05 満鉄附属地 

和平広場周辺と民主路

加藤正宏の瀋陽史跡探訪5

          満鉄附属地  (その1 和平広場周辺と民主路)

加藤正宏

旧奉天駅を拡張した

瀋陽駅

民主路から瀋陽駅を望む

昔の平安座


(その1 和平広場周辺と民主路)


 緑色の小ドーム、チョコレート色に白色の壁、赤色の瀋陽站の文字、どこかの御伽の国にでも迷い込んだ感じがしないでもない、瀋陽駅の姿である。以前、南満州鉄道の奉天駅と呼ばれていた駅だ。

 1925年発行の「満州写真帳」には次ぎのような説明が付けられている。

 奉天停車場ハ城外一里ニアリテ其ノ建築ノ壮麗ナル実ニ南満州鉄道幹線唯一ノ大駅ニシテ亦奉天屈指ノ大建築物タリ東清鉄道時代ニ於テハ微々タル陋屋ニ過ギザリシモ満鉄経営トナルヤ特ニ意ヲ注ギ我ガ帝国ノ威信ニ辱ヂザル様巨額ノ費ヲ投ジ母国三府ノ停車場ト肩ヲ並ブベキ建築ヲ完成セシム其ノ楼上ヲ「大和ホテル」トシ美ナル客室数十ヲ設ケ旅客ニ便ヲ與フルコト至大ナリ。

 また、西澤泰彦氏注aが「図説 満鉄」で満鉄建築番付を作り、東の横綱には大連ヤマトホテルを、西の横綱としてはこの奉天駅を挙げているほど別格の建物だ。

 当時の建物の写真と見比べてみると、両翼がかなり建て増しされ、そこに行李房(荷物扱い所)と售票処(切符売り場)と公安派出所ができている。昨年10月の地元新聞によれば、これらは本来の駅舎に合わせた色や建築様式で、建て増しされているとのことだ。その本来の優美さを損なわぬための配慮であろう。予定ではこの春の完成だから、現在ほぼその形ができ上がってきたといえよう。瀋陽駅及びその周囲は旧奉天駅の駅舎に合わせ、今将にその面貌を刷新しようとしている。駅前に有る全ての広告は撤去され、1945年に建てられたソ連紅軍の陣没将士記念碑も今年中に北陵烈士陵園にあるソ連軍の墓地に移されることになっている。そして、この広場の下に地下鉄の駅が造られる計画も進んでおり、来年あたりから工事が開始される予定だ。

 この瀋陽駅を挟んで、ここに満鉄(南満州鉄道株式会社)の附属地が存在していた。本来、鉄道業務に附属して鉄道に権限が与えられた土地のことであるが、駅舎の周囲にはかなり広大な土地が鉄道附属地として確保された。瀋陽駅の場合、日露戦争後に帝政ロシアの鉄道用地から引き継いだ土地で、東の和平大街から線路を越えて西の興工街までと、北の十馬路から南の南八馬路までの、これらの道路に囲まれた6平方キロほどの地域であった。しかし、1931年の満州事変(九一八事変)以降、実際上はその境界は無いかのごとく、その周辺に拡大していっている。

 附属地には街路が造られ、住宅が建ち、更に学校、公民館、図書館、消防署などが建てられ、公園も造成されていった。そして神社も建てられた。帝政ロシアから引き継がれた不平等条約の下で、「完全に中国の主権から離脱した『独立王国』を成し、中国に対する政治、経済、軍事、文化の侵略的な基地となっていた。」注b附属地は、上海などに造られた欧米の租界やイギリスの支配した香港などと同様なものであろう。かつての香港の街路に英語名が付けられていたように、満鉄附属地の街路にも日本語名が付けられていた。中国人にとって、これらの名は民族的屈辱を伴う名であろう。しかし、歴史的事実として、日本語名が使われていた時期があったのも事実であり、その呼称を歴史上消し去るわけにはいかない。今回はその歴史をも振り返っての、瀋陽探訪なので、日本語名の地名もあえて使わせてもらっている。現在名(日本語名)というように併記している。日本語名は1919年から45年まで使用されてきた。注c

