07 満鉄附属地 中山路と太原街


加藤正宏

満鉄マークと電話の文字

満鉄附属地

(その2、中山路と太原街

加藤正宏 

中山路

  右の写真は、瀋陽駅(旧奉天駅)の広場から中山広場(旧中央大広場)の方向を見た写真である。今年(2005年)9月に撮った写真だ。今年撮った写真では、右の建物の後ろに大きなビルが写っているが、一番手前の道路を挟む左右の建物は2葉とも同じである。右の鐘突き櫓のような先端がある建物はジャパンツーリストビュローであった建物だ。昭和11年(1936年)満鉄発行の観光地図「奉天」にも、「観察上の便宜」を得る場所として、この建物が駅構内の案内所と共に紹介されている。道路を挟んだ左の建物は、瀋陽分館と当時の地図注a上には書いてあるが、何の分館か定かでない。でも、これもそのまま残っている建物だ。

 この二つの建物の間を中山広場(旧中央大広場)の方向に走っているのが、中山路(旧浪速通)だ。今回はこの中山路(旧浪速通)と、これと途中で交差する太原街(旧春日町と旧青葉町)を中心に紹介したい。但し、中山広場(旧中央大広場)の周囲及びそれ以遠は今回省き、次回の「満鉄附属地(その3、中華路と南京街)」で紹介する予定である。

    まず、紹介しておきたいのは満鉄のマンホールの蓋である。旧瀋陽分館(現在、医薬大厦)の脇の歩道を広場に向かって歩きながら、マンホールの蓋を見て歩いていると、医薬大厦の外れの辺りに、満鉄の頭文字Mとレールの断面を組み合わせた蓋を目にすることができる。ここにある蓋は、そのマークの下に更にSの文字が見られる。sewage(下水)の頭文字だと思われる。

    もう一度、駅前広場から勝利北街(旧宮島町)を渡ったところまで、戻ってみよう。そして、勝利北街(旧宮島町)に沿って、中山路を横断しよう。途中、少し危険だが、横断歩道の勝利北街(旧宮島町)側にある2つのマンホールの蓋を急ぎ確認してみよう。1つは満鉄のマークが刻まれたマンホールの蓋である。但し、この蓋にはSの字が無い。もう一つは奉天市公署のマークが刻まれた蓋である。どちらも、光復(日本の支配から解放されたとの意味)以前の歴史を物語っている。マンホールの蓋については、13 瀋陽の歴史を刻むマンホール」に  まとめたものを載せたので、見ていただければ、幸甚である。

 旧ジャパンツーリストビュローから、中山路に沿って東北方に歩を進めると、1、2階には薬のチエーン店「成大方園」の瀋陽中心店が入り、3階から6階までは倍思賓館として利用されている建物が見えてくる。この建物は「七福屋」と呼ばれていた百貨店で、1906年に建てられた地上5階、地下1階の大型商業建築であったようだ。注b 正に日露戦争直後に建てられた20世紀初期の建物だ。しかし、現に見るこの建物は6階建てで、文献の記述と異なる。時期は分らないが、1階分の建て増しがなされたようだ。

 栗原節也氏注cによれば、「七福屋」百貨店だったこの建物はその後に三中井百貨店となり、更に光復(1945年)以後は一時「秋林」という百貨店になっていたという。「1~2度買いも物に行ったことがあり、金銭の支払い・物品の受領方法が日本式と違い珍しかった。」とも話されている。「秋林」については後で述べるが、ソ連(ロシア)と関わりのある百貨店であった。とにかく、この建物はいろいろな歴史を刻み込んできていると言えそうだ。一人部屋の宿泊が40元だから、この倍思賓館に泊まって、窓から周囲を眺めてみるのも面白いかもしれない。

 更に中山路に沿って北東方に歩を進めると、道路の向かいに赤レンガに緑が鮮やかな郵便局が見えてくる。郵便局の東側の道路が太原街である。ここには中山路をまたぐ歩道橋が架かっている。歩道橋の上から中山路の南西の方角を見ると、小さく瀋陽駅(旧奉天駅)が見える。北東の方角を見ると、中山広場の毛沢東の像が小さく見える。

