった森永製菓に勤めたと聞いている。それで懐かしいかも知れないと思って、日本で現在の森永のキャラメル、チョコレート、ビスケット、ココアなどを幾つか買い求めてきたのだった。

 森永製菓の製品を知るためにインターネットで調べたときに、ついでに森永の社史も見たけれど、当時の満州国にも会社があって森永製品を販売したとは書いてなかった。遅さん、苑さんの時代が終わってしまえば、森永の人たちも知らない歴史が消えてしまうことになる。これも歴史に残らずに消えていくことのひとつなのだ。


 中街から満員のバスに乗った。「財布に注意してね。」と加藤先生にささやかれたけれど、混んだバスが揺れてバランスを失って私が押してしまった若い男が自分の尻のポケットをしきりに、まさぐって財布を確認しているのには思わず一人で笑ってしまった。この満員バスは街が大混雑で、着くのに相当時間がかかった。瀋陽も、クルマが増えて交通渋滞は日常的である。

 バスを降りて目的の住宅街を目指して歩く。あの当たりだというところに近づいても家がない。ない。何もない。代わりに片づけられた瓦礫の間に見越しの松が二本ぽつんと残っているだけだ。


 なんと、二ヶ月の間にこの一画の住宅が全部取り壊されてしまったのだ。そういえば、前回ここに来たとき、ここはいずれ取り壊されると聞いたけれど、まさかと信じられなかった。遅さん、苑さんはどうしたろう。そして、あのとき私たちを取り囲んでニコニコと話しかけてきた近所の人たちの生活はどうなっただろう。私たちは突然開けた空間の向こうに聳え立つ州際飯店を見ながら、しばらく呆然と佇んでいた。

 

2005/09/05 12:13

9、結婚60周年を迎える遅・苑夫妻

山形達也(瀋陽薬科大学)

 

 先週日曜日に訪ねたところ、遅・苑夫妻の家を含めてその一画の住宅は全部取り払われていて、加藤夫妻と私たち四人は廃墟にしばし呆然と佇んだことをすでに書いた。


 幸い翌日、胡丹くんに電話を掛けて貰って連絡が付いた。最初はことの顛末が飲み込めなかった陳さんは、二ヶ月前に訪ねた私たちが会いたがっていることを理解すると、自分で私たちの薬科大学に出向くという。でも、87歳と86歳のお二人である。とんでもない、直ぐには訪ねて行けないけれど、次の日曜日午後2時に私たちが引っ越し先を訪ねますということになった。南湖公園の近くということなので公園西門で電話を入れる約束をした。


 土曜日朝7時半、研究室に着いたばかりの私たちに加藤先生から電話があった。「今、遅さんから電話があってね。今日訪ねていらっしゃいというのですよ。でも、今日の土曜日は先生たちの都合が悪いはずだから、やはり明日の午後行くと言ったのですよ。そしたら餃子をこしらえて待っていますって。」

 日曜日の朝9時過ぎにはうちの電話が鳴った。電話は遅さんで、電話にでた貞子にきちんとした日本語で、「今日は会えるのですね。何時ですか?」といった。


 「今日午後、加藤先生ご夫妻と私たち4人で、午後2時頃伺います。」と何度も日本語で、やがては中国語混じりで繰り返して、やっと「今天下午二点。」と分かって貰った。「それでは南湖公園西門まで来て下さいね。」ということだった。電話を置くとまたすぐ「豚饅頭を作って待っていますからね。」という電話が掛かってきた。先週月曜日 に連絡がとれて以来、遅さんと苑さんたちは一日千秋の想いで、私たちのことを待ち望んでいるに違いないと思う。胸がキュンとする。


 日曜日の午後一時半に大学近くのバス停で加藤先生夫妻と待ち合わせ、バスで文化路を西に行き南湖公園の一つ先の方型広場で降りた。南湖公園の西門まで1kmくらいを歩いて、遅さん宅に電話すると先日会った長男の遅さんと、後で分かったけれど次女の大学生の息子である王くんが西門まで迎えに来てくれた。ややこしい路を10分くらい歩いて中興街のアパートの一画の一階にあるうちまで案内された。玄関の外には、次女が出ていて、玄関には長女と息子が立っていて、そして遅さんと苑さんが中にどうぞと私たちを迎えて歓迎をしてくれた。しばらくは互いに興奮して互いに何を言ったのかよく分からなかったけれど、結局、あの中国医科大学の近くの二人の住んでいた住居は市街再開発のために壊されて、住民はちりぢりになったという。


 市当局は、どこかに家族のいる人たちにはそこに行きなさいということで数万元を渡し、一方、身寄りのない人には移るところを世話したらしい。ともかく、もうその生活に戻ることはなく、それまでの平和な隣近所の連帯は一切それで終わってしまったわけである。

