18 山東の縦長銭荘票の図柄

と中国の伝統文化

加藤正宏

 

山東の縦長銭荘票の図柄と中国の伝統文化

商山四皓・竹林の七賢・五老・羅漢・弥勒と花銭

加藤正宏

序、はじめに

 仙人の言葉の意味に「欲無く世俗にとらわれない人物」というのがある。道教の中核に据えられた老荘(道家)思想から生じたものであろう。このような考えで行動した人物たちに、秦末漢初の「商山四皓」や晋の「竹林の七賢」や宋の「太極五老」がいる。これらも銭荘票の図柄に採用されている。彼らの考えは道教に通ずる。道教は不老長生をめざす神仙術と民間宗教が結合し、老荘思想を中核に仏教をも取り入れて形成されたものである。その仏教関連の羅漢や弥勒なども銭荘票の図柄に見られる。

 これらの図柄や図柄に関連した銭荘票と花銭を今回は紹介してみた。銭荘票の図柄は今回も青島の劉海さんのものである。

一、商山四皓

 昌邑の忠治堂銭荘票の正面上部に、水面に筏を浮かべて酒を酌み交わし語らう四人の老人の姿が描かれている。一部髯などが黒く描かれている感じもするが、小さな画面の中で、白髯が描きにくかったことによるものと思われる。口の周りなどからは白髯だと感じ取れる。「皓」とは「白い」の義である。これら四人は秦末漢初の商山四皓だと思われる。髪も眉も髯も白かった四人だったので、四皓と呼ばれる。

 

 商山四皓は秦代の隠者(隠士)であり、漢代初期の逸民(世俗を逃れ、官職に就かず、自然界に隠れ、気楽に過す人)であった。本来、四人は秦の高級官僚、博士(専門知識豊富なインテリ)であった。秦は建国や中国統一にあたって、全国の諸賢インテリを集めて任用し、覇業を成し遂げた。四皓の四人も、東園公(庚秉)は河南商丘から、綺里季(呉実)は湖北通城から、夏黄公(崔広)は浙江寧波から、甪里(周術)は蘇州太湖からやってきている。なお、「甪」は「用」ではなく、一画多い字で「ろく」と読む。

 しかし、覇業が成った始皇帝の治世では、廃井田・毀学校・焚書経籍・坑殺儒生など、いわゆる「焚書坑儒」の嵐が吹きまわった。乱世へと動く危険を察知した四人は権力とは縁を切り、政治に関わることをやめ、陝西省の商山に隠居し、世間の煩わしさと縁を切った。漢初の一時期、張良の助言を得た呂皇后に請われて、太子の補佐となる(このことが劉邦をして、呂后の息子漢恵を廃太子とし、戚夫人の息子を太子に擁立するという動きをストップさせた)も、太子漢恵が帝になるや隠

 遁している。紀元前3世紀末のことである。

 四皓は人里離れた自然界に住んで、中国の四芸(琴・棋・書・画)や談論を行い、日がな一日過す生活を送った。後世の画に四皓が碁に興じているものがある。四芸(琴・棋・書・画)は四皓のみならず、中国人のインテリにとって基本的な教養で欠くべからずのものであった。四芸を刻んだ花銭も存在する。背は「天之総宝」の文字を刻む


 後世、中国のインテリの中には商山四皓の生活を理想とする者が多く現われた。三国魏の曹植『商山四皓賛』、唐の李白『過四皓墓』、唐の白居易『謁四皓廟』など歴代の詩人の多くが商山四皓のことを詠み、また書いた。それらの詩の数は百に余ると言われる。特にその中でも商山四皓の故事を題材にそれを発展させて創作されたと考えられているのが晋の陶淵明の『桃花源記』である。

 この桃源郷の話とは、漁師が谷川を舟で辿って行って、桃の林に迷い込み、その林の尽きるところに山があり、その山に小さな洞穴を見つけ、その穴を潜り抜けると、そこには別世界のユートピア(理想郷)が有ったというものだ。商山四皓と関連のある部分は以下の箇所である。

 「自云、先世避秦時乱、率妻子邑人、来此絶境、不復出焉。遂与外人間隔。問今是何世。」(桃源郷の人が自ら言うには、秦の時期の乱を避け、妻子や村人を引連れ、この隔絶されたこの地に来て、ここを再び出ることなく、遂に外の人とは間隔ができてしまった。お聞きしますが、今は何の世ですか。)、「乃不知有漢、無論魏晋。」(いや驚くことに、彼らは漢のこと、無論魏や晋のことも知らないのであった。)

 日本でも『源平盛衰記』の「主上鳥羽御篭居御嘆事」に「・・・、只夢なるべしとて、未だ四十にだにも成給はざりける人々の、忽に世を遁れ家を出て、親範は大原の霞に跡を隠し、成瀬は高野の雲に身を交へ、俊経は仁和寺の閑居をしつらひて、偏に後世菩提をこそ被祈けれ。漢四皓は商山の洞に住、晋の七賢は竹林の庵に隠、首陽山に蕨を採、頴川の水に耳を洗し人も有ける也。・・・」

最後の「耳を洗し人」の故事が夏目金之助をして漱石と名乗らせた由来だと言われている。隠者(隠士)になろうと願った人物が友人に「漱流枕石(流れに口を漱ぎ、石を枕にする)」と言わんとして、「漱石枕流」といってしまって、その誤りを指摘され、屁理屈で言い逃れをした故事である。

 鎌倉時代の歌合に六百番歌合と言うのがあった。テーマを決め左右に分かれた六人ずつの者が歌を詠み競うのである。「寄山恋」というテーマでは、藤原定家(左方)が「あしびきの山路の秋になる袖はうつろふ人のあらしなりけり」と詠み、寂蓮(右方)が「この世に吉野の山の奥にだにありとはつらき人に知られじ」と応じたのだが、判定者の藤原俊成は寂蓮の歌について「右歌、隠遁の心、あまりにやあらん。彼伯夷、叔斉、介子推などだに、首陽山にも綿上山にもありとはきこえてこそ侍りけれ、まして何況、如商山四皓者、『依留侯謀、以出為輔於漢恵、以言自楽商山、老皓雖休、其終是留侯内下人』とこそ侍るめれ。我朝及未、遂其志甚可難。仍、右歌、不能許諾歟。」と判じている。寂蓮の奥山に隠遁すると言う歌の内容に、中国の史実から殷末の伯夷や叔斉、周の春秋時代の介子推(本誌1986年8月号『収集』中国だより①で紹介)などの隠遁、加えて今回話題にしている商山四皓の隠遁を取り上げ、「留侯つまり張良の謀により、四皓が呂后の息子漢恵を補佐して出仕しながら、自ら商山に隠遁し楽しんでいるというが、その実は、張良の下人でしかない。」と、隠遁の難しさを指摘し、更に、隠遁は本朝には例もないことだとして、寂蓮の歌は許諾できないと判じている。

 長々と引用してきたが、商山四皓はこのように日本人にも知られていた人物たちであった。また、商山四皓は詩や画の題材として、中国でも日本でも愛されてきており、日本では安土桃山時代の長谷川等伯が描いた『商山四皓図襖』が有名である。京都の南禅寺店授庵と大徳寺真珠庵にあり、それぞれ異なった図柄で描いている。また、江戸期の曽我蕭白も四皓を描いている。

江戸期の曽我蕭白四皓を描いた屏風

二、竹林の七賢

 恒昶泰の銅元参吊整、この銭荘票は光緒参年弐月弐日と記載があるから、一八七七年(明治十年)に発行されたもので、百年を優に超え百五十年に近づいている銭荘票である。銭荘票の面には蘇軾の「前赤壁賦」、背には「竹林の七賢」が描かれている。絵柄の左上には「竹林之七賢」の文字も見える。