 この歩道橋を渡らず、更に中山路に沿って北東方に歩を進めると、瀋陽維康大薬房の前に到る。太原街との角から直ぐだ。この大薬房の入っている建物が、光復前には満蒙(満蒙毛織株式会社)百貨店と言われていたところだ。1932年に建てられた地上6階、地下1階の建物で、当時にあっては規模最大の百貨店であった。栗原節也氏の話では、当時としては珍しいエスカレータが設置されていた百貨店だったそうだ。しかし、店内に入ってみても、何の変哲も現在は感じられず、平凡な店だとの印象しか受けない。

 歩道橋まで戻って北側に渡り、中山路に沿って北東方に歩を進め、環路バス停の太原街を越えると、緑のドームを持つチョコレート色の建物の前に出る。「秋林公司 1906年」と刻む金属牌が目に付く。ショーウインドーに飾られているのは世界の高級ブランドの品々である。ここは舶来品を扱っている店だ。「秋林公司」は1906年、帝政ロシアの時期にモスクワに本店をもつ商店として、中国の各地に支店を開いた商店であった。ハルピン、長春、大連の支店共に、奉天にも支店が設けられた。奉天では最初に中街の鼓楼近くに設けられ、25年に和平区の中山路(現在の位置とは異なる)に店を移し賑わっていたが、1931年の満州事件(918事件)を機に、衰え、英国の銀行から貸付を受けていたこともあって、英国の、また当時の政治情勢から、日本と満州国(偽満)が加わって、英・日・満の共同による経営が1945年の光復に到るまで行われていた。日本の投降後は、ソ連が接取し、受け継いだが、しばらくして、店舗は藤田洋行(現在の位置)の建物に移された。これも1953年には中国政府に権限が譲られ、現在に到っている。「秋林公司」はこのような歴史を経てきている商店だ。しかし、私たち日本人としては、この建物が日本人資本の藤田洋行(機械輸入の商社。洋行とは、中国で外国人の商店を指す。)のものであったことに関心が向かうことであろう。日中国交回復後、ここを訪れた日本人も少なからずいると思われる。外国人旅行者向けの友諠商店として営業されていた時期もあるからだ。

更に中山路に沿って北東方に進むと、もうそこは毛沢東像のある中山広場だ。

 

中山路以北の太原街

 太原街の歩道橋まで戻ろう。この太原北街(旧春日町)と中山路(旧浪速通)の交わる西北に大きな郵便局がある。この太原街郵電局は1915年に奉天郵便所として建てられ、満州国時代には中央郵便局として知られていたところである。この郵便局の北隣、太原街の西歩道に沿ったところにどっしりとした中央電報局があった。そのどっしりとした風格の建物は、最近までは中国銀行の建物として利用されていたが、看板は外され、入り口を見る限り、閉鎖され、今はどこも使用していない感じだ。

 この建物の北側には北3馬路(旧北3條通)が走っている。この北3馬路は郵便局の裏手になっていて、郵便物を運ぶ自動車の出入り口になっている。この北3馬路(旧北三3條通)と蘭州北街(旧江島町)の交差する路上に満鉄のマークのマンホールの蓋と、〒のマークを刻むマンホールの蓋を見ることができる。ここの〒のマークを挟んだ文字は残念ながら摩滅していて読めなかったが、友人の山形夫妻が太原北街(旧春日町)の歩道に同じものを発見され、挟んでいる文字は右に「電」、左に「話」の[電話]であることが分った(この件については山形先生のホームページの10月の最初の「瀋陽便り」或いは「瀋陽探索」の10を参照ください)。正に日本の郵便局のマークがここに残っている。北3馬路(旧北3條通)には満鉄のマークの蓋があちらこちらに残されている。この満鉄マークの蓋には4種類が見られる。Sの文字の有るのと、無いの、そして、無いもの中にはマークを囲む円が一重と二重のものがある。加えて「話」と「電」に挟まれたマークのマンホールもある。この他に奉天市公署のマーク(マークの主要部分は同じだが多少図案が違う種類が幾つかある)を刻むマンホールの蓋も多く存在する。中山路(旧浪速通)より北の北2馬路(旧北2條通)、北3馬路(旧北3條通)や蘭州北街(旧江島町)、民族北街(旧松島町)、昆明北街(旧橋立町)の道路には、満鉄のマークと奉天市公署のマークのマンホールの蓋を探すことはさして難しいことではない。一度歩いて見られてはいかがであろうか。