 遅さん苑さんは6人の子持ちで、子供の一人のうちに引き取られたということらしい。子供たちのうち4人は近くに住んでいるとのことで、毎日誰かが来て世話をしてくれるとのことだった。


 遅さんは今日はシャツにズボンを穿いてきちんとした身なりである。奥さんの苑さんもねずみ色のしゃれたスーツを着て、丸い緑の玉の首飾りを着け正装している。子供たち、といっても誰もが50歳以上だけれど、皆きちんとした衣装を付けてお客を迎える気持ちであることが歴然だった。それに引き替え、私たちは今日も暑いのでシャツ一枚の普段着姿だった。そうなのだ。昭和の初めは、それなりのお客を自宅に迎えるときは家族揃って正装したものだった。


 二ヶ月前におおざっぱに聴いた話を今回は少し念入りにたどった。奥さんの苑さんは早くに父親を亡くし、母親に育てられて家が貧しかった。小学校では日本語の教育も受けたが、特に3年生の時から日本人の先生が担任となり、男の鳥居先生の計らいにより公費で小学校を終えることが出来たという。「片親で頑張っていた私を沢山助けて下さった。」と深い感謝の気持ちで鳥居先生のことを語っていた。


 鳥居先生のおかげで日本語の勉強に本気になったためだろうか、そのあと旅順高等公学校師範女子部という学校に入った。この学校では漢語の先生以外すべて日本人の先生で、いっぽうで学生はすべて中国人だったという。中国人の日本語教育のための学校だったわけだ。


 苑さんは勉強のほか、舞踊、体育、テニス、水泳が大好きの活発な明るい少女だった。このころの写真が何枚か残っている。元気そうな可愛い少女が写真の中で笑っている。学費は公費だったので卒業後は先生を3年やる約束になっていて、大連の小学校で3年間先生を勤めた。その後、1年間天津の横浜正金銀行(その後の東京銀行)で働き、 次に三菱天津公司に移ったが、数ヶ月で終戦を迎えたという。

 ご主人の遅さんは大連市立実業学校商科を戦前卒業して、森永製品販売株式会社、次に大連鉱油株式会社、三つ目に天津徳盛永五銀行に勤めているときに終戦を迎えたという。


 福島徳之助氏を校長に抱く大連市立実業学校の生徒は殆どが日本人だった。陳さんの受験時は270人受験して10人が合格した。受験はすべて日本語だったという。2クラスあって、1クラス60人のうちの5人の生徒だけが中国人だった。先生はもちろんすべてが日本人で、漢語を教えた先生も塩田一雄といって日本人だったという。簿記を教わった古屋先生はビールは俺のお茶だといって24本も飲んだことがあるといって、私たちとビールを飲みながら懐かしそうに話していた。


 森永の社史をインターネットで見たときに大連のことは何も書いてなかったので詳しく思い出して貰うと、別府龍という名の常務が取り仕切っていた森永製品販売株式会社には中国人は遅さんしかいなかったという。森永製菓の工場は大連市雲井町27番地にあってビスケットなどを作っていたが、遅さんのいた森永製品販売株式会社とは別組織だったらしい。


 森永でも、次に移った大連鉱油株式会社でも、遅さん以外のすべては日本人の組織で何時も日本語を使っていた。宮崎吉利社長の率いる大連鉱油株式会社では、中国人としてはたった一人の遅さんは会計課にいてそろばんを使い(と言いながら五つ玉のそろばんを抽斗から出して見せてくれた)上司の長谷川課長のもとで働いていたけれど、中国語 も分かるのでとても大事にされたという。


 天津に本店のある天津徳盛永五銀行に勤めたときに北京支店の副支店長となり、本店のある天津に縁が出来て、友人から紹介を受けて苑さんと終戦直後の1945年10月10

2005/09/10 07:18




2005/09/10 07:18

9、続き  結婚60周年を迎える遅・苑夫妻 

山形達也(瀋陽薬科大学)


 遅さん・苑さんと話しているうちにお二人の子供たちが昔のアルバムを出して見せてくれた。苑さんは師範部の3年生の時に日本への修学旅行に参加している。昭和12年頃になるだろうか。旅費は全部公費だったという。

 20日以上を掛けて阿蘇山、神戸、大阪、京都、名古屋、伊勢、東京などに行ったという話で、実際噴煙を上げる阿蘇山の火口、「伊勢の二見浦」の夫婦岩の写真がアルバムに貼ってあった。東京では宝塚歌劇に行って、遠くから双眼鏡を使って観たという。彼女は、「阿蘇山」や、「二見浦の夫婦岩」などのことばを正確な日本語で発音した。苑さんは日本語で話していても、話が佳境に入ると中国語になってしまう。このときは加藤先生の出番である。それにしてもこの見事さは驚きである。学校時代に6年日本語使い続けたにしても、日本語を使わなくなって60年が経っているのだ。