 北斎漫画にも「竹林の七賢」が見られる。

 大辞林に依れば「中国晋代に、世俗を避け、竹林で琴と酒を楽しみ、清談にふけったとされる七人。阮籍・嵆康・山濤・向秀・劉伶・阮咸・王戎をいう。」とある。三省堂の世界史小事典で更に補足すると、「老荘思想を実践に移し、自由奔放な生活を送って世俗的な精神・形式道徳に反対した。竹林の名は、竹林に会合して清談にふけったという伝説にもとづいている。」となる。魏から晋への過渡期、魏の曹氏とその権臣司馬氏(後日、晋を起こす)の政権を巡る争いが深刻になっていた時期、どちらに付くことも身の危険だと考え、政権争いに巻き込まれることを避け、世俗を離脱しようとした人たちが彼らだとも言える。二、三代表的な故事を挙げておこう。

 司馬昭が、息子の司馬炎のために阮籍の家から嫁を娶ろうとしたけれど、それを潔しとしない阮籍は、縁談が持ちだされそうな気配になると、いつもに倍して酒を浴びた。飲んで飲んで飲みあかし、六十日というもの酔いつぶれたままであったので、さすがの司馬昭もあきれ果て、その縁談をあきらめたという。

阮籍が見舞い客のひとりと碁をうっているときに母の臨終が知らされたが、遠慮する客を引きとめ、勝負に決着をつけてから客を帰し、それから二斗の酒を呷ったかと思うと、悲しみを抑えきれずにワッとひと泣きして数升の血を吐いた。彼は孝心が世俗的な礼教に縛り付けられ、上辺のみの形式だけの孝になっていることが受け入れられなかったのだ

嵆康のことを南朝宋の詩人顔延之は『五君詠』の中で次のように詠んでいる。

「嵆康さんがとんと俗世に向かぬのは 元来が霞を食らう仙人めいた性の故 形骸を棄ててひそかに仙界を体験し 議論を吐けば精神凝集の術を悟証する 俗界に在っては流俗の見解に楯つき 仙境を訪ねては神人と親交を結んだ その風翼は時には殺がれもしたけれど その龍性は誰あって馴らし得ようか(後藤基巳 訳)」と。

 阮籍・嵆康に代表される「竹林の七賢」からは、琴を楽しみ、酒を飲み、俗世間にとらわれず酒に酔う姿が見えてくる。彼らはまた詩も多く詠んだ。酒仙、琴仙、酔仙、詩仙の人だったとも言えようか。宋代に流行した花銭の選仙銭にはこれらの仙人が取り上げられている。後述の選仙銭をご覧頂きたい。

 なお、「七賢」と刻まれた花銭がある。もう一面には「子孫千億」と刻まれている。「七賢」という語句には仏教用語で修行の七段階を指す意味も有る。この花銭が「竹林の七賢」を指すものかどうかは分からない。

 


三、五老

 金口の謙益號の銭荘票の面には蘇軾の「前赤壁賦」、背には「五老観太極図」が描かれている。この絵柄は絵画や陶器や彫刻などにも多く採用されている吉祥の絵柄である。

 五老とは北宋時代の杜衍・王浼・畢世長・馮平・朱貫の五人で、いずれも朝廷の重臣であった。退任後、朝廷の置かれていた開封を離れ、睢陽(南京)に居を構え、結社「五老会」を組織し、共に道学を研究学習し、また酒を酌み交わし、詩文を作り、論じるなど、喜びを共にして過した。そして、時事には全く関与しようとしなかった。彼らは道学に準じて清浄無為、修身養生に努め、また徳も高くて非常に人望があり、徳・才・寿を兼ね備えた人達だと見られた。五人は共に八十歳を超えた長寿の者たちで、畢世長などは九十四歳まで生きている。

 それゆえ、今日まで、美徳と長寿の福を彼らに見て、多くの画家や彫刻家が彼らを描き、また刻んできている。

 当時、皇帝仁宗が道家学説を尊崇したこともあり、また儒学者の周敦頤も道家が生み出した太極図(原名は無極図)を取り入れ、仏教や道教を取り入れた宇宙論を展開し、『太極図説』を著しており、五老においても道学が談論や研究学習のテーマであった。銭荘票の絵柄を見てもそれは理解できる。

 太極は両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生じる、道家学派は太極をもって中心の世界が構成されるという考え方を創出している。太極は大自然の根本であり、その一つ一つの静動が陰陽五行を生み出し、宇宙の間の万事万物を生み出すと。中国では太極や八卦に関わる道教関連の花銭が多く見られる。項を別にして、選仙銭の紹介後に、道教関連の花銭も紹介する。

四、花銭 選仙銭(詩銭)

 これら三件の隠者(隠士)たちが嗜んでいたのが四芸(琴・棋・書・画)である。この四芸と関連する絵柄を多く刻むのが選仙銭(詩銭)だ。既に「棋」つまり碁仙銭については本誌(2012年10月号)でも紹介してきた。

 ところで、『東亜銭志 十七』でも、選仙銭(詩銭)について銭拓とその説明が四九頁から記述されている。これに補完を加えてみよう。先ず、『東亜銭志』の記述を「」内に記載し、これに付け加えを行う。

詩仙銭

「右二品。一ハ好アリ、面ニ『詩仙』ノ二字ヲ置キ、両人対立ス。背文ヲ『価重篇篇玉声伝字字金。江山為我助無日不高吟。』トイフ。二ハ好ナシ、面ニ『詩仙伴飲』ノ四字ヲ置キ、一人独座ス、背文ヲ『笑傲詩千首。沈酣酒百杯。若無詩酒敵。除是謫仙才。』トイフ。」

 上記の二の拓図の面四字を読み違えていると思われる。面四字は「酔仙伴飲」であろう。このため、詩仙の拓は『東亜銭志』には方孔の円形一枚が示されているだけだが、実際には筆を手に作詩している立ち姿のものが別に有り、また円形無孔のもの、円形に孔なる柄のついたもの、方形のものなどその種類は数種に及ぶ。方形のそれは筆を手に作詩している立ち姿で、背は最上部に詩仙、その下に上記『価重篇篇玉声伝字字金。江山為我助無日不高吟。』の五言絶句を刻む。

酔仙銭・酔仙伴飲銭

「右二品。一ハ好アリ、面ニ『酔仙』ノ二字ヲ置キ、両人対飲ス。二ハ好ナシ、面ニ『酔仙』ノ二字ヲ置キ、一人独酌ス。背文ハ倶ニ前記『詩仙伴飲』ト同シ。又長方形ニ作リ、一人酒ヲ飲ミ雪ヲ望ム象ヲ画キ、背ノ上ニ酔仙ノ二字ヲ横書シ、下ニ詩ヲ識シタルモノアリ。詩ニ曰ク『中山徒命侶河朔漫飛觴。直録把千鐘酒。酔一場。』ト。」

 もちろん、「詩仙伴飲」とあるところは、「酔仙伴飲」となる。「酔仙伴飲」も含め三枚の拓が示されている。なお、これら以外に幾種か見られる。酔仙を挟んで「酔」「仙」二字を刻んだ円形無孔のもの、柄の付いた円形のもの、異型の橘子形のものなどが見られる。橘子形のそれは面上部に「天府」背上部に「○官」(○は左に「虫」右に「詹」の一字で、蝦蟇を指すが、月の別名或いは文房具の水入れをも指す)と刻まれている。五言絶句は全て『笑傲詩千首。沈酣酒百杯。若無詩酒敵。除是謫仙才。』であった。『東亜銭志』文中に記載があるが拓の無い長方形の酔仙銭の写真も入手できた。この他に、『酔弄虹霓、碧雲章初成。□□□伝写、先□許飛瓊。』というのもあるという、但し□の文字は読み取れていないとのこと。

琴仙

「右二品。一ハ好アリ、面ニ『琴仙』ノ二字ヲ置キ、一人座シ、一童侍ス。二ハ好ナシ、上ニ柄アリ。面ニ一人趺座シテ琴ヲ横フ。倶ニ背ニ詩アリ。曰ク『膝上按焦桐宵分一曲終。知音有誰是名月與清風』ト。」

