08 満鉄附属地  中華街と南京大街附近

「大奉天全図」

昭和12年作を改図

工商銀行

瀋陽駅夜景

中華街から見た駅の夜景

加藤正宏

このホームページを御覧になられている方で、

今ここはどうなっているのか知りたいとか、

ここではこんなことがあったなどの情報がございましたら、

メールを頂ければありがたいです   

 HP満鉄附属地連絡先    masa75h2000@yahoo.co.jp  加藤正宏

満鉄附属地

(その3の上、中華街と南京大街附近)

     瀋陽駅を背に勝利大街に直角、つまり駅真正面から垂直に伸びる幹線道路が中華路、嘗ての千代田通である。満鉄附属地時代、この千代田通を境に南北同じ線上にあってもそれぞれ別の地名が付けられていた。例えば、「満鉄附属地(その2)」で紹介した太原街は北は春日町、南は青葉町と名付けられていた。現在も、北は太原北街、南は太原南街と正式には名付けられ区別されている。また、今回紹介する南京大街は北は富士町、南は萩町と名付けられていた。これら現街路の多くは中国各地の都市名を採用し、同じ南北線上にある場合、同一名の下、北街と南街とに区別しているだけだ。しかし、当時は全く違った名が付けられていた。

      これらの地名の付け方について、山田二郎さん注aから情報をもらっているのでご紹介しておく。

     それは、戦前、満鉄奉天本社鉄道総局建築部に勤務し、設計にあたっておられた山田さんのお父さんから聞かれたという内容で、奉天の主に大和区(現在の和平区にほぼ一致する地区)の地名の付け方を千代田通以北を全て日本の名所旧跡の地名に、そして以南には暦の12ヶ月を意味する植物名を地名に用いることにしたというものである。更に番地の説明も頂戴している。つまり、「番地は通りの左側は奇数、右側は偶数、但し、浪速通り(中山路)、千代田通り(中華路)、平安通り(民主路)、高千穂通り(新華路)は、夫々線路に近いほうから 北側が偶数、南側が奇数になっていた。」との説明である。なお、「満鉄附属地(その1)」でご紹介しているように、千代田通(中華路)に近いところから番号が付けられ、千代田通(中華路)から離れれば離れるほど番地の数字は大きくなっている。

      参考のために、山田二郎さんが送ってくださった情報に幾つかの補足を加え、旧名と現在名とをご紹介しておこう。左記の町を、千代田通を越えて、北上すると右記の町に入る。

西から(線路側から)順次紹介している。「満鉄附属地(その2)」の略地図を参考に見ていただければと思う。

  (旧名) (現在名) (旧名) (現在名)

1月 若松町(大通) 勝利南街 宮島町 勝利北街

2月 紅梅町 昆明南街 橋立町 昆明北街

3月 弥生町 民族南街 松島町 民族北街

4月 霞 町 蘭州南街 江島町 蘭州北街

西安街

5月 青葉町(大通) 太原南街 春日町 太原北街

(奉天銀座)

6月 藤浪町 天津南街 住吉町 天津北街

7月 稲葉町 同澤南街 琴平町 同澤北街

8月 葵 町 南寧南街 八幡町 南寧北街

9月 萩 町(大通) 南京南大街 富士町 南京北大街 

10月 白菊町 集賢街 浅間町 徐州街北段

11月 紅葉町 海口街 新高町 南昌街

12月 雪見町(大通) 和平南大街 信濃町 和平北大街 (国際通)

     千代田通に並行して造られたのが「條通」で、千代田通から南北にそれぞれ離れていくほどその数字は大きくなった。だから、千代田通に最も近い東西に走る道路は南一條通と北一條通であった。それぞれの隣の「條通」までは、私の足で普通に歩いて約260歩、時間にして4分くらいである。なお、北一條通は 通称 千日通と言われていたそうだ。

      現在この「條通」は「馬路」と呼ばれている、つまり、「南五條通」が「南5馬路」となる。道路についての概観は、前回の「満鉄附属地(その2)」の略地図を参考にしていただければと思う。

  