附属地に街路が整備され、街並みが拡大していく。瀋陽駅を中心にその東側に放射線状の幹線道路が3本、また駅後方を走る線路に平行して造られた幹線道路が駅前の道路を含み4本が造られた。これら幹線道路が交差するところには広場が設けられた。手書きの地図を参考に外観を述べておこう。駅を背に左45度の方角に延びるのが中山路(浪速通)、真正面の垂直の方角に延びるのが中華路(千代田通)、右45度の方角に延びるのが民主路(平安通)である。駅前を線路に沿って並行に走る道路が勝利大街、駅の北側を勝利北街(宮島町)、南側を勝利南街(若松町)と呼ぶ、この勝利大街に並行して走る幹線道路を駅から近い順に取り上げていくと、太原街、中華路(千代田通)より北側を太原北街(春日町)、南側を太原南街(青葉町)と呼ぶ、次いで南京大街、中華路(千代田通)より北側を南京北街(加茂町と富士町)、南側を南京南街(萩町)と呼ぶ、更に東に和平大街、中華路(千代田通)より北側を和平北大街(信濃町)、南側を和平南大街(雪見町)と呼ぶ。これらの道路のそれぞれの間には、同じように並行する小さな道路が走り、町を分けていた。橋立町、松島町、江島町、春日町、住吉町、琴平町、八幡町、宇治町、淀町、木曽町、隅田町、以上が中華路(千代田通)より北側に、中華路(千代田通)より南側には紅町、弥生町、霞町、青葉町、藤浪町、稲葉町、葵町、白菊町、紅葉町が設けられていた。番地は中華路(千代田通)に並行した小路によって分けられ、中華路(千代田通)に近いところから番号が付けられ、中華路(千代田通)から離れれば離れるほど番地の数字は大きくなった。

 中山路(浪速通)と南京北街(加茂町と富士町)が交差するところに中山広場(大広場)が、民主路(平安通)と太原南街(青葉町)が交差するところに民主広場(平安広場)、和平南大街(雪見町)と交差するところに和平広場(朝日広場)が造られた。和平広場(朝日広場)から民主路(平安通)と直角に交差する道路を新華路(高千穂通)という。新華路(高千穂通)と南京南街(萩町)が交差するところに新華広場(高千穂広場)が造られた。

 以上、1939年の「大奉天新區劃明細地圖」と現在の地図を見比べながら、地名を合わせてみた。しかし、1939年の地図は文字がつぶれてしまって、判然としない字もあり、旧名については誤って読んでいるものが有るかも知れない。とにかく、概観を掴んでもらえればと思う。手書きの地図には中華路(千代田通)と並行して走る南五馬路(南五條通)と南八馬路(南八條通)を書き加えた。これらは満州国期に入ってから造られた。そして、これらは、今回ご紹介しようとしている辺りにある幹線道路である。

 

 さて、今回は、和平広場(朝日広場)を中心に、その周辺を紹介し、民主路(平安通)に沿って駅まで戻ることにする。

 和平広場(朝日広場)には、現在、巨大なモニュメントが建っている。東北解放紀念碑である。碑の高さは38メートル、中心となる碑は3つの面を持った砲弾の形をなし、どの面にも彭真が書いた「東北解放紀念碑」という大きな7文字が金色に輝いている。文字の下には飛びまわる40羽弱の鳩が描かれ、そのバックにVの3文字が繋がって刻まれている。3Vは、蒋介石の国民党軍に対する東北三省の勝利を、鳩は平和の象徴として描かれている。この主記念碑の上には、頂で三本の帯が結びついたようなステンレス製のアーチが見られる。それぞれの帯状のものは東北三省の黒竜江、吉林、遼寧を象徴しているのだそうだ。この碑は東北解放40周年を記念して、1988年に建てられものだ。

 この和平広場から行動を開始する。和平南大街(雪見町)を少し北に戻り、南五馬路(南五條通)を西に行くと、すぐに民主路(平安通)と交差し、更に西に進むと南京南街(萩町)と交差する。この交差点の手前の南側に瀋陽鉄路実験中学がある。附属地時代にはここに平安小学校があった。この交差点を左(南の方角)に折れて、南京南街(萩町)を南に向かうと、新華路(高千穂通)と南八馬路(南八條通)が高架で交差しているところに到る。この3本の道路が交差しているところが新華広場(高千穂広場)と呼ばれているところだが、広場そのものは現在は無い。このすぐ近くに附属地時代から開業していた産院がある。発見したのは以下のような偶然からだったのだが・・・。

