加藤正宏の

瀋陽日本語クラブの記録

加藤正宏・文子「瀋陽日本語クラブ」の目次

1、外国人専家と留学生以外の使用を禁ず

2、「立ちん坊」さん

3、満州国・朝鮮民族・日本 (瀋陽史跡探訪31 へ転載、写真は転載の方にあり)

4、瀋陽の古い映画館を尋ね歩く (瀋陽史跡探訪27  へ転載、以下同上)

5、自己紹介

6、マンホールの蓋を尋ねて (瀋陽史跡探訪13  へ転載、写真は転載の方にあり)

7、留 用 (瀋陽史跡探訪23  へ転載、以下同上)

8、遼寧省の糧票や購貨券の図案から(丹東市に在る中朝友誼橋も取り上げている)

9、中国に魅せられて(文子 記)

10、葫芦島に行く (瀋陽史跡探訪24  へ転載、写真は転載の方にあり)

11、公園や広場に行ってみよう

12、旧附属地への遠足 (瀋陽史跡探訪25  へ転載、写真は転載の方にあり)

13、旅のお守り―中国人ツアーに参加して―(文子 記)

13補足、  旅のお守り―中国人ツアーに参加して― 観光ポイント 

14、ポンユウの馬(仮名)さん (瀋陽史跡探訪26   へ転載と追加、写真は転載の方にあり)

15、H 夫人 (文子 記)

16、丸投げで問題が・・・・

17、帰国前、帰国後の諸々(もろもろ)―岐阜と中国の関わりー 

18、化石見学旅行 

日本語クラブ18号 

(2004年11月13日発行、2004年度第1号)

1,外国人専家と留学生以外の使用を禁ず

                 加藤 正宏 (瀋陽薬科大学)  

大学から与えられた部屋              研究棟(左)と大学本館(正面)

(大学の運動会にて)


朝8時前に、1階の入り口にある守衛さんの隣の部屋、そこにある洗濯機に汚れ物を持って行って、洗おうとしたところ、先着があり、回っている洗濯機の横にはまだ洗濯機に投げ入れていない一山の洗濯物が置いてあった。それは一見して、外国人教師や留学生の衣服ではなかった。そこで、すぐ見当がついた。昼間の守衛さんで、自家用車で乗りつけ、その自動車を磨くか、テレビを見ているか、寝不足で朝早くから夜勤の守衛さんが横になるベッドで寝ていることが多い、その人物が自分の私的な洗濯物を毎日のように持って来ては、私たち外人専用に用意された、たった1台の洗濯機で洗濯しているのを見かけていたからである。公私混同に苦々しくは思ったが、洗濯時間がかち合うことも無かったこともあり、その時はこれも中国的な日常ごとだと思い、口に出すこともなかった。

かの守衛さんに、誰が洗濯しているのかと声を掛けてみた。見当をつけていた当人は悪びれもせず、自分のだという。1時間で終わるのかと重ねて問うたところ、10時半に来なよとの答えが返ってきた。この洗濯機は、汚れ物を一度入れて回すと、1時間弱で回る。だから、今入れているのだけは仕方が無いと考えて、1時間で終わるのかと問うたのである。ところが、2時間半後に来いというのだ。汚れ物を入れたバケツをそこに置いておくわけにもいかず、1度は部屋に持ち帰った。しかし、同僚も洗えずに黙って持ち帰ってきたという話を聞くに及んで、これはほって置けないと考えた。このことは遠慮するべきことではない。外人教師と留学生用に用意された電機洗濯機である。我々が不便を我慢することはない。同僚を伴って、掛け合いに出向いた。「この仕事場で汚れた物だったら、それを洗うのに、この洗濯機を使うのはかまわない。しかし、この洗濯機で洗うために、家庭の汚れ物を持ってくるのはやめろ。」と強い語気で率直に彼に告げたところ、「休暇になっているのだから、この洗濯機も使われないんだから、使ってなぜ悪い。」というような答えにもならない反論を大声でしてきたので、私も語気を荒げて、今日だけでなく何日も前から私用の汚れ物をこの洗濯機を使って洗い、干しているのを見かけていると応酬し、「今日のところは外事処には言わないが、以後も私物を持ってくるなら、きっちり報告する。分かったか。」と述べ、守衛室を出て予定をしていた北陵(昭陵)の観光に出かけた。

3時半に帰ってきて、部屋に戻ったところ、電気がつかない、近頃には珍しい停電かと思ったが、同僚の部屋は停電ではなく、この建物のどの部屋も停電にはなっていない。ぴんと来たのは、配電盤が守衛室にあるはずだということであった。言い争った守衛がいる部屋だ。意趣返しの可能性が高い。でも、そこに配電盤があるかどうか、不確かである。そこで、外国人教師の住居になっているもう1つの建物の招待所を訪ねてみた。ここでは配電盤は守衛室になく、各階の廊下に据え付けられていた。だが、我々の建物のそれぞれの階の壁にはそれらしい物が見当らない。

かの守衛が夜勤の守衛さんと交代するのを待って、守衛室にお邪魔し、見てみると、やはり大きな配電盤があり、各部屋の電気のメーターは少しずつ動いているのに、我が部屋のメーターはまったく動いていない。でも表面から見る限り、配線もスイッチも他の部屋と変わりがない。単純なスイッチの切り替えではないようだ。そこで、我が部屋だけが停電になっていることと、今朝の出来事を、夜勤の守衛さんに話してみた。彼は、すぐに電気工事担当の者を呼んでくれた。担当者はしばらく首を傾げながらあちこち調べていたが、最後に配電盤の裏を見て、線が断たれているのを発見し、繋いでくれた。メーターは動き始めた。停電は解消された。やはり線は人為的に断たれたものだったのだ。

翌朝、昼の守衛が出勤して来るのを待って、やって来るや、昨日勤務中にこの部屋に誰も入れなかったのかを問い、確認した上で、この部屋の配電盤のうち一つの部屋だけが、配電盤の裏で線が切られていて、電気がつかなかったこと、この切断は故意にした人為的なものであること、部屋に居るか、入ってきた者以外は切断できないこと、入ってきた者が居たんだったら、あんたは守衛としての職務を果たしていないんだと言い切っておいて、再度確認した。そして、誰も入っていないのなら、切断したのはあなたしか考えられないと問いつめた。そんなことは知らない知るものか、自分でやっておいて俺に嫌疑をなすり付けようとするのかと大声で反駁してくる彼に、こちらも大声で応酬した。自分の部屋を停電にする必要がなぜあるんだ、誰がそんなことするか、そんなことをする者はどこにも居ないと、こんなやり取りを大声で数回続けたが、状況証拠しかないため、それ以上はらちがあかず、そこまでとなった。私としては、再度やられないためにも、やられっぱなしで黙っている人間じゃないことを伝えておきたかったのが、今回の行動だったので、その意図は十分果たし終えた。

勿論、ここに書いたような言葉そのものを中国語でスムースに話せたわけではない。しかし、会話文にできない時でも、動作をまじえ単語をつなぎあわせ、このような内容をとにかく伝えることができた。

10月2日その日のうちに、外事処の張り紙が洗濯機の後ろの壁に取り付けられた。外国人専家と留学生以外は一律洗濯機の使用を禁止するという内容のものだ。私が直訴したからではない。私の部屋だけが停電になった状況とその背景を、夜勤の守衛さんが外事処に伝えてくれたからだ。


2,「立ちん坊」さん

日本語クラブ19号

加藤正宏   

(瀋陽薬科大学)

 「打掃衛生」「油工」「刮大白」「刷塗料」「做防水」「力工」などの小さな看板を胸に掛けたり、手に持ったり、自転車の後部にぶら下げたりして、大勢の人が大きな道路の十字路に立っているのをよく見かける。

日本で言う「立ちん坊」のようなものだろうか。職を求めているのだということは分るのだが、あんなにも沢山の求職者がいて、毎日職にありつくのだろうか、一日、いくらぐらいになるのだろうか。以前から抱いていた素朴な疑問を質してみることにした。

南塔街と文萃路が交差する十字路で、一人に声を掛けかけようとしたところ、アッと言う間に、私の周りには人垣ができ、何が必要なのかと、口々に声を掛けてくる。それぞれの仕事内容を口にする者もいる。取り囲まれてしまったことに、驚きながらも、仕事の依頼に来たのではないことを、はっきりと告げると、少し白けて、訝しげに私を見やる。これらの眼差しに、私は慌てながらも、日本人であること先ず伝え、日本では見られない光景なので、写真も撮りたいし、話も聞かせてもらいたい、構わないかと切り込んでいった。







日本人だと告げた時、即座に「スラスラディー」と言った女性が居た。抗日戦争に題材を取ったテレビで、よく使われていた言葉だ。日本軍人が中国人を処刑する時、抜刀する場面で使われていた。これではとてもでないが、まともな応答は期待できないのではないかと少し心配になったが、私が「バッキャヤロウ」「ミシミシ」と抗日戦争題材のテレビで使われている言葉で応じ、日本では「スラスラディー」も「ミシミシ」も使わない、「飯(めし)」は使うが、「ミシミシ」とは言わないなどと説明し、これらは中国のテレビが創った言葉だ、などと話していると、外国人と話せるのが珍しいのか、件の女性も含め話に乗ってきてくれた。

「一日70元、80元ぐらいになる」と件の女性が最初に応え、周囲が同調する。毎日仕事があるのかとの問いには、それぞれから「毎日有る」との返事が返ってくる。仕事によって、値段は違うそうだが、平均して毎日これぐらいはあるというのだ。一ヶ月まるまる働いて、2100元から2400元になるところだが、一ヶ月どれくらいになるのかとの問いには、1000元から2000元だという。矛盾した数字だ。数字に差があるのは、単価がもっと安いか、仕事の無い日が何日もあるからなのだろうが、突き詰めて追求するのはやめた。件の女性には、日本人に対して自分の仕事を卑下したくなくて、少し虚勢を張り体面を保とうとしている感じがあり、周囲の者がそれに同調しているようだったからだ。写真を撮ろうとすると嫌がる者が多かった中、虚勢を張っていることもあってか、件の女性とその仲間が撮影に応じてくれた。

2400元だと、私の一ヶ月分給与(私の場合、宿舎や電気や水道料金は無料だが)とかわらない。1000元から2000元だとしても、固定の職に就いていない者にとって、まずまずの収入ではないだろうか。私の宿舎で、廊下やロビーを毎日清掃している女性Sさんは一ヶ月の給与が350元だという。ある会社の事務職をリストラされて3年になるのだそうだ。彼女に中国の「立ちん坊」さんたちの収入を話してみると、そんなに有る筈がないと言う。そんなに有れば、わたしも十字路に立つと言う。

翌日、同じ場所に出かけて行き、話を昨日した男性を見つけ、仕事に有りつけたかどうかを聞いてみた。仕事は有ったと言う。但し、20元だったと、時間が短かったからだと弁明しながら言う。他の2、3人に聞いてみたが、有ったとは言うものの、具体的には喋ろうとしない。実際は無かったのかもしれない。

別の日、別の十字路で、小看板を持った中国の「立ちん坊」さんたちに、同じようなことを訊ねてみた。仕事が得られない日が何日もあり、仕事があるのは一ヶ月のうちその半分というところがせいぜいだと、そこの「立ちん坊」さんたちは言う。平均して一ヶ月、700元から1000元の稼ぎだとのこと。リストラされて仕方なくここに立っているんだと説明してくれた。私にはこの十字路の「立ちん坊」さんの方が本音を言っているように思える。写真を撮ろうとすると、「私たちのような者が多く街角に立っているのは国家の恥だから・・・」と言われ、撮影は拒否された。そして、富める者は更に富み、貧しい者は更に貧しくなり、両極分解が起こっていると嘆き、高官の収賄に怒り、現政府の政策に対する不満を口にするが、何もできぬ無力さからか、諦め口調の怒りや不満であった。

女性Sさん(既に紹介済みの宿舎の清掃担当者)も同じ怒りや不満を口にしていた。彼女には息子が居て、現在大学の2年生だそうだ。値上がりしてきた学費と大学の生活費(中国の大学は全寮制)を合算すると、10000元を優に超えてしまうのだそうだ。このような家庭ではもちろん息子のアルバイトも必要になってくるであろう。ここにもう一つの「立ちん坊」が生まれる。紙で作った小さな看板に「家教(家庭教師)」と書いて手に持つ、学生たちの「立ちん坊」である。教える科目そのものの「数学、物理、化学」、「英語」と書いた紙を持つ者も居る。

遼寧省工業展覧館の東南角道路脇に、土日なると、これらの「立ちん坊」が数十人集まり、「家教」の市ができる。彼ら「立ちん坊」の収入は少なくとも1時間15元だそうで、小学校か、中学校か、高等学校かで違うのだそうだ。高等学校の高学年になると、25元から30元が相場であるとのこと。一般に2時間が一齣だから、一日30元から60元の収入になるが、土日だけの場合では、最高でも一ヶ月500元ぐらいにしかならない。それでも、「家教」にありつくのはままならないのではないかと思われる。見ている限り、依頼者との交渉もなかなか厳しいものがあり、値が折り合わず、依頼者を逃すことも多いようだ。

しばらく眺めていたが、この「家教」市を訪れる依頼者は学生の人数に比べて少なく、「立ちん坊」をしただけで、一日が暮れてしまったということになりかねない感じだ。長春で出会った農村出身の学生のように、土曜日を除き毎日家庭教師をやり、更に、5月の黄金週間(メーデーを中心とした1週間の休暇)には、入試(6月に統一考試)直前の追い込みの高校生を相手に、稼ぎ時だとばかり、家庭教師を掛け持つことができた学生などは、まだまだ例外なのかも知れない。

三好街や五愛市場の周囲にはリヤカーや小型の運送車が群れを成し、そのリヤカーなどの傍らに立つ、「立ちん坊」さんの姿が見られる。購入した大きな品物の搬送に待機しているのだろうが、依頼の交渉を受けている姿を見たのは今までで一度だけである。これだけ待機している者が多ければ、一日を棒に振ってしまう者が大半なのではないかと思うのだが・・・。

高速道路の料金所を通過し、瀋陽の市街に入ろうとする車の、その走る道路のど真ん中で、数人の者が手に「進路」と書いた小さな看板を持ち立っている。これも「立ちん坊」さんと言えようか。外部から来た不案内なドライバーに、瀋陽市内の道案内を買って出ている「立ちん坊」さん達だ。いくらぐらいで請負っているのだろうか。

瀋陽北駅や瀋陽駅に降り立つと、宿舎の勧誘をしている大勢の「立ちん坊」さんに声をかけられる。日本の温泉町の駅前でも同様な場面に出会うが、中国では大きな病院の近くでも、小さな看板を手にした「立ちん坊」さん達があちこちに立っていて、宿舎の勧誘をしている。入院患者の見舞いや付き添いに利用される宿舎だというのだが、・・・。瀋陽薬科大学の隣には陸軍病院という大きな病院があり、大学正門近くのアパート群の前にはいつも「立ちん坊」さん達が立っている。山形達也先生に入った情報によれば、学生達の中にもこれらの宿舎を利用している者がいるとのこと(これについては、山形先生のホームページで、いつかご紹介があるのでは・・・と思っている)。

街中で同じところに何時間もずっと立っている人を、見かけることも多い。小さな看板は持っていないが、この人たちも何らかの「立ちん坊」さんなのかも知れない。それにしても、冬の瀋陽の街を歩いていて、この寒さの中立ち尽くす「立ちん坊」さんたちの姿を見ると、その忍耐力に頭が下がるような気持ちなると同時に、中国社会の歪さを感じてしまう。他人事ながら、「立ちん坊」さんたちが今日一日を無為な一日にすることなく、一人でも多く仕事に就ければとの思いが頭を過ぎっていく。


3,満州国・朝鮮民族・日本瀋陽史跡探訪31  へ転載 写真入りへリンク

日本語クラブ19号

加藤正宏(瀋陽薬科大学)

 土日の二日間、毎週のように、骨董と古書それにガラクタを販売する二か所の路上市に出かけ、特別なことがないかぎり、この週課(?)を欠かしたことがない。値の掛合いにもだいぶ慣れてきた。市は正午をまわると、出店者の中に帰り始める者が現われ、二時ごろにはぐっと店の数も減ってしまう。だから、次に行く市のことも考えて、最初に行く市には九時前に到着するようにしている。後から行く市は懐遠門(大西門)の近くで、盛京古玩城の周囲にあり、この路上市を見回った後は、古玩城に常設された幾つかのお店を訪ね、親しくなった店主と話をして帰ってくる。どうにか話せるという程度の中国語なので、もちろん筆談も加えてのことである。主に教科書(中華民国、満州国、中華人民共和国の建国期、文化大革命期のもの)を集めている。しかし、その他に教育関係を中心として、少しでも歴史の匂いを留めていて、その匂いを嗅げそうなものを探し、あまり値が張らないものは今までにも種種購入してきた。今回紹介のこの1枚の写真には50元支払った。この写真が、歴史の匂いを濃厚に漂わせ、私の心を掴んでしまったからだ。値の掛合いも忘れて,相手の言い値で購入してしまった。

 前置きはこれくらいにして、写真を紹介しよう。





写真は小学生のクラス写真である。「國本先生送別記念康徳八年四月十八日」と白抜きされている。校舎の前で三段になって撮っている写真だ。

 康徳八年とある「康徳」は満州国の年号である。1941年に当たる。送別とあるから、先生が転勤か退職された時であろう。中央に女の先生が座っておられる。先生の衣装はチマとチョゴリである。朝鮮の民族服である。女子生徒の多くもやはりチマとチョゴリを身につけている。満州国にあった朝鮮族の学校だと推測できる。

文字と写真から次のような疑問が涌いてくる。朝鮮の民族衣服を身につけた先生の姓が、なぜ朝鮮族の固有な姓にはない國本なのか、なぜ「老師」でなく「先生」なのか、「紀念」でなく「記念」なのかと。

國本という姓は朝鮮族の人が創氏改名を強制された時に名乗った日本名の一つであった。また、中国語で使う文字の「老師」や「紀念」でなく、日本語として通常使う「先生」や「記念」になっているのは、日本語学習が強められていた満州国だからこそだと考えられる。

このようなことが頭を過ぎり、満州国と朝鮮民族と日本この三者の関係を物語ってくれる写真だとの思いが頭の中で強まり、つい、言い値の50元で購入してしまったのがこの写真だ。


4,瀋陽の古い映画館を尋ね歩く

瀋陽史跡探訪27  へ転載 写真入りへリンク

加藤正宏(瀋陽薬科大学)

 陽が翳り始めた頃、大学の広いグラウンドに?子(とんず)などの椅子を持って、次から次へと人が集まって来る。グラウンドの一辺に白い大きな幕が張られている。幕の少し前から?子(とんず)に腰掛けた人達で埋まっていく。グラウンドに入りきれなくなった人たちは幕の後方にも広がり、グラウンド周辺は人、人、人で埋め尽くされいく。

 1986年、西安の西北工業大学に勤めていた頃に目にした風景である。土曜日ごとに開かれていた映画会だ。映写が始まると、大きな画面に人物や風景が映し出されてゆき、大きな音声で、台詞や効果音が流れる。幕の後方から見ている観客には画面が逆になるのだが、気にすることもなく見ている。色も画像もはっきり見えているので、分るようだ。

 娯楽の王様であった映画がその頂点にあったのは、中国では80年代の後半から90年代にかけてであったと思われる。テレビやビデオの普及で、それ以後少しずつ、観客は減り続け、映画館も寂れていったようだ。

 現在、瀋陽でなお映画が上映されている映画館は日増しに少なくなってきているようだ。私の知っているところでは中街の光陸電影院、大舞台、南京南街の中華劇場、太原街の新東北影城それに文化路と三好街の交差するところにある南湖劇場ぐらいである。とは言え、瀋陽薬科大学では週末に大学内の劇場で映画が上映されている。勿論、グラウンドの劇場ではない。きちんとした建物である。「瀋陽市志」によれば、1987年、瀋陽市には903の映画を上映する単位があり、その中で市街区にある専門の映画館は22館、映画兼劇場12館、対外に開かれたクラブが23館、対内だけのクラブが201館であった。きっと、大学の劇場は最後の対内だけの部類に属し、この部類はまだまだ残っているのかも知れない。

 しかし、市街地の映画館は上映を止めてしまったところも多い。そして、それらの多くがそれなりの歴史を有した映画館なのだが、正面は何とか映画館の体裁を保っている建物も、その後方を外部から見ると、古びた大きな倉庫のような姿にしか見えない物が多い。既に取り壊されて、このような姿も見られなくなってしまった建物もある。ますますその姿を消していくだろう。その形が消えてなくなってしまわないうちに、見てみたいものと、これら映画館の建物を尋ね歩いてみた。