     ① 先ず、駅前から中華路(千代田通)に沿って、見て行こう。

     写真は夜の瀋陽(旧奉天)駅である。夜もネオンで飾られ、昼間に負けず、お伽の世界を作り出している。もう一枚の写真は、中華路から見た駅方向である。真正面が駅、右(北)に見えるのが嘗て満鉄が経営していた奉天貸事務所、左(南)に見えるのが満鉄地方事務所であったところである。栗原節也さん注bの話では、「グリコ」の大きな広告が、貸しビルの屋上にあったとのこと。これらは駅の建物の造りと合わされていて、駅広場を囲み、今なお一体感を感じさせる。ただ、現在は戦車を頂に載せた19メートル(台座も加えると24メートル)も高さのある無粋なソ連紅軍の陣亡将士記念碑(1945年建立)が中華路の真正面に建っているのが、この調和を壊しているように思える。実際写真でもお分かりのように、中華路から見ると、この碑のために、駅の建物が分割されてしまう。碑面正面に「反対日本帝国主義戦争中、紅軍陣亡将士記念碑」とか、ロシア語で「光栄は偉大なソ連軍に属する(中国語からの拙訳)」などの文字が刻まれているから、撤去せよと言っているのでは決してない、どうみても不釣合いなのだ。瀋陽の地下鉄工事にあわせ、瀋陽駅に不釣合いの物が今年中に撤去され整備されると、昨年の新聞記事は報道していた。この碑も北陵烈士陵園にあるソ連軍の墓地に移されることになっていたのだが、未だに移されていない。ロシアとの交渉が難航しているようだ。

      奉天貸事務所は現在瀋陽飯店になり、その角には美国加州牛肉面大王が入っている。奉天地方事務所は現在瀋陽鉄路賓館になっていて、その一部に東北薬房などが入っている。

      駅前を除いて、附属地時代の建物ほとんどは、中華路(旧千代田通)からは姿を消してしまっている。当時の奉天の大和区に住んで居た人達が、思い出しながら自分の住居を書き込み作成された地図には平和洋行、小杉洋行、内田洋行、原田商事、吉野ガラス、天一坊中華、ロシア料理店などの記載が見られるのだが、・・・。勿論、「満鉄附属地(その2)」でご紹介したように、太原街(青葉町)と交差する東南角にあった幾久屋百貨店の記載もその地図にはある。しかし、その場所も現在は新世界百貨店という新しい建物がそこに存在するだけである。この百貨店について、栗原節也さんは次のように思い出を語っておられる。

    「幾久屋百貨店は満蒙や三中井よりは小規模(4階建て?)で、食堂も設けていなかったように思います。 思い出すことは、1階から2階への階段踊り場の壁に、南方方面の占領地域を示す大きな地図が貼ってあったことと、小6の時に学校から『ミイラ』などの展示を観に行ったことくらいでしょうか。」と。

    現在、南京大街と交差し越える辺りまでは大きなスーパー、ホテル、百貨店(ウオルマート、百盛、中興、商貿飯店、新世界、金杯大厦、交差点を越えて聯営、国美電器)が建ち並んでいるが、どれも附属地時代の建物ではない。辛うじて南京大街と交差する手前北側にある工商銀行の建物とその隣の交差点の西北の角に建つ風格のある建物が当時の建物として残っているだけだ。工商銀行の建物は中国銀行注c、その隣の角の建物も本来は東三省官銀號という銀行の建物であった。満州国が建国された直後、国としての紙幣が間に合わず、東三省官銀號の紙幣の表に「満州中央銀行」と朱で、裏面に「THE BANK OF MANTHOU」と黒で加印し、この紙幣を満州国政府は流通させている。正に満州中央銀行が東三省官銀號に取って代わったといえる。この建物もそうで、満州中央銀行の建物に取って代わった。栗原さんや山田さんの話では、その後、ここは大和区公署・警察署と使用されていたようだ。光復後はここを遼寧省総工会が使っていたようだが、現在は空き家同然の状態である。

     南京大街との交差を越えて和平大街に到る間の南側は、聯営の東に露地があるものの、その東は高層ビル(建築工事中も含め)ばかりが建ち並ぶ。この路地は徐州街南段(旧桂町)といい、路地の南に中山公園の給水塔が見える。北側は国美電器、中国建設銀行の高層ビルに続き、附属地時代感じさせる建物で、新華書店古書部が入った建物と続く。路地を挟んで、その東隣もやはり時代を感じさせる建物である。この路地が南昌街(旧新高町)である。南昌街を北に突き当たると中国医科大学の正門になる。

    和平大街を越えたところが馬路湾で、ここにある、あった病院と放送局の話は「5 満鉄附属地1(和平広場周辺と民主路)の補足」で触れている。

     ② 中華路から南京南街を南に向かおう。北の角には新世界百貨店(この中華街には新世界と名の付くビルが数棟ある)、その奥の駅の方角にはCANONの大きな広告文字を付けたビルが目に付く。中華路(旧千代田通)に日本企業がやって来ているのをアッピールしているかのように、私の目には映る、思いすぎであることは十分わかってはいるのだが。