 奉天市大和区稲葉町50、知人のMさんが幼児の頃住んでいた住所である。彼女のお父さんは満鉄の平の職員であったそうな。敗戦前に病を得て家族共々帰国したのが、まだ20歳代であったという。彼女のお母さんの話によると、召使を雇い、出かける時はいつも人力車を使っていたのだという。そんな満州での生活を懐かしみ、老いて少し惚けがきた頃でも「満州のあの頃は良かった」と口にしていたとのこと。20歳代の平の職員の生活でさえ、召使が雇えて人力車を走らせ得た日本人、もちろん召使や人力車夫は日本人ではなかったろう。日本人と日本人でない人にとって、この満州国がどんな国であったかを、このお母さんの話が語ってくれているようだ。

 お母さんの遺影を抱き、やって来るMさんのために下調べをしてみた。

 稲葉町は太原南街(青葉町)と南京南街(萩町)の中間、番地から考えると新華広場(高千穂広場)の西辺りである。現在そこには数階建てのアパート群があるだけだ。昔の住宅の姿をそこに求めることはできない。Mさんの住んでいた近くに、今なお残る満鉄の社宅を求めて、付近を歩いてみた。その時、新華広場(高千穂広場)の近くに「婦嬰 六十年老字号」という看板を掲げる産院を見つけた。近くに住んでいる老人に聞いたところ、この看板は掲げてから、既に10年は経過しているとのことであった。既に70年を経過した産院、1930年代から赤子を取り上げてきた産院ということになる。もし、Mさんが産院で生まれていたのなら、この産院であったかも知れない。しかし、Mさんは産婆さんに取り上げられたと母から聞かされたとのこと。ここではなかったようだ。しかし、Mさんを案内した当日は、ここの医師の好意で内部を見せてもらう機会が得られた。内部の床などは、中街の瀋陽春天の床と同じくタイルが敷き詰められていて、創業時期とさほど内部も変わっていないとのこと。当時、かなりの日本人がここで産声を上げたのであろう。

 この下調べの時、この産院の周辺で、満鉄の社宅が残るところを聞きまわっていたところ、私と同年齢で定年になったばかりの方が、「私は便衣警察(私服刑事)だったから、この辺りのことは良く知っている」と言って、和平広場(朝日広場)の周辺の一戸建ち住宅と、中国共産党遼寧省委員会の東、南五馬路(南五條通)の天都飯店付近の長屋形式の社宅を教えてくれた。そこで、和平広場に行ってみた。この和平広場(朝日広場)には、多くの老人たちが三三五五に集まり、四方山話に花を咲かせていた。この老人たちに、日本人であることを先ず明かし、この瀋陽で生まれた知人が、生まれた頃の家屋を見てみたくてやって来ることを告げ、満州国時代の家屋が今も残っている場所はどこかと再度尋ねてみた。勿論、この話の過程で、「日本の侵略で、皆さんには随分苦しい思いをさせてしまって悪かった、対不起」などと、歴史的事実認識を共有していることを伝えながらのこと。このことで、彼らは私を受け入れ、質問に応えるだけでなく、思い出したかのように日本語の単語や挨拶言葉を口にしてみせる。私が驚いてみせ、週にどれくらい学んでいたのかと問うと、毎日だったというような返事や、日本人の先生が居た、叱られたなどとそれぞれが当時を思い出すように語る。

 彼ら老人の話してくれた場所も、元私服刑事が話してくれたところと、ほぼ一致していた。

  さて、話を戻し、現在も残る附属地時代の日本人住宅を見て歩こう。

 新華広場(高千穂広場)から南八馬路(南八條通)を東に向かおう。和平南大街(雪見町)と交差する手前の南八馬路(南八條通)の地番68を左(北の方角)に入ると、写真のような住宅が見られる。このような住宅が数軒並んでいる。どの住宅にも立派な松が見られる。この住宅の並びを東に出ると、そこは和平南大街(雪見町)である。右(南)に折れて、和平南大街(雪見町)を南下すると、車道の左対面に瀋陽市第六医院が見えてくる。この医院に掲げられた看板の一つに「瀋陽市伝染病院」の文字が見られる。附属地時代もここに伝染病院があった。道路の手前のこちらの建物も、遼寧省衛生庁、遼寧省愛国衛生委員会の建物になっている。これらの建物手前で交差している道路が南九馬路(南九條通)である。右(西)に折れて、この道路に入ると、瀋陽軍区聯勤部第二幼児園がある。この斜め角の路地を行くと、ここにも附属地時代の建物が残っている。