 

 市文化宮(旧・平安座)、解放電影院、東北電影院

瀋陽駅から民主路を太原街まで行き、民主広場(旧・平安広場)に到ると、そこに軍艦の形を真似たという、日本人が1942年に設計し建造物(平安座という劇場が入っていた)、現在の市文化宮が在る。今もここには劇場が在る。賑やかな太原街の南の端がここ民主広場であり、太原南街をこの広場から少し北に行くと解放電影院に到る。曲線の壁が優雅な建物だ。この映画館は1928年以来の伝統を持つが、87年に大型改造をし、91年にさらに改修をして、今は映画だけでなく総合娯楽場(ダンス、玉突き、カラオケ、ビデオなど)になっている。しかし、映画館の入口には内部改装による営業停止の貼紙あり、傍らに、次のような掲示があった。つまり「新東北影城 中興七楼 観映電影的観衆朋友 請到中興七楼新東北影城」と。中興ビルは中華路と太原街が交差する北西角の存在感ある大きなビルである。映画を見たい人は中興ビルの七階の新東北影城に行ってくれということだ。たぶん近いうちに、この解放電影院では映画は上映されなくなるのであろう。この太原街には、東北第一いや東アジア第一だと言われた、有名な東北電影院があったとされる。しかし、今は取り壊されてしまっている。中興ビルと太原南街を挟んで商貿飯店があり、この飯店の北側は現在工事中で、大きなビルが建ちつつある。そこが、2003年11月まで東北電影院があった場所なのだ。瀋陽でも最も早い時期に建てられた映画館が東北電影院(旧名、大陸劇場、南京大劇院、東方紅影院と時代に応じ名を変えてきた)である。太原街地域の地価が、この映画館を取り壊させたのであろう。中興ビルの新東北影城という名はきっとこの映画館の名を継承したものだ。それにしても、規模やその歴史からも、取り壊される前に一度見てみたかった建物である。


民族電影院と群衆電影院と北市場の人民電影院 

和平区の北市場はかつて文化娯楽の密集した地域であった。ここには前後して、民族、群衆、人民そして解放後建てられた星光の4館の映画館があった。このうち、民族、群衆の両館は今も道路脇に建っていて、その姿を見ることができる。どちらも、南京北街(太原北街と並行して走る)と交差する道路を少し東に入った所に在る。民族電影院は市府大路沿いに、群衆電影院は皇寺路沿いに、交差するところから少し東に行けばよい。



群衆電影院

  

民族電影院は道路に面した最上部にこの5文字が見られる以外、全面を広告で覆われていて、映画館だったとは思えないくらいだ。今はダンスホールとしても使われているのだろう「舞庁」と看板が見られる。この他にビリヤードやビデオ鑑賞の部屋になっているようだ。映画が上映されなくなってから、もう随分となるそうだ。もともと、この映画館は1910年に造られ、「奉天堂」と名付けられていた映画館兼劇場であった。瀋陽でも最も早い時期にできた映画館の一つで、日本が敗戦した1945年まで、ずっと日本人の経営下にあり、日本語の映画が上映され、日本語の演劇が上演されてきていた。ただ、建物は最初の建物(現在の和平大街辺りにあった)ではなく、1941年に失火消失した後に、この地に建てられたものである。当時を知っている人によると、座席は無く、地面に直に座って見るようになっていたのだそうだ。その地面には一条の分離帯があったそうで、これは当時の奉天警務処の規定により、男女を分けるためにも設けられた線であった。映画館の中で、男女が一緒に座ることが、当時は許されていなかったのだ。

群衆電影院は1940年に修建され、43年に営業を開始した映画館で、当初の名前は保安電影院あった。営業から数年もせずして、満州国(中国での呼称は偽満州国)の崩壊、そして国民党を打ち破った共産党の東北解放によって、その統治下に入り、その文化娯楽を担う映画館として、大きな役割を果たした。60年代にいち早くカラーのシネマスコープの映画を上映したのもこの映画館であった。でも、現在この映画館には、映画の看板ではなく、東北三省で行われている演芸、「二人転(女形と道化が踊ったり歌ったりし、笑いと共感を呼ぶもの)」の看板の方が大きく掲げられている。演目は「老曲小調、幽黙小品、笑話戯曲、脱口秀等」とあり、日本の漫才や漫談に近いのではないだろうか。映画の方は半年も前の、10月の上映映画だとして、半分剥がれかけたポスターが8枚貼られたままである。まともに読めたのは、題名が「蜘蛛侠2(SPIDERMAN2)」「正義守望者(The Watcher)」「天羅地網」などであった。切符売り場の入り口には、手書きで「群衆劇場 ?業 内部装修 暫?業 開業時間?行通知 本劇場 3/3(?は停の略字か?)」と書かれた看板が立てかけられていたが、内部を改装補修している様子はまったく見られなかった。この映画館も近いうちに取り壊される運命にあるのだろう。

北市場街に人民電影院が在る。この外観3階建ての大きな長方形のような建物で、2階の角の部分に人民電影院と看板が取り付けてはあるが、それ以外に映画館らしいものはなく、映画館だと気づかずに通り過ぎてしまう。1988年に全面改装されてはいるものの、この映画館も1936年の満州国の時代にここに建てられた伝統を持つ建物なのだ。しかし、今はまったく映画館の機能を放棄し、その一部が住民の棲家となっているようだった。でも、入り口から入ったところには観客席に入るドアが今も左右対称に残されていた。



「皇姑影劇院」と「利群電院」




皇姑影劇院

瀋陽北駅から267路バスで「皇姑影劇院」行く、道路を挟んで皇姑区人民検察院の斜め北側に建物は在った。今は映画館の機能は果たして居らず、閉鎖されていて、その旧切符売り場の前で露天を開いていた人に聞いてみると、もう数年前から映画はやっていないとのことであった。昨年11月20日の「華商晨報」の記事によれば、2002年までは映画も上映されていたとのことだったのだが。正面は3階の建物に見えるが、劇場そのものは2階建て建築となっていて、正面の左右の壁には大型の壁画が一幅ずつ描かれている。京劇と地方劇の人物が描かれているというのだが、向かって右は定かではない。左は確かに人物を描いたものだと見て取れる。解放前後に建て直し、皇姑影劇院と名付けられた建物で、当時の流行であったソ連式風格を持っているとのことである。後部の観客席やスクリーンのあった建物の箱部分つまりその外郭は改築に当たってもそのまま残ったのではないだろうか。そんな思いでレンガ壁の大きな大きな倉庫のような建物を、周囲を回りながら写真を撮っていった。建て直し前の建物は「大寧劇場」と呼ばれ、日本人の出資による日本人経営の劇場で、1930年代に建てられた娯楽場所であった。新聞によれば、当時の建物を知る人の頭に残っているイメージとしては、瀋陽駅の風格に相当するような建物だったそうだ。少しオーバーな表現ではないかと私は思うが、壊され改築されてしまっているので、その真偽は確かめようがない。この劇場がある皇姑区華山路は鉄道線路と興工街の延長線上との間に挟まれた地域にあり、満鉄附属地或いはその拡大部分の中にあり、この道路の両側は日本人地区になっていた。

更に華山路を西に向かい、珠江街を越え、瀋陽市公安局皇姑分局の手前に在る小路を南に2ブロックほど行くと、「利群電影院」であった建物に辿り着く。ここは「瀋陽大戯棚(後、瀋陽大戯院と名を変更)」として1931年劇場が建てられたところだ。映画が盛んであった80年代前半に大改築して3階建ての建物になり、現代に到っているとのことだが、外見も内部もまったく映画館としてのイメージをなくしてしまっている。1、2階は正に生鮮市場である。3階に上ってみると、ダンスホールになっていた。入り口に立てかけた黒板に「早朝6時~8時、5角。一日8時~22時、1元。5月の定期、ダンス仲間の購入拡大を歓迎。」と書いてある。映画館がこのように変わったという証拠だと思い、写真を撮った。フラッシュが閃光し、入り口近くに居た大勢が一斉に私を訝しげに見遣った。その中から、大柄な男が出て来て、「何をしているんだ。何のために撮ったんだ。話を聞こう。」と気色ばんで言い、ホールに連れ込もうとする。慌てて、「利群電影院」と「皇姑影劇院」の名前と住所を書いたメモを見せ、「これらの映画館が現在どのようになっているか見てみたかったのだ。」と先ず述べ、「利群電影院」がこのようなダンスホールに変わってしまっていたので、写真に撮っていただけで、特別な意図はまったくなかったと弁明に努めた。なんとか分ってもらえたが、踊って行けと言われて、断るのにまた困った。昨今の日中関係から考えて、とにかく日本人とばれずに済んでほっとしたものだ。ところで、日本人より中国人の方が人生を楽しむ術を知っているんだなぁと、早朝のダンスで感じさせられた。

 北陵電影院(審判日本戦犯法廷旧址) 

1、2時限の講義を終えて、すぐに265路バスに乗り、北陵電影院に出かけた。日本の戦犯が裁かれた場所である。2002年に映画館としての役割を終え、今はこれといった用途のないままに、建物も荒れてきている感じだ。ほとんどの扉に鍵や鎖が掛けられていたが、一部のドアが押せば開いたので、中に入ってみた。このロビーには洋画のポスターが4、5枚貼られたままであった。「What Women Want」の題名に、「男人百分百」との中国語の題名を被せたポスターなども見られた。どうして、このような翻訳になるのか分らないが・・・、もしかすると、中国語の題名は英文題名の解答なのかもしれない、つまり、「完璧な男性」。

  闖入者があったことに気づいて、人が出てきた。そこで、「審判日本戦犯法廷旧址」を参観させてもらいたい。「審判日本戦犯資料展室」もあるはずだと申し出てみた。その人は私を表に押し返しながら、「もう何もここには無い、九一八博物館に行け」と言って相手にしてくれず、外に追い出されてしまった。審判の行われたところだけでも見せてもらおうと再度交渉したが、まったく相手にしてくれない。仕方がないので、映画館の表に取り付けられた2枚の牌子を写真に収め、映画館の横手や裏側に回り、その概観を収める。1枚の牌子は瀋陽市の文物保護単位であることを明示するもので、もう1枚は「審判日本戦犯特別軍事法廷旧址」の説明である。訳してみると次のようになる。

 審判日本戦犯特別軍事法廷旧址

1956年6月9日―7月20日

1956年4月の「拘留中の、日本が中国を侵略した戦争で罪を犯した、分子に関しての全国人民代表大会常務委員会の決定」により、1956年6月9日から7月20日にかけて、最高人民法院特別軍事法廷は瀋陽と太原の2箇所で別々に鈴木啓久、富永順太郎、城野宏、武部六蔵等の4つの案件45名の日本人戦犯の裁判を行った。1956年6月9日午前8時30分、瀋陽特別軍事法廷が正式に開廷され、日本の前陸軍中将師団長鈴木啓久など8名の主要な戦犯の裁判が行われた。これは中国人民が1840年のアヘン戦争以来、初めて、中国の国土で中国人が裁判官として、いかなる外来の妨げも受けずに、外国の侵略者を裁いたもので、中国の大地で起きたこのことは、当時、世界の注目を集めた大事であった。    

 瀋陽人民政府制定

 一九九六年六月九日 

                                         

 文の最後の辺りには、半植民地でなくなった、独立国としての誇りが強く窺える。40周年を記念して、1996年には当時の法廷の姿が恢復され、人々の参観に供され、資料展示室も企画されたようだが、私に対応した人によれば、ここには何もなく、全ては九一八博物館に展示されているとのことである。



後方から見た北陵電影院


この北陵電影院の場所は、瀋陽北駅の真北で、黒竜江街77である。バス停なら「北陵電影院」停留所になる。265、279、280、281、290、292の路線バスがここに停まる。

東北大学出版社出版「瀋陽名勝」の「審判日本戦犯法廷旧址」の項で、編者の李鳳民は最後に「前事不忘后事之師」と書き出し、我々は世界の人民に戒めて、日本帝国主義の中国侵略罪悪史をしっかり心に刻むことで、このような歴史を2度と起こさせぬようにせねばならない、と結んでいる。

この「北陵電影院」も早晩取り壊されてしまう運命にあるのではないだろうか。日本人としては、現代史の現場そのものとして見ておく価値のある場所だと、私は考えている。

 それにしても、その時々の民衆に娯楽を提供してきた映画館が、戦争犯罪を裁く法廷でだけでなく、文化大革命の時期には吊るし上げの舞台の役割を担った現場であることも忘れてはならないことだと思う。今回取り上げた映画館劇場はどれも文革時代にはこのような歴史を刻んできている。

(2005年5月記)

2004年度第3号 (2005年6月発行)通巻20号


5,自己紹介

加藤 正宏

(瀋陽薬科大学)


本館前校内道路の雪かき


兵庫県の高等学校で世界史を担当していた教師です。中国で日本語の教師をするのは3回目です。1回目は1986年4月から88年3月までで、西安の西北工業大学です。2回目は2000年9月から2002年7月にかけてで、長春(偽満州国時代には新京と呼ばれた首都)の吉林大学です。これら2回は兵庫県の現職教師の籍を保持したまま、休職して、中国へやって来ました。

今回(昨年9月からの瀋陽薬科大学)は、定年を迎えて、フリーになった状態でやって来ています。

今年度、教えているのは中薬日本語班の学生31人で、旧版「標準日本語」をテキストとして使っています。1年間で、中級の下までやり終えるのが目標で、1週間に12時間の授業があります。この他に昨年度1年間勉強してきた薬学日本語班の学生30人に、2時間の授業をしています。これらを合算すると、1週間に計14時間になります。

以上のような簡単な紹介にしようと思ったのですが、余りにも素っ気無い感じがしますので、中国生活の中で楽しんでいる事柄を以下に挙げて、自己紹介の 補足としたいと思います。

私の中国での楽しみの一つは中国人との交流です。とりわけ、庶民(老百姓)との交流です。

(路上での老百姓との食事)

街中で出会う人々と、下手な中国語を使ってですが、交流してきました。どの都市でも、街中で出会った庶民(老百姓)の方、何人もと友人となり、家に迎えられて食事をご馳走になったり、小さな食堂で酒や食事を共にしたりしてきました。時には、路上で車座になり、食事をしたことも何回かあります。東北の長春や瀋陽では、日本語を話す庶民との出会いも、時にはあり、交流を深めることがありました。これらの方は、満州国(中国では偽満という)時代に日本語を身につけた高齢の方たちです。当時の経験を、生の話として語ってくださるこれらの方たちとの交流は、歴史の教師であったこともあり、私にとっては宝物のようなものです。この国慶節の黄金週間にも、長春でのこれらの友人4人に会ってきました。78、80、81、87歳と、いずれも高齢な方たちです。若かった頃の話を、思い出し、思い出し、彼らは語ってくれます。

また、土日に開かれる、路上の古書・古玩市に欠かさず出かけては、歴史の証言者(物)としての当時の文書・書物などを探し、集めていたので、古書・古玩市の小店主とも顔なじみとなり、交流を深めることになった店主も少なくなくありません。今回の国慶節の長春旅行でも、3年前の私を忘れていず、久しぶりだと言って、小吃店でご馳走してくれた人物もいます。彼らはまったく日本語が喋れないので、私の下手な中国語での交流になりますが、時には筆談を交えるので、意思疎通は十分できます。このような庶民(老百姓)との交流が私の中国での生活を豊かにしてくれています。

なお、昨年の「日本語クラブ」第1号(第18号)に違った角度から自己紹介を書いていますので、そちらも併せて読んでいただければ幸甚です。(記、2005年10月11日)


6,マンホールの蓋を尋ねて瀋陽史跡探訪13  へ転載 写真入りへリンク


加藤 正宏

(瀋陽薬科大学)

 2000年から2002年にかけて、私は吉林省長春市にある吉林大学で日本語の教師を勤めた。吉林省長春市は満州国(中国では偽満)の首都であった新京特別市である。現在(2004年~)、瀋陽薬科大学に在籍し、同様に日本語の講義を担当しながら合間を見つけては、日本と関わりのあった瀋陽(旧奉天)に存在する場所や建物を、直に自分の目で見てみたり、当時のことを知っている方から聞き取りをしたりしている。吉林大学に勤めていた頃も同じように行動していた。マンホールの蓋を見て歩く楽しみを覚えたのは吉林大学に勤めていたその頃で、長春市(旧、新京特別市)の街路を尋ね歩いていた。

 西澤泰彦著「図説『満州』都市物語ハルビン・大連・瀋陽・長春」ふくろうの本・河出書房新社(1996年初版)の、「マンホールの蓋」(95頁)に4枚の写真を掲げた一文があり、瀋陽の満鉄附属地に残る満鉄のマンホールの蓋(満鉄のMにレールの断面を組み合わせた図案に、アルファベットのS字付き)、満州電信電話株式会社のマンホールの蓋(Mの上下にTを配し小円となし、小円の左右に「話」と「電」で挟む)、新京特別市のマンホールの蓋(中央の小円に「下」の字、これを左斜め上から「京」、右斜め上から「新」の文字が挟む)、満州最古のマンホールの蓋(満鉄のMにレールの断面を組み合わせたもので、図案そのものが他に比べて大きい)が紹介されている。そして、新京の文字は字のままなので別にし、他のものについては図案の絵解きをされている。S字は下水の意味するアルファベットの頭文字、 MTT は Manchuria Telegram Telephone の頭文字による略で、満州電信電話株式会社を指していると絵解きする。そういえば、NTTは日本電信電話公社の略号であった。生粋のアカデミズム分野からは認知されない「路上観察学」のうちでも、このマンホールの蓋による分野はまともな学問と渡り合うことができる数少ない分野の研究だし、奥深い学問だと、西澤泰彦氏は評価する。そして、イラストレーターの林丈二氏が本格的に始めた分野であることも紹介している。

 これら先達の示唆を受けて、私もこのマンホールの蓋を観察して歩くようになった。最初に見つけたのは、長春市(旧、新京特別市)の中南海(北京の政府要人が住む地域)と呼ばれていた朝陽路、中華路の路上や吉林大学の構内の路上であった。新京の文字のある蓋を最初に見つけたときは嬉しくて何度も靴先を文字の辺りこすりつけ、文字を確かめ、いろんな角度から写真を撮ったものだ。このような私を訝しげに眺めて通り過ぎていく者が多数であったが、時には立ち止まる人も居て、何をしているのか訊ねられた。誰も気にせず、踏みつけて通っているマンホールの蓋である。訝しがるのも当然であったろう。公の街路上のマンホールの蓋にはアスファルトやセメンで文字を塗りこめてしまっていたのが、剥がれて姿を見せてしまったと言う感じのものも多かった。現中国になって、満州国の旧首都名が漢字で刻まれているこの蓋は目障りであったにちがいない。しかし、それらを全て取り替える経済的な無駄もしたくは無かったので、セメン張りなどしたのではなかろうか。

 瀋陽で勤務するようになってからも、絶えずマンホールの蓋に注意を向けていたが、簡体文字を刻む蓋やアルファベットの?音を刻む蓋など、現中国のそれと思えるものがほとんどであった。ただ、やたらと各所で見かける記号(マーク)だけの蓋が気にはなっていた。しかし、長期間分らなかった。或る時、謙光社発行「満州慕情」満史会編(昭和46年)の中の写真を見ていて、奉天市公署の写真が目に留まった。その門扉にマンホールの蓋と同じマークが付いているではないか。早速、マークを奉天の文字で絵解きを試みたがうまくいかない。そんな時、路上の古玩・旧書市で奉天市公署の別の写真を入手した。ここにも、門扉に例のマークがついている。やはり、このマークと奉天市公署とは関わりがあるはずだと、いろんな中国人知人に尋ね歩き、私の推論も述べてみたが、確とした答えは得られなかった。薬科大学に集中講義で来られている貴志先生の知人で、遼寧省図書館勤務の方にも聞いてみたが、返事は梨の礫であった。そうこうしている時、路上市でもインテリとして仲間内から一目置かれている人物が、篆刻に使われる篆字の奉と天を1字に組み込んだものだと教えてくれた。ただ、これが奉天市公署のマークだったか否かについては、彼も知らなかった。私自身、篆字の辞書で確かめてみたが、納得いくところまではいかなかった。でも、2字を1字に組み込んだのだから、少し無理があるのも仕方がないとろだと篆字の奉天だと認めることにした。これは奉天市公署の管轄下にあったものだから、市内各所に見つけることができる。同じ鋳型のものばかりではなく、マークの基本は同じだが、デザインには数種あるようだ。