 柄のあるものは探すことはできなかったが、同じ絵柄の円形無孔のものが存在している。それも二種あり、人物を挟んで「琴」「仙」とあるものと、左上に「琴仙」とあるものが存在する。なお「琴仙」にも、文献では背に『瑶琴蘭玉軫,玉灝月澄秋。驚起芝田鶴、婆娑舞不休』という五言絶句を刻む詩のものもあるそうだ。

碁仙(棋仙)

「右面ニ『碁仙』ノ二字ヲ置キ、両人局ニ対ス。背ニ詩アリ。曰ク『局上閑争戦人間任是非空交採樵容柯欄不知帰。』ト。」

碁仙については本誌の別の13号で紹介しているので、今回は省略する。

上記「碁仙については~紹介しているので」をクリックしてください。「山東の縦長銭荘票の図柄と中国の伝統文化、八仙及び囲碁」が開きます。

壷中仙(壷仙)

右二品。一ハ好アリ、面ニ『壷仙』ノ二字ヲ置ク。二ハ好ナシ、上ニ柄アリ。面ニ「壷中仙」ノ三字ヲ置ク。倶ニ仙人並ニ壷形ヲ画ク。背ニ詩アリ。曰ク『有時壷内去。去即一千年。栄辱悲懽外須知別有天』ト。」

 『東亜銭志』所載の円形方孔銭と柄の有る銭、この二点の銭は書籍やネットでは見られなかった。これらとは別に、無孔の円銭三種と方形の二種の存在が確認できた。無孔の円銭の一つは近代製作の感じがするものだ。五言絶句の詩はどの銭もすべて同じである。

抜宅仙

「右二品。一ハ好アリ、面ニ仙人並ニ宅形アリ。二ハ好ナク、亦宅形ナク『抜宅仙』ノ三字及ビ仙人アリ。背ニ詩アリ。曰ク『一夕玉皇詔為君功行成。分明五雲裏抜宅上三清。』ト。」

 これら以外に、上記拓図の一の中央上部に雲及び太陽の代わりに「抜宅仙」の三字が刻まれたものと、方形のものの存在が確認できた。方形のそれは面中央に一人の仙人と彼を囲む雲、背は上部に横書きで「抜宅仙」の三字を置き、その下に『塵世紛華遠、丹台姓字新、只因功行満、帰作玉皇臣。』の五言絶句を刻み、方形のそれは円形の背とは五言絶句も異なる。

散仙

右面ニ『散仙』ノ二字ヲ置キ、中ニ仙人ヲ画ク。背ニ詩アリ。曰ク『塵分不我留、身計白雲浮、欲問真遊処、三山與十洲。』ト。分ハ氛ノ字ノ省ナリ。」

 これ以外に、円形円孔だが、仙人の向きが逆で右に「散仙」の二字を縦に置いたもの、円形無孔で上記拓図(円形円孔)と同様に仙人を挟んで「散」「仙」の二字を置くもの、柄のあるもの、そして方形のもの二種が書籍やネットなどで確認できた。

王母

 「右ニ二品、面ニ『王母』ノ二字ヲ置キ王母ヲ画ク。詩アリ。一ハ『為種蟠桃樹。千年一顆生。是誰来窃去。誰問董双成。』トイヒ、二ハ『王母叫双成。丁寧意甚頻。蟠桃誰窃去。須捉坐中人。』トイフ。」

 これら拓図以外のものに、書籍やネットでは以下四種が見られた。拓図一とほぼ同じもの、どっしりした王母を刻むもの二種、これら三種は円形無孔である。三種目は背の円孔上下に「王」「母」の二字を置き五言絶句の詩がない円形円孔の小ぶりのもの、最後の四種目は方形のものである。方形のそれは背上部に「王母」の二字を置き、下部に五言絶句の詩『我有蟠桃樹、千年一度生、是誰来窃去、須問董双成。』を刻んだものである。この王母の選仙銭は種類もこのように多く、五言絶句の詩も三種見られた。

双成

「右ニ二品、面ニ『双成』ノ二字ヲ置キ双成ヲ画ク。背ノ詩ハ前記王母銭ト同シ。」

 書籍やネットでは拓図一は見られなかったが、拓図二の他に円形無孔のものが三種、方形のものが一種見られた。円形無孔の三種はいずれも王母のものと同じ『王母叫双成。丁寧意甚頻。蟠桃誰窃去。須捉坐中人。』の詩を背に刻む。方形のそれは背上部に「双成」の二字を置き、下部に五言絶句の詩『綽約去尋真、仙源万木春、如尋窃桃客、定是滑稽人。』を刻む。この詩は王母の選仙銭背の詩には見られないものだ。

曼倩

「又面ニ曼倩ヲ画キ、背ニ『青瑣窓中客。才称世所高。如何向仙苑。三度窃蟠桃。』ノ詩アルモノ、」

  『東亜銭志』には拓図の掲載なし。書籍やネットでは円形無孔に上記の詩あるものが見られる。又、別に方形のものが二種確認できた。方形の背にある五言絶句の詩は『本是真仙侶、才為世所高、偶因向天苑、三度窃蟠桃』とあり、その上部に「曼倩」の二字を置く。方形の一種の面、曼倩の姿の下部に『餘慶閣』の三字を置く。

亀鶴仙

「又面ニ亀鶴仙ヲ画キ、背ニ『亀鳴鶴喘息、亀鶴両長生、洞府相随去、丹青画不成』ノ詩アルモノ等アリ。」

 これも拓図の掲載なし。亀鶴銭はよく目にするものの、選仙銭(詩銭)の亀鶴銭は書籍やネットで私自身は探し出せなかった。

酒仙

 これは『東亜銭志』には取り上げられていないが、書籍やネットに紹介されていて、その五言絶句の詩は『中山徒明侶、河朔漫飛觴、直把千鐘酒、今宵酔一場』であり、方形の選仙銭である。

逸仙

 これも酒仙銭同様に『東亜銭志』には取り上げられていないし、書籍やネットでも拓も写真も探し出せなかった。五言絶句の詩は『或入長安市、閑眠売酒家、夜来矜巧術、開尽鶴林花』だとのことである。

 

 選仙銭(詩銭)は十三、四種確認されているとのことだが、上記に掲げたのがその全てであろう。酔仙銭・酔仙伴飲銭を二種とすれば、十四種になる。或いは地仙銭も少ないが見られるので、これを以て十四種とするのかも知れない。

『東亜銭志』では、選仙銭(詩銭)について次のように締めくくっている。

「前掲詩仙以下ノ諸品ハ俗ニ詩牌ト称シ又選仙銭ト称ス。然レドモ銭ニ非ズ、賭具ニシテ樗蒱双陸ノ類ナリ。宋ノ王珪ノ宮詩ニ『尽日閒窓賭選仙。小娃争覓盆銭。上籌須得占蓬莱島。一擲乗鸞出洞天』ト見ユ。亦以テ昔人選仙ノ戯ヲ為シタルコトヲ知るルベシ。」

書籍やネットでも、宋の王珪のこの詩を挙げ、又『天香楼偶得今人集』や『字源』には「今俗集古仙人作図為賭銭之戯、用骰子比色、先為散仙、次陞上洞、以漸而至蓬莱、大羅等、列則衆仙慶賀、比色時則重緋、四為徳、六與三為才、五與二為功、最下者麼為過、有過者謫作采樵恩、凡遇徳復位。」を示し、更に清の西厓が『談徴・事部・選仙図』で、同内容を取り上げ、「此戯宋時已有。」と述べていることを紹介している。

