04 瀋陽城市城壁と城門

瀋陽城市城壁と城門

加藤正宏

    先ず、路上市で入手した写真を見ていただきたい。写真には「1900年俄軍入城奉天府」の文字が見える。俄とはロシアのことである。この写真はロシアの軍隊が奉天(瀋陽の旧名)城に入ってくる様子だというのだ。

本当にそうなのか。将校の帽子はロシアの帽子ではない。乃木将軍が会見したステッセルのあの高く上に伸びた暖かそうな帽子ではない。ここまで言わなくても、この場面、どこかで見たことがあるぞと思われる方も多いだろう。そう、これは鹿子木孟朗が描いた「日露戦役奉天戦」で、そこには1905年3月10日に大山巌が奉天に入城している場面が描かれているのだ。この場面は新東宝の映画「明治天皇と日露大戦争」(1957年作品)でも正確に再現されていた場面だ。とんでもない間違いを平気でやってのける路上市の中国人店主には、売れさえすれば、どちらでもよかったのだろう、日本でもロシアでも。

それはさておき、とにもかくにも、ここに描かれた城門は20世紀初めの瀋陽城市の城門である。レンガで覆われ、いかにも堅牢そうな城門だ。

今回はこの瀋陽城市の城門と城壁を紹介したい。

瀋陽は古くから城市として知られてきた。古くは紀元前の春秋戦国期に既に城市として胚胎し、秦、漢、紀元後の後漢、三国、隋、唐の間も名は異なるが、城市として存在してきた。10世紀の宋代に入って、この時期に北方を支配した遼や金の下、瀋州と呼ばれ、13世紀末の元の支配下では瀋陽路と呼ばれる城市となった。瀋陽は遼河支流の瀋水(俗称渾河)の北岸を意味する。中国の地名で「陽」の着くのは河川の北岸を意味していて、洛陽なども洛水の北岸をさす。

14世紀の後半からの明代には瀋陽衛と呼ばれた。この明代になって瀋陽城市は初めてレンガ造りの城壁を持つようになった。元の時代までは土を突き固めて盛り上げたものであった。今回のテーマの城壁と城門はこの明代のレンガ造りの城壁利用し、更に高く大きくし、城門も増やした、清代のそれである(17世紀前半以降)。高さが3丈5尺、厚さが1丈8尺、城壁の上の凸凹の壁の高さが7尺5寸、周囲は9里332歩、城門は8、城楼は城門上の明楼が8、城壁の四隅の角楼が4、このような城壁であった。(丈=10尺=3、3m、里=500m)

2枚の写真を見ていただこう。高さは電車と比較していただければ、感覚として理解していただけるのではないだろうか。もう1枚の写真では、左隅の人間と比較すれば、壁の厚さも感じ取ってもらえると思う。土塁をカバーするレンガの様子も一目瞭然の写真だ。

清は康熙帝統治1680年に更に城外に土を突き固めただけの土塁を築き、関所を置いた。簡単な関所でレンガ積みの左右の柱に木を渡しただけのものであった。これが辺門で、これも8あり、図に見られるように、本来

の城壁を円く囲むような配置である。日本語資料室のバス停天后宮の、一つ北の停留所は北辺門というが、その辺りに北辺門があったのであろう。土塁は高さ7尺5寸であった。この土塁一周の距離は32里48歩であったそうだ。写真は、辺門の一つ、小西辺門であるが、厳しさの感じられない簡単な関所であったことが理解してもらえると思う。

城壁と城門に話を戻そう。

城壁のあった外側に現在大きな道路が走っている。東順城街、南順城路、西順城街、北順城路である。「順」には「沿う」と言う意味がある。東西に走る道を「路」と言い、南北に走る道を「街」と呼ぶ。西順城街と北順城路が交差する内側に、復元された角楼があり、ここが城郭の角であったことをこの角楼が物語っている。

外攘門(小西門)

小西辺門






城壁の厚さ





城壁の高さ

故宮の北にある城門のようなものは鼓楼(西)と鐘楼(東)

右の図では小北関(小北辺門)と大北関(大北辺門)の

文字が写真の撮り損ないで見えていない

城門と城門の上にある明楼の例として、外攘門(小西門)の写真を掲げてみた。門や城楼(明楼や角楼)がどんなものであったかが、この写真で理解できると思うが、少し説明を加えておこう。当時の城門はレンガで構築され、その中央にはアーチ型の洞があり、洞の上には内外共に門名を書いた門額が嵌め込まれていた。城門外には満州文字、城門内には漢字が書かれた。城門の上の明楼は三層をなし、四方に廂を出し、横木の梁は朱紅を地とした彩色が施され、屋根瓦は灰色であった。

現在、復元されていて、我々が見ることができる城門は、撫近門(大東門)と懐遠門(大西門)だけだが、ほぼ上記の形式を踏んでいる。ただ、どうしたことか、懐遠門(大西門)の門額は誤って、内外逆に文字が嵌め込まれ、外側が漢字になっている。確かめていただければと思う。