 満鉄のマークを最初に発見したのは、中国医科大学(旧満州医科大学)病院の敷地内であった。その近くには「+」を刻む蓋も見かけた。病院を意味しているのであろうか。

 それ以後、なかなか見つけることができなかったのだが、瀋陽駅(旧奉天駅)の近くの街路でいくつも見つけることができた。勝利大街(旧宮島町、旧若松町)、昆明街(旧橋立町、旧紅町)、民族街(旧松島町、旧弥生町)、蘭州街(旧江島町、旧霞町)など、太原街(春日町、青葉町)より西側(駅寄り)をくまなく見て歩けば、探し出すことはさほど難しいことではない。一度歩いてみてはいかがであろうか。

 勿論、当時満鉄附属地が設定されていた都市では、この満鉄のマークのマンホールの蓋を探すことは可能である。私は吉林省の長春市(旧、新京特別市)でも、見かけている。

 昆明南街(旧紅町)では、壁に残された満鉄のマークも見つけ、「加藤正宏の瀋陽歴史探訪」の「満鉄附属地その1、補足」(瀋陽教師の会HP、会員交流のページ)で写真を紹介させてもらっている。現在、マンホールの蓋に刻まれた満鉄のマークに4種類のマークを見つけている。一つは、西澤泰彦が紹介しているMの文字にレールの断面を中央に配し、円で囲み、下にSの文字を刻むものである。二つ目は、マークを円で囲むだけで、Sの文字が無いものである。三つ目は、Sの文字が無く、マークを二重円が囲む比較的大きな蓋のものである。四つ目は、マークを「話」と「電」の文字で挟みそれを円が囲むものである。それぞれ用途分けがあったのかどうかははっきりしない。Sのはsewer(下水管)とはっきりしている。右書きの電話に満鉄マークのそれは満鉄附属地の電話関連施設だったのであろうか。直ぐ傍には中国鉄道のマークに左書きで電話と書いたマンホールの蓋が並んで存在していた。たまたまそこに居た中国人に訊ねたところ、満鉄のは古くて、中国鉄道のは新しい、古くは右書き、現在は左書きだと答える。でも、中国鉄道のも「電」が簡体字ではないではないかと問うと、50年代末ぐらいまでは繁体字が使われていたとのこと。右書き、左書き、簡体字、繁体字の区別でおおまかな時代分けも可能だということになる。

「〒」マークを「話」と「電」の文字で挟んだマンホールの蓋も見つけている。最初に見つけたのは太原街郵政支局(旧中央郵便局)の北側、配送車などが出入りする北三馬路(旧北三條通)と蘭州北街(旧江島町)の交差する路上に「〒」マークとそれを挟んで摩滅し読み取れない文字を見つけ、大発見をした気持でいた。このマークは日本の郵便局のマークである。それが路上に残っていたということは、日本の租界地であったかのような満鉄附属地の姿をはっきりと物語っているからだ。この大発見を紹介したくて、友人の山形夫妻を案内してきて、文字が解読できなくて残念なんだがなどと言いながら、得意げに見ていただいた。その後、北三馬路(旧北三條通)から太原北街に出て、歩道を中山路に向かって歩いていたところ、夫妻から呼び止められ戻ってみると、なんとそこには、「〒」マークを「話」と「電」の文字で挟んだ完全なマンホールの蓋があるではないか。これこそ大発見である。太原北街の歩道に立派なのがあったのだ。山形夫妻の大大発見である。このことで、文字解読の問題も解決した。郵便と電話の関係だが、現在は分離しているものの、中国でも郵電部と昔は言っていたし、日本でも郵便局の中に電話部門があったようだ

このように、マンホールの蓋が、その設置されている土地について、その歴史を語りかけてくれている。この語りかけに耳を傾けてみるのもおもしろいことだ、目を皿のようにして、路上を見て歩きながら。

なお、西澤泰彦著が紹介していた満州電信電話株式会社のマンホールの蓋(Mの上下にTを配し小円となし、小円の左右に「話」と「電」で挟む)、満州最古のマンホールの蓋(満鉄のMにレールの断面を組み合わせたもので、図案そのものが他に比べて大きい)の二つは未だに見つけ出せていない。

以下に私の見かけたマンホールの蓋の写真を掲げる。(記、2005年10月10日)


日本語クラブ22号  2006年上半期

7,留 用瀋陽史跡探訪23  へ転載 写真入りへリンク)


      加藤 正宏(瀋陽薬科大学)

 「シベリアに抑留され、大変でした。」などと、「抑留」という言葉はどこかで目にしたり、耳にしたことのある言葉であろう。しかし、「留用」という言葉はどうであろうか。私自身、最近までこの言葉を知らなかった。

 「満鉄附属地」をHPで何回か紹介させていただいく過程で、奉天の附属地についての貴重な情報を寄せてくださる方々と知り合った。これらの方々が情報を寄せてくださるメール文の中で、この「留用」の文字に出会った。目にしたことのない、耳慣れない言葉だなあと思いながら、「抑留」(他国の人や物を、その国に帰さないで、強制的にそこにとどめおくこと:三省堂の新明解国語辞典)と同程度の意識で受け止めていた。

 私のこのような認識を覆す情報を、栗原節也さん(瀋陽日本人教師会のHP「満鉄附属地」にたびたび情報を寄せて頂いている方)から頂き、この言葉を十分捕捉していなかったことを知った。そして、私はその認識を改める機会を得た。

 栗原さんの情報は次のようなものであった。

 「留用すなわち抑留とはならないのではないかと思います。 国府時代についていえば、当時の日本人の置かれた立場、情況および彼我の関係から、形式上は命令の形で残った、残された訳ですが、全てが強制によるものではなく、懇願されて残った者、希望して残った者もいたようです。 過去に比べたら不十分であっても住居があり、給料が支払われ、教育設備もあり、行動の自由があったわけですから、抑留的処遇とは少し違うように思います。 なお、共産党、軍の留用者は『國際友人』と呼ばれていたとか・・・。」

 そして、「留用」について書かれた本を紹介してくださった(写真)。NHK取材班による「『留用』された日本人」、サブタイトルは「私たちは中国建国を支えた」というもので、日中国交回復30周年の特別番組を本にしたもの、2003年にNHK出版で初版が出されている。

 春節にあわせ帰国した時期、この本を取り寄せ読んでみた。

日本の敗戦(中国などでは光復)後、東北に残された多くの日本人は帰国を急いだ。そんな中、半強制的な状況下で残らざるを得なかった日本人たちが居た。技能や技術を身につけた日本人に、新中国はその建国に協力を求めたのである。栗原さんの言われているとおり、懇願されて残った者、希望して残った者も居たが、その多くは帰国を頭に描きながら、時の状況下での運命を受け入れ、「留用」(留め用いる)を受け入れてのものであった。しかし、彼ら日本人に対する中国の処遇は戦争捕虜のそれではなく、友人としてのそれであり、栗原さんも言われているように、住居も与えられ、給料も支払われ、子どもたちの教育施設も考慮されていた。それは、中国人の技能者や技術者同等、時にはそれ以上でさえあった。このような処遇の中で、日本人の多くはその勤勉な態度でこれらに応え、新中国建国の初期の活動を支えた。その真摯で勤勉な日本人の態度は、共に建国に携わる多くの中国人の心を捉え、信頼を勝ち得て、友好を深めていった。老百姓(庶民)と老百姓(庶民)が共に働き、共に生活していく中で培われていった実のある友好であった。

 もう一冊、栗原さんは紹介してくださった。2006年1月号の雑誌「人民中国」である。若い頃、私も読んでいた雑誌である。紙質が良くなって、今も発行が続けられていた。武吉治朗の記事「友人として扱われた『留用』日本人」がそれである。この中で、中国中日関係史学会が1999年に「留用」日本人の事跡を発掘、編集して記録に留めることを決議し、その成果として、「留用」日本人の壮絶な生き方を綴った「友誼鋳春秋」(中国語版)が2002年に第一巻、2005年に第二巻を刊行したこと、またこの二冊を日本僑報社の「新中国に貢献した日本人たち」として武吉自身が翻訳したこと、そして、この翻訳書に故後藤田正晴氏から「本書に登場する人々は、戦争で破壊された日中両国の友好を、自らの汗と血で修復して、今日の礎を築かれた。両国関係がきびしい状況にあるとき、地道な草の根交流という原点に立ち返るよう、本書の人々は呼びかけている。」との推薦文をもらったこと等を紹介している。







 私の読んだNHK出版の「『留用』された日本人」という本でも、「留用」日本人たちが、後藤田氏が書いているように、戦争で破壊された日中両国の友好を、自らの汗と血で修復しいった内容が、鉄道関係、医師・看護婦関係、空軍軍関係、鉄鋼関係など、それぞれの専門分野で頑張られた様子を通じて紹介されていた。予期しなかった一つの困難な時代状況下に置かれても、頑張り、日中両国の友好の草の根交流の基礎を作っていかれたこれらの「留用」日本人の姿には、胸を熱くされるものがある。

 HP「満鉄附属地」に情報を寄せて頂いた方々の親族にも、「留用」日本人として日中友好の基礎造りに貢献された方が多く、また、「留用」日本人の看護婦として残られ、後には中国人と結婚され、瀋陽に今も住んでいる方に電話をおかけする機会などもあって、「留用」という言葉は、私にはより身近な言葉になってきている。

半強制と自由意志との違いはあるものの、私自身も、早くから日中友好の草の根交流の一つの役割を担おうと考え、1986年~88年(西安、西北工業大学)、2000年~02年(長春、吉林大学)、2004年~現在(瀋陽、瀋陽薬科大学)と、日本語教師として行動してきている。西北工業大学や吉林大学の先生や学生たちとは、中国に彼らを訪ねたり、日本の我が家に彼らを迎えたりして、今でも頻繁に交流が続いているし、街中で知り合った人たちとも文通したり、時には訪ねて行ったりしている。

 「留用」日本人の方々を知るに到り、「留用」日本人の方々が築かれた日中両国の友好の草の根交流に思いを馳せると、その原点を見失わずに、継続して、その役割を担っていきたいものと思いが、改めて心の中に涌いてくる。

 「留用」、この言葉は日本のほとんどの辞書で、未だ取り上げておらず、探せない。中国でも日本でも特に取り上げられるようになってから、まだ、数年しか経っていないようだ。この言葉が一般的な言葉となって、辞書に定着し、日中双方の歴史教科書に記載されるような時期が早く来て欲しいものだと思う。双方の教科書に「『留用』日本人」のことが記載されるということは、日中が全ての面で友好を深めている証左にもなるものであろうから。 


日本語クラブ22号

8,遼寧省の糧票や購貨券の図案から

丹東の中朝友誼橋と断橋にも触れる)        

 加藤 正宏(瀋陽薬科大学)


1985年、初めて中国を旅行した時、天安門の北にある午門から入り、紫禁城(故宮)を見学して、真北に位置する神武門から出た。このとき、門外に建ち並ぶ露天の一軒でうどんを食べようとしたところ、変わった小額紙幣を目にし、店主に請い譲ってもらった。それは壹分、貮分、伍分の当時の紙幣と体裁も色も形も、あまり違わなかった。しかし、これは紙幣でなく、「北京市地方糧票」の壹市両と貮市両であった。それ以来、糧票及び糧票の類の収集に努め、30強の中国行政区(省・自治区・直轄市)のそれらを集めてきた。現在1000種弱もの糧票の類を手元に所持している。

 糧票は、食料の十分でない時期、社会主義の精神にそって、中華人民共和国の国民に漏れなく食料を分配するために発行されてきたものである。これ自体は、代金にこの票を添えて初めて、食料が入手できるもので、金券そのものではないが、歴史的役割を約40年にわたって果たしてきた。

 政務院の1953年の命令に端を発し、55年には法が制定され、糧票は各行政区で流通し始めた。農業生産責任制の下で、農民が政府に納めた後の剰余的生産物を処理する権利を持つようになると、80年代後半からは自由市場が各地に現われ、本来の食料分配の役割はしだいに担われなくなった。そして、90年代初めにはその役割を終え、廃止され、現在は発行されていない。しかし、各行政区で約40年間にわたって発行された糧票及び糧票の類の種類は膨大で、収集の対象になっている。

糧票の類とは穀類以外の油票、魚票、肉票、煤炭票、布票などである。また、様々な物品供給の不足に対し、それらの購入を国民全体の間で円滑にするために発行されていたのが、購貨券であった。

 収集してみると、年代や地域などの違いで、字(繁体字と簡体字、民族文字と漢字)、単位(16進法と10進法、市斤と公斤と克)、標語(毛沢東の語録など)、図柄などに、時代や地域が反映されていて、なかなか面白いものである。また、図柄にはその地域を代表する名所旧跡が取り上げられることが多く、これも楽しい。

今回、遼寧省の糧票と購貨券の図柄を幾つか紹介してみようと思う。

① 1964年の壹市斤

に描かれているのは省都瀋陽にある遼寧工業展覧館である。1960年に完成した。二つの塔の屋根と四周の屋根の瓦屋根からは、中国の民族的な建築様式が感じ取れる。ここでは、いつも何か催しが行われている。時には、新しい書籍の廉価販売が行われることもある。2階には常設の店があり、デパートの1フロアの感じである。

上、遼寧省展覧館(糧票)、下、瀋陽駅(購貨券)

 ② 1963年の1張券

 瀋陽市購貨券の図柄は、瀋陽駅である。日露戦争の結果、ロシアの権益を受け継いだ日本は、東清鉄道支線の長春以南旅順までを、南満州鉄道つまり満鉄として継承した。この満鉄最大の駅建物として、1910年に落成したのがこの建物である。この建物の2階にはヤマトホテルも最初は入っていた。





 ③ 1968年の0.1張

券瀋陽市購貨券の図柄は、文化大革命最中のもので、その特徴をよく表している。毛沢東選集を掲げ持つ軍人とこの軍人を挟み込むように穀物の束を担ぐ農民(女性)と工具を手にする工人(男の労働者)が配され、背後には毛沢東選集を手にする多くの民衆が描かれている。

(毛澤東語録のある購貨券と糧票)

文字も「最高指示:抓革命、促生産、促工作、促戦備」(抓=捉える、工作=労働)だけでなく、図柄の垂れ幕にも語録の文字が見える。裏面には林彪の直筆なる毛沢東をカリスマ化した「毛主席の書を読み、毛主席の話を聴き、毛主席の指示を実行せよ」(拙訳)の文字が印刷されている。これは林彪の四句話の三句までで、次の四句は「毛主席の素晴らしい戦士になれ」(拙訳)となる。1969年の0.1張券錦州市購貨券にも林彪が毛沢東をカリスマ化したプロパガンダが記載されている。毛沢東が中国革命の舵取りだと例えている句だ。1969年の壹市両遼寧省地方糧票には「発展経済、保障供給」の語録も見られる。



④ 1988年の壹公斤(1キログラム)

丹東市居民大米供応票の図柄は、中朝友誼橋が主題となっている。

(丹東大米供応票)

2006年1月10日から9日間、中国の南方を極秘に視察して廻った金正日総書記が出入りするのに利用したのが、この鉄橋である。この鉄橋を真下に見ることができる中聯大酒店に昨年私は宿泊した。



丹東中朝友誼橋と断橋


 この中朝友誼橋は日本によって1937年に建てられ始め、1943年に完成した鉄道橋である。最初はドイツから鋼材を輸入して建造にあたったが、太平洋戦争突入で戦争が深刻化していく中、鋼材の輸入が難しくなって、吊り弦を連続した梁の橋にする予定は、途中で変更せざるを得なくなり、朝鮮側の部分は鋼材を倹約した平弦連続の梁となり、現在見るように中国側と朝鮮側では外観が異なってしまった。この橋は鴨緑江に架けられた2番目の橋であった。当時、丹東は安東と言われていて、最初の橋はこの橋の100メートルほど河口側に造られていた。これも日本が造った橋である。建設が朝鮮側から始まったのは、日露戦争後の1908年である。京義線(京城~新義州)と安奉線(安東~奉天)を結ぶ鉄橋であった。1911年3月には中国側からの建設も始まり、10月に大橋は完成した。これが鴨緑江に架けられた最初の橋であった。橋の中程の橋梁は20分かけて橋梁を90度回転させる開閉梁になっていて、大きな船も航行することができた。この鉄橋は第二鉄橋の完成で、道路橋に変わったが、これら二つの橋は姉妹橋と呼ばれていた。

しかし、この橋の開閉梁より先の朝鮮側部分は現在存在しない。1950年の朝鮮戦争時に米軍のB29爆撃機の爆撃を受け破壊されたのだ。破壊されて熱で溶けたようになった開閉梁の一部を含む残存したこの橋を、中国は断橋と名付け、愛国教育基地として観光化させている。この断橋の袂の嘗ての日本の守衛詰め所であった望楼も、日本の中国侵略の鉄証となる物件だとして、ここも観光化されている。中国においては、中央や地方政府による愛国教育基地化は到る所で見られる。日本では、広島や長崎の原爆投下地点は愛国教育基地ではなく、平和教育基地なっているんだが・・・・。







日本語クラブ22号

9,中国に魅せられて

       加藤 文子 (瀋陽薬科大学)



幼稚園の建物になっている新京(現在の長春)神社

 私は以前、夫と共に長春に暮らしたことがあり、中国を懐かしむ気持ちもあって、3,4ヶ月に一度は瀋陽に来ています。

 春節の休みがあけて、私たちは瀋陽の空港に着きました。雪が降っていて、一挙に真冬の寒さに引き戻されました。私は寒さにふるえましたが、夫は妙に生き生きしています。


偽皇宮の門と庭にある地下壕

新京の西本願寺




路上市




 彼は学生に日本語を教えることを楽しんでいますが、週末になると更に元気になるようです。というのも、土曜、日曜は古玩城の近くで開かれる骨董や古書の市に出かけるのを楽しみにしているからです。

古書を買い求めることのほかに店主や老百姓(庶民)との交流も楽しんでいるようです。

私も何度か同行し、お喋りを楽しみましたが、古いものに興味のない私には歩くだけでも疲れます。おまけに購入した本で重くなった荷物があっても、絶対にタクシーに乗りません。「一元のバスがあるじゃないか」というのが、持論です。食事も「腹が空いたら食べる」ので、「食べるために生きているのではない」と言います。

 皇寺の前の清朝歴代皇帝の像の前で山形夫妻と共に


 私は長春のときから、彼と一緒に歴史的な建造物を散策するのを楽しみにしています。実際に当時のものを目にすると、過去の歴史に直面せざるを得ない思いがします。瀋陽では、山形御夫妻が彼の理解者になってくださり、四人で街を探索しました。歩いた後はおいしい食事つきです。グルメな山形先生のおかげで、中国に来たくなる理由の一つが増えました。

 今回、私は毎回教室に行き、学生と交流ができました。日本人教師の会にも出席させていただき、先生方の熱い思いを知ることができました。これも貴重な体験です。ありがとうございました。

学生の部屋 


 彼が中国での生活に慣れているのはいいことなんですが、心配もあります。多少中国語が喋れるので、そのぶん中国人とトラブルを起こさないかということです。服務員とケンカになったこともあるし、以前の大学では誤解を受けたこともあります。「われわれは個人として来ていても、日本を背負っているんだから、言動には気をつけないと・・・・」と話し合ったことがあります。反日デモがあった時も、彼は領事館の近くまで見に行ったと言います。好奇心はいいのですが、「年寄りの冷や水」というような事にならなければ・・・と思っています。

 夫が赴任した西安・長春・瀋陽でたくさんの友人知人ができました。留学生としてや仕事で日本にやって来た中国人が何人も日本の我が家を訪ねて来てくれています。これは私達にとって貴重な宝にとなっています。

 今回の私の滞在も残りも少なくなりました。彼は買い求めた本を詰め、来た時よりずっと重くなった荷物を持って帰国します。次回もどうぞ宜しく。  (2006・3・5)

 瀋陽日本語クラブ23号

 瀋陽日本領事館の庭で学生と



 10,葫芦島に行く瀋陽史跡探訪24  へ転載)    

  加藤 正宏 (瀋陽薬科大学)                写真入りにリンク

 ♪♪♪・・・ひょっこり瓢箪島・・・♪♪♪・・・浪を掻き分け掻き分けどこ~へ行く・・・♪♪♪

おぼろげに覚えているNHKの人形劇ドラマの主題歌である。葫芦島を日本で一般に使われている言葉で言い換えれば、瓢箪島になる。葫芦島市は遼寧省の西南にあり、ここにある龍港は、大きく取り上げられることは少ないが、日中の絡みがある現代史の舞台になったところだ。