 とにかく、宋の時代、自ら品格があると自負していたインテリや士大夫階層間で、非常に流行した賭けゲームの牌であったと考えられる。中国でも正確には伝承されておらず、ゲームのやり方は十分には分からないが、骰子を振り、図中の蓬莱(中国の神仙思想で説かれる想像上の仙境)を目指すゲームのようで、日本の双六のようなものが頭に浮かぶ。

 それぞれの詩は各選仙の故事に関わった五言絶句の詩である。碁仙(棋仙)については本誌の別の号で紹介したが、更に幾人かその故事を紹介しておく。

 酒仙・詩仙・酔仙として思い浮かぶのが唐の詩人李白である。李白の一生は酒から縁をきることはなかった。同じく唐の有名な詩人杜甫が『飲中八仙歌』の中で「李白一斗詩百篇、長安市上酒家眠、天子呼来不上船、自称臣是酒中仙。(李白は一斗にして詩百篇、長安市上 酒家に眠る、天子呼び来るも船に上らず、自ら称す 臣は是れ酒中の仙と。)」と詠んでいる。中国のインテリにあっては、このように酒と詩は密接に関係があった。李白は『贈内(内に贈る)』では「三百六十日、日日酔如泥、雖為李白婦、何異太常妻。(三百六十日、日日 酔うて泥の如し、李白の婦為りと雖も、何ぞ太常の妻に異ならん。)」と毎日酔っている自身を認め、妻としてはつまらぬ夫をもったものだと詠んでいる。「世に生まれて諧(たの)しまざるは太常の妻と作(な)ることなり。一歳三百六十日、三百五十九日は齋をし、齋せざる一日は酔うて泥の如し。(太常は官名、宮中で天子の祖先を祭る役)」とある後漢書に記されている故事を踏まえての詩である。李白は正に酒仙・詩仙・酔仙であった。

 酔仙としては竹林の七賢の阮籍も忘れてはならない存在だ。

 壷中仙(壷仙)についての故事は『後漢書・費長房伝』や魏晋時期編纂の『神仙伝』に記載されている。市場で効能が良いけれど値が高い薬を売っては、市中の貧しい人たちに施しをしていた老人がいた。その老人に対して何かと世話をやいてやっていた費長房は、その老人に誘われて老人に付き従い、彼のもつ壷の中に入っていって、その老人が仙人であることを知った。壷の中は仙人の住む世界で、そこで効能ある薬を生み出していたのだ。この壷は日本人の私たちがイメージする壷ではなく、瓢箪(葫廬)で、絵柄では樹木からぶら下っているそれだ。このようなこともあって、道士が下げる仙丹(仙人の薬)を入れる容器として八仙の鉄拐離なども持ち歩いている。

 抜宅仙の故事は『太平広記』巻十四の『十二真君・許真君』による。東晋時期、道教に憧れ修業する者も多かったが、許もそうであった。道法に則り、孝(道教でもその道法を展開する基本思想であった)を行い、また多くの善事を実践するだけなく、許本人その者も善で、その修行は長年にわたった。その成果が実り、朝康二年(西暦372年)八月十五日午、「家抜宅仙去」つまり一家四十二人そろって天上に昇り、仙人世界に受け入れられたというのだ。絵図でも家宅と天上界に登る雲が描かれている。

 王母・双成・曼倩は一つの故事で結ばれている。その故事は「東方朔偸桃」伝説である。東方朔は東方曼倩とも言う。曼倩は字(あざな=成人後に男性が使った名)である。双成は董双成と言い、西王母の侍女で蟠桃園の管理を任されていた仙女であった。王母は西王母のことで、乱れた髪に宝玉の髪飾り付けた人面でありながら、豹の長い尾をもち、虎のような歯牙し、唸るような声をあげる獣の姿の、病毒や各種災難の神仙であった。しかし、魏晋南北朝時期には変化し、絶世の女神仙、女仙の統括者とみなされていた。崑崙山に住み、三千年、六千年、九千年に一度結実する蟠桃(長寿の桃)の園の所有者だ。西王母の誕生パーティ蟠桃会には、王母を祝って神々や諸仏、仙人たちが集まって来る。そのメインのご馳走はもちろん蟠桃である。本誌2012年10月号で紹介した八仙たちもやって来ている。かの孫悟空はこの蟠桃会に招待されず、蟠桃園を荒らし、暴れまわって、最終的には釈迦如来によって、岩に閉じ込められ、三蔵法師に出会ってようやく解放される。この話しは西遊記の話としてよく知られている。

 

 話は戻すが、その蟠桃園の蟠桃を三度も東方朔(曼倩)が盗んだというのである。管理を任されていた董双成が蟠桃を盗む東方朔(曼倩)を捕らまえるが、この盗賊、単なる盗みをするだけでなく、高尚な人となり、洒脱で鷹揚な、そして学才もあり、話しぶりにもユーモアがあって、人の心まで盗む賊であった。たちまち董双成は夢中になって、その愛情の為に董双成は盲目となり、東方朔のために、一切を顧みず、彼が蟠桃を引き続き盗むのを許容してしまった。でも、とうとう三度目には露見してしまって、王母によって董双成は厳罰に受け、蟠桃園管理の職も解かれてしまったという。これが「東方朔偸桃」伝説である。選仙銭の詩句はこれらの故事を偲ばせてくれる。

 散仙だが、これは道家の語句で、修行や修練を長期にわたってやってきていて、実力はついてきているものの、まだ正規の仙人になれない状態の者をいう。詩句にある「三山與十洲」は中国の古代人が理想としてきた「洞天福地(道教で神仙が住むとされる場所)」のことである。

 逸仙については全く資料が見つからず、どんな仙人か見当がつかなかった。「逸」は安閑とか、安楽とかを意味する。よく知られる孫文の名前も逸仙であるが・・・・。

 

五、太極図や八卦図の花銭

 「三、五老」で掲げた写真、金口の謙益號の銭荘票背の絵柄上で五老たちが観ているのは太極図である。

 我々が知る太極図は五代末宋初の一道士である陳搏によって生み出されたと言われている。それを受け継いだ北宋の周敦頣が『太極図説』で解釈を加えた図が、現在我々が目にする太極図の基本である。そこには先天太極図(原名「天地自然之図」、俗称「陰陽魚図」)、古太極八卦図(先天太極図の周囲に八卦の符号を配置したもの)が活かされている。我々が目にする太極図はこの「陰陽魚図」であり、太極八卦図というのは古太極八卦図のことである。簡単に太極図と言う時は、古太極八卦図を指すことが多い。思い出されるのは大韓民国の国旗である。

 古代の『易経』には「易有太極、是生両儀、両儀生四象、四象生八卦、八卦定吉凶、吉凶生大業。(易は太極に有り、太極は両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず。八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず。)」とあり、太極と八卦は大きく関わっている。そこで、太極図と八卦図を刻む花銭を、手持ち、書籍、ネットなどから以下に纏めてご紹介したい。

 

(a)太極と八卦

 八卦の符号は横棒(陽爻)とその横棒を二つに分断した符号(陰爻)、これらを三つ組み合わせた三道平行線で構成されている。伝説によると、上古の伏羲が考案し(先天八卦)a、周の文王が再考し(后天八卦)b、更に孔子が受け継いだと伝えられている。これらの人物に因んだ花銭が存在している。また、この文王にからみ、一面は八卦、もう一面は「振振公子長髪其様」cの花銭もある。振振公子とは聖徳の周文王夫妻の公子として生まれ、吉祥動物の麒麟のように仁と慈愛の厚い人物で、文王たちの徳が子孫を感化し継承されていったとされる人物だ。「桂子蘭孫」と刻むものもd、周文王や振振公子が意識され、良き後継者を得たいと願われた花銭だろうか。明代の湯顕祖の文章に「作夫妻天長地遠、還願取桂子蘭孫満玉田」とある。「桂子蘭孫」とは子や孫に対する美称である。