 北3馬路(旧北3條通)から太原北街を北上する道路の東側には、前進歌舞団、蘭花酒店、金星賓館と北4馬路(旧北4條通)まで建物が並ぶ。これらの建物から東側が満州国(偽満)の頃の春日小学校の敷地であった。栗原節也氏の聞いておられるところによれば、日本の敗戦後、この小学校は北方から避難してきた日本人の収容所の一つとなり、多数の死者を校庭に仮埋葬したところだそうだ。

 マンホールの蓋を見て歩いていて、民族北街(旧松島町)と北2馬路(旧北2條通)が交差する近くで、道路より少し奥まったところに日本の家屋のような建物(北2馬路3号)を見つけ写真を撮っていたところ、そこで働いている人が出てきたので、質問してみた。彼の話しでは、この建物は満鉄の事務所だったと聞いているとのことであった。しかし、彼はまだ40歳代ぐらいで、彼自身も確信を持っているわけでもなさそうだった。建物自身は事務所というより、個人の相当大きな家屋のように見えた。満鉄の高級幹部の家屋であったのかも知れない。これと同程度の家屋を蘭州北街(旧江島町)と北4馬路(旧北4條通)が交差する西北角に見つけ、写真に撮っている。

蘭州北街(旧江島町)は太原北街(旧春日町)の一つ西側の道だが、この道の北4馬路(旧北4條通)と北5馬路(旧北5條通)の間に、すごく立派などっしりとした建物が建っている。何度か訪れたが、冬木立の間から見える玄関も、葉の生い茂った木々の間から見える玄関も堂々としていて、魅力を感じた。回り込んで、路地裏から見ると、建物の後部には洒落たドームの屋根も見える。現在、この建物は瀋陽鉄路招待所(蘭州北街4号)として使われている。服務員の若い女性に、この建物の由来を尋ねてみたところ、オランダの領事館だったが、もともとは日本人が建てたと聞いていると親切に答えてくれた。でも、具体的には知らないとのことであった。オランダの領事館だったというのには驚かされたが、私は彼女の話を鵜呑みにすることができない。なぜなら、蘭州北街(旧江島町)は北5馬路(旧北五條通)で行き止まりになる。遮っているのは旧奉天鉄道局の大きい敷地で、そのまた北には同様に大きな敷地を持つ旧鉄路総局の敷地が隣接する。これらに近いこの建物、そして現在、瀋陽鉄路局の管理下にある招待所であることを考えるなら、満鉄に関係のあった建物だと、考えてもおかしくはないからだ。

 突き当たった北5馬路(旧北5條通)を右に折れ、太原北街に戻り、北上しよう。左に瀋陽鉄路局の大きな敷地と大きな建物を見え、更に隣接して省政府機関の敷地と建物(時計が中央上部に見られる)が続く、その北西の方向に白い西塔の姿がはっきりと見えてくる。太原北街が市府大路と交わるところである。瀋陽鉄路局の大きな建物は旧鉄路総局、隣接した省政府機関の建物は旧鉄道総局である。鉄路総局の建物は、満鉄が満州国からの委託を受けた形で、満州国国有鉄道の建設と経営の業務を行った建物、鉄道総局は満鉄の鉄道部門と満州国国有鉄道を一元化し管理する業務を行った建物であった。鉄道総局は1936年に落成、当時満鉄が奉天に建築した最大の建物であり、また、当時奉天最大のオフィス・ビルであった。この二建築は近代日本式建築で、その内部装飾は豪華なものであったという。駅前の岩間商会発行の地図(1930年代)では、まだ、建物は存在せず、この辺りは駐剳歩兵隊、独立守備隊の敷地だったところだ。