一つは、満鉄が東北中国の経済支配を進めていく中で、これに対抗して中国の民族的利益を守ろうとして、満鉄の路線に並行、或いは交差しながら計画建設が進められた民族的鉄道路線、その南端に物資の輸出入港として建設されようとしていたところが葫芦島の龍港だ。つまり、日本の物資輸送の独占を打ち破ろうとして築港が急がれていたところである。

もう一つは日本の敗戦後、引き揚げ船が中国を離れ、日本に向かった港であった。

前者について、以下に原田勝正著『満鉄』岩波新書(1981年出版)を少し引用しておく。

「しかし、中国東北では、張学良の独自の政策がすすめられていた。張学良は、前にものべたように中国側満鉄並行線の計画を以前からすすめてきていた。一九二七年一〇月には打虎山・通遼間を、一九二九年五月には吉林・海竜の間を開業した。前者は、満鉄線の奉天・四平街の西側を、後者は、四平街・長春間の東側を走る。」「中国側は張作霖殺害の直後、一九二八年九月に東北交通委員会を設置した。これは、中国東北における交通・通信を統括する最高機関であった。張学良がリードして、この委員会は一九三〇年五月、連山湾をへだてて営口と対する葫芦島に貿易港を建設すること、そしてこの築港から奉天・吉林を経て撫遠にいたる線、チチハルを経て黒河にいたる線、赤峰を経て多倫にいたる線、この三本の幹線一万キロを一五年間で建設するというのである。」(P.134~135)

このような日中絡みの現代史の舞台であったところを、目にしてみようと5月の黄金週間の一日を割き、見て歩いてきた。

8時に瀋陽北駅附近の虎躍バスターミナルから乗車、葫芦島まで3時間強(66元)、11時少し過ぎには鉄路葫芦島駅前のバス待合所に着く。葫芦島駅前の路線バスの運転手さん幾人かに張学良の築港記念碑のある所を訊ねまわったところ、一人の親切なバス運転手さんが、これに乗って途中で乗換えだと教えてくれた。乗り換えの場所も、着いたら指示してくれ、乗り換えバスも教えてくれた。最初のバスは3路バス、約30分乗車、望海広場で乗り換え、11路バスに乗り換えて終点まで10分。3路が1元、11路が5角。そこは葫芦島の港である龍港だ。引込み線の直ぐ近くには渤船重工の会社が港を大きく占有していた。その大きな門からの道路の少し入った所、道路中央に毛沢東の立像が建っていたので、その辺りに張学良の築港記念碑もあるのではないかと思って、門衛さんに聞いてみたら、違っていた。引込み線の先を右に行き、海に突き出した小さな丘の上だと教えてくれる。海に突き出した崖が小さな丘のようになっているところに、小さな亭が二つ見える。その上の方の亭に碑が建てられていた。「中華民国拾九年?月貮日立、葫芦島築港開工紀念」、この文字は張学良の手になるものだ。裏面「1930」とある。


     張学良の記念碑

1995年に葫芦島市龍港区人民政府が「葫芦島築港開工紀念」碑址を修築した解説によると、その大要は以下のようなことになる。     

葫芦島の北方は天然の良港で、清末以来何回か築港の動きがあった。例えば、清末光緒34年(1908年)、東北三省総督徐世昌が奉天勧業道黄開文に命じ、黄はイギリスの技師を招き、宣統2年(1910年)工事を始めた。実用経費は銀120余万、400強フィート防波堤である。しかし、経費の欠乏により中止となった。辛亥革命を指導した孫文が著した『建国方略』には、葫芦島の築港について綿密広大な構想が記されていた。しかし、その願いは達せられなかった。民国8年(1919年)、当局は資金1千万元を調達し、周肇祥を任じ、築港に当たらせた。しかし、内戦が連年続く中、無為に時間は流れ、計画は流産してしまった。1929年、国民政府鉄道部長(※部は日本の省)孫科は前議を継続し、北寧鉄路管理局長高紀毅に築港をやらせた。彼は多くの協議を経て、翌年オランダの会社と契約を結んだ。その建築費は640万米ドルで、民国24年(1935年)10月15日以前に竣工というものであった。

1930年7月2日、築港開工儀式(典礼)が行われ、東北保安指令張学良将軍がわざわざ参加、自ら書いた「葫芦島築港開工紀念」紀念碑の除幕にあたった。

しかし、工事が進むに到る前に、日本の侵略者が侵入し、工事は中途で挫折してしまった。

1935年、日本侵略者は「葫芦島港築港委員会」を組織し、この工事中途のままであった港を修築し、三つの貨物運送の桟橋を造り、大連航路を開通させた。

中華人民共和国建国後、党中央国務院は海港建設を十分重視し、南北物資の交流の作用を発揮させた。しかし、文化大革命期間、紀念碑は海に投げ込まれ、数年後に引き上げられるなどしたため、現在の碑は復元や修繕が加えられてきた。

世紀の交代に際し、区政府は「葫芦島築港開工紀念」紀念碑址を、その原碑を保ち、規模を拡大することを決定し、貨物出入りの多い停車場を避けて、港の見えるこの現在の場所の亭に建設した。

以上のような大意の解説がなされていた。

王貴忠著『東北鉄路建設史(19221年―1931年)』満鉄研究中心(1996年出版)P.170~181から少し補足しておこう(中国文から筆者が大意を抜書きしたものである)。

1908年の計画は次のような目的や理由があった(上記碑文に書かれた以外に)。冬季不凍の海で、天然の良港であったことや、ここから鉄道線を伸ばせば、錦州、朝陽、赤峰、熱河承徳、瀋陽などの貨物を扱うことができること、大小40余艘を受け入れられる商業港として考えることができたこと。築港期間は1910年に工事を開始し、6年で完成する予定であった。しかし、辛亥革命で工事は停止されてしまった。その後も何度か工事が再開されたが、資金の不足で停止されている。

1919年の計画は張作霖が遼西と内蒙古を開発させるために、港と鉄道路線を造ることを提案したもので、奉天省政府と北京政府の交通部が調印し、資金1千万元を双方各半分負担するものであった。しかし、直系軍閥が統制する北京政府は東北に港を造る事に積極的でなく、これも資金欠乏で挫折してしまった。

1929年の計画には張学良が積極的に関わった。葫芦島商港の建設は、奉天省政府の長年の計画項目であった。1927年夏、自前で建設した打通(打虎山・通遼間)鉄路と奉海(奉天・海竜)鉄路が竣工した。そこで、張学良は積極的に東三省交通委員会の築港計画を支持した。1928年5月東北当局は葫芦島商港と京奉(北京・奉天)鉄路を軸の中心とした自前の三大幹線鉄路網計画を制定した。1929年夏、張学良は葫芦島商業大海港を修築する決心をし、北寧鉄路局に築港の資金を準備し、毎月、鉄路利潤から50万元を築港基金に抜き取り、瀋陽の各大銀行に蓄えるように指示した。(オランダとの築港会社との築港契約については、契約金、期間等、「葫芦島築港開工紀念」碑址に書かれている内容と変わらない、また、1930年7月2日の張学良が出席した築港開工紀念の典礼の様子も碑址内容と同じだ。)


毛沢東像

1931年9月、北寧鉄路局は毎月の築港費用の他に、瀋陽の中外の各大銀行に預金をした。匯豊和花旗銀行の預金は英国の国債と利息を安定的償還するために、また、中国銀行、交通銀行、更に辺業銀行、東三省官銀号に、合わせて6364809,87元大洋(銀貨をさす単位)、その内、築港基金が5282554,27元を占めていた。九一八事変(満州事変)以後、その築港基金の中の100万米ドル(オランダの築港会社の損害要求は139万米ドル)をオランダの築港会社に弁償費として支払っただけで、日本と偽満州国は残りの築港資金を全部取り上げ、自分のものとしてしまった。このように、日本帝国主義が発動した「九一八」事変(満州事変)による東北領土奪取後、築港工程は停頓を余儀なくされ、北寧鉄路局が各銀行に預けた築港基金と各預金も日本軍に差し押さえられてしまった。なお、北寧鉄路は瀋陽から葫芦島までの312キロを走る鉄道であった。

以上、『東北鉄路建設史(1921年―1931年)』の内容から見てみると、日本の満鉄を中心にした東北の経済支配に対する、その独占的な支配に対抗しようとしていた中国の民族的な動きが読み取れる。

また日本からすれば、これらの動きは大変な脅威であったに違いなく、これを力で抑えざるを得なくなり、皇姑屯事件(1928年6月4日、日本では満州某重大事件、あるいは張作霖爆死事件)や九一八事変(1931年9月18日、日本では満州事変)を引き起こすことになったのであろう。

海に突き出た崖でできた丘(碑が移された丘)の一角に、大きなコンクリートの壁が円形を成している。更に山側に同じようなものが二つ、計三つ存在する。地元の老人に聞いてみると「油庫」、「偽満時期の油庫」だという。石油貯蔵タンクだというのだ。当時はコンクリートで出来ていたのかと、金属製のタンクに見慣れた私には少し奇異な建造物に見えた。しかし、当時の中国と日本の関わりを今も示している建造物が存在していることには強く興味がひかれた。


崖からなる丘

この丘に連なる丘陵を登っていくと、その眺望は素晴らしく、この記念碑の建っている丘も、港全体も、全て良く見渡せる。美しい海岸線が港の外に続いている。渤海に突き出した遼東半島その先端は大連や旅順になる。そして、この半島の西側に広がる遼東湾の海岸線を見てみると、東の海岸線に営口、そしてそのちょうど対面の西の海岸線に葫芦島が位置していることが確認できる。

いろんな思い抱きながら、この海岸線から日本に向かった人々が、光復(日本の敗戦の1945年)以後、たくさん居られた。そのことを日本人としてはしっかりと頭に刻んでおくべきであろうと、私は思っている。大きな歴史の流れの中に組み込まれた大勢の日本人が、個人としてはどうすることもできない人生の大きな大きな変転を受け入れ、当時の厳しい状況の中、様々なことを胸に抱きながら、故国日本に向かったのだ。

東北の奥地から、長春や瀋陽に移動し、更にそこから葫芦島へ、そして故国へと、これらの厳しい移動については、いろんな方がその体験を新聞、雑誌、本、HPなどに紹介されている。なかにし礼さんも、1946年にハルピンから葫芦島へ、そして佐世保に上陸されている。とにかく、葫芦島までの移動が大変だったことが、どの方の手記からも伝わってくる。

私の手許にも、その体験が幾つか寄せられている。ご紹介しておきたい。

瀋陽を出発し、葫芦島にいたるまでの思い出は山田さん同様です。途中暴動で破壊された建物に泊まったように思います。列車はなんども止められ、物品、女性を要求されたと聞きました。引き上げ船はアメリカ軍のliberty型だったと聞いていました。

始めて見る米兵を少し覚えています。船中発熱で死亡する子供がいて、水葬しました。私も高熱を発し、舞鶴港につき、両親の実家の三重県の津に着いたときは、がりがりにやせていて、口の悪いおじにお前は骨皮筋衛門やなといわれました。

以上、瀋陽日本人教師の会の仲間の辻岡邦夫さん

小学5年生、確か港には昭和23年6月のなかばの午後到着し、同日午後しばらくしてから直ちに乗船、天気の良い、夕方の陽射しがまだ強く明るく、夕刻5時過ぎに引き揚げ船・山澄丸7千トンは港を離れて行ったように記憶を甦らせております。添付のスナップ(筆者がお送りした葫芦島の写真)からなんとなく、潜在的な想い出の風景の一部にあったような気がしてまいりました。それにしても、奉天から葫芦島まで現在では3時間程度で行けるとは・・・当時 止まったり、動いたり、途中 八路軍などの戦場地域を右往左往し乍ら移動して・・・本当に 隔世の感一入で御座居ます。従って、葫芦島の港には到着し、出港までのほんの4,5時間くらいしか居なかったので詳細思い出せなく残念です。

乗船して、未だ夕刻の明るい陽射しの中、甲板上の舞台では、田畑義夫の「返り船」や「異国の丘」の歌をギターとともに慰問の芸能人だったのだろうか、船が港を出ると同時くらいに、賑やかに、行われておりました(『高千穂会会報』30号26~27頁ご参照戴き度い)。

以上、上記の辻岡さんの友人、山田二郎さん

以下『高千穂会会報』30号27頁からの引用(山田二郎さんが書かれた原版は縦書き、旧漢字であったが、数字など横書きするために算用数字に改め、漢字も現在の漢字に改めている。上陸の日付も訂正されたのに改めた。)


港と油庫

昭和23年6月3日

最終、奉天市大和区朝日街4段地区より奉天引き揚げ集結所に集合。

昭和23年6月4日

翌日、奉天飛行場より貨物飛行機にて錦州飛行場へ移動、近くまでトラックで移動し4~5日間アンペラ生活・父が有り金全部を持って、近くの市場で買物をして、兄貴全員に青色のバスケットシューズを買って来てくれた。

昭和23年6月9日

錦州駅より、雨の中葫芦島まで貨物列車で移動。

昭和23年6月10日

葫芦島港より、夕陽の輝く中、山澄丸(7千屯)に乗船、船上で毎夕「異国の丘」「戦友」「誰か故郷を思わざる」等々の歌声が船一杯に響き轟きわたっていた。

昭和23年6月13日(16日?)

玄界灘の激しい船酔いを経験・通過後、静かな朝靄の立ち込める中、静かな佐世保港に入港(現在の浦頭)。

昭和23年6月17日

太陽が燦然と輝く午前10時頃、引き揚げ援護局の人に、毛布を家族人数分(6枚)だけ一人ひとりに一枚ずつ渡してもらい、保健所の人々に体一杯真白になる程、DDTをかけられ乍ら、第一歩を浦頭に上陸。浦頭より7~8キロメートルを徒歩にて引き揚げ一時寄留寮(現在のハウステンボス)へ行き、約十日間くらい其の寮に寄留。

以上、『高千穂会会報』30号に山田二郎さんが書かれた文からの引用(27頁)。

以下は、「留用」(注①)で家族が瀋陽に残り、中学生の時期まで瀋陽で暮らした栗原節也さんの記憶である。

葫芦島の桟橋から引揚船の山澄丸(山下汽船の貨物船)に乗船した日は1948年6月12日で、16日大村湾針尾島沖着、17日上陸でした。12日の10時過ぎ頃に錦州を発ち、葫芦島に着いたのが、13時頃ではなかったでしょうか。すぐに乗船し、ウインチでの荷物積み込みが終わった夕刻(夕日が沈む頃?)に出港しました。周囲の景色とか港の状況とかを確かめたという記憶は残っていません。

 6月4日:留用解除、遣送命令、6月5日:学校閉校、6月4~8日:引揚げ準備(買物、書籍検印、荷造り等、長兄は小隊の名簿作り)、6月9日:集中営入り、6月10日昼頃?: 飛行機で錦州へ⇒集中営入り、6月11日夕方?:線路下に荷物とともに移動・野宿といった日程(これらの日程についても、幾つかの説がありますが・・・)だったので、かなり疲れていたと思います。 

 8日頃春日町に買物に行った時、突然睡魔に襲われ、歩きながら一瞬眠ったことは覚えています。そんな状態だったので乗船してからもボンヤリしていたと思います。 ただ、すごく脳裏に残っていることは、船が離岸した時、期せずして陸に向かって“バカヤロー”の声が起きたことです。この“バカヤロー”には、各人様々な気持ちが込められていたのだと思います。 「早く帰りたかったのに、残されて・・・」、「希望に溢れて渡滿したのに、夢が破れて・・・」、「帰る気はないのに帰らなければならなくなって・・・」、「不本意な、不自由な、不便な生活をさせられて・・・」等々の気持ちではなかったかと、後年になって考えました。

 以上、栗原さんから頂いたメール。

辻岡さんは舞鶴に上陸されていて、山田さん、栗原さんの二人とは帰り着いた時期も場所も異なるが、葫芦島までの道中、船中でのご苦労は、御三人共も、いろんな方々が新聞、雑誌、本、HPなどに紹介されている体験と同じような厳しい体験を共有されておられ、身体に刻み込まれておられるように思われる。


油庫と記念碑のある亭

山田さんと栗原さんは同じ引揚船で帰国されたのではないかと私は思っている。15、6歳の中学生であった栗原さんも、正確な日時は記憶されていないところもあるようで、いろんな方々から情報を得られて、栗原さん自身の記憶を再構成されていかれたようだ。勿論山田二郎さんもそうであろう。60年弱も昔のことである。これは仕方のないことであろう。山田さんと栗原さんの出港日の記憶が少し違うが、6月の半ばに出港して6月17日に日本に着いておられる。船の名も到着の日時も同じだ。きっと同じ船で帰国されたのであろう。

山田さんも栗原さんも、同じ船に乗船されてはいたが、それぞれの思いや感慨があられたことと思う。これは乗船されていたすべての人がそうであったのではなかろうかと思う。大きな歴史の歯車の前に、自分自身の人生が大きく転換されていくのを感じておられたであろうから。

丘陵の頂から、美しい海岸線を見ながら、60年前後以前に夕陽を浴びながら出港していった船やその船で故国に向かった引揚の方々を思い浮かべつつ、小1時間過ごした。ここ葫芦島から、九門口長城に行く予定であったが、交通の便が良くないことがわかったので、計画を変更し、日帰りで瀋陽に帰ってきた。だから、その日は葫芦島のみの個人旅行の1日であったといえる。バス会社の違いか、帰りは55元5角で済んだ。

注①  前回の会誌『日本語クラブ』(2005年度第2号 総第22号)「留用」参照、山田さんのご家族も留用で瀋陽に留まられたと聞いている。

 参考図書  『満鉄』原田勝正著 岩波新書(1981>年出版)

『東北鉄路建設史(1921年―1931年)』王貴忠著 満鉄研究中心(1996年出版)

『山海関外第一市 葫芦島巻』陳玉彬著 遼寧教育出版(1995年) 





11,公園や広場に行ってみよう

加藤 正宏 (瀋陽薬科大学) 

写真①)

 中国といえば、朝早く、公園や広場で行われている太極拳や太極剣(写真①)が頭に浮かんでくる人が多いだろう。度々テレビで報道されたり、旅行ガイドなどの雑誌には必ず取り上げられているこのイメージは今も通用するイメージだ。各公園で今でも変わりなく行われている。

(写真②)

 でも、公園や広場で行われているのはこれらだけではない。公園によっては、足腰を前後に動かしたり、回転させたり、身体全体のバランスをとったりする器具が設置されている所もある。ちょっとしたスポーツジムにあるような器具が、天空の下に設置されているのである(例えば、日本領事館の北、13緯路手前の公園)。多くの老人が手足や身体を盛んに動かしている。このような設備がないところでも、老木の股や凹みを利用し、片足を高く揚げ、しばらくじっとし、いつもは使わない筋肉を緊張させたり、弛緩させたりしている人が必ずいるし(写真②)、もちろん各種各様の伝統的な武術を独り黙々とやっている人や、数人、またグループでやっている人もいる。バッシン、バッシンと凄い音が空気を劈き震わせる。3、4メートルほどの鉄鎖の鞭を振り回し、地面を叩く音の響きだ。危険だから、ロープで練習する場所を大きく囲い、その中でやっている。麒麟鞭というのだそうだ。話を聞くと日本に指導しに行った人もいるとのこと。二刀流の武術をグループでやっているのに出会ったこともある(写真③)。抒懐剣の双龍穿雲という。毎日、8時から9時半、10人前後が集まってやっているのだそうだ。青年公園で見た風景だ。これら、全てどこかで健康への関心と繋がっているのだろう。

(写真③)

 遊びの感覚のあるものでは、凧揚げなどもよく見かける風景だ。また、広場の石畳の上で、ローラースケートやっている人もいる。脛当てや、肘当てで身体を保護し、滑っている。和平広場では記念碑の周りを軽やかに何人もの人が滑っている。2本の50センチほどの棒の両先を3、4メートル程の一本の紐で結び、その紐の上で独楽を廻している人達もいる(写真④)。前後左右十下と独楽を飛ばしながら遊んでいる。優雅だし。良い運動になりそうだ(青年公園)。

(写真④)