 両儀とは天地、乾坤、陰陽などのことであり、太極図で二尾の魚がお互いを抱え込むように円を構成している、あの魚のようなもので表現されている。混沌とした宇宙はこの両儀に先ず分かれたというのだ。一面に陰陽魚の太極を刻み、もう一面に八卦を刻む花銭eや、「陰陽神霊」と刻むf花銭も存在する。

    また、「乾」「坤」を表す八卦の二符合と共に太陽と月(太陰)を刻み、もう一面に「青銭万選」という文字刻む花銭gもある。なお、「青銭万選」とは、青銅の銭は質がよく、一万回選んでも、選び間違うことはない。転じて、それと同じくらい科挙に落ちることがない素晴らしい文章を指す。科挙受験者のお守りであろうか。

 象形文字を刻む面と太極と八卦を刻む花銭hも見られる。面背共に中央に太極を配し、一面は周囲に八卦の符号を刻み、もう一面には十二支の文字と動物を描くものもあるi。これには柑橘型でなく円銭のものも見られる(項を別に紹介)。また、十二支の動物だけで、柄の部分には蝙蝠の怖い顔が刻まれたものもあるj。更に柑橘型のものには太極の周囲に八卦の符号を一面に刻み、もう一面中央に「殺(*省略文字)」を刻み、周辺右に「斬」「邪」左に「治」「妖」と上下に刻むものもあるk。また、瓢箪型の上部に太極の陰陽魚を刻み下部には双喜を面背共に刻むものもある。l

 変わったところでは面背共に中央に太極を配し、一面は周囲に八卦の符号を刻み、もう一面には「太歳星君」の文字を刻むmものも有る。「太歳星君」とは道教に伝わる太歳(木星の鏡像となる仮想の惑星)の神で、祟りの神・破滅の神として知られている凶神の代表格であり、恐れられている神である。この祟りの神を封じ込むための花銭であったのであろうか。

 更に柑橘型のものに「太極陰陽盤古開張八卦定位神欽鬼蔵」と一面に刻むものも見られるn。太極陰陽盤は古くから行われ、八卦は神欽鬼蔵に定位を占めると言うことであろうか。『易経』にも「八卦定吉凶(八卦は吉凶を定む)」とあり、神の加護を受ける吉か、鬼の祟りを受ける凶か、八卦の占いがこれを定めるのだろう。ここで用いられている陰陽の文字は現中国の簡体字の先駆になっている。

 私たちも耳にしている言葉に「当るも八卦、当らぬも八卦」という言葉がある。易占いとして、「八卦」の言葉が意識されているのが普通であろう。この意味では一面は八卦の符号、もう一面は「卜占」と刻む花銭の存在も頷ける。この「卜占」は縦書きのものと、横書きのものが存在するo.。

 八卦が占いの対象となるのは、八卦が宇宙万物万象を象徴していると考えるからで、混沌とした「太極」から「両儀」つまり「陰陽」或いは「天地」を生じ、「両儀」は「四象」を生じ、「四象」は「春夏秋冬の四季だとか、生長老死など」の四類にあたる、そしてその「四象」が「八卦」を生ずる。「八卦」とは「乾・兌・離・震・巽・坎・艮・坤」であり、それは自然界の「天・沢・火・雷・風・水・山・地」を元来あらわしていたのだが、その意味は拡大敷衍してゆき、性状では「健・説・麗・動・入・陥・止・順」となり、家族や方角や時間などにも拡大され、ありとあらゆる万物万象を象徴するものになっていった。なお、方角については先天八卦と后天八卦とは見方が異なる。

八卦そのものだけを刻む花銭もある。一面は符号、もう一面は文字になっているp。また、小振りでそれぞれの面に四卦、合計して八卦を刻むものもあるq

 中国では陰陽思想だけでなく五行思想も宇宙の森羅万象を解明していく思想として、重要視されてきていて、これらが補完しあって陰陽五行の思想が生まれている。五行思想とは自然界・人間界の全ての現象を木・火・土・金・水の五要素(行)によるものとする。さらに、これに三才思想という中国の宇宙観が加わる。つまり、陰陽の天・地の中間に人という要素が加わえた思想である。陰陽も完全な陰、完全な陽ではなく、それぞれの中に陽を内蔵し、陰を内蔵し、固定しておらず、流動していて、その中間にいくつもの形ができる。これら陰陽・五行・三才に合致した花銭がある。八角形円孔で、一面には八卦の符号、もう一面には上部から右廻りで「木人土水天金地火」と刻む。「天地人」を三方に配し、この三字の間に「木火土金水」が刻まれている。正に三つの思想が盛り込まれた花銭であるr。

 

(b)降福避邪などと太極や八卦 

「降福避邪」には円孔円銭aも柑橘型bのも見られる。柑橘型の多くは蔕の部分が逆さ蝙蝠になっており、福の到来(倒蝠)をも象徴している。柑橘型には虎の絵を刻んだcものも見られる。方孔円銭には「斬邪治鬼」dや「斬鬼駆邪」eや五毒の絵柄fを刻むものも見られる。これら花銭のもう一面は、太極八卦図、太極図だけ、八卦の符号と文字、八卦の符号だけ、八卦の文字だけと様々である。これらは魔除けや災害除けであり、また福の到来を願った本来の壓勝銭と言えよう。

 五毒とは蠍(サソリ)・蛇・百足(ムカデ)・蟾蜍(ヒキガエル)・ヤモリをいう。しかし、ヤモリは有毒ではないので、これに代わって蜘蛛を五毒の一つとする説があり、紹介している花銭でも、蜘蛛が刻まれている。

 虎だが、その五毒を食べるということで、古代中国では「駆邪避災、平安吉祥」の象徴であり、子供を疫病から保護すると考えられていた。太極八卦が刻まれていない花銭だが、面に「駆邪降福」と鍾馗(或いは張道陵)を刻む花銭の背には虎が五毒を食べている図が刻まれているg。ここに示した剪紙(切り紙)の虎も五毒を食べた図になっている。面に張道陵(道教の源流となった五斗米を起こした人物)を刻み、背に五毒を描いた花銭hでも、虎が五毒を食べている。

 『北京風俗図説1』に「一-8 色ひもで虎のお守りをつける」というのがある。そこには、「男の子は雄黄酒で額に『王』の字を書くと、五毒を避けることが出来るという。」「(絵は)五毒が虎に食われようとしているところで、虎は道教の教祖張天師匠のシンボルであるという。」などの記載が見られる。『王』というのは虎の額に現われる縞模様が王であることに因る。

 中国で幼児が虎の頭を付けた靴を履き、額が王の文字になった虎の面のような帽子を被っているのを何度か見かけたが、百獣の王の虎のように勇敢で強くなって欲しいという願いだけでなく、「駆邪降福」を願い、子供が健康で成人になることを望んだ風習なのだそうだ。

 

(c)太上老君勅令(山鬼紋など)と太極や八卦

 左右に符呪文を置き、「此符壓怪(この符は妖怪を抑え付ける)」と刻んだ花銭aが存在する(背面は蒙古文字と『東亜銭志』にあり)が、これは前項の「降福避邪」類の花銭や、ここに取り上げた「太上老君勅令」の花銭にも当てはまる。

 方孔円銭、円孔円銭、柑橘型とさまざま形のものがある。先ず取り上げた花銭を見ていただこう。上下に太極八卦図と「勅令」の文字、左右は符呪文、もう一面は上に「雷霆(強力な雷)」の文字とその左右に稲妻、下には「殺鬼(*文字は省略化された字)」「降精(妖怪を払う)」の文字を十字に交差させている。そして、右に「太上老君」、左に「急゛如令(急の後ろは同一符号)」とあるb。「殺鬼」「降精」とあるように、太上老君が雷霆に壓怪を直ちに実行せよ(「急急如(律)令」)と命じているものだ。よく眼にする、俗に「山鬼紋銭」と呼ばれている花銭には左右の篆字符「山鬼」「雷令」内に「雷霆雷霆殺鬼降精斬妖避邪永保神清奉太上老君急急如律令勅」(柑橘型にもあり)cや