 瀋陽鉄路局の大きな敷地の太原街を挟んだ対面は軍区の敷地となっていて、瀋陽鉄路局の写真を撮っていただけなのに、この軍区の門衛から撮ってはいけないと、厳しく注意を受け、その後何度か来て、こっそりこれらの写真を撮ったのが右の写真である。軍区の建物はとても撮る勇気は無かった。栗原節也氏は、知らずにこの軍区を撮影し、フィルムを没収されている。そのときのことを、次のように回想されている、「この場所には、偽満時代日本人経営の『製靴工場』があり、戦後は『東北保安司令長官部眷属工廠』となっていた。99年の時に、『鉄路局・旧館』の方から軍区司令部だとは知らずに一枚写したところ、早速衛兵が飛んで来て、衛兵の詰め所まで連行された。幸い、大連の『遼寧財経大学』の外事処の老師が同行していたので、フィルム提出だけで事なきを得た。」と。注d

中山路(旧浪速通)と民主路(旧平安通)に挟まれた太原街

 ここに紹介するのは、駅から左右45度の角度で造られた中山路と民主路に挟まれた太原街である。駅から直角に造られた千代田通(現中華路)により、光復以前は現太原街の名も当時は違っていた。千代田通以北は春日町、以南は青葉町と呼ばれていた。

太原街の全長は3950メートルだそうだが、商業街として知られている太原街は中山路と民主路に挟まれたこの区域をさしていて、中でも、中山路と中華路に挟まれた571メートルの両側の商業区域が、太原街のイメージとして市民には定着しているようだ。 さて、この区間だが、大きな変化を遂げ、もともと瀋陽市一、二の繁華街ではあるのだが、更に変貌を遂げようとしている。道路の東側はいくつもの巨大な高層建築の工事が進行していて、そのあらましを窺うことができるところまで建物の輪郭ができて来ている。このように変貌を遂げているということは、附属地時代の建物、光復以前の建物が姿を消しているということである。2005年9月末には、歩行者専用道路になっていた道路自体も掘り起こされ、整備され始めていた。この雑文を目にされる頃には完備された道路になっているにちがいない。

 このような現状だから、この辺りが鉄道附属地以来の発展した商業街だったという当時の面影を見つけ出すのは不可能に近い。しかし、当時の繁栄を頭に描きながら歩いてみるのも一興かも知れない。

 華商晨報(2004年11月6日)によれば、1941年、太原街一帯には外国の商店が117軒、その内114軒が日本で、1軒がインド、ソ連が2軒(内1軒が秋林)であり、中国の商店は中和茶荘と老精華眼鏡行の二つだけであったとのことだから、日本色の濃い商店街だったと言える。また同紙は日本の商店は、金銀首飾り、時計、毛織物、洋雑貨、化粧品、服装、文具用品、運動用品、楽器用品、靴、帽子、医薬、医療機器、副食、酒・煙草、骨董、写真機材などを商いしていたと紹介している。きっと服装の中には和服専門の店もあったことであろう。骨董店主から足袋の看板を見せられ、仮名を読み、何であるかを説明してあげたこともある。また、当時の化粧品のポスターを見せてもらったこともある。

 現在の串街の南、嘉和商場あたりには環状型木造の春日菜市場があって賑わっていたようだ。また、串街の北あたりには大和屋百貨店あった。この百貨店の春日町を挟んだ向かいには春日屋商場があった。中興デパートのあるところは中古時装店の敷地だった。太原街と中華路(旧千代田通)の交差する、東南角には幾久屋百貨店があった。今ここは新世界百貨になっている。