 芸術的なものでは、踊りや音楽、書がある。集団で銅鑼や太鼓に合わせ踊る秧歌舞をやっている人たちもいる。道路で行進しながらやっているのを見かけることもあるが、広場で行われていることもある。あの大きな毛沢東像が建つ中山広場でもやっていた(写真⑤)。一つ二つの原色による派手な衣装をまとい、扇子を手にし、行動を共にした踊りには単純だが目を引きつけられる。「秧」は苗のこと、「秧歌舞」は田植え踊りというところか。瀋陽百科全書(遼寧大学出版社、1992年)によれば、漢族の伝統的な民間舞踏で、既に2500年の歴史があるとのこと、中国各地にあり、中国東北地方のそれ、東北大秧歌は1000年強の歴史があるのだそうだ。瀋陽の秧歌は東北大秧歌の伝統を受け継ぎ、更にこれに新たなものを絶えず加えながら発展してきたものだとのこと。特に1981年、和平区の4人のおばあさんが八一公園(満州時代にはドイツやフランスの領事館のあった所)で自発的に健康な身体保持のため「秧歌舞」活動を始めたことが、次々と老人を引き付け、広がりを見せていったのだそうだ。瀋陽の秧歌はこのような歴史を持っているので、芸術的な面だけでなく、老人の身体に宿る強大な生命力を表現し、民族の毅然とした精神を表し、全身を投入して踊る過程で、「老有所養、老有所学、老有所為、老有所楽」という中国の真実の姿を体現し、自身が楽しむだけでなく、意思を鍛錬し、老の中にも青春を輝かせ、身体を強健にしているのがこの踊りだそうだ。

(写真⑤)

(写真⑥)

 公園や広場で、天空の下、社交ダンスをやっている人たちもいる(例えば、青年公園)(写真⑥)。テープの曲で踊っている時もあるし、生バンドで踊っていることもある。腰に手をあて、肩を引き寄せ踊っている人たちの服装は、生活の場そのままの服装である。日差し除けか、帽子を被って踊っている人もいる。1人でステップを踏んで練習をしている人もいるし、教わりながら同じステップを何度も踏んでいる人もいる。周りにいる人たちも、踊っている人たちも、それぞれ他を意識している感じはそこにはない。それぞれがそれぞれの行動をゆったり楽しんでいるようだ。

(写真⑦)

 踊っている人たちの周りで、大きな筆で石畳に水で字を書いている人たちがいる(写真⑦)。なかなか立派な字で、字を書いている人の近くにはそれを眺めている人が何人か必ず居る。楷書はもちろん、草書、行書、隷書、篆書等見られる。唐や宋の詩はもちろん、よく知られている有名な文なども書かれているようだ。白墨で書いている人もあるが、水で書かれた字と違い、消さねば消えない、だから、書いているときは別だが誰が書いたものか分からないし、消さねば何度も書けない。それに比べ、筆で書いている人は、しばらくすれば消えてしまうこともあって、何度も字が書け、書いているところを見てもらえる。字を書くこと自体に楽しみを感じると共に、自己の書道技術を見てもらうことに、きっと喜びを感じているのだろう。



 白墨で書かれているものには、主張が書かれているものもあるようだ。お経みたいのもあるし、文革時代の毛主席賛美のものもある。例えば、「人活百歳幾今日 今日不楽何甚多」「中秋賞月 花好月圓 十六圓」「鴉有反哺之孝羊知陒乳極思 母親是大海 父親是高山 児女尽孝順父母」「月月辰転中国 五千年、韶山出了 毛沢東、無産階級掌政権、労働人民斉歓呼、毛主席光輝、永遠・・・・・」というような文字が詩などに混じって見かけられる。


(写真⑧)

 10人、15人と大勢人が集まっているところがある(写真⑧)、そこには必ず何か盛んに主張している人がいる。それを受けている人がいて、その人に向かって、盛んに「対不対(そうだろう、違うか)」と念を押しながら話している。受けては、時々反論するものの、聞き役といったところだ。取り囲む周りの人はほとんど聞き役だ。こんなまとまりが、公園や広場の中にはいくつもできている。自分にあった話題を探してだろうか、これらを梯子している人も見かけられる。私には十分聞き取れないが、時事問題が主体のようだ。「美国」「日本」なども良く出てくる。「靖国神社」や「小泉首相」が出ていたこともある。「毛沢東」や「劉少奇」、「林彪」などの名が聞こえてきたこともある。「江沢民」のときもあった。どうも、これらを比較してよかったところ、悪かったところを言っているような感じだったが、私には2、3割しか分からなかった。中国では井戸端会議ではなく、公園、広場会議とでも言うものが出来上がっているようだ。これらの会話が5、6割分かれば、私も毎日のように公園・広場会議の取り巻きになりに行くのだが、如何せん私の中国語ではどうにもならない。だから、ときどきその雰囲気を味わいに行くだけである。


(写真⑨)

 10人から20人集まって、歌っているグループに出会うことも多い(青年公園、八一公園、魯迅公園、南湖公園)(写真⑨)。山形先生作成の歌集ではないが、それぞれ歌集を手にして歌っている。もちろん指揮をとっている人もいる。


(写真⑩)

 管楽器を吹いている5、6人のグループもいる(写真⑩)。身体の前に抱え込まれたクラリネットやトランペット、サクソホ-ンなどが、野外の光線の中で木管や金管の輝きを見せているのはなんともおおらかだ。


(写真⑪)

 もちろん、木陰で、伝統的な楽器の二胡などを1人か2人で弾いている人たちもいる(写真⑪)


 変わったものでは、京劇の語りだろうと思うものを聞かせている人もいた。



 路上でもよく見かける風景だが、麻雀や碁、トランプなども公園の木陰、天空の下でやられている。やっている者の周りを見物の人たちが囲んでいる。写真を撮ったことがあるが、凄い剣幕で怒鳴りながら追いかけられたことがある。多分、博打の証拠の写真でも撮られたと思ったのだろう。

  (写真⑫)

 土日の公園ではウイークデーとは異なる集まりもあるようだ。私が2,3回出かけたのは青年公園の南西の外れ、運河に面した小さな公園で行われている鳥市である(写真⑫)。100人近い人が、鳥籠を持って集まってきている。籠には籠を覆う布が取り付けられていて、移動時は、鳥を脅かさないように、籠全体を覆ってもって来るようだ。鷹を腕にとまらせている人も見かけた。腕にとまらせた小鳥に、空高く放り上げた餌(穀物?)を空中でキャッチさせているのも見かけた。それぞれ、自慢の小鳥たちを持ってきて見せ合ったり、声を出させて鳴き比べをしている。もちろん、売買も行われている。



中国の生活を直に感じてみるには、公園や広場に出かけてみるのがいいと私は思っている。

(2006年、10月10日)



12,旧附属地への遠足瀋陽史跡探訪25  へ転載 写真入りにリンク

(日本の痕跡を訪ねて)

加藤 正宏 (瀋陽薬科大学) 


 瀋陽の華新国際学校内の瀋陽日本人補習学校、そこの日本人子弟遠足として、旧附属地の満州時代の痕跡を見学するというプランが、岡沢成俊日本人補習学校校長より持ち込まれた。小中学生10人程だという。現地の中国の学校に通っている生徒も居るとのことである。事前授業を1時間弱し、見学の案内と解説をしてくれとのことである




 歴史に関心があったり、幼いときの思い出とか父や母の思い出を求めてやって来る人にはそれなりに関心の持てる場所や建物、施設が瀋陽にはまだ残っている。




 対象は小中学生だ。関心の持てる物や建物があるだろうか。難しい。

 何を訪ねて行き、何を見せればよいのか。

 ちょっと待てよ。マンホールの蓋の図案はなんとか、持っていきかたで、関心を引出せるかも知れない。図案を謎解きように考え、考えたものが実際あるところを探し、自分の目で確認していくなら、宝探しやオリエンテーリング気分で見学できるかも。

それなら、当時のマンホールの蓋が多く見出せる北三馬路附近を歩きながら、マンホールの蓋を確認していけばいい。満鉄の「M」の字、「レールの断面」、sewer(下水道、下水管)の「S」、郵便マークの「〒」、「電話」の文字、篆刻文字でアレンジして一つにまとめた「奉天」などを探しながら。

当時の郵便局や電報局はこの近くであり、中山路沿いには旧百貨店の建物もある。また中山広場(旧大広場)も近くにあり、当時の建築群も多く残っているところだ。これらも紹介できる。更に少し拡大すれば、旧満州医科大学や、旧浪速女学校や鉄道総局等も見ることができる。




 いろいろ紹介できるものあるが、小中学生にはどう紹介したものだろうか。一つ一つの紹介は彼らにとってはきっと無縁なもの。どうしたものか。

 あれも、これも、あれもと紹介していけば、一つ一つは記憶に残らず、日本に関係があったもの、日本が造ったものが多いというイメージだけが出来上がることだろう。

事実のことだからそれはそれで良い。しかし、これでいいのだろうか。

 街中に今でも残る立派な幾つもの建物が日本と関係があるものだと、歴史的な背景の知識もないままに、単に知らせて、良いものだろうか。

 日本は強かった。偉かった。偉大だった。このような優越意識だけを生み出さないか。

そうなってはまずい。まずいに違いない。

 じゃ、どうすればいい。

 やはり、当時の歴史的背景の中で、日本が進んでいった歴史事実を理解させておく必要がある。19世紀後半から20世紀前半に掛けて、西洋の近代国家観の成立、その国家による帝国主義の動き、この動きの中に取り込まれようとした中国、日本、朝鮮などの東アジアの情況を把握させておく必要がある。




 でも、小中学生だ。どのように、このことを把握させればよいのか。

近代国家や帝国主義の概念はどのように噛み砕けばいいだろう。今の子どもたちは国家そのものがそれぞれ確固として存在していると考えているちがいない。200年、300年前は、今のような国家の概念を一般の庶民は全く意識していなかったんだ、自分はどこどこの国の国民だなんて、だれも思っても考えてもいなかったんだ、と言えば、きっと驚くに違いない。勿論、統治者やそれに属する階級は違う、統治領域(領土)の意識は常にあったろうことは確かだが。

近代の国家観を庶民に与えたのは政府の実施した公教育が大きな役割を果たしているだろう。同じ時期にこれらが不十分であった地域では、西欧の近代国家が軍事力を背景に、未だ近代国家が成立していない統治者の領土を植民地や属領として奪っていった。庶民としては自分の生活のことだけで、統治者がだれであろうと、きっと関心がなかったであろう。例え、外国の統治者であっても・・・・。

日本も危うかったわけだが・・・・。

中国は正に半植民地化されていった。

世界の支配者である意識のあった清朝では、英国国王の親書携えて貿易を求めてやって来た使者にも、対等でなく、部下の国が挨拶に来たとして、三跪九叩頭を強制するなど、奢っていたわけだが、アヘン戦争(1840~42)、アロー戦争(1856~60)を通じ、権力に胡坐をかいていたその真の姿が馬脚を現した。にも関わらず、腐敗した権力構造の下、その事実は皇帝にまで伝えられず、十分な改革は行われず、半植民地化の道を辿った。

それに比べ、遅ればせながらも、西欧近代化を模倣し、帝国主義の道を歩み始めた日本、その日本がその植民地や属領として目を向けたのが、朝鮮であり、中国であった。それが日清戦争(1994~95)や北清事変(義和団事変)や日露戦争(1904~05)を通じ、進められていった。更にその延長線上に対華21か条要求、満州事変(1931・9・18)、満州国誕生があり、日中戦争(1937~45)と続いたわけだ。




さあ、瀋陽に日本人が関わった建物や道路や施設が多くあることを、小中学生にどう説明したものか。どの辺りから説明したものか。小一時間の事前授業で何を取り上げるのが一番効果的なのだろうか。大まかではあれ、大筋が掌握できるようにはしたい。




瀋陽に日本人が関わった建物や道路や施設が多くあることは見学で確認できる。事実を確認するための、事前学習は略地図や写真の用意で充分、これらから、逆に歴史の事実に迫ってみるのもいいかも知れない。





現在の地図と

通りの名前

地図で、瀋陽駅とその駅から放射線状に走る幹線道路の話から入ってみよう。

奉天駅 1908年起工1910年竣工、34年~35年改修 東京駅と同じ建築様式、時期もほぼ同じ。

中華路(千代田通り)、中山路(浪速通り)、民主路(平安通り)

日本のどこの地名だろうかと問うてみよう。日本の代表的都市の地名を引出されば、成功だ。中学生あたりなら、東京、大阪、京都の名前が出てくることだろう。

なぜ、日本の代表的な地名が付いていたのか、どうしてなのかと訊ねよう。

彼らに考えてもらうことで、この瀋陽と日本の関わり、その歴史の門戸を開かせたい。

香港もイギリスに因んだ名前が付けられていたことを挙げてヒントにしてもよい。 * 香港の街路の英語名 クインズ、キングス、アビニュー、ストリート

時間があればだが、以下の地名がつけられていたことも挙げ、日本を代表する名前が付けられていたことを加えてもいい。

* 北は名所旧跡――宮島、橋立、松島、江島、春日、富士、琴平(町)

南は植物や自然風景――青葉、萩、弥生、藤浪、稲葉、白菊、雪見(町)



 次にその領域も伝えておこう。

  東は和平大街、西は興工街、北は十馬路、南は八馬路で囲まれた瀋陽市の地域、ほぼ現在の和平区が附属地と呼ばれていたことや、附属地とはどんなものなのか、言葉でなく、その概念を大まかにでも与えたい。

香港や上海の租界と同じだといっても、中学生でも分からないだろうなァ。

  政治、経済、軍事、文化の面で、その国から独立して行使できる地域だということを、噛み砕いて話せればいいんだが、・・・・・。どんな例を挙げれば・・・・。

 附属地は、鉄道附属地のことで、鉄道の保護に必要な鉄道周辺の土地を、租界と同じように、その国から政治、経済、軍事、文化の面で独立させて、使用が許されていたところ、こんなところであったから、日本の名前が付けられたり、日本の関係した建物がたくさん建てられ、今も残っているのだと。このことが理解させられればいいのだが・・・・。

とにかく、少しでもこの辺りのことが分かるように、小中学生に伝えるにはどうしたらいいのか、・・・・・。

 借りているだけなのに、自分の国(日本)の土地のように使い、自分の国(日本)で使う名前をつけたり、もともとその土地を持っていた国(中国)から、土地を奪ったような形になってしまっている。だから、いろんな生活に必要な設備も日本や日本人が作ったんだと話そうか。そうすれば日本の〒マークの入ったマンホールや、満鉄のMとレールの断面を組み合わせたマンホールの蓋の話ができる。




 次は、どうしてそんな土地を借りることができるようになったかを、話しておく必要があるだろう。きっとなぜだろうと思うだろうから。

 次のことを説明してやる必要がある。

 附属地は帝政ロシアから引き継いだもの。日本が日露戦争に勝って、手に入れたもの。

じゃ、帝政ロシアはどうして東清鉄道(1901年~マンンチュウリ~ハルピン長春~大連・旅順)の鉄道敷設権を中国から得たのか。これの説明が必要になってくる。

 下記のようなポイントを噛み砕くだいて話せれば、説明にはなるんだが・・・・。

 小中学生にどう噛み砕くか。

 帝国主義時代の世界情勢と大連旅順などの遼東半島及び東北三省のこと。

* 日清戦争(1894~95)、三国干渉、義和団事変、日露戦争(1904~05)

* イギリスとフランス対立、ロシアとイギリス対立、フランスとドイツ対立

*1902年の日英同盟




 次のことも本当は説明しなければならない。

 1937年に日本が治外法権撤廃を宣言し、附属地は消滅し、権限は奉天市公署に移ったが、やはり地名はそのまま日本に関係のある地名のまま改まらなかったこと。




 そのためには以下のポイントを説明する必要が出てくる。

* 第一次世界大戦(1914~18)と以後の民族自決と日本

* 1931年、満州事変(918事変)、1932年満州国建国、満州国と日本の関係

* 1937年日中戦争の開始




 ワァーとてつもない大変なことだ。

 とても、これらの内容は高校生大学生対象でも、1時間では消化できない。なおさら、これを噛み砕かなければならない、小中学生には、とても無理だ。

どうしたって、絞りに絞るしかない。絞らなければしかたがない。




 日露戦争の国際的背景、国と国との当時の関係は、中学生に分かる程度には噛み砕けるが、小学生、特に低学年には無理だろうな。まあ、小学生には我慢してもらおう。

ロシアから引き継いだ鉄道に附属した土地を、借り受けただけなのに、自分たちの土地のように使っていたことが、理解できればいいとするか。




 こんなことを、前日考えて、事前学習に臨んだ。

 用意していた、日本の代表的な地名が中国の瀋陽にどうして付いていたのかの質問に、中学生が「盗んで自分のものにしたからだ。」と答えてくれた。これはありがたかった。これを受けて、「借りただけだが、盗んだのと同じように自分の物のようにしていたんだね。」と応じ、前日考えた所期の目標の最低基準を達成することができる話になんとか持ち込めた。





マンホールのスケッチ

 見学では、岡沢成俊日本人補習学校校長の課題(低学年はマンホールの蓋の図柄を描く、高学年はマンホールの位置を地図に書き込む、中学生はマンホール分布の地図を作成)を嬉々としてやっている生徒たちの姿を見ながら、これらのマンホールが作られたこの時期の歴史を学んだり、考えたりするとき、少しでもこの遠足の経験が頭をよぎってくれることを私は願っていた。

(2006.10.15)


13,旅のお守り

―中国人ツアーに参加して―

加藤 文子 (瀋陽薬科大学) 

大同の石仏

 私と夫は、山西省を旅する五泊六日の中国人ツアーに初めて参加しました。 個人旅行だと、切符の手配は難しいが、ツアーに参加すれば、旅行社が全て手配してくれるし、中国人と交流するいい機会にもなると考えたからです。私たちは簡単な中国語ならなんとかできるし、個人的な鉄道の旅も何度か体験してきています。それでも、私には二つの心配事がありました。一つは三泊するホテルがどれも二つ星級で、往復の車中泊も普快の硬臥だということ、もう一つはガイドも含めて周りは皆中国語しか話さない中国人ばかり、黄金週間のごった返す観光地で、はぐれるなどの緊急時の対処はどうしたらいいだろうかということでした(宿の名前も、現地の旅行社の名前も知らされていませんし、帰りの列車の券も事前にはもらっていません)。後者については、携帯電話(手机)など不必要だとの持論の夫を説き伏せ、手机を旅行に行く直前に購入し、瀋陽に居る旅行社の日本語を解する人の手机の番号や知人の番号を入力するなど、緊急時の対応処置を準備し、前者については覚悟を決め、10月1日、瀋陽北站から列車に乗り込みました。


 上、中、下三段になった硬臥は寝台の幅も高さも間隔も筒一杯です。でも、以前乗った時よりベッドも清潔だったし、トイレもたびたび清掃しているようで、これも以前に比べて清潔で、改善されてきているのを感じました。この分ではホテルも・・・と、中国社会全体がじょじょに改善されてきていることに期待を抱きました。




 旅行は、一日目は大同の雲崗石窟と九龍壁を見、バスで移動し五台山へ、二日目は五台山の寺院を巡り、またバスで移動し太原へ、三日目は太原をベースに近郊の観光地、山西省特産の酢の工場見学や中国のテレビドラマで中国人にはよく知られている旧商家の屋敷(喬家大院)や平遥古城など、四日目は太原近くの晋祠を午前中に見学し、午後は太原から高速道路で大同に戻り、大同から列車で帰途につくというもので、泊は五台山一泊、太原二泊でした。バスは冷房もよく効き、添乗員やガイドや運転手の対応も充分満足できるものでした。スケジュールも無理なく、良く考えられていると思いました。食事には山西名物の刀削麺がたびたび出ましたが、美味しいのも、さほどでもないのも、ありました。


  

ホテルの話をします。




 太原で二泊したところは招待所のようなところで、設備は新しく、シーツも白く清潔で、やわらかい布団でした。バスタブが無いだけで、あとは三星級と変わらないと思いました。ところが、五台山で泊まったところは驚きました。五台山は仏教聖地で、各寺院の入場料とは別に、五台山に入山するだけで一人90元が必要な土地です。それに、高い山の上だけど、それでも、多くのホテルや餐庁や商店が並び、観光客で賑わっています。


五台山の宿


 そんな中で、私たちの宿は簡易宿泊所といったような所で、門を入るとコンクリートの青空ロビーで、ドアーが並んだ薄汚れた平屋の長屋のような建物が両側にあります。部屋は6畳くらいで、ベッドが二つ、その間に映りの悪いテレビ、それっきりです。コップを置くテーブルすらありません。奥のドアーを開けると、薄暗い穴倉に洗面台とシャワーの栓、トイレが並んでいました。タオルや石鹸はおろかトイレットペーパーもありません。部屋に入って内側から鍵を掛ける方式で、外側からの鍵はありません。カーテンを閉めないと真ん中の青空ロビーから丸見えです。おまけに、窓の鍵も壊れていました(さすがに、これはすぐに直してもらいましたが・・・)。まあ、車中泊がもう一泊増えたと思い、専用トイレがあるだけましだと考えました。底冷えする山の中の一夜を、服を着たまま、薄汚れた枕におそるおそる頭をつけ、湿っぽい布団にくるまって眠りました。山の中だから仕方なかったのかもしれません。