    同じような内容の「斬妖除邪降精避神男女佩之永保貞吉」d、また、左右の符篆内に「太上呪曰天元地方六律九章符神到処万鬼滅亡急急如律令勅」eと刻むものがある。また、これと同文を篆字符「山鬼」「雷令」内に刻み、背面が太極と人物の花銭もあるf。更に符を刻まないが「雷走殺鬼斬妖撃邪太上老君急急之令」gというのも見られる。

    なお、「天圓地方」とは道家の宇宙観による全宇宙、「六律九章」とはおそらく道家の避邪治鬼の法術に関係のある章節、「律令」は周代の一個人名だが、彼は特別に走るのが速く、死後に雷神になったと言われる人物で、このため「急急如律令」の意味は律令のように速くということ、つまり、魔鬼に襲われ捕らえられ侵害されそうになった時、太上老君が快速でこの花銭を携帯する人から鬼を駆逐し、災厄から解き放つことを希望したものと言える。

 太上老君とは別名道徳天尊或いは太清大帝とも言う道教の神で道教の最高神格である三清の一、老荘思想で知られる道家の老子を神格化したものである。神格化された時期は後漢末から三国の時期にかけて五斗米道(道教)の始祖張道陵によってなされたようだ。

 ところで、明清時代に鋳造された花銭の多くは写真に見られるように簡化された文字が用いられている。例えば、圓(元)・處(処)・萬(万)・避(辟)・撃(* 缶に似た字)などが、加えて、同じ記号として片仮名の「ハ」のようなものとか、「゛」「く」で表されている。次項の最初に紹介する「太上呪曰天圓地方六律九章符神到處萬鬼滅亡急急如律令奉勅攝此符神霊」と比較すればよく分かる。これらは新中国の簡体字に繋がっていったのかも知れない。

話題を元に戻す。

「山鬼」についてはいろんな説が中国では語られているが、屈原の詩歌『九歌』に見られた「山鬼」、つまり「山神」ではないか、それも屈原の心中にある女神ではないかとか言う説に始まり、明清の文史学者もその多くが「山神」だと認識していたようだ。

 しかし、王琛発さんが『八卦五雷銭:名称、思想内涵及使用方法』で、ネットで見かけたとして紹介していた説(王さん自身が納得しているわけではないのだが・・・)に面白い説がある。俗に「山鬼」と言っているが、鬼の頭部一画は欠けており、この字の上に小さな○が三つ、その上に「山」の字がある。鬼の頭上に3枚の雷○を置き、この小さな○は火焔を生じ、鬼を攻撃し、殺しているのだと言う。だから、この符は「山鬼」ではなく「殺鬼」だとする考えだ。

 私はこの考えに一理あるように思っている。とにかく、この「太上老君勅令」花銭を携帯すれば外来の妖魔鬼怪を阻止し遮ることが出来ると考えられていたということ。

 最後に、「山鬼紋」の花銭も、鬼の駆逐、災厄から解放目的だけでなく、前項の「降福避邪」類を目的としていたことを語る花銭を紹介しておこう。それは、一面は「山鬼紋」のそれだが、もう一面は二十四種の「福」の漢字を刻む花銭hだ。

 

(d)人物像と太極や八卦 

 方形の枠内に「太上呪曰天圓地方六律九章符神到處萬鬼滅亡急急如律令奉勅攝此符神霊」と刻む花銭の反面は絵柄で、左に雲が描かれ、雲の端に小さな二生物、多分悪鬼を象徴したものが、上には符呪篆字、右には髪をなびかせ、頭には光輪を配し、足下には亀蛇(玄武)を踏みつけた大きな人物が刻まれているa。この人物が太上老君であろう。少し、人物像の雰囲気が異なるが、二匹の悪鬼が明確に描かれた同様のものもあるb。これも太上老君であろう。

 左右の符篆内に「太上呪曰天元地方六律九章符神到処万鬼滅亡急急如律令勅」と刻む花銭の反面も絵柄で、左に符呪篆字、上に太極八卦図、右に剣を手にし、足下に亀蛇(玄武)踏みつけた人物を刻むc。人物は玄武上帝だと言われる。玄武上帝は真武大帝とも、玄天上帝とも、元天上帝とも呼ばれる。

 八卦図の反面が上下に「元天」、右左に「上帝」と刻む方孔円銭d、外周に双龍その内側に旋文「玄天上帝元山祖廟」の刻み、その反面の外周に八仙、内側に八卦図を刻む円孔円銭e、八卦図の反面が亀蛇を踏まえ剣を手にした玄天上帝の絵柄と「玄天上帝」の文字を刻む円孔円銭f

など、この道教の神を刻む花銭も多い。

 この神が人格神として認識され始めたのは宋の頃からだという。由来はいろいろと伝えられているが、天上の北を鎮守する玄武が源流だとされている。玄武とは高松塚古墳で話題になった壁画の、その一つに描かれていたあれである。亀と蛇が絡まりあって一つに成った想像上の生き物だ。元来、北方七星宿の星座の形から考えられた生き物だ。これに北極星を神格化した北極紫微大帝と北斗七星を神格化した北斗真君の要素が加わり形成されていった(道教では北極紫微大帝と北斗真君が混同されていることが多い)のが、元天上帝である。彼は元始天尊(最高神)の命令により天兵天将三十万を率い、一夜にして妖魔を降伏させた猛将であり、そこから「正義之神、除妖魔、降鬼怪、護国安邦、恩沢全民、増福人間、消滅消難」を祈願し願賭けする対象となった。絵柄では、元天上帝の足下に踏みしだかれているのが亀と蛇であるが、これはこのときの妖魔で、後には元天上帝の部下になったと言われている。『太上説玄天大聖真部本傅神呪妙経』には太上老君の八十二次の化身が玄天上帝(元天上帝)だとも記載されている。太上老君の絵柄と玄天上帝の絵柄に共通点が見られるのも頷ける。

 なお、元天上帝には俗説があり、屠殺業に従事していた人物がその殺生を悔い、悟りを得ようと、修道に入り、観音の試練を受け、終には自分の身体を清めようして腹部を切り開き、胃と腸を河に放り出して過去の罪や穢れを除いた。このことに天が感動し、彼を玄天上帝(元天上帝)にしたと言うのだ。そして、彼の胃と腸が亀と蛇になったという。また、十八羅漢中の開心尊者は玄天上帝を指すとも言われている(次章の羅漢参照)。道教と仏教の関わりを暗示する話しである。

 左に符呪篆字、上に太極八卦図、右に元天上帝の絵柄とよく似た絵柄の花銭がある。異なるのは左の符呪篆字に替えて、紐が絡んだような図柄があることだ。その紐には七つの小円が見られる。七星と考えられる。とすると、人物は北斗真君だと考えられるg1。絵柄の反面が山鬼紋になっている花銭の人物など正に北斗真君であろうg2。北斗真君の絵柄も元天上帝の絵柄も太上老君の絵柄も実は同じ神の違った姿(化身)と考えられる。北斗を祈念すれば、百邪を除き、凶気を去ることができると言う。北斗真君の絵柄の反面に八卦図や二十四文字の「寿」hなどのものも見られる。

 「天師」「福寶」と上下右左に刻み、もう一面が八卦図の花銭iがある。また、太極八卦は見られないが、上に「張天使(或いは師)」と刻み張天師が剣を手に鬼を追っている絵柄(反面は十二生肖の絵柄)j1のものがある。これは五斗米道(天師道とも呼ばれる道教)の始祖張道陵を刻んだ花銭である。虎の背に騎乗する人物も刻んだ柄の付いた花銭も張天師を描いたものであろうj2。この背にも次項で紹介する十干十二支の文字と二十八星宿の文字が刻まれている。