     南1馬路(旧南一條通)と交わる手前のところには、木造のちょっと変わった建物が建っている。瀋鉄図書館(旧満鉄図書館)である。「満鉄附属地その1」で触れた知人Mさんのお母さんが満鉄図書館をよく利用していたと言われていたそうで、附属地に住んでいた方には馴染みのある場所であったことであろう。

    更に南に下り、南2馬路(旧南二條通)と交差するところまで行こう。この交差点はロータリーの面影を道路に残している。このロータリーの中心、道路のど真ん中に、照る照る坊主型の給水塔が嘗てはあった。この給水塔について、栗原節也さんが次のような情報を寄せてくださっている。「撤去されたのは1939年前後ではなかったかということです。 撤去後の鉄筋で作った、かなりの数の『輪回し』なる遊戯具が平安小に寄贈され、兄達の代はよくそれで遊んだそうです。」と。

     旧南二條通を挟んで、北に満鉄倶楽部、南に満鉄記念会館があった。現在はどちらも取り壊されて、新しい建物が建っている。一時期、どちらも瀋鉄文化宮として役割が与えられていたようだが、現在は北の満鉄倶楽部のあったところは瀋陽職工文化活動中心になっていて、ダンスホールなどが入っている。附属地時代の建物と思われる立派な建物が、職工文化活動中心の西、南寧南街に現在も残っている。

     この南2馬路を西に行けば、繁華街の太原南街の端にある民主広場(ロータリ)に到る。

     南3馬路(旧南三條通)と南4馬路(旧南四條通)の中間で、南京南街は民主路(旧平安通)と交差する。これより南は「満鉄附属地その1」で触れてきたところである。

     南2馬路から南3馬路と南4馬路の中間にかけて、南京南街の東には中山公園(旧千代田公園)と体育公園(旧国際運動場・野球場)が広がっている。中山公園には「満鉄附属地その1」で既に紹介した給水塔が現在も建っている。この給水塔について「華商晨報」(2005年12月21日)に「中山(公園)の古い給水塔は立ったままにし、腹ばいにさせることがあってはならない!(拙訳)」との見出しで紹介があった。トーチカと見まごうこの5階建て相当の建物が、給水塔であることを紹介し、更にその歴史や規模を紹介している。1915年に建てられ、当時、「千代田水源」と呼ばれ、この給水塔はその重要な部分をなし、6000強の家屋に給水ができたという。給水が廃止停止されたのは1962年のことであったという。規模は高さ53米強、容積は1200立方米であった。この記事を書いた記者の主張は、土一升金一升と呼ばれるこの土地を遊ばせておくのは勿体ないという人があるが、瀋陽の代表的建築物として残すべきだというのが彼の主張だ。大いに賛成だ。現在も、この塔が一つの美しい景観作り出しているのだから。

     写真を見ていただこう。

    南2馬路と南京南街の交差するところから、聯営公司を撮ったものである。左の白い高層ビルが聯営公司、道路沿いの公司手前の低い建物が遼寧中華劇場、手前右半分に見える建物が東北育才学校(旧千代田小学校・教育研究所)である。この学校は大変有名な学校で、この高校を卒業と同時に海外留学する者も多い。ここには私たちの仲間が何人もいて、日本語を教えている。また、生徒は中国内の重点大学にも多く入るようだ。門に貼った紅い紙に、全国物理学科コンテストで優勝した同校の3年生を紹介し、北京大学の物理学院に内定したことを報じていたこともある。手前の木々が植わっている辺りから、中山(旧千代田)公園である。

    もう一枚の写真は、上の写真の逆の方向から、つまり、現在の聯営公司の中華街から撮った写真である。満鉄が昭和11年(1936年)に発行した「奉天」という案内地図に掲げられた写真である。その解説に、「忠霊塔 千代田通に在って、六稜ピラミッド型、日露役奉天会戦の戦没将士三万五千三十八名の霊灰を祀り、別に満州事変戦没将士の分も合祀しつつある。尚附近には小銃弾型『明治三十七八年戦役忠魂碑』があり、毎年春秋二回招魂祭が執行されている。」とある。写真の一番奥に見える給水塔は萩町(現南京南街)と南二條通(南2馬路)の交差点にあるロータリーにあった給水塔であろう。現在残っている給水塔とは異なる。

     聯営公司の建物と遼寧中華劇場が建っている辺りが、忠霊塔があったところになる。栗原節也さんの記憶によると、「境内には杏の木が植えてあった。小学校(『平安小』)入学式の後、此処でクラス毎に記念撮影」したところであったとのこと。