 太原街を一つ東に入った路地(旧春日町と旧住吉町の間)には、東北最大、いや東アジア最大の映画館、旧大陸劇場(東北電影院)があった。でも、2003年11月28日に取り壊され、その敷地は商貿飯店の北側に建造中の大きなビルの中に呑み込まれてしまった。同様に、この路地にあった30年代初めに建てられた旧奉天旅館(東北飯店)も取り壊されてしまった。この6階建旅館は奉ビルホテルとも呼ばれていたようで、エレベータなども設置されていた。栗原節也氏は「戦時中にレストランで食事をしたこともあるが、多数の客で賑わっていた。戦後もホテルの横を通ると、中から生演奏が聞こえてくるそのようなホテルだった。」と回想され、更に、近くには銀映劇場があり、外国映画が上映されていたことなども知らせてくださっている。なお、戦前、戦後と言うのはこの地に住んでいた中国人や朝鮮人にとっては光復の以前、以後ということ、つまり、1945年8月15日の以前、以後のことである。

 この辺りが満鉄附属地の歓楽街をなしていたであろうことを想像していただけたであろうか。なお、当時の面影は皆無に近いとはいえ、中山路と民主路に交差する辺りには、いくつか当時の建物が残っている。中山路と交差するところにある外文書店は内田洋行のあったところで、栗原節也氏の話では外装には変化があるが、内部は古い感じだとのこと。

民主路と交差する民主広場(旧平安広場)から少し北には20年代末に建てられた旧新富座(解放電影院)がある。ここでは鞍馬天狗、大菩薩峠、風雲将棋谷などの時代物が主に上映されていたと栗原節也氏が情報を下さっている。この解放電影院は80年代から90年代にかけて、大型改造がなされたとのことであるから、姿かたちは変貌したことであろうし、現在映画館の役割は失い、ダンスホールなどの総合娯楽場になってしまっているようだ。この電影院の北側には「警察派出所」であったのではないかと思われる小さな建物がある。同じような感じの建物が南7馬路の角にも見られる。この建物と電影院の東側には古い建物が並び建っていたのだが、この9月末に取り壊されてしまって、電影院の後方の箱型の姿が丸見えの状態になっている。電影院の太原南街を挟んだ東側対面も全て取り壊されて、更地の状態に現在はなっている。

 民主広場(現在は広場というよりロータリー)と交わる太原街北東角には五交化商場と看板の上がる四階建の建物が建っている。この建物が旧ガスビルの建物だが、構造やタイルの色から考えると、どうも戦後に一階を建て増した感じだ。この建物の隣一つ越えて、民主広場(旧平安広場)の東には、「満鉄附属地、その1」で紹介した市文化宮が建っている。この軍艦型の建物には、平安座という映画館が入っていた。映画館については、瀋陽日本人教師の会HP「日本語クラブ」総20号(2005年6月1日)或いは「瀋陽史跡探訪 27」を参照ください。

 このホームページのレス付ゲストブックに、「『瀋陽史跡探訪2』を拝見し、胸がいっぱいです。『6 満鉄付属地』の中に記されている劇場『平安座』は、8年前に他界した私の母の住んでいた所で、祖父が支配人を努めていたと聞いています。祖父は建設前に東京の劇場を廻りどこかの劇場を参考にしたとも聞きました。音楽、歌舞伎、演劇、演芸、宝塚歌劇、映画等様々な演目が日夜繰り広げられましたが、戦後はロシア人に接収され、しばらく数人の将校と生活をともにしたと聞いております。」とのメールもいただいている。なお、栗原節也氏の話では、光復後には「日本人居留民会」が置かれたビルでもあったとのこと。 

民主路以南の太原街

 民主路(旧平安路)と太原街に挟まれた民主広場の南東角には緑色の小ドームを持つブルーの建物がある。モスクのような感じを抱かせるが、旧輸入組合の建物である。美国加州牛肉面と看板が上がっているから現在は麺の店だ。この民主広場は南2馬路(旧南2條通)と交差している。太原街を南下していくと、道路東側に2階建築に4階建築が繋がった建物が見えくる。4階の部分は南3馬路(旧南3條通)との角に位置する。この遼寧鉄道融信広告有限公司と看板を掲げている建物、ここが満鉄消費組合の本部であった。奥行きがあり、門構えもなかなかである。栗原節也氏の情報では、満鉄はこの組合の支所を社宅地区の各所に設け、本部はデパートと変わらぬ規模だったとのこと。