 これら花銭に刻まれた人物や神は全て道教に関連があり、それぞれが関わりあっていて、民衆に妖魔鬼怪を追い払ってくれると信じられた神たちである。

(e)十二生肖と八卦や太極

 十干十二支も中国では年紀法として古代から使われてきていたが、これも陰陽五行と融和し、八卦や太極と共に刻まれることが多い。 

円銭のそれは円孔で面に十二生肖の文字と動物絵、背に八卦の文字と符号が基本のようだa。もちろん方孔のものもある。方孔のものにはそれぞれの面の文字を削除し符号と動物絵だけのもあるb。

 一面は呪符四文字というものcもある。八卦の文字と動物絵の外周に十二生肖の文字を刻み、もう一面に山鬼文(前々項でも紹介)を刻むものdもあり、更に、一面は八卦、もう一面は方孔の上に「寅」の文字、下に「虎の絵」を刻むものeも見られた。面白いものでは十干十二支の内側に五匹の蝙蝠を描き、もう一面には八卦の符号文字の更に外周に二十八星宿を刻むものfもある。

 東方の蒼龍七宿(角・亢・氐・房・心・尾・箕)、北方の玄武七宿(斗・牛・女・虚・危・室・壁)、西方の白虎七宿(奎・婁・胃・昴・畢・觜・参)、南方の朱雀七宿(井・鬼・柳・星・張・翼・軫)と二十八文字が並ぶ。円孔柑橘型では上部に「桂」の文字、面背は円銭の基本と同様で、これをアレンジして無孔部分に太極(陰陽魚)図を刻むもの、「桂」の文字の無いものなどが見られる。一面の孔の部分は太極図、もう一面の孔の部分は太極八卦図というのもあるg。

 なお、「桂」は「貴」とguiの四声で発音が同じであることから、上部に刻まれることあって「貴冠」をも意味していると考えられる。

 「本命年(生まれ年の干支)」が易の対称になっていっており、「本命銭」という十二生肖がらみの花銭も多数存在するが、太極図や八卦図が刻まれていないこともあり、今回は紹介していない。

 

(f)龍・鳳凰と八卦

 一面に龍と鳳凰を刻み、もう一面に八卦の符号を刻む。もちろん、龍も鳳凰も神聖な庶民にとって尊ばれる空想の動物である。

 

(g)吉祥語と八卦

「富貴栄華」「福寿康寧」「富寿康寧」「福禄寿喜」「五匹蝙蝠」「長命富貴」「長命百歳」「長生保命」「益寿延年」「福如東海寿比南山」「五子登科・双全・福如東海・寿比南山」「天官賜福」「忍耐為高」「天下太平」など、篆字「天下太平」の背は四小龍を配した八卦になっている。

さまざまな八卦銭が見られる。

     なお、「五匹蝙蝠」は「蝠」と「福」が発音がfuの二声で諧音、つまり同じ発音なので、五福を指す。五福とは『尚書(書経)』にある壽(長壽)・富(富裕)・康寧(平穏無事、無病息災の健康)・攸好德(徳を好む処)・考終命(天命を全うする)の五つである。五匹の蝙蝠(こうもり)の絵が五福を示している。

 また、「福如東海寿比南山」は「福如東海長流水、寿比南山不老松」の簡略化したもので、「幸福は東海へ流れる水の如く長く永遠に、寿命は終南山に生える老いることのない松に比すべき。」と、「福寿康寧」をより具体的に解説した内容と言える。「康寧」はあまり目にしない文字だが、意味は「安寧」にほぼ同じ。

(h)年号・国号銭と八卦

 以下の花銭の制作年代は花銭の年号・国号とは関連していない。一致するものもあれば、一致しないものもある。

    例えば、「正徳通宝」だが、「正徳」は明の武宗朱厚照の年号で1506年から1521年(正徳十六年)までの年号であるが、この在位期間には全く銭貨は鋳造されていない。ところが、龍がこの世に正徳皇帝として現われたのだという虚報が明末の民間に広がり、厭勝銭として「正徳通宝」花銭が民間で鋳造され始め、しだいに信じる者が多くなり、清の中後期から民国初年にかけてその多くが鋳造されたという。壓勝銭として人気が高く、「正徳通宝」を携帯すれば渡江にあたっても波風の危険を回避できるとか、妊婦が手に握っていれば母子とも安全であるとか、腰に巻きつけ賭博をすれば勝つとか言われ、嫁に行く娘には必ず持たせ、年越しには壓歳銭として子供に贈られたりした。「家有正徳銭、富貴万万年」と民間では言われていたという。

 五代の後周の「周元通宝」にはその背に八卦の「兌」の文字(少し異体)と符号のもの、背に月と太極八卦図及び「半両」の文字のものが見られる。なお、後周鋳造の流通貨幣「周元通宝」は天下の仏寺3,336所を廃して、寺の仏像を溶解して造られたので、身に着けていれば神仏に保護されて防病免災の効能があると信じられていた(本誌1987年9月号「中国だより⑫」でも紹介)。

宋の「太平通宝」、明の「洪武通宝」、明の「正徳通宝」、

   清では「大清通宝順治康熙雍正乾隆」の背面に八卦図案が、また「康熙通宝」では周囲に手彫りの八卦図案が、「乾隆通宝」でも装飾的なものも存在、また「嘉慶通宝」にも八卦図案が存在する。

   「道光通宝」はその種類も多く、背が八卦図案の円銭(柄の付いたものも含め)だけでなく、瓢箪型のものには面背上部に「道光通宝」下部に「天下太平」、もう一面下部に八卦図案を刻むもの、また上部の面背に「道光通宝」と八卦図案、下部の面には「指日高陞(快速で昇官をという祝辞)」、背には北斗七星と元天上帝(項を別に解説)の絵柄を描くものがある。

   「咸豊通宝」も「同治通宝」も、「光緒通宝」も背に八卦図を刻むものが存在する。また「光緒元宝」は吉林省のも河南省のも共に面中央に太極を刻む(機械打ち)。

   「民国万歳」も背は八卦図である。1992年の「中華人民共和国2000元」金貨と「中華人民共和国200元」銀貨はどちらも面に北京の北海風景を刻み、周囲の下部には「中国生肖幣発行十二周年紀念」と刻む。背は1981年以来発行してきた生肖幣十二枚の動物の面を配し、中央には太極八卦図を刻む。その発行数は金貨が二十枚、銀貨が三百枚であった。一般の生肖紀念幣は引き続き毎年発行され続けている。なお、十二周年紀念幣に刻まれた白塔と北海風景はこれまでにも幾つかの紙幣に登場してきている。「財政部平市官銭局伍十枚当拾銅元券」民国四年の背に、「河北省銀行伍圓」「河北省銀行貮圓」民国二十三年の面に、「中国銀行伍圓」民国七年、十五年、十九年、二十四年の面に描かれている。

かの有名な「太平天国聖宝」

にも、背には中央上部に太極図、縁周辺に八卦図が刻まれたものがある。

 

i)鋳銭局と八卦

 一面は八卦符号、もう一面は五行に渡って二十鋳銭局を表す漢字が刻まれている。これは銭局の地名を組み合わせた詩だとも言われる。「同福臨東江、宣原蘇薊昌、南河寧広浙、台貴陝雲章。」という五言絶句だ。最後の「申記」は記載したことを示す文字だろう。

   「貴」と「桂」は共に発音がguiの四声で同じであり、「章」と「漳」もzhang一声であり、諧音として用いられているようだ。鋳銭局のみを面と背に円孔に沿った旋読に刻んだ花銭もある。この花銭は「貴」でなく「桂」に、「章」でなく「漳」にと、銭局の正式な字が用いられている。なお、両面銭局の花銭では「河」が「何」と違っているものもある。発音が同じために「河」が「何」になったものと考えられる。更に、この花銭では「南」と「寧」の位置が入れ替わってしまっている。

 