 和平南大街(雪見町)を更に南に下ると、南十馬路(南十條通)越えたところに、現在瀋陽鉄路第二中学が建っている。1939年の地図では、文字がつぶれていて良く分らないのだが、附属地時代には寮が建っていた場所だ。

 和平広場(朝日広場)まで戻ろう。和平南大街(雪見町)の東側の歩行者道路を戻ってくると、広場の直ぐ手前で、右側に洒落た緑色の店を目にする。蜂蜜麻花を製造し販売している航母店六品香である。この角を右(東)に折れると、附属地時代の一戸建ての住宅が何軒も並んでいる。建物の背景には東北解放紀念碑のアーチの頂が見える。これらの建物を逆から、つまり紀念碑のアーチを背にして見ることができる道路に入ってみると、そこはマイカーが各戸の前に停まっている閑静な道路になっている。瀋陽鉄路局の幹部などが住んでいるのだそうだ。ここが老人や元私刑事が教えてくれた、広場の南周辺の一戸建ての住宅だ。この他にも、広場の東半分周辺にはまだ何軒か同じような大きな一戸建ての住宅が見られる。

 では、もう一つ教えてもらった長屋形式の社宅を見に行こう。和平南大街(雪見町)と南

 五馬路(南五條通)が交差する北東部分には中国共産党遼寧省委員会の広大な敷地と委員会の建物が建っている。附属地時代、ここは朝日高等女学校とその隣の青年学校分校及び奉天高等小学校の敷地であった。南五馬路(南五條通)を東に向かい、委員会の敷地を外れると、道路の左側に天都飯店が見えてくる。南五馬路(南五條通)は環路バスが走っている道路で、この道路は瀋陽薬科大学の前を走る文化路につながっている。文化路から来た環路バスを中興街で下車すると、ちょうどその北側が長屋形式の社宅の並びになる。社宅の並びを見に行くには、停留場の東の天都飯店の角を北に向かうか、停留場の最初の西の角を北に向かうとよい。これは同じ社宅を東西の道路から眺めているだけの違いである。3月末、ここを歩いて写真を撮っていると、この近くの住人が話しかけてきて、これらの建物も4月の下旬には取り壊されてしまうから、十分撮っておいた方がいいとアドバイスしてくれた。彼が「没問題」と言って勧めてくれたので、長屋と長屋の間の路地にまで入って写真を撮った。そして、そこに住んでいる人に、「この建物ももう直ぐ取り壊されて、引越しなんだね」と声を掛けてみると、何と、彼らは取り壊しについて、何も知らないようだった。この4月下旬に出かけた時にはまだ、これらの建物は存在していたが、皆さんが見に行かれる頃にはどうなっているのだろうか。

 この長屋の並びには、一戸建ての住宅や倉庫なのだろうか大きな建物も建っている。管理者の建物と共同の倉庫なのかもしれない。倉庫のような建物にはHの文字の周りをMの文字が囲む記号を見かけたが、満鉄ハウスを表現しているのだろうか?

 

 附属地時代の住宅も代表的な物をそれぞれ見たので、民主路(平安通)に沿って駅まで戻ることにしよう。南京南街(萩町)と交差する手前の右(東)側に体育公園がある。ここに

 ある市体育場は附属地時代の1930年に建てられた奉天国際運動場であった。1万2千の露天席があり、当時瀋陽最大のスタジアムであった。この体育公園から、中山(千代田)公園の西の端が見え、そこにある大きな給水塔が目に入ってくる。満鉄が附属地に必ず建設した高層の建築物である。長春の駅前でも見かけたことがある。瀋陽には、今も残る給水塔が故宮の西南方向にもう一つ建っている。旧動物園の敷地(万泉公園)内にあるもので、中山(千代田)公園のものより優雅な塔だ。一見の価値がある建造物だと思う。

 民主路(平安通)と南京南街(萩町)とが交差してできる北側の角、小さい三角形の場所に建っていた建物がほとんど取り壊されてしまった中、どうしてか一軒建物が残されている。この建物も正に附属地時代の典型的な平屋である。観光用に活用しようとして残しているのか定かではないが、ぽつんと未整理な土地に一軒建っている。注d