 

     ③ 中華路から南京北街(富士町)の西側に沿って北に向かおう。

交差点から西に一つ入った南寧北街(八幡町)を北上すると、工商銀行に続く建物が幾つかあるが、後は更地が北1馬路(北一條路)まで続き、南京北街との間に塀だけが残されて広がっている。今、この塀には落書きを消した跡だけが残っているが、2004年9月、ここを通った時、塀には写真のような落書きがしてあった。落書きは「大同―秦皇島煤給日本填海已三十多年、朔県―黄花港毎日外運煤60列車、鉄路両側的農民都説它是条売国線、煤是一次性不再生能源必然窮尽」である。どうしてこのような落書きがされたのか分らないが、資源は無尽蔵にあるものではないのに、中国の石炭が港に運びだされ、外国(日本)に持ち出されているのを批判している内容だ。石炭を港まで運ぶ線を売国線とまで言っている。30年強前というと、1970年代初め頃になる。1972年9月には、田中首相が中国を訪問し、日中国交正常化が成っている。その後、日中は双方とも欠くことのできないほど、経済交流深めてきているのだが・・・。

    まだ、戦前の悪夢と現在とをダブらせて、日本を見ている中国の方が居られるという事実として、このことを受け止めておく必要があるのかもしれない。

    北1馬路(北一條路)から北2馬路(北二條路)にかけての南京北街と南寧北街に挟まれた区域には、南京北街に面して同澤一校(小学校)が、その小学校背面の路地から南寧北街にかけて日本人の旧住宅が並んでいた。特に北2馬路と交差する角には松の木のある大きな邸宅があった。ここには満州医科大学の教授博士とその家族が住んでいたこともあるとのこと。目立つ建物だったので、昨年9月に瀋陽に来て以来、何度かこの辺りを写真に収めてはいた。でも、今日現在、この区画は広い更地を塀が囲うのみで、大きな邸宅も小住宅も、小学校(嘗てはここには興福寺というお寺があった)さえも無くなっている。

    この路地でお会いした老人ご夫婦のことをご紹介しておこう。

    今年の夏の初め、友人の山形夫妻を案内してここに来た時のこと、3人もの人間があちらこちらと写真を撮り、日本語で会話していたこともあったのだろう。路地に椅子などを出して過ごしていた住人たちが、私たちを見ながら「日本人だよ」と中国語で話しているのが聞こえてきた。「そうだよ。日本人だよ。」と中国語で応じたところ、人が集まり、会話が始まった。建物のことを聞くと、周りを囲んだ住人たちが親しみこめた態度で、口々に建物のことを話し出す。満州医科大学の博士とその家族が住んでいたと、大邸宅のことを教えてくれたり、これも日本人の住んでいた建物だ、これもだと、路地の並びに建っているより小さな住宅を指し示しながら、次々と教えてくれる。中には、ある家で大きな箱が見つかったと、昨日新聞で報道されていた日本人の残した大きな衣装箱のような箱の話を出してきて、もう一つ有るんだが、当局には知らせていないんだ、見たければ電話してくれと、こっそり電話番号を渡してきた者も居た。「日本石油株式会社」と日本語名で話す老人もいる。この並びの住宅に住んでいた人たちの会社のようだ。そうこうしているうちに、日本語ができる人がいるんだと老女を連れてきて、我々に引き合わせてくれる人も現われた。

    86歳の老女は大連高等女学校女子師範を卒業し、大連西崗子小学校に3年間勤めたことなど、多くを日本語で語る。その後、この老女の家に寄せてもらって、彼女や彼女の夫(87歳)が、どのように日本や日本人との関わりを持っていたかを聞かせてもらった。彼女の卒業した女子師範では先生が全部日本人だったが、学生は全部中国人であり、修学旅行で22日間もかけて日本を巡っている。夫の卒業した大連市立実業学校商業科(1932年に卒業)は基本的に日本人の学校(学生はほとんどが日本人で、60人クラスで中国人は5人くらい)だったというから、日本への修学旅行ももちろんなかったし、学生間で話すのも日本語、もちろん先生は皆日本人だから日本語で話すのが当然の環境にあった。先生の授業と先生との応対だけが日本語だった老女より日本語にどっぷりと浸かっていたことになる。だから、夫の方が老女より、日本語が上手である。このように日本語が堪能であったことから、夫の方は、最初、森永製品販売株式会社で会計として採用され、大連で勤務したり、また新京(長春)の出張所で勤務していたとのことだ。会社では彼だけが中国人だったそうだが、待遇は日本人と同じであったという。また上司の家庭に良く招かれて、奥さん手作りの和食を食べていたこともあって、和食の名前も良く知っているし、それらがお店で売られていた値段も未だに忘れずにおられた。また、ごく短い期間(3ヶ月)だが憲兵隊の通訳もさせられたことがあったようだ。給与も与えらず、只働きをさせられたとのことで、そのことへの不満に加え、憲兵隊の下で働く中国人の便衣(私服刑事)の悪辣さにも我慢できなかったようだ。直ぐに辞めている。しかし、憲兵隊の上司とは交流があったのか、良い人だったとその日本人の憲兵隊上司の印象を語っていた。