(j)仏教と太極八卦図

 道教と仏教が相互に影響しあっている証のような花銭がある。一面は八卦の符号、もう一面は口偏が全てに付く「奄麻尼八尓牛(an ma ne ba mi hong)」の六漢字を旋読(右回りも左回りもあり)に刻むか、阿弥陀佛と刻む花銭aだ。これは漢字で音訳したもので、チベット仏教(ラマ教)の最も重要視されている語を訳した「六字真言」と言われているものだ。

 『東亜銭志 十七』の四五頁にこの六字真言が紹介されている。「支那文字其物ニハ意味アルニ非ズ『オン マニ パドメ ウン』ハ『冀フ所他ナシ蓮華上ノ寶座』ト云フ。喇嘛教徒ハ此語ヲ重シシ、我邦ノ仏教徒ガ南妙法蓮華経又ハ南無阿弥陀仏ヲ唱フルト一般、・・・・」(*冀フ=ねがう)とチベット(西藏)で重要視されていたことを紹介している。但し、『東亜銭志』に紹介されたこの花銭の背面は「天保定爾」bで、八卦の符号ではない。

 柑橘型花銭に、一面は「長命富貴」と其の周囲に八卦の符号を刻み、もう一面に口偏に「奄旦内麻尼八迷牛」の八漢字が刻まれているのがよく見られる。上記と同じ語の漢字音訳であろう。二字多いのは唱えるときの語音効果或いは音訳の違いだと考えられる。其の内側には「雨漸耳」と読めそうな道教の呪符が刻まれている。耳の字の一画が伸びて棘が付いたような棍棒になっているc。これは鬼や魑魅魍魎を恐れさせる道具でなかろうか。とにかく、鎮鬼駆邪の呪符として、また福を祈願するものとして、首からぶら下げられることが多かったと言う。柑橘型花銭の蔕に刻まれた逆さ蝙蝠と「長命富貴」の文字で、福禄寿すべてが表示されている。一面は阿弥陀佛の文字とその周辺に八卦の符号、もう一面は「雨漸耳」の道教呪符と八字の「六字真言」が刻まれたものdもある。この呪符の棍棒は振り上げられたように刻まれている。

 なお、「六字真言」は音訳であるから、漢字としては違った文字になっているのも見られるが、発音は同じである。例えば、口偏に「麻」が口偏に「馬」になっていたり、口偏に「尓」が口偏に「迷」になっていたりする。

八卦でなく、太極を中心(円孔になる部分)に刻み、一面は「長命富貴」と刻み、もう一面に同じく中心に太極を置き、その周囲に阿弥陀佛と刻むものeもある。

 これらは道教と仏教の関係をよく物語っている。

参考:

 阿逸多(アジダ)、因掲陀(インガダ)ようにインドの羅漢名を音訳したものは中国人にとっても馴染み難かったと思う。そのため、前者は長眉羅漢c、後者は布袋羅漢cとして中国では親しまれていた。戍博迦(ジュバカ)は開心羅漢cと呼ばれ、前章でも紹介したように道教の神である元天上帝だとされている。日本で行われた神仏習合、本地垂迹(仏が日本では神になって現われた)説に似たようなところがある。

                  

 銭荘票の絵柄に戻るが、絵柄から確定できるのは降龍羅漢(濟公)と伏虎羅漢(弥勒尊者)―羅漢絵柄の最上部の二人、探手羅漢(半托迦尊者)c―左上の両手を挙げて伸びをしている羅漢、長眉羅漢(阿逸多尊者)―右下の三人の左側の羅漢ぐらいで、身体の一部だけで顔さえ見えない形で描かれている羅漢もある。面に八人、両面で十六人の羅漢を刻む花銭dもあるが、人物が小さく、誰がどの羅漢かを特定することは難しい。

   即墨の壱、弐、参、肆、伍、拾吊の正面には十八羅漢(左下空白に一人いるとして)或いは十六羅漢の半数が描かれている。eこの銭荘票でも明確に判別できるのは上記の源興合の弐千文銭荘票と同様である。右上の虎に腰掛けた伏虎羅漢c、その下の岩の上の龍に話しかけているのが降龍羅漢cである。伝説によると、伏虎羅漢は、腹を空かして寺廟の外で吼えていた虎に、自分の食事を分け与え、共に過す間に、羅漢の傍らに、虎が耳目を低く垂れて大人しく寝そべり従うようになったそうだ。

 龍羅漢は洪水を起こし経典を竜宮に隠した竜王を降伏させて、経典を取り返したというインドの伝説上の羅漢で、また、その中国での化身が映画やテレビドラマで人気のある濟公で、酒も飲み肉も食らうが法力のある常識外れの僧侶だ。探手羅漢は両手を挙げた銭荘票の左に見える羅漢、長眉羅漢は銭荘票の下中央に描かれている。2010年、日本語教師としての任地であった江西省萍郷市で、寶績寺の長眉羅漢を見かけ、その眉の長さに驚いたものである。

 この銭荘票背面上部には絵柄が同じだが、壱、弐、参、肆、伍、拾吊を黄、紫、藍、緑、黒、紅と色で分けて、額面の改竄を防止しfていることが記載されている。

 即墨徳聚祥の参吊銭荘票gの背面上部にも壱、弐、参、肆、伍吊を紅、黄、藍、緑、紫に色分けしていることが記載され、「参」の波紋状の上には「留神細看」の文字、更にその上には道士の姿hが描かれている。

   波紋状の下には「謹防假票」の文字、更にその下には中国で吉祥図案とされている「五子閙弥勒」i(閙=騒ぐ)のアレンジされたものだ。描かれているのは布袋で、布袋は弥勒菩薩の化身である。

   本来の図案は布袋(弥勒仏)の上で五人の童子が好き勝手に遊んでいる図である。この意味するところは家族全員が楽しく和やかに過すことだそうだ。

   今回の銭荘票の絵柄は本来のものと少し異なるが、本来のものは布袋がにっこりと笑ったまま動じない姿である。一説には、五童子は好財、好色、好食、好名、好睡を代表したもので、布袋(弥勒仏)がこれら五欲に動ぜずにいる菩薩心を表したものだとも言われている。銭荘票のそれは菩薩も時には心を動かすと言うところであろうか。銭荘票の四隅には「福」「禄」「寿」「禧」の文字gが置かれている。

 前章で紹介した「六字真言」を方孔の周りに刻む一面と「南無阿弥陀仏」ともう一面に刻む円銭j、「千祥雲集」と刻む円銭k、それに、仏教の代表そのものとも言える「釈迦牟尼」「阿弥陀佛」をそれぞれの面に刻む花銭lなども存在する。

 

 

 

参考図書

*『源平盛衰記』内閣文庫蔵慶長古活字本(国民文庫)巻第十二

*『収蔵指南 花銭』 張志中 編 1998年 Chaoxing・com

*『杜甫 下』黒川洋一注 昭和34年 岩波書店 中国詩人選集10

*『李白 上』武部利男注 昭和32年 岩波書店 中国詩人選集7

*『ある抵抗の姿勢 竹林七賢』後藤基巳 昭和48年 新人物往来社

*『中国の隠者』富士正晴 1973年 岩波新書

*『紙幣図解 景物篇』石長有 2009年 中華書局

*『北京風俗図説1』内田道夫解説 1964年 平凡社 東洋文庫23

*『中国の神さま-神仙人気者列伝-』二階堂 善弘 2002年 平凡社新書

*『玄天上帝の変容 −数種の経典間の相互関係をめぐって−』二階堂 善弘1998年 東方宗教  

*『道教の神々』窪徳忠 1986年 平河出版社 1996年 講談社

*『道教の本』1992年 学習研究社

*『風水の本』1998年 学習研究社

*『古文観止』清の呉楚材・呉調侯 編選 2001年 中国言実出版社

2019年4月10日ネットに上梓、2013年制作、

2021年『外国コイン』に掲載中(2021年6月号NO56~202312月号NO61)