 民主路(平安通)をここから駅に向かう左(南)側の路地には、附属地時代の建物がここかしこに見受けられる。

 民主路(平安通)が太原南街(青葉町)と交差するところが、民主広場(平安広場)である。広場の名が付いているが、現在はロータリーになっている。このロータリーに面して、市文化宮が建つ。大きな紅い星印が付いているので、中華人民共和国になってからの建物だと思っていたが、もともとは1942年に日本人の設計によって建てられた平安座という劇場が入っていた建物だそうだ。この劇場には1千7百4の座席があったという。現在は劇場とダンスホールして活用されている。写真は民主路(平安通)から見たもので、5階建てに見えるが、広場から見ると7階建てになっていて、外形は軍艦の形に似せてあるとのことだが・・・。

 民主広場(平安広場)のこの辺りからは、もうはっきりと瀋陽駅が見えている。駅前近くの南一馬路の辺りは、開発が始まっていて、あちらこちらに瓦礫の残る更地が出現している。ここが環路バスの一方の始発場所になる。ここは近郊に向かうバスの始発駅でもあるようで、バスの出入りが頻繁で、時には瀋陽駅の姿もバスの陰に入ってしまう。

 

 今回はここまでにしておく、次回は中山路(浪速通)と太原街(春日町と青葉町)を紹介できたらと考えている。

 

a 名古屋大学大学院工学研究科建築学専攻助教授。工学博士。

b 日本侵華 管見録 張樹純著 遼寧档案書刊 1998年 (13頁)加藤拙訳

なお、附属地も1937年末から名目上は治外法権の区域ではなくなっている。満州国が日本の傀儡政権だとの批判を、日本は逃れようとして、形式上は対等な国を装い、満州国内の日本の治外法権の廃除を宣言したからである。しかし、満州国が実質は日本の傀儡政権であったんだから、奉天市公署の管轄化に移ったとはいえ、実質は何も変わらなかったであろうと思われる。

c 1919年までは、建造された道路に中国名が付けられていた。例えば中山路(浪速通)は昭徳大街、中華路(千代田通)は瀋陽大街、民主路(平安通)は南斜街である。

d 一ヶ月後、ここを通った時(2005年の4月末)には、このぽつんと建っていた住宅周辺の未整理な更地に、多数の樹木が植林されていて、今回紹介の写真とはイメージが変わっていた。



旧日本人長屋住宅











東北解放記念碑

中山広場の給水塔



















旧日本人幹部の家




































記念に残す?旧日本人住宅

旧日本人住宅

60年老字号産院

参考図書、新聞

1 満州写真帳 青雲堂印刷 東京堂発行 大正4年

2 華商晨報(2004・10・19)「瀋陽站将“大変臉”」

3 瀋陽百科全書 遼寧大学出版社 1992年 「瀋陽站」

4 遼瀋晩報(2004・12・20)「従“附属地”到黄金商圏」

5 日本侵華 管見録 張樹純著 遼寧档案書刊 1998年

6 図説 満鉄 「満洲」の巨人 河出書房新社ふくろうの本 西澤泰彦著 2000年

図説 「満洲」都市物語 河出書房新社ふくろうの本 西澤泰彦著 2000年4版

(注aでも紹介したように、西澤氏は建築方面の権威で、写真も多く、参考になる)

7 「大奉天新區劃明細地圖」 満洲日日新聞社発行 発売元 弘文堂書店 康徳6年

8 瀋陽名勝 李風民 編 東北大学出版社 1996年 「東北解放紀念碑」

9 瀋陽景點民間説 沈文波 編 遼寧大学出版社 1998年 「東北解放紀念碑」

10 説古道今話瀋陽 馮福和 編写 2001年 「東北解放紀念碑」

瀋陽市精神文明建設弁公室 瀋陽市工商行政管理局 瀋陽市个協私協運輸総会

11 瀋陽城市建設大事記 <当代瀋陽城市建設>編輯委員会 1987年

12 瀋陽市実用地図冊 成都地図出版社 1993年

13 遼寧省工商交通旅遊地図冊 瀋陽 遼寧人民出版社 1995年

14 瀋陽城郷建設 許竟賢、張福忱 主編 瀋陽出版社 1994年

15 瀋陽市建築業志 二 「第十章 近代、現代及当代建築」 1992年

16 半月刊 理論与実践 1989年14号 「瀋陽站的変遷」

旧動物園の給水塔

 

 栗原節也さん制作、

住宅間取り図の一例