 皇居前で二重橋を背景に全員がしゃちこばって写った写真も見ることが出来た。当時の二重橋付近は全くの聖域で、声を出すこともはばかられた場所だったと思う。当時市電と呼ばれた路面電車に乗っていて皇居の近くを通ると、運転手だろうか、「皇居遙拝!」という声が掛かって「直れ!」と声が掛かるまで皆そちらに向けて最敬礼で頭を下げ続けなくてはならない時代だった。


 あの時代を知っているから、いまの北朝鮮の圧政を人々があきれたように語るのを聞いて、「60年前までの日本が全く同じだったのですよ。お上が威張っていて、ちょっと批判めいたことを言うと特高に引っ張られて責め殺された時代だったのです。平和憲法を捨てて、このような日本に戻りたいのですか。」と言いたくなる。

 お二人の昔の写真をアルバムで見せて貰ったけれど、残念なことに二人の結婚の写真、およびそれ以降の写真が全くない。訊くと文化大革命の時に、戦前日本人の会社に勤めたとか、外国語である日本語が遣えるじゃないかという理由で総括を受けた間に散逸したという。小説ワイルドスワンを思い出す。近所どころか、自分の身の安全のためには親子の間でも、「恐れながら」といって権力に訴えでて生き延びることをはかった時代を経験してきた人たちなのだ。


 夕食に餃子を用意するから一緒に食べていくように勧められた。見ると、長女、次女の二人が餃子の皮を練って、なかにいれる具を用意 しようとしている。それを知って、貞子と文子さん二人がお手伝いしましょうと言いながら台所に行った。

 あとで聞くと、4人で一緒に餃子を手際よく作りながら中国語で様々なおしゃべりをしたということだった。何時もだと、中国語の出来る加藤先生が一緒で、どうしても話は彼に頼ってしまうことになる。ところが、台所では「中国語以外いっさい通じないし、頼るのは自分たちしかいない。」というわけで、二人とも、持てる力を総動員して話し続けたようだ。おかげで、文子さんと貞子は今日一日で中国語を沢山しゃべった感じだし、中国語で彼らと交流している実感がもてて、大変幸せな一日だったに違いない。


 それで餃子を作りの手伝いを終えて戻ってきた文子さんと貞子は二人ともほほを上気させていた。四人の中では私は一番駄目で、話が中国語になると加藤先生から時々中国語で説明を受けるだけで、断片的な知識しか入ってこない。中国語を聞いてもまだほとんど分からないし、話すことも出来ない状態が続いている。まあ、いい。いつか出来るようにしてやる。


 やがて5時になって夕食となった。私たちがそれまで話していた遅さん・苑さん夫婦二人の寝室に折りたたみの出来る丸いテーブルが運び込まれた。丸いテーブルを遅さん・苑さん・私たち4人、長男の遅さんが囲んだ。今このうちには長女、次女のほか、6番目の末娘も来ているし、あと二人の孫たちもいるはずだけれど、ここには来ない。一つには食事を用意する裏方に回ったのと、もう一つは戦前の日本並の男尊女卑の影響かも知れない。


 たちまち机の上は、拉皮、焼き豚、牛肉蒸し焼き、ソーセージ、ハム、椎茸と青梗菜、エンドウ豆炒め、鳥肉の天ぷら、卵焼きなど、十種類の皿が並んだ。「どうぞ、どうぞ、食べて、食べて。」と遅さんに勧められる。見た目も綺麗だし、おいしい。

 私たちのおかずの取り方が遅いと、というか食べ方が遅いと、中国では滅多に見ることのない菜箸を一組用意して、遅さんがどんどん取り分けてくれる。「これは自分の箸ではなく、公共の箸だから、汚くないですよ。遠慮しないでどんどん食べて下さいね。」と87歳の遅さんは私たちへの気配りと全体への目配りを忘れない。こんなにすてきな料理をどうやって作ったのかと訊いたら、長女の息子が2級の資格を持つ料理人で、今日は台所で腕をふるっているのだという。先ほどであった背の高い美青年のことだった。


 やがて蒸し餃子が次女の手によって山盛りになって運ばれてきた。昨日は、豚饅頭を作りますからねとのことだったが、餃子のことを陳さんは豚饅頭と呼んだので、夕食に餃子のほか更に肉まんじゅうもでるのではないことが分かってほっとした。