 太原街を南3馬路(旧南3條通)で東に折れて進むと、この通りの北側には今も当時の個人住宅がいくつも、ほぼそのままの姿で残っており、見ることが可能だ。

 南3馬路(旧南3條通)から南4馬路(旧南4條通)にかけては高層ビルに変わってしまっている。特に太原街の西側の旧弥生小学校のあった辺りは超高層ビルのラッシュのような感じさえ受ける。

 太原街を南3馬路(旧南3條通)で西に折れて進むと、旧紅梅町(昆明南街)と交差する手前左に、がっしりとした旧青雲寮の建物が見えてくる。瀋陽鉄路第二招待所の看板が掲げられているが、現在、招待所の役割はしておらず、一部が培訓学校の教室として使われているだけで、他は倉庫代わりに使われている感じだ。地元の人にこの建物は元来何の建物だったのかと尋ねたところ、偽満時代の憲兵隊の宿舎だったとの返事が返ってきた。初め、予想もしなかった言葉だったので聞き取れず、ノートに「憲兵隊」と書かかれて、ようやく分った私だが、中国人にとって、日本をイメージする代表的な言葉の一つなのかも知れない。栗原節也氏がこの件について、こんなコメントを寄せられている。「中国人の話で、『憲兵隊がいた』ということが2、3の個所でありますが、『憲兵隊』に対するイメージが殊更強いためなのか、それとも事実であったのかはよく分りませんが、『関東軍』の『第三方面軍』が北の方(チチハル?)から奉天に司令部を移転した時に、『二中・高千穂』に『軍』が駐留したので、その時に『弥生』にも駐留し、『青雲寮』を『憲兵隊』が使用した、ということも考えられなくはないなと思います。」と。高千穂、弥生とは当時の小学校の名前である。

そして、弥生小学校卒業の方(栗原さんの知人)の情報では、青雲寮は満鉄の独身寮だったとのこと、また敗戦(光復)以前は寮の青年たちが、満鉄職員の家族に演劇などをして見せてくれていたとのこと。この情報を寄せられた方は更に「その後(ソ連侵攻後)私たち家族が「平壌(ピョンヤン)」に疎開している内に敗戦後『若松町』の自宅(満鉄社宅)が暴動で焼かれ、奉天に帰った時に、一時あの懐かしい『青雲寮』に住んでいました。 戦後は、国府か八路軍が接収したかも知れませんが分りません。」と当時の様子を話されている。若松町とは現在の勝利南街で、駅前を線路と並行に走っている道路のことで、この道路に面した区画のこと。

 この昆明南街から、勝利南街(旧若松町)の間は、南5馬路(旧南5條通)辺りまで、2階建てレンガ造りの長屋多く存在する。これらはどれも60年以前は日本人の住んでいたところだと、そこの住人たちが話してくれた。建物の壁に満鉄のマークが残っている(「満鉄附属地その1の補足」で紹介済み)のもこの地域である。この地域では道路のマンホールにも、満鉄のマークのものが多く残されている。南3馬路(旧南3條通)と旧紅梅町(昆明南街)とが交差する旧青雲寮の角には、満鉄のマークを電話の文字で挟むマンホールの蓋がある。

 ところで、この昆明南街と民族南街の南3馬路以北は、卸売り市場になっていて、多様な品物がそれぞれ品目ごとにまとまって、道路にあふれんばかりになって、並べられており、活気のある場所である。ここに上記のような2階建て長屋や寮があるので、ついついカメラをこれらに向けてしまうのだが、商人や住人が目ざとく見つけて、「きゃつ(彼)は日本人だ」などと話しているのが聞こえてくる。「また日本人が写真撮ってやがる」という雰囲気なのだが、話しかけて交流が成り立つと、あれもだ、あれもだと旧日本家屋の情報を教えてくれる人が多く、特に日本人に反感を抱いていると言うわけでもなく、日本人だろうと先方から直に話しかけて来る者だっている。でも、中にはいやな顔をされる人も居る。立場を換えて、自分が今生活している家屋をやたらとカメラで撮られれば、私だって気持ちのいいものではないだろうから、当然なことだろう。加えて、歴史的な問題もある。カメラを向ける時はこの点十分な配慮が必要だ。