ところで、瀋陽城市の城門は前回の「中街」でもご紹介したように、明の十字街の4門から、清が井字街に変えたことで、それぞれの先にある門が増え、清の時代には8の城門があった。俗称は大小の東西南北の名で呼ばれているが、次のような正式名がある。内治門(小東門)、撫近門(大東門)、天佑門(小南門)、徳盛門(大南門)、外攘門(小西門)、懐遠門(大西門)、地載門(小北門)、福勝門(大北門)である。これら門の名前で一幅の対聯できると考える人も居るそうだ。「内治撫近天佑徳盛」「外攘懐遠地載福勝」、このような対聯は別にしても、東西、南北をそれぞれ対に読んでみると、例えば、内治と外攘、天佑と地載など、清王朝の統治理念や天地の神々の加護による国運長久の願いが込められているのを感じる。これらの8門に、明時代の北門であった鎮辺門を加えて、9門あつたとする説があるが、非常時の避難用であったためか、文献に特に記載されなかったようだ。一般に流布していている話では、俗にこれを9門と言っている。実際、現在もこの「九門」は地名として使われている。

百年老店馬家焼麦館

城壁の一部であったレンガ使用のバラックの壁

城壁の基礎部分に建った後方のバラックが高く見えていたが・・・取り壊された

残骸の中から、これらバラックに使われていた城壁のレンガが姿を現す。

      しかし、9門だけではないが、これらすべての城門と城楼は新中国による解放後、城市の交通の発展のために取り壊され、撤去された。1958年の「大躍進」の時に、北順城路に沿った南側の部分の城壁の基礎段を残して、城壁は全て取り壊されてしまった。1982年に、この基礎段は市級文物保護単位に指定されたが、既に城壁の基礎として使われていたレンガは住民によって持ち去られたり、その基礎段の上やその傍らに建てられたバラックの建築資材に化けてしまって姿を消し、市民からは忘れ去られていた。城壁や城門・城楼を思い起こさせるのは、復元された撫近門(大東門)と懐遠門(大西門)と西北の角の角楼のみであった。

さてと、ここまでは今回のテーマの前置きみたいなもので、ここからが今回の史跡探訪となる。

昨年2004年の12月初旬、瀋陽の各紙は明・清代の古い城壁が中街の少し北、北順城路の手前で発見されたとの記事を、競うように掲載しあった。そして、瀋陽市市長である陳政高が残っていた古い城壁を視察し、市の歴史文化遺産としての重要性を認め、歴史的なこれらの古い城壁を中心とする公園を来年は造りたいとの希望を表明した。そのことも各紙こぞって報道していた。

是非見たいものと、北順城路の手前の路地を歩いてみた。正陽街と朝陽街の間の九門路である。路地に面したどのバラックの壁も、よく見る通常の赤いレンガだけでなく、大きな黒いレンガや石が壁の一部として使われている。これこそ、城壁の一部であったろうレンガそのものであろう。これらバラックは旧城壁の内側にへばりつくようにして建てられている。建物の北壁は城壁そのものを利用したものであるかも知れないが、見せてもらうわけにもいかない、プライベートな領域だ。

北順城路の大通りに面した南を見て歩いた。道路を挟んで道路北側に位置する白塔小学校と面しているのが瀋陽市広告公司のビルで、その西隣に空き地があり、その南の奥の壁を点検してみると旧城壁の一部が壁として利用されていた。瀋陽市広告公司のビルと棟続きの東隣のビルとその東隣の住居ビル(ブルーの下地に「北順城路127」と白字で地番を書いた牌が広告看板の上に取り付けられている)の間の路地を南に入ると、ここにも小さな空き地があり、その南の奥の壁に旧城壁が見られる。

この空き地の東で、「北順城路127」の住居ビルの南側には、密集してバラックが建っていた。南北には二段になっているように見える。南のそれは旧城壁の基礎部分の上に建てられていて、城壁際に建てられたバラックより一段高く位置し、南北二段に見えるからだ。12月にこのように見えたこの辺りも、陳政高瀋陽市市長の約束が実施され始めたのか、1月1日にこの同じ場所に行ってみると、バラックのほとんどが取り壊され、瓦礫の山になっていた。私にとってはラッキーなことで、取り壊された残骸の中に、旧城壁のレンガを使用したバラックの壁を検証することができた。きっと、この辺りは市長の約束した旧城壁公園が今年中にできあがるのであろう。

新聞で最初に話題を提供した旧城壁の基礎部分は、また別のところにある。これを探し当てるのには随分と苦労した。新聞に報じられたからといって、その辺りの地元人が誰でも知っているわけではなく、むしろ関心のない人がほとんどで、知らない人の方が多い。

瀋陽市広告公司のビルから西へ、正陽路を越え、広告公司から約500メーターぐらい行ったところに「金都」の看板の他にハングル文字と英文で看板を掲げたレストランがある。このレストランの東の路地を南にたどると、裏の東西に走る小路に出る。ここに瀋陽市糧食局瀋河糧食籍管理所の入っているビルがある。そのビルの東横には廃品回収の場所がある。この廃品回収の場所を突き切って、このビルの裏手、つまり北側に回りこむと旧城壁の基礎部分が完全に残っている高さ2メーター強・長さ10メーターほどの壁を見ることができる。こんな廃品回収場所を入り口とした後ろなどとは一般に思いも及ばないところだ。ここも市長の約束により、旧城壁公園の一つとして整備されるのであろうか。