 こんなに食べきれない!「餃子は東北地方の名物だけれど、店で食べるとそんなにおいしくないよ。うちの餃子はどこの店よりもおいしいのだから。」と予め聞かされていたけれど、実際おいしい。瀋陽では餃子で名高い老辺餃子館というのがあるが、文子さんは中国語で「この餃子は、老辺餃子館の餃子に比べて大変おいしい。」と遅さんはじめ家族の一人一人に言っている。


 遅さんが言うには日本人はあまりニラが好きではないので、今日はニラを入れなかったと言うことで、私たちに気を遣っていることが分かった。この遅さんの客への心配りはたいしたもので、加藤先生がビールをこぼせば直ちに布巾の手配をするし、私がズボンに餃子の汁を落とした時には直ちにタオルがあったはずだとベッドの上を探して渡して くれた。

 長男が加藤先生にビールの一気飲みの中国式乾杯を強いた時、「日本式で行きましょうよ」と割って入ったりもした。87歳の遅さんだ。私があと20年生きていたとして、20年後にこんな気遣いが周りに出来るだろうか?今だって無理なのに。


 遅さんは皆に気を配りながらも、自分でもよく食べ、よくビールを飲み、「心臓と高血圧なので本当は好くないのに。」と、奥さんの苑さんが心配そうだった。そうこうするうちにおなかは一杯になり、時間は6時半を回り、それでは今日は失礼しましょうとなって、別れを告げた。娘さん二人に路を先導されて歩き出したが、家族中が外に出て、私たちが角を曲がるまで見送ってくれた。


 私たちが瀋陽の街を歩いていて、昔の日本人住宅らしいと思って近づいたのが縁となって、戦前の日本人に縁のある遅さん・苑さんと行き会った。そして驚いたことに夫婦二人とも戦前の日本に関係のある人たちだった。あのとき、私たちが中国医科大学に沿って歩きながら右手を見なければ、住宅は目に入らなかったろう。その時その住宅街に足 を踏み入れたとしても、近所の人たちが写真を撮っている私たちに話しかけてこなければ、遅さんたちに会うこともなかったろう。そしてそれが2ヶ月後遅かったら、二人の住む一画は跡形もなかったわけだから、出会いもなかったのだ。


 人生は不思議な偶然の積み重ねの連続だ。ひととの出会いを思うと、それに運命を感じることがあっても不思議ではないとつくづく思う。

2005/10/04 14:38

10、わが師への恩返し

山形達也(瀋陽薬科大学)

 10月1日から始まる国慶節の大型連休の初日、加藤先生からマンホールの蓋を見に行こうと誘われた。ちょうど今、日本から薬学の集中講義に来ておられる貴志先生は、中学2年生のとき瀋陽の北東数十キロメートルにある撫順市で終戦を迎えたという。貴志先生は、従って戦前の奉天と呼ばれたころの瀋陽もよく知っていて懐かしい土地である。


 大和ホテルと呼ばれた建物が今も重厚な雰囲気を漂わせて残っていて、今は「遼寧賓館」として使われていることを知っていても、一世を風靡した満鉄の名を付けたマンホールの蓋が今でも残っていることはご存じなく、歴史の研究家である加藤先生に誘われて、街の探訪に出かけるというのでそのお供をした。

 加藤先生は瀋陽薬科大学の日本語の教師であるが前身は高校の歴史の先生で、現代史、特に中国現代史の研究家である。すでに西安で2年、長春(戦前の新京)で2年過ごしていて著作も数多い。瀋陽でも授業時間以外は大抵街を歩いて史跡の実地見聞と史実の考証をしておられる。


 道路の下に埋設した下水、水道、ガス、電気、電話などの管に地上からアクセスするための穴が一般にマンホールと呼ばれている。開いたままでは危険だから鉄製の蓋があり。この表面に市の紋章など、この施設の責任者、管理者のマークが入っている。


 戦前の当時の奉天で一大勢力だった満州鉄道株式会社(満鉄)の紋章の刻まれたマンホールの蓋は、満鉄病院として最初に建てられ、満州医科大学を経て現在の中国医科大学の構内にいくつかが残っていることを加藤先生は見つけていて、数ヶ月前に街を案内された時に教えてもらった。


 今回の旅が始まる太源街は当時は春日通りと呼ばれていた。北端には満鉄総局の巨大なビルが右手にあり、奉天鉄道局がそれに続く。今は瀋陽鉄道当局が使っている宏大な建物である。今の太源北路、以前の春日通りを南に向けて歩いて行くうちに当時の銀座街のあたりで、右に曲がり左に曲がり、どこを歩いているのか分からなくなった時、その道の真ん中で加藤先生が足を地面にこすりつけて「ほら」とにっこりした。