  このツアーは瀋陽市以外の近郊の都市(例えば本渓など)から来た小さな団体が多く、会社の同僚が家族連れで参加しているのがほぼ半数、あとは個人で参加している家族連れ、全員で30余名で、子供も小中併せて6名いました。みんな一人っ子で、兄弟姉妹ができたようで初対面にもかかわらず、すぐに打ち解けて元気に遊んでいました。小四の男の子は特に人なつこく私たちににも直ぐ打ち解けて、身体をくっつけて来ることもありました。列車の中でトランプに興じお酒を飲み、私たちにもお酒を勧めてくれた人たちも、バスの中や食事時に深酒をするわけでもなく、時々は冗談を言い合って大きな声で笑ったりしていましたが、迷惑を掛けるようなことはありませんでした。むしろ、列車やバスでは私たちが二人一緒に席がとれるよう、ベッドや席を変えてくれたりしました。私たちが日本人だと知って、いろいろ質問もされましたが、テレビドラマの影響か、「ミシミシ」「バカヤロウ」「スラスラディ」という言葉を今でも使うかと訊ねられました。夫が、「バカヤロウ」は中国語の「混蛋」の意味で今も使うが、「スラスラディ」は使わないし、日本語の言葉にはない、中国のドラマの中で日本人が中国人を斬るときにあなたたち中国人が造った言葉だ、また「ミシミシ」も使わない、「メシ」を御飯の意味で今も使うが、「ミシミシ」を食べるという意味で使うことはない、中国のドラマで創られた言葉だと説明すると、信じられない顔をしていました。それでも、食事の時など、笑いながらですが「ミシミシ」と声をかけられました。テレビの影響は大きいです。でも、みんな極めて友好的で、お菓子のおすそ分けを頂いたり、食事に遅れて行っても、ちゃんと私たちの席を用意していてくれました。




 買物に夢中になると、集合時間に遅れがちになるのはどこの国の人も同じで、酢の工場見学後は大きなダンボールを抱えた人も居て、だんだんバスの中の荷物は増えていきました。バスの中の飲み食いでゴミも散乱しがちですが、ゴミ入れもあり、清掃も一日一度くらいはしてくれていたようです。トイレ待ちをしている時、ツアーの仲間の女性が私に言うかのように「zang(右に月、左に庄の一字、汚いの意味)」と言いました。その人は汚いことを恥じているような感じでした。私は慌てて「没事儿(だいじょうぶ)」と言いましたが、「しょうがないな」という気分でした。




 今回の旅行で、多少中国人と交流できたし、彼らを観察することもできました。しかし、反対に彼らに「日本人ってどんな奴だ」と観察されてしまったのかもしれません。


 


 

 今回の旅から得た中国の列車旅行への一言アドバイス、トイレットペーパとお湯を入れるコップは必需品なのでお忘れないように、それと、車内の備品は壊したり無くしたりしないように。私たちの向かいに坐った男性はテーブルに敷いてある布の上のゴミを車外に捨てようとして、布ごと風で吹き飛ばされ、10元の弁償金を支払わせられました。まあ、それまでにもさんざん車外にゴミを捨てていたんだから、その罰とも言えましょう。




 最後に一言、私のことで言うと、現地のホテルを発つ最終日の朝、バスに乗って、さあ、無事に旅行も終えそうだということで、知人にそのことを報せようと手机を手にしました。しかし、・・・・・。ここで何があったか、ご想像がつくことでしょう。そうです、充電器を持参していたにもかかわらず、充電するのを忘れていて、まったく使用できなかったのです。傍らで、夫は「それみたことか」というような顔をしています。でも、いいんです。旅のお守りになったんですから



「旅のお守り」の補足、旅行ポイント  

加藤正宏(瀋陽薬科大学)

(中国から帰国後に追加補足したもの)

 

1、大同の雲崗石窟  2、大同の九龍壁  3、懸空寺(けんくうじ)  4、五台山  5、山西醋の工場  6、喬家大院  7、平遥古城 

8、晋祠


1、大同の雲崗石窟

 大同駅に降り立ち、先ず向かったのは雲崗石窟である。到達までの道すがら、石炭が地面から顔をのぞかせていた。

中国三大石窟(敦煌、麦積山、雲崗)の一つである。1980年代に一度訪れたことがある。今回は二度目である。中国文と英文で書かれた、入り口近くの大きな「雲崗石窟簡介」によると、山西省大同市西郊外の武州山南麓の東西1キロメートルに、45もの主要な石窟を切り開き、そこに大小5万1千強の仏像などの像を彫り込んだ遺跡だそうである。時期は5世紀中頃の北魏の頃から、現在に至る1500年強の歴史を刻んでいるという。

 今回は諸仏を丹念に見て回り、写真も多数撮って来た。勿論、入場カードにあしらわれている代表的な大仏の前でも何枚も写真を撮った。


2、大同の九龍壁

 九龍壁とは五彩(黄・縁・朱・紫・藍)の彩色琉璃瓦の部材を用い九匹の龍を描いた壁のことで、中国に現存する九龍壁は三つあり、大同のほかには北京の故宮と北海公園にある。

大同の九龍壁は山西省大同市東街路の南に位置する。14世紀末の明の朱元璋(洪武帝)の時期に造られた。明の朱元璋の子である朱桂の王府の照壁或いは影壁(寺廟や大邸宅の大門の外側に立てられる壁)で高さ8メートル、厚さ2メートル、全長46メートル弱、中国で現存する最大の瑠璃の九龍壁である。壁面の上部には雲、下部には波濤の瓦が配され、それぞれ異なる躍動的な九龍の姿が壁前にある長さ35メートルの倒影池に映り、まるで雲海の中に生きているように見える。壁の下部には獅子、虎、象、唐獅子、麒麟(きりん)、天馬などの動物を描いた瓦も見られる。龍の足の爪は4本で、王族を指す龍の爪である。皇帝のみが5本の爪の龍を用いることができる。王府は戦火で消失し、この壁のみ残っている。私は北京の故宮の九龍壁も見ている。


3、懸空寺(けんくうじ)

大同市中心部からは南東に約60キロメートルにある寺院で、中華人民共和国山西省大同市渾源県永安鎮の恒山金龍峡翠屏峰に位置する。恒山の金龍峡の西向きの翠屏峰の岩壁の途中にある。恒山は中国の五岳(東岳の泰山、西岳の華山、中岳の嵩山、南岳の衡山、北岳の恒山)の一つである。私は西安の西北工業大学に勤務の時に華山に、長春の吉林大学時に泰山に、瀋陽の瀋陽薬科大学勤務時の今回、恒山に立ち寄ったことになるのだが、実際は西北工業大学時の個人旅行で、この懸空寺にやって来て、地上60メートル木製の桟道を歩いている。今回は中国人旅行団の一員として、谷あいから懸空寺を見るだけに終わった。

恒山懸空寺は北魏後期の5世紀末(約1500年前)に創建された仏教と道教と儒教の三つを一体化した独特の宗教の寺院で、仏教の祖釈迦牟尼,道教の祖老子,儒教の祖孔子の三像の三教殿を中心に80余の彫像が祭られているとのことである。崖に貼りついたような主要な建物が6つあり、これらは木製の桟道で結ばれている。三教殿などは地上から90メートルの高さにある。ここは木製の桟道であるが、麦積山の石窟では金属の狭い桟道であった。狭いだけに、いずれも、停止することが許されない観光であったとの記憶がある。


4、五台山

 五台山は仏教四大名山(峨眉山、普陀山、九華山、五台山)の一つで、これらの中でも第一の聖地とうたわれている。五つの主要な峰である五台(東台頂、西台頂、南台頂、北台頂、中台頂)からなり、最も標高の高い北台頂などは3056メートルにもなり、冬は雪深く、夏は涼しいため、別名「清涼山」という別名も持ち、仏教とラマ教の寺院が合計50カ所近くも存在する聖地である。雲崗石窟と同じく北魏時代に寺が創建され始め、南北朝時代には200余、最盛期の唐代には360余の寺院があったと言われる。

 代表的な寺は「塔院寺」「塔院寺」にそそり立つ「大白塔」「顕通寺」「菩薩頂」「南山寺」「尊勝寺」「黛螺頂」が見られる。私たちの印象に残ったのは「塔院寺」にそそり立つ「大白塔」であった。これを背景に何枚も写真を撮った。


5、山西醋の工場

 山西省太原は良質な酢を作るための気象・水・穀物の3つの条件を備えていることと、四千年の長きに渡る酢造りの歴史から「中国の酢都」と呼ばれている。その一つの工場兼博物館を見学した。旅行団の中国人たちは誰も彼もがここで酢を購入していた。中国人にとって、高品質、高成分の山西省太原の酢は特別なもののようであった。これ等の酢は五年もの歳月を費やして、手間暇をかけて穀物を発酵させ熟成させ、丹精込めて造り上げられているのだそうだ。


6、喬家大院

 山西省は晋商(山西商人)と呼ばれる豪商が栄えた地域で、金融業などで成功した豪商は大きな邸宅を構える習慣があった。「晋商の典型的な家屋」として喬家大院は知られている。四合院と呼ばれる中庭を囲んで棟を作る形式の家屋が六つも繋がった大邸宅で、300強もの部屋から構成されていた。四合院の中庭とそれをつなぐ通路でもって、双喜紋(「喜」を二つ並べた「囍」)に似た形に大邸宅は設計されていたという。なお、私は西北工業大学に勤めていた1970年代半ばの頃、西安のまだ取り壊されていない四合院の一画に住む友人を訪ねたことがあり、四合院の雰囲気も体験している。

現在、喬家大院は住居としては使用されておらず、博物館として一般公開され、明代や清代の家具調度や、京劇の衣装・小道具なども展示されている。

この喬家大院は張芸謀監督がヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞を受賞したコン・リー主演の映画『紅夢』(1991年)の撮影場所として、また中国のテレビドラマシリーズ『喬家大院』の撮影場所として、良く知られている。

 建物は平遥古城から30キロメートルほど北東にあり、車で40分ほどかかるところに位置する。ここの見学を終えて、私たち旅行団は平遥古城に入った。

 


7、平遥古城

 山西省の省都である太原から南へ約100キロメートルに位置する「平遥古城」は城壁だけでなく、街並、商業施設の配置、役所や市場の位置などが当時そのままに保存されている、いわば街全体が城郭都市博物館である。紀元前9~8世紀の西周時代に築城された城壁都市は、14世紀の明代に改修されたものの、2700年の歴史を持つ。城壁は高さ約12メートルで、外周は6400メートルになる。城壁は登ることができ、平遥古城内部を見下ろすことができ、平遥城隍庙など共に古い町並みを、上から眺めることができた。

 西安でも、城壁に登ることができ、そこをランニングすることもできたが、大きな西安では全体像はつかめなかった。大きくない平遥では城壁の上からほぼ街並みを掌握できた。

 





晋祠の門

8、晋祠

晋祠は、太原市の西南25キロメートルにある北魏時代に創建された西周の武王の次男の唐淑虞(晋国の始祖、晋は元もと唐と言う名であったが、晋水に因んで晋を国名とする)を祀っている。特に唐淑虞の母邑姜を祀る北宋時期に建立された聖母殿内部に、表情豊かな北宋時代の彩色の侍女像が現存することが有名である。祠堂内の他の見所は、難老泉、周柏で、侍女像と合わせ、晋祠三絶と称せられる。

難老泉の澄み切った水は、年中絶えることがなく、泉から湧き出ており、横に大きく広がるように枝を伸ばす周柏は見応えがある。

フクロウの二眼のように見える窓を持つ「三晋名泉」の建物が私には印象的であった。




日本語クラブ25号

14,ポンユウの馬(仮名)さん瀋陽史跡探訪26  へ転載 写真入りにリンク


加藤 正宏 (瀋陽薬科大学)


 瀋陽北駅の近くに古玩城(骨董デパート)があった。土日にはその古玩城の周りに骨董や古本を扱う路上市ができた。2000年から2002年にかけて、長春の吉林大学に勤めていたときも、帰国にあたって、どうしても瀋陽で一泊せざるを得ず(瀋陽空港を朝8時半に飛び立つ飛行機で帰国)、長距離バスのターミナルのある瀋陽北駅附近にいつも宿泊した。こんなことから、この古玩城の店をひやかして帰るのは帰国時の常で、土日にひっかかれば、この路上市も覗くことができた。




 瀋陽薬科大学に勤め始めた2004年の秋にも、まだこの古玩城は存在し、土日には路上市が立っていた。しかし、10月の初旬の頃、この古玩城が取り壊され、多くの店主が懐遠門(通称大西門)近くの盛京古玩城や、魯迅美術学院を更に北に行った三好街北詰めの魯園古玩城に移る事になったとの情報を得た。この情報を私に知らせてくれたのが馬さんだった。




 彼は路上市で古本を扱っていて、満州国時代、民国時代、中華人民共和国の早い時期の教科書や、文化大革命時期の教科書(課本)を集めている私に、何度か文革期の課本を安価で提供してくれていた人だ。路上市は午後の1時過ぎになると店を畳む者がほとんどで、3時、4時過ぎまで残っているのはほんの数えるほどになる。馬さんはそのほんの数えるほどの中の1人であり、私が午前に行けなくて、午後、路上市に出かけたときなど、彼と雑談(勿論、筆談も加え)することが多かった。こうして、知り合った彼は私を路上市の仲間に「イーバンレン ポンユウ(日本の友人)」と紹介する。「イーバンレン」じゃない、「リーバンレン」だとその発音に注文を出し、朝鮮語の「イルボン(日本)」から「イーバンレン」と言っているのではないかと言うと、それには答えず、「この日本人は『普通話』で発音し、私の発音が違っていると言っている」と面白そうに話す。今でも、親密の情をもって「イーバンレン ポンユウ」と周囲のだれ彼なしに紹介する。




 彼の出店する路上市も瀋陽北駅から移らざるを得なくなり、魯園古玩城の後方の青空市に店を出すようになった。そして、その場所の位置を詳しく教えてくれたのだ。




 毎週のように青空市に出かける私は、毎週彼と出会い、筆談を含めた雑談を楽しむようになった。私の听力が十分でなく、聴き取れなかった言葉(一般の中国人に話すような速さで話すことや、日常の生活語でない言葉が多く出てきて)を書いてくれとたびたび私が言うものだから、煩わしくなったのだろう、私のメモ帳に一文一文書いては、分ったかと念を押しながら、筆談することが多くなった。




あるとき、この青空市で、昭和15年にばら撒かれた号外ビラ(抗日戦争を展開する楊靖宇将軍に対して投降を呼びかけた)を15元で購入した。この時まで、私は楊靖宇について何も知らなかった。そこで、これを持って行き、彼にこの人物はどんな人物なのかと教えを乞うた。話が十分理解できないでいると、彼は次のように書いてくれた、「東北抗日聯軍総司令、犠牲時、日軍把他運到医院解剖、肚子里尽草根樹皮、包囲深山密林中」と。ビラも、戦局で不利になっている楊靖宇に、名誉を保障するから、投降されるようにとの、日本関東軍の部隊長の丁重な呼びかけになっている。山林に隠れ、食べ物も無い状況の中、ゲリラ的な抗戦を続ける楊靖宇に手を焼いていての呼びかけであったのであろう。不利な戦況下でも、あくまでも抗戦し続けた楊靖宇は、抗日の犠牲になって亡くなった時、腹の中には草の根や木の皮だけしか入っていなかったという。中国人は誰もが知っている逸話だそうだ。この話を聞いてからは、古本市でも楊靖宇を紹介した抗日英雄関係の書物が目に付くようになった。




 日本の扶桑社の歴史教科書が話題になった時、日本ではたくさんの歴史教科書が出版されていて、県や市や各学校がこれらの教科書の中から選んで使用していること、また、そのほとんどは歴史の史実を押さえ、侵略は侵略と記載していることを話したところ、99パーセントが善く正しいことでも、1パーセントが悪ければ、それが例え1パーセントでも問題であり、責められることなのだと、彼は言いながら、口頭では伝わらないと思ったのか、次のよう文を書いて私に寄こした。




 「一个人毎天都在説話、可能説千言万語、但有一句話是罵人話也不行聡是罵人話。好比一个做事、做了成百上千个好事、但做錯一个事、触犯了国法也要処分的。」




 更に、次のような文も付け加えた。




 「為什麼当前民族対立、想一想日本右派政治家対戦争給亜細州人民帯来的災難、毫無悔改之意、我們想起来、能不痛恨 ?」




 これは次のような意味であろう。




 目前の民族(日本と中国)対立の原因は、戦争(日本人の行った)がアジア人にもたらした災難を少しも反省しようとしない日本の右派の政治家に思いが到ると、私たちも恨みを思い起こさずに居られないからだ。




再度私も弁明をしてみた、「一般の多くの国民はあの保守的な教科書には、批判すると同時に反対していること、そして、ほとんどの教科書が今度の戦争がアジアの国々への侵略戦争であったことを記述している」と。




しかし、文部科学省が例の教科書を認可したこと、それは日本の国家機関が認可したことであり、即それは中国人にとっては、国家の意思としてしか受けとめられなかったようだ。





投稿呼びかけ 号外

 こんな話を持ち出されたこともある。これも筆談であった。


 「二戦、珍珠落后、美国参戦、殺死大批日本人、大轟炸殺死很多日本平民、原子爆弾広島長崎、但日本右派認賊做父、現在還把自己坐在美国戦車上、当馬前卒」



 第2次大戦時、パールハーバーの戦い後、アメリカの参戦で、たくさんの日本人が殺され、多くの一般人も爆撃を受けて亡くなり、原子爆弾も広島や長崎に落とされながら、日本の右派は敵に仕え、現在は更にアメリカの戦車の上で、その手先になっていると、アメリカに組み込まれている日本に歯がゆい思いを抱くと同時に理解できないでいるようだった。アジアにある日本と中国が一緒になって、アメリカの強引な世界支配に対抗すべきだとの言葉さえ口を吐いて出てくる。




彼はいつも短波放送で聞いていて、世界で起きていることをよく知っており、自分なりの意見も持っている。私にとって、馬さんは、中国人の感じ方や考え方を知る上で欠かせない人物の一人になっている。




(2007年3月9日)



15,H 夫人

加藤 文子 (瀋陽薬科大学) 


中国と関わりをもつようになってから、ずい分たくさんの中国人と知り合いになったし、今も交流を深めている人は多い。瀋陽で学生以外の一番の知人はというと、私の中国語の先生のH夫人です。




彼女はある大学の先生の奥さんで、つい最近まで日本で暮らしていたという。今は中学生になっている息子さんは日本の小学校にずっと通い、御主人は元より家族三人とも日本語はペラペラです。




私に中国語の発音を教えるに当たり、幼児が使う易しい本で指導してくださるのだが、何度聞いても私の耳には ze, zu, zhu の区別がつかないし、sa と sha, se と she が聞き分けられたと思っても今度は私の舌がその音が出せないといった具合で、彼女も、「まあ日本語にはない音ですから...」とか、「息子も今、中国語の発音で苦労していますから...」と慰めてくれるのだが、半ばあきらめ顔で溜息をついています。




私は親しくなった中国人とは波風を立てずにつき合いたいので、極力、中国を非難する言葉は使わないでおこうと考えているのだが、つい、こんな言い争いをしてしまいました。




それは、ドーハでのアジア大会の頃だったと思うが、彼女の方から「日本のシンクロのIコーチが今度中国のコーチになったんだけど、私にはそのコーチの気持ちが分りません。」と言い出したのだ(もちろん日本語です。)。私はIコーチが中国のコーチになったことは知らなかったんだけれど、こう答えました。「日本のコーチを引退したことは知っていました。きっと、中国に優秀な選手がいることを知って、もう一度教えたい気持ちになったのでしょう。」そういうと、彼女は再度「でも、どうしてライバルの国のコーチになるのですか!日本人は怒らないんですか。」と言います。私は「まあ、怒る人はいるかもしれないけれど、大方の日本人は理解していると思いますよ。」と答えたけれど、彼女は引き下がらず、「小山チレ選手(元は中国の卓球選手で、日本人と結婚して日本の代表選手になった)の時、中国人はずい分怒ったんですよ。今でも中国に帰れないくらいです。」というのです。「それはひどい、スポーツや文化にナショナリズムを持ち込んだらだめですよ。」と私が言うと、「選手が国のために頑張るのは当たり前のことです。中国と日本はライバルではないですか。」とつめ寄ります。そこで、私はとうとう最後の一線を越えてしまいました。「あなたと私では受けた教育が違うのでしょうね。私の言っている事の方がきっと正しいですよ。」と...。




これで、彼女はこの話題については黙ってしまい、別の話題にうつっていきました。後から、二人のやりとりを隣の部屋で聞いていた夫が「お前は言いすぎだ。途中で止めておけばいいものを...。」と言われてしまった。彼女は気を悪くしたかもしれないし、私の使った言葉も良くなかったかも知れないけれど、私には腹の中のものをぶちまけたという爽快感がありました。




こんなことがありましたが、その後も、彼女とは、お互いの文化や習慣をとりあげて話す機会も多く、これらの話題は私たちにとって相手(中国やその民族)を理解し、自分(日本や日本民族)を理解してもらう良い機会になっていて、楽しい時間です。




いつか、私が「日本で暮らしていて、いやだったことは何ですか。」と訊くと、住宅が寒かったとか、カビが生えたとか、子供が学校で困ったこととか、アルバイト先でいやなめにあったとか、話してくれました。予想外だったことは、寺院の見学の際など靴を脱いでスリッパに履き替えなければならない事がいやだったと言うのです。他人が履いたものは不潔だと感じているようです。なるほど、そう言われればそうかもしれません。日本人の自分たちが清潔好きだとうぬぼれていて、自分たちの視点でしか見ていないことが他にもあるかもしれません。




彼女の話で、一番よく出る話題は息子さんの話題です。日本語から中国語での勉強にかわったという事情もありますが、彼女の教育にかける熱意には並々ならぬものがあります。次に多いのは経済のことです。株式とか為替相場とかにも詳しく、相当興味を持っています。彼女を通して、今の中国の社会の本音の部分が見えるようでうれしいです。本当は彼女と中国語を使って話し合えるようになればいいのですが、それはいつのことになるやら...。



16,丸投げで問題が…......