 太原南街(旧青葉町)に戻ろう。そして、太原南街の東、天津南街(藤浪町)と同澤南街(稲葉町)に挟まれた南四馬路から南五馬路の間の地域に足を運んでみよう。一見して日本人の住宅だと分かる、60年以前の個人住宅がまとまって目に入ってくる。ビルの谷間に残された個人住宅街だが、近いうちにここもきっと取り壊されてしまうのだろう。更に南下し、現在主要幹線道路となった南5馬路(旧南5條通)を越え、南6馬路に到るまでの天津南街(藤浪町)沿いの東に、日本の家屋と思しき建物が南京三校附属幼児園に取り込まれて、存在する。この幼児園の南隣は瀋陽軍司令部第4干休所とあるが、ここの塀には満開の梅の老木と花房をたくさん付けた藤の樹が見事に描かれていて、目を引き付けられる。南6馬路を越え南下し、7馬路との中間辺りまで来ると、その西側には大邸宅が見られる。これも嘗ては日本人の建物でなかったかと思われる。ガレージが二つ、門の近くには門衛の小さな建物まである。どんな人が住んでいた建物なのであろうか。この建物の路地を西に行くとそこは太原南街だ。その太原南街を更に少し南下すると、奥行きのある大きな建物に到る。華夏民族村という料理店だ。光復後、重慶大劇院、紅星劇場と名を変えてきた建物で、光復前には南座と呼ばれていた建物だ。この建物の南隣、南7馬路との角の「公安派出所はかつても警察派出所。」と栗原さんは述べられているが、今は小さな食堂になっていて栗原さんの見た2002年とは既に異なっている。建物は同じように思われるんだが・・・・、派出所ではなくなっている。

 太原南街は名前の上では南10馬路まであるのだが、今回はこの辺りで筆を置くことにして、次回は中華路と南京街の紹介をして見たいと考えている。

(2005・10・31)

 

注a、駅前の岩間商会発行の地図(1930年代)

注b、瀋陽市建築業志Ⅱ 434頁

注c、「満鉄附属地(その1、和平広場周辺と民主路)補足」を参照

注d、2005年のこの国慶節の黄金週間に、私も貴重な経験をしている。長春の、旧独立守備隊の敷地だったところ、現八一部隊の門を撮影し、午後の4時半から10時過ぎまで、取調べを受けている。

 

参考文献

中華老字号 瀋陽巻 「歴経九十余載的瀋陽秋林公司」 遼寧美術出版社 1999年

瀋陽百科全書 遼寧大学出版社 1992年

瀋陽市建築業志Ⅱ 中国建築工業出版社 1993年

説古道今話瀋陽 瀋陽市精神文明建設弁公室、瀋陽市工商行政管理局 2001年

瀋陽導遊 遼寧人民出版社 1985年

瀋陽地図冊 西安地図出版社 2003年

大奉天新区劃明細地図 満州日日新聞社 康徳6年2月版 

1939年

瀋陽駅(旧奉天駅)の広場から

中山広場(旧中央大広場)の方向




































満鉄マークの蓋






















倍思賓館



郵便局

郵便局陸橋より太原街

満蒙百貨店



















                「秋林公司」

秋林公司

































旧中央電報局

北2馬路の旧宅

蘭州北街の旧宅





















瀋陽鉄路招待所













































瀋陽鉄路局

中山路から中華路を見る
















化粧品ポスター





































































旧新富座(解放電影院)




満鉄消費組合







































旧輸入組合














西側 旧青雲寮 南側



郵便マークのマンホールの蓋

旧個人住宅




塀に描かれた梅の樹




























旧南座と旧派出所