 見るとマンホールの蓋に満鉄のMとレールの形のIを組み合わせた満鉄のマークの入った蓋があった。この蓋にも3種類のあることを加藤先生は見つけているという。このほかにも、奉天市のマークの入った蓋もあり、これも字体の違いで2種類あるようだ。そのあとは私たちも下を見ながら歩く。大抵は簡体字で左から書かれている現代の蓋である。


 やがて住宅を取り壊している最中の一画に出て加藤先生の足取りが速くなった。つまり私たちに早く見せたい一心なのだ。「凄いのがあるんですよ、本には書いていないのに、私が見つけたのです。」と言って示されたのは、半分アスファルトに埋まっているが、中心にあるのは紛れもない日本の郵便マーク〒の入ったかなり大型の蓋である。

 郵便マーク〒の両側には字があるようだがすり減っていて読めない。右側の字は、「電」に見えないこともない。詳細は分からないながら、埋もれてしまった史実が歴史の研究家に語りかけているのだ。このあたりは街中が汚くあたりはゴミだらけで、この蓋は果物の皮の残骸に囲まれながらも加藤先生に向けて燦然たる光を放っているようだ。


 そのあと太源北路に戻って南に向いて当時の中央郵便局の横を通っている時だった。先ほどから、私たちは道の表面をマンホールの蓋を求めて眺めて歩いていたが、道ばたの物売りが広げた布の横から覗く鉄の蓋を見ると、何と先ほどの郵便マーク「〒」が入っていて、しかもそれを挟んで右から「電話」と書いてあるではないか。新品みたいな綺麗な蓋である。

 私と貞子は直ぐに先を歩いている加藤先生と貴志先生を呼び返した。加藤先生は大喜びである。物売りさんに少し動いて貰って早速写真を撮り、私たちはその姿を写真に納め、忽ち私たちは立ち止まった通行人の興味にとり囲まれてしまった。

 「郵便マーク〒は郵政で手紙ですね。電話も扱っていたのでしょうか?」と加藤先生。戦前から〒が郵便だけを表したかどうかは知らないが、戦前子供の頃、母方の祖父の家に行く時に通る柿の木坂郵便局は、玄関を入ると右手の奥に小さなボックスがあり、窓口で通話を申し込むと、中でつないでくれてそのボックスの中で電話で通話できる仕組みになっていた。


 戦前電話はどこのうちにもあるというものではなかった。もちろん目黒区平町の我が家にもなかった。電話のある誰かに用があって、母が柿の木坂郵便局まで出かけて電話をしたのを、お供だった幼い私が覚えているわけだ。母は実家の電話を使いたくない事情があったのだろう。祖父のうちでは広くて長い廊下の隅の壁に付いていたのを覚えている。


 つまり、戦前は、郵便局と電話局とは、少なくとも末端では一体のものだった。だから当時の奉天市でも郵便局が電話も扱っていて、「話〒電」と書いてあったのだろう。目の前は以前の中央郵便局だったところで、ここで太源北路は中山路(当時の浪速通り)と交差している。


 私たちの目で見つけものが加藤先生の役に立って、私たちとしては「師への恩返し」が少しでも出来たと思って嬉しかった。嬉しさのあまり、「消火栓」という蓋では師である加藤先生とは別の説を立てるに至った。


 地下の埋設管には多くの種類があり、マンホールの蓋がその中身を表している。蓋を見て歩いているうちに、円盤である蓋の円周上に「消火栓」という字が来るように書かれた蓋を見つけた。円周上で考えると「消」から始まって字は左回りに読むことができる。同じ内容を表す蓋として、左書きの「消火栓」「消防」「LD」も見つかったがこれ らは左書き(左から字が始まる)なので戦後のもの(つまり中国のもの)であることは明らかである。

 円周上の「消火栓」は蓋の中心に「水」と読める形があるのでこれを基準として見ると三字は三角形に配置されていることになる。上に「消」を持ってくると、下の基線に左から「火」「栓」となるから、これは左書きで戦後のものだというのが加藤先生の説である。


 しかし、戦前は右書きだからこのように円周上に書く時は左回りではないか。左回りで書くと三角の形では上に「消」が来て、下に「火」「栓」となるわけだ。私は左回りを採るが故にこの蓋は戦前のものだといい、加藤先生は戦後のものだという。読み方一つに掛かっている。

さて、史実はどうなのだろう?