この旧城壁公園にからめて、専門家の意見が華商晨報という新聞に掲載されていた。中街より北の正陽街の左右には歴史的に意義のある建物が散見される、これらも旧城壁と共に保護管理すべきではとの意見である。建物として挙げていたのは、百年老店馬家焼麦館、奉系軍閥の汲金純公館旧址、瀋陽に現存する四合院としては比較的保存の良い黄家大院を挙げていた。百年老店馬家焼麦館は正陽街の西側、中街と北順城路の中ほどにある。回民(イスラム)の餐館だが、ビールなども飲ませてくれる。汲金純公館旧址は馬家焼麦館の南の路地を入れば、直ぐそこが旧址だ。民間人が数軒で住んでいるようで、荒れた感じではあるが、屋根の辺りに公館としての姿を残している。黄家大院は正陽街の東側に派手なブルーの色の回民餃子館があるが、その横の路地を300メーターほど行ったところにある。地番は九門路十王府巷18である。ここも数軒の住人が生活していて、物が多く置いてあり、イメージする四合院の中庭とはほど遠い感じだが、屋根の辺りには古建築の風情も少しは感じ取れる。

正陽街の東側に派手なブルーの色の回民餃子館や新大陸美容美髪学校の並びがある、その北東後方に大きな屋根が見える。中国人の専門家は挙げていないが、これも1920年代末に建てられた倉庫だそうだ。城壁公園の歴史的な建物として、保護管理されてもおかしくない建物である。日本の恒信という会社の倉庫だったと地元の人が言っていたが、日本の建物だったということで、保護管理すべきものだと言えなかったのかも知れないが・・・。

以上、今回は瀋陽城市の旧城壁と城楼の話をさせてもらった。念のために、盛京、奉天の名にについて一言、清は瀋陽を盛京と改称し、北京に都を遷してからは遼瀋の管轄区を盛京と呼称し副都とした、その中の瀋陽城市については奉天府と呼称する。奉天は清朝(後金)創建のヌルハチが遼陽から瀋陽に都を遷すきっかけとなった逸話から生まれている。吉祥の鳳凰が瀋陽に降り立ったことによるのだそうだ。鳳と奉の発音が同じで、最初は鳳天であったが、後に奉天と改称し、「奉天承運」の意味をもたせたという。

1928年、張学良将軍が瀋陽城の名を恢復したが、2年後の1931年9・18事件により、瀋陽は占領され、日本によって奉天と改称され、1945年日本の投降後に現在の瀋陽という名にもどった。今も奉天街という名の道路に奉天の名は残されている。

参考にした書物

1 瀋陽漫遊 「六 瀋陽城与九門的伝説」 中国旅遊出版社 1984年

2 走向輝煌的瀋陽 「第一篇 瀋陽:悠久的歴史文化名城」 瀋陽出版社 1999年

3 瀋陽史話 「三、女真族的興起 八関九門」

王鴻賓著 上海人民出版社 1982年

4 瀋陽文史資料 第六輯 「清入関前都城及首府述略 七 瀋陽城」

政協瀋陽市委員会文史資料研究委員会編 李鳳民 1984年

5 瀋陽名勝 「中心廟」 李鳳民編 東北大学出版社 1996年

6 説古道今話瀋陽 「瀋陽城史話」 瀋陽市工商行政管理局その他 2001年

7 瀋河文史資料 第五輯 「九門」「中心廟」「懐遠門和撫近門」

中国人民政治協商会議瀋陽市瀋河区委員会文史資料研究会 1997年7月

8 瀋陽景色点民間説 「盛京古八門」「清代瀋陽古城平面図」

遼寧大学出版社 1998年

9 瀋陽市志 第十三巻 「盛京城址」 瀋陽市人民政府地方志編纂弁公室 1990年

10 瀋陽志通訊 聡七期 「瀋陽城的歴史与伝説」

瀋陽市人民政府地方史編纂弁公室編 王明琦 1983年

11 瀋陽文史研究 第四輯 「瀋陽旧城堡簡介」

瀋陽文史研究館編委会 凌其船輯録 1989年

12 瀋陽市建築業志 二 「第九章古代建築 第三節 城垣遺址 瀋陽城址」

瀋陽市建築業志編纂委員会 1992年

13 瀋陽百貨全書 「清瀋陽城闕図」 遼寧大学出版社 1992年

14 東北名称古迹軼 「遼寧省 瀋陽市」 瀋陽市図書館社科参考部編印 1985年

廃品回収の場所

撫近門(大東門)

旧城壁の基礎部分が完全に残っている。

右はその裏面から見たところ

懐遠門(大西門)

日本の恒信の倉庫?

西北角の角楼