加藤 正宏 (瀋陽薬科大学) 

黄龍の五彩池




 今回は旅行社の話をしたい。



 この5月(2007年)のゴールデンウイークに、成都を中心に九寨溝、黄龍、楽山、峨眉山8日間の旅行をしてきた(4月28日~5月5日)。中国の旅行社を通じての旅であった。旅行自体は、成都から黄龍に飛ぶ飛行機の中から見えた雪山、九寨溝の海(湖、池)や瀑布、黄龍の五彩池、どれも美しく綺麗であった。成都のパンダ基地・文殊院の門前町・武侯祠・青羊宮・天府広場、楽山の大仏(我々にとっては2度目)、峨眉山のライオンのような猿、これらもそれなりに楽しめ、有意義であった。

 しかし、旅行社手配の丸投げによる無責任さは、我々に中国での新たな経験を積ませてくれた。


 このツアーに瀋陽から参加したのは我々二人だけであった。旅行社の話では成都でツアーが組まれるとのことであったのだが…。


 瀋陽の遼寧省中国旅行社が具体的な旅行日程をくれたのが、出発日の前日であった。それまで、我々に提示していた遼寧省中国旅行社のプランそのものではなく、「蜀之旅出団通知」というもので、我々が旅行を申し込み、お金を支払った遼寧省中国旅行社のそれではなく、「成都蜀之旅有限公司(最初、通知には名前も連絡方法も書かれていず)」のものであった。既に口頭で知らされていた出発も、午後の5時から朝の8時30分に変更されていた。


 瀋陽の旅行社から成都の旅行社に丸投げされていたわけである。瀋陽から成都へ送り込むことさえ、遼寧省中国旅行社は関わっていないため、成都の旅行社の言いなりで、直前の変更になったようだ。このように丸投げしていながら、「成都蜀之旅有限公司」への連絡場所も方法も、こちらから問い質すまで、遼寧省中国旅行社は我々に伝えることもなかった。


 


 

一日目(4月28日)



 瀋陽桃仙空港で、搭乗の手続きをしたのは「熊猫之旅」と書いた黄色のガイド旗を持った者がこれを行った。成都で「KATO/FUMIKO」の牌を持ち迎えてくれたのは、ホテルまで車で送迎するのみの運転者だった。桃仙空港での搭乗手続き、成都空港からホテルまでの送迎のみを、それぞれ、成都の旅行社から丸投げされた人物たちだ。だから、彼らは旅行全体のことは全く知らない。その持ち分の仕事をしているだけだ。彼らの名前と携帯の電話番号は「蜀之旅出団通知」には書いてあるが、成都の旅行社そのものの名前も、また連絡方法も印字されていない。彼らに丸投げしているのだ。


 実際、成都空港で我々を向かえ、ホテルに送り込んだ運転手は、ホテルのチェックインをやってくれるでもなく、我々に、明日17時の飛行機だから14時半にここで待つようにと言って、出て行こうとする。


 「蜀之旅出団通知」(瀋陽出発前日にもらった通知)では、二日目(4月29日)は、成都から飛行機で川主寺黄龍まで行き、黄龍の溶岩景色や地上の天国の池を見、5588米の雪宝の頂を眺めることになっていた。運転手の言う通りでは、明日の観光はできなくなってしまう。


 あわてて、運転手を引き止め、「蜀之旅出団通知」を見せ、こんな時間ではこの予定の観光はできないとクレームつけたが、彼は知らないと言う。


 彼は送迎という仕事を丸投げされているだけだから当然だったかも知れない。


 仕方がないので、「蜀之旅出団通知」に書き込んできた、成都の旅行社である成都蜀之旅有限公司に電話を入れた。しかし、電話では埒が明かなかったので、ホテルに来てくれるように強く求めた。


 ホテル宿泊の条件も違っていた。瀋陽の旅行社のプランや「蜀之旅出団通知」には三星或同級双人標準間となっていたが、単人房間でベッドも一つだったし、風呂は湯船がなし、電気スタンドは机の上にあるが、近くに全くコンセントが無く、テレビの近くにコンセントが一つだけあるのみだ。テレビをつければ、もう後は何もつかえない。見せ掛けの唯の飾りでしかない、そんな電気スタンドである。旅行料金は二人分払っているのに単人房間とは納得がいかない。ホテルのフロントに掛け合って、聞いてみると、部屋を増やし改造したときにこのようになったのだとのこと。幾つかのコンセントがついた接続コードを持って来て、これを利用してくれという。便所も水が流れず、直しに来てもらう。しかし、使うたびに同じことになる。結局、直してもらったのと同じことを自分でやり、その都度自分で直して使う。押金(保証金)も100元取られた。全て旅行代金は前もって払っているんだが・・・。


これも現地の成都の旅行社が安い金額を提示し、やはりホテルに丸投げしているからだろう。


現地の旅行社の二人がやって来たのは5時半ごろ、部屋を見せ、これでは「蜀之旅出団通知」に書いてあった条件と違う、二つベッドで湯船のある部屋を取ってくれるように要求する。

九寨溝

 強く要求したことで、部屋については、九寨溝から成都に帰ってきたときには別のホテルを取り、要求を満たすと、この時は約束した。また、観光面については、成都を見学したいわけではない、自然の美しい九寨溝や黄龍が見たくてやって来たのだと、これも強く主張し、明日17時の飛行機では、この日に予定していた黄龍観光ができなくなってしまうではないか、観光予定が省かれるのは問題だし、契約違反だと強く抗議した。その結果、明日の分は第4日目の5月1日に観光し、その日の夜の9時50分に飛び立つ飛行機で成都に戻るという案が提示された。我々としては、それを呑むしかなかった。しかし、9時50分まで観光するわけがないことにその時は気が付かなかった。暗くなってから何時間も飛行場で待機しなければならない事には思いが及ばなかったのである。臨時増便したその日最後の便がなんとか用意できたというところだろう。ゴールデンウイークで旅行客が集中する中でのやりくりで、なんとかできた変更ではあったのであろうが、こちらが問い質すまで変更そのものの連絡がまったくないというのはどういうことか。変更があるなら、これからは前もって連絡するようにと釘をさす。

成都のこの「成都蜀之旅有限公司」ではツアーを編成できなかったのであろう。我々二人の個人の世話をするのに力が入っていない。付け足しで、別の旅行に付加し、丸投げをしようとしている感じだ。


これらの日程変更、部屋の問題などは、現地の旅行社と自分たちだけで掛け合った後、丸投げの御本家である瀋陽の遼寧省中国旅行社の日本語のできるスタッフに連絡を入れ、対処方を要請しておいた。丸投げの本家だとはいえ、日本語で訴えるところがあるというのは、とにかく気持ちの面では心強いものがある。携帯電話が役にたったとの感じがしたものである。


 丸投げ本家も気にしてくれたようで、翌日の観光している時に、「問題のあった件はどうなったか」とスタッフから携帯電話に連絡が入る。しかし、これは旅行社間で十分連絡が取れていない証拠だともいえる。


 


 

二日目、三日目(29日、30日)


二日目、14時40分に、件の運転手が成都空港に我々を送ってくれたが、ここでも次の丸投げ先の一女性に紹介されただけだ。その女性はグループや個人の搭乗券の手続きを任された人物のようだが、どこの会社の誰か分からない。搭乗にあたりパスポートをその誰だか分からぬ女性に預けねばならず、気になり、手続きの場近くまで妻を行かせる。


 黄龍空港で我々を迎えたのは「金の林檎(Gold Apple)」の旗を持つガイド、ここで九寨溝・黄龍のツアーがやっと組まれた。13人のツアーである。ガイドは空港から出てくる旅客で、彼女の持っているガイド旗に集まってきた者を、鉛筆書きしてあった名前と確認するだけであった。この旅行社が成都の旅行社から丸投げされた九寨溝・黄龍の旅行社となる。丸投げ料金以外に実入りを良くするには、オプショナルを組み、お土産屋に寄ることになる(コミッションが期待できる)。ホテルまで送られるバスの中で、今回もすぐ蔵族やチャン族の歌舞晩会とこれら少数民族の家庭訪問の二つのオプショナルが提示し推薦され、集金が行われた。一つのオプショナル180元、薦められるまま、どちらにも参加し360元払う者が半数くらいいた。私は歌舞晩会に期待し参加したが、期待外れであった。何が少数民族の・・・・だ。家庭訪問は更につまらなかったそうだ。お土産屋はこの2日の間に宝石店、ヤクの干し肉店、漢方薬店に立ち寄った。勘定の場所で、ガイドは客の購入品のレシートを集めていた。これがコミッションになるのだろう。




 九寨溝は広大な敷地を一つの観光地としているので、観光客は入り口のバスターミナルで下車、入山後は敷地内の乗り放題バスを利用し、観光客がそれぞれ見てみたい瀑布や海(湖、池)を見て歩く。そのため、この日の昼食は旅程通知に組み込まれていない。きっちり、十分に見る人もいれば、簡単にいくつか代表的なものだけ見る人もあることだろうから、帰ってくる時間はまちまちになることが予想される。そこで、バスを下車する時、ガイドはホテルの名刺を各人に渡し、17時から17時半、ここでバスが待っているが、それより早く帰りたい人または遅く帰って来た人は、この名刺を見せてタクシーでホテルに戻って来るようにと連絡があった。


九寨溝瀑布


 迎えのバスに乗るため、我々は17時にバスターミナルに戻ってきた。既に1時間前から待っている人もいたが、バスは来ていないと言う。ターミナルに停車しているバスの車体番号を再度確認したがやはり来ていない。バスの出入りに注意しながら17時40分まで待ったが来ない。ガイドの携帯に電話を入れると、バスは出迎えに行ったと言う。そんな馬鹿なことは無い、我々はずっと監視していたのだから。でも、仕方がないのでタクシーでホテルに戻り、ガイドに抗議したが、私はホテルや晩会の手続きをしていて行けなかったが、運転手は行ったはずだ、と言って非を認めない。食事の時に、ツアー全員に確かめたところ、誰も迎えのバスに乗った者はいなかった。ツアー客の一人の中国人が言うには、運転手がポーカーでもしていたのだろうとのこと。


これもガイドによる運転手への丸投げの結果である。少しの時間だし、運転手と一緒にバスターミナルまで来れば問題はなかったものを。


晩会の劇場からの帰りのことである。ガイドから明日のスケージュールが告げられたが、それを聞いていると、通常の最終便である6時の航班で成都に帰るものと思っていたようだ。帰りの飛行機が夜の9時50分になっていることを、まったく九寨溝のガイドが知らなかった。この時、ガイドは7時以降の航班はないと何度も私たちに言ったものだ。成都と九寨溝の旅行社はどんな連絡を取っているのだろうか。日本では考えられないことである。


 


 

四日目(5月1日)の夜から五日目 (2日)の朝にかけて


 成都空港に着いたのは23時前、迎えは前回送迎してくれた運転手が迎えに来てくれていた。飛行場から成都市内のホテル、錦江之星旅館成都金仙橋路店まで、夜だったので約40分で走り、23時30分頃に着く。宿泊の手続きに当たって、押金100元を支払い、部屋に向かおうとしたところ、フロントから明朝6時50分の出発、朝食は6時45分からと伝えられる。


 6時50分出発はどこへ出発なのかをフロントに訊ねても、旅行社からは何も聞いていないという。成都の旅行社が余りにも無責任であり、旅行社の担当に携帯に電話を入れる。第一日目に、旅程の変更やホテルの部屋の件で、現地の担当者にホテルに来てもらった。この時、変更は前もってきっちりと連絡してくれるように告げ、部屋も旅行通知に書いてあった水準の部屋にしてもらう約束をしていただけに、怒りを感じた。旅程通知では明日は成都の自由活動日になっている。電話に出た先日の担当者は、明日6時50分の出発で楽山と峨眉山へのバスツアーを組んでいると言う。今何時だと思っているのか、23時半だぞ、そして明朝6時半に出発しろだと、このことは事前にまったく何の連絡も受けていない。この前も変更は事前に連絡するように言ったではないか。その時、あなた(現地の担当者)は了解したではないか。まったく旅程通知と違う変更で、その変更も私たちが疑問に思って電話し、初めて分かるなんておかしい、納得できないと伝える。今晩こんなに遅くなってホテルに着いたのも、そちらの旅程変更によるもので、その上、予定にない変更で明朝6時半出発などということは受け入れられない。我々は不自由な中国語ながら、このような意味のことを語気強く主張した。相手は気圧されたのか担当者が代わり、男の人物が受け答えし始めた。きっと、彼女の父だ。一家で旅行社を経営している個人企業なのであろう。もう24時をまわっていた。もう7時間も切った計画を今更変更はできないと彼は言う。そして、旅程通知の中に記載されていた「予定された観光が減少しないかぎり、我社が行程の前後順序を調整する権利を持っている」という特別説明を持ち出してきた。しかし、四半日を切る時点での通告(それもこちらから問い合わせて)による変更は受け入れられないと我々も強く主張した。時間も切迫し、今は夜中でもあるのだから、手は打てないのは分かるが、こちらの責任ではない。明日は自由活動日としてのんびり過ごしたい。我々としては、変更は受け入れられないと主張を変えずに頑張った。これに対し、彼は私が何を言っているか分からないと言い出した。もちろん私の中国語は十分ではない、何とか話せる程度であることは確かだ。しかし、ここで折れるわけには行かない。私の話しが通じないなら、フロントから私が話したいことを伝えてもらう、それで好いかと言うと、好いと言う。そして、言いたいことを中国文にまとめ、8階の部屋から1階のフロントに行き、メモを見せながらフロントの服務員に説明し、メモしたことで理解できないことがあれば、質問してもらい、書き直し、また説明した。このように理解してもらってから、旅行社に電話を掛け、私の言いたいことを代弁してもらった。私が電話を切ってから20分ぐらいが既に過ぎていた。この間、旅行社は我々の言い分を受け入れざるを得ないと考え直したのか、フロントからの電話に、旅程通知どおりで進めるとの応答をしてきた。明日は、と言っても実は既に今日のことなのだが、成都での自由活動日、明後日(実際はその時点で明日のこと)は朝6時半に楽山に向かって出発、朝食はパンと水とゆで卵の携帯食ということになった。双人房間ではなく、ベッド1つの部屋には不満が残ったが、明日とにかく少しゆっくりして疲れを取ることができるようになった。


 と思ったのだが、横になってみると、部屋はすごい騒音で眠れたものではなかった。階上のエアコンが、部屋の窓のそばにあり、すごい騒音を発しているのだ。とても眠れない。またフロントに出向き、そのことを伝えると、詳しく事情を聞くことも無く、いとも簡単に、即答で部屋を変えるという。直ぐに、夜警の見回りをしていた服務員に手伝わせ、反対側の5階に部屋を変えてくれた。勘ぐれば、夜遅く部屋に入り、朝早く出発する客だ、騒音で問題がある部屋だが、短時間だからいいだろうと、さして文句を言うことも無いだろうと高をくくって、ほり込んでいたのではなかろうか。指摘されたら、変えればいい、それで元元だというところだったのだろう。泣き寝入りし、我慢していたら、馬鹿を見たところである。


 これも、旅行社のホテルへの丸投げが少なからず影響していたのではないか。

 


 

六日目(5月3日)


 6時半に迎えのバスが来る。ガイドは我々の携帯の番号を確かめただけ(きっと「成都蜀之旅有限公司」が伝えた番号であろう)で、名前も確認せずに我々を車に乗せた。我々のところが一番で、この後、一つ二つとホテルを巡り、客を拾っていく。最後のホテルでは、行き違いが有ったようで、客がいっこうにバスに乗車してこない。しばらくして、玄関に出てきた十数人の客は軽装で大きな荷物を持っていない。朝食を終えて出てきた彼らは、日帰りのつもりでいたようだ。しかし、このバスツアーは楽山を見学した後、峨眉山で宿泊するツアーである。旅行社の連絡が不十分で、日帰りのつもりだから、彼らはチエックアウトもしておらず、大きな荷物もそのままにしていた。車内からは、彼らをほうっておいて、出発せよという、長時間待たされた客の怒りの声が出始めた。朝食もまともにとらずに、このツアーに参加してきた者にとっては、当然出てくる不満である。しかし、最後のホテルから乗ってきた客たちにしても不満があったようで、なかなか乗ってこない。それでも、彼らも最終的には荷物をまとめさせられ、このツアーに参加してきた。彼らもいい加減な旅行社の手配による被害者であるのだが・・・、その被害は我々朝早く起きて参加してきた者にまで波及している。私自身のことで言えば、朝食もとれず、パンとゆで卵に水を持たされただけで早くから乗車した意味はまったくなくなってしまっていた。


 きっとこれも丸投げによる安易な連絡から生まれたものだろう。


 我々もこの楽山・峨眉山行きの寄せ集めのツアーに、「成都蜀之旅有限公司」から丸投げされたわけだ。

 


 

七日目(5月4日)の夜から八日目 (5日)にかけて


楽山大仏


 7時10分前に峨眉山を発ち、9時半くらいに成都に着いた。昨日出発した時のホテルに、今回の楽山・峨眉山のガイドは我々を送り届けてくれた。フロントに渡せば分かるとツアーガイドが渡してくれたメモを見たフロントは、何も予約を受けていないという。フロントから、現地の「成都蜀之旅有限公司」の職員の携帯に電話を掛けてもらったが、繋がらず。直接、旅行社「成都蜀之旅有限公司」にも掛けてもらうが、やはり繋がらず。時間が時間だけに会社に繋がらないのは仕方がないが、同公司の職員の携帯にも繋がらないのには往生した。メモにあったツアーガイド(ここに送り届けてくれた)の携帯に電話を同じくフロントから入れてもらった。しかし、ツアーガイドはまったく何も知らなかった。

 楽山・峨眉山のガイドも丸投げされたことだけしか、責任範囲ではないのだ。


 思い余って、丸投げ御本家の遼寧省中国旅行社の日本語の話せるスタッフに電話を掛け、日本語で実情を話し、直接電話を掛けてもらったが、やはり繋がらず。遼寧省中国旅行社のスタッフのアドバイスもあり、とにかく泊まる手続きをする。この前と同じクラスの部屋しかないという。商務房(単人房)で169元の部屋である。押金(保証金)300元を求められる。前回は100元であったのだが、今回は旅行社の予約ではなく、個人の宿泊になったからであろうか。