2005/11/11 14:49

11、薬科大学で初めての音楽会

山形達也(瀋陽薬科大学)


 昨夜は薬科大学で初めて音楽会に行った。瀋陽では音楽会があることは稀である。市の中心地に立地する市政府の建物に面して巨大な芝生の広場があり、これを囲んで、遼寧省博物館、大劇場などが立ち並んでいる。5月に友人を案内してこのあたりを歩いた時、大劇場の窓にはその先の予定として二つの音楽会が張ってあっただけだった。こちらが熱心に調べないためもあるけれど、そこまで出かけるのが面倒だし、まだこの大劇場には行っていない。

 初めて音楽らしいものを聴きに行ったのは、瀋陽に来て半年経って、そのころ研究室にいた白さんが近くの南劇場で音楽学校の発表会があるから行きましょうと誘ってくれた時である。そのあたりは三好街といってコンピュータの街として発展しているが、魯迅芸術学院、音楽院などが立ち並んでいる一画で、その音楽院の人たちの発表会というものだった。


 行ってみると、数人のグループが歌を歌い、楽器の演奏をし、というものだったが、何よりも驚いたのはマイクロフォンを使い大音響でスピーカーを鳴らすことだった。お客は発表している生徒の家族や親族だから小さな子供たちも来ていて、そうなると、音楽を聴くよりも通路を走り回り、合間には食べ物の音が激しく。どちらの音が大きいか分からないくらいだった。あきれて、せっかくの白さんの親切だったけれど幾つか聴いただけで出てしまった。


 さて、数日前に友人の加藤先生から電話があって音楽会に誘われた。彼は薬科大学では中薬学院の1年生に日本語を教えているが、そのクラスの時に学生が券を配っているので聞くと「音楽会の券です」ということで1枚貰ったが、「更に音楽好きの友だちの先生のためにあと二枚もらえないか?」と頼んだという。学生たちは考えた末にあと二枚呉れたと言うことだった。この音楽会は大学の敷地内にある、客席が階段状になったいわゆる講堂を思い浮かべて欲しい。千人くらい入る大きさで、倶楽部と呼ばれている。文字通りこの字を書く。ところで、この字はどちらの国の発明だろう。日本か中国か。

 音楽会は遼寧省高雅芸術学院の演奏会だという。学生の演奏だけれど、薬科大学は自分たちの学生を楽しませるために、演奏家を呼んだり映画会を催したり、あるいは学生たちの踊りや音楽会などをこの倶楽部で時々やっているのだという。その一環である。私たちは学部の1年生に縁がないからこのような催しがあることを全く知らなかった。倶楽部の席は千人くらいだから1学年全員を収容できない。最初学生が券を学生以外に配るのをためらった理由もよく分かる。


 昨夜6時前に迎えに現れた加藤先生と連れだって大学構内の倶楽部に向かった。座席は指定されていて貰った席ははるか上の席だったけれど、教え子たちを見つけた加藤先生が聞いたところによれば「どこでも良いです、前にいらっしゃい、」ということで前から数列というかぶりつきの席に陣取った。席に着いている学生は少なかったけれど、日 本語を勉強し始めてまだ2ヶ月という加藤先生の教え子たちに次々と挨拶された。「あなたは音楽が好きですか?」「あなたは中国にどれだけいますか?」などと口々に聞いてくる。2年ここにいる私の中国語よりもよほどましである。


 舞台にはオーケストラ演奏の準備がなされていた。後ろの幕には、大きな字で記念洗星海誕辰100周年 約翰・施特労斯誕辰180周年交響音楽会と書いてある。洗星海は中国の作曲の名前のようだ。約翰・施特労斯は三人で考えて、ヨハン・シュトラウスと読めるということになった。きっとウイーンワルツやラデツキーマーチを聴かせてくれるのだろう。


 音楽会はなかなか始まらない。日本語の勉強を始めたばかりの学生と、中国語の不自由な私たちとの自前の会話はもう話題がつきてしまった。それぞれが加藤先生の助けを借りないと話が出来ない状況となった。講堂はまだ人が半分くらいで、「きっと時間ではなく、お客が集まったら演奏が始まるのでしょう、」などと私たちはふざけている。実際、ここから見える舞台の袖ではバイオリンを抱えた人たちが何人も立ったまま入場を待ちかまえている。


 やがて、楽員たちが舞台に上がってきた。盛大な拍手。学生と聞いたけれど、皆黒色の正装をしている。最初、女性二人による長い長いお話しがあって、やっと指揮者が登場した。私たちがここに来た時入り口でたばこを吸っていたおじさんである。


 指揮棒一閃、ヨハンシュトラウスの「こうもり」序曲が始まった。見事な演奏である。惜しむらくは、舞台に林立しているマイクロフォンを見て厭な予感がしたが、予感通り舞台袖の大きなスピーカーからも音が聞こえることである。音が入り交じって平板になってしまう。でもスピーカーが大音響でなくて良かった。次は1945年に40歳の若さで他界した洗星海の作曲と思える曲で、「大海よ、私の故郷」という中国人の愛唱歌を思い起こさせる曲趣を持っていた。