     私が夏休暇で2ヶ月弱帰国している間に、医学博士宅であった家も含め、彼らの家は、取り壊されてしまっていた。たまたま、老女の電話番号を聞いていたこともあって、引越しされたお宅にお邪魔し、ご馳走になったり、当時の話を更に聞かせてもらったりしている。このことについては、この瀋陽史跡探訪29 今も日本語が話せるひとたち」に詳しく書いている。

  また、山形達也さんのHP「瀋陽便り」(05年の「60年前の歴史に触れた日(6月26日)」「ない、何もない(8月28日)」、「結婚60周年を迎える遅・苑夫妻前編、後編」)でも詳しく述べられているので、そちらを見ていただければと思う。

北2馬路の憲兵隊の建物?

      南寧北街の更に西には同澤北街(琴平町)が走っている。北2馬路(北二條路)の北側、南寧北街と同澤北街の間に、この両街に面した大きな古いビルが建っている。康徳6年(1939年)の地図では、奉天信託となっているところだ。住人にこの建物の由来を尋ねてみたところ、偽満の頃の憲兵隊の建物だった聞いているとの返事が返ってきた。更に、この建物は上空から見れば、「日」の文字になっているともいう。事実、建物は全部が詰まっているのではなく、中庭があり、その中央を東西に走る棟あって、中庭を南北に分けていた。正に「日」の文字である。しかし、憲兵隊が本当に使っていた時期があるのかどうかは分らない。「満鉄附属地その2」で紹介した満鉄の独身寮であった青雲寮も地元の人は憲兵隊の宿舎だと言っていたことが思い出される。憲兵隊と日本人や日本が結びつくイメージが中国人の中にあるのかもしれない。返事をしてくれた50歳前後のその人物に、日本の過去の支配を詫びたところ、「過去は過去、現在は現在、詫びは不要だ。」との即答が返ってきた。そのとき、私の頭を過ぎったのは、古本の路上市で出会ったある売主の言葉「日本の支配が続いていれば、この東北も上海や香港のようになっていただろう。」や南寧北街の塀に書かれた国家の資産を保護すべきことを訴えた落書きであった。

     北2馬路(北二條路)から北4馬路(北四條路)にかけての南京北街と南寧北街に挟まれた区域には、ホテルが並ぶ、インターコンチネンタルホテル(洲際酒店)、ホリデイ・イン(瀋陽暇日酒店)、遼寧賓館(旧ヤマトホテル)と続く。栗原節也さんが「『瀋陽暇日』の辺りに、奉天時代の『小沢征爾さん』一家が住んでいたそうです。」と情報を寄せてくださっている。

     今回はここまでとし、南京北街の東側部分、中山広場の周辺とそれより以北は次回の「満鉄附属地(その3の下、中華路と南京大街付近)」で取り上げたい。

 

 

注a 滿鐵奉天醫大付属病院で出生され、戦後お父さんの仕事の関係(留用:抑留)で、

小学5年生の1948年夏まで奉天に住んでおられた。

注b 「満鉄附属地(その1)補足」を参照

注c 中華民国の四大銀行の一つで、銀行券の発券を許されていた銀行。奉天支店とい

うところであろうか。

 

参考地図

駅前の岩間商会発行の地図(1930年代)

大奉天案内図 昭和9年(1934年)

奉天 満鉄鉄道部旅客課 昭和11年(1936年)

大奉天新区劃明細地図 満州日日新聞社 康徳6年(1939年)

瀋陽地図冊 西安地図出版社 2003年

 


















































































































工商銀行

B 交差点にある風格のある建物

本来は東三省官銀號

光復後はここ遼寧省総工会







ロータリーから聯営を眺める

聯営公司 

















C  満鉄図書館














職工文化活動中心附近の

古い家







奉天案内地図の忠霊塔




























落書き


















医学博士の家
























日本への修学旅行