 翌朝8時過ぎに遼寧省中国旅行社のスタッフから電話があり、11時から11時半ロビーで待つようにとの連絡が入る。既に食事の後、我々は、フロントから再度「成都蜀之旅有限公司」及び職員の携帯に電話を掛けて、繋がらないことを確認していたから、遼寧省中国旅行社のスタッフも連絡は取れていなかったはずである。ただ我々を安心させるために連絡してくれたのであろう。これから何度も「成都蜀之旅有限公司」に連絡を取り、この時間に迎えに行くようにと伝えようとした時間を我々に知らせてくれたに違いない。でも、ありがたいことだ。それなら、11時まで時間があるのだから、四川では有名な茶館をホテル近くで探して、茶でも飲んで来ようかと考えた。しかし、仕事の開始は9時からが多いから、9時まで待って、もう一度「成都蜀之旅有限公司」及び職員の携帯に電話を掛けてみようと、とにかく部屋で待機する。9時を過ぎてフロントに妻が行こうとして、ロビーを通ると、成都に来てから常に私たちを飛行場まで送迎してくれている運転手が、やって来ていて、すぐに飛行場に送るという。もし、11時まで私たちがホテルを留守にしていたら、送迎の運転手と行き違いになっていたに違いない。


 我々は瀋陽の遼寧省中国旅行社からは11時だと聞いていたがと、運転手に言うと、ここで待つのも、飛行場で待つのも同じではないかという。そこで、遼寧省中国旅行社のスタッフに電話を入れ、運転手と話をしてもらったが、横で話を聞いていると、交通混雑で思うように行けなくて遅れることがあってはいけないから、早めに行くのだと言っている。遼寧省中国旅行社のスタッフからも日本語で同じようなことが伝えられた。


 まあ、今日の出発までの自由活動は無かったこととし、帰れる目処がたったことを喜ぶべきかと考え、チエックアウトの手続きをとった。押金(保証金)300元を返してもらおうとすると、そこから宿泊費169元を差し引こうとする。これは納得できない。我々は既に旅費と宿泊費は一括して支払っている。フロントにきっちり言ってくれと運転手に要望した。でも、運転手が言っても、フロントが納得しない。運転手は車に戻り、女性を連れてきてフロントとの交渉に当たらせ、私の300元は戻ってきた。この女性は、「成都蜀之旅有限公司」の職員だったのだろうか、はたまた搭乗手続きをすることだけを丸投げされた女性だったのが、押金(保証金)の件では自己の責任範囲を超えて対応してくれたのか。飛行場では、この女性が瀋陽までの搭乗券の手配をし、そして帰っていった。


 余談だが、我々がホテルを早く発って飛行場に向かった理由が、飛行場に行くまでに分かった。別なホテルから乗り込んできたもう一組の客があり、その客と話したところ、フライトが我々より随分早かった。彼らに合わせて早くなったのだ。

旅行で問題が多発の記事


後日談


 5月17日、遼寧省中国旅行社のスタッフから、成都の旅行社の不手際で、一人につき150元返金することになったとの連絡が入る。


17,帰国前、帰国後の諸々(もろもろ)

-岐阜と中国の関わり- 


加藤正宏(前 瀋陽薬科大学) 

瀋陽を81日に立ち、日本に帰国した。帰国前1週間は、この3年間に瀋陽の街中で出会って仲良くなった方々それぞれから何度か食事を御馳走になったり、買い込んだ書籍を梱包し、20キロ強の梱包を六つも送ったり(郵便局の検閲では少しやばいかなと思われるものは手持ちで持ち帰ることにしたので、帰国当日は70キロとなり、二人でも30キロオーバーになった)、あっという間に日が過ぎてしまった。帰国直前はこんなこともあるかと思って、瀋陽を去るにあたって、少し余裕をもって最後の旅行に出かけたのが、天津・承徳・(北京)・包頭であった。

 

 7月中旬の10日ばかりをかけて、自分たちだけで天津・承徳・(北京)・包頭を自由旅行してきた。天津は1860年の北京条約(アロー戦争の結果締結)で、清朝が開港を認めた都市の一つで、列強が租界を設け中国へ進出の拠点としたところである。ほとんどが当時の建物だという道路が残っており、それらの建物は見応えがあった。天津から承徳まではバスで移動、承徳は清朝の皇帝たちの避暑地であるが、その山荘よりも周辺の寺廟や奇岩を有する山が興味を惹いた。北京は移動の通過地点として利用しただけで、宿泊はしなかったが、天安門広場周辺見て歩いたり、オリンピック会場予定地を探し歩き、地下鉄は何度も利用させてもらった。包頭では現地の小さな旅行社の草原一泊ツアーに参加、馬に乗り草原を2時間も散策したり、満天の星空と、草原から昇る太陽を眺めてきた。これが瀋陽在住最後の旅行となった。    

承徳の奇跡岩

 岐阜研修所の企業研修生


 帰国後、持ち帰った資料を整理しようと考えていたところ、日中技能者交流センターから声がかかり、青島で2ヶ月日本語を学習した企業研修生(進修生)に、岐阜で日本語を1ヶ月間教えることになり、岐阜羽島の研修所で生活することになった。生活をかけてやって来ている企業研修生の真剣さに心地よさを感じながら1ヶ月過ごさせてもらい、この1012日に自宅に舞い戻ってきたところである。

 

 ところで、岐阜へ行ったのは初めてであったのだが、岐阜が早くから中国との友好に努めていた県であることを知った。私が今回日本語を教えた日中技能者交流センターの研修所があるばかりでなく、長良川沿いには日中友好会館もある。岐阜城のある金華山の山麓の岐阜公園の中には日中友好庭園があり、友好の足跡を刻んだ碑にも詳しくそのことが刻まれている。

 

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*中国浙江省杭州市長の碑文とこの碑の背面の碑文説明

 

「中日両国人民 世世代代 友好下去  中華人民共和国 杭州市長 王子達」

 

「碑文説明  此碑は日本岐阜市各界の人士と市長松尾喜策氏とが杭州市と岐阜市の間に互いに侵略戦争に反対する記念碑を建てたいと云ふ提案に基き建立するものである。日中両国は近隣であり悠久な友好融和の歴史的関係を持ち続けてきた。然し、日本軍国主義者はかつて侵略戦争を起こし、中国人民に深甚なる災難を与えたばかりでなく同時に日本人民にも多大な禍害をもたらしたのである。このような歴史を再び繰り返さない為に日中両国民は世世代代友好を続け、両国人民必ず団結し侵略戦争に反対し、アジア及び世界の平和を守らなければならない。 1962109日」

 

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*岐阜杭州友好盟約記念碑

 

「岐阜県岐阜市と中国浙江省杭州市とは1957年から友好を新たにし、1962年に両市長の碑文交換があり、1963年には両国友好の記念碑を両市に建立し友好関係を発展させてきた。その友誼を更に深めるため、197558日県知事を団長とする友好訪中団15名・・・(筆者による省略)・・・平和を誓う盟約を結ぶ。・・・(筆者による省略)・・・これを記念して1976年建立。」

 

 この碑には下記のような中国大使の五言絶句も刻まれている。

「悠々銭塘水 滾滾長良川 相江結友好 子孫万代傳  中華人民共和国大使 栄国均 1970年」

 

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*次のような「中国人殉難者之碑 平野三郎書」碑もある。

 

「碑文  太平洋戦争末期日本国内において軍関係の建設工事に従事された中国人が約4万人あり、このうち6830人に及ぶ多数の人が殉難されました。岐阜県においても1689人が高山市、瑞浪市、各務原市及び加茂郡川辺町で従事せられ、73人が殉難されております。遠い異郷の地で亡くなられたこれらの人々の冥福を祈り、ここにその事跡を永く後世に伝えるとともに県民をあげて友好親善の誓いを新たにし、日中両国恒久の平和を祈念してこの碑を建立したものであります。

 昭和476月 岐阜県中国人殉難者慰霊事業実行委員会会長 岐阜県知事平野三郎

 殉難者氏名 (ここに高山市、瑞浪市、各務原市及び加茂郡川辺町で殉難された中国人73人の氏名が記載されているが、筆者の判断で省略)

 

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 田中角栄首相が中国を訪問し、周恩来首相との間に日中共同声明を発表し、日中正常化を声明したのが19729月で、日中平和友好条約が調印されたのが福田内閣のとき19788月であった。

 

 昭和476月は19726月にあたる。上記のどの碑文に刻まれた年代も日中共同声明よりも早い時期である。岐阜県や岐阜市の日中友好への取り組みが早くからなされ、真剣に中国との友好に努めてきた姿勢をうかがうことができる。

 

 私がこの日中友好庭園を訪れた10月初旬には、日中不再戦の碑文交換45周年記念に植樹した金木犀(中国名は金桂)が好い匂いを放っていた。

 

 日中友好に努める岐阜県が、戦前から中国の東北地区と大いに関わりがあるところだったことも私の認識の中に更に加わった。金華山にはあちらこちらに「拓碑」が見られる。そして、日中友好庭園内にも「拓碑」がいくつも見られる。その中からいくつか紹介してみよう。

 

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*満蒙開拓慰霊塔

 

「碑文 昭和163月三濃若人200余名茨城県内原訓練所に満州開拓義勇隊栗田中隊を編成、同年6月渡満、浜江省一面波訓練所及び北安省鉄○訓練所に多年開拓訓練に励む。194月永久地北安省緩稜県南長英屯に入植第4次岐阜義勇隊開拓団生まる。208月太平洋戦争終戦、団は解散の悲運、幾多団員は業ならず開拓の礎石と仆る。茲に生存者集ひ、殉難同志の霊を慰め開拓の雄図を永く後世に伝う。

昭和369月吉日 岐阜義勇隊開拓団生存者一同建立」

 

*4(昭和16)栗田中隊拓友名(230名の名が刻まれているが、筆者が省略)

 

「昭和の歴史に残る50有余年前、昭和16年国策としての大事業に僅か14,5歳の少年が中国東北部満洲に満蒙開拓青少年義勇軍として、我ら栗田中隊200有余名は鋤鍬あるときは銃を手に王道楽土の建設、五族共和の夢を胸に北満の地に渡りしが、図らずも昭和20年の敗戦に夢破れ九死に一生を得、裸一貫で帰国、戦後の荒廃した社会の中で郷土復興自活の為の根性で、恵まれた郷土社会を築きあげた。不運にも異国の地に骨を埋めた拓友同志の霊を祀るため昭和36年金華山中腹に慰霊塔を建立、慰霊祭を行い、青春を追憶し、慰霊し、歓喜してきた。今日、年老いて金華山での慰霊祭も至難となり、寂しさを痛感するとき、岐阜公園に移設することになった。この機を記念して拓友同志の名を刻み、後世に記す追碑を建立す。拓友生存者の念願を叶えた戦争世紀を記念すべき碑である。兵戈無用 世界はひとつ。 平成79月吉日 栗田会 拓友生存者一同」 

 

 前者が昭和36(1961)金華山中腹に建てられた慰霊塔の碑文、後者が岐阜公園日中友好庭園に移設されたときに追加された拓友名の碑文である。この栗田会について、その歩みを碑の背面に次のように刻んでいる。

 「風雲急を告げる昭和163月 当時の国策であった満洲国建設の使命と新天地開拓の夢と希望に燃え、県知事始め各市町村長より激励の言葉と祝辞を受け、県民からは日の丸の旗と歓呼の声援で見送られ、岐阜県郷土中隊として日本を後に大陸に渡ったのである。年齢は8割強が14歳であった。」

この碑文に続き、年表風にその当時の様子を伝えている。昭和1638日:満蒙開拓者青少年義勇軍として茨城県内原訓練所に入所、 6月:敦賀の港より出港、 7月:関東軍特別演習勤労奉仕隊、ソ連国境近くの軍務につく、 昭和17年:大半の隊員は農作業と軍事訓練が日課となる、 昭和18年頃より:年長者から順に現地現役入営、 昭和20年には:一度に70余名が入営、団に残った拓友は43名になり、更に敗戦時には、一時は200余名いた同志がついには男子7名女子供5名になっていた。5月に入営した者の多くはシベリアへ連れて行かれて抑留され、その他の者も栄養失調やチブスなどの病気で命を失しなう者も多く、生き残った者も、ハルピン、新京(現在の吉林省の長春)、奉天(現在の遼寧省の瀋陽)と逃れ、最終的にはコロ島(現在の遼寧省の葫芦島)に到り、ようやく帰国を果たせたと。

 

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*横山中隊の「拓友碑」

 

 「維時大東亜戦争熾烈の半昭和18年錦秋 我々満蒙開拓義勇隊岐阜県中隊は日本民族繁栄の一翼として墳墓の地に訣別し勇雄渡海尓来現地の厳寒酷暑と闘いつつ開拓に専念す 然るに図らんや戦争の終結に遭遇し その夢と事業は遂に水泡に皈し幻亡 或いは雄図空しく生還し、今日に至る。而して戦後20星霜を閲したる現在と雖も吾々愛国の至誠は不変、まして母国の永遠の平和と郷土発展に努力せんことを誓い併せて義勇開拓精神の同志の魂の寄り処として、この聖地を送り記念碑を建立す 昭和40815日 旧横山中隊朋友前一同」

 

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*岐阜県送出第7次満蒙開拓団「拓友碑」

 

 「青少年義勇軍田中中隊は生死をかけた中国における厳しい歩みを青春の道程として永久にとどめる」

 

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*満蒙開拓青年義勇隊伊藤中隊「拓魂」

 

 「満蒙の野に鋤とりし 開拓の勇士の夢 とわに忘れじ」

 

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 どれも、生き残った満蒙開拓青年義勇隊のメンバーだった人たちの気持ちが伝わってくる碑文である。中国に渡ったとき、彼らは若かった。1中隊は200名強から300名弱のメンバーであったが、そのほとんどが14,5歳の若者であったのだ。満洲国建設の使命と新天地開拓の夢と希望に燃えていて、当然であったであろう。国策として送り出される彼らは、県や市町村あげての見送りを受けて旅立ったのである。国から吹き込まれた王道楽土の建設、五族共和の夢を純粋に受け止め、彼の地に渡ったのだ。そして、そのことを愛国として疑うことはなかった、また、疑うことができなかった若者たちであったろう。過酷な数年を経て、多くの「拓友」を失い帰国した彼らにとって、その純な精神で行動した青春時期は掛け替えの無いものであったはずである。その純な愛国への気持ちは満蒙開拓青年義勇隊の歴史がどのように評価されようが、彼ら若者が抱いたその気持ちは否定されるべきものではなかろう。

 

帰国者が乗船した葫芦島の港湾

 

 だが、新天地開拓と言われた新天地の多くは無人の荒地ではなく、既に人が住み、生活していたところである。建設を使命とした満洲国そのものも仮想の国でしかなかった。満蒙開拓青年義勇隊の若者たちが躍り出て、愛国の情熱を傾け、活躍する本当の舞台ではなかった。この大局的な視野からすれば、当時の日本の国策に踊らされた若者たちの愛国感情や行動は、真の愛国とは裏腹な結果に繋がり、生き残った若者たち自身も、あの葫芦島から苦い経験を背負い帰国してきたのであろう。

 このことが、多くの満蒙開拓青年義勇隊を送り込んだ岐阜県をして、国家に先立ち日中友好への取り組みを進めさせた背景であるかも知れない。

 

(20071015)

 


帰国者が乗船した葫芦島の港湾

 

 だが、新天地開拓と言われた新天地の多くは無人の荒地ではなく、既に人が住み、生活していたところである。建設を使命とした満洲国そのものも仮想の国でしかなかった。満蒙開拓青年義勇隊の若者たちが躍り出て、愛国の情熱を傾け、活躍する本当の舞台ではなかった。この大局的な視野からすれば、当時の日本の国策に踊らされた若者たちの愛国感情や行動は、真の愛国とは裏腹な結果に繋がり、生き残った若者たち自身も、あの葫芦島から苦い経験を背負い帰国してきたのであろう。

 このことが、多くの満蒙開拓青年義勇隊を送り込んだ岐阜県をして、国家に先立ち日中友好への取り組みを進めさせた背景であるかも知れない。

 

(20071015)

 





化石見学旅行       加藤正宏・文子(瀋陽薬科大学)

化石見学旅行要項

1 期日 2007年6月9日(土)〜10日(日)  1泊2日

2 場所 遼寧省朝陽市及び北票市周辺

3 参加費 560元(申込金100元納入者は残金)

内訳

1)車代   130元  

2)食費70元(朝食代はホテル代に含む、酒代は含まず)                 

3)宿泊代 100元  (ツイン部屋、一人一部屋使用の場合は200元)

4)保険代  10元(人身以外の傷害保険、外に旅行社責任保険はある)

5)ガイド料 60元(1日30元/2日)含現地ガイド

6) 参観料 190元(展覧館50元、北塔20元、同博物館20元、地宮殿100元)

4 日程 

第1日目(6月 9日)

7:00 集合(中山広場「遼寧賓館」前)

7:10 点呼後、貸切バスで出発(朝陽市まで約300km)

11:00 朝陽市内着 (現地旅行社の出迎え)

11:30 昼食 〜 12:15 出発

13:15 北票市「四合?化石基地」着

      「三燕古生物化石展覧館」見学

加藤文子

 研修レクレーション係り(峰村、石原、渡辺(文))の皆さん、ご苦労様でした。

 観光内容も豊か、食べ物も申し分ない、良い旅行でした。本当にありがとうございました。私たち夫婦はさして化石に興味を持っていなかったのですが、会員の皆さんとの昨年の旅行が楽しかったものですから参加したようなところがありました。しかし、最初に書きましたように、昨年にも増して、楽しい旅行になりました。化石についての知識も増え、関心も高まってきました。北塔も歴史を感じさせました。塔自体への関心も以前に増し、見る目も肥えたと思います。本当に充実した旅行を準備してくださってありがとうございました。

 バスの中では、山形(達)・池本さんが時間をかけてつくられた貴重な結晶(歌集)よりいろんな歌を、皆さんが歌われ、和気藹々とした時間を過ごせました。ただ、歌を歌うのが苦手な私たちには、前の方が歌われているときは戦々恐々としておりました。場の雰囲気を潰したくない気持ちがあり、なんとか誤魔化すことばかり考えていました。

 日本からわざわざ中道さん夫妻が参加されたのにも感激しました。

 また、家庭内における夫婦の激しい権力争奪状況(?)の一端を皆さんの前に晒してしまって、お恥ずかしいかぎりですが、これも教師の会が大きな家庭のようなものだからついつい吐露できたのだと思います。教師の会、万歳というところでしょうか。


加藤正宏

次に、二日間の日記(正宏)を感想として付け加えておきます。

6月9日(土)

 化石見学に出発。遼寧賓館に7時集合。山形夫妻と6時20分に待ち合わせて出かける。

 ガイドさんは去年の陳さん、デラックスなバスで現地に向かう。北票市「四合囤化石基地」着「三燕古生物化石展覧館」を見学する。化石基地は小さな丘を切り崩したようなところに、兵馬俑と同じように屋根をつけた体育館のような展覧館の建物と、周りには珪化木の庭を配して作られている。丘を切り崩した断面はそのまま残されていて、薄く剥離できるような岩や石が転がっている。それらを拾って剥がしてみると、小さな貝の化石が直ぐにみつかる。魚や昆虫の化石が手に入れたかったが、なかなか見つからず、私が手にしたのは貝のそれだけであった。でも、仲間には昆虫の化石を見つけた人も居た。羨ましいかぎりである。展覧館は思った以上に、整備されていて、見るところが多かった。見学者は我々の団体以外に一つか二つで、じっくりと観察できた。惜しむらくはトンカチを持ってこなかったことと、化石採掘の時間が短かったことである。残念!

 昼、夜と食事も十分満足できるものであった。部屋も、ベッドが硬かった以外は、特に問題はなかった。

 

6月10日(日)

 朝陽市の北塔と関帝廟を見学。塔も北魏以来の基盤に遼代の塔が建つ歴史のある塔で、なかなか良かった。また塔に附属した博物館には地宮の宝物、天宮の宝物などが展示されていたり、他の都市の塔との比較が為されていて、この博物館も充実していた。関帝廟は帰途の山裾に大きなのがあるそうだが、今回は市内中心の関帝廟を見学する。

 昼食は今日も豊富で、次から次へと料理が運ばれてきて、十二分に満足した。

 高速道路をバスで走って移動したのだが、高速道路が次々と造られて繋がっている様子が良く分かった。高速道路のサービスエリアも整備されてきていて、中国各地の一体化がどんどん急激に進んでいることを肌で感じさせられた。

 帰宅後、持ち帰った化石が表面にある厚い石を、丁寧にいくつか剥がして(割って)みた。そのつど、化石が現われる。でも、どれも貝の化石ばかり、まあ、仕方がないかと思っていたら、なんと珍種を発見、もっと適当に厚い石を持ち帰れば良かったと、悔やむことしきり。