 続いてヨハン・シュトラウスのポルカ、リストのハンガリー狂詩曲2番のあとで女性歌手が登場した。ほっそりとして背が高く青い服に身を包んだ彼女は、シュトラウスの「春の声」を唱った。低音にはちょっと難があったけれど、コロラチュールも綺麗に転がしたし、「ワオ」とばかりにすっかり彼女の虜になった。


 次のビゼー・カルメン組曲1番に続いて登場したのは女性バイオリニストで、洗星海の作曲に違いないバイオリン協奏曲を演奏した。流麗な演奏で初めての曲ながら中国的なメロディーとリズムに魅せられて聴いていると、突如ホールの電気が消えた。スピーカーの音が切れてからも二秒くらい続いた生のオーケストラの音はか細く清冽だった。

 場内はたちまち拍手と人声で満たされ、携帯電話の明かりがあちこちを局所的に照らしていた。動かしている人の携帯電話は暗闇に幻想的に青白い光を播いている。携帯電話がこんなに明るいの?と驚いて自分のを出して蓋を開けると、相当な明るさだ。ただし他の人のカラーとは違ってモノクロだったけれど。


 数分して停電が直ってバイオリン協奏曲が再開された。停電の間に隣の学生から聞いた話だと、この洗星海の曲は大変有名な曲だという。しかし再開されて1分もしないうちにまたも停電だった。気の毒なバイオリニスト。

 停電が直って再度続けられた演奏は、それでも途中に邪魔が入ったとも思わせないほど整然と進み、最後はコーダを盛り上げて終わった。曲も楽しかったし良い演奏だった。次は男性のピアニストで、これも洗星海のとおぼしき四楽章からなるピアノ協奏曲だった。非常に技巧的な曲である。何となくプロコフィエフを連想したけれど、同時代の人だから関係はないだろう。


 最後はアンコールに応えてラデツキーマーチだった。始まると直ぐに手拍子がわずかながらも始まったから、中国の学生もウイーンで行われているこの曲の演奏スタイルに、私たち同様テレビを通じて馴染みになっているのだ。世界は狭い。


 手拍子はどんどん増えていった。中国の学生も、民衆も、もっともっとテレビを見て世界を知ると良いのに、と最後は教訓的なことを考えてしまったが、久しぶりによい音楽を聴いて心が暖まった。外に出て零下数度の気温をものともせず帰途につくことが出来た。加藤先生、ありがとう。


2005/12/03 15:03

12、結婚60周年のお祝いに訪ねて

山形達也(瀋陽薬科大学)


 加藤先生にくっついて瀋陽の街を歩いていて、夫婦ともに戦前日本語教育を受けた遅さん・苑さんと出会った話は以前書いた。その後訪ねて行ったら彼らの住宅は新規区画開発のために取り壊されていたこと、それでも移った先を尋ね当てて訪れたことも前に書いた。


 彼らは第二次世界大戦の終結した1945年の10月10日に結婚して、このたび60周年を迎えている。私たちはお祝いに行きたかったけれど、その日は都合がつかずお祝いの電話を研究室の秦くんに掛けて貰って、何時か訪ねることを約束した。

 訪ねると言っても私たち二人では話が出来ないから加藤先生の都合次第である。ちょうど加藤文子夫人が15日間のビザなし滞在で瀋陽を訪れていた先週末に、私たちは遅さん・苑さん宅を訪ねることが出来た。60周年のお祝いと思って知恵を絞ったけれど、親族ではない知り合いである。高価な贈り物を持って行くなんて考えられない。それで先日妻のバースデイケーキを作ったケーキチェーンストアの好利来で、「祝結婚60周年・遅・苑夫婦」と書き込んだケーキを注文した。

 その日の午後加藤さん夫妻 と待ち合わせて、遅・苑さん二人のうちに出かけた。加藤さんはその後一度一人で彼らのうちを訪ねているので案内役である。加藤さんはバスに乗れば1元で行けるし、行き先を運転手に言って通じさせる手間も掛からないと言う理由で何時もバスを選ぶけれど、今回は私が大きなケーキの箱を抱えていたからタクシーに なった。タクシーを止めたのは大通りのバス停に近くで、彼らのうちからは大分離れている。それでも、私たち3人は加藤さんに付いていくだけでよい。加藤さ んは私たちの先を走り歩いて、訪ねるうちが何処なのかを探している。


 結構迷った挙げ句うちを訪ね当てると、お二人のほかに娘さんの一人も在宅だった。私たちは記念日には来られなかったけれど60周年のお祝いに来たことを、まっとうな中国語は加藤さん夫妻からしか出なかったものの、それぞれ口々に述べて再開を喜んだ。


 遅さんが言うには、「テレビで先生を見たよ。驚いた。」とのことだ。遼寧省政府がこの地で働く外国人を招いて友誼賞や栄誉賞を与えた行事を見ていたら、「先生が出てきて、そりゃ驚 いたよ。」と嬉しそうに話す。これは事実で、9月終わりに私は遼寧省から呼ばれて賞を貰った。外国人の会社の経営者はこの地に金をもたらすから一回り大きな金色のメダルの友誼賞を貰い、大学で教えている私たちは銀色の小さいメダルの栄誉賞を貰ったのだった。テレビクルーが来ていたけれど、まさか私が映って いるとは思わなかったし、ましてそれをテレビで見て驚き喜んだ人たちがいるなんて嬉しい驚きだった。

 今回は事前に知らせず突然訪ねてきたれけれど、それは予め知らせると食事の支度をさせてしまうことになるので、それはいけないと考えて前触れなしに訪れたのだった。

 それで、お祝いの品々を上げて直ぐに帰るつもりだったけれど、結局引き留められてしまった。そして遅さんは娘たちに応援に来るように電話をしたらしい。私たちの来た時に両親の世話 をするために日中はここにいるらしい三女のほかに、長女、四女がそのうちにやってきた。すでに最初と二回目の訪問で互いに知っている。長女は入ってくるなり、テレビを指して、私も指して、テレビで見たと言うことを私に満面に笑みを浮かべながら伝えている。受賞を喜んでくれる人たちがいて本当に良かった。


 加藤さんは悪のりして「この先生は私なんかと違ってえらーい人だから表彰されたのですよ。私なんか貧乏人の百姓で、全然身分が違うんだから」なんて言ってふざけている。「だけど文 化大革命の頃は、貧乏百姓が人民の一番上で、学者知識人は最低にランクされて、とんがり帽を被らされて引き回されたんですよ。世が世なら私は最高の地位にいるんですがねえ。」とにやにやしている。嘘も良いところで、外国人友誼賞は大学によっては半年いるだけでも受賞者に推薦される。薬科大学は大学の格付けが低い上に、人数が多いから順番がなかなか回ってこないだけに過ぎない。


 にやにやしながらも加藤さんが一瞬はっとしたのは、遅さんも文化大革命の時には、「戦前日本人と付き合った、好い思いをした、外国の手先だ。」と罪状が並べ立てられて総括されたことをちらっと聞いたことを思い出したからだ。


 「結婚60年 の間に何が一番楽しかったですか?」という加藤さんの質問に、奥さんの苑さんは「子供で部屋が一杯だったとき(満堂)。」と答えていた。6人の子供のうち 瀋陽には4人いて、いまここにその3人がいる。同じ質問を遅さんに振ったけれど、遅さんは「ない。」と言うことだった。

 大連市立実業学校商科を卒業して、森永製品販売株式会社にいた頃、ほかの中国人は50円くらいの月給の時に、彼は80円を貰っていて、これは日本人並みだったという。「かけうどんが1杯8銭で、親子どんぶりは80銭。カツ丼が1円で、鰻丼が1円20銭 だった。鰻丼は美味しかった。」という。繰り返してにこにこしている、味を思い出しているのだろうか。「エビ、いかの天ぷら、カレーも食べた。納豆も美味しかった。」ということで、関西人の加藤さんは「妻は納豆が嫌いですよ、私は食べるけれど。遅さんは納豆が好きなのですか?」

 「好きでしたよ。」「ここにあればまた食べたいくらい好きですか?」「ここにあれば納豆が食べたい。」という返事だった。この次日本から納豆を持ってくるかなあ。大方の中国人は嫌いだから、持ってきて、もし厭な時は皆に嫌われてしまうなあと思う。


 森永にいた時長春の支店にも1年行って、その時には小杉支店長のうちに一緒にいて食事は支店長の家族と一緒に食べたようだ。小杉支店長の奥さんからは優しくして貰って、「日本の女性は本当に優しい。世界一の女性だ」と言って、妻の貞子や史子夫人の顔を見る。二人は「そりゃあ、昔はねえ。」と異口同音に答えたが、私たちも聞かれれば 同じに答えるに決まっている。


 私たちと話す機会が出来てからは日本語を60年ぶりで使い、そして戦前のことを良く思い出すようになったらしい。思い出してみると懐かしい思い出ばかりで、世界ががらりと変わってしまった新生中国以降は、戦前に比べたら生彩のないものだったのではないか。だから、結婚したのは1945年だったが、「それ以降の60年 の間の一番楽しい思い出は何ですか?」と聞かれて「没有」とぽつんと答えたのだろうか。「今は非難される戦前の日本占拠時代でも、そのころそこで自分の青 春時代を送った人たちに取っては、一番輝いていた時代だったのですよ。」と以前聞いた加藤さんの言葉が、遅さんの思い出を聞きながら、私の脳裏に蘇ってい た。